「呪術」の解明に向けて

    ・・・ひっくり返し現象について


2015年3月19日

国土政策研究会

会長 岩井國臣




プラトンは、ご承知のように、霊魂論に基づいて国家論を展開している。私の課題は「平和の原理」を追い求めることだ。 平和の哲学とは?・・・・そして、そういった平和の哲学に則った国土建設とはどんなものなのか?・・・・平和の哲学に則った地域づくりはどう進めていけばいいのか? そして、わが国は平和国家として、今何をやらねばならないのか? そう考えたとき、私は、靖国問題を早急に解決しなければならないということに気がついた。靖国問題が解決しないと戦後は終わらない。そもそも靖国神社は御霊信仰の基づいて建立されたものであるので、靖国問題を解決するためには、御霊信仰の哲学の問題をどうしても解決しなければならない。他にも東条英機の分祀問題や日中戦争の歴史認識にかかかる問題があるが、プラトンの「霊魂論と国家論」を意識すると、御霊信仰の哲学を私なりに考える必要がある。

しかし、その前に「呪術」についてプラトンをはじめいろんな思想家の勉強をして、上述の通り一連の電子書籍ならびに「エロスを語ろう・・・プラトンを越えて!」という論文を書いたのだが、そこには怨霊や霊に関するものが含まれてはいるけれど、その本質的なものへの突っ込みが足らなかった。新たな論文「霊魂の哲学と科学」はその不足部分を補おうとするものであるが、その思索過程で「呪力」の勉強をした。しかし、「呪力」と「呪術」は違う。「呪術」とは、さまざまな物や所作の持つ「呪力」を利用して天の力を発揮せしめる「特別な技術」である。誰でも一般的に行っている「祈り」は、「呪術」と厳密には区別されるべきだが、特別な儀礼や儀式を伴う「祈り」は「呪術」といって良いかもしれない。私たちが一般的に行っている「祈り」は、発揮される天の力は微弱であるが他人に及ぶ場合もある。私はおおよそそのように考えているが、「呪術」の問題については、私の考えをもっとしっかり整理する必要性がある。


「平和の原理」をしっかり認識するためには、「祈り」の他に、「呪術」というものが必要だからである。「呪術」によって・・・、「怨霊」も「御霊(神)」に変身することができる。


日本の国是は、平和国家となることである。だとすれば、靖国神社に祀られた英霊及び怨霊は、神(御霊)に変身しなければならない。靖国神社の英霊及び怨霊が神(御霊)に変身するためには、それなりの儀式が必要である。その儀式は怨霊を御霊化するための呪術に支えられたものであろう。 それには日本におけるあらゆる宗教の参加が必要だが、宗教上の知恵を総動員することができるならば、靖国神社は世界の冠たる御霊神社に生まれ変わって、日本は真に平和国家となるだろう。



「呪術」といっても、私が必要だというのは、「神」との繋がりを持つ「呪術」であって、まあいえば特別な力を持った「祈り」であって、「悪魔」との繋がりを持った「呪術」、つまり「丑の刻参り」のような「呪い」ではない。しかし、世の中には、「丑の刻参り」というものもあるので、それがどんなものか整理をしておきたい。


「丑の刻参り」については、私の書いた次のホームページをとりあえずご覧戴きたい。

www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kibunejin.html

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kanawa.html

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/ujitopo.html


「丑の刻参り(うしのこくまいり)」とは、丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという、日本に古来伝わる呪術の一種。

典型では、嫉妬心にさいなむ女性が、白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿でおこなうものである。連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せると信じられた。ゆかりの場所としては京都府の貴船神社が有名である。

京都府の貴船神社には、貴船明神が降臨した「丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻」に参詣すると、心願成就するという伝承があったので、そこから呪詛場に転じたのだろうと考えられている。

また、今日に伝わる丑の刻参りの原型のひとつが「宇治の橋姫」伝説であるが、ここでも貴船神社がまつわる。橋姫は、妬む相手を取殺すため鬼神となるを願い、その達成の方法として「三十七日間、宇治川に漬かれ」との示現を受けたのがこの神社である。それを記した文献は、鎌倉時代後期に書かれ、裏平家物語として知られる屋代本『平家物語』「剣之巻」であるが、これによれば、橋姫はもとは嵯峨天皇の御世の人だったが、鬼となり、妬む相手の縁者を男女とわず殺してえんえんと生き続け、後世の渡辺綱に一条戻橋ところ、名刀髭切で返り討ちに二の腕を切り落とされ、その腕は安倍晴明に封印されたことになっている。その彼女が宇治川に漬かって行った鬼がわりの儀式は次のようなものである:

「長なる髪をば五つに分け、五つの角にぞ造りける。顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を戴きて、三の足には松を燃し、続松(原文ノママ)を拵へて、両方に火をつけて、口にくはへつつ、夜更け人定まりて後、大和大路へ走り出て……」この「剣の巻」異本ですでに橋姫には「鉄輪(かなわ)」(五徳に同じ)を逆さにかぶり、その三つの足に松明をともすという要素があるが、顔や体を赤色に塗りたくるのであり白装束ではない。室町時代にこれを翻案化した能楽の謡曲「鉄輪」においても、橋姫は赤い衣をつけ、顔に丹を塗るなど赤基調が踏襲され、白装束や藁人形、金槌も用いていはいないが、ただし祓う役目の陰陽師晴明の方は、「茅の人形を人尺に作り、夫婦の名字を内に籠め、(後略)」祈祷をおこなうのである。よって現在の形で丑の刻参りが行われる

ようになったのは、この陰陽道の人形祈祷と丑の刻参りが結びついたためという見解がある。

人形を用いた呪詛自体はかなり古くから行われており、『日本書紀』用明天皇2年(587年)4 月条に、「中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)が家(おのがいえ)に衆(いくさ)を集えて、大連をいたすく。ついに太子彦人皇子の像を作りて、まじな う」と記され、古墳時代から人形を媒体とした呪いがあった。ただし、この時点では、まだ像を刺す行為は確認できない。

考古学資料の遺物として、「奈良国立文化財研究所」所蔵の8世紀の木製人形代(もくせい ひとがたしろ)があり、胸に鉄釘が打ちこまれた状態の物も出土している。木簡を人形に切り取り、墨で顔が描かれている。丑の刻参りと共通する呪殺を目的とした形代だったと考えられている。この遺物からも、人形に釘を打ち込み、人を呪うと言った呪術体系自体は古代(奈良時代)からあった事が分かる。研究者によっては、鉄釘自体が渡来文化であり、こうした呪術体系自体が大陸渡来のものではないかとしている。この他にも類例として、島根県松江市タテチョウ遺跡から出土した木札には、女性が描かれており、服装

から貴人女性と見られるが、3本の木釘が打ちこまれていた。その位置は、両乳房と心臓に当たり、明らかに呪殺目的であった事が分かる。


「丑の刻参り」の痕跡は今でも目にすることができる。ここで、清水寺の地主神社で行なわれていた「丑の刻参り」の話をしておきたい。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jishujin.pdf



「丑の刻参り」の行われている地主神社が存在する清水寺については、「知られざる清水寺」という私の小論文がある。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kiyomizude.pdf



清水寺は、京都最大の魔界「六道の辻」の延長線上にある。だから、清水寺やその地主神社は京都の知られざる魔界だ。


「知られざる清水寺」という私の小論文を詳しくご覧いただければ判るが、小松和彦がその著「京都・魔界案内」(2012年9月、光文社)の中で、清水寺に関連する話として説教節の「しんとく丸」の話があると言っているので、説教節の「しんとく丸」について少々触れておきたいと書き、説教節の「しんとく丸」の四天王寺に捨てられるまでの話を紹介した。。すなわち、


『 河内国の高安(今の大阪府八尾市高安山のふもと)の信吉長者は金持ちで何の不足も

なかったが、前世での悪行の報いで子宝にだけは恵まれなかった。そこで、信吉長者夫婦は京都東山の清水寺に参り、観音に申し子して、子を授かった。生まれた男の子は、「しんとく丸」と名づけられた。しんとく丸は9歳になると、三年の間、信貴(しぎ)の寺に預けられ、学問を学ぶこととなる。信貴の寺で一番の学者となり、河内国高安に戻ってきたしんとく丸は、天王寺の聖霊会(しょうりょうえ。陰暦2月22日、聖徳太子の命日に営まれる法会)で稚児舞を舞うこととなり、その折、客席にいた和泉国近木の庄(こぎのしょう。今の大阪府貝塚市北西部)の蔭山長者の娘・乙姫に一目惚れ。信吉長者の家来の働きで文を取り交わして結婚の約束を取りつける。しんとく丸は大喜びだったが、そんなとき、しんとく丸の母が亡くなってしまう。しんとく丸は持仏堂にこもり、母の菩提を弔う。信吉長者はまもなく新しい奥方を迎え、新しい奥方はじきに男の子をもうけた。新しい奥方は、しんとく丸がいるために我が子を信吉長者の跡継ぎにできないのが口惜しく、都に赴き、都中の寺社を駆け巡り、呪いの釘を打ち込んで、しんとく丸に呪いをかけた。

 しんとく丸は継母の呪いのために目が潰れ、ライ病となり、天王寺に捨てられる。』

・・・というものだ。



ここで小松和彦が注目するのは、しんとく丸の継母(ままはは)が最初に呪いの釘を打ち込むのが清水寺であるということだ。小松和彦は、説教節「しんとく丸」のその場面を小松和彦は、次のように紹介している。すなわち、


『 清水坂の鍛冶屋に宿を取った継母は、沢山の六寸釘を作らせ、その釘を観音の前に立

つ木に、縁日にちなんで18本も打ち込んでしんとく丸を呪ったのである。』・・・と。



説教節「しんとく丸」では、その継母は祇園神社、御霊神社、今宮神社、北野神社、東寺の夜叉神堂(やしゃじんどう)などにも駆け巡って呪いの釘を打ち込んでいるので、説教節が語られた鎌倉時代から室町時代にかけては、清水寺だけでなく、ひろく「丑の刻参り」が行なわれていたようだが、やはり清水寺が歴史的にも古く、有名だったようだ。清水寺にも「夜叉神堂」があるが、小松和彦はこれも「丑の刻参り」のためのものであると、「京都・魔界案内」の中で言っている。しかし、その実体を明らかにする資料はないので、清水寺における「丑の刻参り」についての説明は、清水寺・地主神社のものにとど

めておきたい。


説教節「しんとく丸」は四天王寺に伝わる「俊徳丸伝説」が元になっているが、四天王寺の俊徳丸については中沢新一がその著「大阪アースダイバー」(2012年10月、講談社)で哲学的な取り上げ方をしている。四天王寺の聖徳太子の思想をアポロンの軸、俊徳丸の思想をディオニュソスの軸と言い、それらの軸が四天王寺で垂直に交わっているなどと大変難しいけれど極めて大事なことを言っているので、私としては、いずれ機会を見てその解説をしたいと考えた。そこで、「知られざる清水寺」という私の論文では、中沢新一がその著「大阪アースダイバー」で取り上げた「四天王寺の俊徳丸」の解説について乞うご期待!」と書いた。

したがって、以下において、怨霊や御霊信仰とは少し離れるけれど、「四天王寺の俊徳丸」についての私の小論文を紹介しておきたい。その後、いよいよ「呪術」の問題と「御霊信仰」の問題に入っていきたいと思う。乞うご期待!


「知られざる四天王寺」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf


折口信夫の小説「身毒丸」:http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/setumidoku.pdf




清水寺は「知られざる魔界」である。しかし、京都でよく知られた歴史的に有名な魔界といえば堀川通中立売りを少し上がったところの「戻り橋」であろう。また、歴史的に妖怪が徘徊していてそれを地域おこしに生かしているところが「戻り橋」をずっと西に行った北野神社付近の一条通り商店街であろう。この商店街には、京都の裏鬼門・大将軍八神社があるが、平安時代、その地が魔界であったが故にそういう神社が建立されたし、また妖怪が徘徊していたのではなかろうか。

それらの魔界を探訪することに寄って、怨霊鎮めの歴史が相当古いことが見えてくる筈だ。怨霊鎮めと言えば、誰よりも空海の呪術「御霊会」を思い浮かべるかも知れないが、怨霊鎮めは、密教が空海によって広まる以前に、陰陽道によって行われてきたのである。それが空海が神泉苑で行った「御霊会」の時から急速に影を潜める。空海によって、陰陽道より密教の方が怨霊鎮めの呪術が強力であることが天下に示されたからだ。こういう事情だから、京都の魔界探訪は、怨霊鎮めの歴史を知る上で欠かすことのできないものだ。


では、一般的によく知られた「京都の魔界探訪」に出かけよう。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/modoriba.pdf


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/saipaini.pdf


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rokudouno.pdf





清水寺や地主神社、戻り橋、大将軍八神社もさることながら、京都最大の魔界は、やはり「六道の辻」である。上記の私の小論文「魔界京都・・・六道の辻あたり」において、次のように述べた。すなわち、


『 魔界とは、私の定義によれば、気味の悪い霊、怨霊、妖怪、鬼、天狗などの出没する場所又はそれらに出会うための場所や通路のことである。さらに、あの世など異界への出入り口も、広義の意味では魔界と言っても良いかもしれない。魔界というものを理解する上で大事なのは、両頭切断して絶対的認識に立つ時、ひっくり返し現象が起こるということである。その典型が怨霊の御霊へのひっくり返し現象である。魔界に神社や寺院が建てられ、大宮司や大和尚を始原として、多くの人の祈りが捧げられていくと、魔界は聖地になり得る。魔界というものは、ほとんどのところがそういう両義性を持っている。魔界でありかつ聖地であるし、魔界でもなく聖地でもない。戻り橋や鞍馬や伏見稲荷もそうだが、六道の辻もそうであり、特に、六道の辻の場合は、「まじない文化」と並んでもっとも典型的な日本文化である「えびっさん」があって、「 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」という祈りが、「わはっはは、 わはっはは」という福の神信仰にひっくり返っている。そういう両義性を持っている「六道の辻」はまさに典型的な「知のトポス」である。』・・・と。


この「怨霊の御霊へのひっくり返し現象」というものを深く知る上で、「六道の辻」にある京都えびす神社(えびっさん)のそもそもの起源をこの際紹介しておきたい。私の力作である。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakennin.pdf







法華経の持つ重要な側面


2015年3月19日

国土政策研究会

会長 岩井國臣



「ユウレイ」は、「つきもの」と違って「世の中の人びと」がそれを見るのである。「つきもの」は、前章で説明したように、「アイデンティティーネットワーク」が病気又はひどい生活環境などによって、部分的にしろ完璧に破壊されたときに、「つきもの」に付かれたような状態に陥る現象である。私たちは、やはり、健康を保って精神的にも充実した生活を送っておれば「つきもの」に付かれたような状態に陥るようなことはない。しかし、人を殺し、そのことで精神がおかしくなって、殺した相手が「ゆうれい」として出て来るということはある。その「ゆうれい」は「世の中の人びと」が見えるというものでは

ない。したがって、これは「つきもの」と言うべきであって、「ユウレイ」ではない。私としては、「ユウレイ」と「ゆうれい」とは区別したい。今問題にしたいのは「ユウレイ」である。「ユウレイ」は存在するか? 私はまた、「幽霊」を、「霊魂」として「ユウレイ」と区別しており、のちほど章をあらためて「霊魂」のことは詳しく論ずるが、「霊魂」は存在する。しかし、「ユウレイ」は存在するのか? 「芸術的妖怪」にすぎないのではないか? 私は、『「ユウレイ」は誰かがかってに作り出した「芸術妖怪」ではなく実際に存在する。』という立場だが、一般的には、「ユウレイ」なんていろいろと興味はあるけれど、腹の中では、「そんなものいる訳が無い」と考えている人がほとんどだろう。

たしかに、「ユウレイ」の実在を証明する科学的根拠はない。医学的には、脳に傷害・疾患を患った患者の症例報告や、脳手術を行った患者の観察記録などの研究から、ある人が「ユウレイ」を見るというのは、人間の意識・感情・記憶にかかわる脳の機能・構造によるものとみなされている。これに対し、「幽体離脱体験や臨死体験で天井からの視点を証言した例」「前世の記憶を語る人物」「心臓移植後に移植元の人物の人格を一部引き継いだ例」などの反論となる報告も散見されるものの、科学的な証拠というものではさらさらない。

では、私はなぜ「ユウレイ」が実際に存在すると思うのか? もちろん科学的な証明はできないけれど、 私の論文「霊魂の哲学と科学」を最後まで読んでいただければ、私の考えをご理解いただけるものと思う。その核心部分は「法華経の霊性」にある。「法華経の霊性」という小論文は、「超訳 法華経」<中村圭志、中央公論新社、2014年3月> も参考にしながら、私の思うところを書いたものである。 ここでは、 その中から2つの大事な点を申し上げておきたい。



ひとつは、「生き物の円錐宇宙」のことである。「生き物の円錐宇宙」という法華経の世界観については下の画像の左の絵をご覧戴き、是非、皆さん方のイメージを作ってください。円錐の裾野には私たち普通の人間も含めて生き物たちがいる。これらはすべて、この円錐の中に入りさえすれば、菩薩曲線に乗っかって上昇し、最終的にはボサツになれる。すなわち、成仏できるのである。この法華経の世界観は天台宗の「草木国土悉皆成仏」という天台本覚思想に生きている。このことは誠に重要なことなので、是非、覚えておいてください。梅原猛のいう「人類哲学」、つまり法華経の哲学は、これから人類に課せられた誠に重要な課題であると言えるだろう。



 あとひとつは、「あの世」のことである。実は、最新の科学では、宇宙は「波動に海」であり、波動の状態で「あの世」は存在すると考えられている。「あの世」という言葉ではなく「平行世界」といっているが、「平行世界」は法華経の中でも出て来る。中村圭志の超訳によると、釈迦は、法華経で、「大宇宙にはさまざまな平行世界がある。あなたがたまたま住んでいるこの銀河宇宙を含む世界は、娑婆(しゃば)世界だ。この世界のブツダが私である。極楽世界も平行世界の一つだが、その世界のブツダは阿弥陀(あみだ)である。」と説教している。


それでは、最新の科学ではこの「平行世界」についてどのようなところまで判ってきたのか、その話をしておきたい。神は存在する。現在のもっとも偉大な科学者ホーキングは、神は存在すると考えているし、「神のみ心」を科学的に解き明かすことに最大の関心を持っているようだ。

ホーキングが「神のみ心」を科学的に解き明かすことができるかどうかはまだ判らないが、神から選ばれたような偉大な哲学者には「神のみ心」を哲学的に推し量ることができたのではないか。その点では哲学が科学に先行しているように思われる。神から選ばれたような大哲学者は、宇宙の原理について必死になって考えた。したがって、世界の大哲学者、プラトンとかニーチェとかホワイトヘッドなどの哲学によって、ある程度「神のみ心」を伺い知ることができる。現在、科学は急速に進歩している。新しい知見がどんどん出てきているのだ。したがって、それら新しい知見を踏まえて、新たな哲学を構築しなければならない。梅原猛の提唱する人類哲学はその一つであろうが、新たな哲学というものは、もちろん宇宙の原理、自然の原理に合致するものであり、「神のみ

心」を明らかにする宗教哲学に他ならない。神から選ばれた特別の人、その中には大哲学者のほかにキリストや釈迦や老子などの偉大な宗教家がいる。そういう偉大な宗教家は神の啓示を受け、「神のみ心」にしたがって人の生きる道を説いた。私はそういう偉大な宗教家の教えは「神のみ心」に合致していると

考えるので、偉大な宗教家の教えに関する宗教哲学を語る必要があるという訳だ。神は、私たち人間や動物だけでなく、草木国土などすべてのものをお造りになった。宇宙もだ。


宇宙におけるすべての現象が波動現象。宇宙は「波動の海」 である。それに関する最新の科学が「弦理論」であり、それを一般向けに解説したのが「ミチオ・カク」の著書「超空間」(1994年12月、翔泳社)である。ミチオ・カク(加來道雄、1947年生まれ)は日系アメリカ人(3世)の理論物理学者で、専門は素粒子論。弦理論に大きな貢献があり、いわゆる弦の場の理論の創始者の一人。科学の普及活動に熱心で多くの著書を出版、ベストセラーも複数ある。科学解説者としてTVなどでも活躍している。

宇宙について、「ミチオ・カク」は、著書「超空間」では次のように述べている。すなわち、


『 現在の弦理論の興隆は、カリフォルニア工科大学のジョン・シュワーツと、ロンドンのクイーンメリー大学のマイケル・グリーンの共同研究に始まった。1984年、この二人の物理学者が弦について全く矛盾のない条件が成立することを証明したのである。これが発端になり、若手の物理学者たちが先を争って弦理論に取り組み始めた。1980年代後半には、まさに「ゴールドラッシュ」と呼べるような競争が物理学者たちの間で始まっていた。現在では、世界でももっとも優秀な理論物理学者たちがこの理論に決着をつけようと躍起になっており、競争は実に熾烈な状況になっている。』


『 弦理論の本質、それはこの理論が物質と時空の両方の性質を説明できるという点にある。弦理論は、これまでの物理学者を悩ませてきた粒子についての難問二大して明確な解答を与えてくれる。例えば、何故自然界にこんなに多種多様な粒子が存在するのか、といった問題だ。弦は、陽子の1000億×10億分の一という恐ろしく小さなものなのだが、振動している。この振動のそれぞれのモードが、特異的な共鳴つまり粒子に対応しているという。この弦は非常に小さなものであるため、ごく近くで拡大してみない限り、それが弦の共鳴なのか粒子なのかをはっきり判別することができない。何らかの方法で拡大して観察することができれば、粒子が点ではなく、振動する弦のモードであることが判るはずだ。こう考えると、一定の周波数で振動する共鳴の数だけ粒子が存在するということになる。共鳴という現象そのものは日常生活でもなじみの深いものだ。』


『 バイオリンの弦はさまざまな周波数で振動する。弦は無限に異なる周波数で振動させることができる。バイオリンの弦がどのように振動するのかさえわかれば、無限にある音色の性質は即座に理解できる。これと全く同じで、宇宙に存在する粒子も、それ自体基本的な要素ではない。つまり、電子がニュートリノより基本的であるということはない。粒子が基本的に見えるとすれば、それは我々の装置の倍率がまだ十分ではなく、粒子の構造を明らかにできないためである。弦理論によると、素粒子を何らかの方法で十分に拡大して観察することができれば、振動する小さな弦が見えるという。この理論に従えば、物質とは小さな弦が織りなすハーモニーにすぎない。バイオリンで演奏する無数のハーモニーを作曲することができるように、多数の粒子の存在を説明することができる。宇宙全体は、無数の振動する弦で組み立てられた壮大な交響曲にたとえることができるだろう。』


『 我々は、物質エネルギーと時空の両方を包括することのできる統合的な理論、弦理論をついに手にしたのである。弦が矛盾なく運動できるための条件は、驚くほど厳しい。例えば、この条件によって三次元や四次元の空間を運動できない。弦は特定の次元でしか運動できないのだ。実際、弦理論で許される「魔法の数字」は10次元と26次元だけである。幸い、この二つの次元で定義された弦理論には、自然界に存在する基本的な力を統一するだけの「余裕」がある。』


『 弦理論には、自然の基本法則をすべて説明できるだけの十分な奥行きがある。弦理論の出発点は振動する弦というごく単純な理論なのだが、この中からアインシュタインの理論、カルツアークライン理論、超重力理論、標準理論、大統一理論まで、あらゆる理論を導き出すことができるのだ。弦という純粋に幾何学的な概念から出発して、過去2000年間にわたる物理学の進歩を一望できるというのは、まさに奇跡としか思えない。』


『 1863年、生物学者のトーマス・H・ハクスレーは、「人類にとって最大の問題。すなわち、あらゆる問題の背後にあり、しかもどんな問題よりもはるかに興味深い問題とは、自然における人間の位置と、人間と宇宙との関係を解き明かすことである」と語っている。宇宙論研究者スティーブン・ホーキングは、今世紀中に統一の問題は解決されるだろうと語っている。また、ホーキングは、物理学の根底にある本質的な原理をできる限り多くの人々に説明することの必要性について次のように書いている。「我々が完璧な理論を発見しようとするのなら、それはごくわずかの科学者だけでなく、原理的には誰にでも

理解できるものでなければならない。そうすれば、哲学者であろうと、科学者であろうと、あるいは一般の人々であろうと、だれもが、<我々と宇宙がなぜ存在するのか>という議論に参加できるようになるはずだ。そして、もしこの問題に対する解答が得られれば、それは人間の理性の究極的な勝利と呼ぶべきものになるだろう。このとき我々は、<神のみ心>を知ることになるのである。』・・・と。



上述のように、弦理論によると、弦は10次元と26次元の空間でしか運動できない。ご承知のように、私たちの地球を含む宇宙には四つの力が存在する。電磁力というは、私たちにお馴染みのもので、電気、磁気、光といった形態をとる力である。強い力というのは、恒星を輝かせるエネルギーを供給している力である。弱い力というのは、ある種の放射性崩壊を引き起こす力である。そして、重力とは、これまたお馴染みのもので、地球や惑星の軌道を一定に保ったり、無数の恒星から渦巻銀河をつくったりする力でもある。弦理論によると、これらの四つの力は、10次元と26次元の空間に弦の振動という形で存在している。つまり波動的に10次元と26次元の空間に存在している。ということは、私たちの地球とすべてが10次元と26次元の空間に存在しているということを意味している。宇宙には無数の平行世界があるというのがホーキングの見解だが、意味のある平行世界は、弦理論によれば10次元と26次元の空間だけであるので、私は、10次元と26次元の空間だけを平行世界と呼びたいと思う。平行世界にはこの地球上のすべてが波動的に存在しているのである。


弦理論によって宇宙の原理、自然の原理を解明する糸口が得られたことは現代科学の大勝利であるが、まだまだ判らないことが多すぎる。「ユウレイ」の科学的解明はまだまだ先のようだ。しかし、弦理論によって宇宙の原理、自然の原理を解明する糸口が得られたことは、「ユウレイ」の科学的解明がいずれ将来になされるであろうことを感じさせてくれる。


私は、老子の語る「宇宙の原理」および 弦理論によって明らかになった「宇宙の原理」を考えながら、「ユウレイ」は存在すると感じている。







尊厳を生きる

2015年3月19日

国土政策研究会

会長 岩井國臣




私はここのところ、「権威と服従の問題」というテーマで、一連のブログを書いてきた。オオカミのごとく「尊厳」を生きることの重要性を訴えたつもりである。思いもよらずこれが正義論と繋がっていることが判った。第一回目から第六回目までの文章に題を付けて、今ここに改めて紹介しておく。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kenhuku.html


また私は、ジョン・グレイの「暫定協定自由主義」を「究極の自由主義と呼び、その考え方を勉強してきて、「私たちの感性でジョン・グレイの政治哲学を呑み込もう!」と主張した。ジョン・グレイの「自由主義」はロールズの「自由主義」を越えている。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyongu00.html


さらに、私はかなり前になるが、地域コミュニティの元気再生が日本の最重要課題の一つとの観点から、私なりの「地域コミュニティ論」を書いたことがある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/6jisanti.html


それを見ていただければ判るように、私は、「コミュニタリアン」である。マイケル・サンデルも「コミュニタリアン」であるが、ロールズの正義論を越えているのか越えていないのか? ところで、ジョン・ロールズの「自由主義」については、ジョン・グレイが批判するように欠陥があるが、ジョン・グレイは価値多元主義の立場からの批判であるので、それが直ちに「正義論」と繋がる訳ではない。「正義論」との繋がりをもってジョン・ロールズの「自由主義」を修正するには、「コミュニタリズム」とどう整合をとるか?マイケル・サンデルのやや欠けている部分をどう埋めるか? そこが大問題なのである。今ここで、私の考えを述べてみたいと思う次第である。戦争は、できるだけ避けた方がいい。主義の違いで戦争をしたり、覇権主義にもとづいて戦争をするのは絶対に止めるべきである。日本は憲法第9条第1項を堅持すべきであるし、戦争になる前に話し合いに全力を傾けるべきである。しかし、相手からしかけられた

時には、敢然と戦って相手に勝たねばならない。国家は、国民の生命と財産、そして国民の自由を守るために戦争に負けるわけにはいかない。どんな手段を使ってでも相手を打ち負かさなければならない。


私は、前に、「オオカミはもの凄い攻撃力を発揮しますが、相手が敵愾心を持って闘争を仕掛けてきた時にほぼ限るようです。すなわち、オオカミは、自分に敵愾心のない或は弱い動物に対しては、優しい心を持ちながら接するのだそうです。ここが肝心のところです。」と述べたが、

http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-db66.html


「尊厳」を生きることの重要性を主張する私の立場からすると、人も国もオオカミのごとく生きなければならない。オオカミに学ばねばならない。


ジョン・ロールズの「格差原理」は、社会に不平等があってもいいが、その大前提として、もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする社会システムがなければならない・・・というものだが、この原理は妥当なものだと思う。

ウィキペディア等の教科書的な説明によると、彼は、正義の根拠を、社会契約説に立脚しながら、合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる時に契約(合意)するであろう内容に求めた。この原初状態とは、社会の人々が彼のいう「無知のベール」に覆われた状態・・・すなわち自分と他者の能力や地位に関する情報は全く持っていない状態である。このような状態で人々は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく契約内容を合理的に選択するであろうと考えられ、おおむね同じ結論になると思われる。そして人々は、自分がもっとも不遇な立場になることを嫌うはずであり、その結果、もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする社会システムがなければならない・・・という社会契約が成立するであろう・・・という訳だ。すなわち、ジョン・ロールズの「格差原理」は、社会契約説に立脚し、「無知のベール」というものを想定するところに一大特徴があるが、これらに特に問題はないと思う。「格差原理」は素晴らしい。しかし、「格差原理」は「人間が合理的な動物」であろうとなかろうと導ける結論で、「格差原理」だけな

らそういう前提をおかなくてもいいのではないか。

マイケル・サンデルを筆頭とするコミュニタリアンがロールズの「自由主義」に批判的であるのは、より根源的な存在論レベルにおいてであるが、私も存在論レベルにおいてより根源的な問題提起をしているのである。それが私の「感性哲学」である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kansei00.html


すべての動物は、もちろん人間も含めて、合理的な生き方をするところに生きる意義があるのではなく、生きること自体に生きる意義がある。生きるということは、仲間を大事にし、 自分に敵対しない他者、自分にすり寄る他者、 弱い他者に優しくすることである。これぐらいなら誰でもできるだろう。合理的に生きるなんてどだい難しい話だ。問題は、戦争に関する認識だ。ロールズは、戦争に関するいくつかの原理を導いて、地獄のような戦争を一刻でも早く終わらせるためならどんな手段でも選んでもよいとする考えに反対し、広島への原爆投下を厳しく批判した。「人間を合理的な動物」と考えるからこそ、そういう結論になるのであって、そもそも人間をどう認識するかが大問題である。人間は合理と非合理の間、つまり矛盾システムを生きており、合理的な社会を前提におくことに無理がある。

「人間を合理的な動物」と考えるのは間違いだと思う。新進気鋭の哲学者・マーク・ローランズもそう言っている(哲学者とオオカミ、2010年4月、白水社)が、私も、多くの人々は合理的な思考ができないと考えている。人々ができるのは、仲間を意識することぐらいのものだけだ。もちろん、 自分に敵対しない他者、自分にすり寄る他者、弱い他者に対する憐憫の情はある。しかし、中心は仲間意識である。


原爆投下の問題に関して、マイケル・サンデルも明確な答えはもっていない。当然だろう。コミュニタリアンとしては、原爆投下やむなしの結論しかでないだろうし、かといって、ロールズの「自由主義」に批判的である以上、ロールズの考えに従う訳にもいかない。この点、 マイケル・サンデルはどう考えているのだろうか? 是非、教えてもらいたいと思うが、 とりあえず私としては、「人間を合理的な動物」とするロールズの考えが間違いだと言っておきたい。

私は、上述のごとく感性というものを重視し、自分なりの「感性哲学」を考えてきた。私は、河合隼雄の「アイデンティティネットワーク」のことを「個別潜在的自己」と呼んでいるが、「個別潜在的自己」を大別すれば、原人類的に先天的なもの(原初的)と人類的に先天的なもの(文化的)、それに後天的なもの(学習や修行によって得られる文化的なものほか「三つ子の魂」を含む)の三つに分類するのが良い。原初的な状態とは遺伝子の

支配する世界、つまり感性だけが働く世界であって、文化的はものはないのである。


「人間を合理的な動物」だという大前提をかなぐり捨て、感性を大事にする社会を目指すとなれば、戦争に関するロールズのような考えには論理的にならない。再度申し上げる。戦争は、できるだけ避けた方がいい。主義の違いで戦争をしたり、覇権主義にもとづいて戦争をするのは絶対に止めるべきである。日本は憲法第9条第1項を堅持すべきであるし、戦争になる前に話し合いに全力を傾けるべきである。しかし、相手からしかけられた時には、敢然と戦って相手に勝たねばならない。国家は、国民の生命と財産、そして国民の自由を守るために戦争に負けるわけにはいかない。どんな手段を使ってでも相手を打ち

負かさなければならない。しかし、そういう国家の正義の原点に、私は、コミュニティがあると思う。個人の魂に正義がない限り国家の正義は保てないし、同様に、さまざまなコミュニティの正義がない限り、国家の正義は保てない。国家もひとつの集団だが、コミュニティも集団である。集団における正義というのは、個人における正義とは異なっている部分があり、国家の正義を語るには、コミュニティの正義を語らないと、いきなり個人の正義を語っていたのでは、国家の正義で私がもっとも大事だと考えている正義の部分が抜け落ちてしまう。かかる観点から、以下において、コミュニティというものの特質をまず明らかにしておきたい。



以上






前回までのWhat’sNew!

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/index01.html




なお、一連の電子書籍を出版した2012年以前のWhat’sNewは、


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huruiWN.html


です。