湧別技法の広がり




私は先に、神子柴型石器に関する稲田孝司の考え方を次のように紹介した。

今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから
「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。



御子柴型石器に関する稲田孝司の考えについては、学問的には、まだまだ議論の余地があるようである。私は、稲田孝司の考えに大いなる魅力を感じるが、その点についてはあまり深く突っ込まないで、ここでは、とりあえず、白滝ジオパークとの関連で湧別技法の広がりをどう理解しておけば良いのか、その基礎的な勉強をしておきたい。湧別技法のルーツについては、後日に勉強することとしよう。



これは、シリーズ「遺跡に学ぶ」(新泉社)No25の「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、須藤隆司)による湧別技法の広がりを示した図である。図面の茶色が湧別技法集団の遊動域であり、在地の石槍製作集団との接触が想定される。

この図を見てまず思うのは、
富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏には湧別技法集団が来ていないということである。富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏というのは、縄文時代のひとつの文化圏を言い表わしている名称であるが、これらの地域は、旧石器時代においてももっとも生き生きとした地域であったと思われるので、旧石器時代において富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏という名称を採用してもあながち間違いではあるまい。すなわち、私は、「中ツ原遺跡・5B地点」はまさに富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と湧別技法集団の遊動域の接点であり、そのことを強調したい。「中ツ原遺跡・5B地点」はまさに異文化がぶつかり合ったところである。私のいう「アシンメトリー史観」によればそういうところ文化なり文明が飛躍的に発展するのである。なお、誤解の内容にいっておきたいのだが、武蔵野台地や相模野台地の多くの遺跡に見られるように、湧別技法によって作られた細石刃はもちろん富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏でも一般的に使われている。湧別技法集団は来なかったかも知れないが、湧別技法自体は伝播しているのである。

しかし、埼玉県白草遺跡や千葉県大網山田遺跡、そして岡山県恩原遺跡には、東北地方の珪質頁岩を用いて作った細石刃と荒屋型彫器が出土しているが、これは湧別技法集団が持ち込んだものではないかと須藤隆司は考えているらしい。私もそう思う。

そこで問題だと思うのは、埼玉県白草遺跡や千葉県大網山田遺跡、そして岡山県恩原遺跡に遊動していく道筋のことである。湧別技法集団は、どこを出発し、どこを通って・・・・埼玉県白草遺跡や千葉県大網山田遺跡、そして岡山県恩原遺跡に遊動していったのかということである。そのルートである。埼玉県白草遺跡については八風山遺跡というか佐久平から、秩父、定峰峠を経て行くルートが考えられ、千葉県大網山田遺跡については、新潟県荒屋遺跡から上越国境を越えて赤城山麓に出る。そして岩宿、桐生を経て、渡良瀬川の右岸から鬼怒川の右岸を南下して行くルートが考えられる。岡山県恩原遺跡についてはいろんなルートが考えられ、あまりにも不確かなことが多すぎるので、ここでは触れない。
なお、上記に秩父と書いたが、何せ古代のことだから、秩父のどこを通るかはよくわからない。問題は秩父において荒川本川のどこを徒渉するかである。私の直感では、小海から川上村の大深山遺跡に抜ける。そして、
十文字峠を越えて、栃本まで長尾根を下り、適当なところで荒川の右岸に徒渉したのではないかと思う。長尾根というのは、昔、地元の人からそう聞いたので、今まで私がそう呼んできているのであり、はたしてそれで良いのかどうかいずれ機会を見て確かめるとしよう。私の歩いた実感としては、栃本側からは長々と歩くので、まさに長尾根と呼ぶのがふさわしい。栃本から十文字峠に向かう山旅の紀行文はこのホームページが良い。川上村から十文字峠を越えて栃本に自転車で旅した人がいるのでそのホームページを紹介しておこう。
また、上記に上越国境と書いたが、これが問題で、三国峠(みくにとうげ)を越えたのか野反峠(のそりとうげ)を越えたのか、その辺はさっぱり分からない。私の経験からは、沢歩きは大変難しく、こちらから向こうへは良い尾根筋を定めて、その尾根筋を歩いたのではないかと思う。清津川の沢歩きを書いたホームページがあるので紹介しておく。清津川の場合も、沢歩きはとても難しいものであるということが判るだろう。

さて、私は、かって、次のように書いたことがある。すなわち、

『 会津は、縄文文化の先進地域であったようだが、古墳時代になると、どうも大和朝廷の東北経営の点からも、その前線基地として重要な位置を占めていたらしい。筑波は藤原氏の一大拠点だが、大和朝廷はその筑波から日本海との繋がりを求めて、まずは会津方面に向かったようだ。そして律令時代を通じて会津は政治的にとても重要な位置を占めるようになった。そういう歴史を知っておかないと的外れの旅になるので、まずは会津の歴史をひとくさり……。

会津は東北経営の政治的な拠点であった。まずこれを理解しておかなければ、なぜ徳一が会津にやってきたのかがわからない。徳一は朝廷の、そして藤原氏の意向によって会津に向かったのである。それは会津が東北経営のうえで極めて特異な地域であったからにほかならない。

会津においては、かなり古くから、朝廷の意向にもとづく磐梯山(ばんだいさん)を神とする祭祀(さいし)が行なわれていた。その磐梯山の神が怒った。神との梯(かけはし)である磐梯山が神の怒りによって大噴火を起こした。神は大変な御立腹だ。山が崩れ、川はせき止められて、村々は水の下に沈んだ。

この神の怒りを鎮めることができるのは、徳一しかいないということになった。徳一に法力を念じてもらい、人々の安寧を祈ってもらうしかないと。かくして、徳一は急きょ「いわき」から会津に呼び寄せられたのである。東北の拠点である会津は、その拠点の秩序が保てなくては朝廷としても一大事だ。一刻も早くかの地の安寧を図りたい。それが朝廷の意向であり、とりもなおさず藤原氏の意向でもあった。私はそう思っている。証拠はない。直感みたいなものだが、その背景を述べておきたい。

当時の主たる移動手段は水運である。太平洋は黒潮の流れが激しく、東北経営を考えた場合、鎌倉が最先端の中枢都市であった。軍事拠点は、そののち筑波、いわき、多賀と移っていくが、目的を達するまで、鎌倉が東北経営の中枢拠点であることはずっと変わっていない。

いっぽう日本海側は、冬の荒海はさておき、それ以外のときは穏やかな内海であり、湊となる潟も多い。もともと海上交通に恵まれていて、縄文時代から海上交通は盛んで、とくに出雲と越後(糸魚川)の姫川の結びつきは相当に古い。安曇海人(あずみあま)が姫川を遡って信州の安曇野まで進出していることでもわかる。つまり、太平洋側の朝廷の拠点がまだ鎌倉にとどまって筑波まで進出していない段階で、日本海側においては越後まで及んでいた。

その当時、日本海側と太平洋側との接触は、越後~板東の細いルートがあるくらいのものであった。ほかに人と物資の行き来では、わずかに秩父を中継点にして、荒川~千曲川~信濃川のラインがあったくらいである。

秩父というところは「関東発祥の地」である。
秩父産の板碑が越中の地で見られるし、秩父産の石棺が上総(かずさ)の地でも見られる。秩父盆地には、日本武尊(やまとたける)の伝承がすこぶる多く、ご承知のように、三峯神社は日本武尊との関係が密である。当時はまだ東京湾以北において、日本海に抜けるルートはなかった。それは政治・軍事的にという意味であって、一般の商売人たちが行き来するルートはいろいろとあったことだろう。ただし、関東平野にある三本の鎌倉街道のうちいちばん西側の街道は秩父を通っていることからして、秩父が重要な拠点であったことを物語っている。

また、川の視点から考えたとき、秩父を交流点とした荒川~千曲川~信濃川というラインより北で、ほかにどのような川のラインが考えれられるか? 東北経営のためには、どうしてもそういう川を中心とした軍事ラインを考えねばならない。それには川に沿って内陸に向かう軍事ルートの工作をしなければならない。では、どの経路を辿ればいいか? 東京から新潟に行くのにどう行くか? もちろん歩いてである。まだ街道もない時代、さて、関東~越後ルートはどうとるか?

利根川は荒川と一緒になって東京湾に注いでいたので、利根川を辿って行くなら、やはり千曲川~信濃川のルートとなる。しかしこのルートはもはや大和朝廷の勢力圏内である。まずもって蝦夷(えぞ)との境界付近に軍事ラインを設ける必要がある。それはどこか? とりあえず筑波を押さえなければならない。筑波を支配圏に入れることができれば、あとは鬼怒川を遡って、日光の今市に至り、さらに本川をどんどん北へと遡る。山深い峡谷を辿り、登りつめた峠が山王峠である。これを越えて下れば阿賀野川の上流(荒海川)・・・・その先に会津盆地が広がっている。あとは会津坂下から阿賀野川に沿って下れば日本海の新潟に達する。

この山王峠を越えて会津に入るルートは、会津藩の参勤交代のいわゆる西会津街道であり、江戸から米沢へ行くにもこの街道をたどった。ちなみに『日本奥地紀行』を著したイザベラ・バードもこの街道をてくてくと歩いて米沢に入り、「東洋のアルカディア」であると賞賛している。』・・・と。

要するに、私が今まで言ってきたことの要点は、大和朝廷の東北経営の軍事ラインは鬼怒川と阿賀野川ルートであったのではないかという点と、その当時、日本海側と太平洋側との接触は、越後~板東の細いルートがあるくらいのものであったという点である。物資輸送では、わずかに秩父を中継点にして、荒川~千曲川~信濃川のラインがあったくらいではなかったか。人びとの行き来に限って言えば、越後~板東の細いルートとして、草津温泉や四万温泉から秋山郷に抜けるルートが利用されたのではないかと考えている。


ところで、後期旧石器時代
(通常3万年前から1万年前)から縄文時代に向うその過渡的な時代に湧別技法というものがどのような影響を与えたか? 実は、上述のような湧別技法細石刃および荒屋型石器の直接的あるいは間接的な伝授にとどまらないのである。その延長線状のできごととして画期的な技術革新が起こったのである。そのひとつがあの御子柴型石器の出現だが、このことについてはすでに触れた。ここでは八風山遺跡においてどのようなことが起こったか? 「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、新泉社)で須藤は次のようにいっている。すなわち、

『 関東地方には、細石刃・荒屋型彫器を製作するための良質な珪質頁岩が存在していなかった。そこで、細石刃製作には不向きだが、大型両面調整石槍の製作を可能としたガラス質黒色安山岩に注目したのである。地域の石材環境に適した技術発展に組み替えたのである。後期旧石器時代の終わり、八風山原産地にふたたび製作遺跡が出現した背景がそこにある。』・・・・・と。
この八風山遺跡の事例は、全国的に、在地の石材で御子柴型の大型槍が作られるようになった経緯(いきさつ)を雄弁に物語っているように思われる。湧別技法が契機となって全国的に御子柴型の大型槍が作られるようになったのである。「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)で稲田孝司が述べている内容とほぼ同じように、私も、湧別技法集団は本州の広範囲に渡って植民・遊動領域を拡げ、御子柴文化を生み出すきっかけを作り、そしてその新たな御子柴文化が九州にまで影響を与えたとすれば、湧別技法集団は、ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と並んで、00縄文時代草創期における列島の立派な主人公である。

一般に、細石刃文化といえば、だいたい1万5000年前頃にバイカル湖付近からアムール川沿いに北海道に伝わったものと理解されているかも知れないが、実は、やはりバイカル湖付近から九州に伝わったものもあるのである。それを稲田孝司は、冒頭に述べたように、南西日本細石刃文化と呼んでいる。それらの細石刃は、ナイフ型石器と一緒に出土するので、彼の文章では、「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化」という書き方になっている。北海道の細石刃が荒屋型彫器と一緒に出土するのと同じく、片方が溝を掘る道具であり片方が植え付けられる刃である。多分、ナイフ形石器や荒屋型彫器を用いて木の槍先に溝を掘り、細石刃を植え付けたのであろう。なお、念のため申しておくが、稲田孝司は南西日本細石刃と呼んでいるが、私は、南西日本の場合、細石刃というより細石器と呼んだ方が良いかも知れないと思う。南西日本の場合、湧別技法などの北海道細石刃技術に比べてかなり劣っており、北海道細石刃ほどの鋭さがないからである。ナイフ型石器が高度に発達したのに比べて、南西日本細石刃の技術革新はあまり進んでいない。
なお、「石槍革命・・・八風山遺跡群」(2006年3月、新泉社)で須藤隆司は「ナイフ形石器」を「石刃製石槍」と呼びかえている。それは、刃物でありナイフの形であるが、槍の穂先として使用された可能性が高いからである。
堤隆も須藤と同じ考え方のようでシリーズ「遺跡に学ぶ」(新泉社)No009の「氷河期を生き抜いた狩人・・・矢出川遺跡」(2004年93月、堤隆)の中で次のような図を示している。


なお、安田喜憲は、その著「世界史のなかの縄文文化」(昭和62年10月、有山閣、考古学選書)の中で次のような図を示している。




私の考えでは、日本列島には4万年ほど前から南回りのモンゴリアンやってきていたが、その後、3万年ほど前にはバイカル湖付近から北回りのモンゴリアンがナウマン象やオオツノシカなどを追って九州にやってきた。そして発達したのがナイフ形の「石槍」であった。さらに、その後、2万年ほど前には、いよいよ問題のアムール川沿いに北回りのモンゴリアンが北海道にやってきて、いわゆる湧別技法などによる細石刃が発達し、それが東北地方を中心に大きな影響を与えた。そして生まれたのが細石刃を埋め込んだ「石槍」であった。
その後、在地のナイフ形石槍集団と湧別技法など特別の技術を持った細石刃形石槍集団とのぶつかり合いの中から御子柴型先頭器が誕生し、旧石器時代の末期から縄文時代の草創期にかけて先頭器形の「石槍」が日本列島全域に発達する。すなわち、上に紹介した堤隆の図で言えば、右のナイフ形石器から左の細石刃、そして最終的には先頭器へと発達していった。

今回は、湧別技法など特別の技術を持った細石刃形石槍集団の遊動に焦点を当てて基礎的な勉強をした。細石刃形石槍集団は、多分十文字峠を通って、八ヶ岳の流通センター・野辺山まで来た。私はそのように考えている。



「旧石器社会の構造変動」(安斎正人、2003年10月、同成社)という本は、画期的な本で、旧石器に関心のある人は、私のように素人でも是非読んでほしい本である。しかし、私の感覚とは違う点もないではない。それは、旧石器時代における人の行き来のことで、まあ言えば古代の道のことである。人の移動というものを考えないで旧石器時代の社会構造を云々しても不十分である。上の図は、「旧石器社会の構造変動」(安斎正人、2003年10月、同成社)に掲載されている図であるが、この図でみると野辺山や川上がまったく無視されているので、この図で正しい認識ができるのかどうか、まことにあやしい。野辺山や川上の存在をきっちり認識して初めて旧石器時代の社会構造が判るというものである。