自力本願

 

 

 仏教用語に「自力本願」という言葉はないらしい。俗語らしい。しかし、一般には、「自力本願」という俗語が普通に使われている。一般の人には、ほとんど無意識のうちにそういう言葉を使っているのだろう。私も、特に深い考えもなしに・・・何とはなしに「自力本願」という言葉を使っている。

 拙著「劇場国家にっぽん」でも、第1章「明恵の思想<あるべきようわ>」の最後に、私は、次のように書いた。つまり、

『 彼(明恵)はおそらく、自分の生き方について多分こう言ったであろう。

 「私は後生で済われようとは思っていない。ただ、現世においてあるべきようにあろうとするだけだ。修行すべきように修行し、振舞うべきように振舞えばいい。今は何をしてもかまわない、死後往生して助かればいい、などとはどの経典にも書いてない・・・」と。

 やはり法然とは根本的に考え方が違っていたようだ。法然の念仏思想は極楽往生を前提とした他力本願であり、明恵の「あるべきようは」は臨機応変の「自力本願」だ。きっとこれからのインターネット時代というものは即応性と融通性のある「自力本願」が求められよう。「あるべきようは」にこめられた明恵の思いが見直され、注目されるに違いない。』・・・と。

 

 そこで、友人から「仏教用語に「自力本願」という言葉はない」という指摘を受けたのだが、この点について少し考えてみたい。

 まずは、本願ということについてはここをクリック、他力本願ということについてはここをクリックして下さい。その上で、自力本願という言葉がどのように使われているかだが、インターネットの検索エンジンで検索すると、おおむね9000ページが検索される。その代表的なものはここをクリックして下さい。

 

 さて、問題は、「自力本願」という言葉が俗語のまま仏教用語として認知され得ないのか、それとも仏教が変質して「自力本願」という言葉が仏教用語としても正式に使われるようになるのかということである。

 私は、友人の指摘を受けて、その後いろいろと考えたのだが、どう考えても「自力本願」という言葉に執着せざるを得ない。この点を説明するには、よほどの準備が必要である。そう簡単には説明できない。いずれおいおいと述べていくとして、ここでは、二つのことを申し述べておきたい。

 ひとつは、これからあるべき「流動的知性」によれば、つまりこれからあるべき「対称性社会」では、「他力本願」という概念があるのであれば、当然、「自力本願」という概念があって然るべきだということである。

 まず、この点については、ここをクリックして欲しい。 そして、メニューバーの「流動的知性とは」・・・をクリックすると、その中で私は、次のように言っている。

 『 特定の考え方にこだわらない知恵、それが中沢新一のいうところの「対称性社会の知恵」であります。私流にいえば、「両頭截断」ということになりますが、世の中すべて対称性があります。善人がおれば悪人がいる。権力的な抑制があれば非権力的な自由がある。男性的なものがあれば女性的なものがある。光の部分があれば陰の部分もある。世の中にはまあいろんなものがあるんですね。千差万別。まさに曼陀羅(マンダラ)の世界といっていいのではないでしょうか。私は、このことを華厳哲学は教えていると思うのです。』・・・と。

 このような考えから言えば、今までの仏教に「自力本願」という概念がなくても、「流動的知性」は、まあ無意識のうちに「他力本願」という言葉を生み出すのではないか。それが、中沢新一の言う「対称性社会」だと私は理解するのである。

 これと同じ理解の仕方としては、田辺元の多様態哲学がある。かって、私はそのことを前のホームページ「桃源雲情」に書いたが、今ここでそれを振り返っておこう。つまり、その中で私は、中沢新一の次のような説明を紹介している。つまり、

 『 田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考であり、対立しあっている表象をひとつの概念の同一性の中で合致させるような弁証法とは根本的に異質な、「絶対弁証法」とでも呼ぶべき差異の思考なのである。「種の論理」は、私たちのまわりの世界の様子を、根本的に変化させていく力をもっている。

 すなわち、田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考の立場として、哲学と科学と芸術の理解に、決定的な方向を開く力を備えているのだ。もともとこの思想は、国家の問題、「個」と「公」の関係を解明するために追求されたものであるから、実践的な政治学の方法としても、発展させることができる。また、それは宗教の理解にも、威力を発揮する。』・・・と。

 

 次に、言いたいことは、このこととももちろん関連しているが、「流動的知性」によらなければ、つまり中沢新一のいう「モノとの同盟」、私流にいえば「光と陰の哲学」ということになるが、そういう新しい哲学によらなければ宗教は死んでしまうのではないかということである。

 科学文明がものすごい力で世界を変えつつある現在、すべての宗教はそれに対抗する力を失っている。すべての宗教は死にかかっており、中沢新一のような「後戸の哲学者」の力を借りないと、とてもその再生は難しいのではないか。

 中沢新一は、その著書(「カイエソバージュ「、神の発明」、2003年6月、講談社)の中で次のように言っている。つまり、

 『 宗教は「超越性」に名前を与え、ときにはそれを像に刻み、その領域の光景を描写してみることまで試みてきました。その宗教がしだいに力を失うようになってからすでに年久しく、「超越性」の領域への通路には無数のゴミが分厚く堆積して、「聖霊の風」のさわやかな流れを阻み、恩寵(おんちょう)も奇跡もめったなことでは及んでこれないほどに、「この世」の仕組みはふてぶてしいものになってしまいました。

 そういう世界を自分の手でつくりあげてしまいながら、現生人類以来の不変の脳をもった私たち人類は、なにか根本的に新しいものの出現を待ち望んでいるように感じられます。その根本的に新しいものは、商品社会がふさいでしまった「超越性」への通路を、ふたたび開いてみせるものでなければなりません。数千年の歴史をもつ古い諸宗教に、それを実現できる余力は残されているでしょうか。

 スピリットから唯一神へと展開していった一神教の内部から、私たちの言う根本的に新しいものを生み出すという可能性はあるのでしょうか。大統領が自分たちのとっている軍事行動を正当化するために、「神(ゴッド)」の名前を唱えるたびに、私たちは、そのような可能性はたぶんないだろう、と思わされてしまうのです。

 あらゆるものを商品化し、情報化し、管理する今日のグローバル文明は、長い歴史をもつ諸文明が生命を汲み上げていた泉の多くを、すっかり干上がらせてしまいました。本物そっくりの偽物はあふれかえっていますが、じっさいにはすでに根を断ち切られているので、古い伝統をもつ宗教でさえ、いまでは造花の美しさや見かけの正しさしかもっていないケースがほとんどです。 』・・・と。 

 以上のように、中沢新一は、宗教は死んだと考えているようだ。しかし、彼は、「未来のスピリット」に希望を持っており、次のように述べている。

 『 しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはいけません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。

そこにはまだ、はじめて現生人類の心にスピリット世界が出現したときとそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいものが出現する可能性をもった場所と言えば、そこしかありません。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。』・・・と。

 スピリットについては 、ここをクリックして下さい!

 

 スピリットに帰れ!流動的知性に帰れ!・・・という訳だ。私たちは、[超越性]の領域に入っていければ、心の野を開くことができ、野生状態の心を取り戻すことができる。そして、イキイキと躍動するスピリットたちをはっきりと見ることができる。問題は、どうすれば[超越性]の領域、それは[無]の領域とか[トワイライトゾーン]と言ったほうが一般には判りやすいのかもしれないが、そういう[超越性]の領域に入っていけるかということである。私は、[両頭截断]とよく言うが、物質文明か精神文化とか、右か左かとか、白か黒かとかそういう相対的に相異なる違いというものを乗り越えてというか、そういう二元論的なもののこだわるということのない、まあ言うなれば[中空]領域というか[無]の領域に入っていけるかということである。その方法ははっきりしているのではないか。

 仏教においては菩薩の道ということになるのであろうが、仏教や道教や修験道などそれぞれの宗教においてそれぞれ修行の方法が説かれている。それは、私流に言えば、「身体と脳の学習プログラム」ということだが、ここでの文脈から言えば、「自力本願」ということである。