何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?
 
 
 私は先に,次のように申し上げた。すなわち、『 小瀬が沢洞窟と室谷洞窟は,特別の技術集団の工房であった可能性が高く,それが故に,北海道産の黒曜石や神津島の黒曜石がそこに運ばれてきたらしい。
 さて,問題は,その場所が特別の技術集団の工房に選ばれたかということである。「縄文文化の起源を探る・小瀬が沢・室谷洞窟」(小熊博史、2007年5月、新泉社)では,その理由として,その場所が地理的な要衝だからと言っている。私もそう思う。しかし,何故そこが地理的な要衝なのかについては,小熊博史の説明では腑に落ちないところがある。そこで、黒曜石7不思議の七つ目の不思議は,「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という不思議にしよう。
 そして、この不思議については,小熊博史の説明では腑に落ちないということも含めて,現地に赴き,現地を見ながらいろいろと考えてみることとしたい。』・・・・と。
 
 旧石器時代に湧別技法が日本列島を席巻するが,人々の往来は私たちの想像以上に盛んであったらしい。そういう状況の中で,会津は交通の要衝であったと私は睨んでいる。私は,会津を通らないと日本列島を行き来することは困難であったと考えており、どこか只見川の源流を通ったに違いないと考えている。遊動の時代,徒歩で川を渡らねばならず,大きな川が交通の障害であった筈で,只見川や阿賀野川を中下流部で渡ることは困難であったのではないか。
 そこで、「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という不思議に答えるためには, 常浪川(とこなみがわ)のこと、会越国境の山のことを知らねばならぬと思いながら、新津から磐越西線に乗り換えて,現地に赴いた。
新津が磐越西線の起点であること,
阿賀野川下流の町であることを実感してほしい。
 
 
 会越国境の山々の主峰は御神楽山であるが,その南に狢が森山という山がある。その狢が森山と御神楽山の間に峠があり,乗越し林道が走っている。阿賀町室谷すなわち 常浪川(とこなみがわ) 流域から只見川流域は金山町に抜ける林道である。正式名は津川林道室谷線という。今回この林道を少し走って,周辺の様子を見たが,周辺の山は岩山が多く,古代,徒歩でこの峠を越えることはむつかしかったのではないかとの印象を持った。
 
仮にそれができても金山町から只見川の右岸を源流までいくのは大変困難であろう。また、 国土地理院の2万5千分の一の地図を見た上での判断だが,常浪川(とこなみがわ) は廊下が多く,ザイルなしでこの沢を溯行することは困難との印象を持った。
 以上は私の印象であり直感である。本当のところは地元の猟師にきてみないと判らないが,古代の人が 常浪川(とこなみがわ)の流域の山々の内適当なところを狩り場にしていたとしても、常浪川(とこなみがわ)の流域の沢筋又は尾根筋を交通に使ったとはちょっと考えにくいのではないか。だとすれば、「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という疑問がますます強まってくる。
 
 
 上述したように,日本海側と会津を結ぶ交通路は,旧石器時代,只見川の源流を通った。集落がないために,渡し船の利用ができなかったからである。しかし,室谷洞窟や小瀬が沢洞窟が特別な技術集団による工房として使われた時代,只見川や阿賀野川が丸木舟で渡れたとしたらどうであろうか。俄然,津川という「場所」が地理的な要衝として浮かび上がってくる。近世,津川は会津と越後を結ぶ要衝・川港として栄えるが,私は,上記のようなことを感じながら,室谷洞窟や小瀬が沢洞窟が特別な技術集団による工房として使われた時代において,すでに只見川や阿賀野川が丸木舟で渡れたのではないかと思うようになった。
 次に,ページを改め,室谷洞窟や小瀬が沢洞窟が特別な技術集団による工房として使われた時代において,すでに只見川や阿賀野川が丸木舟で渡れるようになっていたのかどうか,その点を考えてみたいと思うが,その前に,津川という「場所」を紹介しておきたい。
 
まずは、津川の郷土資料館を見学しよう。
 
次に,狐の館を訪れよう!
津川に古くから狐火の伝説がある。
麒麟山には狐がいて、
狐火がよく見られたそうだ。
狐火の多い年は豊作で縁起が良いとされていた。
 この伝説を基に、
15年前から始まった『狐の嫁入り行列』。
毎年5月3日に行われる。
 
 
 
狐の行列は住吉神社から出発する。
住吉神社の神は言わずと知れた舟運の神である。
津川という「場所」が川港の町であることを実感して欲しい。
 
 
では,いよいよ核心部分に入っていこう!
 
室谷洞窟や小瀬が沢洞窟が特別な技術集団による
工房として使われた時代において,
すでに只見川や阿賀野川が丸木舟で渡れたかどうか、
その点について考えてみたい。