継体天皇にかかわる多くの謎について


平成28年1月1日


国土政策研究会 会長 岩井國臣

はじめに


大伴金村は、何故継体天皇を擁立したか? 応神天皇の子孫には継体天皇までにも多くの 天皇候補者が多くいたはずである。それがまず最初に抱く謎である。


日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約20年もかかってお り、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめぐる混乱があった こと、また、ヤマト王権は、即位当初、九州北部の地域国家の豪族を掌握できていなかっ たことを示唆している。このようなことを考えると、継体天皇擁立の理由は、応神天皇の 血を引いているということだけではあるまい。継体天皇の朝鮮半島との繋がりが重視され たのではないか。継体天皇と朝鮮半島との繋がりの実態はどのようなものであったのか、 それが次に抱く疑問である。


さらに、継体天皇の父・彦主人王 (ひこうしのおう)は、 畿内豪族・息長氏の祖である 意富富杼王の孫であるから、息長氏は継体天皇の一族である。息長氏(おきながうじ)は 文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。これが継体天皇に関して抱く第3の疑問で ある。


私は、古代史においてよく判らない問題は、邪馬台国の問題と継体天皇の問題だと思う。 邪馬台国の問題については、多くの人が研究しており多くの説があるが、私は「邪馬台国 近江説」であり、それを書いたのが 論文「邪馬台国と古代史の最新」である。その論文 では、わが国の古代朝鮮との繋がりについてもその概要を書いている。しかし、それは概

要であって、それらを裏付ける各論が必要である。今回の「 継体天皇にかかわる多くの 謎について」という論文は、「邪馬台国と古代史の最新」という論文の足らざるところを 補うものである。


継体天皇の問題については、ほとんど研究が進んでおらず、多くの疑問があるにも拘らず それが解明されていない。その原因は、古事記や日本書紀が史実を伝えていないところに あると思われる。記紀は藤原不比等の深慮遠謀による創作である。


私は、「明日香と阿知王」という論文で書いたが、梅原猛が言うように、記紀神話は、藤 原不比等の「祓いの神道」によって作成された神話である。


そして、 梅原猛が言うように、 この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀 神話によって、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思わ れるようになったのである。

実は、私は、論文「邪馬台国と古代史の最新」において、藤原不比等の深慮遠謀という

テーマで天照大神のことを書いたが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の 神聖化を図ったというところにあった。しかし、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわ ち中臣神道の創造にあったということは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥 とは何か」(1986年6月、集英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼か ら鱗が落ちる思いである。梅原猛の慧眼に今更ながら感服している次第である。


「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。 この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに 分割した。即ち、政治を司る不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神祇 を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神祇を 司ることは一族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力 的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代 だった。 そのような状況の中で、危機感を持ったのが秦氏であり、秦氏の場合は見事に中臣神道に 対抗して「八幡大菩薩」を誕生させた。しかし、そのような中で没落していった忌部氏と いう名門氏族がいる。忌部氏は古くから神を祀る氏として天皇に仕えてきたが、藤原の政 治力を背景にした中臣神道に圧倒されて宮廷の神事から遠のいてしまった。伊勢神宮も、 伊勢の地元神としての元来の姿を奪われ、中臣支配の許、皇室の祖先神たるべく神道理論 を構築していくのである。


中臣氏は諸国の神社祭祀を画一化していく。地方独自の祭祀形式は現在にまで一部は残る が、神殿内の祭壇は中央のそれと特に変わることはない。中央に鏡、両側に榊を立て、 酒、水、塩などを奉る。神社に参ると神主が紙垂を沢山束ねた大麻を振って私たちの不浄 を祓い浄めてくれる。祓い浄め、実はこれが中臣神道の真髄なのである。鏡は天照の御魂 である。天照は地上に降る孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に天の岩戸の前に掲げられた 鏡を渡して、これを天照と思って大事に祀れ、と言った。このときから鏡は天照の象徴と なった。日本の神々は二種類に分けられる。高天原に発する天津神と土着の国津神であ る。全国の神社は圧倒的に国津神の社が多い。しかしそれらの社にも一様に正面に鏡が 据えられている。私たちは大国主や大国魂といった国津神の祀られている神社に参って、 実は正面の鏡を通して天照を礼拝しているのである。神主が大麻を振る姿は誰もが思い浮 かべる神官の印象であろう。大麻で以て神主は参拝者の穢れを祓っているのである。この 祓え浄めを神道の中心理論として構築したのが中臣氏であった。


以上の通り、藤原不比等の深慮遠謀によって創られた天照大神と記紀神話によって、中臣 神道は日本神道の中心祭祀となったのである。記紀は、天照大神を皇祖神とする天皇を頂 点とする為政者のヒエラルキーを持っているが、それは藤原不比等が創り出したものであ る。藤原不比等は、記紀神話によって、皇祖神・天照大神から始まる万世一系の天皇像を 作り上げ、天皇の権威を詠いあげ、それを裏打ちする実態として伊勢神宮を作ったのであ

る。それは藤原不比等の深慮遠謀によるみごとなシステムではあるが、その構造が壊れる

ような史実はひた隠しに隠さねばならなかったのである。 したがって、記紀に惑わされないように史実を明らかにすることは容易なことではない。


今回の「 継体天皇にかかわる多くの謎について」という論文は、記紀に惑わされないよ うに史実を明らかにすることに努力したが、なにせ非力な私であるので、思い違いも多い

かと思う。その点は、あらかじめお断りすると同時に、間違いについて気のつかれた方が おられれば、是非、その間違いを訂正した論文を発表していただきたい。日本の古代史を 明らかにしていくことは、非常に重要なことである。

継体天皇にかかわる多くの謎について

目次


はじめに 第1章 大伴金村たちは何故継体天皇を擁立したのか?

第1節 概説

第2節 継体天皇と朝鮮半島との繋がり


第2章 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について


第1節 わが国の古代朝鮮との繋がり(概要) 第2節 古代朝鮮の歴史について(概論)

1、高句麗

2、百済

3、 新羅

4、加羅と倭人


第3章 わが国の古代朝鮮との繋がり(各論)


第1節 渡来人について

第2節 大和朝廷と百済との繋がり

(1)百済について

(2)応神天皇から継体天皇までの大和朝廷


第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり

(1)秦一族について

(2)武内宿禰について

(3)葛城襲津彦について

(4)葛城王朝の誕生


第4節 葛城山麓の遺跡 第5節 邪馬台国と朝鮮半島との繋がり

補筆 邪馬台国以前の時代における朝鮮半島との繋がり おわりに

第1章 大伴金村たちは何故継体天皇を擁立したのか?


第1節 概説


大伴金村は、何故継体天皇を擁立したか? 応神天皇の子孫には継体天皇までにも多くの 天皇候補者が多くいたはずである。だからこそ、継体天皇が大和入りするのに約20年も かかったのである。 応神天皇には三人の子供がいた。仁徳天皇、菟道稚郎子、稚野毛二派皇子の三人であ る。そしてこれら三人の子孫には継体天皇だけということではなく数多くの人がいた筈で ある。それにも関わらず何故継体天皇が擁立されたのか? それが謎である。


『日本書紀』によると継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪われた 百済からの任那4県割譲要請があり、大伴金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来 させた。


そして、継体天皇21年(527年)の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧さ せた。


継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができた が、その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送ったのである。しかし新羅と結 んだ磐井によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱に ついては諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくま で約20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位 をめぐる混乱があったこと、また、ヤマト王権は、即位当初、九州北部の地域国家の豪族 を掌握できていなかったことを示唆している。


このようなことを考えると、継体天皇擁立の理由は、応神天皇の血を引いているというこ とだけではあるまい。継体天皇の朝鮮半島との繋がりが重視されたのではないか。


では、そもそも継体天皇とはどのような出自なのか、その生い立ちを見てみよう。


「継体天皇の母・振媛の故郷の古墳を巡る」という素晴らしいホームページがある。そこ には、継体天皇の出自について次のように述べている。すなわち、

『 日本書紀は、オホド王(のちの継体天皇)の父・彦主人王が越前三国の坂中井(さか

ない)の振媛(ふりひめ)の美貌を噂を聞いて結婚を申し込んだと記す。しかし、彦主人 王が振媛を妃に所望したのは、彼女が美人だったからだけではないで あろう。越前三国 を治める氏族との連携を強めるという政治的意図が主な要因だったことは、容易に想像で きる。』


『 理由は、『書紀』ではオホド王を越前三国の坂中井(さかな い)から迎えたと記して いるのに対して、『古事記』では「オホド王を近つ近江国から招き寄せ、手白髪皇女と娶

(めあわ)せ、天下を授けた」と記しているためである。『書紀』もオホド王の出生地は 近江としているが、成長したのは越前であることを伺わせる次のような記述になってい る。


すなわち、オホド王の父・彦主人(ひこうし)王は近江国高嶋郡三尾の別業(=別荘)に いたとき、三国の坂中井(さかない)の振媛(ふりひめ)の美貌を聞き、呼び寄せて妃

(きさき)とし、オホド王が生まれた。しかし、オホド王がまだ幼い頃、彦主人王が死ん でしまった。親族もいない近江にあっては子育てもままならない、と将来に不安を抱いた 振媛は、オホド王を伴って故郷の越前三国の高向(たかむく)に戻り、オホド王を育て た。


つまり、オホド王の出生地は近江だが、幼少の頃母の実家のある越前の高向に移り住み、 そこで成長したことになる。そして、その地で大伴金村らに天下の主として迎えられた。 丸岡町の高田集落の中に、振媛を祭神として祀る高向神社(所在:坂井市丸岡町高田1-

7)がある。この神社が鎮座するあたりに、かって高向の宮があったと推察されている。 そうであれば、幼くしてこの地に移り済んだオホド王は、周囲の山野に親しみながら母方 の豪族の庇護のもとに成長をしていったにちがいない。』・・・と。


第2節 継体天皇と朝鮮半島との繋がり


継体天皇の母・振媛は加羅から来た王族の娘である。


継体天皇の母・ 振媛については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」において、「加羅 国王の血を引いていた。それは黒岩重吾の説であるが、私のそう思う。」と書いたが、黒

岩重吾は、その著「古代史の真相」の中で、『振媛は加羅から来た王族の娘と推測されま

す。なぜかといえばこの丸山の六呂瀬山古墳群から同時期の朝鮮半島南での冠帽が出土し ています。伽耶(加羅)の血を引く高向氏ということになる。』と述べている。


そこで私は、高向氏の祖先について考察し、確かに高向氏の先祖は朝鮮半島からやってき た渡来人であることを確かめた。その論文が「高向氏と朝鮮半島との繋がり」である。

『振媛は加羅から来た王族の娘』という黒岩重吾の説は正しいようだ。


さらに、継体天皇の父・彦主人王 (ひこうしのおう)は、 畿内豪族・息長氏の祖である

意富富杼王の孫であるから、息長氏は継体天皇の一族である。


息長氏(おきながうじ)は、「息長」を氏の名とする氏族。古代近江国坂田郡(現滋賀県 米原市)を根拠地とした豪族である。『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の 子、意富富杼王を祖とす。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。息長氏 の根拠地は美濃・越への交通の要地であり、天野川河口にある朝妻津により大津・琵琶湖 北岸の塩津とも繋がる。また、息長古墳群を擁し相当の力をもった豪族であった事が伺え る。但し 息長氏(おきながうじ)は 文献的に記述が少なく謎の氏族とも言われる。

では、息長氏に関する素晴らしいホームページを三つほど紹介しておきたい。 息長氏の本拠地:

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56809000.html


息長古墳群: http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/56011887.html


息長伝承地: http://okinaga.take1mg.com/newpage9.htm


さて、神功皇后のことであるが、 日本書紀では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこ

と)、古事記では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)として登場する架空の人 物。父は 息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)である。記紀によれば、息長宿禰王 は、2世紀頃の日本の皇族とされ、葛城之高額比売との間に息長帯比売命、息長日子王

(おきながひこのみこ、)などを儲けたとされている。

これらのことから、神功皇后は、伝説上の人物ではあるが、息長氏であるという認識で記

紀は作られたのである。


では、記紀が想定した神功皇后という人物は、実際はどういう人物に比定されるのであろ うか?


「伝承地に見る息長氏」という素晴らしいホームページがあり、それには次のように述べ ている。すなわち、


『 福岡県田川郡香春町大字香春733(豊前国田川郡)に「辛国息長大姫大目命神社(から くにおきながおおひめおおめのみことじんじゃ)」があります。私はこの神社の祭神であ る辛国息長大姫大目命の考察が息長氏の出自を解明する「カギ」になるのではないかと思っ ています。』


『 この「辛国息長大姫大目命神社」は香春神社と呼ばれ、神社由緒ではこの神社の創建年 代は不詳、祭神は神社由緒によると『第一座 辛国息長大姫大目命で神代に唐土の経営に 渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給う た。第二座 忍骨命でこの命は天津日大御神(天照大神)の御子にて、其の荒魂は第二の 岳に現示せらる。第三座 豊比売命。豊 比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御 母にして、第三の岳に鎮まり給ふ、各々三神三峰に鎭座し、香春三所大明神と称し崇め奉 りしなり。神社は前記三 柱の神を奉斎せる宮祠にして、遠く崇神天皇の御宇に創立せら れ、各神霊を香春岳頂上三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年に、一之岳の南麓に一 社を築 き、三神を合祀し香春宮と尊称せらる』とあります。辛国とは韓国、息長は息が長 いということで、ふいごの風がよく通るといわれ息長は「風の神」という説が あり。大姫 は神と人との間を取り持つ巫女的な存在であり大目は、たんに大きな目という意味ではな く、大目は「だいまなこ」と呼ばれ「だいまなこ」は「一つ 目」、いわゆる金属技術者 を指す「目一つの神」であるそうです。そうすると、辛国息長大姫大目命は、新羅から香 春にやってきて、ふいごを使って銅を採掘し 鋳造する技術者たちの信奉する「一つ目の 神」に仕える巫女ということになります。巫女といえば息長足姫(神功皇后)が連想され ます。』


『 豊前國の風土記にいわく。田河の郡 鏡山郡の東にあり 昔、氣長足姫尊(おきなが たらしひめのみこと)この山にいまして、遙かに國形を見て勅祈していわく。天神(あま つかみ)も地祇(くにつかみ)も我が為に福さきわへたまえ、と。すなわち、御鏡をもち て、この所に安らけく置きたまいき。その鏡すなわち石となりて、山の中にあるを見ゆ。 よりて名づけて、鏡山という。 鏡山とは香春町にある小山で山頂に鏡山神社があり、 ここにも神功皇后新羅征討前の伝承があるそうで、またこの山 の西隣には勾金(まがりか ね)陵墓参考地(河内王埋葬地)もあるそうです。』

『 豊前國風土記にいわく。田河ノ郡、鹿春郷郡の東北にあり 此の郷の中に河あり 鮎

あり。その源は、郡の東北のかた、杉坂山より出でて、直ぐに、ま西を指して流れ下り て、眞漏川につどい会えり。この河の瀬、清し。因りて清河原村となづけき。今、鹿春の 郷というは、よこなまれるなり。昔、新羅の國の神、自ら渡り来たりて、この河原に住み き。すなわち、名づけて鹿春の神という。』


『 「昔、新羅の國の神」に関しては「続日本後紀」(837)承和四年十二月条に「太宰府言。 管豊前国田河郡香春岑神辛国息長大姫大目命・忍骨命・豊比売命総 三社」また「延喜式」神 名には「田川郡三座」で「辛国息長大姫大目命神社・忍骨命神社・豊比売命神社」の三社が記 され、香春岳の三峰にそれぞれ鎮座してい たものを(709)和銅二年に一の岳の麓に社殿を 造営して三神を合祀したといわれています。 』


『 神 功皇后を氣長足姫尊と記しているのはこの風土記は「日本書記」完成後に書かれ たものと思われます。神功皇后を「日本書記」では氣長足姫尊。「古事記」では 息長帯比売 命。と記されています。「風土記」の神話・伝承説話等については、八世紀前半頃の「記紀」 編纂後に書かれたものが多いようですが、「記紀」の官 製神話・伝承よりも、地方の土着 的神話伝承なので、単なる伝承神話として無視できないものがあると思われます。』


『 宇佐宮託宣集には、「 或書にいわく。豊前の國宇佐ノ郷 菱形山。廣幡八幡大神  郡家の東の馬城峯の頂にいます。後また、人皇四十五代聖武天皇の御宇、神亀四年の歳に やどるとし、此の山につきて、神の宮を造り奉る。因りて廣幡八幡の大神の宮と名づ く。」と書かれている。』


『 広幡八幡大神とは日本全国で一番多いと言われる八幡神社の総本社である宇佐神宮の ことで、 延喜式神名帳には八幡大菩薩宇佐宮(応神天皇)、比売大神(多岐津姫命、市 杵嶋 姫命、多紀理姫命)、大帯姫(神功皇后)廟神社の三座として名神大社とあります。』


『 八幡神は戦神であり鍛冶神でもあり武具の制作にも優れた技術を持っていたよ うで す。この豊前の息長大姫大目命が香春神社由緒の如く「唐土の経営に渡らせ給比、崇神天 皇の御代に帰座せられ」た神功皇后系の息長なのか、息長とは辛国 から渡来してきた銅 の採掘、精銅の技術者集団の首長なのか? 数多くの「謎」に加えて 「記紀」記事の作為・ 矛盾性などがあり、素人では調べれば調べる程濃霧の中にいり出口を見失う始末です。こ の香春神社と息長氏の関連や九州から難波に至る 瀬戸内沿岸地域の風土記にも息長帯比

売命伝承が多く、これらを今後の考察課題として取り組みたいと思っています。・・・

と。

香春神社や香春岳のある地域は、秦氏の本拠地である。したがって、「 辛国息長大姫大

目命は、新羅から香春にやってきて、ふいごを使って銅を採掘し 鋳造する技術者たちの信 奉する「一つ目の神」に仕える巫女ということになります。巫女といえば息長足姫(神功 皇后)が連想されます。」・・・という 上述の文章の中の、「銅を採掘し 鋳造する技術 者」とは秦一族であると私は考えるのである。そして、私は息長氏は秦一族であることは 間違いないと考えている。


私は、 継体天皇の父・彦主人王 について語り始める際に、「継体天皇の父・彦主人王

(ひこうしのおう)は、 畿内豪族・息長氏の祖である意富富杼王の孫であるから、息長 氏は継体天皇の一族である。」と述べた。畿内豪族・息長氏が秦氏であるとすれば、継体 天皇の一族に秦氏がいるということになる。畿内豪族・息長氏が秦氏であるということに ついては、 以上の他にも状況証拠があるので、 この論文の第4章においても述べること とする。秦氏の近江の一大拠点である琵琶湖の湖東(愛知川)に、隣接するようなかたち で、多賀の犬上氏や米原の息長氏がいるのである。

第2章 わが国と朝鮮半島との繋がりの歴史について


第1節 わが国の古代朝鮮との繋がり(概要)


私の論文「邪馬台国と古代史の最新」より、古代朝鮮への進出に関連する記事をピック アップすると次のとおりである。


九州での磐井氏の出現は、畿内の豪族たちの考えを大きく変えるきかっけとなった。北九 州が大和政権に反発する地域 になることは、当時としては唯一鉄の輸入窓口を押さえら れることであり、大和政権の維持は出来なくなる。これをどうするか、多くの畿内豪族 は、この一点で 意見が一致した。つまり、磐井氏に対抗できる強力な天皇が必要になっ たのである。 継体の母は「振媛」で、振媛の母親は加羅国王の娘といわれている。つま り、継体は、父は応神天皇の血を引く畿内豪族・息長氏で、母は加羅国王の血を引いて いたので、新羅と対抗できると見られたのである。


振媛の母親が伽耶国出身というのは黒岩重吾の説であるが、私もそう思う。記紀による と、継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、その応神天皇は新羅系である。この点につい ては、藤原氏の権威とは関係しない部分であるので、私は、応神天皇や継体天皇に関する 記紀の記述にごまかしはないと思うのである。


継体天皇の大和入りは、大伴・物部・蘇我・巨勢などの豪族の合議によるものであった が、平群氏、三輪氏、葛城氏は大反対であった。さあ、そこで問題なのは、 なぜ蘇我氏 は継体天皇側についたのかということだ。蘇我氏が新羅系ということもあるかもし得ない が、実は、次のような事情もあったのである。 越前の国・三国の坂中井は、九龍川の下流域に位置し交通の要所であった。「国造本紀」 によれば ここに三国(みくに)の国造が置かれ、蘇我氏一族の若長足尼(わかながのす くね)がその任にあたっていた。蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭 してくる豪族であることを考えると、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。 蘇我氏は、そのために葛城氏を裏切るのだが、ともかくそうした経緯を経て、十数年後に 継体天皇は、葛城からはほど近い「磐余の玉穂宮」で即位する。そして、その2年後に継 体は 新羅・磐井の連合軍と戦っている。そのころの磐井は、勢力を伸ばし、北九州をほ とんど制圧していた。一方、朝鮮半島では新羅が倭国と関係の深い加羅を併合し始めてい た。継体天皇はこれと戦ったのである。いわゆる磐井戦争は、畿内からは物部氏、大伴氏 などの軍事力が主力であった。戦争は1年ほど続き、物部麁鹿火(もののべのあらかひ) が御井(みい)で磐井を破った。この段階で、大和朝廷は、天皇を中心にした、物部氏と 蘇我氏の二大巨頭体制ができ上がる。葛城氏は完全に衰退してしまうのである。葛城氏に 蘇我氏が取って代わったということだ。かくて、葛城の主は蘇我氏となったのである。

弓月君が率いる秦一族が 加羅(から) から大挙大和にやってきたのは応神天皇の時代で

ある。しかし、実は、応神天皇が産まれる以前から、秦氏は 加羅(から) から大和に やってきていたらしい。加羅(から)は、百済と新羅に挟まれるようにして朝鮮半島の南 端にある小国だが、伽耶(かや)とも呼ばれたりしている。加羅(から)と呼ばれる以前 は、弁韓と呼ばれていた。 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたと ころで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがっ て、加羅(から)は朝鮮といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の 国の人びとが住んでいた特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考 えた方が良いと思う。無理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の 大阪の堺(さかい)のように、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた 方が良いのかもしれない。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤ マト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で 統治権を有していたことが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人 による自治組織の発達した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族 がどのように定着していたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王 も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍していたと想像している。


邪馬台国の時代、倭国は、邪馬台国を中心に政治的に安定していたが、その後、倭国は、 良きリーダーに恵まれなかったようである。加羅、これは九州北部と密接な関係を持った 朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあったが、この加羅の交易 の自由とこの小国の自治を守るために、倭国の良きリーダーが待望されていたのである。 そこで、秦氏の始祖・功満王の活躍が始まる。大商人の働きかけがあったかもしれない。 秦氏の始祖・功満王の憧れの地は、大和であった。そこで大和の若きリーダーの発掘に動 き、筑後川流域の「ホムダワケ」を見いだすのである。そして大和に出かけて、物部氏へ の説得工作に努力する。そして、説得に成功。秦氏の始祖・功満王は、物部氏の全面的な 協力を得て、応神天皇の擁立に全精力を傾けるのである。応神天皇誕生の立役者は秦氏の 始祖・功満王である。


「白村江の戦い」の総司令官は、現在の静岡県静岡市清水の豪族「庵原氏」であった が、何故静岡市清水に庵原氏がいたのか? ほとんどの人はそういうことを知らないと思 う。しかし、多くの人が知らないような事実、旧石器時代から連綿と続くところの厳然た る史実があるのである。 庵原氏のことについては紙枚の関係でここに述べれないが、そ の答えを私のホームページに詳しく書いたので、それを是非見て欲しい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/atamiaa.pdf

私の論文「邪馬台国と古代史の最新」 第8章第2節の6の(2)「翡翠の道」で述べたよ

うに、倭国の大商人のネットワーク組織がいくつかあった。そういう大商人は、人口密度 のか高いところ、つまり政治の中心に引き寄せられてくる。河内王朝の時代、そういった 大商人のネットワークを通じて多くの渡来人が大阪にやってきたようだ。そのことについ て、中沢新一は「大阪アースダイバー」(2012年10月、講談社)の中で次のように 述べている。すなわち、


『 南朝鮮から北陸、北部九州、瀬戸内海沿岸部は、6世紀くらいまではひとつの共通世 界を形づくっていました。「カヤ(伽耶)」である。その世界を、舟を使って自在に行き 来していたのが、海民と呼ばれる人びとです。海民は玄界灘を渡り、能登半島の方にまで 行き来していました。その共通世界における東の突端が大阪でした。彼らの言葉は共通言 語で、方言ほどの違いしかなかったのではないかと言われています。』・・・と。


琵琶湖周辺の古代豪族を見ても、琵琶湖周辺には大和朝廷とは浅からぬ繋がりを持った豪 族がひしめいていたようである。まず、伊香氏をあげねばなるまい。伊香氏は湖北の名族 である。伊香氏とともに強大な勢力をもって いたのが息長(おきなが)氏。息長氏の本 拠も伊吹山西麓、現在の近江町あたりである。さらに、湖北最大の規模を誇る茶臼山古墳 の主ともいわれる酒の祭神・ 坂田氏(坂田郡の地名)や犬上氏(犬上郡)、 鹿深氏(か ふか→甲賀郡) など、琵琶湖周辺には古代豪族に由来する地名が非常に多く残ってい る。これは地名として残っている訳ではないが、三尾氏のことに触れないわけにはいかな い。私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第4章第2節「琵琶湖周辺の豪族」において

「白鬚明神と三尾氏」のことを詳しく述べているので、三尾氏のことについては「邪馬台 国と古代史の最新」をご覧いただきたい。


私は、歴史の連続性というものを重視していて、歴史的な出来事というのは、何らかの形 でその後も影響を与えているので、「過在」をみて過去のことを考察することが大事であ ると考えている。地理学という学問があり、その権威にオギュスタン・ベルクという人が いる。我は和辻哲郎の「風土」というものが一体どういうものかまったく理解ができず、 それを勉強するために日本に移住してきた人であるが、彼は「風土」とは自然の赴きであ り、歴史の赴きであると言っている。プラトンの「コーラ」も「風土」みたいなものであ るが、私はオギュスタン・ベルクの「風土」やプラトンの「コーラ」に加えてさらに、人 びとの生きざまがその土地に染み込んだものが風土であると考えているが、そこにそうい うものが何故あるかを問うものが哲学を含む地理学である。だから、何故琵琶湖周辺に技 術者集団を卓越しているのかを考察するのは、そういう地理学である。 現在見える枝葉 を見て見えない根っこの部分を考察する「根源学」といっても良い。そういうものを意識 して、まずは、琵琶湖周辺の技術者集団について、白州正子の考えを紹介しておきたい。

白州正子の名著「かくれ里」(1991年1月、講談社)の「金勝山(コンショウザン、

コンゼヤマ)をめぐって」という論考がある。金勝山は最近は近江アルプスと呼ばれてい るが、琵琶湖の南にある連山で、その南側に信楽がある。山を巡って古い寺や神社があ り、この地域には過去の歴史や文化の名残が残っている。それを地理学的に考察していけ ば、邪馬台国が近江であったとしても不思議でないように思えて来るだろう。何故そこに 多くの古い寺や神社があるのか、何故そこに多くの技術者いたのか。同様の疑問をもう一 つ出しておこう。それは最澄のことである。彼は比叡山の琵琶湖側・坂本の出身である が、最澄のような偉大な人が何故近江から出たのか? それらに共通する答えは渡来人が 多かったということだが、では何故琵琶湖周辺に渡来人が多かったのか? それが根源的 な問題であって、地理学的というか哲学的というか、根源学的な考察をしていけば、多 分、琵琶湖周辺に渡来人が多かったのは、邪馬台国が近江にあったということがほんのり 見えてくる筈である。金勝山は栗東市荒張というところにある。


応神天皇東遷には、その準備にそれなりの年月を要したものと思われる。まず、功満王は 瀬戸内海地方に秦一族を送り込み、その地方の豪族との融和を図らなければならなかった であろう。もちろん、その際には、瀬戸内海の制海権を有していた物部氏の協力が必要で あったことは言うまでもない。いろいろと準備を重ねて、応神天皇と物部一族と秦一族の 連合軍は、淡路島にやってくる。それまで長い年月を要したが、遂に、淡路島にやってき たのである。それから大和に入るまで、紀伊の豪族との融和工作にさらなる時間を要した だろう。その間、応神天皇は淡路島と小豆島あたりにしばらく待機していたようだ。そし て、遂に、紀ノ川を遡って大和入りを果たすのである。


以上が、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」より、古代朝鮮への進出に関連する記事を ピックアップしたものであるが、念のため、古代朝鮮に関する記事を再掲しておこう。


『 加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚 川の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮 といえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた 特殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考えた方が良いと思う。無 理に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の大阪の堺(さかい)のよ うに、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いのかもしれな い。そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣され た倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたこ とが学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達 した特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着して いたのかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リー ダー的存在として活躍していたと想像している。

この文章の中で、私は、三つの重要なことを述べている。一つは、 加羅は、弁韓ができ

る前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川の翡翠、九州腰岳産の 黒曜石などが発見されているということ、二つ目は、加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣 された倭人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有してい たこと、三つ目は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー的存在として活躍して いたのではないかということである。


三国志魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そ のため辰韓と呼ばれるようになったという。宋書倭国伝では、通称「倭の五王」の記事に は秦韓が現れる。水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも 呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べているが、辰韓は 秦韓とも呼ばれていたのである。弓月君の帰化の伝承は、この辰韓、秦韓の歴史に関係す るとも考えられている。すなわち、秦氏の祖先を知るためには、古代朝鮮の辰韓について 知る必要がある。したがって、次の節では、古代朝鮮の歴史を勉強することにしよう。


邪馬台国の時代、倭国は、邪馬台国を中心に政治的に安定していたが、その後、倭国は、 良きリーダーに恵まれなかったようである。加羅、これは九州北部と密接な関係を持った 朝鮮半島南端のもともと交易を中心として栄えた地域であったあったが、この加羅の交易 の自由とこの小国の自治を守るために、倭国の良きリーダーが待望されていたのである。 そこで、秦氏の始祖・功満王の活躍が始まる。大商人の働きかけがあったかもしれない。 秦氏の始祖・功満王の憧れの地は、大和であった。そこで大和の若きリーダーの発掘に動 き、筑後川流域の「ホムダワケ」を見いだすのである。そして大和に出かけて、物部氏へ の説得工作に努力する。そして、説得に成功。秦氏の始祖・功満王は、物部氏の全面的な 協力を得て、応神天皇の擁立に全精力を傾けるのである。応神天皇誕生の立役者は秦氏の 始祖・功満王である。


第2節 古代朝鮮の歴史について(概論)


1、高句麗

朝鮮の歴史における三国時代(さんごくじだい)とは朝鮮半島および満州に高句麗、新

羅、百済の三国が鼎立した時代をいう。日本の歴史学ではおよそ4世紀ころから7世紀こ ろまでを指す。三国時代は、3世紀頃から始まるという説もあるので、ここでは三国時代 は、3世紀、あるいは4世紀ころから始まるとしておきたい。


邪馬台国の時代は3世紀である。その3世紀、あるいは4世紀ころから始まる古代朝鮮の 三国時代における三国(高句麗、百済、新羅)には伽耶は含まれていない。しかし、百済 と新羅に隣接して、伽耶は存在していた。


伽耶(かや)は加羅(から)のことである。広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置 が異なる。


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加羅 は、『三国遺事』「駕洛国記」のことを載せている。金官国は、朝鮮半島における

倭国の北端であり、魏志倭人伝における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる国であ り、金官国を中心とする地域は、三韓すなわち弁韓辰韓馬韓の一部を含むとみなすの が通説である。


さて、高句麗のことだが、 高句麗は鴨緑江以北にあり、紀元前37年に漢から独立し た。そして、邪馬台国ないしその後の4世紀頃、高句麗の二王子が王位の継承争いから逃 れ、東明王の子温祚が半島の南西部に百済を建国し、そののち加羅が百済から自立したと 言われているので、百済や加羅は高句麗から別れた国であると言っても良い。

220年の後漢の滅亡が、高句麗、百済、斯盧の発展を許した。三国は皆同じ文化を共有 し儒教がそれら三国の上流階級に広がった。後に儒教は仏教に入れ替わった。


三国のうちで最大であった高句麗は、鴨緑江沿いの国内城とその山城である丸都城の二つ の並存された都をもっていた。建国の始めには高句麗は漢との国境沿いにあり、ゆっくり と満州の広大な土地を征服していき、最後には313年に楽浪郡・玄菟郡を滅ぼし領域に 入れた。4世紀には、百済が栄え、半島の広い地域を支配した。


391年に即位した19代王の好太王後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を 討って百済王を臣従させた。


その頃、倭が朝鮮半島へ進出を始め、一時、倭が百済や斯盧を破り臣民としたこともあ る。


石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369)、百済王から倭王に、国交開 始を記念するためであろう、七支刀が贈られたことが記され、広開土王碑に辛卯(391) より甲辰(404)まで、倭が百済、斯盧と交流をもちつつ,高句麗とはげしく戦ったこ とが記録されている。その主体となった倭王はヤマト王権をさす。


百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に 送って国交を結び、399年に倭に服属した。


また、倭の攻撃を受けた斯盧は高句麗に救援を求めると、好太王は斯盧救援軍の派遣を決 定、400年に高句麗軍が斯盧へ軍を進めると斯盧の都にいた倭軍は任那、加羅へ退き、 高句麗軍はこれを追撃した。これにより斯盧は高句麗の朝献国となった。


高句麗は、5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大 し、当初高句麗系の高雲を天王に戴く北燕と親善関係を結んだ。この時代には領域を南方 にも拡げ、平壌に遷都した。そして、長寿王は百済の首都を陥落させて百済王を殺害、百

済は南に移動している。高句麗は、この時期、満洲南部、遼東半島朝鮮半島の大部分を

支配するに至った。


しかし5世紀末になると百済と斯盧が強くなり、百済と斯盧の連合により南部の領土を奪 い返されている。


隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。高句麗は緒戦で善戦し、唐の が親征した第1次侵攻を撃退、百済と結んで新羅を攻めた。高句麗と百済の連合軍 対 唐と新羅の連合軍との戦い、新羅の宗主国である唐はこれを受けて新羅を全面支援した結 果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力も一掃されたた め、高句麗は孤立した。さらに高宗の時代になって唐が戦略を持久戦に転換した結果、高 句麗の国力消耗は著しくなり、その上に淵蓋蘇文の死後子の間で内紛が生じると、これを 機に唐・新羅連合軍は第3次侵攻を起こして王都平壌を攻め、668年に宝蔵王は投降。 ここに高句麗は滅亡した。


斯盧国は、新羅の前身であるが、4世紀に、加羅を吸収したことが知られている。斯盧国 は6世紀の初頭に新羅と国号を改めた。その新羅は唐と結んで唐・新羅の同盟)、66

0年に百済をそして668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一 された新羅の時代がはじまったのである。


2、百済


百済は4世紀中頃に国際舞台に登場する。それ以前の歴史は明らかでない。百済の始祖に ついては、少なくとも3種の異なる系譜が伝えられているが、いずれも扶余につながるも のとなっている。扶余は、満州の古い時代の地名であり、後年、高句麗の領土になってい るので、高句麗に攻められて扶余の支配者が百済の地に逃げてきて、百済を建国したかも しれない。これは私のかってな想像だが、百済を建国の歴史的事実は史料的に全く不明で ある。中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日 本書紀では肖古王、古事記では照古王とする。百済を建国がいつ頃なのかは判らないのだ が、私は、高句麗の建国よりずっと後であると考えている。

百済は、古代朝鮮の三国時代の高句麗、斯盧(しら)ならびに新羅と並ぶ強国であるが、

高句麗、斯盧(しら)ならびに新羅とは争い続け、遂に、新羅を支援した唐によって滅ぼ され、故地は最終的に新羅に組み入れられた。


百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返した。369年には、倭国へ 支刀を献上している。浜田耕策は、山尾幸久の分析を踏まえたうえで、これは百済王が原 七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当時百済が高句麗と軍事 対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するため だったとしている。 近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこ ともある。しかし、その後は高句麗の好太王長寿王のために押され気味となり、高句麗 に対抗するために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。


百済が盛んに高句麗と争っていた頃、倭が朝鮮半島へ進出を始め、一時、倭が百済や新羅 を破り臣民としたこともある。


東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権 の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。新羅と は同盟関係を結び、百済の安定した時代もあったが、しかし、6世紀に入ると、新羅が大 きく国力を伸張させ、百済は劣勢に陥っていく。


百済の聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭国への先進 文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮半島 の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句 麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。


新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、 黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新 羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」と「新羅-唐」 の対立となり、わが国もこの争いに巻き込まれていく。大和朝廷にとって、如何に百済を 支援するかが外交の焦点となった。


石上神宮の七支刀(しちしとう)の銘に,泰和4年(369)、百済王から倭王に、国交開 始を記念するためであろう、七支刀が贈られたことが記され、広開土王碑に辛卯(391) より甲辰(404)まで、倭が百済、新羅と交流をもちつつ、高句麗とはげしく戦ったこ とが記録されている。その主体となった倭王はヤマト王権をさす。

百済はいったん高句麗に従属したが、397年、阿シン王の王子腆支を人質として倭に

送って国交を結び、399年に倭に服属した。


また、倭の攻撃を受けた斯盧は高句麗に救援を求めると、好太王は斯盧救援軍の派遣を決 定、400年に高句麗軍が斯盧へ軍を進めると斯盧の都にいた倭軍は任那、加羅へ退き、 高句麗軍はこれを追撃した。これにより斯盧は高句麗の朝献国となった。


斯盧国は、新羅の前身であるが、4世紀に、加羅を吸収したことが知られている。斯盧国 は6世紀の初頭に新羅と国号を改めた。その新羅は唐と結んで(唐・新羅の同盟)、66

0年に百済をそして668年に高句麗を滅ぼした。これによって三国時代は終わり、統一 された新羅の時代がはじまったのである。


隋が滅びて唐が興ると、今度は唐が高句麗遠征を行った。新羅の宗主国である唐は新羅を 全面支援した結果、660年には百済が滅亡、663年の白村江の戦いで百済の残存勢力 も一掃されたため、百済の人びとは宗主国・大和朝廷を頼り日本にやってくるのである。


3、 新羅


中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国の秦(紀元前778 年~紀元前206年)の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄 権を持っていた」と記述している。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である 辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと 主張している。

なお、『後漢書』辰韓伝では、以下のように記載される。


辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊 為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。


辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲した のだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称 し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。

三国志』魏書辰韓伝では、以下のように記載される。

辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。


辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者 で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。

晋書』辰韓伝では、以下のように記載される。


辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是 或謂之為秦韓。


辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲 したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似している ため、あるいはこれを秦韓とも言う。


これらの中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃 亡してきた秦人の国という。

また、『北史』新羅伝には、


新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人 避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。


新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡 の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代 に苦役を避けて到来し た逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。そ の言語や名称は中国人に似ている。

との記述がある。


また水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていた ため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている。当初は様々な書き方を していたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。

つまり、新羅の前身となった国は、さまざまな名称で呼ばれたが、その国は、秦の時代

( 紀元前778年~紀元前206年 )の建国と考えられているので、邪馬台国よりもっ と古い紀元前という時代に、 6世紀に新羅となるその地域には中国からの移民があった のである。新羅の前身となった国は、当初は秦韓と呼ばれ、のちに斯盧国と呼ばれ、新羅 建国の直前は辰韓と呼ばれていた。


斯盧国は、4世紀の始めに、国境を接していた伽耶(加羅)を吸収したことが知られてい

るが、加羅は、朝鮮半島における倭国の北端である『三国志』魏書東夷伝倭人条の項目

(魏志倭人伝)における狗邪韓国(くやかんこく)の後継にあたる金官国を中心とする地 域、三韓の弁辰、弁韓および辰韓の一部、馬韓の一部(現在の全羅南道を含む地域)を含 むと看做すのが通説である。右の図は、斯盧国が伽耶(加羅)を吸収する直前の図であ る。


この図で新羅とあるのは誤りで、4世紀の初め頃は、斯盧国と呼ばれていたので、図の新 羅は斯盧(しら)と読み替えて欲しい。


4、加羅と倭人


(1)加羅について


伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。加羅諸国(からしょこく)は、3 世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在し ていた小国家群を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異 なる。以下、本文上は加羅で統一する。


農耕生産の普及と支石墓を持った社会形態などの考古学資料からの推定により紀元前1世 紀頃に部族集団が形成されたと推測されてきている。1世紀中葉に倭人の国で最も北に位 置する狗邪韓国(慶尚南道金海市)とその北に位置する弁韓諸国と呼ばれる小国家群が出 現している。


(2)狗邪韓国(別名金官国伽倻、金官加羅国) 魏志倭人伝では、

(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国を歴(へ)、乍(あ るい)は南し乍(あるい)は東し、其(そ)の北岸の狗邪韓国に到り、七千余里。 始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国へ至る[1][2]。 とあり、狗邪韓国は倭の北部で沿岸の国と記述している。

狗邪韓国(金官国)となる地域は、弥生時代中期以後になると従来の土器とは様式の全く

異なる弥生式土器が急増し始めるが、これは後の狗邪韓国(金官国)に繋がる倭人が進出 した結果と見られている。


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(3)倭


紀元前から中国各王朝が日本列島を中心とする地域およびその住人を指す際に用いた呼 称。七世紀に国号を「日本」と定めるまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国(わこ く)と自称した。倭の住人を倭人(わじん)という。


(4)倭人(わじん)


狭義には中国の人々が名付けた、当時、日本列島に住んでいた民族の古い呼称。広義には 中国の歴史書に記述された、中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の主に海上において 活動していた民族集団。一般にそれらの集団の一部が日本列島に定着して弥生人となった と考えられている。

(5)中国正史の記録

中国の正史には倭国の領域に関して次のように記されている。 魏志倭人伝

「(帯方)郡より倭に至るには海岸にそって水行、韓国を経て、南へ行ったり東へ行った

りしてその北岸(倭国の北岸)狗邪韓国に到ること七千余里。はじめて一海をわたり千 余里で対馬国に至る」

魏書東夷伝韓条

「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓 には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にあ る」


魏書弁辰伝によると、辰韓弁韓は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、 五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、縑布を作った。鉄の産地であり、韓、、倭な どが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のよ うであった。また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬 韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。


『後漢書』東夷伝倭人条

「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ百余国ある。武帝が衛氏朝鮮を滅ぼ してから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では皆が王を称するこ とが代々の伝統 である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡の境界から、その国(邪馬台国)ま では一万二千里、その西北界(邪馬台国の西北界)の拘邪韓国から七千余里。その地はだ い たい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似しており、その法俗も多くが同じであ る」。


いずれも狗邪韓国を倭国の西北界と記述している。そして、狗邪韓国は韓と陸続きであ り、対馬とは海を隔てていることになる。これは、狗邪韓国が朝鮮半島南端部にあったこ とを意味し、同時に狗邪韓国は倭の支配領域であったことになる。実際に朝鮮半島南端部 では倭系遺物(銅矛・弥生式土器)などが多量 に出土している。このことも倭の支配地 だったことを裏付けている。歴史時代に入っても朝鮮半島南端部は加羅国、伽耶国などと 呼ばれ、任那日本府があったと 日本書紀にも記述されている。

この狗邪韓国の存在は三世紀邪馬台国の時代ことである。一般にはこれより後の時代に

なって、朝鮮半島南端部が倭国に所属するようになったと言われているが、中国正史の記 録は三世紀時点で朝鮮半島南端部が倭に所属していたことを示している。中国正史の記録 は倭に所属した直後であるような表現が見られないので、三 世紀よりはるか前に朝鮮半 島南端部は倭に所属していたことになる。


(6)韓国人に不都合な半島の歴史 拳骨拓史著 による)


韓国の王墓から日本のモノが出土するのは、1971年の宗山里古墳群で発見された百済 の第25代王、武寧王(ぶねいおう)(462~523)の墓が有名でああろう。 武寧王は高句麗からの圧力をくいとめ、南方では百済の支配力を強化するなど、国力の充 実に努めた国王であった。513年には日本に五経博士を送るなど、活発な外交を展開し たことでも知られている。 この王墓からは、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキで作られていることが判明し、 大きな話題となった。 青銅器は日本において、朝鮮半島より弥生時代前期末から中期初頭にかけて伝来したと考 えられ、明らかに半島のものと異なる青銅器についても、朝鮮半島から渡来した工人がつ くったものと理解されてきた。


だが、1917年に慶尚南道金海で日本製の中広銅鉾が発見されたほか、現在、釡山市の 東亜大学校博物館が所蔵する多くの銅鉾が、日本製であることが明らかになっている。 また韓国から伝来した小銅鏡は、北九州などで出土しているが、朝鮮半島でも日本の銅鏡 が出土し、釡山大学校や韓国国立慶州博物館などに所有されている。 朝鮮半島で出土する日本の鏡は、九州の弥生時代後期中頃には製作さていたものであった

(小田富士雄・武末純一「日本から渡った青銅器」、韓炳三編「日韓交渉の考古学・弥生 時代篇」所収、六興出版)。 じつはこのことは、韓国史を紐解くと、不思議なことではないことに気付く。


韓国の新羅建国に関わった、 瓠公 (ここう)という人物がいる。彼は日本人であるとさ れ、腰にひょうたんをぶら下げて海を渡ってきたから、 瓠公 (ここう) と呼ばれたとい う。


(7)瓠公(ここう)

瓠公(ここう)は、新羅の建国時に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智

を発見する。もとは倭人とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代 の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと


(8)任那日本府(みまなにほんふ)


任那日本府(みまなにほんふ)は、倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関と して日本書紀に言及されているものであるが、学説としては定まっていない。


しかし、少なくとも、下記に列挙される史実を根拠として、倭国と関連を持つ何らかの集 団(倭国から派遣された官吏や軍人、大和王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官 僚、等々)が一定の軍事的・経済的影響力を有していたと見られている。


1. 『日本書紀』をはじめ、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示す史料 が存在する。

2. 広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されているなど、朝鮮半島での 倭の活動が記録されている。

3. 新羅、百済、加羅の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領 では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、 東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がないことに加えて、最 新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであ ることが判明している。

4. 幾多の日本列島独特の墓制である前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されてい るが、この地は任那四県とよばれる広義の任那の一部である。

5. 宋書倭国伝のなかで451年、宋朝の文帝が、倭王済(允恭天皇に比定される)に 対し、「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと いう記述がある。さらに、478年宋朝の順帝が倭王武(雄略天皇に比定される) に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の 号を授けたと記述している。

第3章 わが国の古代朝鮮との繋がり(各論)


第1節 渡来人について


日本地域には多くの渡来人が来ている。渡来の波は大きく4回あるといわれる。第4の波 は継体天皇の後のことであるが、それまでの実績が大きく関係しているので、以下におい て第4の波についても紹介しておきたい。


何故これだけの渡来人がわが国にやって来たのか、不思議な気がする。倭国と呼ばれてい た時代から、いやそれ以前の時代からわが国の人びとが朝鮮半島に進出していたこと、朝 鮮半島では王権の争いが激しかったこと、それにわが国の王権が関わっていたことが原因 下と思われるが、渡来人を日本に引きつける日本側の魅力も大きかったと言うことであろ う。


さらに王権と関係を持った渡来人以外にも、日本に渡来した人々がいた。長野県に見られ る渡来人関係の遺跡などである。これなどは中央との関係では説明のつきにくいものもあ る。


(1)第1の波(紀元前5世紀~3世紀)


第1の波は紀元前5世紀から始まる波である。中国では戦国時代(紀元前403年に晋が韓・魏・趙

3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による中国統一がなされるまでをいう。)で、群雄割拠の時代を

迎えていた。そのため中国から朝鮮半島に移る人が多く、さらにこれに押し出されるよう に朝鮮半島から日本に来た人々が多くいた。また、朝鮮半島経由でなく、中国大陸から直 接、稲作の技術をもった人たちが九州にやってきた。日本はそれによって農耕を中心の弥 生時代に移行した。多くの集落が稲作に適した平野の近くに作られるようになったし、富 の蓄積によって権力者が誕生して日本各地にクニグニが発生したのである。そして、3世 紀になって、遂に邪馬台国が朝鮮半島に進出する。


(2)第2の波 4世紀~5世紀


日本では応神・仁徳天皇など倭の五王の時代にあたる。この時期中国東北では、慕容氏が 南下して、それに押されるように高句麗朝鮮半島を南下しはじめ、新羅は高句麗の影響

に置かれた。それに押されるように日本にも渡来が増えた。この時期日本では大王はじ

め各地の有力豪族は、領域内の経済的、文化的発展と政治的支配力の強化を図っていた。 そのため渡来人の技術が必要とされた。4世紀後半になると、ヤマト政権は畿内から西日 本へ勢力を拡大した。この中で、新羅との関係が深いとされる秦(はた)氏や、百済との 関係の深い東漢(やまとのあや)氏などはこの時期に渡来して、文筆や外交に携わった。 東漢(やまとのあや)氏は、秦氏と並ぶ朝鮮からの二大渡来系氏族である。東漢(やまと のあや)氏は阿知王に率いられて明日香の檜隈(ひのくま)にやってきたのである。阿知 王については、私の小論文があるので、是非、ご覧いただきたい。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/asukaati.pdf


なお、秦一族の渡来は幾波もあったが、最初にやって来た時は、まだ新羅という国はな

かった。その前身・斯盧(しら)という国である。その後、6世紀に新羅が建国されてか らも、新羅から多くの秦一族がやってきたので、秦氏は新羅系となっているのではないか と思われる。


(3)第3の波 5世紀末~6世紀


雄略、継体、欽明天皇の時期に当たる。朝鮮では新羅が急速に台頭し、伽耶、百済と対立 した。百済は高句麗に都の漢城を落とされ(476)熊津に遷都し、さらに泗沘(扶余)に都 を遷す(538)など深刻な政治情勢に陥り、日本は機内中心の古代国家の形成が本格化してい た。支配体制の動揺を迎えつつ、新たな国家体制を作ろうとしたため、国家統治の技術と して、渡来人の最新の知識や技術を必要とした。そのために積極的に渡来人を受容した。


今来の才伎(いまきのてひと)と言われる人たちで、王辰爾の後裔とされる一族(船氏、 葛井、津氏)もこの時期に勢力を伸ばした。他にも綿織や綾織などの技術をもたらした錦 部、須恵器をもたらした陶部などが相次いで渡来してきた。他にも百済から画部、手人 部、鞍部、衣縫部、韓鍛冶部、飼部などが渡来する。


彼らは交通の要衝で西文氏の地盤であった河内古市付近や、飛鳥近傍の東漢氏の地盤で あった高市郡に配され、それまでに定着していた渡来人と一緒となって、他とは文化的に 異なった地域を形成していった。河内では5世紀中頃から勢力の中心が西文氏から船氏に 移り、大和でも東漢氏も実務から離れ、今来の人々と政府の仲介を行うようになる。渡来 人の力は為政者に独占され、生産力の向上や富が蓄積されていき、6世紀には各地で群集 墳が築かれるようになった。

(4)第4の波 7世紀後半


新羅が伽耶を滅ぼしたことをきっかけに、ヤマト政権は新羅と関係を持つようになる。ま た、中国との関係も復活した。しかし、それも百済滅亡(660)、高句麗滅亡(668) によって一度途絶える。日本には百済や高句麗から多くの人が渡来した。これに対応して 百済人男女400を近江神崎郡、百済人男女2000名を東国、百済人男女700名を近 江蒲生郡に配した。一方で高句麗からも 高麗王若光 らが来ているが、高麗人687 名を常陸国に、さらに高麗人1799名を武蔵国に配している。新羅とも国交が回復し て、新羅人を下野国に配した。


第2節 大和朝廷と百済との繋がり


(1)百済について


建国時期が書かれている『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になってお り、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。歴史的な建国時期に関しては、 三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀 説までさまざまな説がある。またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書 かれた三国史記の内容には隔たりがある。


通説では『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国が前身だと考えられているが詳細は 不明である。


中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。日本の古 事記では、応神天皇の治世に照古王の名が記されている。


その頃の百済の都は現在のソウルの漢江南岸にあり、漢城と呼ばれた。紀元前1世紀から 紀元後3世紀の間に作られたと考えられているソウルの風納土城や夢村土城がその遺跡と 考えられている。漢城時代の百済は拡大を続ける北方の大国・高句麗との死闘を繰り返し た。


369年には、倭国へ七支刀を献上している。浜田耕策山尾幸久の分析を踏まえたうえ で、これは百済王が原七支刀を複製した刀を倭王に贈ったものだと推論し、この外交は当 時百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋冊封関係を結び、次いで倭国と友好 関係を構築するためだったとしている。


応神天皇擁立は400年頃だから、その少し前370年頃から百済はヤマト王朝の友好関 係を望んでいた。それ故に、ヤマト王朝最大の実力者物部氏のところに、秦氏を通じて七 支刀を送ったのである。ヤマト王朝とは、邪馬台国を継承して成立した大和盆地に王朝 で、全国各地の王権の連合体である。後漢書では、その連合体の王を大倭王と書いてい る。370年頃は、邪馬台国よりだいぶんあとになるので、大倭王が誰であったか、不明 てある。しかし、後漢書では 大倭王がいたことになっている。


近肖古王は371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこと もある。


しかし、その後は高句麗の好太王長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗する ために倭国と結ぶようになった。この間の事情は好太王碑文に記されている。

高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の北魏との関係が安定するとますます百済に対する

圧力を加えた。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済 同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とさ れ、蓋鹵王が戦死した。


王都漢城を失った475年当時、新羅に滞在していて難を逃れた文周王は都を熊津(現・ 清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。


東城王の時代になって中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権 の伸張を図り南方へ領土を拡大して、武寧王の時代にかけて一応の回復を見せた。しかし 6世紀に入ると、新羅が大きく国力を伸張させ、高句麗南部へ領土を拡大させた。このよ うな中で百済の聖王は538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。この南 遷は百済の領土が南方(全羅道方面)に拡大したためでもあると考えられる[


聖王によって泗沘に都が遷されると同時に、国号も南扶余と改められたが、この国号が国 際的に定着することはなかった。この頃、かつての百済の都だった漢江流域も新羅の支配 下に入り、高句麗からの脅威はなくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対 立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送り、倭 国への先進文物の伝来に貢献したが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおい て朝鮮半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は 次第に高句麗との同盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。


新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求めた。そこで高句麗と争っていた唐は、 黄海に面した領土を獲得していた新羅経由で、日本からの遣唐使を帰国させるなどして新 羅の要請に応えた。この時代の朝鮮半島は遠交近攻による「百済-高句麗」(麗済同盟) と「新羅-唐」(唐羅同盟)の対立となり、どちらのブロックに与するかが倭国の古代東 アジア外交の焦点となった。


660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領し た。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百 済は滅亡した。


唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅 亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在 していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派 遣し、斉明天皇筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。


帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害す るという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年 倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。これに大敗した倭国 は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。この白

村江の戦いによって百済の残党はことごとく政治の世界から消え去ったと考えて良い。豊

璋は密かに高句麗に逃れたが、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。


(2)応神天皇から継体天皇までの大和朝廷


応神天皇(15代天皇)から 継体天皇(26代天皇) までに、仁徳天皇(16代天皇) を含んで10人の天皇がいる。 その内、仁徳天皇については、日本書紀に次のような記事がある

『 仁徳四十一年、「紀角宿禰を百済に遣して、始めて国郡の境界を分ちて、具に郷土所 出(くにつもの)を録す。」という記事に続いて、百済王の王族の酒君(さけのきみ)が礼を失 したので、鉄鎖で縛りあげて連れて帰ったが、結局天皇は酒君の罪を許した。』


日本書紀岩波版の注では、「津田左右吉はこの記事を大化元年の百済の使いに対する詔に ある事実から作り出した話ではないかとしている。」とある。もしそうだとすると、仁徳 紀には百済との交渉の記載は一切ないことになる。

仁徳紀に続く、履中紀・反正紀・允恭紀・安康紀には百済の文字は全く出てこない。 宋書に出てくる「倭の五王」ではないかと有力視されている天皇たちは、雄略天皇

(武)を例外として、百済には全く目を向けていなかったのだろうか。


雄略天皇については、ウィキペディアでは次のように説明している。すなわち、


『 平群真鳥を大臣に、大伴室屋物部目大連に任じて、軍事力で専制王権を確立した 大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家群を大和朝 廷に臣従させることであった。 特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服 を迫った(吉備氏の乱)。

具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)や吉備上道臣田狭

(きびのかみつみちのおみたさ)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに 雄略天皇の死後には星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して、大和朝廷の 優位を決定的にした。 『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂や伊勢の朝日郎を討伐 した記事がある。


対外的には、雄略天皇8年2月に日本府軍が高句麗を破り9年5月には新羅に攻め込んだ が、将軍の紀小弓が戦死してしまい敗走したと言う(雄略天皇8年を機械的に西暦に換算 すると464年となるが、『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年(慈悲麻立干5

年)5月に新羅の活開城を攻め落とし、翌年にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと

記載されている)。


雄略20年に高句麗が百済を攻め滅ぼしたが、翌21年、雄略大王は任那から久麻那利の地 を百済に与えて復興させたという。


この他、呉国()から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、 また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られ る。479年、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵 500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を 率いて高句麗を討った。


雄略天皇の血筋は男系では途切れたものの、皇女の春日大娘皇女仁賢天皇の皇后とな り、その娘の手白香皇女継体天皇の皇后となり欽明天皇を産んでいることから、雄略天 皇の血筋は女系を通じて現在の皇室まで続いていることになる。


以上のように、雄略天皇の活躍は目覚ましいが、それを支えたのは大伴室屋である。


大伴室屋は、継体天皇擁立の中心人物・大伴金村の祖父に当たる人で、 允恭天皇 (1

9)→ 安康天皇 (20)→ 雄略天皇 (21)→清寧天皇(22) → 顕宗天皇(23) まで5代の天皇に大連として仕えた。まさに彼は大和朝廷における当時の実力者であった のである。具体的な業績としては、 雄略2年、百済の池津媛を犯した石川楯を、来目部 に命じて処刑させている。


日本書紀 雄略天皇二年七月条によると、『百済の池津媛は、雄略天皇がまさに妃として 召そうとしたときに、石河楯と通じた。雄略天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して来 目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。』とあ る。


また、 日本書紀 雄略天皇五年四月条によると、『 百済の加須利君(蓋鹵王)は人づてに 池津媛が焼き殺されたことを聞き、議って「昔、女を献上して釆女とした。しかし無礼に も我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と言った。そして、蓋鹵王が弟 の軍君(こにきし)(昆支王)に「お前は、日本に行って天皇に仕えまつれ」というと、 軍君は、「上君の命令に背くことはできません。願はくは、上 君の女性を賜わった後に 私を派遣してください」と答えた。 蓋鹵王 は妊娠中の女性を軍君の妻として与え、「私 の妊娠した女性は、既に産月に当っている。も し途中で産んだら、どうか母子を同じ船 に載せて、行った先が何処であっても、速く国に送り帰してくれ」といった。そして、 蓋 鹵王 は軍君と別れの挨拶を交 わして、日本の朝廷に軍君を遣わした。そして、軍君の妻

が、 蓋鹵王 の言葉のように、筑紫の各羅嶋 (かからのしま )で出産した。そこで、この児

を嶋君と名づけた。軍君は、母子を同じ船に乗せて、国に送り帰した。これが武寧王であ る。』との記載がある。


以上のように、雄略天皇の時にも、大和朝廷と百済の関係は誠に深いものがあったことが 判る。


その後、大和朝廷は、何代もの天皇が続くが、ようやく武烈天皇という実力のある天皇が 即位する。その擁立の立役者は大伴金村である。大伴金村は、多分、百済との関係を終始 し、武烈天皇の擁立したのであろう。その武烈天皇が亡くなって、子供がなかったので、 百済との関係の深い継体天皇を擁立したのであろう。その継体天皇擁立の中心人物・大伴 金村は、仁賢天皇11年(498年)、仁賢天皇(24)の崩御後に大臣平群真鳥(し び)父子を征討し、武烈天皇(25)を即位させて自らは大連の地位についている。


日本書紀には「頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず」とあるように、非常に悪劣なる 天皇として描かれている。その一方で、厳格な裁判を行ったとするなど相矛盾する記事が 併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図 が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説が一般的である。事実『古事 記』には、暴君としての記述はなく、太子がいなかったことと天皇の崩後に袁本杼命(お おどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれたことしか記述されていない。 また、武烈天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名

(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、ここには、聖帝仁徳によって開かれた王朝 が、雄略の時代を経て武烈で断絶し、次の継体によって新王朝が開かれるとする王朝交替 の歴史観が現れているとの説もある。


第3節 ヤマト王朝と朝鮮半島との繋がり


(1)秦一族について


秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しないで日本の歴史は語れないとい うほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や 在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ね て全国の殖産に力を発揮した一族である。

つまり、秦一族と私が称する一族の中には、それら技術集団を束ねた本家本元の秦氏と、

それと血縁関係にある一族と、血縁関係にはないが秦氏の傘下に入っている多くの人たち がいる。


秦氏の中で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝であろう。どうもこの人 が偉大な人物であったようだ。 秦河勝のことについては、かって私は、中沢新一に「精霊の王」にもとづいて「胞衣(え な)信仰」というタイトルで少し触れたことがある。秦氏に関連する部分を再掲しておく と、中沢新一は、次のように言っている。すなわち、


『 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた 異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出 し、のこりなくその芸 を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったは てに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したの だった。その地で、はじめ秦河勝の霊体 は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、 荒神であり、胞衣であること の、まぎれもない証拠であると書いたのである。

 ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろん これはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、 地名や神社の名前とし て残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神 問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグ ジ」の音で表現されるなにかの霊威を もったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心に おこなわれていたことの痕跡をし めしている。』・・・と。


何故、秦河勝は播州・坂越(サコシ)の浜に流れていったのか? 何故か? その疑問に ついて、私は、ずっと気になっていたのだが、谷川健一は「四天王寺の鷹」の中でそのこ との明確な説明をしている。まさに目から鱗が落ちる想いである。では、「四天王寺の 鷹」の最大のハイライトと思われるその部分を以下に紹介しておきたい。彼は、次のよう に述べている。すなわち、

『 秦河勝と聖徳太子との密接な関係は、太子没後、彼のおかれた社会的、政治的立場を 危なくさせることにもなった。蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)は聖徳太子の

嫡子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と秦河勝の関係に警戒の目を向けてい た。(中略)この頃、蘇我蝦夷・入鹿父子の横暴は目に余るものがあった。硬玉2年(6

43)には、蝦夷はひそかに紫冠を子の入鹿に授け、大臣に擬する不遜な振る舞いもみら れた。その年、山背大兄王が入鹿によって殺されるのを河勝は目の当たりにしている。

(中略)そこで入鹿の迫害が及んでくることをひしと感じた河勝は身の危険を避けるため

に太秦をはなれ、ひそかに孤舟に身をゆだねて西播磨にのがれ、秦氏がつちかった土地に

隠棲したと推測される伝承が伝えられている。世阿弥の「風姿花伝」に並びに世阿弥の娘

婿の禅竹の「明宿集」にその記述が見られる。』・・・と。

世阿弥は秦氏と血縁関係にある秦一族である。私は、先ほど「 秦氏は、新羅系の渡来人 であるが、新羅系に限らず、さらには渡来系や在来の人たちに限らず、また鉱山や鍛冶に 限らず、土木や養蚕や機織りの技術集団を束ねて全国の殖産に力を発揮した一族であ る。」と述べたが、秦氏の子孫に世阿弥が出ている。 明宿集」に秦河勝の子孫に三流あ り、一は武人、二は猿楽、三は天王寺の楽人とあるように、秦河勝を先祖と仰ぐ円満井座 の猿楽者と天王寺の楽人との間には根強い結縁意識があったらしい。


秦氏と血縁関係にある秦一族は、特に東北地方の発展に大きな力を発揮していくが、この ことを理解するには、物部氏のことをまず理解しておかねばならない。秦一族は、物部守 屋が蘇我蝦夷と入鹿に殺されてしまってから、物部一族の統括していた技術者集団を引き 継いでいくのである。


日本書紀でその伝承や記録が記されている秦氏の人物は、秦酒公(はたのさかのきみ)、 秦大津父(はたのおおつち)、および秦河勝(はたのかわかつ)の3名である。ただし、 秦一族で波多氏と称する氏族がおり、その祖先・羽田矢代宿禰ならびにその子孫・波多氏 が日本書紀に出てくる。


その後、秦氏は「日本書紀」には出てこない。つまり、秦氏は政治の表舞台から姿を消す が、これは正史(日本書紀)と史実と一致する。しかし、応神14年に弓月王が渡来して きたというのは史実と合致しない。日本書紀は、応神14年のこととして、秦造(はたの みやつこ)の祖・弓月君(ゆづきのきみ)の次のような来朝説話を載せている。すなわ ち、この 年弓月君が百済からやってきたが、彼が奏上して言うには、「私は、私の国の 120県の民を率いてやってきた。だが、新羅人に邪魔されてため、彼らを加羅国 (からの くに)残したまま来朝した」。そこで、天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を派遣 して、弓月君の民を連れてこさせたという。しかし、この日本書紀の記事をそのまま史実 として信用することはできない。私は、弓月君が加羅国に一族を残したまま渡来してきた という点はその通り史実であったが、葛城襲津彦のことについてはその時代考証も含めて 検討の余地があると考えている。


日本書紀に史実を書けば藤原不比等の創作した正史の構造が崩れてしまう。したがって、 藤原不比等は、史実をひた隠しに隠して、天照大神を始めとした神話の物語を創作した上

で、神武天皇など架空の天皇を創り出し、万世一系の天皇物語を創作したのである。大伴

氏と秦氏は継体天皇擁立の立役者である。日本書紀では、大伴氏を継体天皇擁立の中心人 物と書きながら、その先祖を神話の時代の渡来としている。しかし、日本書紀では秦氏の 祖先については触れていない。史実としては、秦氏の渡来の波は幾重もあり、日本書紀で いう神代の時代の渡来もあった筈である。では、藤原不比等が、大伴氏のように、神話の 時代の渡来としなかったのは何故か? 秦氏は、大伴氏とは違って、応神天皇の重臣であ り、その事実を隠すことができなかったとしても、その他の史実をひた隠しに隠したので ある。それは上述のように、万世一系の天皇物語を創作するためである。


秦氏と大伴氏はともに大和朝廷の重臣であり、ともに力を合わせて応神天皇と継体天皇の 擁立に努力した。したがって、秦氏を理解する上で、大伴氏を理解しておくことは重要で ある。秦氏と大伴氏との違いは、応神天皇擁立の主役は秦氏で大伴氏はサブ。継体天皇擁 立の主役は大伴氏が主役で秦氏はサブ。継体天皇即位後、しばらくして、蘇我氏が台頭 し、秦氏は聖徳太子の重臣であったために存続が危なくなったが、大伴氏は、蘇我氏とは 一定の距離を置きながらも良好な関係にあり、そういうことはなかった。


秦一族には、波田氏、羽田氏の他に、犬上氏、息長氏、安氏などがいる。犬上氏、息長 氏、安氏はともに、近江は琵琶湖の東岸に拠点をもった豪族である。特に、安氏は、野洲 川流域にあって、邪馬台国の時代からそれなりの勢力をもった豪族であり、葛城王朝誕生 の秘密を解く上でその鍵となる豪族である。


野洲市には大岩山古墳群がある。その場所は、現在、野洲市の民俗歴史博物館のある辺り である。 最大の特徴は、野洲川流域を支配した有力首長墓が、古墳時代初期~飛鳥時代 にかけて、系統的に造墓が確認され、後に「安」氏と呼ばれる豪族たちの古墳群だと考え られている。日本書記や古事記から古代のヤス(現在の守山市と野洲市の周辺)には、安 直(やすのあたい)氏という古代近江を代表する豪族がい たことが分かっている。円 山・甲山古墳から出土した豪華な品々とから、安氏が三輪王朝もしくは葛城王朝に仕え、 やがては大和朝廷に仕えたと考えられている。大岩山古墳群は、弥生式時代終末の大岩山 銅鐸群(21個)の埋納地にも隣接しているので、卑弥呼との関係が伺われ、安氏が仕えた のは、葛城王朝ではなく三輪王朝だと考えられくもないが、私は、安氏が秦一族であった こと、秦一族の大和における根拠地が葛城であったことを考え合わせ、安氏が仕えたのは 葛城王朝だと考えている。いずれにしろ、安氏という豪族は、卑弥呼の時代(2世紀)か らの豪族であって、当初はどうであったか判らないとしても、その後、秦氏とは血縁関係 を結び、秦一族になったということが重要である。秦氏の近江における本拠地は愛知川流 域・愛荘である。そこに隣接して犬上氏、やや離れて息長氏の本拠地がある。犬上氏も息 長氏も秦一族であり、秦氏は、勢力拡大のために近江の豪族と積極的に血縁関係を進めた

のであろう。 多賀大社の近くに、犬上君の古墳と思われる 荒神山古墳がある。また、

image

原の近くには、息長氏の古墳と思われる 息長古墳群がある。


(2)武内宿禰について


わが国の古代朝鮮との繋がりを考える際に武内宿禰という人物がきわめて重要な存在であ る。 日本書紀では「武内宿禰」、古事記では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記 される。景行・成務・仲哀・応神仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕え たという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族 の祖ともされる。しかし、 景行・成務・仲哀は実在の天皇ではないし、応神天皇と仁徳 天皇の重臣であれば、実在の人物としていろいろと具体的な記述がある筈である。それが 伝説上の人物となっているのは、その史実を書くと不都合なので、藤原不比等はその史実 を書かなかったのではないかと思われる。史実はどうであったのであろうか? 時代考証 も含めて、それをこれから明らかにしたい。


古事記では、武内宿禰という人物について、 次の7男2女と後裔27氏を掲載する。

波多八代宿禰(はたのやしろのすくね、羽田矢代宿禰) - 波多臣・林臣・波美臣・ 星川臣・淡海臣・長谷部君の祖。

許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね、なし) - 許勢臣(巨勢臣)・雀部臣・軽部 臣の祖。

蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰) - 蘇我臣・川辺臣・田中臣・

高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖。

平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね、平群木菟宿禰) - 平群臣・佐和良臣・馬御 樴連の祖。

木角宿禰(きのつののすくね、紀角宿禰) - 木臣(紀臣)・都奴臣・坂本臣の祖。

久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ、なし)

怒能伊呂比売(ののいろひめ、なし)

葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ、葛城襲津彦) - 玉手臣・的臣・ 生江臣・阿芸那臣の祖。

若子宿禰(わくごのすくね、なし) - 江野財臣の祖。

つまり、古事記では、波多氏、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏は武内宿禰の子孫

であると言っているのである。しかし、古事記に記載する武内宿禰という人物は、神代の 時代の人であるので、その実在については一応疑ってかからなければならない。はたして 武内宿禰に相当する人物がいたのか? 実はいたのである。それは魏志倭人伝に出てくる伊都国の国王・五十迹手のことであるら しい。

「摂河泉の秦氏の分布」というホームページは、『邪馬台国の東遷』(奥野正男著)から 引用して、次の博多湾近辺の概念図を載せ、以下のように述べている。


  博多湾     /

   ------/

        曾我

    平群    羽田

 背振山地

=======  I      甘木  香春

        ==I基肄 武雄  巨勢   I葛木

    -----+---筑後川        

  有明海


すなわち、

『 この地図に 武内宿禰を祖とする氏族名と同じ地名をあげています。平群と云う地名 は今は奈良と千葉に見えます。珍しい地名と言える。波多の臣、許勢の臣、蘇我の臣、平 群の臣、木の臣(基肄)、葛城の臣など。要するに応神天皇を支えた氏族達。』


『  渡来して筑紫の国で力を蓄えていた武内宿禰を中心とする氏族が出石、吉備、淡 路、近江、山城などの氏族と連携をとって大和の旧体制から大和国中の支配権を簒奪した と云うことだろう。 』


『 武内宿禰はこれらの中心的役割を果たした。恐らくは五十迹手ではなかろうか。また 住吉大神ではなかろうか。 応神天皇の本当の父親であるように思えてならない。住吉大 神とするのは、『住吉大社神代記』に皇后與大神有密事(俗曰夫婦之密事通)と出ている のを根拠とした。』 ・・・と述べている。

さて、『魏志倭人伝』には、次のように記されている。 「東南陸行五百里 至伊都國。官

曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」(「三国 志魏志、巻三十、東夷伝、倭人(略称、魏志倭人伝)」)


原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこ の長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚

(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家がある。世々(丗)に王があるも、み な女王國に統べて属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、ここに常にとどま る場所である。」となる。


『魏志倭人伝』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国狗奴国 で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。


さらに、『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。 「自女王國以北、特置一大 率、検察諸國畏揮之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及 郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。」


原文のおよその意味は、「女王国より北には、特別に一つの大率(たいすい、だいそつ) を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国 で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(し し)のような役割を持っている。王 が京都(洛陽)や帯方郡や諸韓国に使者を派遣したり、帯方郡が倭国へ使者を遣わすとき は、いつも津(しん・水上交通上の 関)で、文書や賜与された物品を点検して、伝送して 女王のもとへ到着する時に、間違いがないようにする」ということである。


伊都国が伝統的に朝鮮や中国との交流の拠点として重要な意味を持っていた。そのため一 大率は、伊都国に常駐して北部九州を行政的・軍事的にも統括する任務や女王の行う外交 の実務を厳格に監督し実行する任務を持っており、女王の命を受けて全ての外交実務を伊 都国で掌握していたとされている。この点については学会でも定説となっている。日本の 古代史を考える時、この魏志倭人伝の記述は、きわめて重要な歴史的事実として常に念頭 においておかなければならない。


また、 考古学的知見によれば、 糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があっ たとする説が有力である。弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)

(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡平原遺跡である。井原鑓溝遺 跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。つまり、 考古学的知見は魏 志倭人伝の記述を裏付けているのである。

一方、日本側文献(記紀)の記述では、旧怡土郡付近は大化の改新以前は怡土縣(いとの

あがた)が置かれ、日本書紀によるとその祖の名は五十跡手(いとて)仲哀天皇の筑紫 親征の折に帰順したとされている。


「筑紫国風土記」逸文には五十跡手(いとて)が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より 下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。 高麗の意呂山(おろのやま) と は、私の解釈では、高句麗の王族のいた聖地のことである。 高句麗は鴨緑江以北にあ り、紀元前37年に漢から独立した国であるが、その伝承がわが国にも伝わっていたので あろう。したがって、「筑紫国風土記」逸文では、高句麗の建国に関わる伝承を「天」と いう言葉で表現したものと思われる。天日鉾命とは、日本書紀における「天日槍(アメノ ヒボコ)」、古事記における「天之日矛(アメノヒボコ)」のことであろう。 アメノヒボ コは、記紀において新羅の王子としている。もちろん、当時はまだ新羅は建国されていな いので、記紀において新羅の王子とあるのはその前身・斯盧の王子という意味である。

「筑紫国風土記」逸文ではアメノヒボコを高句麗の王子といい、記紀では斯盧の王子とい い、両者に食い違いがあるが、アメノヒボコが朝鮮半島の王族であったことは間違いない だろう。五十跡手(いとて)はその子孫である。朝鮮半島の王族・アメノヒボコの子孫で ある 五十跡手(いとて)のルーツが朝鮮半島であることは間違いないと思われる。


以上縷々述べてきたが、最終的な結論として、武内宿禰、すなわち 五十跡手(いとて) は、卑弥呼の時代における朝鮮半島からの渡来系の人物であり、その子孫に波多氏(秦 氏)、巨勢氏、蘇我氏、平群氏、紀氏、葛城氏や高向氏がいる。


(3)葛城襲津彦について


葛城襲津彦は、葛城王朝の誕生の経緯を明らかにするためには欠かすことのできない人物 である。したがって、以下において、その時代考証も含めて、葛城襲津彦についていろい ろ検討することとしたい。


まず、ウィキペディアでは、次のように書いている。すなわち、


『 葛城襲津彦は、4世紀末から5世紀前半頃の人物と推定されるが、記紀等に伝わる古 代日本の人物である。武内宿禰の子で、葛城氏およびその同族の祖とされるほか、 履中 天皇(第16代)・ 反正天皇((第17代)・ 允恭天皇(第18代)の外祖父である。対朝鮮

外交で活躍したとされる伝説上の人物であるが、『百済記』の類似名称の記載からその実

在性が指摘される。』・・・と。


この説明にある「葛城襲津彦は4世紀末から5世紀前半頃の人物と推定される」という記 述を、説明の都合上「 葛城襲津彦は400年頃の人物と推定される」と言い代える。


履中天皇(第16代天皇)・ 反正天皇(第17代天皇)・ 允恭天皇(第18代天皇)は、継 体天皇(26代天皇)の死没が531年だから、それ以降の天皇であることは間違いな く、仮に550年頃の天皇だと考えてみると、その孫の代というのはおおむね480年頃 だと思われる。すなわち、 履中天皇(第16代天皇)・ 反正天皇(第17代天皇)・ 允恭 天皇(第18代天皇)の外祖父の葛城氏が生きていた時代というのは、5世紀後半より前と は考えにくい。したがって、 履中天皇(第16代天皇)・ 反正天皇(第17代天皇)・ 允 恭天皇(第18代天皇)の外祖父の葛城氏というのは、葛城襲津彦ではない。


また、前項(2)述べたように、武内宿禰、すなわち 五十跡手(いとて) は、卑弥呼の 時代における朝鮮半島からの渡来系の人物であり、2世紀の人である。上のウィキペディ アの記述において、葛城襲津彦が武内宿禰の子であるという記述と4世紀末から5世紀前 半頃の人物であるという記述とは、全く矛盾している。上のウィキペディアの記述を「葛 城襲津彦の祖先は武内宿禰の子である」と書き換えれば、その矛盾は無くなる。


さて、日本書紀には、神功皇后と応神天皇(第15代)と仁徳天皇(第16代)の時代、朝 鮮半島に渡った葛城襲津彦の事績が記されている。ウィキペディアによれば、次のとおり である。


神功皇后537日条:新羅王の人質の微叱旱岐(み しこち)が一時帰国したいと いうので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新 羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしま う。これに襲津彦は怒り、使者3人 を焼き殺したうえで、蹈鞴津(たたらつ)に陣を敷いて草羅城(くさわらのさし) を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原・佐 糜・高宮・忍海の4邑の漢人らの始祖)。


神功皇后62年条:新羅からの朝貢がなかったので、襲津彦が新羅討伐に派遣され た。


応神天皇14年是歳条: 百済から弓月君(ゆづきのきみ)が至り、天皇に対して奏 上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海 を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅

に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。


応神天皇168月条 :天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、 群木菟宿禰(へぐりのつく)と的戸田宿禰(いくはのとだ)に精兵を授けて加羅に 派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来 た。


仁徳天皇413月条: 天皇は百済に紀角宿禰(きのつの)を派遣したが、百済王族 の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒 君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。


以上のとおり、日本書紀では襲津彦に関する数々の朝鮮外交伝承が記されているが、『百 済記』所載の「沙至比跪」の記載の存在から、実在の人物を基にソツヒコ伝承が構築され たとする説が有力視されている。一方、襲津彦という人物の実在性には慎重な立場から、 あくまでも葛城勢力により創出された伝承上の人物に過ぎないとする説や、朝鮮に派遣さ れた葛城地方首長層の軍事的活動を基に人物像が構築されたとする説もある。しかし、私 は、実在の人物を基にソツヒコ伝承が構築されたとする説を支持したい。


葛城襲津彦は、実在の人物であり、加羅から弓月の民(秦一族)を率いてわが国にやって きた渡来人で、古事記に記述されているように、武内宿禰の子・葛城長江曾都毘古(かず らきのながえのそつびこ)であると考える次第である。


(4)葛城王朝の誕生


継体天皇の時に蘇我氏の裏切りによって没落するまで、葛城氏は、葛城王朝の王として、 大和朝廷と並ぶ権力者として、隆々たる勢力を誇っていた。そのような葛城氏がどのよう にして葛城に王権を築いたのか? 文献的にはまったく判っていない。これは、大和朝廷 の誕生の秘密を解く上で致命的な欠陥となっている。つまり、邪馬台国が大和朝廷にどの ように繋がっているのかということを理解するためには、邪馬台国の時代と大和朝廷の時 代の中間の時代の様子が判っていないとダメであろう。そのためには、葛城王朝誕生の経 緯を明らかにする必要がある。 そこで、私は、葛城王朝誕生の経緯を推定することとしたい。

前項(3)で述べたように、斯盧(新羅の前身)にいた秦氏の残党を葛城襲津彦が倭国に

連れてきた。


その頃、秦氏の拠点は近江にあったので、葛城襲津彦は、一旦近江にに落ち着き、その 後、大和の葛城に移動して、拠点を構えたのではないか?  確たる証拠はないが、論理的 にはそう思える。葛城襲津彦がいきなり大和の葛城に拠点を構える理由が見つからない。


天忍日命(あめのおしひのみこと)は、記紀では日本神話の神になっているが、邪馬台国 の一大卒、伊都国の王、五十跡手(いとて)のことですあろう。五十跡手(いとて)は、 倭人であり、その子孫の多くは近江文化圏に住んだ。近江の秦氏や犬上氏や息長氏や安氏 の他、越前の高向氏である。したがって、葛城襲津彦が斯盧から秦一族の残党を引き連れ て近江にやってきた時、秦氏だけでなく、多くの同族がいた筈である。もちろん、それら のリーダーは秦氏であり、秦氏の意向によって、葛城氏は徐々に勢力を増していくのでは ないかと思われる。そして、将来の発展の地として葛城を選んだのであろう。そのことが 応神天皇擁立に繋がっていく。


応神天皇より前の時代において、秦氏は、物部氏の支援の下、葛城地方にそれなりの勢力 を持っていたと思われるが、物部氏は、葛城氏が葛城地方に拠点を構えることに反対して いたのではないか? それを秦氏が説得して、葛城氏を葛城地方に引き入れたのではない か? その時、秦一族のかなりの人たちが随行したものと思われる。


物部氏と葛城氏との反目が応神天皇の時代まで続くが、秦氏はその間にあって随分苦労し たであろうことは十分想像できる。


応神天皇東遷の時、葛城氏はすでに葛城に来ていた。したがって、秦氏は、応神天皇擁立 に当たって葛城氏と物部氏の連携を成し遂げた。


王朝交代説というのがある。これは、鳥越憲三郎(1914~2007、大阪教育大学名 誉教授)らが提唱していた説が代表的なものであるが、神功皇后の時に河内王朝が成立し たというこの説については、私は否定的である。物的な証拠や記録はないし、そもそも神 功皇后は架空の人物である。 私は、歴史の連続性というものを重視していて、邪馬台国は葛城王朝の時代を経て大和朝 廷に繋がっていると考えている。すなわち、邪馬台国は、台与の時代に三輪王朝となった

が、葛城王朝とは対立しながらも並存していたのである。やがて三輪王朝は、応神天皇を

迎えて大和朝廷が誕生する。


蘇我氏が、継体天皇の嫡子である欽明天皇の時代に台頭してくる豪族であることを考える と、この蘇我氏と継体天皇の結びつきはおもしろい。 蘇我氏は、そのために葛城氏を裏切るのだが、ともかくそうした経緯を経て、十数年後に 継体天皇は、葛城からはほど近い「磐余の玉穂宮」で即位する。そして、その2年後に継 体は 新羅・磐井の連合軍と戦っている。そのころの磐井は、勢力を伸ばし、北九州をほ とんど制圧していた。一方、朝鮮半島では新羅が倭国と関係の深い加羅を併合し始めてい た。継体天皇はこれと戦ったのである。いわゆる磐井戦争は、畿内からは物部氏、大伴氏 などの軍事力が主力であった。戦争は1年ほど続き、物部麁鹿火(もののべのあらかひ) が御井(みい)で磐井を破った。この段階で、大和朝廷は、天皇を中心にした、物部氏と 蘇我氏の二大巨頭体制ができ上がる。葛城氏は完全に衰退してしまうのである。葛城氏に 蘇我氏が取って代わったということだ。かくて、葛城の主は蘇我氏となったのである。


第4節 葛城山麓の遺跡


現在、近畿圏の外郭環状道路の一部として京奈和(けいなわ)自動車道が建設中だ。京都 市を起点として奈良県を北から西に抜けて和歌山市に到る全長約120kmの高速道路で ある。 そ こで、橿考研は平成21年7月から道路計画地の約6500平米について発掘 調査を実施してきた。橿考研は、平成22年1月21日、それまでの発掘の成果をマスコ ミに公表し、4世紀前半に活動した豪族の館か祭りの場の可能性のある遺構が見つかった ことを明らかにした。そして、付近一帯の古名にちなんで、この調査地を「秋津遺跡」と 名づけた。


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秋津遺跡の南西方向には、この地方で有名な古墳がある。 宮山古墳という。御所市大字 室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。 5世紀前半の築造で、葛城 襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされているが、私は、前節で述べたよ うに、葛城襲津彦を武内宿禰の子・葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ)

あると考えているので、宮山古墳は葛城襲津彦の子孫の誰かだと思う。


葛城襲津彦に関する逸話は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀、応神天皇紀、仁徳天皇紀な どに記されていて、実に魅力的な人物である。 4世紀から5世紀にかけて対朝鮮外交や 軍事に携わり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている。彼が連れてきた 渡来人たちは、葛城山麓 に住み着き、鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとす る様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとされている。


渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、記紀によれば大王家のそ れと肩を並べるほどだった。そうした経済力や政治力を背景に、葛城氏は5世紀の大王家 と継続的な婚姻関係を結んだ。また、記紀によれば、襲津彦の娘・磐之媛(いわのひめ) は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生んでいる。私の考えでは、「 襲 津彦の娘・磐之媛(いわのひめ) 」という記紀の記述は、「葛城氏の姫・ 磐之媛(いわ のひめ) 」 と訂正しなければならないが、ともかく葛城氏と天皇とは継続的な婚姻関係 があったことは間違いない。こうした婚姻関係から、歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀 のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと指摘された。

北葛城は二上山の東北方面、水平距離で6kmほどの所に、有名な馬見古墳群(うまみこ

ふんぐん)がある。 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている。さあここ で葛城地方の地理的な説明を少ししておきたい。


葛城地方の西側は金剛山地である。金剛山地の最高峰は金剛山(1125m)で、北に向 かって葛城山(959m)、二上山(517m)と続く。中央にあるのが葛城山で、その 東側・御所市の秋津遺跡や葛城襲津彦の墓と見なされている宮山古墳がある。葛城山の北 に二上山があり、その近くに 葛城襲津彦の後裔たちの墓域ではないかと考えられている 馬見古墳群(うまみこふんぐん)があるという訳だ。


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馬見古墳群(うまみこふんぐん)のマップについては、次を参照されたい。スケールを小 さくすると二上山が出てくるでしょう。

http://kofun.info/kofun/775


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葛城山から南方に金剛山がみえる。良い山だ!


一方、南葛城には、金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集 落・南郷遺跡群がある。1995年に発掘調査された南郷安田遺跡を はじめとして、さ まざまな遺跡が見つかっており、5世紀の第2四半期には、葛城氏の手によって渡来系の 技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工 業製品を生産する当時の「工業団 地」が出現したことをうかがわせる。南郷遺跡群についてはのちほど述べるとして、秋津 遺跡の説明を続けよう。


このたび秋津遺跡で4世紀前半の祭祀(さいし)の場とみられる施設跡が発見されたこと は、襲津彦以前の葛城氏の実態を探り出す手がかりになるかも知れない。和田萃・京都教 育大名誉教授は、4世紀 前半の大和盆地に“東の纒向(まきむく)、西の葛城”の二大勢 力があったことがはっきりした、とコメントしておられる。


橿考研の発表では、この遺跡の活動の中心は古墳時代前期の4世紀 前半とのことだ。近 くに築かれた宮山古墳(室の大墓)の築造年代は古墳時代中期の5世紀前半とされてい る。仮に宮山古墳の被葬者が葛城襲津彦と仮定して、 襲津彦から1世紀もさかのぼる時 代に、葛城氏はすでに南葛城を支配下におくことができたのだろうか。


この地域は古代氏族鴨族が盤踞していたとされている。弥生時代の中頃、鴨族の一部が金 剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(か もつは)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木 御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作を行っていたとされている。鴨都

波神社のある付近には鴨都波遺跡がある。この遺跡では弥生時代中期(前1世紀)から末

期(3世紀)さらに古墳時代前期(4世紀)に続く墓が見つかっている。鴨都波遺跡を営 んだのは鴨族だったのか、それとも葛城氏だったのか。


何時のころか、葛城山麓を離れた鴨族の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町 まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して定着して鴨 氏になったとされている。 一方、『新撰姓氏録』によれば、応神14年に渡来したとさ れる秦氏も当初は「大和朝津間腋上地(わきがみのち)」に住んだようだ。腋上は秋津の すぐ近くである。秦氏も鴨族の移住と時を同じくして、京都盆地に入り込んだと思われ る。


北葛城にいた葛城氏が紀州への路を確保するために南葛城に進出してきたのであれば、古 代氏族の鴨氏や渡来氏族の秦氏との軋轢がこの地方で起きたと想像するのは、それほど突 飛ではあるまい。葛城襲津彦の先祖たちは、これらの氏族を南葛城からどのように駆逐し たのだろうか。


南郷遺跡群は、金剛山東麓の広い範囲に及ぶ集落遺跡である。古墳時代中期(5世紀)に盛 期があり、古代の豪族葛城氏の活動拠点のひとつであったと考えられる。丘陵頂部を中心 に様々な性格を持つ遺跡である。渡来人系の工場従事者が居住した一般集落、武器・銀製 品などの工房、生産する人を統括した渡来人の屋敷、倉庫群、導水施設、祭殿などがあ る。 また、平成17年に調査された極楽寺ヒビキ遺跡も遺跡群の範囲に含まれると考えられる。 極楽寺ヒビキ遺跡では、石垣に囲まれた区画の中に巨大な建物が建てられ、集落全体の祭 祀が行われていたと考えられる。ヒビキ遺跡については、次を参照されたい。


http://bunarinn.fc2web.com/kodaitatemono/hibiki/katuragihibiki.htm


なお、遺跡ではないけれど、名所旧跡、すなわちハイデガーのいうところの「過在」とし て、「九品寺」について触れておかねばなるまい。この九品寺を知らずして葛城を語る事 なかれと言われているからである。白州正子は、著書「かくれ里」(1991年4月、講 談社)で、「九品寺は、居ながらにして大和平野の大部分が、視界に収まる大パノラマ だ。葛城が神山とされたのも、葛城一族が大和に君臨したのも、このような眺望に触れる と合点が行く。」と述べている。九品寺については、次のホームページが素晴らしいの で、ここに紹介しておきたい。下の画像は、そのホームページのものである。 http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_09_07.htm


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なお、白州正子は、上述の通り、葛城とは神の山の存在する所であると言っている。神の 山、三輪の「三輪山」に匹敵するのがこの地では葛城山である。葛城山については、御所 市が素晴らしいホームページを作っているので、その中から葛城山を中心とする名所旧跡 を紹介しておきたい。 葛城の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/1katsuragi_0.html 巨勢の道:http://www.city.gose.nara.jp/kankou/gra/2kose_0.html


二上山については、冒頭に述べた。二上山、葛城山、金剛山という三つの山が葛城の聖な る山であるので、次は、金剛山の葛城神社のホームページを紹介しておきたい。


http://金剛山.jp/KaturagiJinja/KaturagiJinja001.htm

(これはリンクが張られていないので、これをコピーしてURL欄にペースとして下さい。そうすれば見れます。)

第5節 邪馬台国と朝鮮半島との繋がり


魏志倭人伝では、「(帯方)郡より倭に至るは、海岸に循(したが)ひて水行し、韓の国 を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其(そ)の北岸の狗邪韓国に到 り、七千余里。始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国へ至る。」・・・と ある。念のためこの和訳を紹介しておくと、「(帯方)郡より倭に至るには海岸にそって 水行、韓国を経て、南へ行ったり東へ行ったりしてその北岸(倭国の北岸)狗邪韓国に 到ること七千余里。はじめて一海をわたり千余里で対馬国に至る。」ということであり。


つまり、狗邪韓国(くやかんこく)は、倭の北部で、沿岸の国である。そのことを他の歴 史書で確認しておこう。


魏書東夷伝韓条では、「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四 方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国 のことで馬韓は西にある」・・・とある。


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魏書弁辰伝によると、辰韓弁韓は、風俗や言語が似通っていたという。「土地は肥沃 で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、縑布を作った。鉄の産地であり、韓、

などが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用

のようであった。また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器 は馬韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲っ た。」・・・とある。


そして、後漢書東夷伝倭人条では、「倭は韓の東南、大海中の山島によっており、およそ 百余国ある。武帝が衛氏朝鮮を滅ぼしてから、三十余国が漢に使訳を通じてきた。国では 皆が王を称するこ とが代々の伝統である。そこの大倭王は、邪馬臺国に居する。楽浪郡 の境界から、その国(邪馬台国)までは一万二千里、その西北界(邪馬台国の西北界)の 拘邪韓国から七千余里。その地はだい たい会稽郡東冶の東にあり、朱崖や儋耳と相似し ており、その法俗も多くが同じである」・・・とある。


いずれも狗邪韓国を倭国の西北界と記述している。そして、狗邪韓国は韓と陸続きであ り、対馬とは海を隔てていることになる。これは、狗邪韓国が朝鮮半島南端部にあったこ とを意味し、同時に狗邪韓国は倭の支配領域であったことになる。実際に朝鮮半島南端部 では倭系遺物(銅矛・弥生式土器)などが多量 に出土している。このことも倭の支配地 だったことを裏付けている。歴史時代に入っても朝鮮半島南端部は加羅国、伽耶国などと 呼ばれ、任那日本府があったと 日本書紀にも記述されている。


この狗邪韓国の存在は三世紀邪馬台国の時代ことである。一般にはこれより後の時代に なって、朝鮮半島南端部が倭国に所属するようになったと言われているが、中国正史の記 録は三世紀時点で朝鮮半島南端部が倭に所属していたことを示している。中国正史の記録 は倭に所属した直後であるような表現が見られないので、三 世紀よりはるか前に朝鮮半 島南端部は倭に所属していたことになる。


さて、朝鮮半島には 加羅(から)という国があった。私は加羅について第2章で詳しく 述べた。

弓月君が率いる秦一族が 加羅(から) から大挙大和にやってきたのは応神天皇の時代で ある。しかし、実は、応神天皇が産まれる以前から、秦氏は 加羅(から) から大和に やってきていたらしい。 加羅(から)は、百済と新羅に挟まれるようにして朝鮮半島の

南端にある小国だが、伽耶(かや)とも呼ばれたりしている。加羅(から)と呼ばれる以

前は、弁韓と呼ばれていた。


加羅は、弁韓ができる前の縄文時代から倭国の人々がいたところで、縄文土器、糸魚川 の翡翠、九州腰岳産の黒曜石などが発見されている。したがって、加羅(から)は朝鮮と いえば朝鮮だし、倭国といえば倭国であるという、まあ両方の国の人びとが住んでいた特 殊な地域であったのである。だから、私は、加羅は加羅だと考えた方が良いと思う。無理 に朝鮮だとか倭国だとか決めつけない方が良いと思う。中世の大阪の堺(さかい)のよう に、むしろ商人による自治組織の発達した特殊な地域と考えた方が良いのかもしれない。 そこでは、私のいう大商人が活躍していた。加羅地域では、ヤマト朝廷から派遣された倭 人の軍人・官吏並びに在地豪族がともに協力し合って、当地で統治権を有していたことが 学者の間でも有力視されているが、私は、加羅地域は、大商人による自治組織の発達した 特殊な地域であったと考える次第である。その加羅に、秦一族がどのように定着していた のかは、明確な説明はできないが、私は、秦氏の始祖・功満王も加羅に定着し、リーダー 的存在として活躍していたと想像している。


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さて、その加羅であるが、加羅 は、『三国遺事』「駕洛国記」のことを載せている。金 官国は、朝鮮半島における倭国の北端であり、魏志倭人伝における狗邪韓国(くやかんこ く)の後継にあたる国であり、金官国を中心とする地域は、三韓すなわち弁韓、辰韓、馬 韓の一部を含むとみなすのが通説である。


2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島東南部の 諸国は共通の文化基盤をもっていたが、政治 的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。 当時弁韓地域の多くの小国の中で一番優勢な 勢力は金海市付近の金官国(元の狗邪韓国、 後の加羅国)であった。任那の文化中心は、 この金官国(金海・咸安を取り囲んだ慶尚南 道海岸地帯)であり、現在も貝塚や土坑墓な どの遺跡が散在している。

以上述べてきたように、邪馬台国の時代の狗邪韓国は、その後、ヤマト王朝および大和朝 廷の時代になって、金官国、加羅と呼ばれる国に繋がっていくのである。つまり、大和朝 廷における百済との関係の基礎は邪馬台国の時代に築き上げられたのである。そこにも歴 史の連続性が見られる。


さらに、わが国と朝鮮半島との繋がりに関する歴史の連続性については、実は、縄文時代 や旧石器時代まで遡って考えねばならず、この点については、この章の補筆として書いて おきたい。


補筆 邪馬台国以前の時代における朝鮮半島との繋がり


小田静夫は、縄文時代や旧石器時代に、佐賀県の黒曜石が朝鮮半島に運び込まれていたと して、次のように述べている。すなわち、


『 黒曜石は日本の旧石器、縄文時代遺跡を中心に、石器の石材として多用されている。 その利用範囲は原産地を中心にした地域であるが、原石産出量、質、母岩規 模などが優 れていた原産地の場合、遠距離にその利用状況が認められている。現在、北海道では白滝 産が量、質、大きさで群を抜いており、津軽海峡を渡って青 森県や遠く日本海を渡ってロ シアの沿海州地方ヘ運ばれている。中部地方では和田峠産が透明で質も良く、中部・関東 一円の石鏃用として多用されている。九州地方では腰岳産の黒曜石が質、量が多く、南は 琉球列島の沖縄本島へ、北は対馬海峡を越えた朝鮮半島南部の遺跡に発見されてい る。』・・・と。


実は、 縄文時代や旧石器時代、朝鮮半島に運び込まれた黒曜石は、佐賀県の黒曜石だけ ではない。隠岐の黒曜石も朝鮮半島に運び込まれていたのである。このことに関連して、 島根県のホームページを紹介しておきたい。その中には、「 隠岐・西郷町の町並み」とい うページがあって、次のように述べている。すなわち、

『 さて、「かっぱ伝説」でも名高い八尾川にかかる天神橋のたもとは、舟泊まり。小さ

な漁船が休息するように停泊している風景は、西郷町ならではの見 どころ。ほど近い場所 にある水祖神社は、町の漁師さんたちが信仰する歴史ある神社です。漁師さんたちは折り にふれてこの神社に参拝し、海上安全と豊漁を祈 願するのだそうです。八尾川のかっぱ伝 説にちなんで造られた「福かっぱ大明神」。天神橋を市街地方面に向かうと、「黒曜石」 と書かれた大きな看板を見つけました。火山島だった隠岐は、良質の黒曜石の産地として も有名です。店主の八幡さんは、島後・五箇村久見地区の出身。今なおお父さんと一緒に 五箇村に黒曜石の採掘に出かけ、矢じりやナイフ・ア クセサリーの加工販売を手がけて おられます。黒曜石は、ガラス質流紋岩溶岩が火山活動で噴出される際に急速に冷却され てできた火山岩で、日本最古の石とい われています。ガラス成分を多く含むため、鋭利な 刃物のような切り口が特徴です。そのため、旧石器時代から矢じりなどの武器に加工され ていました。ロシア 沿海州ウラジオストックや朝鮮半島の一万年以上前の遺跡からも発 掘されていて、この事実からすると古くから珍重されていた黒曜石を通して、人の移動や 交流 があったことがわかります。島後を含む隠岐諸島全体が日本海を介して、古くから 人・物・文化の交流が盛んだったように思え、目の前で黒く輝く石に、とてつ もないロ マンを感じてしまいました。』・・・と。


縄文時代や旧石器時代に、佐賀県の黒曜石と隠岐の黒曜石が朝鮮半島に運び込まれていた のは間違いない。黒曜石は威信財として交易に使われたのであろう。威信財というのは、 今でいえば通貨みたいのもので、交易に使われたのである。


私は、縄文時代の商人を縄文商人と呼んでいるが、おそらく旧石器時代にも交易を行なう 商人はいたと思っている。少なくとも、縄文時代、間違いなく縄文商人は存在したのであ る。どんな部族集落にも商人は居たと思う。そういう部族集落の中に、三内丸山遺跡のよ うな商業集落があっても何の不思議もない。私は、元国立民族学博物館の小山修三さんと 青森県教育庁の岡田康博さんが言うように、三内丸山は商業港であったと思う。三内丸山 が商業港であるということについては、批判的な意見が少なくないが、私は、小山さんや 岡田さんの見解に賛成だ。私は、縄文商人が集まる部族集落が日本列島の所々にあっても 何の不思議もないように思う。縄文時代において、国内の交易ネットワークがあった。弥 生時代になって、中国との交易が盛んになると、中国側にも多くの交易商人が活躍し、そ れを束ねるボスが誕生していたのである。これらのことについては、私の論文「邪馬台国 と古代史の最新」に詳しく書いたので、是非、それをご覧いただきたい。


縄文時代に糸魚川の翡翠が朝鮮半島に運び込まれていたという考える人もいなくもない が、 加羅で出土する翡翠が糸魚川から運び込まれたその時期については、早くとも古墳 時代だと考えている人が多いようだ。しかし、私は、糸魚川の翡翠は縄文時代には加羅地 方に運び込まれていたと断言したい。その理由は、縄文時代という古い時代において縄文

商人がいて、わが国と朝鮮半島との交易を行っていたこと、さらに旧石器時代時代にも、

佐賀県の黒曜石ならびに隠岐の黒曜石が朝鮮半島に運び込まれていたことはすでに述べた ように明らかであるからである。それらの商人が糸魚川の翡翠を威信財として扱わない筈 がない。


多くの渡来人によってそれまでの縄文人との間に混血が始まり、やがて弥生人が誕生して くるのだが、渡来人と在来人との間に戦いもあったであろう。その典型的な遺跡が「土 居ヶ浜遺跡」だが、鏃の刺さった人骨が多数遺跡墓から見つかっている。それ以前、縄文 時代にも、中国の文化が日本海沿岸地域に入ってきた。その典型的なものがケツ状耳飾り だ。このことについては、次のホームページを参照されたい。 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html


さて、弁財天というのは、もともとインドはシバ教の神である。それがどのような経路で

竹生島までやってきたのか? すでに述べたように、糸魚川の翡翠が朝鮮半島から出土す ることから、日本海と朝鮮半島の間に翡翠の道があったことは間違いない。シバ教の女神

「サラスヴァティー」が天竺から中国に、そして、翡翠の道を通って丹後の冠島(かんむ りじま)に降臨した。そして、それが海人族の神となったのである。現在の弁財天は、宗 像の神「市杵島姫命(いちきしまひめ)」と習合してが誕生したものであるが、実は、そ れ以前に、竹生島で弁財天が祀られるようになっていた。したがって、他の弁財天と区別 して、竹生島では大弁財天という。しかし、日本の中に弁天さんの故郷を探すとすれば、 それは丹後の冠島である。私は、論文「邪馬台国と古代史の最新」の第9章で、「丹後王 朝と近江王朝との往来は盛んであったので、丹後の海人族に連れられて弁天さんは竹生島 にやって来たのである。」と述べたが、ひょっとすると、丹後の海人族に連れられて弁天 さんは竹生島にやって来たそれ以前に、丹後の冠島に弁天さんがやってきていたかもしれ ない。


丹後一宮であり、伊勢神宮の元の神社・元伊勢神社でもある籠神社(このじんじゃ)には 数多くの伝承が伝わっている。その多くが謎に満ちているのだが、その一つに弁天さんに 関する伝承がある。籠神社(このじんじゃ)の東方海上20㎞余に彦火明命がお后の市杵 島姫命(いちきしまひめのみこと)と最初に天降ったと伝えられる冠島がある。市杵島姫 命:その後宗像大社などに祀られるが、もともとの市杵島姫命は冠島の伝承が古い。すな わち、弁天さんの信仰はインドからどういう経路か判らないが、丹後半島に伝わったよう だ。冠島の伝承については、次のホームページが詳しいので、ここに紹介しておきたい。 http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/oitsimaj.html 

このホームページでは、次のように述べている。すなわち、


『 雄島参りとして伝わるペーロン(白龍)競艇は周辺漁民の古い来歴を示すものと思わ れるが、これは南方系漁民の民俗であろうし、祭神:日子郎女神は天照大神のプロトタイ プであろう、もっと古くは華南の娘媽神のうましん)に繋がりそうに思われる。』


『 そんな古い時代までの研究は進んでいなく、十分な資料はないが、わかる範囲で推測 すれば、周辺漁民の民俗はせいぜい古墳から律令時代の海部氏よりもずっと ずっと古い歴 史を思わせる。日子郎女神と火明命があわせ祀られる場合は母子神あるいは夫婦神の関係 と思われる。老人嶋神社は本来は海照神とエビスさんを祀 る神社でなかろうか。沈んだ 島の伝説も残る。実際に沈んだかについては疑問が持たれるが、古い洪水伝説かも知れな い。これも娘媽神伝説を思わせる。』・・・と。

ここでいう娘媽神のうましん)とは、「にやんにゃん」のことである。


「にゃんにゃん」はわが国におなじみの道教の神である。沢史生の「閉ざされた神々」に よると、中国の福建省から広東省の海岸に展開する海辺の民「蚤民族」は、もともと閔国

(ビンコク、福建)の民だったが、秦の始皇帝によって蛮族として駆逐され、以後、海辺 でかろうじて生息する賤民水上生活者として、実に21世紀に至る今日まで虐げられた底 辺の生活を強いられてきたという。秦以降の歴代王朝もこの民族に対する「賤視差別政 策」を中断することなく、彼らの陸での生活を決して許さなかった。したがって、彼らは 常に海をさすらい、新天地を求めて島々を渡り歩き、遂に日本にも辿り着いたのである。 その地が、南かごしま市である。これが世に言う「阿多族」であり、「阿多隼人」の祖先 である。この「阿多隼人」については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第7章第

1節に詳しく書いたのでそれを是非ご覧戴きたい。 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai07.pdf


海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。正式には

「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。この神は、海 を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持 ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀られている。


アタ族は、海人族であり、これが、黒潮の流れ、日本海に入っては対馬海流と名前を変え るが、その対馬海流にのって、丹後までやってきたことは十分考えられる。そのアタ族が 祀った神が、「にゃんにゃん」で、後年、丹後の海人族の神と習合して、老人嶋神社に祀 られ、老人嶋神社の祭神・日子郎女神になったということも考えられる。


丹後地方は、縄文時代からの海人族によって栄えていた。それを証明するのが舞鶴湾の入 り江の 浦入(うらにゅう) 遺跡 がから出土した丸木舟である。約5300年前のも

のだ。この丸木舟は、特別大きく、漁労だけでなく、外洋航行に使用したと推測され、外

洋航 海用としては我が国でも最古級と考えられている。これら丹後半島の海人族は、後 年、大和朝廷では「海部氏」と呼ばれるが、その祖先を書いた 海部氏系図 が今も残っ ていて国宝になっている。


以上縷々述べてきたが、要は、丹後地方は、縄文時代からの海人族によって栄えていた 地 域であったということ、そこへ別の海人族・アタ族が対馬海流にのって丹後までやってき たのではないかということ、そしてそれらの神が習合して老人嶋神社に祀られ、老人嶋神 社の祭神・日子郎女神になったかもしれないということが、私の言いたいことである。そ れがそうだとすれば、 丹後の海人族に連れられて弁天さんは竹生島にやって来たそれ以前 に、丹後の冠島に弁天さんがやってきていたかもしれないのである。いずれにしても、竹 生島の大弁天は、縄文時代におけるわが国と朝鮮半島との交流の秘密を語っているかもし れない。その秘密を解く鍵は、丹後半島の歴史が握っている。国宝「海部氏の系図」の研 究が進むことが期待される。

第4章 継体天皇の大和入りを支えた多賀の豪族


継体天皇の大和入りを支えた豪族たちは、大伴氏、物部氏、蘇我氏、秦氏(多賀の豪族) である。


蘇我氏と継体天皇との結びつきについては、すでに述べた。大伴氏や物部氏については、 多賀の豪族について述べた後で述べることとして、まず多賀の豪族について述べることと したい。「多賀の豪族」とは?


秦氏の近江の一大拠点である琵琶湖の湖東(愛知川えちがわ)に、隣接するようなかたち で、多賀の犬上氏や米原の息長氏がいるのである。 秦氏の近江の一大拠点である琵琶湖 の湖東(愛知川えちがわ)は、現在、 愛荘町(あいしょうちょう)と呼ばれているが、2

006年に愛知川町と秦荘町(はたしょうまち)が合併して誕生した町である。その秦荘 町(はたしょうまち)の上蚊野地区に、現在、10基の古墳が、公園として整備されてい る。その古墳群は、戦後の開墾などにより、そのほとんどが姿を消しているが、かっては

300を超える古墳群が広がっていたと言われている。それが秦氏の一族・依智秦氏の古 墳群である。現在、「依智秦氏の里古墳公園」として整備されている。


その秦氏の一族・依智秦氏の古墳群に隣接して、多賀大社がある。多賀大社については、

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったと言われてい る。 犬上君(犬上氏)は、多賀大社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1 次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。


多賀大社の近くに、犬上君の古墳と思われる 荒神山古墳がある。


ウィキペディアによると、『多賀氏(たがし)は、日本の氏族。現在の滋賀県犬上郡多賀

町にある多賀大社の神官で、後に武家に転向した。』とあるし、多賀大社のホームページ によると、『多賀大社と多賀氏との関係は深く、鎌倉時代には神官兼御家人として多賀氏 が多賀大社を運営していたことが神社の古文書に残されています。また、 「姓氏家系大辞 典」によりますと、多賀氏の祖は近江・播磨・筑前・飛騨・下総等の諸国に数流ありますが、 一説には多賀大社が多賀氏のルーツとも云われてい ます。』とある。また、ウィキペディ アには、『多賀神社(たがじんじゃ)は、イザナギノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミ

コト(伊弉冉尊)を祀る神社で、全国に二百数十社ある。総本社は、滋賀県犬上郡多賀町

にある多賀大社。』と書かれている。


これらの記事を読むと、多賀氏とは多賀大社あるいは多賀神社の神官であるとしか思われ ないが、そうではないだろう。以下において、その説明をしていきたい。


多賀町あるいは多賀で検索すると、ウィキペディアに滋賀県犬上郡多賀町が出てきて、

『古代から近世にかけて犬上君(犬上氏)および多賀氏が勢力範囲あるいは本拠としてき た地域であり、古今を通じイザナギ・イザナミの2大神を祀る多賀大社を中核として発展 してきた。』と説明されている。それ以外の地域は出てこない。しかし、京都府綴喜郡

(つづきぐん)には、昭和33年まで多賀村(たがむら)があって、現在は、井手町(い でちょう)の中の地名・多賀となっているが、この地域は、昔、多賀という地域であった ことは間違いない。


すなわち、多賀という地域は、滋賀県犬上郡の他に京都府綴喜郡にもあるのである。滋賀 県犬上郡の多賀は、多賀大社に因んで多賀と呼ばれたのであるが、実は、京都府綴喜郡の 多賀も、多賀神社に因んで多賀と呼ばれたのである。ウィキペディアには、京都府綴喜郡 多賀の多賀神社なんて出てこないが、これは歴史を知らないからそうなっているのであっ て、実は、継体天皇とともに、滋賀県犬上郡の豪族・犬上君が京都府綴喜郡のこの地域に やってきて、多賀神社を創建したのである。


京都府綴喜郡多賀の多賀神社は、その後、高神社と名前を変えるが、京都府綴喜郡多賀に 人たちは今なお高神社に対する崇敬の念が強い。多賀大社と京都府綴喜郡の高神社の祭 神・イザナギ・イザナミの2大神は同じであるが、京都府綴喜郡の高神社のほうはさらに 菊々理姫命が祀られている。 菊々理姫命 は一般に菊理媛(くくりひめ)と呼ばれている が、白山信仰の祭神である。白山信仰については私の論文があるが、菊理媛が祀られてい るということは、秦氏の関与を伺わせる。井手町のホームページには、高神社の社文書に 改築の時に猿楽が舞われたとあるが、これは日本で最初の猿楽に関する記録の一つとなっ ている。猿楽が舞われたとあるのは「白山信仰について」という論文にも書いたが、秦氏 によるものであることはほぼ間違いない。したがって、菊理媛が祀られているということ と猿楽が舞われたということを考え合わせると、高神社の祭祀に秦氏が関与していること は間違いなく、この地域の人たちが金属技術者の集団であった可能性が高い。


高神社の由来については、延喜式神名帳をもとに作られた神奈備というホームページで は、『当神社は多賀集落の東南に位置する天王山に鎮座。本殿は北西に向かい多賀集落を 見 守るように建てられています。 創立は人皇第29代欽明天皇の元年(西暦540年)

東嶽に御神霊の御降臨により社 宮を建ててお祭りした事に始まります。その後集落の発展

に伴い、元明天皇の和銅4 年(西暦711年)東村宮として多賀明神社が字川辺に建立 され、次いで神亀2年( 西暦725年)字西畑に久保村宮が、神亀3年(西暦726 年)字綾の木に谷村宮が 、それぞれ建立されました。聖武天皇の天平3年(西暦731 年)勅願により高御産日神の名より「高」の字を採って「多賀神社」を「高神社」に「多 賀村」を「高村」 と名称が変更されました。元慶2年(西暦878年)8月谷村宮龍神 祭の時に死者の 出る喧嘩騒動が起こりました。そのためその後相談が重ねられ、仁和元 年(西暦88 5年)現在地の天王山に統合され三村がなか良くお祭りをすることになり ました。こ の間宇多天皇の御真筆による「大梵天王社」の額と称号を頂き永く高村「大 梵天王社 」と呼ばれて来ました。醍醐天皇の御代には神輿が三基あったと記されていま す。仲恭天皇の承久三年(西暦1221年)大乱の後「高村」を「多賀」に「高神社」を

「 多賀神社」に改正されました。寛元3年後嵯峨天皇の時代には霊顕あらたかな神様と して「正1位勳1等」の神位と「大明神」の称号が贈られました。明治元年に神社制 度 の改正により大梵天王社「多賀神社」が現在の「高神社」に改正されました。本殿 のご 祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」「菊々理姫命」摂社14社ご祭神及び神社 名は

「天照大神」「須佐之男命」「大国主之命」「応仁天皇」「仁徳天皇」「仲哀天 皇」

「稲荷神社」「愛宕神社」「八幡宮」「春日神社」「恵比寿神社」「八王子神社 」「祈 雨神社」「聖神社」であります。』・・・と書かれている。


以上のとおり、京都府綴喜郡多賀の古代地域の豪族は、秦氏に繋がる豪族であり、その配 下は金属技術者の集団であった可能性が高い。したがって、私は、京都府綴喜郡多賀の古 代地域の豪族を「多賀の豪族」と呼びたいと思う。この「多賀の豪族」が継体天皇の大和 入りに際し、大伴氏、物部氏と協力しながら秦一族を挙げて力を発揮するのである。


近江毛野(おうみ の けぬ)という継体天皇の将軍がいる。 近江毛野は、太田亮の『姓氏 家系大辞典』(角川書店、1963年)によると、武内宿禰の後裔で波多氏の支族であるとさ れている。私もそう思う。波多氏は、後年そう名乗ったのであって、秦一族である。近江 毛野は、継体21年、新羅によって奪われた南加羅などの諸国を奪還すべく任那への赴任 を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しよ うとしたため、渡海できなかった。しかし、物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された 後、毛野はようやく任那の安羅に赴任して、新羅との間で領土交渉を行った。その後の行 状については、この際、本筋から離れるので省略して、本筋として 新羅との間で領土交渉 を行った継体天皇の将軍であるという点に注目してもらいたい。

継体天皇擁立に「多賀の豪族」(秦一族)がいる上に、継体天皇の将軍に秦一族がいる

が、継体天皇擁立の立役者は、大伴金村である。大伴金村は、記紀では、天孫降臨の時に 先導を行った天忍日命の子孫とされる天神系氏族で、佐伯氏とは同族関係とされるている が、その実態はよく判らない。物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられてい る。両者には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警 護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたらしい。いずれにしろ、当時の最大の 実力者だったのである。 仁賢天皇11年、仁賢天皇の崩御後に大臣平群真鳥・鮪(しび)父子を征討し、武烈天皇 を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇の崩御により皇統は途絶えたが、応神 天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国から迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明 の各天皇に仕えた。日本書紀によると継体天皇6年に高句麗によって国土の北半分を奪わ れた百済からの任那4県割譲要請があり、金村はこれを承認し、代わりに五経博士を渡来 させた。継体天皇21年の磐井の乱の際には物部麁鹿火を将軍に任命して鎮圧させた。し かし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、大伴金村の権 勢は衰え始める。しかし、大伴氏は、蘇我氏と一定の距離を置きながらも良好な関係に あったので、物部氏や秦氏のように、蘇我氏によって滅ぼされることはなかった。


物部氏と秦氏は、応神天皇擁立の時もそうだったが、継体天皇擁立に際しても、力を合わ せて大伴金村に協力したのである。もちろん、物部氏は三輪王朝からの重臣であり、秦氏 はその支援の下にあったのであって、対等の立場ではなかったが、まあいうなれば一心同 体で大和朝廷に尽くした氏族である。秦氏が物部氏の支援を得て応神天皇擁立に立ち上 がったその様子については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」に詳しく書いたので、 それを是非ご覧いただきたい。


以上のとおり、「多賀の豪族」が継体天皇の大和入りに際し、大伴氏、物部氏と協力しな がら秦一族を挙げて力を発揮するのである。


「多賀の豪族」については、その概略を上述したが、「井出の里」の豪族でありより詳し い内容については、是非、次をご覧いただきたい。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tagajin.html


あわせて、「井出の里」という私のホームページもご覧いただければありがたい。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/idesato.pdf

おわりに


「はじめに」述べたように、藤原不比等が記紀を創作した狙いは「祓いの神道」、すなわ ち中臣神道の創造にあった。記紀は、天照大神を皇祖神とする天皇を頂点とする為政者の ヒエラルキーを持っている。 藤原不比等は、記紀神話によって、皇祖神・天照大神から始 まる万世一系の天皇像を作り上げ、天皇の権威を詠いあげ、それを裏打ちする実態として 伊勢神宮を作ったのである。かくして、日本は世界に誇る神道の国となった。


しかし、日本は神道の国であると同時に仏教国でもある。これで日本のかたちが成り立っ ていると思う。その仏教は、一般には、欽明天皇の時代に伝来したと言われているが、

『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、宣化天皇の時代であ

り、いずれにしても継体天皇の子供である。仏教を日本に伝えたのは、百済の聖明王であ る。聖明王は何故日本に仏教を伝えたのか。


聖明王は継体天皇の時代の人であり、 聖明王は継体天皇のご恩に報いるため、継体天皇 の子供である欽明天皇か兄の宣化天皇に釈迦仏の金銅像や経論などを送ってきたのだと、 私は思う。そのお陰で、仏教国日本の現在がある。その功労者は継体天皇であるが、その 礎を作ったのは聖武天皇である。


この論文を終わるにあたって、私が「 聖明王は継体天皇のご恩に報いるため」と言った その辺の事情と、「聖武天皇の苦労」について書いておきたい。


継体天皇の頃、朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に分かれており、対立を繰り返して いた。仏教は、まず最も中国に近かった高句麗に伝わり、百済にはその後384年に伝 わっている。新羅にはその後5世紀 初めに伝わった。仏教の宗派としては、三論宗、律 宗、涅槃宗、円融宗、華厳宗、法性宗、法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などがあったら しい。


6世紀前半に即位 した百済の聖明王は、当初新羅と結んで高句麗に対抗していたが、次第 に新羅の圧迫を受けることになり、新羅に対抗するため倭国に対して援軍を要求してい る。百済が倭国へ仏教を伝えたのは、日本へ先進文化を伝えることで交流を深めるととも に、仏教に心酔していた 梁(502~557)の武帝の歓心を買おうとしたためと思わ れるが、倭国に援軍を求めるのが最大の目的であったようだ。

年代に諸説があるのは日本書紀に従えば552年だが信憑性が薄く、より信頼性が高い

『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に従えば538年となる。ただ し、この年だと天皇は欽明天皇ではなく兄の宣化天皇の時代になる。この二人はその先の 安閑天皇とともに、継体天皇の子供である。百済の王から欽明天皇が仏像を譲り受けたと いう548 年説は百済側から推察したもので、いずれも定説には至っていない。日本書紀 に545年(欽明天皇の時代)に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺、5メー トル弱)の仏像を作成し任那に贈ったとの記述もあり、通常、これが仏教伝来の時期と考 えられている。ただし、当時の日本には既に多くの渡来人が 定住していたが、彼らは自分 達の私的なものとして、仏像や経典を既に持ちこんでいたようだ。522年継体天皇の時 代に日本に来たと言われる司馬達等(しば たっと)は仏像を安置していて、それを見た日 本人がその仏像を「大唐の神」と呼んでいたとの記録がある(「扶桑(ふそう)略記」)。

蘇我氏は、司馬達等(しば たっと)と結んで、仏教の普及に大きな役割を果たした。


聖明王は継体天皇の時代の人であり、私は、 聖明王は継体天皇のご恩に報いるため、継 体天皇の子供欽明天皇に釈迦仏の金銅像や経論などを送ってきたのだと思う。そのお陰 で、仏教国日本の現在がある。その功労者は継体天皇と聖武天皇である。


私は、第4章の終わりに、「井出の里」というホームページを紹介したが、そこで、私 は、『 聖武天皇は、時の都であった紫香楽宮で大仏造立の詔を出した。大仏は最初紫香 楽宮で造られ始めたが、都が平城京にもどったことに伴い、大仏建立が本格的に始まった のである。しかし、それには橘諸兄の了解が必要であり、聖武天皇はそれに苦労す る。』・・・と述べた。


聖武天皇の即位は、724年であり、聖武天皇24歳の時である。藤原不比等が 亡く なって4年目のことである。興福寺が創建されるのは平城京に遷都した年(710年)で あるから、興福寺が創建されてから14年がたつ。興福寺の五重塔 はまだできていない が、金堂や北円堂はできている。入唐僧玄ぼうが、法相宗を日本に持って帰るのが735 年であるから、聖武天皇の即位のあと11年後のこ とである。このあと、741年に は、国分寺、国分尼寺建立の詔(みことのり)が、そしてその2年後には、盧舎那仏(る しゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立を 発願される。


まだ、春日神社はできていない。春日神社が創建されるのは、768年であるから、ずっ とあとのことで、大仏開眼から16年、聖武天皇が崩御されて から12年・・・あとであ る。関東及び東北から、物部の勢力を藤原が乗っ取るのに相当の年月がかかったというこ

とであろう。不比等が亡くなってから、藤原 4兄弟の突然の病死あるいは藤原広嗣(ひ

ろつぐ)や藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱という・・・藤原氏滅亡の危機がなくはなかっ たのだが、そこは不比等の引 いたネットワーク組織のおかげで藤原の勢力は着実にのび ていった。そして遂に、768年、春日神社が創建されるのである。藤原の官僚としての 力はものすご いもので、政治はなかなか天皇の思うようにはいかなかったようだ。皇親 政治は夢の又夢である。


しかし、藤原の思うがままの政治を天皇として許すわけにはいかない。そこが聖武天皇の いちばんの思いではなかったか・・・。少しでも・・・皇親政 治に近づけたい。藤原の官 僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とかしなければならない。それは、中臣神 道を否定できない以上又すべきでもないが、 盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏) の建立して、何とか神道と仏教の習合を図る・・・ということではないのか。神道は藤原 に任せるとして、仏教は天皇 自らがやろう・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。 人材が欲しい。入唐僧玄方(げんぼう)のほか、良い人物はいないのか? いるい る・・・。良弁行基がいるではないか!


上に述べたように、藤原4兄弟というのがいた。最終的は流行り病(疫病)で4人とも亡 くなるのだが、この藤原4兄弟は、4人とも、聖武政権下で活 躍する。亡くなるまで1

3年の永きに渡ってである。偉大な政治家・藤原不比等がいなくなっても、この4兄弟が 聖武政権を牛耳っていく。聖武天皇は次第次第 に無力化していくのである。早くも危機は 即位後5年目にくる。左大臣・長屋王が 自殺に追い込まれ、聖武政権に反藤原は一人も いなくなる。藤原4兄弟の思うままの政治が展開されるのである。聖武天皇は操り人形の ようでまったく無力化し ていく。藤原4兄弟が亡くなった翌年、すなわち738年に、 橘諸兄(たちばなもろえ)が右大臣になって、ようやく聖武天皇は皇親政治に舵を切るこ とが可能 となった。新しい聖武政権の誕生である。橘諸兄(たちばなもろえ)と吉備真 (きびのまきび)の活躍するときがきた。


聖武天皇が崩御した翌年に橘諸兄もなくなって、まったく政権は渾沌としていくのだが、 その際、吉備真備の活躍によって何とか危機は回避できるのである。吉備真備は偉大な政 治家である。聖武天皇が崩御したあと橘諸兄もなくなってからの混沌は、すでに先に書い たのでそれを見て欲しい。ここでは、聖武天皇のことを書く。書くといっても、中西進の 名著「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998年11月、PHP研究所)があるの で、その要点をごくごくかいつまんで紹介するだけであるが・・・。

  聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)が聖武新体制に反対して、九州で反乱の兵を挙げる7

40年から5年間、つぎつぎと都をかえる。世にいう「彷徨5 年」である。聖武天皇は

藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼになったという人もいたりして、聖武天

皇は今の世の中の人にすこぶる評判が悪いので ある。しかし、中西進はそれは間違いで あるという。私もそう思う。ただ、中西進は聖武天皇は「巨大な夢を生きた」のだという のに対し、私は、聖武天皇は 「夢を生きた」のではなく「現実の政治」を行なったのだ と思う。先ほどもいったが、藤原の官僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とか しなければな らない。それは、中臣神道を否定できない以上・・・又すべきでもない が、盧舎那仏(る しゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立して、何とか神道と仏教の習合を図 る・・・ということではないのか。神道は藤原に任せるとして、仏教は天皇自らがやろ う・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。きっとそうだ。天皇として当然やるべき

「揺りもどし」をやったのである。私はそこに歴史的必然性を感じる。 若干そのような 違いはあるが、中西進と同じように・・・・、私は、聖武天皇を高く評価したい。


藤原広嗣(ひろつぐ)は、藤原宇合(ふ じわらのうまかい)の長男であり、新たな聖武 体制の要である吉備真備と玄ぼうを天皇側近から除いて欲しいと上表した。同族としての 甘えがあったのか、公私 混同もはなはだしい。新たな聖武体制の要である吉備真備と玄 ぼうを天皇側近から除いて欲しいとび上表は、天皇に対する反逆である。聖武新体制とし て断じて これを許すわけにはいかないのである。上表文が奈良に届いたのが740年8 月29日であり、聖武政権は、電光石火のごとく、9月3日にははや大野東人(おおのあ ずまびと)を大将軍として・・・1万7000の討伐軍を派遣させた。


このことに関して、中西進は、その著書「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998 年11月、PHP研究所)の中でこう述べている。


すなわち、『 真備はこう言っただろう。「ただちに、東海、東山、山陰、山陽、南海の 各地の国司に激をとばして農兵を集めよ。大軍をもって威圧する必要がある。ついで在京 の隼人を集めよ。彼らを味方にすることで九州の隼人の反抗心を柔げることができるだろ う。あわせて隼人の心情について彼らの意見を参考にせよ。佐伯常人と阿部虫麻呂を勅使 として加えよ。官軍としての色彩が明瞭になる。折しも新羅から帰国した遣新羅使の一行 が長門にいるはずである。一行の中に人材があれば討伐の軍に加えよ。新しい戦略を知っ ているだろう。」』。


『 もうひとつ、真備の判断が働いた。都の情況が必ずしもわれに幸いしないことだ。陰 に陽に、広嗣(ひろつぐ)の言い分に加担する者がいる。なにしろ藤原のネットはあなど りがたいものがある。ここはひとまず、天皇と藤原ネットとを隔離しておくべきだ。(中 略)聖武の脳裏を、あの壬申の乱の時の天武天皇の吉野脱出が横切ったにちがいない。そ の故事にならうことが、わが身をふるい立たせた。事は急を要する。10月23日、行幸 の次第を決定。26日、東国行を宣布。29日出発。行幸を守る兵は騎馬400。 』

『 天皇の前後をかこむ武官は御前長官が塩焼王、御後長官が石川王、前後の騎馬隊に号

令した者は前騎兵大将軍が藤原仲麻呂、後騎兵大将軍が紀麻路 である。(中略)多くの 藤原シンパが官僚の中にいた。反対に右の従駕者の中に藤原氏の者は仲麻呂ひとりしかい ない。 』


『 聖武が徴用したのは渡来系の東西史部と秦氏との私兵集団であった。寄せ集めの混成 軍団である。しかし、独特の伝統や生活様式をもつ精悍な騎馬 軍団に目をつけ、その機 動力をもって一気に東国へとかけ抜けようとしたのである。機動軍団への注目、ここに聖 武・真備ラインの鋭敏な感覚がある。  』・・・と。

 


まあ、すごいですね。すごい! 吉備真備はすごいの一言に尽きるのではないか。この藤 原広嗣(ひろつぐ)の反乱のあと、橘諸兄と藤原仲麻呂との争いが表面化し、世にいう

「彷徨5年」へとつづいていくのだが、ここでは、聖武天皇略年表(「彷徨5年」関連) と聖武天皇略年表(盧舎那仏建立関連) だけを紹介し、彷徨そのものについては述べな い。ここでは、とりあえず、「聖武・真備ラインの鋭敏な感覚」というものを理解してい ただければそれで結構 だ。聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼ になったというようなものではさらさらない。聖武天皇は、必死になって藤原一族と戦っ てい るのである。聖武天皇が藤原であり藤原でない・・・・と私が言う所以である。

 


( 註:中西進の見方については、かって、「権威ということ」という題で少し書いたことがある。ここで の問題と関係があるので、参考に見て欲しい。ここをクリックして下さい! )


聖武天皇は、全国各地に国分寺と国分尼寺を建立し、仏教により国の「権威」というもの を打ち立てた。その総本山が東大寺であり、大仏はまさに国家の精神的中心として建立さ れたものである。


巨像・る舎那仏にわが身を投影し、その存在を宣揚した聖武天皇は、仏教国家の範を聖徳 太子に仰ぎ、白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実 現を目指した英主であっ た。これは、中西進さん(大阪女子大学長)の見方である(中西進、「聖武天皇」、19

98年、PHP研究所)。


しかし、中西さんも言っておられるように、一般的には、聖武天皇の評判は悪い。いちば ん評判が悪いのは天平12年(740)から5年間、つぎつぎ と都をかえたことだ。そ れまで都は奈良にあったが、天平12年、藤原広嗣(ひろつぐ)という男が九州で反乱の

兵を挙げると、天皇はただちに都を抜け出して 伊勢へゆき、そのまま奈良に帰らないで、

恭仁(くに。今の京都府相楽郡加茂町)にとどまり、そこを都とした。のみならず、その のちも難波や紫香楽(しがら き)に行幸をくりかえした。「彷徨(ほうこう)5年」な どという言葉もあり、聖武天皇はノイローゼになったのではないかという人も少なくな い。杉本苑子さ んも、その著書「穢土荘厳(えどしょうごん)」(1986年、文芸春 秋)では聖武天皇の精神状態を病的なものと捉えている。ノイローゼだったという訳だ。

 


私は、中西進さんと杉本苑子さんの中間的な見方をしている。中西さんが言うように、聖 武天皇を白鳳の精神を伝統とする理想の君主国・日本の実現を 目指した英主というのは ちょっと違うのではないかと思う。聖武天皇は、藤原氏の勢力と新興勢力・橘諸兄の間に あって苦労する。ノイローゼにならんばかりの 心労が多かったと思う。かといっ て・・・・・ノイローゼであったというのはちょっと言い過ぎではないか。


私の考えでは、「彷徨5年」というのは、ノイローゼの故に強行されたのではなくて、大 仏建立の準備として東国を固める必要性から強行された。西国 は、大将軍・大野東人を もってして宇佐八幡に祈願せしめ、藤原広嗣の乱さえいち早く平定すればそれで充分だ。 もともと西国は藤原氏の勢力の弱いところだ し、難波が西の抑えとして天皇の勢力下に ある。それよりも東国を固めることだ。東国の固めは伊勢と尾張を抑えることだ。そして 鎌倉を抑えることだ。


「彷徨5年」によって東国は固まった。いよいよ橘諸兄とともに恭仁(くに)での新しい 都づくりだ。大仏建立はやむを得ないとしても、大仏建立の地 はいろいろと意見があっ たようだ。平城京と新都市・恭仁(くに)、或いは思い切って紫香楽(しがらき)がいい か。それとも難波が良いか。大仏建立そのもの に反対する意見も多く、侃々諤々議論が 沸騰・・・・、なかなか結論がでない。早く決断しないと大仏建立そのものが立ち消えに なる。何よりも始めることだ。 したがって、大仏建立の場所そのものについては必ずしも 方針が定まらないまま、聖武天皇の思惑でとりあえず紫香楽(しがらき)で始めざるをえ なかった。私 はそう考えている。やる気を示そう!・・・「石橋を叩いては渡れな い!」・・・「ともかく始めることだ!」


この辺りの筋書きは良弁によるのではないかと私は考えている。良弁は、行基と相談の 上、片方で大仏建立の地を平城京とすることで藤原氏を説得 し、・・・片方で・・・・ 大仏建立に対する藤原氏の全面的な協力を得るという条件で、大仏建立の地を平城京にす ることをやっと橘諸兄に認めさしたのではな いか。私はそう考えている。そういう荒技 をできるのは、良弁をおいて他にない。

良弁は、華厳宗の創始者である。華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。

その概念は、なかなか難しくてそう簡単に説明できないのであ るが、とりあえず判りや すく言ってしまえば・・・・、白と黒、善と悪・・・、まあそういった相対的なものを切 り離して認識しないで、りょうりょう相まって というか、一見相対的と見えるものの関係 性を重視する。一見矛盾するように見えるものについても双方の立場を尊重する。これは 近代科学ではあり得ない認識 の仕方であるが、河合隼雄さんはそういう華厳思想という ものに21世紀の可能性を見ておられる。私も、深いところは判らないまま、何となくそ のように思わ れて、良弁、徳一、明恵などを勉強したいと考えている。華厳思想はすばら しい。その華厳宗の創始者である良弁が聖武天皇を導いた。そのことがない限り大仏 の 建立はなかったであろう。そして、そのことがない限り、東大寺はできていなかったし、 かの明恵は誕生しなかったのではないかと思えてならない。


聖武天皇と良弁は、行基という偉大な人を重用し、民衆のエネルギーを引き出しながら巨 像・る舎那仏を建立し、国家の精神的支柱とした。権力は藤原 氏を中心とする官僚シス テムに委ねるが、権威は天皇を中心とした皇室に残す。そういう棲み分けを構想し、実現 したのは良弁であろう。否、華厳思想のなさし める技ではなかったのか。私にはそう思 えてならない。


貴族社会は、藤原氏を中心に成熟し、やがては武家社会へと移行していくのだが、その武 家社会の源流においてふたたび華厳思想がその真価を発揮す る。明恵の「あるべきよう わ」の思想である。それによって、権威に裏打ちされた貴族たちと・・・・権力に裏打ち された武士たちの棲み分けが始まった。武家 社会の誕生である。