「モノ」と「ピュシス」・・・その1類縁性

 

 

 ハイデッガーの「技術論(小島威彦、アルムブルスター訳、理想社、昭和40年9月)」というのがある。ハイデッガーは、その中で「ピュシス」について語っているのであるが、「モノ」との違いを明らかにするために、まず「ピュシス」について考えてみなければならないようだ。中沢新一の新しい唯物論を理解するためにはまずハイデッガーの「技術論」についての理解がまず必要であるということらしい。

 

 例のごとく中沢新一の説明を聞こう。

 

 「ピュシス」は「フィジック」の根語源ともなったことばであるから、一般的には「自然」を意味するものと同一視されている。つまり、海や山脈や動物や植物のことを、古代ギリシャ人たちはピュシスということばで言い表そうとした、とふつうは考えられている。ところが、ハイデッガーはこのことばはそのようなもろもろの存在物をあらわすのではなく、「ある」という事態を根源的な深みで、ギリシャ人たちが思考しようとしたときに用いた根源語であることを、強調している。モノという日本語の根源語が、「ある=あらわれる」の事態を実践的なやり方で思考していたように、動物や植物のような自然物をあらわすピュシスは、「ある」を思考することばとして、徹底的に利用され、深められたのである。

 

 中沢新一は、「モノ」と「ピュシス」の違いを述べる前に、まずその類縁性についてこのように述べ、ハイデッガーの「技術論」から次のような「ピュシス」に関する説明を紹介している。まずそれを見ておこう。

 

 それは語(ピュシス)に忠実に思索するなら次のことを意味する、すなわち、閉ざされかつ覆い隠されかつ折りたたまれているものから出て来るという意味での立ち現われることを(ピュシス<立チ現ワレルコト>は、元初的な思索家たちの言い現わしにおける根本語である)。われわれにとって直接この「立ち現われること」が目に見えるようになるのは、たとえば、地中に埋め込まれた穀物の種が発芽すること<立ち現われること>において、新芽が芽吹くことにおいて、花が咲き開くこと<立ち現われること>においてである・・・・。

 一方ほかにも立ち現われることは、人間が目撃されるその光景の中に集中しつつそれ自身から出現したり、話のなかで人間に立ち現われてくる世界とそれと一緒に人間自身が自らを露呈したり、また身振りの内に心情が吐露されたり、遊戯の内で人間の本質が覆い隠されざるものの内へと流れ出たり、また単純にそこに立っていることの内に人間の本質が聳え立っていたりするその仕方において、あるのである。到る所に、神々の会釈<現われ>については黙するとして、すべての「存在者」が変化に富んだ仕方で相・互・に・臨・在していることがあるのであり、そしてそれら一切のものの内には、出来しかつ出現しつつ自らを示すという意味での現われることが、ある。それがピュシス<立チ現ワレルコト>である・・・。

 ギリシャ人にとってはピュシスの光の内で、われわれの謂うところのもろもろの自然の出来事は、それらが<立ち現われる>という仕方の内で初めて目に見えるようになるのである。

 

 このように、ピュシスに対するハイデッガーの説明を紹介し、中沢新一は次のように述べている。

 日本語の根源語であるモノとの類縁性はあきらかである。日本語では、西洋語で存在をあらわすことばに相当する「ある」は、そのなかにタマの位相変換を含む「あらわれ」という事象を指すことばとして、深い意味をあたえられていた。その<ある=あらわれ>と一体になって、モノははじめて全体的な意味を持ったことばなのである。別の言い方をすれば、モノそのものに<あらわれ>が内蔵しているような位相の変換や質的な変容などが包み込まれ、存在が<あらわれ>という仕方の内で、はじめて感覚的対象として目にも見え、手でも触れられるような対象となる事態を言いあてようとしていたのである。

 

 なるほど・・・。そうなんだ。技術とは、「モノ」が内蔵している<あらわれ>を、感覚的対象として目にも見え、手でも触れられるようにすることである。技術により手を加えることによりはじめて「モノ」の本質を感じることができるのである。同様に、技術により手を加えることによりはじめて「場所」の持つリズム性を感じることができるのである。人工が自然を完成するということはそういうことである。

 

次はここをクリック!

目次に戻るにはここ!