縄文人と山
 
岩井國臣
 
 私は先に次のように述べた。すなわち、
 『 旧石器時代に湧別技法が日本列島を席巻するが,人々の往来は私たちの想像以上に盛んであったらしい。そういう状況の中で,会津は交通の要衝であったと私は睨んでいる。私は,会津を通らないと日本列島を行き来することは困難であったと考えており、どこか只見川の源流を通ったに違いないと考えている。遊動の時代,徒歩で川を渡らねばならず,大きな川が交通の障害であった筈で,只見川や阿賀野川を中下流部で渡ることは困難であったのではないか。(中略)
 会越国境の山々の主峰は御神楽山であるが,その南に狢が森山という山がある。その狢が森山と御神楽山の間に峠があり,乗越し林道が走っている。阿賀町室谷すなわち 常浪川(とこなみがわ) 流域から只見川流域は金山町に抜ける林道である。正式名は津川林道室谷線という。今回この林道を少し走って,周辺の様子を見たが,周辺の山は岩山が多く,古代,徒歩でこの峠を越えることはむつかしかったのではないかとの印象を持った。(中略)仮にそれができても金山町から只見川の右岸を源流までいくのは大変困難であろう。また、 国土地理院の2万5千分の一の地図を見た上での判断だが,常浪川(とこなみがわ) は廊下が多く,ザイルなしでこの沢を溯行することは困難との印象を持った。
 以上は私の印象であり直感である。本当のところは地元の猟師にきてみないと判らないが,古代の人が 常浪川(とこなみがわ)の流域の山々の内適当なところを狩り場にしていたとしても、常浪川(とこなみがわ)の流域の沢筋又は尾根筋を交通に使ったとはちょっと考えにくいのではないか。だとすれば、「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という疑問がますます強まってくる。』・・・・と。
 
 以上の見解は、本来流域の沢筋や尾根筋が古代の道であるという私の考えに、常浪川(とこなみがわ)の流域の場合は反するのではないかというのが趣旨であり、何か特別のことを考えないと「何故, 小瀬が沢・室谷洞窟が地理的な要衝なのか?」という黒曜石7不思議の7番目の不思議に答えることはできないのだという趣旨であった。
 
 また、私は、「山の国が育むもの」というエッセイの中で、次のように述べた。すなわち、
『 日本は山国である。国土面積の約70%が山だという国は世界でも珍しい。
 そして、日本の登山の歴史はとても古く、世界に類を見ないほどである。西洋では、山は悪魔の住むところとして近代まで近寄る人は少なかったようであるが、わが国の場合、縄文時代にすでに山頂で祭祀が行われていたようであり、石器時代の狩猟生活を考え合わせてみれば、日本人の山との関わりあいは相当に古い。
 「日本百名山」の山の文学者、深田久弥が「信仰登山」のなかでこう記している。
 「・・・・『万葉集』に、山部赤人の富士山をたたえた歌や、大伴家持の立山をあがめた歌が残っている。山岳文学といったものを設定するとすれば、おそらくこれが世界最初の山岳文学の傑作であろう。これほど早くから、山をあがめ、山に親しみ、山が好きだった国民は世界中どこにもなかった。
 富士山に最初に登ったのは「続日本紀」に出てくる役小角(えんのこづぬ)という僧といわれ、天武天皇の時代である。また「富士山記」が収められている『本朝文粋』は平安朝の書である。その文章には実際に富士山に登ってみないと書けない山頂の詳しい描写が綴られている。
 このように日本の登山史は世界に類を見ないほど古く、今から1200年前に、宗教的な登山ではあったが、すでに登山の黄金時代があった。僧や修験者により、富士山、立山、槍ヶ岳、白山など多くの山が開かれている。記録としては633年の富士山登頂が世界で最も古く、それから九百年を経た1522年にメキシコのポポカテペトルが登られるまで、その登頂高度記録は破られなかったという。 』・・・・・と。
 
 また私は前に、「大山に対する古代の信仰は、山頂から出土する種々の遺物から十分推測できる。」と書いたことがあったが、これは大山の山頂から縄文時代の遺物が出ることを踏まえて書いたものである。縄文人大山との関係については、伊勢原を紹介する時に、次のように書いた。
 
現在、伊勢原は大山と切っても切れない関係の町であることは言うまでもないが、
実は、
大山との関係は縄文時代に遡るようだ。
大山は縄文時代から信仰の山としてあがめ奉られていたのは間違いない。
大山は古代から神々の住処であったのだ。
このことを知る人は少なかろうが、
大山山麓に住む縄文人が大山をあがめ奉っていたさまを想像して欲しい。
 
 
 小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)で縄文人と山との繋がり詳しく述べている。北海道の大雪山の山頂にも石器が出ているのだそうだ。それが発見された大正年間から侃々諤々の議論があり、 狩猟目的、採取目的、交通目的、避難目的、宗教目的等 いろんな説が発表されている。
 小林達雄は言う。「大雪山の例は、北海道でもっとも高地の遺跡であるが、その中心の白雲岳はなだらかな相当広い緩傾斜に立地しており、土器は未発見ながら、石鏃などの製品と多数の石器製作にかかわる石屑がある。ごく少数のメノウ製品以外はすべて黒曜石で、7カ所以外の原産地を含んでいる。その量と内容は単なる交通路あるいは旅の途中に仮泊した程度を超えている。つまり冬を除く、いずれかの季節で活発に利用されたことを窺わせる。しかも周辺一帯からは早期の石刃鏃をはじめ、石鏃の形態からは縄文晩期及び続縄文時代の特徴がみられ、再三再四にわたって幾度となく活動の場となっていたことを物語る。したがって、大雪山を仰ぎ見ていた縄文集団のいたことは充分に想像されるものの、そうした純粋な信念に突き動かされて登山したという痕跡を分離独立して遺物や遺構から窺い知る証拠はない。」・・・と、誠に慎重な言い方をしているが、総合的な判断として、彼は大雪山の例を宗教的儀式の場所であったと言い切っている。
 
 小林達雄の上記著書によると、岩手県下には極めて興味深い発見があるという。八甲田山から縄文晩期の石刀の完成品が発見されているのだそうだ。石刀は石棒・石剣と並んで日常的道具とは明瞭に区別される。縄文人の世界観に由来する「第2の道具」を代表する石製品である。これが残された山頂は高さの故だけでなく、日常行動圏の範疇を超えた性格を自ら備えている。また、中村良幸によれば早池峰山頂上から縄文土器と石器一点が発見されている。これまた日常生活舞台の域をはるかに超えている。
 縄文人が信心から登山した例は、小林達雄の上記著書にさらにいくつか紹介されているが、ここでは省略する。ただし、私が先の述べた大山の例について、彼も少々述べているので、それを紹介しておきたい。
 「神奈川県大山頂上からは縄文土器の破片60点、注口土器(ちゅうこうどき)と二個体以上の深鉢が発見されている。発掘調査した赤星直忠は、小出義治共々、縄文人の関与には否定的で、<縄文土器は山伏が塚をつくるときに埋めた><鎮めもの説>をとっている。縄文人の所業と心をみくびっていまいか。」・・・と。
 さらに彼は言う。「(注目すべきは)西井龍儀の富山県鉢伏山についての意見である。鉢伏山は標高がせいぜい520メートルであるが、<標高500メートルの山頂部での居住がなされたとは考えにくい。付近で見られる縄文時代の遺物とは時代背景、社会環境が異なると言わざるを得ない。・・・鉢伏山そのものが山麓の人々から崇められたとみたい。山頂部の古代遺跡はそうした人々の畏敬のこもった奉賽品>ではないか、とみるのである。この意見こそ傾聴に値する。」・・・・と。
 彼は引き続き言う。「ムラを取り囲む自然環境を単なる景観としてではなく、景観の中にいくつかの要素の存在を意識的に確認することによって自分の眼で創る風景とする。その風景の中に特別視した山を必ず取り込もうとしてきたのが縄文人流儀であったのだ。
 そうした山は、単なる風景を構成する点景ではなく、その霊力をもって縄文人の相手をするようになる。縄文人は仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越えて情意を通ずるのだ。その積極性の典型的現れが、ストーンサークルや巨木柱列や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことである。さらに、そうした山頂、山腹と二至二分の日における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各地、各時期に創り上げたのである。
 しかし、ムラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることができたとしても、物理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋めることはできない。手を伸ばしても届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。この壁を打開するために、ときには縄文人は自ら山頂をめざす決意を新たにして、ついに実行に移したのだ。その時期がいつであったかは特定できないが、その発意は神奈川県大山出土の注口土器の存在から、少なくとも縄文後期に始まっていることがわかる。」・・・・・と。
 
 旧石器時代から、場所によっては、山は、石器の採掘場所であったり、狩猟採取の場所であったり或は山道であったりしたが、縄文時代になって、すでに、宗教目的で人々は登山をするという場合も増えてきた・・・、このことは日本人の自然観というか宗教観を考える上で大事なことである。
 
 小林達雄は、上記の著書の中で言っている。すなわち、『 登山は、平坦地を歩くのとは訳が違う。自らの身体を叱咤激励し、吹き出す汗を流れるにまかせ、疲れてしびれる足をかばいながら、じりじりと頂上に這い登る気力を奮い立たせねばならぬ。まさにこの肉体的試練あってこそ、体内に気がみなぎり、初めて山の霊力との接触を確信できたのだ。これは後世の修験者の修行が、肉体への過酷なほどの自虐的な鍛錬とひきかえに、ようやく求める境地に達することが許されたことに通ずるのである。こうした信仰は現代にまで、さまざまなカタチで継承されていることを知るであろう。』・・・・と。まさにそのとりである。
 
 
 
 私は前に、「天狗の棲む森、河童の棲む川」と題して、エッセイを書いたことがあったが、ここに再掲しておきたい。
 
 
 わが国の姿(かたち)というものは、縄文文化が底辺にあって形作られたものと考えている。そして、その一番の特徴は「神仏習合」であり、これからあるべき国の姿(かたち)としては、それをさらに発展、成熟させて、キリスト教やイスラム教なども含めた「世界多神教」のようなものを理想と考えていけばいいと思ったりしている。
 
 「神仏習合」は、もっとも修験道に色濃く結実しているように思われ、これからの国のあり方とも関連して、私は、修験道に大きな関心を持っている。修験道は山の宗教であり、修行の場は山である。したがって、山好きの私にとって、修験道は一つの憧れになっている。次に紹介する「守れ権現」という歌は、「雪山賛歌」などとともに、私たち京都大学山岳部の愛唱歌になっていて、山ではよく歌ったものだ。作詞は北原白秋だったと思うが、とても懐かしい。 
 
  守れ権現 夜明けよ霧よ  山は命のみそぎ場所
  六根清浄 お山は晴天 
 
  風よ吹け吹け 笠吹き飛ばせ  笠の紅緒は荒結び
  六根清浄 お山は晴天 
 
  雨よ降れ降れ ざんざとかかれ  肩の着ござは伊達じゃない
  六根清浄 お山は晴天 
 
  さっさ火を炊け ゴロリとままよ  酒の肴は山鯨
  六根清浄 お山は晴天 
 
 山伏たちは小さな虫を踏むのも、また道の修理に鍬をふるうことさえも避けて、生命とそれを育む自然を大切にした。山に登り信仰が深まるにつれて、役(えん)の行者の偉大さが、しだいに感得されるようになるらしい。