淮南子(えなんじ)の思想について



2015年8月28日

国土政策研究会

会長 岩井國臣



金谷治の「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)は 難解な淮南子の入門書である。漢の武帝の頃、淮南(わいなん)の地を治めた淮南(わいなん)王・劉安(りゅうあん)の生涯のみならず、時代背景にも詳しい。 劉安(りゅうあん) のもとには大勢の学士食客が集まり、数多くの著作を残した。2000年後の今日に伝わる『淮南子(えなんじ)』がそれである。その内容は複雑多様、諸子百家から戦国的自由思想の伝統、また、処世や政治、天文や神話伝説まで集合されている。全体の基調は老荘的なものに貫かれその百科全書的な内容が人々をひきつけてきた。 淮南子(えなんじ) 混迷の世を生きる現代人に贈る必読の人世哲学の書である。


淮南子(えなんじ)は、日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。淮南鴻烈(わいなんこうれつ)ともいう。劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。

第1巻から第21巻まであり、そのほとんどが道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、第21巻「 要略」が結論部分で、儒家・法家・陰陽家の思想を包含する形で老荘思想が説かれている。

その内容については、「松岡正剛の解説」 に詳しい。松岡正剛は、淮南子の内容について、次のように解説している。すなわち、


『 儒家・法家・陰陽家の思想の歴史的な系譜をよく継ぎつつも、そこに楚の風土にもとづく価値観を大胆かつ慎重に加えてみせたのが、淮南王によってまとめられた『淮南子』だったのである。』


『 たしかに『淮南子』には、天文地理から神話伝説まで、政治論から処世術まで、みんな入っている。儒家・道家・法家のいずれの知識もまぜこぜの目で収集されている。
  その一方で、『淮南子』には独特の編集感覚が満ちた。このことは読み始めれば、すぐ伝わってくる。とくに目立つのは、アーカイブの全容を巧みに道家の思想 によって柔らかく統合しようとしていることで、そうすることによって、複雑多様な「事」(事象)を「道」(タオ)によっておしなべた。そう言っていいな ら、全体に老荘思想と神仙タオイズムの気配が漂っていて、百科いちいちの詳細を伝えるというよりも、つねにメゾスコピックな言語風致でつないでみせたの だ。』


『 楚国とは、淮南の時代をさかのぼる数百年前からの、この土地の国俗(くにぶり)の総称をいう。そこは老子(1278夜)や屈原が生まれた国であって、かつまた孔子や墨子817夜が君子を求めて訪れた「風韻まつりごと」の地であった。その楚の国が『淮南子』の背景で動いている。』


『 とくに洞庭湖を望む楚の国には、山河に育まれた神仙や巫祝の文化が横溢していた。けれどもそこは、中華の国々か らみれば「礼教の外」であり、野蛮(南蛮=夷狄)の象徴でもあった。』


『 その周の基軸モデルから見れば、楚の社会文化なんてものは(呉や燕もそうであるけれど)、たんなる辺境なのである。』


『 そうした楚の地にいつしか「楚辞」(そじ)が生まれた。楚辞は土地伝来のシャーマニックな巫歌の伝承にもとづき、それ以前の古代中国にはまったく見られな かった新しい文芸の異風をつくりあげた。それまでの北の『詩経』が集団的な楽歌だったとすれば、南の「楚辞」は屈原や宋玉や景差といった強烈な個性を育 て、やがて滅びゆく楚風を偲ぶ「負の文芸」としての異色を極めたのである。』

『 楚王は代々「熊」の文字を名につけるようになっていく。わが国のアイヌやマタギ同様に、かれらが熊のトーテムを信仰していたことはあきらかだ。』

『 斉・晋と 争った。その斉の威王や宣王の時代、都の臨輜(りんし=輜はサンズイ)の稷門の館に千人をこえる学士が集まったのが、諸子百家の黄金時代だったわけであ る。』

『 楚の窮状は亡国の憂き目の様相を呈してきた。懐王はなんとかこの苦境を凌ごうとするが、どうにもうまくない。ここに登場してきたのが屈原だったのである。 屈原は、孤立無援となった楚が存続するには六国が同盟して秦に当たるよりほかはないと懐王に提言するのだが、なかなか受容されない。それどころか、側近た ちの讒言も加わって2度にわたって放流された。懐王が秦に捕らえられて客死したのちに次王となった頃攘王(けいじょうおう)のときは、江南に流されて9年 もの流浪を強いられた(実際に9年間だったかどうかはわからない)。
 こうして屈原は公憤に震え、義憤に怒り、私憤に悶えて、ついに洞庭湖のほとりの泪羅(べきら)の淵に身を投げ、悲劇の生涯を了える。』

『 その屈原が綴ったのが、祖国を思い、万感無念の裡に楚辞文芸の傑作中の傑作『離騒』(りそう)だった。いまは詳しいことは書かないが、『離騒』は375句におよぶ長編詩で、すべての漢詩の半分はここに始まったとも思える特異な技巧と壮絶な内容を湛えている。 ちなみに『離騒』の前半は、屈原が自叙伝ふうに出自や学知を詠い、その後は王を扶(たす)けて理想を求めたにもかかわらず、讒言のために失脚したことを嘆 じる。そのうえで、王また当初の約束を忘れてしまった以上、いまや自分の心を知る者はどこにもいないという悲憤を訴える。
 後半では、こうとなってはいっそ現世を越えて天地の果てまで遍歴し、 新たな理念の理解に達しようとするのだが、その希いすらもはや叶わないことを知る。まるでバニヤンの『天路歴程』の一千年の先読みなのである。そこでいっ たん現世を見つめなおすのだが、時代が汚辱にまみれている以上はもはや祖国をも捨てざるをえないと決意する、しかし屈原という男、決して望郷の念も捨てら れず、ついに死をもって祖国に殉ずるほかないことを、みずから歌い切ったまま楚辞を了えていく。だいたい、こういうふうになっている。』

『 屈原が泪羅に身を投じたのち、楚はあっけなく滅亡し、50年後には秦の始皇帝による中国統一になる(前221)。その秦もわずか十数年で滅んでしまうと(前206)、時代は漢帝国の世になって、その武帝のときに淮南の王の劉安が「離騒についての解説」を頼まれるのである。なぜ武帝は、辺境の淮南王が楚辞の伝承の意味を紐解くことを期待したのだろうか。この謎、ちょっと難しそうであるが、ここには大事な暗合がある。実は楚に は「莫敖」(ばくごう)という重要官職があり、そこが国家祭祀を司っていたのだが、屈原の一族である屈氏がその職掌を担っていたのだった。』

『 楚辞とは、その莫敖が操っていた言霊技能の発露でもあったのである。淮南王とその膝下(しっか)にある者たちは、この格別な技能を継承した。』

『  しかしながら、それほど特異な才能を保持していた淮南王の劉安が、それならなぜ、自害せざるをえないほどの運命を背負ったのか。また、劉安が多くの者を集 めて『淮南子』をタオの香りに満ちた編集で満たす気になったのは、なぜなのか。そこには劉の一族の驚くべき悲劇があったのである。』

『 そのほかいろいろなことが重なり、淮南王としては中央と対立せざるをえなくなり、王自身も謀反をおこす決断にまで追いこまれていった。しかし、こんな消極的な謀反がうまくいくはずがない。淮南王の計画はたちまち漢室に察知され、行き場を失った劉安は自殺する。謀反に加わったとされた者たちもみな死罪に処せられ、淮南の国は没収されてしまったのである。劉長母子が自害し、餓死していった宿命が、ここに三代にわたって踏襲されたような恐るべき結末だった。』

『 淮南王が命じた『淮南子』はその後も執筆や編集が進んだ。恐るべき悲劇によって死没した王ではあったのに、『淮南子』はあたかも王の直下の指導にもとづくように、進捗していったのだ。いやいや、それだけではなかった。そのうち、淮南王は謀反によって自死したのではなく、天に昇って仙人になったのだという感懐が淮南の世人のあいだに沸き上がっていくようになった。このことこそ驚くべきことである。わが国の早良親王や菅原道真の例にみられるような、いわゆる怨霊観念によるものではなかった。めっぽう陽気な昇仙幻想なのである。この噂はのちの後漢の王充の『論衡』にも綴られた。「淮南王は食客を好んだので、道士や方士が次々に集まり、奇方異術の蘊蓄をかたむけ、王またそれを会得して道(タオ)を悟り、家族もろともに昇仙していった」というふうに。
  むろん王充はこんな話を信じていたのではない。けれども、そんな昇仙譚が後漢の時代に伝わるほどに、死後の淮南王については神仙めく噂が付きまとっていた ということである。実際にも、干宝の『捜神記』にも葛洪の『神仙伝』にも、八公の手引きによって淮南王が羽化登仙した不思議な経緯がまことしやかに綴られ ている。これが何を意味しているかといえば、『淮南子』の執筆編集にもそうした神仙陰陽道を加味したミスティック・モードが次々に付与されたということなのだ。が、そこでは、たんに陽気な仙人が仕立てられただけではなかったのである。』

『 いまに残る『淮南子』はいろいろ散失があって21篇になっている。それでもまことにエンサイクロペディックだ。次のように構成される。1=原道(根本を問う)、2=俶真(めでたい真理)、3=天文、4=地形、5=時則(時の問題)、6=覧冥(見えざるものについて)、7=精神、8=本経 (大本の意味)、9=主術(人生と政治)、10=繆称(誤謬論)、11=斉俗(世俗同化論)、12=道応(タオについて)、13=氾論(広く論じるこ と)、14=詮言(要点の言葉)、15=兵略、16=説山(エピソードいろいろA)、17=説林(エピソードいろいろB)、18=人間(処世とは何か)、 19=修務(人としてのありかた)、20=泰族(大いなる帰結へ)、21=要略(まとめ)。これらの中身を今夜はいちいち説明はしないけれど、その大略は21=要略でわかる。その冒頭に、こう書いてある。「道を言いて事を言わざれば世とともに浮沈するなく、事を言いて道を言わざれば化と与(とも)に游息することなし」というふうに。
 深遠な道(タオ)を述べながら現実の事を言わなければ、世俗とともに生活することなどできないし、現実の事ばかり述べて深遠な道(タオ)を語らなければ、自然とともに遊び息(いこ)うことはできない。そういう主旨で編集したというのだ。これは、ずばり荘子(726夜)の「逍遥遊」の思惟そのものであり、「斉物」の考え方そのものだ。1=原道で次のように言っているのは、さらに老荘的世界観そのものだった。 「道は、これを植(た)つれば天地に塞がり、これを横たうれば四海に弥(わた)り、これを窮まりなく施(もち)うるとも朝夕盛衰するところなし。これを舒 (の)ぶれば六合(=四方上下)に幎(おお)い、これを巻けば一握りにも盈(み)たず。約(つづま)やかにして而も能(よ)く張り、幽(くら)くして而も 能く明らかに、弱くして而も能く強く、柔にして而も能く剛なり。これ、甚だ悼にして潤、甚だ繊にして微なり」。』

『 しかし漢の帝国の形ができあがるにつれ、武帝はこれらのエンジンを取り込む面倒を感じ始めたのだったろう。国家経営からすると、辺境各地の特異なエンジンの適用をいちいち組み立てようとするのは、コストもかかりすぎるのだ。 それよりも第1には、中央からの「制度設計」をゆきわたらせさえすれば、これらのエンジンなど相手側が適当にアプリをしてくれる。それには優秀な役人をふ やして送りこめばよかった。また第2には、辺境の人材をそのままとりこんでしまえば(アメリカの移民政策のように)、そのもともと国々の由縁や由緒などど うでもよくなった。そして第3に、何にもまして儒教を拡張し、これに周辺の多様な思想をとりこんでしまえばいいだけなのである。
 これが武帝の古代帝国主義政策である。ということは、ここにおいて中央と辺境ははっきり切断されたわけである。辺境は見捨てられたのだ。では、それで淮南王はどうしたのか。』

『 淮南王は武帝の制度設計に抗したのである。制度に対するに衆智をもって対抗したのだ。そのため一方では 「積力衆智」「無為自然」「万物一如」をもって、そのエンサイクロペディックな思想の記述を柔軟にしていった。これが『淮南子』のまぜこぜ加減の按配に なっている。その他方では、自分たちが生まれ育ってきた背後の歴史言語マザーの特異性を持ち出した。ここでマザーというのは、老子や屈原の時代の古法を用いた観念技術的なコンセプトと、それをいかして古詩を詠じる表象技能的なフレーズとを、祖国や母国のために組み上げていく母型構造のことをいう。楚≒淮南マトリックスとでもいうものだ。このようなマザーによって淮南王は何をしたかというに、遠い楚の文化を背景に、淮南の地に来し方行く末のための歴史文化と言語表現の再編集が可能であるのか、問うたわけである。『淮南子』は、その柔軟記述と特異マザーの関係について、こんなふうに説明をしている。「縮約できていながらも張り、漠然としているのに明快で、弱そうに見えて実は強靭な、つまりは柔にしてしかも剛であるような内実」を構成表現することこそ、この『淮南子』という試みの最も重要な目的なのである、と。しかしながら、すでに述べてきたように、それらのすべてが間に合わなかったのである。いっさいは挫折した。淮南王は謀反の罪に問われ、志し半ばで悲劇の王になった。けれどもその意図の大半は、いまなお『淮南子』そのものによって語り継がれることにもなったはずである。このことをこそ、今夜は言っておきたかった。』・・・と。


なお、松岡正剛は、 金谷治の「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社) について、つぎのように述べている。すなわち、

『 本書は『淮南子』をめぐる数少ない好著である。とくに淮南王の悲劇の淵源と『淮南子』にひそむ老荘的思考についての指摘において、先駆的な一冊だった。もとはサーラ叢書(平楽寺書店)として50年前の1959年に刊行された。金谷治さんは東北における中国思想史研究の牙城を淡々と築いた人で、岩波文庫の『論語』『荘子』『孫子』『韓非子』の訳業をはじめ、老子、孟子、易、諸子百家、荻生徂徠にも造形が深い。『中国思想を考える』(中公新書)など、きっと初心者に恰好だ。』・・・と。


金谷治は東北の人である。そしてその東北は「辺境の地」である。「辺境の地」とは、中央の文化の及ばない遠隔の地をいうのではない。中央の文化の影響を受けながらも、古来からのその地域独特の文化を有している地域のことである。日本の中でいえば、その典型的な地域が東北である。東北の文化、それは、中沢新一いうところの「野生の文化」であるが、宮沢賢治などの感性豊かな人には「野生の感性」が息づいているようだ。金谷治も東北の人で、そういう「野生の感性」があるのだろう、哲学者として「辺境の地の持つ力」というものが自ずと判っていたようだ。


金谷治の書いた「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)を読んで私がいちばん強く思うのは、老荘思想のような物凄い思想が何故あのような「辺境の地」に誕生したかということである。それは、私の思うに、グノーシスの力による。金谷治は、そのことを知っていて、「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)では、その点に力点を置いて解説しているように思えてならない。


淮南子はグノーシスであり、それによって確立した老荘思想は儒家・法家・陰陽家の思想を包含したまったく新しい哲学である。今のところこの新しい哲学を凌駕する哲学はない。それが「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)という本を読み終えた私の考えである。それでは以下において、その本の核心的な部分を紹介しておきたい。金谷治は、その本の中で次のように述べている。すなわち、


『 道のことだけをいうのでは世俗とともに生活できない。しかしまた、現実のことばかりをいうのでは、自然と合一して遊び息(いこ)うことができない。つまり、形而上的な深遠な道を説くのは、わずらわしい雑多な変化の多い現実にとらわれないで、超越的な心境に遊べるようにという、そのための配慮からだ、というのが要路篇のことばである。』


『 人間的な道義を守ってできるだけの努力をしていくというのが、儒家の立場であった。しかし、道家の人びとは、そうした人間的な努力の空しさをあまりにも深く知りすぎた。』


『 儒教の論理では、何よりも賢人による政治、道徳による政治として、「人材」をたのみ、「叡智」に依頼することが多かった。しかし、「積力衆智」の主張は、「人材を恃)たの)むに足らず」「智は以って天下を治むるに足らず」として個人的な智能を尊重せず、一派の学問思想にこだわらないでひろく民間の輿論にも耳を傾けることを要求する。』


『 「物に先んじて為さず」「己より出る(い)だすことなき」無為の立場、聖人はそれを完全に守る人である。だからこそ、世界の動きを注視して、その時その時に応じてもっとも適切な行動がとれるのである。』


『 「老子」では、無為を説くのは実は「為さざることなき」万能を求めるためであり、無私になるのは「能く私を為しとげる」ためである。「老子」を通読すると、その消極的なことばづかいの裏に、烈しい現実的な欲求、世俗的な成功主義のひびきを聞くことができるであろう。荘子的な真人(道を完全に体得した者)と老子的な聖人(タイミング見て行動する無為の人。してみると、「淮南子」の統一の「場」は、そのまま老荘を統一する立場であったといえるであろう。』


『 「恬然(てんぜん)として無思、澹然(たんぜん)として無慮」、すぐれた人物の行動は全く自然と合一する。だから、人がその「道の働き(宇宙の働き)」に従っていくというのには、まず無思無慮になること、人間的なさかしらをすてることが必要である。「万物は固(もと)より自然なり、聖人は何をか事(つと)めん。」、ここにいわゆる無為自然の哲学が強調される。』・・・と。



金谷治の書いた本「淮南子(えなんじ)の思想・・・老荘的世界」(1992年2月、講談社)の核心部分は、以上のとおりである。


今回の勉強の最後に、「老子」の第五十五章を取り上げておきたい。「老子」( 蜂屋邦夫注訳、2008年12月、岩波書店)によると、「老子」の第五十五章は次のようなものである。すなわち、


『 豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。赤ん坊は、蜂やさそり、まむし、蛇も刺したり咬んだりはせず、猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。骨は弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳(こぶし)を握っている。男女の交わりを知らないのに、性器が立っているのは、精気が充実しているからである。一日中泣き叫んでも声ががかれないのは、和気が充足しているからである。』・・・と。


つねに和の状態にあること、これが「道」にかなっている。宇宙の原理によってすべてが動いている。だから、すべてのもののあり方は、「つねに和の状態」にあることであり、その恒常性が大事なのである。人間は、本来は赤ん坊のごとく純粋無垢であるが、生まれたときから少しでも生活をよくしようという欲が出てくる。その体験によって、人間は本来の姿から次第次第にかけ離れていく。そして河合隼雄のいうアイデンティティーが形成されていく。自分の心もそうだし、自然に働きかける事によって、自然も変化していく。私たちの心も自然も「つねに和の状態」にあるべきという恒常性の大事な事を老子は言っているのである。それが「老子」第五十五章である。恒常性の哲学といっていいかもしれない。


この恒常性の哲学は、私たち人間のあり方としての「無の哲学」になるし、自然との関係でいえば「自然保護の哲学」になる。私は今「老子」第五十五章を何度も読み返しつつそう感じている。「無の哲学」については、すでに私の論文「日本的精神と中村雄二郎のリズム論」に書いたが、「自然保護の哲学」についてはまだ書いていないので、今後、その勉強をして参りたいと考えている。





前回までの目次

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なお、一連の電子書籍を出版した2012年以前のWhat’sNewは、

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