「モノ」と「ピュシス」・・・その2異質性の根源

 

 

 「モノ」と「ピュシス」との類縁性は、前に述べたとおり、存在が「あらわれ」や「立ち現われ」という仕方で、はじめて感覚的対象として目にも見え、手でも触れられるような対象となる事態を言いあてようとしているところにある。しかし、中沢新一によれば、「モノ」と「ピュシス」との間には、まことに重大な違いがある。日本文化と西洋文化との違いとでもいってよいような本質的な違いがあるというのだ。で、例のごとくして、中沢新一の言うところを聞いてもらいたい。

 

 モノの「あらわれ」とピュシスの「立ち現われ」の内容にさらに深く踏み込んでみると、そこには共通性以上に重大な異質性の横たわっていることがわかってくる。そしてこの異質性のよってきたるところを考え抜いていくと、モノとピュシスが深い関係を持つ「技術」という現実が、けっして普遍的な内容をもつものではなく、こんにち<技術時代>という言い方で理解されていることなども、ピュシス的<技術>によって強いバイアスを受けた思考からつくりだされている社会的現実なのだということが、理解されるようになるのだ。

 

 ピュシスということばに含まれている思索こそが、ヨーロッパ(ギリシャの西方世界)の原理のひとつをしめしている。その意味で、<世界のヨーロッパ化>という言い方は、「技術のピュシス的理解の一般化」とさえ、言い換えることができるのである。

 それに対してモノ的「技術」は、こんにちのグローバル・スタンダードであるピュシス的「技術」がつくりだす世界とは、異質な世界をつくりだす能力をひめている。それに私たちが見てきたように、モノとタマをめぐる日本語の思考には、ピュシスをめぐるギリシャ的思考に優に匹敵する強靱さと立体性がそなわっているようであるので、そのままのかたちで、別に現代的な補強などを加えなくても、モノはりっぱにピュシスをめぐるハイデッガーの思索などと、互角に渡りあうことも可能なのである。

 

 中沢新一の説明によれば、ピュシスは「光の哲学」による存在の概念であり、モノは「光と陰の哲学」による存在の概念である。ひきつづき中沢新一の説明を続けたい。

 

 モノが光と陰がつくりなす陰翳にひたされた概念であるのに対し、ピュシスは透明で開明的な光に包まれている。ピュシスがそのような明るさや透明さを事物にもたらす真理のようなものと関わりがあるのに対して、モノはけっして真理に向かって自分を開いていくために、増殖をおこなったりしているのではない。モノの増殖はスポンティニアスで、どのような目的性にも方向づけられていないのである。

 西欧的思考にとっての根源的であるピュシスは、ハイデッガーの考えでは、「閉ざされかつ覆い隠されかつ折り畳まれているものから出来るという意味での立ち現われること」を意味している。この「立ち現われ」が「ある(存在) 」ことの根源をなしているのだから、ピュシスは存在するということの根っこに触れていることになる。それは、閉ざされたり、覆い隠されたり、中に折り畳まれている状態から、覆いを取られ、開かれた、平明な状態のうちに出てくることを意味している。つまり、ピュシスは光のうちへの「立ち現われ」そのものであり、「ある」ということの本質も、もっぱら植物や動物などがつくりあげている自然的世界の直感的体験のほうから言い表そうとしている概念なのだ、ということになる。

 

 ここで面白いことには、そのように考えられたピュシスは、それ自体が、「現象学」といフッサールは現象学を「根源的な経験主義」だと言っている。人間の経験そのものが、ものごとを覆い隠されている瞑い状態から開かれた<ことわり(事割り)>の明るい状態への連れ出しを、不断にめざしているものとしてとらえることができる。そのような経験の全過程を、とてつもない深みとともにとらえつくそうとする思考のプロジェクトとして、現象学は西欧の思考のなかに生れた。現象学は、経験の本質を、光や<ことわり>の明るさのなかへの出来(しゅったい)としてとらえて、その経験の確実な基礎ないし起源を探し出そうとしてきた。だから、現象学そのものが、もともと一種の<光の哲学>としての性格を持っていたわけなのだ。

 フッサールは、デカルト的企画が西欧的思考のめざすものの本質をあからさまなかたちで表現しきってみせていることに、深く感動したのであるが、そこからさらに展開をとげたハイデッガーの哲学においても、現象学が光の哲学であることの本質は失われていない。

 

 ピュシスが瞑さの中から明るさ(開かれ)のうちに<立ち現われ>てくるのは、みずからのうちに光を内蔵していたからである。この光は打ち開かれた状態を自分の本性としていて、そういうみずからの本性を実現するために、覆い隠していたものを破って、広がりのなかに自分を放っていくのである。しかし、モノの場合は違う。タマが自分を覆い隠す<かひ>の内部で成長をとげるのは、植物の根が土中に増えていくように、自分を分裂させることによって、みずからにみなぎる強度の膨張に耐えるためなのだ。

 存在の卵の中から雛鳥が出てくる。しかし、この存在の雛鳥が光ではないことに注意しよう。自分を不透明にする皮膚と外気の中での生活に耐えるための体毛に覆われて、光でもなく闇でもなく、まさに光と瞑さの雑色の混成系として、ひとつの<ある>が出現する。厳密な意味でいえば、これは<光の哲学>である現象学のとらえようとしてきた「ある」のはじまりではない。

 

 人間の経験というものも、覆い隠されていた状態から覆いを除かれた開かれた状態へ向かう意識の運動として、カオスの状態にあった表象が「ことわられた(事割られた)」もの、理性的なものへと明瞭さを増していく、「真理」をめざす不断の運動としてときあかされてきた。

 これに対してモノ的な思考は、経験の内部でそのような明るいものと暗いものとの分離を押し進めたり、光を純粋化してそれを物質性の闇に対立させるようなやり方を、けっしてとらなかったのである。そこでは、「ある」こととは光と闇の混成系であり、そこへ開かれた人間の経験というものも、ひとつの混成系であり、光と闇とは分離されてはならないもので、すべての存在は不透明な皮膚に覆われて、陰翳をやどしたものとして考えられてきた。

 

 中沢新一いわく。

 

 モノ的な技術は、ピュシス的に思考された技術と違って、増殖や変容や分裂に、つまり一定不変でない変化しない同一性を思考することが出来ないような現実に対して適用され、真理でなく、人間に具体的な幸福(さち)をあたえるのだ。

 

 しかも、そのモノ的技術は人間の宗教の根源である<信>ということに、深くかかわっている。狩猟社会の人々は、モノ(動物や植物のからだ)に化身した森のタマが、自分たちに自然の賜物を贈与してくれていることを、深く信じていればこそ、あやういギャンブルのような行為を続けていることができる。そこから<信>も発生すれば、<礼>も発生する。人々は森のタマシイ(のちには、これが森の神というような、イメージの運動を固定するような固い表象で考えられるようになるのだが)の本性は「善」であり、その「善」なる力はみずから増殖をおこなって、「ある」の世界を豊かなものにつくりだしている、と信ずることができただろう。人はそれに対して「礼」をつくす必要がある。むさぼらず、必要以上に奪うことなく、大いなるものの前にはつつましく頭を垂れるのだ。

 

 近代の現象学の中から生れたハイデッガーの存在論などに比較して、なんと豊かな広がりや深さをもった「“ある”の哲学」ではないだろうか。私たちはこんにち、そのような「“ある”の哲学」の感動的な表現を、ネイティブ・アメリカンの精神的伝統やチベットの仏教的精神や神道の自然哲学などのうちに、かろうじてみいだすことができるだけになってしまった。こんにちの世界で、物質的な増殖はいたることろで、おそるべき速度と量をもって進行しているが、その<物の増殖>を包み込む全体性の直感は失われてしまっているために、モノははじめから物でしかなく、しかもその物は商品となり情報となり貨幣となって、流通のネット上をスピーディに運動していきながら、めまぐるしく変態をとげながらも(商品―貨幣―商品―貨幣―・・・・・)価値としての同一性を絶対に失わない。

 

 このような世界を物質主義と呼んで、それに精神なるものをもって対抗しようとしても無駄なことだ、と私は思う。それよりも重要なのは、物質でもなく精神でもない、モノの深さを知って、それを体験することだ。モノは技術の本質をあらわす。そしてそれは同時に、宗教と倫理のはじまりにつながっている。精神と物質を分離した瞬間に、そういうモノは見えなくなってしまうのである。

 

 以上である。中沢新一の新しい哲学だ。彼は、新しい唯物論とか「“ある”の哲学」とも言っているが、やはり彼の言うように、ハイデッガーの存在論などと対比して「光と陰の哲学」と呼ぶのがいいのではないか。私は、これから、中沢新一の「光と陰の哲学」と呼ぶことにする。

 「光と陰の哲学」は、ハイブリッド思想をささえる哲学であり、モノ的技術をささえる哲学である。中沢新一に聞いてみないとわからないが、私の考えでは、おそらく田邊哲学の系譜に属するものではないかと思う。新しい「種の論理」ではないのかと思うのである。

 

 この中沢新一の「光と陰の哲学」によってつくり出さなければならない経済システムは、贈与経済である。そして、この中沢新一の「光と陰の哲学」によってつくり出さなければならない政党は、「光と陰の党」であり、伝統の力を重んじかつグローバルな力とも共存を図っていこうとする、矛盾に満ちながらも共生にまい進する政党、ハイブリッド思想を身上とする政党である。自由民主党がそういう政党に変身できるかどうかはまだわからない。わからないが私の直感としては伝統を重んじる保守本流であるが故に十分それが可能でないかと思う。私は、とりあえずそういう新しい哲学を持った「光と陰の党」とでもいうべき新自民党への変革を目指して「劇場国家にっぽん」の構想をまとめていきたいと思う。

 

 皆さん驚いてはいけない。なんと私の目指す「光と陰の党」とでもいうべき新自民党は、いっけん合理的というより不合理な面が多いし、まあいうなれば矛盾だらけの党である。「ヒューマニズムなんてクソ食らえ!」なんていうとちょっと言い過ぎかもしれないけれどまあそうである。「真理の追究なんでばかばかしい!」というとちょっと言い過ぎかもしれないがまあそうである。「自由競争なんてクソ食らえ!」なんていうとちょっと言い過ぎかもしれないがまあそうである。合理性とか真理とかヒューマニズムとか自由競争とかについては、それとの共生を図り、あえて反対の闘争はしないがそれよりもっともっと大事なものを追及していく覚悟である。私の目指すもの・・・・、それは「信」ということかもしれないが、「信」といえば「信」、そうでないといえばそうでないのである。私の目指すもの・・・・、それは「贈与経済」ということかもしれないが、「贈与経済」といえば「贈与経済」、そうでなといえばそうでない。しかし、少なくとも当面は、わが国の経済システムとして、グローバルな市場経済のなかに、「贈与経済」をつくり出していかなければならないのである。

 

次はいよいよ贈与経済!

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