白人よ、お前は私に、大地を耕せ、と要求
する。
この私に、ナイフを手にして、
自分の母親の胸を裂け、と言うのか。
そんなことをすれば、
私が死ぬとき、母親はその胸に、
私を優しく抱きとってくれないだろう。
・・・「夢見の宗教」の教祖、ネズベルセ族のスモハラ
この本 に収録されたインディ アンの言葉は、どれも悲痛な響きをはらんでいる。19世紀の中頃、西欧の産業革命の発達の影響は、アメリカ大陸にも波及し、白人による「西部開拓」は、そ れまでの時代とはちがった、むごい暴力性を、おびはじめたのである。「開拓者」たちにとっては、土地はそれだけでもう投資の対象であり、大地はそこからエ ネルギーと資源を絞り出すための、ただの物質とみなされた。
しかし、その大地の上には、すでにこの大陸の先住民たるイ ンディアンが数万年の 歴史を刻んでいたのである。インディアンにとっては、あらゆる自然が宇宙そのものであり、それはモノでも、対象でも、素材でもなかった。彼らにとっては、 人間と自然をともども巻き込みながら、ダイナミックな全体運動を続けている、崇高な宇宙的力の実在を、日々の生活の中で感じ取っていられることが、人間に とって、一番大切な倫理の源泉だと、考えられていた。だから彼らにとって、大地を売り買いするなどもってのほかだったし、宇宙の全体運動の中にあるものの 一部分を、それだけ切り離して、言葉や計算によって操作したり、支配したりする、西欧的なものの考え方を、どうしても認めることはできなかったのだ。
19世紀から20世紀にかけて、アメリカ大陸において、 そういう二つのまった く相反する思想が、大地の領有をかけて、まっこうから対峙していた。いや、対峙などという言い方は、手ぬるい。インディアンは国家を繕うとはしなかった人 々である。国家のようなものができあがると、自然の中で人間がふるう権力があまりに増大しすぎて、宇宙の全体運動によくない影響を持つ、と考えた人々は、 国家のようなものができはじめようとするたびに、それを解体して、もともとの部族的ネットワークによる、世界の秩序のほうへ、たちもどってきたのだ。だか ら、そんなインディアンが、アメリカという近代国家とそれが発達させた戦争技術の前に、太刀打ちできようはずもなかった。
打ち続く虐殺、追放、隔離によって、今世紀のはじめに は、インディアンの文明 は、もはや消滅の寸前に追い込まれていた。この本に収録されているのは、その頃、文字をもたなかったインディアンが、自分たちの精神を育んできた文明の全 尊厳をかけて、白人の言説体系の前に、みずからの信ずることを、堂々と語ってみせた、その言葉の記録の断片なのだ。
日本人は、ここにある言葉に、多くの共感をしめすだろ う。私たちの無意識の中 には、インディアンの語るものの考え方の、かすかな記憶が、まだ消えずにのこっているからだ。しかし、私たちは、自分らが近代国家としての成功を収めるた めに、長い時間をかけて、自分たちの内部または近隣にあった、「インディアン的なもの」を滅ぼそうとしてきた人間なのだ、ということを、忘れてはいけな い。自分の中にある「インディアン的なもの」を恥ずかしいと思い、自分の中からそういうものの痕跡を消してしまいたいと思い、そういう世界をみずから滅ぼ すのに、大いに力をかけてきた人間の一員なのである。そういう世界の壊滅の上に、私たちの文明世界は成功裡に運営され、私たちはその恩恵を享受している。 だから、インディアンを虐殺し、その世界を消滅させてきたのは、彼ら白人だけではない。それは、私たち自身でもあるぐらいに思ったほうがいい。そして、そ の上で、私たちが失ったものの大きさと深さを知って、未来の世代のために、これらの叡智を伝達する努力をはじめることだ。
しかし、この本に収録されたエドワード・S・カーティス の撮影した写真を見て いると、私たちは不思議な希望を感じ取る。かってはこの写真家のような人間がいたのである。その人とその人を信頼して、カメラの前に立ってくれた「赤い人 々」のおかげで、私たちは、人間という生き物が、こんなにも気高い威厳と優しさをもつことができるという事実を、確認することができるのだ。インディアン たちが残してくれた言葉は、ブツダやイエスの言行録にも匹敵する価値を持った、人間の宝だ。しかし、この世にあらわれると、いつもこんな風に、悲痛な響き を発するものなのである。