自然の哲学



2015年8月29日

国土政策研究会

会長 岩井國臣

はじめに


C・W・ニコル、クライヴ・ウィリアムズ・ニコルは、日本の自然保護に対する取り組みの甘さを鋭く指摘している。https://books.google.co.jp/books?isbn=4569783384


加藤規芳:1949 年、埼玉県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。角川書店編集部に7 年間 勤務ののち、八ヶ岳に移住。世界各地を歩き、国内外の自然保護、アウトドア・ フィールド、ロングトレイルなどをテーマに執筆活動を続ける。また、日本での ロングトレイル普及に尽力している。現在、横浜市在住。『ジョン・ミューア・ トレイルを行く』(平凡社)が、1999 年度「第8回JTB紀行文学大賞」を受賞。 著書に『メインの森をめざして―アパラチアン・トレイル3500キロを歩く』(平 凡社)、『森の聖者―自然保護の父ジョン・ミューア』(山と渓谷社)、『森の 暮らし、森からの旅』(平凡社)、『大きな、巨きな木』(福音館書店)など多数。昨年死亡。



加藤規芳は次のように言っている。


もっとも重要なこととして、日本の管理システムの問題もある。C・W・ニコルの言葉に「日本の国立公園のレンジャー(自然保護官)にあうのは、クマに会うより難しい。」という名言があった。そのくらい少ない。日本全国の現状としては、正規のレンジャーは約260名(アメリカではヨセミテだけで800名)、他に自然保護官補佐が約80名、無償の自然公園指導員約3000名、ボランティアが約1800名いる。アメリカでは、レンジャーが子供たちの憧れの的だ。


日本の場合、問題は環境省の予算が少なすぎることだ。そのためには、自然保護の哲学を作らなければならない。その上で、美しい自然をもつ日本の国家百年の計を作らなければならない。


なお、私たち人間の「自然との接し方の重要性」については、以前に書いた次のようなものがある。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ryu/kyodarai.html


自然と接するということを止め、工業化・機械化によって機械を利用してそれに任せていろんなことをおこなうようなことになると本当の自然とかけ離れてきま す。そうすると人間の自然との接し方も機械的になってきて、密接な関係ではなく、機械に接する時のように人間としての気持ちも機械的になってきます。


機械科学は人間に非常に裕福な生活や楽な環境を与えてくれたのですが、それと同時に今言ったような人間の本性が変わってくる。人間性のところから狂ってき ます。テクノロジーと科学というものがあれば、人間はなんでもできると思うようになる。われわれが働きかければ自然をどうにでもできるという間違った方向 に進んでしまう恐れがあります。



自然の哲学


中村雄二郎のリズム論から自然保護が導かれるか?


中村雄二郎は、そのリズム論で自然保護の重要性を言っている訳ではないが、私の考えでは、自然保護は結局「場所」の問題である。私たち人間と「場所」とのコミュニケーションという観点から、自然との関係で「場所」の問題を考えるとき、その基本は、「失われた自然の回復」である。


さあ、それでは、中村雄二郎のリズム論における「場所」の問題を振り返っておこう。


中村雄二郎によれば、そもそも「場所」というものは、コミュニティーとか環境というような<存在根拠(基体)としての場所>のほかに、<身体的なものとし ての場所>、<象徴的な空間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがあるという。 

  では、<論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>とはなにか。中村の説明を紹介する。 

 

『  <論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>は、古代レトレックでいうところのトピカ(トポス論)の持つ問題性をもっと広い観点から捉えなおしたも のである。もともとアリストテレスではトピカとは、自分の行おうとする議論はいかなる種類の事柄にかかわるか、どのような話題から始めるべきか、を決める ものであった。キケロによれば、隠された場所がわかれば隠されたものがたやすく見出されるように、十分な議論をしようとすれば、その場所つまりロクス(ト ポス)を知らなければならない。こうしてトピカは発見の術とも呼ばれ、政治や法律の具体的な事例についての議論に不可欠なものとされた。

  このトピカは蓋然性の上にのっとった議論であるため、永い間、とくに近代世界に至って、不確かなものとして退かれることが多かった。しかし、近年になっ て、具体的な事例や問題の考察と議論において、適切な論点を発見することがいかに必要であるか、また、現実の多面的な豊かさを考えると、蓋然性を受け入れ ることがどんなに正確であるか、が見直されてきている。必然的な真理のもとづく議論はたしかに正確ではあるが、そうした議論はいくらしたところで、問題の 持つすべての局面を考察したことにはならないからである。つまり、正確な推論の出発点となる前提は、えてして単に現実の一局面しか表わさず、したがってそ こからの結論もおのずと限られたものになるからである。 』

 

  哲学者の説明は難しく、私たちにはちょっと理解しにくいが、私流に判りやすく説明したいと思う。風土もそうだが、環境というものは人々の感性に強い影響を 与える。環境にはいろいろあって、地質学的な環境、地理的な環境、生態系的な環境、歴史的な環境、文化的な環境などがある。そういった環境がうまく整えら れた「場所」では、人々の感性はそれなりに養われるし、それなりの学習も自ずとできる。門前の小僧習わぬ経を詠む・・・という訳だ。



すなわち、環境がうまく整えら れた「場所」では、人々の感性はそれなりに養われるということなのである。


中村雄二郎と老荘思想を包含したこれからの哲学は、当然、老子の第五十五章を引き継ぐ。純粋無垢な赤ん坊のような「道」「無」を体験し得る「場」が必要で、それがこの地球上に数多くなければならない。これが自然保護の必要な所以である。それが今後あるべき哲学である。すなわち、今後あるべき哲学として、自然保護の重要性が主張される筈だ。それが私の考えである。


先の「1、淮南子(えなんじ)の思想について」で紹介したが、老子の第五十五章とは、


『 豊かに徳をそなえている人は、赤ん坊にたとえられる。赤ん坊は、蜂やさそり、まむし、蛇も刺したり咬んだりはせず、猛獣も襲いかからず、猛禽もつかみかからない。骨は弱く筋は柔らかいのに、しっかりと拳(こぶし)を握っている。男女の交わりを知らないのに、性器が立っているのは、精気が充実しているからである。一日中泣き叫んでも声ががかれないのは、和気が充足しているからである。』・・・というものである。


これを受け、「1、淮南子(えなんじ)の思想について」の最後に、次のように述べた。すなわち、


『 つねに和の状態にあること、これが「道」にかなっている。宇宙の原理によってすべてが動いている。だから、すべてのもののあり方は、「つねに和の状態」にあることであり、その恒常性が大事なのである。人間は、本来は赤ん坊のごとく純粋無垢であるが、生まれたときから少しでも生活をよくしようという欲が出てくる。その体験によって、人間は本来の姿から次第次第にかけ離れていく。そして河合隼雄のいうアイデンティティーが形成されていく。自分の心もそうだし、自然に働きかける事によって、自然も変化していく。私たちの心も自然も「つねに和の状態」にあるべきという恒常性の大事な事を老子は言っているのである。それが「老子」第五十五章である。恒常性の哲学といっていいかもしれない。


この恒常性の哲学は、私たち人間のあり方としての「無の哲学」になるし、自然との関係でいえば「自然保護の哲学」になる。私は今「老子」第五十五章を何度も読み返しつつそう感じている。』・・・と。



以上のとおり、 中村雄二郎と老荘思想を包含したこれからの哲学は、当然、老子の第五十五章を引き継ぐ。純粋無垢な赤ん坊のような「道」「無」を体験し得る「場」が必要で、それがこの地球上に数多くなければならない。これが自然保護の必要な所以である。それが今後あるべき「自然の哲学」である。






前回までの目次

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/index00.html






なお、一連の電子書籍を出版した2012年以前のWhat’sNewは、

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huruiWN.html