堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡

 

 

 堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡というのは静嘉堂(せいがどう)から北の・・・岡本2丁目から3丁目にかけての一帯をいいます。静嘉堂(せいがどう)は一般にはあまり知られていないかも知れませんが、「知る人ぞ知る」・・・で大変貴重な「場所」です。

 

 静嘉堂(せいがどう)は、今は世田谷区が管理している静嘉堂緑地公園と静嘉堂文庫と静嘉堂美術館の総称です。静嘉堂の名称そのものは岩崎弥之助の堂号ですが、静嘉とは『詩経』にある言葉で、安らかでよい、清らかで美しいという意味。堂とは、本来、特別な意味のある建物とか場所のことをいうが、生前、弥之肋が書斎の呼び名に使っていたという。一般には、静嘉堂(せいがどう)といえば静嘉堂緑地公園のことをいったり静嘉堂文庫のことをいったり或いは静嘉堂美術館のことをいったりしています。私は、それらの総称として呼んでいます。

 谷戸とは丘陵地の谷あいの低地のこと。関東地方、特に多摩丘陵地区(東京都多摩地方、神奈川県東部)の地名に○○谷戸というように用いられることが多いようです。三方を高さ数十メートルの丘陵に囲まれた小川の源流域で、幅は高々数百メートル程度、奥行きはせいぜい数キロであります。森、沼地、水田と数多くの動植物から構成される豊かな生態系を持つが、戦後の大規模な住宅造成により盛土、切土などの地形改変を受け、環境が失われた谷戸も多いのは、やむ得ないとはいうもののまことに残念であります。近年は身近な里山として保存運動も盛んで、恩田の谷戸のファンクラブという団体もできています。堂ヶ谷戸(どうがやと)とは、多分、静嘉堂(せいがどう)のある谷戸という意味で命名されたのでありましょうが、静嘉堂(せいがどう)に想いを馳せると同時に、かっては恩田の谷戸のように、森、沼地、水田と数多くの動植物から構成される豊かな生態系を持つ谷戸であったと想像してもらいたいと思います。古代人のまことに住み良い場所であったのであります。 

 

 静嘉堂のことはいずれ紹介します。今日は堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡に行く際の目印として紹介しています。静嘉堂に行くには、二子玉川のバスターミナルから玉31系統(成育医療センター行き)か玉32系統(世田谷美術館行き)のバスに乗って、静嘉堂文庫でおりればいいのです。タクシーはもちろん便利ですし、静嘉堂美術館の前に駐車場がありますのでマイカーでも行けます。まあ、二子玉川の近くですので、是非、多くの方に行ってもらいたいと思います。

 

 その際、岡本2丁目から3丁目にかけての一帯を散歩していただければなお良いかと思います。堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡の目印は何もありませんが、この付近は、松本記念音楽迎賓館というすばらしい施設があったりして、散歩が実に楽しい「場所」です。ユーミンの家もたしかこの辺にあるのではないかと思います。岡本の民家園や砧公園にある世田谷美術館はすぐ近くです。

 

 では、岡本2丁目から3丁目にかけての一帯を

散歩するとしましょうか。

そうしましょう!そうしましょう!

 

 さて、堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡の「場所」のおおよそが判ったところで、堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡ではどんなものが出土しているのか、そのことの概要説明をしておきましょう。

 

 

 

 上の図をご覧いただきたい。この堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡というのは、全部で7つの文化層(文化層とは人々が生活を繰りひろげた昔の地面のこと)が重なった複合遺跡である。いちばん上の段には第4文化層の石器のみが掲載されているが、この層だけでも大変多くの石器が出土しているのが判る。左はしの地質学的な層位で言えば、第6層に当る。ナイフ型石器、石錐、スクレイパー、磨石などが出土している。特に、黒曜石が石材として多用され、石器総数の95%を占める。次の段が第7層(この複合遺跡では第5文化層)の石器であるが、ナイフ型石器をはじめとしてかなり多くの石器が出土している。しかし、黒曜石はない。次の段が第6文化層であるが、地質的な層位でいえば第9層である。最下段が第7文化層であるが、地質的な層位でいえば第10層である。。第4文化層すなわち第6層では多くの黒曜石が出土し、それより古い層では黒曜石は出土しない。ここに大変化がある。

 

 さて、ここらで地質学的な層位の説明をしておこう。南関東の武蔵野台地には、古富士火山の噴出した火山灰層が厚く堆積し、かつ、住宅開発などの結果であろう、発掘調査例も多い。そこで、南関東の地層分類が、石器の編年研究の全国基準となっている。下の図がそうである。上述の第4文化層というのは、7つの文化層のうち4番目の文化層という意味であるが、地層区分でいえば第6層であり、下の図を見て判るように2万5000年ほど前の地層のことである。石器時代というのは1万2000年ほど前までであり、それ以降は縄文時代になる。石器時代でも後期旧石器時代というのは3万5000年ほど前から1万2000年ほど前までのおおむね2万3000年ほどの間をいうが、その中間ぐらいの時代、今から2万5000年ほど前に黒曜石が使われはじめる。大変化が起こっているのは、時代でいえば2万5000年ほど前の時代、地層でいえば第、層が形成された時代である。旧石器時代の後期のさらに後半期のことだ。それが終わって縄文時代が始まるのである。日本におけるこの大変化の時に、世界の状況はどんな状況であったのか、大変興味のある問題であるが、その辺はおいおいと勉強していこう。

 

 

 

 さて、堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡に話を戻そう。堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡は、下図を見て判るように、武蔵野台地の南はしにある。赤丸印は旧石器時代の遺跡を表わしている。そのもっとも集中しているのが、いわゆる国分寺崖線といわれるところである。その山ぎわには野川が流れ、府中と国分寺に通じている。府中と国分寺は、古代における関東の都であった。海上交通とは、多摩川、そして野川によって繋がっていたのである。現在の多摩川や野川を見てとても想像できないが、当時は、河川は乱流していて、いうなれば淀みや池の連続で、勾配も緩く舟運が盛んであったのである。その野川に支川・谷戸川が流入しており、その流入地点近くに堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡がある。

 

 

 

それでは次に、

私の散歩道でもある・・・・

瀬田の遺跡と等々力根の遺跡を

紹介しようか。

 

そうしよう!そうしよう!