荒屋遺跡



 私は前に、「石器づくりの原石を求めて」というページにおいて、初めて荒屋の問題に触れた。すなわち、
『 北海道東部の白滝遺跡群のすぐ北に、良質の黒曜石を産する赤石山(あかいしやま)がある。赤石山山麓の幌加沢(ほうかざわ)遺跡遠間(とおま)地点を調査した木村英明は、この遺跡に居住した集団が赤石山から原石を持ち語り、ここで細石核またはその原形に加工する作業を一手に引き受け、それらを交換により近隣の消費地へ分配したと考える。他方、道東地域で発見される荒屋型彫器には、道南に産する珪質頁岩など黒曜石以外での製品が多い。帯広市暁遺跡からは100点をこえる多量の荒屋型彫器が出土しており、こうした集団を媒介にして道東の黒曜石と道南の珪質頁岩製彫器が交換されたのだろうという。分業と交換がかなり発達したシステムを想定するわけだ(木村英明「黒曜石・ヒト・技術」『北海道考古学』31、1995年)。』・・・と。
 実は、荒屋型彫器というのは、新潟の荒屋遺跡から出土したものをそう呼んでいるのであるが、上の文章は、帯広など北海道に広範囲に出土するということを言っているのである。

 その次に荒屋の問題に触れたのは、「御子柴型石器はどこで始まったか・・・神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」というページであった。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 さて、日本の石器時代の研究は、皆さんも御承知のとおり、「岩宿」から始まる。つまり、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見され、その翌年、明治大学と相沢氏が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見、日本に旧石器時代が存在していたことが証明されたという訳だ。昭和24年のことである。しかし、岩宿発見の20年以上も前の大正年間から、この野辺山では地元の人によってもっと旧石器が大量に採取され続けてきた。馬場平遺跡のことである。馬場平遺跡は、この中ツ原遺跡の東、約5kmの・・・千曲川河畔の河岸段丘にある。行政区画は南牧村の隣の川上村である。

 この馬場平遺跡については、残念ながら明治大学考古学研究室の目に止まるのが遅く、調査のメスが入ったはやっと昭和28年になってからであった。

 その後、野辺山は、矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、先ほどの「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになったのである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀形石器などが出てきたのだ。

 加藤晋平によれば、この荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の近辺だという。御承知のように、湧別技法はアムール川と繋がっている。今年の夏、アムール川の水源地を見たいと思っているが、荒屋型彫刻形石器がアムール川と繋がっているかどうか判らない。しかし、もし何らかの形で繋がっているとなると、これはもうえらいことである。大変だ!日本文化のルーツはモンゴルということになる。アムール川の水源地はいうまでもなくモンゴルだし、バイカル湖も昔はモンゴルである。』 ・・・・と。
すなわち、加藤晋平の説を紹介しながら、北回りのモンゴリアンが日本にやってきた有力な証拠に荒屋技法があるのではないかという私の思いを述べたものである。私は、湧別技法と並んで荒屋技法の問題は、は日本人のルーツにも関係する大事な問題であると考えているのである。湧別技法集団と荒屋技法集団は、ともにそのルーツをモンゴルとし、つかず離れずの関係を保ちながら、日本列島を南下していった。そして、新潟県の川口に日本を代表する誠に貴重な大遺跡を残したのである。

 そして、私は、先の「白滝への道」というページでは、モンゴルに対する熱い思いを縷々述べたのである。それは白滝や遠軽町の活性化のためであり、日本の国際貢献のため、世界平和を考えてのことであった。

 げに荒屋遺跡は大事な遺跡である。荒屋遺跡を語らずして、日本の石器時代を語ることはできない。では、いよいよ荒屋遺跡について勉強することにしよう。

 まず最初に言っておきたいのは、旧石器時代、日本列島の中心は、八ヶ岳から武蔵野台地や相模野台地にかけてのいわゆる富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏 であったのではないかということである。したがって、北海道から湧別技法集団等が日本列島を遊動していく場合、地理的条件から、会津から越に抜けるルートが中心になったのではないかと思われる。大河川は徒渉で渡ることは困難であったからである。魚野川をその上流部で渡って、千曲川の合流点・荒屋に行く。荒屋からは、千曲川沿いに容易に信濃に行くことができるが、上越国境の山を越えることもできる。荒屋はまさに交通の要衝である。またサケなどの水産資源を採取できる格好の場所であったとも言われている。





上を流れているのが信濃川。上が下流で長岡方面。
下から上に流れ、信濃川に合流するのが魚野川。下の方向に小出町がある。写真の中央の少し下に荒屋遺跡がある。
川向こうが越後川口の駅である。駅の東側があの山古志村である。
この写真を撮った頃はまだ高速道路が走ってない。





これは現在の地図で、高速道路が走っている。
左が新潟方面、右が東京方面。
下の方に見える鉄道は、JR飯山線で左方面に十日市町や津南町がある。
荒屋遺跡は、この地図のほぼ中央の十の字で印を付けたところ。




 さあ、それでは荒屋遺跡第2・3次発掘調査報告書(芹沢長介)をもとに、荒屋遺跡の勉強をすることとしよう。


 上述の加藤晋平の説と同じように、芹沢長介も報告書の序文で次のように言っている。すなわち、『 荒屋遺跡の石器文化は、約14,000年前に日本列島の北東部に発達した旧石器時代末期の文化である。また荒屋から1,000点以上発見されている荒屋型彫刻刀の分布は、北海道からサハリン、さらには沿海州からシベリアのバイカル湖周辺、さらに中国北東部に達する広大な分布を持っており、アリューシャン・アラスカにまで伸びていることが明らかになってきている。東北アジア旧石器時代終末期文化の流れ、あるいは日本民族の由来についての重要な資料になると考えてよい。』・・・と。湧別技法も荒屋技法も、それらのルーツはともにモンゴルと言ってもあながち間違いではなかろう。

 そして、上述のように、八ヶ岳の東の山麓にある野辺山は、昭和30年代に入って矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、最近(平成2〜3年)に行われた「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになったのである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀形石器などが出てきたのだ。しかし、芹沢長介が言うように、野辺山の矢出川文化は、本来、これとは違う南西日本特有の石器文化である。そこへ、より高度な技術をもった湧別技法集団と荒屋技法集団がやってきたのである。

 荒屋遺跡の自然環境について、報告書は次のように述べている。すなわち、『 更新世末の22,000年から14,000年前は、世界的に寒冷化が進んだ時期と推定されている。また、アフリカ、ユーラシア大陸で広く石器が小型化する時期でもある。この小型化した石器群のうち、細石刃石器群は、東北アジア地域に広がり、最も広範囲に分布している。こうした気候変動により、人々は南方に移動したものと推定されている(安田 1995)。この寒冷期の中でも20,000年前頃が最も寒冷であり、海面も最も低下し、現在の海水準より100m低いところまで陸地であったとされている(森脇 1995)。日本列島は現在の1.5倍の広さになり、瀬戸内海は干上がり、大きな川となっていた。また、九州と朝鮮はほとんど繋がっていたが、この当時でも津軽海峡や対馬海峡は陸地化しなかったと推定されている(多田 1995)。13,000年前頃になると、地球の気候は激変し、温暖湿潤化が進む。この気候変化は、旧石器時代人の食料資源となった大型哺乳動物の生息環境を悪化させたとされる。このような気候変化が細石刃石器群を使用した集団の生活に大きく影響したと推定されている。動物相をみてみると、20,000年前頃には、日本列島北端の宗谷海峡や間宮海峡は陸となり、シベリアからマンモスやヘラジカ、ヤギュウ、ナキウサギ、シマリスが北海道へ南下し(竹内・守田 1995)、ヘラジカやヤギュウは津軽海峡を越えて東北地方にも渡ってきている。14,000年前頃には、北海道は疎林と草原の環境にあり、バイソン、ウマ、トナカイ、エゾシカなどが狩猟対象であったと推定されている(鈴木 1995)。また、本州以南は亜寒帯針葉樹林から冷温帯落葉広葉樹林であった。チョウセンゴヨウ、クルミ、ハシバミなどの植物質食料の採集が可能であり、シカ類を主とする中・小動物が狩猟対象となったとされている。』・・・・と。

 また、荒屋遺跡の歴史的環境について、報告書は次のように述べている。すなわち、『 荒屋遺跡の所在する川口町には、荒屋遺跡が位置する段丘面より1段低い段丘面の先端部に、縄文時代早期の押型文土器を出土する新敷遺跡がある。新敷遺跡では、旧石器時代の尖頭器や彫刻刀が採集されている。また、信濃川を挟んだ対岸には縄文時代中期の西倉遺跡がある。石錘などを多く出土しており川漁に関連する遺跡であったと考えられている。この遺跡では縄文時代早期を含む晴黄褐色土層より下の黄褐色シルト層から、刃部磨製石斧の調整剥片3点と石核1点が出土した。この層中に、As-Kが含まれる(川口町教育委員会 1988)。また、勾玉などを多く出土しており縄文時代後期から晩期の遺跡としても知られる(川口町史編さん委員会 1986)。
 荒屋遺跡と同時期の遺跡としては、荒屋遺跡の南方約6.5kmの地点に月岡遺跡が所在する(星野 1968、中村・小林 1975、鈴木ほか 1990)。荒屋遺跡と同様に、魚野川左岸の河岸段丘上に立地する。調査は、1968年と1988年に行われた。石器群は、細石刃、細石刃核、彫刻刀、彫刻刀スポールなどによって構成され、荒屋遺跡の出土石器群と酷似する。第1次調査では、約40平方メートルの範囲から約350点の石器が集中して出土した。細石刃63点中、約半数の31点に二次加工が施されており、その多くが背面右側辺の二次加工である。細石刃核や細石刃核スポールの特徴から、湧別技法による細石刃製作が行われたと推定される。また、津南地域では、正面中島遺跡と上原E遺跡が確認されている(佐藤・佐野 2002、佐藤・山本他 2000)。前者は、荒屋遺跡と類似する頁岩製の細石刃石器群であり、荒屋型彫刻刀を伴う。後者では甲板面に擦痕がある黒曜石製細石刃核が出土しており、荒屋遺跡とは異なった特徴をもつ。』・・・・と。これらの記述を見てわかるように、旧石器時代晩期から縄文時代早期にかけて荒屋遺跡を中心に人々の活発な活動があったようである。特に、津南地域は八ヶ岳の人々との交流も盛んであったらしい。御子柴型の石器が菅平(すがだいら)の「唐沢B」で出土しているが、菅平(すがだいら)は水も豊富だし、狩猟採取を専らとする古代人にとって格好の場所であったのではないか。津南地域と菅平地域との往来も盛んであったにちがいない。津南地域から菅平地域に行くには、須坂からから行くルートと秋山郷から草津温泉にぬけるルートが考えられる。

注:秋山郷のリンク先・栄村観光マップから栄村のホームページへのリンクが切れているので、栄村のホームページを見る場合は、栄村観光マップのURLの中のkankomap.htmを削除して、リターンキーを押してください。栄村のホームページhttp://www.vill.sakae.nagano.jp/が現れます。


 報告書では、荒屋型彫刻刀の大陸(中国と韓国、アリューシャン・アラスカ・グリ−ンランド)における分布も掲載さているが、ここではそれを省略して、日本列島とシベリアと沿海州・サハリンにおける荒屋型彫刻刀の分布のみを見ておくことにする。



 第1次発掘の直後に発表した予報(芹沢 1959)の中では、日本列島における荒屋型彫刻刀の分布は北海道に5ヵ所、本州に1ヵ所の計6ヵ所にすぎなかった。しかし44年後の現在では、北海道に51ヵ所(第7.13図)、本州に47ヵ所(第7.14図)、計98ヵ所におよんでいる。とくに北海道に分布の濃密な中心があり、西南日本にはほとんど及んでいないことが明白となっている。

荒屋型彫刻刀の出土地(日本)

a.北海道


第7・13図

1浅茅野 猿払村 2豊別5 稚内市 3モサンル 下川 4日進2 名寄市 5札滑 西興部村 6タチカルシュナイA・C  遠軽町 7ホロカ沢(遠間地点) 白滝村(7〜11は白滝遺跡群) 8服部台2 白滝村 9白滝37 白滝村 10 白滝32 白滝村 11 白滝4 白滝村  12 置戸安住 置戸町 13 増田 置戸町 14 吉田 置戸町 15 緑丘 訓子府町 16 吉井沢B 北見市 17 中本 北見市 18 北進 北見市 19 北上台地 北見市 20 常川 常呂町 21 広郷・広郷8 北見市 22 元町3 美幌町 23 みどり1 美幌町 24 上似平・上似平2 帯広市 25 落合 帯広市 26 空港南B 帯広市 27 空港南A 帯広市 28 大空 帯広市 29 暁 帯広市 30 札内N 幕別町 31 居辺17 上士幌町 32 東麓郷1 富良野市 33 嵐山2  鷹栖町 34 メボシ2 千歳市 35 祝梅三角山上層 千歳市 36 丸子山 千歳市 37 オサツ16 千歳市 38 柏台1 千歳市 39 材木沢 赤井川村 40 曲川 赤井川村 41 都 赤井川村 42 峠下 倶知安町 43 狩太 倶知安町 44 立川 蘭越町 45 オバルベツ 2  長万部町 46 美利河1 今金町 47 神岡2 今金町 48 トワルベツ 八雲町 49 石川1 函館市 50 新道4 木古内町 51 湯の里4 知内町


b.本州


第7・14図

1 大平山元I 青森県   2 隠川(2) 青森県  3 早坂平  岩手県  4米ヶ森 秋田県  5下堤D 秋田県  6狸崎B 秋田県  7宮山坂F 山形県  8八森 山形県  9越中山M・S 山形県 10 角二山  山形県 11 名生館  宮城県 12 学壇  福島県  13 屋敷前 福島県 14 笹山原  福島県 15 小石ヶ浜 福島県 16 鍛冶山  福島県 17 行塚B 新潟県 18 藤平A 新潟県 19 荒屋 新潟県 20 月岡 新潟県 21 上ノ台T 新潟県 22 大刈野  新潟県 23 正面中島  新潟県 24 釜堀川 長野県 25 杉久保C 長野県  26 中ッ原5B 長野県 27 矢出川 長野県 28 那須官街関連 栃木県 29 後野B  茨城県 30 中原 茨城県 31 柏原 茨城県 32 大雄院前 群馬県 33 強戸口峯山 群馬県
34 頭無 群馬県 35 鳥取福蔵寺U 群馬県 36 上原 群馬県 37 落合 群馬県 38 白草 埼玉県 39 草刈六之台 千葉県 40 木戸先 千葉県 41 和良比千葉県 42 木戸場 千葉県 43 高岡大山 千葉県 44 大網山田台No.8 千葉県
45 東峰御幸畑西  千葉県 46 一鍬田甚兵衛山 千葉県 47 恩原2 岡山県


荒屋型彫刻刀の出土地(
シベリアと沿海州・サハリン)






 
さあ、それでは荒屋遺跡第2・3次発掘調査報告書(芹沢長介)に書かれている最終的な総括を紹介しておきたい。この部分はきわめて大事な部分であるので、全文そのまま転記する。

第8章 総括

 荒屋遺跡は、新潟県北魚沼郡川口町西川口荒屋に所在し、信濃川と魚野川の合流点に近い河岸段丘上にある。1958年に芹沢によって第1次調査が行われ、多数の細石刃核、細石刃、彫刻刀、彫刻刀スポールなどが出土し、細石刃石器群の重要な遺跡であることが明らかにされた。さらに、この調査では土壙1基が確認されている。
 1988、89年にこの遺跡における細石刃石器群の内容、技術のあり方、第1次調査で確認されていた遺構と遺跡の性格を解明することを目指し、第2、3次調査が行われた。調査の結果、24基にのぼる多数の遺構が複雑に重複して検出され、そのうち20基が精査された。主な遺構としては、竪穴住居状遺構1基、焼土土壙2基(土壙6、14)、深い掘り込みの長楕円形土壙(土壙01)1基がある。
 竪穴住居状遺構は、中央に長楕円形の炉跡を伴う。この遺構の掘り込みの埋土は焼土、炭化物、多量の遺物を含み、複雑に堆積している。遺構のあり方から竪穴住居の可能性が高いと考えられる。2基の焼土土壙には焼土・炭化物の層と砂・シルト層が互層となって堆積しており、繰り返し火を焚いたことがうかがえる。1958年に発見された土壙(土壙01)は、その全体が精査され、長楕円形の深い掘り方をもつ遺構であることが確認された。これらの遺構は、複雑に重複し、埋土も多数みられることから長期間利用された遺構群と考えられる。
 出土遺物は、包含層、遺構から出土した細石刃5,590点、彫刻刀626点、彫刻刀スポール8,365点、細石刃核11点、剥片・チップ77,362点など、総数92,451点にのぼる。このうち遺構埋土からは、細石刃1,349点、彫刻刀185点、彫刻刀スポール2,249点など豊富な資料が出土している。石器には、主に良質な珪質頁岩が用いられている。定型的な荒屋型彫刻刀が多量に出土し、この遺跡を特徴づけている。また、彫刻刀スポールには、多数の接合資料がみられ、その製作、使用状況が明らかになった。彫刻刀の使用痕観察の結果、骨・角を削る作業と皮をなめす作業が行われていたと推定された。エンドスクレイパーは、皮なめしに使用されたとみられる。多数の細石刃は、この遺跡を特徴づける重要な資料である。使用痕が確認できるものは少ないが、特徴的なリタッチが施されたものが多い。したがって、荒屋遺跡では、細石刃をはめ込む骨角器作りをふくめた活動が盛んに行われたと考えられる。細石刃核が11点、その母型9点、細石刃核製作の際に生じたファーストスポール18点、セカンドスポール9点などが出土しており、この遺跡における細石刃製作工程を詳細に検討でき、湧別技法とホロカ技法が確認された。
 遺構や包含層における石器組成は、細石刃、彫刻刀、彫刻刀スポール、剥片が主体で基本的に変わらない。長楕円形土壙(土壙01)付近では、細石刃が多く、竪穴住居状遺構や焼土土壙(土壙6、14)では彫刻刀スポールの方が多い傾向にあり、遺構の性格との関わりが考えられる。
 遺構から出土した樹種には、カラマツやハンノキなどが含まれ、現在の中部地方高山地帯にみられるような冷涼な環境にあったと推定されている。また、同定された樹種の半数をキハダが占めるのも特徴である。出土した植物種子には食用となるオニグルミが高い割合で確認された。遺構の年代推定のため、火山灰の同定と、遺構出土炭化物のAMS法によるC14年代測定を行った。3a層上部で約13,000年前とされる浅間草津黄色軽石(As-K)が検出されている。また、遺構出土炭化物のC14年代測定の結果、竪穴住居状遺構4g層で13,690±80年BP、焼土土壙14の埋土4p層で14,250±105年BP、土壙6の下層の焼土4a9層で14,150±110年BP、長楕円形土壙の最下層13層で14,100±110BP年といった測定値がえられている。したがって、本遺跡の遺構、遺物の絶対年代は、約14,000年前に属すると推定される。
 包含層から多量に遺物が出土する範囲は、調査区を大きく越えている。こうした多数の遺構と膨大な量の細石刃と彫刻刀などの石器が出土し、豊富な動植物資源が安定して獲得されていることから、荒屋遺跡は、旧石器時代後期終末の細石刃石器群が展開する時期の生活拠点であったといえる。そして、芹沢によって具体的に提示されたように、本遺跡の細石刃にみられる規則的な細かい剥離痕のあり方から、ロシアやデンマークなどの骨角器に嵌めこまれた細石刃との関連がうかがえた。また、本遺跡は荒屋型彫刻刀の
基準遺跡であって、シベリア・中国などのアジア大陸の極東地域、さらにベーリング海をこえてアラスカにまで、広くこの石器が分布することから、旧石器時代終末期における文化の拡散と日本民族の由来を考えるうえで極めて重要な遺跡といえる。