天狗の棲む森、河童の棲む川

 

 

 わが国の姿(かたち)というものは、縄文文化が底辺にあって形作られたものと考えている。そして、その一番の特徴は「神仏習合」であり、これからあるべき国の姿(かたち)としては、それをさらに発展、成熟させて、キリスト教やイスラム教なども含めた「世界多神教」のようなものを理想と考えていけばいいと思ったりしている。

 「神仏習合」は、もっとも修験道に色濃く結実しているように思われ、これからの国のあり方とも関連して、私は、修験道に大きな関心を持っている。修験道は山の宗教であり、修行の場は山である。したがって、山好きの私にとって、修験道は一つの憧れになっている。次に紹介する「守れ権現」という歌は、「雪山賛歌」などとともに、私たち京都大学山岳部の愛唱歌になっていて、山ではよく歌ったものだ。作詞は北原白秋だったと思うが、とても懐かしい。

 

  守れ権現 夜明けよ霧よ  山は命のみそぎ場所

  六根清浄 お山は晴天

 

  風よ吹け吹け 笠吹き飛ばせ  笠の紅緒は荒結び

  六根清浄 お山は晴天

 

  雨よ降れ降れ ざんざとかかれ  肩の着ござは伊達じゃない

  六根清浄 お山は晴天

 

  さっさ火を炊け ゴロリとままよ  酒の肴は山鯨

  六根清浄 お山は晴天

 

 山伏たちは小さな虫を踏むのも、また道の修理に鍬をふるうことさえも避けて、生命とそれを育む自然を大切にした。山に登り信仰が深まるにつれて、役(えん)の行者の偉大さが、しだいに感得されるようになるらしい。

 修験道は、もともと私の憧れでもあるが、「この国の姿(かたち)」に関連する私の重大関心事でもある。ところで、修験道を語る場合、どうしても鬼や妖怪や天狗に触れておかねばなるまい。

 鬼は、神通力の備わった修験者に使われて、鬼神となる。妖怪はどうにもこうにも使いようがない。しかし天狗は、鬼や妖怪の類ではない。神通力のある修験者がうまくおだてて使えば、護法となる。鬼神と護法は修験道の使役神である。 天狗は独特の世界に棲んでおり、私たち日本人とは昔からお付き合いの深いおもしろい存在だ。神の世界からみれば、天狗なるものは一切の救いから切り離された哀れな存在であるかもしれない。しかし、天狗の側からすれば、厳しい修行は強いられるものの、天狗界ほど自由な世界はなかろう。仏教の教義や戒律、人間界のややこしいルールなどにいっさい束縛されることなく、みずからの欲望と行動原理によって自由に闊歩できる世界なのである。

 修験者が天狗に化けることはないようだが、天狗が修験者に化けることはときにあるようだ。密教の諸天、諸王は、天狗に化けることがあるが、天狗が諸天や諸王に化けることはない。そのかわり、天狗は地獄に堕ちることもない。天狗の棲む世界はおおむね修験道の行場であり、荒してはならない聖域である。

 今や都市ではほとんど生態系が壊れてしまったので、さかんにビオトープ・ネットワークということが叫ばれているが、川は河童の棲む川でないといけないし、杜は天狗の出没する森でなければならない。梅原猛が「巨木の町づくり」を提唱しておられる所以(ゆえん)である。今こそ、天狗の出没しうる杜を、ぜひとも復活しなければならない。

 私は、都市におけるビオトープ・ネットワークはもちろんのこと、日本列島全体におけるエコロジー・ネットワークを提唱している。その合い言葉として、天狗の住む聖域、修験道の行場、河童の棲む川を甦らせたい。むろん河童の棲める川とは、瀬もあり淵もある魚の棲みやすい川のことである。 それを日本の風土のベースとして、生態系回廊を作るのだ。これが私のいう「劇場国家にっぽん」の一つの姿(かたち)である。

 

 

 註:以上は、最近上梓(じょうし)した拙著「劇場国家にっぽん」の中の一節ですが、私は、この一冊に、私の地域づくりのビジョンを掲げ、日本再生のヒントを挙げてみました。歴史のなかで光明を発する日本民族の魂と知恵。その魅力を紹介することが、日本の未来を切り拓くヒントになる、という衝動に駆られて筆をとりました。今こそ日本民族の魂と知恵の源泉をさぐり、この国のありようを検索すべきとき・・・・その思いに衝き動かされて筆をとった次第であります。この先、日本はどうなるのか? 日本人は何をなすべきか? 見えない未来に光を投げかけるのは、実は、歴史に埋もれた日本民族の魂と知恵ではないだろうか?

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