唐沢B遺跡を訪ねて




 昨年(平成18年)の秋、菅平に立ち寄ったが、唐沢B遺跡の標識も案内板も何もなく、唐沢の滝と偶然見つけた唐沢の岩陰遺跡を見るだけにとどまった。今回は、一泊の予定できたので、何としてでも唐沢B遺跡の場所を見つけなければならない。ある程度のことは教育委員会に聞くなり、資料を調べるなりしてきているので、まあ、容易に判るだろう。下の地図で、1番の四角の印が唐沢B遺跡である。

 

 教育委員会のホームページに載っている唐沢B遺跡の写真は、次の通りである。





 しかし、周りは畑やグランドなど何の目印もないので、結構、唐沢B遺跡の場所を探すのに苦労した。

 やっと、上の写真と合致する場所を見つけた。




 さあ、ここで旧石器時代の人たちに成り代わって、この場所に行くことを考えてみよう。野辺山からだ。



 このすばらしい世界最高の芸術品とでもいえる御子柴型石斧は、野辺山からどう歩いてこの菅平に持ち込まれたのか。詳細な道はこの際問題にしないで、ごく大雑把に、どういう目印を当てにしてその当時の交易人は、この菅平に来たかということである。

 どういう言葉を使っていたか判らないが、大きくて目立つ山は峻別できたと思われるので、千曲川の右岸を下って、浅間山を見ながら佐久平から上田までは、まあ比較的容易にたどり着くことができただろう。千曲川を徒渉することはできなかったと思わざるを得ないので、ただひたすら右岸を行った。上田では、広大な谷が真田方面から開けているので、その方面に歩いていくことは容易である。そして、ただひたすら、その広大な谷を流れている川を遡っていく。水量の多い方、水量の多い方と遡っていけば、ひとりでに唐沢の滝に行く。滝を越え、高原に出るが、大きな山と大きな山を結ぶ線と遡ってきた川の交差するところがお目当てのばしょである。


 
さて、御子柴遺跡の石器も唐沢B遺跡の石器も、石器としては世界最高の芸術品であると私は何度も申し上げてきた。問題は、世界最高の芸術品である石器がなぜそこにあるのかである。何故か???
 
 ところで、私は先に、アースダイバーについて次のように述べた。すなわち、

 中沢新一が「アースダイバー」(2005年5月、講談社)で第9回桑原武夫学芸賞を受賞した。昨年(2006年)7月に京都で授賞式があったので、私も出席した。彼は言う。『 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話が語るように、頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく、水中深くダイビングをしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。』・・・と。「アースダイバー」神話が語っているような作業について、中沢新一は『 気ままな仕事に見えるかも知れない。でも、僕の抱える中心的な問題は全部含まれる。地底から縄文の思考を手づかみすることは、歴史の連続性を再発見すること』・・・であると言っている。
 そうなんだ。私たちは、その地域の「歴史と伝統・文化」の奥深くダイビングをして泥臭い何かをつかんできて、それを材料にからだをつかって新しい世界を創造していかなければならないのである。そのために、今、私は、「ジオパーク」と取り組んでいる。


 このようなことであるので、アースダイバーとしては、当然・・・・、現地を訪れて、世界最高の芸術品である石器がなぜ菅平高原にあるのか、そのことを考えねばならない。
 私は、今そのことを一生懸命考えているところであるので、近々、私の考えを申し述べたいと思っているが、今、ここでは、唐沢B遺跡調査の報告書から、関係者の考えを紹介することとしたい。私の考えはその後だ。以下は、報告書からの抜粋である。

1、民族誌をひもとく限り、個人装備あるいは世帯装備としての石斧は、単品もしくは2・3点の所持というのが通例である。これに対し、唐沢Bの11点という石斧の数は、明らかに世帯装備の通常数を越えた数である。この点において、神子柴や唐沢Bの石器群を「生活のセット一そろい」とする森嶋の見解(森嶋1970)は残念ながら肯首できない。ではその多数の保有は何を意味するのだろうか。解釈のひとつとしては、自己世帯のための備蓄というよりは、他世帯(もしくは他集団)への交換品としての機能を備えているとみることができる。
2、一般に石器数・石器重量と石材産地との距離においては、反比例の関係が存在する。このことは、唐沢Bにおける石斧数量多さと推定石材産地(50km圏内)、尖頭器数量の少なさと推定石材産地(200km圏外)との関係において矛盾しない。改めて述べるまでもないが、唐沢Bは、石斧の原産地により近く、尖頭器の原産地により遠い地理的環境にあたっている。

 では、唐沢B遺跡において石斧のいくつかは交換品としての意味を有しているとして、他の石器はどうなのであろうか。尖頭器や掻・削器については、点数の上からは個人・世帯といったレベルの装備数を越えているとはみられない。これらが200kmという距離を隔てた遠隔地の硬質頁岩を用いているとすると、あるいはこれについては今後さらに交換にまわされる石器というよりは、交換連鎖によってたどり着いた最終地で今後は使用に供される石器である可能性もあろうか。だが一方で、民族誌において散見されるように、遠隔地石材を用いた製品はしばしば威信財として尊重されることも記憶しておかなければならない。いずれにせよ、石斧とそれ以外の器種については、先にみた「分布の対置性」にも象徴されるように、その機能上の違いばかりでなく、存在上の意味も異なることも考えられる。
3、神子柴型石斧の機能について麻柄は破損率(第48図)を問題にしたうえで、その破損が著しく少ないことに着目し、もしその用途が木材加工用であれば激しい破損がみられて当然であり、木材加工に用いられた可能性は低い、との見解を示している(麻柄1988)。説得力のある見解だが、逆にみればダメージの少ない用途のために、なぜこのように重厚で手間のかかるコスト高な石斧を製作したのか、という疑問点が新たに生じてしまう。このことからすれば、あるいは神子柴型石斧は当初は生産用具として機能した「生活財」というより、「威信財」や「交換財」であり「儀器・祭具」として存在していたとする見解(安斎1990)も見過ごせない。
4、そしてその肝心なその機能であるが、使用痕による推定を伴わないためまったくの想像としかいいようがないが、筆者は何といってもまず第一に木材の伐採・加工用の道具であろうと考えている。おそらく、定住化の進行による住居等構造物の建設や、後氷期に向けて拡大する森林環境への技術適応といった点において、より木材の伐採・加工が重要になったがために招来されたのが神子柴型石斧であろうと解釈したい。
5、唐沢B遺跡や神子柴遺跡にみられるように成品がまとめて配置される当該期特有の遺構の性格については、「住居址説」・「墳墓説」・「デポ説」などが取り沙汰されてきた経過がある。
6、かつて山内清男は、神子柴遺跡を「デポ」として位置付け(山内1969)、また佐藤達夫は「デポ」の存在が「交換用物資の獲得、製造および交易といったような、日常生活以外の諸活動を支えた社会的余剰の存在を意味している」と理解した(佐藤1974)。岡本もそうした「社会的余剰」の中でデポをとらえ、神子柴・横倉・宮ノ入・鳴鹿山鹿などをデポの具体例としてあげている(岡本1979)。これに対し神子柴遺跡の性格について稲田は「日常生活の遺跡における道具類のさまざまなあり方ときりはなしては理解できず、日常生活の多様性のなかに位置づけてこそ正しい理解ができる」と述べている(稲田1986)。また、本唐沢B遺跡の調査者である森嶋は本遺跡が「積極的に生活址的である」との見解を示した(森嶋1970)。具体例として唐沢Bをみれば、確かに焼礫炉などの存在は生活址的なのかもしれないが、さきに述べたように通常の装備数をはるかに上回る石斧の数は、むしろ交換品などの計画的な保管行為と解釈することにより、当該期の社会経済のダイナミズムを語ることができないだろうか。すなわち「デポ」あるいは「キャッシュ」としての機能を想定したいのである。ただし、そうした保管行為自体は決して特殊なものではなく、遊動スケジュールに組み込まれた計画的・配置的なものであり、場合によってはそれに居住や調理など通常の生活行為が付随したとしてもなんら不思議はない。また、デポは「社会的余剰」をもって出現したとみるよりは、石器受給システムの質的転換を示す特徴的現象として解釈したい。
7、また、さきに触れたように安斎は、神子柴型石斧は当初は生産用具として機能した「生活財」というより「威信財」や「交換財」であり、転換期の動揺する社会にあっての統合のシンボルとしての「儀器・祭具」として存在し、そのデポ状の出土例は集会の後の用具の埋納跡であり、経済的意味以上に社会的意味を占めているものとの見解を示している(安斎前掲)。
8、なお、これらの土坑二者が重複する現象は、その構築の時間差を表し、この場所への集団の回帰性を物語るものとして解釈したい。おそらく、この場所が回帰的な要地であったとすると、遺構としては残らないが、大きな木など、なんらかのランドマークがかつて存在した可能性がある。
 以上をふまえたうえで唐沢B遺跡の場の機能について考察すると、石斧の出土状況に象徴されるデポ的性格と、炉址に象徴される生活址的性格という二面性を具有しているものと考えられる。あわせて唐沢Bは回帰的要地でもあったことが想定される。
9、唐沢Bや神子柴は回帰的な居住地でもありデポでもあったものと解釈できる。なお、唐沢Bは標高1200m以上の高冷地であることから、おそらくは冬季以外の探訪地で、峠路にあって集団間の接触地点としての可能性も残ろう。

 さて、後期旧石器時代末の細石刃石器群から縄文草創期の神子柴石器群への移行における技術的組織の大きな変換は、自己領域内に石器石材原産地を持たない集団において、細石刃=石器素材の補給−石器自己生産という補給構造から、石斧・尖頭器=石器成品補給−石器非自己生産という補給構造へと質的に変換した点にあろう。成品補給は、石器製作に伴う破損のリスク回避と、石器製作時にチップなどとして排出される石材の不必要部分を除く運搬の効率化という点で優れているといえる。しかし一方では、その補給システムの整備がなされなければ、その構造を支えることができない。そうした脈絡の中で、集団間においては石器交換システムの整備が進み、集団内においては遊動テリトリー内におけるデポもしくはキャッシュの設置、すなわちキャッシング・ストラテジーが重要となったものと考えられる。
10、では縄文草創期以降、なぜデポ的な遺構がなくなったのか。それは、おそらく交換システムのさらなる整備によってデポによる一時的保管という紛失リスクが回避されたことと、居住システムの質的な転換、すなわち定住化の進行によって、住居内での装備管理が強化されたことなどの原因が想定されようか。



 上述したように、中沢新一は、『 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話が語るように、頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではなく、水中深くダイビングをしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。』・・・と。「アースダイバー」神話が語っているような作業について、中沢新一は『 気ままな仕事に見えるかも知れない。でも、僕の抱える中心的な問題は全部含まれる。地底から縄文の思考を手づかみすることは、歴史の連続性を再発見すること』・・・であると言っている。
 世界最高の芸術品である石器がなぜ菅平高原にあるのか、そのことを考えるもっとも大事な点は、地底から縄文の思考を手づかみすることであり、それができていないと世界最高の芸術品である石器がなぜ菅平高原にあるのか、そのことの答えは出てこないと思われる。
 一番基本的な問題は、「縄文草創期以降、なぜデポ的な遺構がなくなったのか?」ということである。ここにメスを入れねばならない。私の考えでは、多分・・・・、居住システムの質的な転換、すなわち定住化の進行によって、住居内での装備管理が強化されたことなどが原因で埋納形態に画期的な変化が起こったなどということではあるまい。そんな気がする。