中尊寺や毛越寺の知られざる部分


2017年2月7日

国土政策研究会

会長 岩井國臣




第1章 慈覚大師(円仁)と平泉


中尊寺(ちゅうそんじ)は、平泉の文化を色濃く残すものとして、2011年6月に、毛越寺とともに、世界遺産に登録された。浄土思想を表す建築や庭園及び考古学的遺跡群がその登録理由になっている。つまり、平泉の浄土庭園は、アジアからもたらされた作庭概念との交流がうかがえ、その後の仏堂・庭園に影響を与えたこと。平安時代末期約100年にわたり独自に発展させた仏教寺院・浄土庭園は、現世における浄土を具現化したものであり、その文化が現代に息づいていることが評価されたのである。

さあそこでだ。そもそも浄土とは何かということである。浄土思想というものはたいへん奥が深い。哲学的にも考えねばならないところがある。しかし、浄土について哲学的な話をしている人は、私は中沢新一をおいて他に知らない。したがって、ここで、まず中沢新一の「浄土論」を紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nakajyou.html


さて、浄土思想とは誰が始めたのか、ということを少し話をしておきたい。一般に、浄土思想といえば、源信や法然や親鸞を思い出すだろう。しかし、それは違うのだ。浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいるのである。すなわち、浄土の思想は、慈覚大師円仁から始まり、元三大師、源信(げんしん)でほぼ完成し、やがて法然、親鸞へとつながっていくのである。

浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)の・・・・常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱えて、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も伝えられるようになった。この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。この辺のことは、私のホームページがあるので、是非、それを見ていただきたい。宇治の恵心院から横川の恵心院を紹介しています。

http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html


奥州藤原氏は初代が藤原清衡(きよひら)である。清衡の父は、前九年の役の最後の戦い、現盛岡市でおこなわれた「厨川柵の戦い」で敗れて処刑された藤原経清(つねきよ)である。経清安倍一族である。安倍一族は、前九年の役、後三年の役を通じて、源頼義や義家と戦い、多くの戦死者を出し地獄を味わったのである。奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよはら)はそれら戦死者の霊を慰め、且つ平和を願う心から中尊寺を再興したのである。この理想の世界が極楽浄土世界の建設であった。清衡(きよひら)は豊富な産金、漆、馬を活用し、中央文化だけではなく、中国文化も取り入れ、平泉文化の礎を築いたのである。

そして2代目・藤原基衡(もとひら)は毛越寺、観自在王院の建立に着手し、3代秀衡(ひでひら)は基衡の遺志を継いで毛越寺を完成し、さらに無量光院を建立したのである。こういった、奥州藤原氏の東北地方の平和を願う心がこれらの寺院にしみ込んでいる。つまり、仏教思想の平和浄土のために建設されたのが平泉文化である。平泉文化こそ、これからの日本の文化、否、世界文明の骨格でなければならない。そういう文化の底流を流れる東北人の精神は、喜田貞吉(きださだきち)が言うように「至って義理堅いという武士道的な性格」でもあろうが、長髄彦、アテルイ、安倍氏、安東氏、奥州藤原氏などは、中沢新一が言う「東北」であり、「平和の民」と考えていいのではないか。

さて、そういう想いを持ちながら、是非、平泉の世界遺産を見ていただきたい。

http://heiwa-ga-ichiban.jp/sekai/sub/sub16.html


中尊寺は、もともとの寺は850年に慈覚大師円仁が創建し、859年に清和天皇から中尊寺の号を得たと言われている。その後1105年に藤原清衡が堀河天皇の勅により再興した。 論文「邪馬台国と古代史の最新」の第8章第2節(3)で述べたように、 慈覚大師円仁が実際に東国巡錫したのは天長6年(829年)から9年(832年)のこととされているので、立石寺の場合と同じように、誰か弟子をして中尊寺の創建に着手させたのではないか。いずれにしろ立石寺も中尊寺も、おおむね860年頃に正式な寺院となったのではないかと思う。

平泉世界遺産の心髄は浄土思想にある。そして、浄土思想の源流に慈覚大師円仁がいる。


中尊寺を中心とした平泉世界遺産において、私が慈覚大師円仁にこだわるのは、毛越寺の常行堂に摩多羅神が存在するからだ。これは慈覚大師円仁の奥州藤原氏の平和主義に対する強い思いがないと平泉に摩多羅神なんてものが存在する訳がない。では、中尊寺に引き続き、毛越寺の常行堂にご案内したい。

http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/20287208.html


さて、摩多羅神については、論文「邪馬台国と古代史の最新」の第8章第2節(5)に書いたように、摩多羅神は、「オソソの神」であり、諏訪の「ソソウ神」であるが、私は、その摩多羅神についてさらにいろいろと書いてきているので、ここで、それを是非紹介しておきたい。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyougyou.html

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros12.pdf


それでは、毛越寺で行われている摩多羅神祭を紹介しておこう。

http://www.youtube.com/watch?v=J096iXHBaEg





第2章 白山信仰と中尊寺や毛越寺


秦一族と慈覚大師・円仁は深く繋がっている。そして、二人は、長滝寺の繁栄に深く関わったばかりでなく、実は、中尊寺や毛越寺の繁栄にも深く関わっているのである。それをこれから説明したい。


岐阜県美濃の長滝白山神社の「延年の舞」は、「長滝の延年」と呼ばれ、国の重要無形民俗文化財になっているが、岩手県平泉の 毛越寺に伝承される「延年の舞」も「毛越寺の延年」と呼ばれ、国の重要無形民俗文化財になっている。そして、それら「延年の舞」に起因するものと思われるものに、長滝白山神社には 国の重要文化財「29面の能面」が残されているし、毛越寺には 歴史的に誠に貴重な能舞台がある。


なお、長滝白山神社は、古くは白山中宮長滝寺と称したが、明治時代の神仏分離により、長滝白山神社と長滝寺に分離された。神仏分離後も長滝白山神社と長滝寺は同一境内にあり、参道も同じである。



毛越寺に伝承される「延年の舞」は、開山以来連綿と行われてきた常行三昧供の修法とあわせて国の重要無形民俗文化財に指定されている。最古の能といって良いかどうか判らないが、毛越寺の「延年」は能の原型を示すもので、きわめて貴重のものである。 現在、常行堂では、古伝の常行三眛供の修法のあと、法楽に「延年の舞」が奉納されている。


毛越寺では、古代にこの「延年の舞」が舞われた関係で、日本最古の能舞台と言って良いかどうか判らないが、歴史的に誠に貴重な能舞台がある。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mounoubutai.pdf



中尊寺の近くには、中尊寺境内の白山神社の他に、二カ所の白山神社がある。平泉町長島字白山21番の 白山神社 と 平泉町平泉字衣関173番 白山神社 である。このことは、白山信仰の本拠地・福井県、石川県、岐阜県の県境にまたがる白山の修験者が秦氏に引き連れられてこの地にやって来たことを意味している。円仁(慈覚大師)が、今は北上川の一関(いちのせき)遊水池にあった藤原氏「柳の御所」の支援の下、中尊寺を創建する際に、彼らは秦氏の差配に従って然るべき宗教活動をしたのであろう。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tyuusonno.pdf







前回までの目次

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/index00.html



なお、一連の電子書籍を出版した2012年以前のWhat’sNewは、

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/huruiWN.html