[No5] 

胞衣(えな)信仰

 

精霊の王/中沢新一

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

 

 

 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出し、のこりなくその芸を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったはてに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したのだった。その地で、はじめ秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であることの、まぎれもない証拠であると書いたのである。

 ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろんこれはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、地名や神社の名前として残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグジ」の音で表現されるなにかの霊威をもったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心におこなわれていたことの痕跡をしめしている。

 

 「あこがれの会津」では「火伏せ」について触れておいたが、その「火伏せ」のほか、各地に残る「賽の神」も縄文時代から連綿と続く信仰であり、石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(えな)信仰と同じ系統のものである。それは、近年に至って、いろいろと変型して道祖神や賽の神の誕生に連なっている。それら全体を私は「和のスピリット」と呼びたいのだが、如何なものであろうか。「和のスピリット」の源流に・・・・石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(しんこう)がある。

 

 

 

 

 胞衣(えな)信仰については、先に、「中津川の胞衣(えな)伝説」とタイトルで伏線を張っておいた。 ここではそういう「和のスピリット」がどういう地域に広がっているかを紹介しておきたいのだが、これは次回に回して、とりあえずは中沢新一の「精霊の王」から大事な部分を紹介することにしたい。 

 

 「ここの神社にあるミシャグチは、たとえようもなくすばらしいものです」。友人は、誇りにみちた声でそう言った。そのことばが嘘でないことを、すぐに私も実感することとなる。

 神社の本殿は、どこにでもありそうな造りをしている。ところが重要なのは、本殿に上がる石段の手前に並んでいる摂社のほうなのである。「社宮司(しやぐじ)」と記された祠の扉をおそるおそる開くと、中からはじつにみごとな石棒があらわれた。

 

石棒のまわりには、あたりを流れている時間とはまったく異なる、異様に古い時間の感覚がたちこめていた。そこだけが、数千年前の縄文時代の時間を呼吸しているのだ。石棒にはあまり細工はほどこされていない。ほとんど自然のままで男根の形状をした石が、木の祠の中におさめられているのを見ると、ミシャグチが時間感覚のハイブリッドな共存としてできあがっているのが、よくわかる。

 

 ミシャグチ神が出現するのは、この地帯では水稲耕作のはじまった弥生時代の後半から古墳時代の初期にかけてのことだろうと、推測されている。そのミシャグチ神の神体は、石棒で表現されるのが、いちばん古い形で、それに石皿というこれもやはり縄文時代の生産用具が、いっしょに祀られることもある。またそこに小さな自然石の丸石が添えられることもある。水稲の栽培がはじまり、人々の意識に切断が生じた後になって、意識の断層の向こう側にある縄文時代の心のあり方を代表する石棒や石皿や丸石に霊威を認めて、新しいハイブリッドな信仰の創造としてミシャグチ神の祭祀がはじまった、と考えることができる。

 ミシャグチ神は、ほんらい社殿も拝殿もない神なのである。石棒を祀った小さな祠があって、それを大切に抱きかかえるようにして、檀(まゆみ)や檜や松や桜などの立派な樹木が、石の神を背後から守っている。このような古い形態のミシャグチは、いまでもこのあたりを歩けばいくつか見かけることができるが、立派な建物をもった神社がその場所に建ってしまうと、本殿の脇のほうに摂社としてひっそりと祀られるようになってしまう。しかし、そうなっても、そこに住む人々の意識の中では、脇に寄せられてしまったミシャグチ様こそが、古代的な霊威を湛えた事実の神なのである。

 私はそのミシャグチ様に見とれていたあまり、自分のすぐ近くにとんでもないものがいたことに、長いこと気がつかなかった。石棒のご神体を納めた祠の扉を閉じて、石壇を登ったすぐのところに奉納物を掲げる板を見た私は、思わず「あっ」とのけぞった。なんとそこに「胞衣(えな)」が掛けられていたからだ。

 その奉納板には、氏子の中で最近子供の生まれた家の人が、その報告とお礼のために、扇を奉納物として掛けていた。そしてその扇の柄の部分に、真綿を薄く伸ばして、袋のようなかたちに細工したものが、結びつけられている。そこにいた全員が、それを見て目を見張った。

 「これは……胞衣ですよね」

 「ええ、たぶん」

 「扇と言えば女性器の象徴でしょう。それに結びつけられている真綿の袋と言えば、やっぱり胞衣でしょうなあ」

 「ミシャグチと胞衣ですか。あんまりできすぎた話じゃありませんか」

 「たしかに。本殿の神さまのほうへの奉納ということも考えられますが……でも子供の誕生を報告するこの板は、よりによってミシャグチさまの後ろに立てられていますからね。結びつけたいところです」

 「胞衣」を思わせるこの象徴的な奉納物・・・、まるで私は金春禅竹に操られているような、妙な気分だった。この地方のこのミシャグチ神と金春禅竹の宿神との間には、一見すると大きな隔たりが横たわっているようにも見える。だいいち芸能の徒の宿神には、ミシャグチ神には濃厚な縄文文化との直接のつながりなどを、みいだすことはできないようにも思える。しかし、この二つの神は、太いたしかな通底器でつながっているのだ。しかもその通底器は、「神」をめぐる日本人の思考の、もっとも古い地層に埋設されているために、そこをたどっていくと、私たちは「日本」という同一性も突き抜けていってしまう。

 

 

 それでは、次は、柳田邦男と胞衣(えな)信仰

というテーマで少々書いておきたいと思う。

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