熊渡り
 
 
津川から下流,磐越西線の駅で,津川の次が三川(みかわ)、その次が五十島(いがしま)、その次が東下条(ひがしげじょう)である。咲花温泉の近くである。その東下条(ひがしげじょう)に「熊渡り」という地名がある。昔,多分,クマが阿賀野川を渡る場所だったのだろう。全国にも「熊渡り」という地名がいくつかあるので,大きな川でもクマが渡れるような浅瀬がある場合があるのかもしれない。阿賀野川の東下条(ひがしげじょう)に「熊渡り」はそういう場所なのかもしれない。きっとそうだ。
 その「熊渡り」という場所に,旧石器時代の遺跡が3つある。下の図の146番(上の平遺跡)と147番(吉ケ沢遺跡)と171番(中峯遺跡)である。
 
 
 
 東下条(ひがしげじょう)の「熊渡り」が実際にクマが渡っていたというのなら,きっと,そういう場所では,サケ漁が行なわれたであろうし,丸木舟で対岸に渡ることができたのではなかろうか。この場所は,現在,集落をなしているが,釣り浜という地名が残っていることから見ても,本来は川である。そういう点を考え,また,旧石器時代の遺跡が三カ所もある点を考えれば,旧石器時代においても,晩期になるとこの場所では丸木舟で阿賀野川を渡ることができた蓋然性は高いと思う。
 川におけるサケ漁の漁場では,一カ所に比較的永く留まることになる。マス漁やアユ漁が加われば,留まる期間というのはその分永くなる。サケ漁やマス漁やアユ漁だけで定住が始まる訳ではないと思うが,そういったことが定住を定着させる要因になったのではないか。私は,土器の使用もさることながら、荒屋遺跡の実態や前田耕地遺跡の実態から、 定住を促した要因としてサケ漁やマス漁やアユ漁の隆盛を考えざるを得ない。土器が使用される前から,定住とはいえないが,ある特定の場所にそれなりの数の人々が長期滞在するというようなことが始まったのではないか。私は,最近、そう思うようになった。土器の発明よりそういう長期滞在の方が先に起り,その結果,土器が発明され,定住が定着していった。
 
 「縄文のこころとかたち」(小林達雄、1989年7月、毎日新聞社)というすばらしい本があって,その本の始めに下のようなイラストが載っている。山本耀也のすばらしいイラストである。ここに掲載させてもらったのは白黒のコピーだが,本物は実に見事なので,是非,上記の本を購入していただいて本物を見て欲しい。
 ご承知のように,サケは,秋,産卵のために川をさかのぼってくる。場所によっては,サケの大群によって川が埋め尽くされるような状態になる。クマでも容易にサケを捕ることができる。
 前田耕地遺跡からシロザケ骨が大量に発見された。縄文人とサケとの密接な関係の原点である。秋の川を遡る(さかのぼる)サケを捕獲して,新鮮な味を楽しんだだけでなく,むしろ乾燥や燻製その他の保存加工によって,不足しがちの冬の食生活を安定させたのである。
 
 
 
 
 さて、「生業の考古学 」(共著、     同成社、2006/10)という本がある。この本の中で, 大塚達朗(南山大学教授)は、『サケ・マス論』とは何であったかという題で山内清男が提唱したはサケ・マス論は、第一に気候冷涼化の中でのサケの南下を契機とした縄紋文化の北方起源を説明するものであり(第一のサケ・マス論と呼ぶ)、第二にそのようにして始まった縄紋文化の草創期〜晩期を貫く恒常的な東西差を説明するものであった(第二の「サケ・マス論」と呼ぶ)という趣旨の解説をおこなった上で、当該論は根拠のない主張であることを多方面から論証している。
 大塚達朗の意見はもっともなようにも思えるが,山内清男の「サケ・マス文化論」も魅力的な考え方であると思う。
 九州の遠賀川にもサケ神社があるが、私が今まで聞いたところでは,古くは,サケの南限は日本海側では円山川,太平洋側では天竜川であったらしく、サケは間違いなく北の魚であると思う。やはり西日本より東日本の方がサケは多かった。歴史というものは,アナール派の「つららモデル」が説明するように,過去の文化が現在の文化に繋がっている場合が少なくないが、現在,新潟県の村上市・三面川のサケ文化というのがあり,その事実が縄文時代におけるサケ文化というものの存在を想像せしめる。また,信濃川や阿賀野川には,「サケの大介・小介」という民話が今なお語り継がれている。
 そういったことを総合的に考えて,私は, 山内清男の「サケ・マス文化論」もたいへん魅力的な考え方であると思うのである。 縄文文化は,西日本より東日本のほうが発達していたが、その一つの要因に「サケ」があったのではないか。
 もちろん、大塚達朗のいうように、東北地方はどこでもおしなべてということではなく,川によるし,また同じ川でも場所によるが、上のイラストにあるように, 時期によっては,サケの大群によって川が埋め尽くされるような状態になることも少なくなかったのではないか。サケ漁だけではなく,マス漁やアユ漁もある。あるていどの期間、長期逗留が始まった蓋然性が高い。
 
 以上でいちばん言いたいことは,サケ漁やマス漁やアユ漁が定住のきっかけを作ったのではないかということであり,それが故に,旧石器晩期から縄文草創期にかけて、場所は相当限定されるけれど,大河川でも丸木舟で渡ることはできたのではないかということだ。阿賀野川の場合,小瀬が沢・室谷洞窟を擁する室谷川合流点付近は,旧石器晩期からすでに川港しての機能を有しており,日本海側と会津を結ぶ交通の要衝であったのである。 黒曜石7不思議の七つ目の不思議・・・・「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という不思議に対し,これで答えになっただろうか。