快感原則:快感原則とはひたすら快感を求めようとする心の機能、現実原則とは現実と折り合いをつけるために快感原則をコントロールしようとする心の働き

 

第二章 メルヘン学入門 から

 

註:これは鈴木晶のホームページからの抜粋である。鈴木晶はこう言っている。

拙著『グリム童話/メルヘンの深層』(講談社現代新書)は1991年1月20日に出版されました。その後10年近くにわたって数多く版を重ね、10万部以上発行されましたが、2002年に品切れ(事実上の絶版)となったので、ここに全文を公開します。

 

2――メルヘンの意味

 

歴史資料としてのメルヘン

 メルヘンに描かれているのは事実だろうか、それとも空想だろうか。

 メルヘン、とくに魔法昔話では、物語の発端となる状況はきわめて現実的である。赤ず

きんは母親から「おばあさんにお菓子とワインを届けてちょうだい」と命じられる。ヘンゼルとグレーテルの両親は「生活が苦しいから子どもを捨てよう」と話し合う。

 だが一歩家から外に出たとたん、赤ずきんも、ヘンゼルとグレーテルも、空想の世界に足を踏み入れる。赤ずきんは口をきく狼に出会い、ヘンゼルとグレーテルはお菓子の家に住む魔女に出会う。しかも、赤ずきんは狼が言葉を話しても別に驚かないし、ヘンゼルたち兄妹はお菓子の家を見つけても別に驚かず、「ひとつ御馳走(ごちそう)になろうじゃないか」と言って、屋根や窓を食べはじめる。メルヘンの世界では、魔女や悪魔が登場しても驚く者はないのである。

 このように、メルヘンではたいてい事実に近い部分と空想世界とが混じり合っているものであるが、事実と空想のどちらに重きを置くかは、研究者によって異なる。

 歴史学者は、メルヘンは「歴史資料」であり、「時には空想的な色彩を帯びることはあっても、現実世界に根ざしている」(ロバート・ダーントン)と考える。

 たとえば、継母(ままはは)を例にとろう。

 私たちはふだん「継母」という言葉をほとんど使わない。「義理の母親」とか「育ての親」とか言うことはあっても、継母と言うことはない。にもかかわらず、誰もが継母という言葉を知っている。私たちは継母という言葉をメルヘンで覚えたのだ。それほど継母という言葉は、現代に生きる私たちにとってはおよそ縁遠いものであると同時に、メルヘンには頻繁に登場するキャラクターである。

 歴史学者は、メルヘンに継母が数多く登場するのは実際に継母が多かったためだと考える。近世初期のフランスを専門とするアメリカの歴史学者ロバート・ダーントンは次のように述べているが、ドイツや他の国でも事情は似たり寄ったりだったであろう。

 

十八世紀のフランス人の四五パーセントは一〇歳になる前に死んだ。生き残った者でも、ほとんどの場合、成年に達する前に少なくとも両親の一方を失っていた。子どもが成人するまで生き延びられる親はきわめて少なかったのである。結婚生活は離婚よりも死によって中断されるのが常で、一五年が平均の長さであるが、これは現在のフランスの場合の半ばに相当する。クリュレでは五人の夫のうち一人は妻を失い、再婚している。当然、継母がいたるところに発生する結果となった。継父より継母の数がはるかに多かったのは、寡婦の再婚率が一〇人に一人に過ぎなかったからである。継子は必ずしもシンデレラのように虐待されるとは限らないが、兄弟姉妹の関係がかなり険悪なものだったことは十分想像できよう。(『猫の大虐殺』海保・鷲見訳、岩波書店)

 

 メルヘンに貧しい家庭がよく登場するのも、実際に農民たちの暮らしが貧しかったからであり、ヘンゼルとグレーテルの場合のような「子捨て」も実際におこなわれていたのである。また、メルヘンの主人公たちはよく旅に出るが、零落した貧民が放浪の旅に出ることは実際によくあったのである。

 

大半の農民にとって、生活は生き残るための苦闘を意味していた。彼らはほとんどが貧民であって、いかに努力をしても、ただ極貧に陥るのを避けるだけが精一杯であった。(……)不作の歳が続けば農村は分極化し、貧民は極貧に陥り、富農はますます富裕になった。こうした窮境に直面した場合、〈庶民〉は自己の声に頼って生きるより仕方がない。ときには農夫として雇われ、あるいは自分の小屋で糸を紡いで布を織り、また半端な雑用を引き受けるなど、どんな仕事でもすすんでやり、いよいよ窮すれば浮浪者になった。(ダーントン、前掲書)

 

 そうした農民たちにとって、メルヘンは「農村および街道での生活を如実に描き出すことで」「人生の指針の役割を果たした」のだった。

 しかし、ダーントンのいうように、「社会史家が古文書を資料に確定し得た当時の農民生活と、民話のある部分が符合すること」は確かだとしても、そうした符合が見られるのはメルヘンのごく一部だけであって、メルヘンのストーリー全体を歴史的資料として扱うことはとうていできない。

 継母が大勢いたことや、子捨てが頻繁におこなわれていたことは確かだろう。だが、グリムは「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など多くのメルヘンにおいて、元の話では生みの母親であったものを継母に書き換えたのだということを忘れてはならない。この事実はどう説明されるのか。

 また、『菊と刀』で有名なルース・ベネディクトの研究によると、アメリカ・インディアンのズニ族には子捨ての習慣はまったくないが、彼らが口から口へと伝えてきたメルヘンには子捨てのモチーフが登場するという。歴史学者はこれを説明できるだろうか。

 このように、歴史学的視点からのみメルヘンの意味を解き明かすことはできないように思われる。ただ、ダーントンが繰り返し強調するように、歴史学的視点をおろそかにすると、メルヘン解釈はとんでもない誤りをおかす危険があるということも確かである。

 

太陽神話としてのメルヘン

 そうした歴史学的視点をまったく欠いたメルヘン解釈の好例が、十九世紀の、とくにイギリスの神話学者・宗教学者たちによるメルヘン解釈である。

 彼らの説によれば、神話の多くは天体の運行を象徴的に表現したものである。竜を退治する英雄は、夜の闇を征服する太陽の象徴であり、その英雄がもつ剣や槍は燦然(さんぜん)と輝く太陽の光をあらわしている。

 このことは神話だけでなくメルヘンにもあてはまる。たとえばヘンゼルとグレーテルは曙(あけぼの)の子であり、この兄妹が最後に手に入れる金は輝く太陽の比喩である。また、赤ずきんがかぶっているずきんの赤い色は太陽の光を象徴しており、狼は闇をあらわしている。すなわち、赤ずきんが狼に呑(の)み込まれ、最後にその腹から出てくるというこの物語は、太陽が闇に呑み込まれ、また朝になって姿をあらわすという日没・日の出の神話に由来するのである。

 ヘンゼルとグレーテルのように森に置き去りにされる子どもたちについても、歴史学者なら「実際にそういうことが頻繁にあった」と考えるだろうが、十九世紀の神話学者たちは「夜の闇を照らすために送り出された星を象徴している」と解釈する。このように、彼らはメルヘンを、人間が置かれている物質的・社会的・心理的現実とはなんの関わりもない、天体の運行をめぐる神話から派生したものだと考えたのである。当然ながらこうした見解は、現代ではほとんど省みられなくなっている。

 

夢とメルヘン

 さて心理学者、とくに精神分析学者は、歴史学者とは対照的に、メルヘンは基本的には空想だと考える。つまり、人間の無意識から発生したものだと考えるのである。

 私たちが日常よくみる夢もまた、無意識の産物である。そういえば、夢とメルヘンとはなんとなく似ているような気もする。それが証拠に、「まるでメルヘンのようだ」という表現と「まるで夢のようだ」という表現は同じような意味で用いられる。ドイツのメルヘン研究者フリードリヒ・フォン・デア・ライエンは『夢とメルヘン』(一九〇一年)で、前年に出版されたフロイトの『夢判断』に言及しつつ、メルヘンは太古の昔から語り継がれてきた夢を物語にしたものではないかと述べている。

 精神分析学者たちも、夢を解釈するときと同じような方法でメルヘンを解釈してきた。フロイト派のローハイムは、民話や神話は語られた夢であり、それが広く一般に浸透してゆき、それが最後に共同体の共有財産となったのである、したがって夢分析の手段を民話や神話に適用すべきである、と主張している。

 しかし、夢分析とメルヘン分析は同じではない。夢分析の場合、分析家は夢の中に、その夢をみた人が抱える問題を探る。つまり、誰がみた夢なのかがわからなければ解釈はできない。仮にメルヘンが夢だとしても、誰がみた夢なのかはわからない。

 それに、ちょっと考えてみればわかるように、メルヘンは一度聞いたら忘れないくらい私たちの心に深い印象を残すが、他人の夢の話を聞くことは、けっしてつまらなくはないが、それによって忘れられないくらい心を動かされるということはない。自分のみた夢だって、たいていすぐに忘れてしまう。

 だがいっぽう、メルヘンと同じような夢をみることがあるというのも事実である。要するに、仮にメルヘンが夢だとしても、それは個人の夢ではなく、集合的な夢、ユング心理学の用語を使えば集合的無意識の生んだ夢なのである。

 

メルヘンと心理的問題

 今日、メルヘン解釈の中でもっとも人気があるのは心理学的あるいは精神分析的な解釈だろう。実際、本屋に行くと、その手の本が何冊も並んでいる。そのなかでもっとも優れたものは、疑いなくブルーノ・ベッテルハイムの『昔話の魔力』(波多野・乾訳、評論社)である。これはフロイト派精神分析学によるメルヘン解釈の金字塔とでも呼ぶべき仕事である。

 ベッテルハイムによれば、メルヘンは、私たちが生きてゆく上で出会うさまざまな基本的問題、とくに成長する過程で出会う心理的な問題を、文学という形式で表現したものである。たいていの親は、そうした問題から子どもの気を逸らしてやろうとする。現代の児童文学の多くも、そうした問題を避けて通ろうとする。しかし、「人は、自分を圧倒してくる力と勇敢に闘うことによってのみ、自分自身の存在に、ある意味を見出せるのだ」。メルヘンは私たちにこう訴える――「人間である以上、生きていく上で大小さまざまな困難にぶつかるのは避けられない、だがもし、そういう予期しなかった、理不尽なものも多い困難の一つ一つに、尻込みせず、しっかりぶつかっていったら、障害は必ず乗り越えられるし、いつかは勝利を収められるだろう」と。

 では精神分析学はメルヘンをどんなふうに分析するのだろうか。ベッテルハイムは「赤ずきん」「ヘンゼルとグレーテル」「眠れる森の美女」「白雪姫」「シンデレラ」など、よく知られたメルヘンを細部にわたって詳しく分析しているが、ここではまず、「ヘンゼルとグレーテル」をとりあげ、ベッテルハイムの解釈の要点をかいつまんで紹介しよう。

 

ヘンゼルとグレーテル

 この兄妹は森に捨てられる。これは「子どもは自分自身を発見する旅に出なければならない。世の中に出て、独立した人間にならねばならない」ということをあらわしている。だが、彼らはなんとか家に帰りたいと願い、一度目はうまく帰り道を見つける。彼らはまだ世の中へ出る勇気がなく、親にべったり依存していたいのだ。

 だが、母親はふたたび子どもたちを捨てる。「生きていく上での問題に退行と拒否で対処しようとしてもむだ骨折りで、問題を解決する力を弱めることにしかならない」のである。

 ヘンゼルは、最初のときは知恵を働かせて小石を落としてゆくが、二度目はパン屑をまいてゆく。森のそばに住んでいる子どもだったら、パン屑が小鳥に食べられてしまうことくらい知っているはずだが、ヘンゼルは退行していて、現実を否定する。すなわち家に帰ることしか頭にないので、知恵が働かなくなっているのだ。

 お菓子の家は「口唇的欲望と、その欲求を思う存分満足させることがどんなに素敵か」をあらわしたものである。退行した兄妹はひたすら口唇的満足を求め、お菓子の家をむさぼり食う。

 ヘンゼルたちが住んでいた家(それは森のすぐ手前にある)と、魔女の住むお菓子の家とは、心理的には同じ親の家の二つの側面をあらわしている。

 また、夢や空想の中では、家が母親の体を象徴していることがある。お菓子の家は、すべてをあたえてくれる母親の象徴であり、それを貪(むさぼ)り食うことは母親にべったりの状態をあらわしているといえる。

 だが、無制限の食欲は破滅につながる。それで母親がその否定的な側面をあらわす。人食い魔女は、じつは母親の破壊的な側面なのである。子どもたちは、生きのびるためには口唇的欲望に耽(ふけ)るのをあきらめて知的に行動しなければならないことを知る。それによって魔女を退治する。口唇的不安を克服すれば、恐ろしい母親(魔女)のイメージからも解放されるのだ。こうして二人は、お菓子の家での経験によって、口唇期を脱する。

 お菓子の家に行くときにはなかったのに、帰り道には川がある。二人はそれを一人ずつ別々に渡らねばならない。「学齢になったら、自分の独自性や個性に気づかねばならない」のだ。

 最後に兄妹はもとの家に帰ってくる。「これは心理学的にみて正しい」。口唇的あるいはエディプス的な問題から冒険にまきこまれた子どもは、自分の家の外では幸せを見つけられない。「順調に発達するためには、こういう問題は、まだ親に依存しているうちに解決しておくべきだ」からだ。

 魔女は子どもの不安から生まれるものだが、魔女が退治される物語を聞けば、子どもは自分でもやっつけられるという自信を身につけることができるだろう。

 

フロイト派による「赤ずきん」の解釈

 以上がベッテルハイムによる「ヘンゼルとグレーテル」解釈の概要である。

 ところで、精神分析学にはさまざまな流派がある。ベッテルハイムはフロイト派に属するが、ユング派というのもある。ユング派はフロイト派よりも精力的にメルヘンの心理学的解釈を試みている。同じ一つのメルヘンを取り上げたとしても、フロイト派とユング派では解釈がずいぶんと異なる。そこで、同じメルヘンを題材に、両派の解釈がどのように違うかを簡単に見てみよう。

 ただし、フロイト派の統一見解とかユング派の統一見解といったものがあるわけではない。実際、メルヘンの解釈はそれを解釈する精神分析学者によってさまざまである。それが精神分析的メルヘン解釈にたいする批判の一つの根拠となっているわけだが、精神分析という方法論の性質上、これはある程度仕方のないことである。

 まず「赤ずきん」を取り上げよう。フロイト派のベッテルハイムによれば、このメルヘンが扱っているのは、「無意識ではエディプス的な繋がりを断ちきれずにいる学齢期の少女が解決しなければならない問題」である。赤ずきんは、ヘンゼルやグレーテルと違って、すでに口唇期を過ぎており、彼らのような破壊的な食欲はもっていない。

 ヘンゼルとグレーテルの場合と同じく、自分の親の家と、森の中にあるおばあさんの家とは、心理的には同じ一つの家である。

 赤ずきんは狼にそそのかされて道草を食う。現実原則を捨てて、快感原則に従ってしまったのである(快感原則とはひたすら快感を求めようとする心の機能、現実原則とは現実と折り合いをつけるために快感原則をコントロールしようとする心の働き)。「家の外の、義務から解放された世界にあまり魅力があると、退行して快感原則に従ってしまう可能性が出てくる」のである。

 また、赤ずきんが道草を食うのは彼女の好奇心のあらわれでもある。彼女はすでに「思春期の問題に苦しんでいる」が、「情動的にはまだそうした問題にたいする準備ができていない。エディプス的な葛藤を克服していないからである」。

 エディプス・コンプレックスは精神分析の要(かなめ)となる概念であり、フロイト派によるメルヘン解釈においてもいちばん重要な概念なので、すでにご存じの読者も多いだろうが、簡単に説明しておこう。

 フロイトによれば、幼児は三、四歳くらいから異性の親に性的な関心を抱くようになり(簡単にいえば、男児は母親に、女児は父親に、恋する)、同性の親を仇(あだ)とみなし、憎むようになるが、同時に、その敵意のせいで罰を受ける(去勢される)のではないかという不安を抱く。この異性の親への性的関心、同性の親への敵意、処罰にたいする不安の三点を中心に発展するコンプレックスを、フロイトはソフォクレスの悲劇『エディプス王』にヒントを得て、「エディプス・コンプレックス」と名づけたのである。

 

不思議な箇所

 ところで、この物語には、考えてみると不思議な箇所が一つある。狼と赤ずきんが会話をかわし、狼がおばあさんの家へと先回りする部分だ。どうして赤ずきんは狼におばあさんの家を教えてしまうのか。「これでは四歳の子どもだって、赤ずきんはいったい何をしているのかと思うだろう」(ベッテルハイム)。また、狼は赤ずきんからおばあさんの家のありかを聞いたあと、先にまず赤ずきんを食べてから、おばあさんを食べにいってもよかったのではないか。どうしてわざわざおばあさんを先に食べ、おばあさんに化けて赤ずきんを待つなどという面倒くさいことをしたのか。

 考えてみれば不思議であるにもかかわらず、子どもたちはこの話を聞いても、あまりこの箇所を不思議だと思ったりしない。ということは、子どもたちが無意識のうちに理解できるような理由があると考えていいだろう。

 ちなみに、グリム童話の「赤ずきん」のもとになったのは古いゲルマン民話ではなく、フランスのシャルル・ペローの「赤ずきん」であることが判明している。ペローは民衆の間で語られていた民話にもとづいて「赤ずきん」を書いたのだったが、この箇所ではやはり疑問を抱いたらしく、「狼がその場で赤ずきんを食べられなかったのは、そばに樵(きこり)たちがいたからだ」と説明している。

 この箇所に関するベッテルハイムの説明はじつに明快である。赤ずきんが狼に祖母の家を教えるのは、「赤ずきんの無意識が勝手に働いて、おばあさんを亡き者にしようとしている」からだ。この祖母は心理学的には母親である。赤ずきんは母親に(性的に)勝ちたいという無意識の願望を抱いているのである。そして、狼(=父親)と性的に結ばれるためには、まず祖母(母親)を抹殺し、その抑圧から解放されなければならないのだ。このように、「この物語は、娘の、父親(狼)に誘惑されたいという無意識の願望を扱って」いるのである。

 この話には父親が登場しないが、じつは狼も狩人も父親である。狼は、父親の誘惑者としての反社会的で破壊的な側面を、狩人は頼りがいのある強い救出者・保護者としての側面を、それぞれあらわしている。赤ずきんはその両方の側面を経験するわけである。

 赤ずきんは狼に食われる(この話のテーマは「何かに食われはすまいかという恐れ」である)。それは彼女が性的に目覚めかけている反面、情動的発達がそれに追いついていないからである。だが、赤ずきんもおばあさんも狼の腹から出てくる。「より高い段階へと生まれ変わった」のである。

 

ユング派による「赤ずきん」の解釈

 ベッテルハイムは狼を父親の否定的・破壊的側面と解釈したが、ユング派の河合隼雄氏は母親をあらわしていると解釈する。母親といっても現実の母親ではなく、母親の元型像である。

 ここでユング心理学の基本概念をいくつか説明しておこう。ユングは精神病者の幻覚や妄想を研究するうちに、その内容が人類の文化遺産である神話やメルヘンの内容とひじょうに似ていることに気づき、そこから、フロイトのいうような無意識(個人的無意識)とは別に、人類全体に共通する無意識が存在すると考え、それを集合的無意識と呼んだ。集合的無意識の中には、私たちの夢、精神病者の妄想、神話やメルヘンなどに広く共通して見られるようなイメージを産出するさまざまな「元型」がある。元型それ自体を意識化することはできないが、「元型像」を通してその存在を把握することはできる。元型には影、アニマ、アニムス、グレートマザー(太母)、セルフ(自己)などがある。

 さて、祖母は母親元型の肯定的な面を、狼はその否定的な面を示している。否定的な面とは、何もかも呑みこんでしまうというような側面である。だが一方、狼が男性的な面を示していることも確かである。したがって、狼は「少女の無意識そのもの」であり、「恐ろしい母性と低い男性性の合成物」と考えたほうがいいだろう。

 狩人は肯定的な父親像である。ただしここでも、個人的な父親というよりは、「元型的な母の呑み込む力に対抗し得る強さをもった父性原理」をあらわしている。父性原理は、何もかも呑み込んで一体化しようとする母性の機能に対抗して、切断の機能を第一とする。その通り、狩人は狼の腹を切断して、赤ずきんの再生をうながす。

 狼の腹からの救出は、ベッテルハイムの解釈と同じく、再生をあらわす。「このような死の経験、あるいは極端な退行を祖母とともにおこなったこと、つまり肯定的な母性に守られつつおこなったことは、赤ずきんの再生に役立ったことであろう」。

 

「白雪姫」と三滴の血

 ここでもう一つ、「白雪姫」を例に用いて、フロイト派のベッテルハイムとユング派のビルクホイザー=オエリ(『おとぎ話における母』氏原寛訳、人文書院)の解釈の違いを見てみよう。

 この物語は、ひとりの后が冬のさなかに窓際で縫い物をしているところから始まる。彼女は指を刺し、三滴の血が雪の上に落ちる。

 ベッテルハイムによれば、この三滴の血は月経や処女喪失の際の出血であり、雪とその上に落ちた血とは、性的に無垢な状態と性的な欲望との対比である。ここで物語のテーマが提示されているのである。「子どもは『白雪姫』の出だしの部分を聞いて、(……)出血がなければ子どもが生まれないということを学ぶ」のである。先に述べた狼の死についての解釈と同じく、ベッテルハイムは、子どもはメルヘンを通じて性行為や出産について学ぶのだと考える。一方、ビルクホイザーによれば、血の赤さは「暖かさ、生命、情動、つまり生き生きとした同情」を象徴する。

 三という数について、ベッテルハイムは、「無意識的には、三という数は性をあらわす。男性も女性も、目に見える性的な特徴を三つもっているからだ。男性には睾丸が二つとペニスがあり、女性には乳房が二つと膣がある。これとはまったく別の面で三が無意識的に性をあらわすこともある。三という数が、三人の人間がたがいに深くかかわりあうエディプス的な状況を象徴するからである」と述べている。一方、ビルクホイザーも三という数に注目し、血の三滴だけでなく、白赤黒の三色も、后・白雪姫・継母の三人組も、三を強調していると言う。ユング心理学において、四は全体の象徴であり、したがって三は四へと至るダイナミックな過程をあらわすのである。

 ベッテルハイムによれば、白雪姫の成長は、女の子が男性と関係をもてるまでの成長過程をあらわしており、新しい后は母親、狩人は父親の象徴であり、白雪姫と継母との闘いは「母と娘の間のエディプス的葛藤(かっとう)」である。父親の影がうすいとはいえ、白雪姫は父親をめぐって父親と競い合い、そのあげく継母に殺されそうになるのだ。

 一方、ユング派はベッテルハイムのような役割の振り分けはしない。ビルクホイザーによれば、白雪姫の物語が描いているのは「感情の発達のプロセス」であり、登場人物たちはそれぞれ心的要素をあらわしている。主人公がいちばん自我に近いが、それでもほとんど元型的特徴をになっている。白雪姫は人間の中にある永遠なるもの、心の中のもっとも神に近い部分である。継母は自分本位さの象徴であり、狩人と王子は肯定的アニムス(次ページ参照)である。

 白雪姫と継母との葛藤は、女性の心の中にある二つの極端に対立する態度の衝突なのである。

 

狩人と七人の小人

 森の中で、女王の命令に背(そむ)いて白雪姫を逃がす狩人は、ベッテルハイムによれば、エディプス期および青年期の少女がこうあってほしいと望む父親像である。なぜメルヘンの中で、狩人が主人公を助けることが多いのかといえば、それはすべての子どもが経験する動物恐怖症と関係がある。狩人は、恐ろしい動物を追い払ってくれる優しく強い父親なのであり、「人間の動物的・反社会的な荒々しい傾向の克服」を象徴しているのである。

 ただし、「白雪姫」の狩人(=父親)は、后(=妻)の命令も果たさず、白雪姫(=娘)の安全を守るという義務も果たさず、母と娘の双方を懐柔(かいじゅう)しようとする、いささか頼りない父親である。

 一方、ビルクホイザーによれば、この狩人はアニムスの体現である。アニムスとは女性の心の中にある男性像である(いっぽうアニマは男性の中の女性像)。狩人は職業柄、獣と近い立場にいる。獣は人間の本能の象徴である。したがって、狩人が白雪姫を逃がしてやるということは、ある葛藤場面で、健康な本能や自然と結びついた態度が人を救い、肯定的な感情を自分の中の悪の攻撃から守ることができたのだ、と解釈できる。

 小人の数が七人である理由について、ベッテルハイムは次の三つの解釈を提示する。(1)仕事につぐ仕事という意味で、一週間の七日をあらわす。(2)白雪姫の美しさは太陽を連想させるが、古代の人びとは太陽のまわりを七つの惑星がまわっていると考えていた。(3)小人たちは鉱夫だが、昔、一般に知られていた金属は七種だった。そして古代の自然科学ではその七つの金属が七つの惑星に対応させられていた。

 これにたいして、ビルクホイザーは次のように言う――鉱夫である小人たちは、深みに隠された財宝を探し求めるという創造的行為を営んでいる。彼らは創造的精神の力である。七人という人数は八番目(王子)の前段階を意味する。八は四の二倍であり、新たな一体性を示している。

 

殺害、そして眠り

「鏡よ、鏡、世界中でいちばんきれいなのは私?」という后の問いにたいして、魔法の鏡は「白雪姫のほうが美しい」と答える。この声は、ベッテルハイムによれば、「私のほうがきれいよ」という娘の声である。ビルクホイザーによれば、鏡は后にとって、他人についての情報源、一種の高度な知性であり、后はこの知性を濫用しているのである。

 さて、この鏡によって白雪姫がまだ生きていることを知った継母は、変装して三度白雪姫を殺そうとする。

 最初は胸ひもで。ベッテルハイムによれば、白雪姫が物売りの老婆(に変装した継母)を家に入れたのは、彼女がもう十分に発達した青年期の少女で、胸ひもに興味をもつ年頃になっていたからだ。彼女は継母にその胸ひもできつく縛られ、意識を失って倒れるが、それは「性的な欲望と、それにたいする不安との葛藤に耐えられなくなった」からである。いっぽう、ビルクホイザーによれば、空気は精神的領域の象徴であり、継母は白雪姫をその領域から切り離したのである。

 次に継母は毒をぬった櫛を売りつける。ベッテルハイムによれば、白雪姫は髪をきれいに結(ゆ)って性的魅力を得たいという欲望によって継母を家に入れたのだったが、この願望も、青年期に入ったばかりの未成熟な少女にとっては毒だったのである。ビルクホイザーの解釈では、髪は(頭にはえるものとして)無意識的な考えや空想の象徴であり、毒が髪を通してまわってゆくのは、純粋な感情を殺してしまうなんらかの毒を含んだ考えのために、知らないうちに自分自身を損なってしまったということである。

 最後はリンゴだ。ベッテルハイムによれば、リンゴは成熟した女性の性的欲望であり、リンゴの赤い部分を食べたとき、白雪姫の純真な時代は終わる。ビルクホイザーによれば、このリンゴは愛だけでなく、意識化過程と関係している。白雪姫にとって本質的な役割をになう赤と白の統合を示唆しており、一つのまろやかな全体性のイメージとなっている。

 白雪姫の眠り(仮死状態)は、ベッテルハイムによれば、成熟への最後の準備をする熟成期間である。新しい、より成熟したパーソナリティができあがり、古い葛藤が統合されるまでには、かなり成長しなければならないし、時間もかかるのである。

 ビルクホイザーによれば、白雪姫が腐敗しないのは、彼女が人間の中の永遠なるものを象徴しているからである。先にも触れたが、ベッテルハイムが白雪姫の成長を健康な少女の成長をあらわしていると解釈するのにたいし、ビルクホイザーは、白雪姫は人の心の中でもっとも神に近い部分を象徴していると考えるのである。

 

新フロイト派による「赤ずきん」の解釈

 先にも触れたように、こうしたメルヘンの心理学的解釈はたいへん人気があるが、メルヘン研究者たちからの激しい批判を浴びてもいる。

 メルヘンの分析は、たとえば小説の分析とは根本的に異なる。それは一つには、小説には作者がおり、メルヘンには特定の作者がいないからである。個人の夢の分析とメルヘンの分析が異なるのと同じことである。

 だが、もっと重要な違いがある。小説を分析する際には、細部に注目し、それを分析することによって、そこから何かその作品の根本にかかわる重要な意味を引き出すことも可能だろう。ところが、メルヘンを分析するときに、細部にこだわることはきわめて危険なのである。

 プロップが明らかにしたように、メルヘンの基本構造は驚くほど一定している。だが、似たような話を並べた場合、基本的な部分はほぼ同じでも、細部はメルヘンによって相当異なっている。だから、先にも述べたように、類話に関する知識をもたずに、その中の一つのメルヘンだけを取り上げて、そこからなんらかの解釈を引き出すと、とんでもない間違いをしでかす危険があるのだ。

 そのことを、「赤ずきん」の心理学的解釈を例にとって考えてみよう。世界的なベストセラーである『自由からの逃走』や『愛するということ』の著者エーリッヒ・フロムは、ネオ・フロイディアン(新フロイト派)と呼ばれる精神分析学者の一人だが、彼はずきんの赤色を「月経の血」と解釈している。ベッテルハイムは、「荒々しい性的衝動を象徴している」と述べている。

 では、次のメルヘンを読んでいただきたい。

 

「赤ずきん」の原型

 昔あるところに一人の女の人が住んでいました。その女の人はパンを焼いて、娘に言いました。「この焼きたてのパンとミルクをおばあさんのところに届けてちょうだい」。

 それで女の子は出かけました。道が二つに分かれているところで、女の子は人狼に会いました。人狼は女の子にこう言いました。

「どこへ行くんだい?」

「この焼きたてのパンとミルクをおばあさんのところにもっていくの」

「どっちの道を行くの? 針の道、それともピンの道?」

「針の道にするわ」

「そうかい、それじゃわしはピンの道を行くとしよう」

 女の子は夢中になって針を集めました。その間に人狼はおばあさんの家に行き、おばあさんを殺して、その肉のかたまりを戸棚のなかに入れ、血は瓶に入れて棚の上におきました。女の子がやってきて、戸をたたきました。

「戸を押しておくれ」人狼が言いました。「濡れた麦藁が一本ひっかかってるんだよ」

「こんにちは、おばあさん、焼きたてのパンとミルクをもってきたわ」

「戸棚のなかに置いてくれ。中にある肉をお食べ。それから棚の上においてあるぶどう酒をお飲み」

 女の子が肉を食べてしまうと、そばにいた子猫が言いました。

「うへえ! 自分のおばあさんの肉を食べて血を飲んでしまうなんて、なんてひどい娘っこだ」

「服を脱いで、わたしといっしょにベッドにお入り」

「エプロンはどこに置いたらいい?」

「火にくべておしまい。もういらないから」

 女の子は洋服、ペチコート、長靴下を脱ぐたびに、どこに置いたらいいのかたずねました。人狼はそのたびに、「火にくべておしまい。もういらないから」と答えました。

 女の子はベッドのおばあさんのとなりにもぐりこむと、こう言いました。

「まあ、おばあさん、なんて毛深いの!」

「このほうがあったかいんだよ」

「まあ、おばあさん、なんて爪が長いの!」

「かゆいところがよくかけるようにさ」

「まあ、おばあさん、なんて大きな肩なの!」

「薪をかつぐためさ」

「まあ、おばあさん、なんて大きなお耳なの!」

「おまえの話がよく聞こえるようにさ」

「まあ、おばあさん、なんて大きな鼻なの!」

「タバコの匂いを吸うためさ」

「まあ、おばあさん、なんて大きな口なの!」

「おまえを食べるためさ」

「でも、おばあさん、おしっこがしたくなっちゃった。外に行ってもいいでしょ?」

「ベッドのなかでしちゃいなさい」

「でも、おばあさん、お外に行きたいの」

「わかったよ、でも急いでするんだよ」

 人狼は女の子の足にひもを結びつけて、外に出してやりました。女の子は外に出ると、そのひもを庭のプラムの木に結わいつけました。人狼はじれったくなって言いました。

「おまえ、そこでしてるの? まだしてるのかい?」

 答えがないので、人狼はベッドからとびだし、女の子が逃げてしまったことを知りました。あわてて女の子を追いかけましたが、女の子はすんでのところで自分の家に逃げ込みました。

 

赤いずきんはペローのアイデア

 これは、フランスの民衆の間で語り継がれていた口承メルヘンである。シャルル・ペローはこれと同種のメルヘンを聞いて知っていて、それにもとづいて「赤ずきん」を書いたのだとされている。右に引用したメルヘン自体は十九世紀末に採集されたものだが、ペローの「赤ずきん」の影響を受けていないと考えられている。ペローの「赤ずきん」の結末と同じように、女の子が人狼に食べられてしまうところで終わる類話もある。

 これを読むとわかるように、民衆の間で語られていたメルヘンには、赤いずきんなど出てこない。じつは赤いずきんというのはペローのアイデアなのである。ペローはイメージ・クリエイターとしてはまさに天才的で、「サンドリヨン(シンデレラ)」(これも古くから伝わる話を元にしている)のガラスの靴も、ペローの創作である。

 したがって、赤い色に関するフロムやベッテルハイムの解釈は、太陽の象徴だと考えた神話学者たちの解釈と同様、ペロー以降の赤ずきん物語にはあてはまるとしても、その元になった、民衆の間で語られていたメルヘンにはあてはまらないのである。

 ご存じのように、ペローの「赤ずきん」は少女が狼に食べられてしまうところで終わるが、グリム童話だと、赤ずきんとおばあさんは狼の腹から「復活」し、狼は腹に石を詰められる。先に述べたように、ベッテルハイムはこの結末を細かく解釈しているが、じつはこの結末はドイツのメルヘン「狼と七匹の子やぎ」からの借用である。

 また、右の「口承版・赤ずきん」では、おばあさんは「呑み込まれる」のではなく、文字通り食べられてしまう。したがって、「何かに呑み込まれる不安」うんぬんという議論も、この話にはあてはまらないわけである。

 また、右に引用した話には狩人が登場しない。赤ずきんは狩人に救出されるのではなく、自力で逃げ出すのだ。したがって「父親の肯定的側面」云々という議論も、ペローやグリムの「赤ずきん」にはあてはまるとしても、「口承版・赤ずきん」とはなんの関わりもないということになる。

 

精神分析的解釈の欠点

 このように、精神分析学者には、メルヘンの細部をとらえ、それが何を象徴しているのかを解釈したがる、という欠点がある。ダーントンは、右に述べたようなフロムの解釈について、「精神分析学者フロム氏は、存在しない象徴を超人的な敏感さで嗅ぎとって、架空の精神世界へと我々を導こうというのである。少なくとも、精神分析学者が出現するまでは存在しなかった世界である」と批判している。

 精神分析学者は、人間の心理は超歴史的なものだという前提に立っている。つまり、人間の心というのは古代から現代まで変わっていないというのである。いっぽう、歴史学者、とくに心性(メンタリティ)の歴史の研究者は、人間の心性は時代によって変化するものであるから現代の尺度で過去の人間の心性を計ってはならない、という前提に立つ。したがって、ダーントンのような心性史研究者が精神分析的メルヘン解釈を批判するのは、至極当然なのである。

 しかし、人間の心には時代によって変化する部分と変化しない部分がある、と筆者などは考える。だから、メルヘンを歴史学者のいう心性のみから解釈することはやはりできないように思われる。

 筆者の考えでは、精神分析的解釈の最大の欠点は、今日広く読まれているような童話、とくにグリム童話を、古くから語り継がれてきたものと見なしている点である。グリム童話は――これが本書のテーマであるが――グリム兄弟によって取捨選択され、大幅に改作されたものである。グリム童話が今日なお広く読まれているという事実は、メルヘンに象徴的に示された人間の心理が時代を超えて人の心を打つということを証明しているのではなく、グリム兄弟の「ビーダーマイヤー」的な世界観・価値観が、現代もなお私たちによって受け継がれていることの証左と見るべきである。

 反面、本章の冒頭で述べたことと一見矛盾するようだが、精神分析的解釈は類話に関してあまりに無知だという批判も、そのまま鵜呑みにしてはならない。類話をいっさい無視して、ある一つの話だけを解釈し、そこから「これは人間の心の本質をあらわしている」という結論を出すことは避けなければならない。だが、現代人、とくに子どもにたいするメルヘンの影響力について考える際には、現在広く読まれているようなグリム童話あるいはペロー童話、中でもとくによく知られているメルヘンを考察の対象にしなければならない。あまり読まれないメルヘンが広範な影響力をもつことはありえないからである。その意味で、「もとの形」を解釈しなければならない、という主張は、近代以前の民衆心理を研究する場合には正当な主張であるが、現代人への影響力について論じる場合には見当違いの主張といえよう。

 

イデオロギー分析の視点

 さて、メルヘンの解釈にはこの他にさまざまな立場がある。その中で、とくに重要だと思われるのは、メルヘンの中に、そのメルヘンを生んだ社会(あるいはその社会の特定の階級)のどのような世界観・価値観・社会観・道徳観が盛り込まれているかを分析する、いわばイデオロギー分析の視点である。フェミニズム批判もこの中に含めることができよう。本書の第四章は主としてそうした立場にもとづいているので、ここでは、フェミニズムの立場からのメルヘン解釈の一例として、レイプ論の名著、スーザン・ブラウンミラーの『私たちの意志に反して』から、「赤ずきん」に触れた部分を引用するにとどめ、それで本章を締め括(くく)ることにしたい。

 

レイプは、気づかないくらい少しずつ、私たちの幼児期の意識に忍びこむ。私たち女性は、読むことをおぼえる前にすでに、犠牲者のメンタリティを植えつけられる。メルヘンは漠然とした恐怖にみちている。メルヘンに描かれているような破滅は、女の子にしかおとずれないように思われる。(……)「赤ずきん」はレイプの寓話である。そのメッセージはこうだ――森の中には恐ろしい男たちがうようよしている。私たちは彼らを狼と呼ぶ。彼らの前では、女性は無力だ。道からはずれないほうがいい。冒険心はもたないほうがいい。もし運がよければ、善良で友好的な男性が、あなたがた女性をある種の破滅から救ってくれるかもしれない。