阿知王と医心方

2015年3月23日

国土政策研究会

会長 岩井國臣


これから長期的に見て、世界平和のため日本がやるべきもっとも基本的なことは、日米同盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図ることである。

日本は、古来、中国の伝来文化によって自国の文化を作ってきた。もちろん、わが国には、中国から新しい文化が伝来するはるかに前から、世界に誇るべき優れた技術を持っていたのであって、中国に迎合する必要はさらさらない。しかし、21世紀において、中国がアメリカと並んで世界の強国になるのは間違いないし、だからこそ、中国という国の真の姿を知った上で、言うべきはきっちり言いながら、中国の発展のために大いに力を貸すべきである。私は、真の日中友好親善を望んでいる。そのような観点から、中国のことをいろいろと書いてきている。

その中から、「阿知王と医心方」のことを少し話しておきたい。


「日本書紀」には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖・阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。

また、『続日本紀』によれば、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと伝わっている。阿知王は、東漢(やまとあや)氏の祖であるが、『続日本紀』には、東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたことが書かれている。


阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞれの時代に大きな働きをした。その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出回っている系図によると、坂上田村麻呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(たんば の やすより)である。

阿知王は、「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80冊とともに、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国などを経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。当初、その「中国の医学書80冊」は明日香にあったに違いない。

阿知王の子孫である丹波康頼(たんば の やすより)は、本来坂上氏(坂上田村麻呂の一族)であるが、永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より「丹波宿禰」姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となったのである。


丹波康頼(たんば の やすより) により朝廷に献上された医心方は、当初宮中に納められていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家(和気氏の子孫)に下賜された。また丹波家においても医心方は秘蔵されていたとされるが、これは、少なくとも丹波氏の末裔である多紀家(半井(なからい)家と並ぶ江戸幕府の最高医官)において幕末までに多くが失われていたとされ、多紀元堅が復元し刷らせている。幕末に、江戸幕府が多紀に校勘させた「医心方」の元本には、半井家に伝わっていたものが使用された。この半井本は、1982年同家より文化庁に買い上げがあり、1984年国宝となっている。現在は東京国立博物館が所蔵している。

私は既に、明日香における中国伝来文化については書いているので、明日香と医心方について書くとともに、奇跡の書と言われる医心方そのものについても、総括的にまとめることとした。それが次の論文である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/isinpou.pdf



中国の伝来文化

2015年3月23日

国土政策研究会

会長 岩井國臣



中国から日本に伝わってきた文化は、底知れぬ深さを持っている。その中には、インドの文化が中国を経てやってきたものも多い。それも含めて中国文化とすれば、日本の文化はほとんどが中国文化といっても決して言い過ぎではなかろう。例えば、日本には、福の神として「七福神(ひちふくじん)」が庶民に広く親しまれているが、その内日本古来の神は「恵比寿さん」だけで、ほかは全部中国からやってきた。純粋の中国の神、それは道教の神でもあるのだが、それらは「福禄寿」「寿老人」「布袋さん」である。「大黒天」「毘沙門天」「弁天さん」は、その源流をインドとするが、私は、それらも中国経由で日本にやって来たと考えている。


私は、以前に「弁天さん」について調べたことがあるので、その一端を紹介しておこう。


日本の三大弁財天は、やはり江ノ島と厳島と竹生島(琵琶湖にある島)の弁財天というのが正当であろう。この中で竹生島の弁財天がいちばん古い。竹生島の弁財天というのは、もともとインドはシバ教の神である。それがどのような経路で竹生島までやってきたのか? 糸魚川の翡翠が朝鮮半島から出土することから、日本海と朝鮮半島の間に翡翠の道があったことは間違いない。シバ教の女神「サラスヴァティー」が天竺から中国に、そして、翡翠の道を通って丹後の冠島(かんむりじま)に降臨した。そして、それが海人族の神となったのである。現在の竹生島の弁財天は、宗像の神「市杵島姫命(いちきしまひめ)」と習合してが誕生したものであるが、実は、それ以前に、竹生島で弁財天が祀られるようになっていた。したがって、他の弁財天と区別して、竹生島では大弁財天という。しかし、日本の中に弁天さんの故郷を探すとすれば、それは丹後の冠島である。その冠島の弁天さんが、丹後の海人族に連れられて竹生島にやって来たのである。


それでは、中国伝来文化が非常に古いということを知ってもらうために、丹後の文化のことに触れておきたい。


ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今では国の重要文化財になっている。奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高いことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・ 鉄剣15・鉄鏃など当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流する強大な力を持った集団が存在していたのである。

丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの拠点となっていたのではないかと考えられている。ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は、「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の大和では13点にしかならない。丹後の古代製鉄は大規模で、一貫生産体制のコンビナートであった。京都府立大学の門脇禎二教授は、遠所遺跡から製鉄遺構だけでなく、鍛冶遺跡も発掘された事をとらえて、ここを奈良時代の一大製鉄コンビナートともいうべき、驚くべき遺構だと位置づけている。その製鉄の原料となった砂鉄がどこから来たか、製品はどこへ運ばれたかについては依然謎のままだが、少なくともその製鉄技術は、中国の技術であったことは間違いない。

邪馬台国の時代(魏の時代)から国としての交流が盛んになり、さまざまな文化が日本に入って来るが、古代における中国伝来文化について書いた私の小論文があるのでそれをここに紹介しておきたい。「道教に思いを馳せて」という小論文である。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/douomoi.pdf



孫文について

2015年3月23日

国土政策研究会

会長 岩井國臣


孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の「中山」という名字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている。 孫文が日比谷公園の界隈にある邸宅の「中山」という表札に重大な関心を持ったのは、表札の字が立派な字であったということだけではないだろう。孫文は、日本の明治維新を理想としていた。そして、ご承知のように、明治政府は明治天皇の下、日本国の近代化を進め、軍事力も日露戦争に輝かしい勝利と治めるまでになっていった。その明治天皇を産んだご生母が中山忠能の娘中山慶子(よしこ)である。私は、孫文は「中山」という表札を見て、明治維新、明治天皇を連想し、「中山」を号するようになったのではないかと思う。日比谷公園の界隈にある「中山」の邸宅は別邸であって、本宅は京都御所の一角にある。そしてそこで明治天皇はお生まれになるのである。中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。

清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。1902年、日本人の大月薫と駆け落ちに近い形で結婚した。1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。

昭和7年(1932年)5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それからは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。ところで、八年間の憲政常道時代の最初の政府は三派連合(政友、民政、革新)内閣で、民政党の加藤高明が首相であった。その加藤首相が昭和二年一月病死した為めに若槻禮次郎が内閣総理になった。これが第一次若槻内閣である。そして田中義一内閣、濱口雄幸内閣と続く。若槻が二度目に内閣の首班になったのは、昭和五年十一月十五日浜口首相が東京駅において兇漢の為めに狙撃され、その経過が悪かった為めである。そして浜口は翌年四月若槻にその地位を引き受けてもらったのである。そして、第二次若槻内閣の後が犬養毅内閣である。加藤高明と若槻禮次郎は憲政会総裁、田中義一と犬養毅は立憲政友会総裁、濱口雄幸は立憲民政党総裁であった。これらの総理大臣は、選挙で選ばれて総理になった人たちであるので、一応、国民の代表であったと言い得る。そのような民主的な政党政治の最後の総理大臣が犬養毅であって、彼の考えはある意味で国民の考えでもあったのである。だから、犬養毅が「孫文」を支援したということは、当時の国民の意思でもあったといってもけっして言い過ぎではないと思う。私達はこのことをけっして忘れてはならないであろう。歴史的な経緯から多少の行き過ぎがあったとしても、その都度、軌道修正をして、「孫文」を支援するという犬養毅の考えを貫いておれば、日中関係の歴史は間違いなく今とは変わったものになった筈である。何故犬養毅の考えを貫くことができなかったのか、大いに反省すべきことではなかろうか。


では、日本の明治以降の歴史の中のどこに問題があったのか? その点を明らかにしながら、歴史認識の詳細を勉強することとしたい。まずは、靖国参拝の問題から始めよう!多くの日本人の認識を改めてもらわねばならない問題が、靖国問題である。




靖国参拝の問題

2015年3月23日

国土政策研究会

会長 岩井國臣


私はすでに「邪馬台国と古代史の最新」という小論文を書いた。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mokuji.pdf

その「おわりに」で次のように述べた。

『 日本は異国の神も含めて神々の国である。私達はそういう「日本の歴史と文化」に自信と誇りを持とう!「日本の歴史と伝統文化」の心髄は「相手の立場に立って考えることである」。そして天皇は「日本の歴史と伝統文化」の象徴であるが故に、わが国民統合の象徴なのである。私達は天皇とともにそういう「日本の歴史と伝統文化」を今後とも末永く引き継いでいかなければならない。それが「日本の精神」だ!

ところで、「靖国神社」には、現在、天皇は靖国神社にお参りされていない。誠に残念なことである。天皇が靖国神社に参拝される、その日の一日も早く来ることを念願して、そしてまた、「日本の精神」を生きる私達のこれからに生き方を思案しながら、筆をおきたいと思う。』・・・と。

「日本の歴史と伝統文化」の心髄については、私のブログに書いたのでそれを是非ご覧戴きたい。

http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-a1d1.html


さて、日本国民統合の象徴である天皇が靖国神社に参拝されない、このことは由々しきことであると私は思う。政治家にはこの由々しき事態を真剣に考えてもらいたいのだ。中国がどうのこうのということではなく、公式参拝などとんでもないことである。さらに私は、国会議員の靖国参拝すら大いに問題があると考えている。天皇が参拝されないのに何故国会議員が参拝するのか? 

私はかって、「空なる天皇」というテーマで天皇についてひとしきり勉強をしてきた。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/index.html

そしてまた、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の5冊目「天皇はん」を書いた。

http://honto.jp/ebook/pd_25231958.html

そこにも書いたが、私は、天皇に特別の親しみも持っているし崇拝もしている。崇拝しているが故に、『天皇と鬼と百姓と』という電子書籍を書いたのである。天皇のいやさかを祈ってのことである。

http://honto.jp/ebook/pd_25249961.html


そのような私の感覚から言えば、天皇が靖国参拝されるのなら私も参拝するけれど、天皇が参拝されないのに参拝するなどいうことはとんでもないことである。したがって、私の感覚から言えば、国会議員はできるだけ早く天皇が靖国参拝できるような状況を作るべく努力すべきであって、今の状況下で靖国参拝をするなどとんでもないことである。


昭和天皇は昭和50年11月を最後に二度と靖国神社に行かれていない。これは昭和53年10月にA級戦犯14人が合祀された時からということであろう。平成18年7月20日の日本経済新聞によると、昭和天皇が昭和63年4月28日に、当時宮内庁長官だった富田朝彦に、「A級戦犯合祀」について極めて不快感を持っていることを明らかにされていた。徳川義寛の「侍従長の遺言・・・昭和天皇との50年」(1997年1月、朝日新聞社)によってもそのことを窺い知ることができる。

また、「A級戦犯合祀」を強行したのは松平宮司であるが、その前の筑波宮司は一部の勢力から強い働きかけがあったにもかかわらず、頑としてそれを拒否していたらしい。ということは、「A級戦犯合祀」が靖国神社に一貫した考えではなかった。「富田メモ」によると昭和天皇は、松平宮司に対し厳しい非難を向けておられたらしい。

このようなことを考え合わせると、昭和天皇の意向ははっきりしているし、多分、今の平成天皇もそれを引き継いでおられるのだと思う。しかし、私の考えは、天皇の意向がどうのこうのと斟酌するのは誠に不敬なことであるので、ともかく天皇が参拝されるかされないかその行動を見て、それに従っておればそれで良いというものだ。


それでは、どのようにして天皇が靖国参拝できるような状況を作ればいいのか? それが靖国問題の核心である。天皇が靖国参拝できるような状況を作る努力を国会議員にはしてほしい。

冒頭に述べたように、天皇は「日本の歴史と伝統文化」の象徴である。その天皇が靖国参拝をされないのであるから、靖国神社は「日本の歴史と伝統文化」にそぐわない異質のものである、ということだ。だから、天皇が靖国参拝できるような状況を作るためには、少なくとも、天皇が象徴天皇になられた武家社会から始めて、明治以降の国家体制のどこに問題があったのかを明らかにしなければならない。私は、明治以降の国家体制の中で最大の問題は、「枢密院」の存在であったと考えている。靖国問題については、「枢密院」についての勉強から始めて、明治以降の歴史的な動きに関して正しい歴史観を構築しなければならないと思う。国民の共通感覚としての明治以降の歴史認識を確立しない限り、靖国問題は解決しない。



枢密院が軍の台頭を許した

2015年3月23日

国土政策研究会

会長 岩井國臣


枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。明治21年に創設され、戦後は当然廃止された大問題の組織であった。ド ナルド・キーンの著書によれば、明治に入って暫く経った明治7年12月、岩倉具視は、嘉永6年のペリー提督率いる米国艦隊の来航以来の激動の日々を振り返 り、その大勢を天皇に上陳した。岩倉は言う。廃藩置県、岩倉使節団の欧米派遣等々の大事が首尾よく成功を収めたのは、ひとえに国家の難局に際しての陛下の英断に帰するものである。一方でまた、数々の悲惨な出来事があった。事実、混迷の20年を経た今、初めて国内は平和、四海また静穏になったと言えるかもしれない。これまでにも増して陛下は鋭意精励し、国家の大計の下に諸臣を育成し、上下一致協力して復古を旨とした維新の聖意を貫徹していかなければならない。その成否は、ひとえに陛下の手綱さばき如何にかかっていると、岩倉具視はとんでもないことをご進講申し上げるのである。もともと公家である岩倉としては当然の考えであったかもしれないが、我が国の歴史認識からすれば、歴史の流れを無視した公家の発想であり、近代国家を歩み始めた日本としては当時も問題視されていたのである。

伊藤博文のまったく正論というべき意見もあったということは決して忘れるべきでない。ドナ ルド・キーンの著書によれば、斬新派である伊藤は、天皇の将来の役割について深く憂慮していた。外債募集、及び地租米納論を否定した天皇の裁断は、もはや 受動的、象徴的役割にとどまることなく自ら重大な決定に積極的に関わりたいという天皇の意思の表明ではないか、と伊藤には思われた。伊藤が恐れたのは、こ のことが天皇の政治的責任問題の発生や、天皇制の是非を問う論議にまで発展するのではないかということだった。伊藤の考えでは、天皇はあくまで天皇を輔弼 (ほひつ)する内閣の象徴的な指導者としての役割を演じることが望ましい。特に伊藤は、政治的責任のない宮中派(公家)が天皇を通じて影響力を振るうことを心配し た。それは内閣の国家運営の不安定に繋がるだけだ、と伊藤は考えた。伊藤博文の考えはまったく正しい。そのとおりだ。しかし、伊藤の上には、三条実美太政 大臣、たるひと親王左大臣、岩倉具視右大臣という三人の権威ある公家がいたので、さすがに伊藤といえども自説を押し通すことはできなかったようである。

ドナルド・キーンの著書によれば、立憲改進党の党首・大隈重信も、改進党権勢大会で演説したように、立憲君主が率いる英国式議会制民主主義の確立を強く望んでいた。ドナルド・キーンの著書 によれば、大隈重信は、その演説の中で、自分が考える民主政体における君主の・・・・積極的というよりはむしろ象徴的な役割を強調した。大隈重信は決して 皇室に献身的でなかったわけではない。同じ演説の中で、大隈重信は次のように述べている。「維新中興の偉業を大成し、定刻万世の基礎を建て、そして、皇室 の尊栄を無窮に保ち、人民の幸福を永遠に全うせんことを冀望(きぼう)する。」・・・と。

象徴天皇の考え方がすでにこの時期に大きな政治課題として浮上していた ということは、私にとって、大変な驚きであるが、よくよく考えてみれば、それは必ずしも驚くに当たらないことかもしれない。そもそも幕藩体制の天皇は典型 的な象徴天皇であり、その起源は古くそもそも武家社会が発足した鎌倉時代までさかのぼる。すでに「武家社会源流の旅」で述べてきたように、いうまでもなく 象徴天皇の思想的裏打ちは明恵の「あるべきようわ」にある。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/bukesya2.html


伊藤博文や大隈重信の如何にも進歩的に見えながら実は歴史的にはそれがむしろ日本の伝統といえる考えにもかかわらず現実の流れはそうは流れなかった。三人の権威ある公家の意向というか時代の流れというものが、憲法の草案作りの流れをも決め ていったようである。この年、板垣退助は凶徒から襲撃を受けあの有名な言葉「板垣死すとも自由は死せず!」を叫んだ。すべて時代の流れである。私が思うに、その大勢は王政復古がなった時点で固まったのである。明治憲法も王政復古が原点である。孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った 政治体制になっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮できたかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。


国務大臣の出席にしても、内閣と枢密院が対立すれば定数からいって採決では枢密院の案が通り、内閣が反対し続けるならば自ら参加した採決の結果に従わないこととなり筋が通らないこととなるので、国務大臣が採決に参加できるという規定はかえって内閣に不利に働いた。

軍部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さない」という戦術を枢密院でも閣議でも使ったのである。大臣がいないと内閣は総辞職になるので、枢密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったのである。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくようになった。


枢密院と内閣の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。

似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(立憲民政党濱口雄幸)と、枢密院、軍部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。しかし、浜口首相は元老西園寺公望や世論の支持を背景として枢密院に対して断固とした態度で臨み、枢密院のボスとして知られた大物顧問官の伊東巳代治が要求した資料の提出を拒むほどであった。『東京日日新聞』をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判で内閣を擁護した。だが海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強行反対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものだとして攻撃した。そして、昭和5年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8月26日死亡)。

その後、若槻第二次内閣は、若槻が内閣で軍をコントロールしたいという信念の持ち主であったため、軍は若槻の追い落としを狙っていた。そこで枢密院が利用されたのである。


上述のように、 軍部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さない」という戦術を枢密院でも閣議でも使った。大臣がいないと内閣は総辞職になるので、枢密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったのである。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくようになった。明治以降の国家体制の中で最大の問題は、「枢密院」の存在であったのである。

憲政常道による議会政治が始まったのは大正十三年であって、それから八年間は民政党、政友会の二大政党が交互に政権を握るという、憲政常道による議会政治が確立したかの加く見えた。 しかし、昭和7年5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それからは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。


ご承知の方も少なくないと思うが、いわゆる「血盟団事件」というのがある。この事件は涙なくして語れないのであるが、実は、五・一五事件勃発の切っ掛けを作ったのは「血盟団事件」であって、そういう意味では、血盟団事件は戦前の誠に忌まわしい事件である。しかしながら、そういう暗殺に命をかけた国士とでもいうべき人たちが出たのも、結局は、枢密院と内閣の不協和音による政治の腐敗が原因であり、その根本原因は「枢密院」というおおよそ民主制とは相容れないシステムにあったといわざるを得ない。


血盟団事件のことについては、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の第7巻「野生の思考と政治」の第6章で少し書いたので、それをここにアップしておく。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyouwa06.pdf


先に述べたように、日本国民があれほど尊敬もし、あれほどの支援をしたきた孫文との関係を続けていたら、 日中関係の歴史は間違いなく今とは変わったものになった筈である。誠に残念である。日本国民の気持ちとはまったくかけ離れていた軍部が、軍部の論理だけで独走して、日本のあるべき姿をひん曲げてしまった。この辺の事情は、日本人の多くも知らない。日本国民の多くは正しい歴史認識を持っていないように思われる。そこで、私は、「辛亥革命と孫文」と題して、論文を書くことにした。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/singaito.pdf


以上


前回までのWhat’sNew!

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/index02.html



なお、一連の電子書籍を出版した2012年以前のWhat’sNewは、


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huruiWN.html


です。