黒曜石文化とは?


2007年9月1日
岩井國臣



(1) 黒曜石の七不思議

 瀬田遺跡では、3万年前の地層から全国でも最大級の石斧が出土している。3万年前である。しかし、それからやや時代は下るが、量的には、等々力根遺跡(2万8000年前)から数多くの加工石器が出ており、黒曜石以前にもそれなりの加工技術があったことがはっきりしている。私の住んでいるこの瀬田や等々力は、多摩川に面し、谷沢川や丸子川などの支川が流入するなど水に恵まれていたので、石器人にも住み良い環境であったようだ。特に、等々力の滝は夏は冷たく冬はあたたかな水が湧出し、生活環境としては抜群の環境であったと思われる。石器時代は気温も低く、多摩川にもサケが大量に遡上していたものと思われる。

 この地では、3万年ほど前にはすでに人びとは石器文化をもって結構豊かな生活をしていたのではないか。私はそんな想像をしている。そして5000年ほどが経過し2万5000年前ごろになると、石器文化に急激な変化が起こる。八ヶ岳の大量の黒曜石が持ち込まれナイフ型石器などかなり高度な加工が行なわれるようになる。しかし、まだ湧別技法などという極めて高度な加工技術は日本列島のどこにも始まっていない。そういう画期的な技術革新が始まるのはずっと後のことであるが、2万5000年ほど前に八ヶ岳の黒曜石が関東平野に大量に持ち込まれているということは大変興味のあることだ。八ヶ岳山麓から多摩川にかけての文化圏は、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と呼ばれるが、その源流に八ヶ岳の黒曜石がある。問題は、武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆諸島の神津島でなく、なぜ八ヶ岳のものなのかということである。黒曜石の七不思議についてはいずれまた機会を見て話していくとして、今日ここでは第1の不思議について語っていくとしよう。私が掲げた・・・第一の不思議は、「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆諸島の神津島でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」・・・というものである。
 武蔵野台地と相模野台地はそれほど離れていないのだが、相模野台地の方は神津島の黒曜石が大量に出ている。武蔵野台地になぜ神津島の黒曜石が出ないのか、これはまことに不思議なことだ。

 歴史というものは連綿とつづいているのである。日本の場合、余程のことがなければ歴史に断絶はない。私が日本の文化を吹き溜まり文化と呼ぶ所以である。富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と黒潮文化圏との接点、それが相模原台地であった。私はそう考えている。したがって、相模野台地の石器は、両文化圏の接点であるがゆえに、そのときどきにおいて「海の黒曜石」であったり「山の黒曜石」であったりしたのであろう。伊豆半島は黒潮文化圏であるので、当然、「海の黒曜石」が卓越するし、武蔵野台地は富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏であるので、当然、「山の黒曜石」が卓越する。大雑把にいえば、まあそういうことだろう。


私は、「山の民」と「海の民」と呼ぶべき人たちの存在を考えている。もちろん、「野の民」というか「平地の民」と呼ぶべき人たちもいたのであって、「山の民」と「海の民」だけしかいなかったということではない。むしろ、人口的には、「野の民」というか「平地の民」が主体であったのではないか。まだ、交易の発達していなかった旧石器時代においては、「野の民」が石器の原石を入手する場合、「山の民」と「海の民」のところへ出かけて行って、「山の民」と「海の民」に先導してもらったのではなかろうか。私はそのように考えている。そして、私は、旧石器時代の石器について、そもそもそれを「山の民」が使いだし、時代とともに採取と加工の技術を発達させていったのではないかと考えている。つまり、石器の採取と加工の技術は、「山の民」から「野の民」へ、そして「野の民」から「海の民」へ伝授されていったのではないか。そして、「海の民」が石器を探し出し、採取し、加工することができるようになると、自ら積極的に石器を探し始めたのでないか。

 つまり、神津島の黒曜石は、伊豆に住んでいた「海の民」が、神奈川台地の「野の民」に伝授された技術でまずは伊豆・箱根の黒曜石を採取・加工し始めたのであろう。そこら中の山に入って黒曜石を探し回ったのではないか。そして、若干の時代を経て、思いきって神津島に探索しに行ったのではないか。3万年以上前のことである。私は、その主役は、伊豆・箱根産の黒曜石を採取した熱海の「海の民」だと想像している。つまり、神津島には、3万年前頃、熱海の「海の民」が、黒曜石を探しに渡ったのである。



(2)精霊万年

 中沢新一の「アースダイバー」ではないけれど、私は最近、中沢新一の言葉をヒントに「景観10年、景色100年、風土1000年、精霊万年」と言っているのだが、万年前まで遡ってその土地の歴史を語らねばならない。地霊との響き合いが必要だ。中村雄二郎流に言えば、地霊のリズムと共振しなければならない。私はそう思って石器文化の勉強をしつつある。石器時代にも人びとの生活があり、その生活環境ごとに石器文化があった。特に、日本では、その地域その地域で生態系が違い石器の原石が違っていて、さまざまな石器文化が生まれている。すばらしい石器文化の花が開いていたようだ。その辺を勉強しようという訳だ。私の考えでは、国家構造や生態系の違いによって地域の生活環境はさまざまであるが、日本の場合は幸いにも多様性の文化が発達した。そういう「多様性」というものに着目したとき、日本の場合、「違いを認める文化」を有しているという点が人類史上まれにみる特徴ではないか。須藤隆司は、その著「石槍革命・八風山遺跡群」(2006年3月、新泉社)で次のようにいっている。すなわち、

 『 各地域には地域固有の石材環境があり、それに適した技術を開発した。革命的な技術が周辺部で生じても、そのまま受け入れるのではなく、地域の資源を枯渇させない有効な技術に組み替えた。それを可能にしたのは、地域をこえる社会ネットワークとして、資源が特定地域集団で消費されることなく、地域集団間で共同消費できるシステムを同時に開発したからである。旧石器社会の進化は、氷河期において激動した寒暖の環境変化を生き抜く技術革命であった。石器時代本来の「革命」とは「定住革命・新石器革命」であり、その後、幾多の「革命」を経て現代社会があるが、自らが引き起こした地球温暖化・環境変動をいかに生き抜くのか。地球規模の遊動生活社会である現代社会は、地域資源の活用法と共同消費の原則を誤っていなのか。旧石器社会の本質的「革命」にそれを学ぶべきであろう。』・・・・と。けだし、適切な問題提起だ。石器時代をも勉強すべきである。

 再度申し上げる。私は最近、中沢新一の言葉をヒントに「景観10年、景色100年、風土1000年、精霊万年」と言っているのだが、万年前まで遡ってその土地の歴史を語らねばならない。古くから人の働きのあったところではどこでもそうで、地霊との響き合いが必要だ。中村雄二郎流に言えば、地霊のリズムと共振しなければならないのだ。
 私たちの住むこの地球は、たびたび激しい気候変動に見舞われてきたし、今後もいつそうなるか判らない。このことが人々の共通感覚として定着しないと何事も有効な手立てが打てなくなり、私たちの子孫の生存が危なくなる。中村雄二郎の共通感覚についての考え方は、いずれ詳しく説明するとして、ここでは地霊との響き合いというものの重要性或は共通感覚というものの重要性だけを指摘しておきたい。
 地霊との響き合い或は共通感覚というものは、古くから人の働きのあった「場所」ではどこでもそれを体験或は感じることができる。したがって、古くから人の働きのあったすべての「場所」に哲学的な意味がある。しかし、その程度は様々で、それを観光資源として活用する場合には、その程度に応じ、市町村レベルのもの、都道府県レベルのもの、ナショナルレベルのもの、世界レベルのものに分かれるのかもしれない。


(3) 私の文明論・「非対称アシンメトリー原理」について


 わが国の歴史観がなかなか定まらない。戦前は「皇国史観」が幅を聞かせていたが、今はそれでもってわが国の「歴史と伝統・文化」を語る人はほとんどいないが、かといって多くの国民の共通認識である新しい歴史観が出てきている訳ではない。そのために、靖国問題が政治問題になったりするのであろう。困ったことだ。

 フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」を書いて自由の国・アメリカを礼讃する歴史観を示したが、あまり評判は良くなかった。梅棹忠夫の「生態史観」はまったく斬新な歴史観で世の注目を浴びたが、その後の発展はない。川勝平太の「海洋史観」が出てはいるが、これは、まあいうなれば、梅棹忠夫の「生態史観」の足らざるとことを補うという程度のものであろう。今、世界をリードするアメリカの未来を予測しうる歴史観でないと、世界の文明を正しく説明できないのではないか。

 私の予感としては、黒曜石のロマンと黒潮のロマンを追求していけば、多分、「海洋史観」と「生態史観」を統合する・・・・新しい史観ができていくかも知れない。今西錦司の「棲み分け論」に繋がるところの・・・・「多様体史観」・・・・???? 私は、田辺元の「多様態哲学」にあやかって「多様態史観」と呼びたい気もするのだが、どうであろうか。「種の論理」をもととした歴史観というところか。生物も人間もすべて、その地域の地質や気候や生態系に適応して、仲良く棲み分けて・・・生きていく。世の中はそのように進化しているのではないか。フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書いたが、私はやや意見を異にする。ヨーロッパ文明というかアメリカ文明がけっして終わりではないのだ。そのあとに日本文明という歴史がつづくのではないか?

 私はかって、『 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だと言ってきている。「違いを認める」ということは、(中略)「非対称アシンメトリー原理」が働いているということであり、「流動的知性」が働いていることである。「流動的知性」が働いているという点から言えば、「わび・さび文化」と言っても或いは「イキの文化」と言っても、それらは同じことでもある。それが「日本人の感受性」である。』・・・と書いたが、世界の歴史は「非対称アシンメトリー原理」が働くように動いているのではないか。私にはそう思えてならない。そういう観点から世界の歴史を見る態度、それは「アシンメトリー史観」と言って良いかも知れない。

 

 私には、世界の歴史は「非対称アシンメトリー原理」が働くように動いているのではないかと思えるのであるが、もしそれが本当だとするとこれは大変なことで、いずれは日本の世界化が進むということだ。アメリカに代わって・・・・ということだ。はたして世界の歴史は「非対称アシンメトリー原理」が働くように動いているかどうかの研究は学者に任せるとして、私は、日本の「歴史と伝統・文化」に何故「非対称アシンメトリー原理」が働くようになったか、その辺の事情を私なりに説明してみたい。まあ、問題提起というところか・・・・。

 二つ以上の文明がぶつかりあったときそこには非対称社会が出現するが、その非対称性が強すぎると文明のぶつかりあいによる飛躍はなく、ひとつの文明に他の文明が飲み込まれてしまうということになる。武力により巨大国家が出現すれば目を見張るような文明が勃興することがあるけれど、多くの場合は、その巨大国家が他の文明を飲み込んでしまうのであって、やがてはその文明は衰退の道を辿ることとなる。非対称性が強すぎるということはけっして好ましいことではない。しかし、完全に対称ということは普通あり得ないので、私は、「アシンメトリー」といっているのだが、「アシンメトリー」な文明のぶつかりあいによって飛躍があり、新しい文明が勃興するのではないか。例えば、ひとつの文明が他の文明を飲み込もうとするとき、飲み込まれようとする方の文明の方がそれなりに大きければ、衝突は興るけれど、かえって新しいエネルギーが起きてくる。この新しいエネルギーについては、田邊元の「多様態哲学」をもとに哲学的な思索を重ねるとともに、歴史的な事実を踏まえてよくよく考えてみる必要がある。



(4) 湧別技法集団の活躍

 今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/tabi/kagoseki.html

その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。

 御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生した。稲田孝司は技術的に見てそう考えている。荒屋技法は、黒曜石の加工技術ではなく、それ以外の石器加工技術であるが、これも当時は世界最高の技術であった。日本列島では、荒屋技法集団と湧別技法集団が付かず離れずの状態で生活するようになったらしい。言葉や生活習慣が似ていたのであろう。同じ親戚みたいなものである。そして、これらの集団が世界最高の黒曜石加工品・御子柴型石器を作ったらしい。稲田孝司の考えである。

 ところが、稲田孝司もその世界最高の黒曜石加工品・御子柴型石器がどこで作られたかはまったく触れていない。そこで私の推理となる。「神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」  

 八ヶ岳山麓に野辺山というところがある。野辺山と言われてもピンと来ない人が多いと思うがJR小海線は清里の先、日本で一番標高の高い鉄道の駅「野辺山駅」付近の高原が「野辺山高原」である。その野辺山に荒屋技法集団と湧別技法集団が来た。来たのだ。ともかく世界最高の技術集団が来たのだ。これら世界最高の技術集団が来てはじめて野辺山は世界最高の尖頭器や石斧をつくることができるようになったのである。だとすれば、なぜ、野辺山なのかという問題を考えねばならない。そこがポイントである。荒屋技法集団と湧別技法集団が付かず離れずの状態で生活していた土地というのは何も野辺山だけではないのに、なぜ、野辺山だけが荒屋技法集団と湧別技法集団によって新たな技術開発が行なわれ、あのような芸術品ともいうべき世界最高の黒曜石加工品がつくることができるようになったのか。それを考えねばならない。

 実は、野辺山には、近くに八ヶ岳の黒曜石があるのに、神津島の黒曜石が運び込まれている。これもまことに不思議なことで、これも黒曜石7不思議のひとつに数えても良い。しかし、「 野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのに、なぜ神津島の黒曜石が運び込まれているか?」・・・という疑問について答えるということは、「 神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」という疑問に対して答えるのと同じであると私は考えるので、今ここで、ふたつの疑問をひとつにしてしまおう。つまり、「 野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのになぜ神津島の黒曜石が運び込まれ、しかもその野辺山で、神子柴で出土したあのようななまさに芸術品とでもいうべき尖頭器がつくられるようになったのか?」・・・・と言い直そう。なお、神子柴で出土した下呂石による尖頭器も私は野辺山でつくられたと考えている。その理由は、下呂には荒屋技法集団と湧別技法集団の生活した形跡がまったくないからである。上の新たな疑問に答えるということは、なぜ野辺山で下呂石によるあのようすばらしい尖頭器がつくられたのか、その疑問に答えることにもなる。推理ののポイントは、野辺山が大流通センターであったということである。何故か? 私が当時の石器人であれば必ず野辺山に大流通センターをつくると思うからである。なにせ、私と当時の石器人は同じ知的能力であるから、私が考えることぐらいは当然彼らも考えたであろう。それだけのことである。

 下呂石の石器にしろ、神津島の石器にしろ、現地であらかたの石器をつくり、それらを流通センターに運び込む。流通センターでは、それに二次加工を加え、付加価値を高めて需要先に運んでいく。石器の流通センターというものは、ただ単にものを集めて配送するというだけでなく、付加価値を高めて配送するという機能を持っていたのだと思う。何故か? 私ならそうするからである。

 要するに、稲田孝司がいう・・・ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団という旧石器時代における列島における二つの主役が、野辺山という「場所」でぶつかり合った。そして、日本の「歴史と伝統・文化」に特有の「非対称アシンメトリー原理」が働いて、あの驚くべき・・・世界最高の黒曜石加工品・御子柴型石器が誕生した。けだし、日本の「歴史と伝統・文化」に特有の「非対称アシンメトリー原理」の源流に、黒潮文化と黒曜石文化がある。

 ところで、後期旧石器時代(通常3万年前から1万年前)から縄文時代に向うその過渡的な時代に湧別技法というものがどのような影響を与えたか? 実は、上述のような湧別技法細石刃および荒屋型石器の直接的あるいは間接的な伝授にとどまらないのである。その延長線状のできごととして画期的な技術革新が起こったのである。そのひとつがあの御子柴型石器の出現だが、このことについてはすでに触れた。ここでは八風山遺跡においてどのようなことが起こったか? 「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、新泉社)で須藤は次のようにいっている。すなわち、

 『 関東地方には、細石刃・荒屋型彫器を製作するための良質な珪質頁岩が存在していなかった。そこで、細石刃製作には不向きだが、大型両面調整石槍の製作を可能としたガラス質黒色安山岩に注目したのである。地域の石材環境に適した技術発展に組み替えたのである。後期旧石器時代の終わり、八風山原産地にふたたび製作遺跡が出現した背景がそこにある。』・・・・・と。この八風山遺跡の事例は、全国的に、在地の石材で御子柴型の大型槍が作られるようになった経緯(いきさつ)を雄弁に物語っているように思われる。湧別技法が契機となって全国的に御子柴型の大型槍が作られるようになったのである。「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)で稲田孝司が述べている内容とほぼ同じように、私も、湧別技法集団は本州の広範囲に渡って植民・遊動領域を拡げ、御子柴文化を生み出すきっかけを作り、そしてその新たな御子柴文化が九州にまで影響を与えたとすれば、湧別技法集団は、ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と並んで、縄文時代草創期における列島の立派な主人公である・・・と思う。