北条泰時について


平成29年6月4日

国土政策研究会

会長 岩井國臣



北条泰時は確かに日本史における最も興味深い人物であり、また梅棹忠夫氏が評されたように「日本で最初の政治家(ステイツマン)」であり、あらゆる意味で重要な人物である。


泰時は、まず幕府の移転を行ない人心の一新を行なった。同じ鎌倉の中ではあるが、大蔵から宇都宮辻に役所を移転したのである。政子の死後半年のことである。そして間髪を入れず、将軍予定者の三寅の元服と将軍就任である。


泰時は派手派手しさがないから、義時急死・鎌倉帰還・伊賀氏の陰謀の制圧と処理・政子の死・幕府の移転・三寅の元服と将軍任命・新体制の整備が驚くべき速さで進んで行ったことに人は案外気づかない。さまざまな意味でその見通し、計画、処置は的確であった。


まず彼は京都・鎌倉をはじめとする全国の富者から、泰時が保証人となって米を借り、それを郡・郷・村の餓死しかかっている人に貸し与えた。彼は、来年平年作にもどれば元金だけ返納せよ、利息は自分が負担しようといってその借用証を手許に置いた。 

しかし泰時は結局資力のない者には返済を免除し、それはすべて自分で負担したので、大変な貧乏をした。


彼は常に質素で飾らず、館の造作なども殆ど気にかけなかった。 

さらに無欲な者を愛するとともに、作為的に何かを得ようとする者、いわば「奸智の者」を嫌った。 

裁判になった場合でも、敗訴した者が率直に自分の非を認めれば、泰時は決してそれ以上追及しなかった。 

下総の地頭と領家が相論したとき領家の言い分を聞いた地頭が即座に「敗けました」といった。泰時はその率直さに感心して、相手の正直さをほめたという話が「沙石集」にある。一方この逆の場合、すなわち裁判に不服なものが実力で抵抗すると脅迫しても、彼は少しも屈しなかった。北条氏は絶対的権威でないし、相手は武力をもっているからそのような抵抗が起って不思議ではない。そういう場合の泰時は実に毅然としていた。いわば怨を恐れて「理」を曲げれば、それが逆に、権威なき政権の破滅になることを知っていたのである。いわば彼の一生は、「ただ道理の推すところ」を貫き通し、この「道理を推すこと」を貫き通すことだけを権威としていたわけである。


これが「日本最初の政治家(ステイツマン)」といわれる理由であろう。

この論文は、そういう偉大な政治家・北条泰時について書いたものである。北条泰時の生い立ちについて書いたものはネット上存在しない思われるので、多分、この論文は貴重な資料になるであろう。


http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yasutokini.pdf






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