唐沢の岩陰遺跡とその周辺




 いずれ、私は、白滝黒曜石について語りたいと思っている。今は、そのための準備であり、御子柴型石器の何たるやを語ろうとしている。御子柴遺跡を語るときがぼちぼち近づいているが、その前にどうしても唐沢B遺跡のことを語らねばならない。

 唐沢B遺跡は縄文時代草創期の遺跡で、石斧や石槍、砥石など石器32点が出土した。出土品には神子柴型石斧(みこしばがたせきふ)とよばれる大型の石斧が多数含まれている。同じ石器が上伊那郡南箕輪村神子柴遺跡で最初に発見されたことからこの名がつけられており、刃先をきれいに磨いたものがあるのが特徴とされている。唐沢B遺跡の石斧には使用痕(刃こぼれなどの傷)が認められず、石器の材料には、群馬・新潟県境や、遠く山形県で産出する石も使われており、石器が交換という手段で遠方まで運ばれるシステムが15,000年も前にすでに存在していたことを示すものと考えられる。全国的にも、神子柴遺跡出土品とともに神子柴石器文化を代表する石器群の好資料として評価が高い。

 唐沢B遺跡の所在地は、今は市町村合併で上田市になったが、つい先だってまでは真田町の菅平であった。遺跡というものを語るためにはその場所を知らねばならない。何度かその場所に赴いて、その場所のことを良く知らねばならない。
 私は、とりあえず、そもそも唐沢B遺跡がどういうところにあるのかを知りたくて、昨年(平成18年)の秋、その近くに行ったとき、立ち寄ってみた。しかし、何としたことか、現地には唐沢B遺跡の標識や案内板がまったくなく、さっぱりその場所が判らなかった。意気消沈して帰路につき、唐沢の滝を見物したところ、唐沢の岩陰遺跡というのがちょうどそこにあった。

 多分、この滝の上流に唐沢B遺跡があるのだろうが、近々、時間的余裕を持って、唐沢B遺跡を訪ねねばならない。そうでないと唐沢B遺跡を語ることはできないのである。しかし、菅平に立ち寄ったことで多少の感じはつかんだので、少しは机上で勉強はできる。ここではその成果を報告しておきたい。現地を見ての報告はいずれまた・・・・・。


 私は、前に、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の酒折宮伝説・・・古代の道を考える」というページで、次のように述べた。すなわち、
 「 書記によれば、ともかく、ヤマトタケルは、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を巡った後、碓日嶺(うすひのみね)に着いたのである。碓日嶺(うすひのみね)については、これを碓氷峠(うすいとうげ)であるという説と鳥居峠(とりいとうげ)であるという説がある。大和朝廷は、上野(かみつけの)側から千曲川流域の制圧をしていくのであり、烏川(からすがわ)の支川・鏑川と吾妻川の両方向から、幾度となく、千曲川流域に軍を進めたものと考えられる。前に述べたように、ヤマトタケルの伝説はその象徴であるから、私は、碓日嶺(うすひのみね)を碓氷峠(うすいとうげ)であるとする説も鳥居峠(とりいとうげ)であるという説もともに正しいと思う。

 ヤマトタケルは、碓日嶺(うすひのみね)で道を分けて、吉備武彦(きびたけひこ)を越(こし)の国に遣わし、その地形や人民の順逆を見させられたという。ヤマトタケルは、碓日嶺(うすひのみね)から千曲川沿いに善光寺平に向かい、吉備武彦(きびたけひこ)は碓日嶺(うすひのみね)からどの辺を通って越(こし)の国、つまり千曲川の下流域に向かったのか。興味津々ではないか。歴史的に、大和朝廷の偵察隊は、たしかに上野(かみつけの)側から幾度となく越(こし)の国に赴いたことであろう。」・・・と。

 鳥居峠というのは、信州街道の主たる峠である。関東平野は、中山道高崎宿から烏川を渡って豊岡に入ると、中山道から分かれて右に入る街道がある。これが、「信州街道」で、その多くの人が草津温泉入湯を目的とする故に草津街道とも呼び、善光寺参詣人には善光寺みちでもあった。信州街道は、神山、室田、三ノ倉の宿を通ると、榛名山の西麓をまわって吾妻郡へ、大戸宿、そして、大戸関所。西へ進むと須賀尾から万騎峠を越えて狩宿に入る。須賀尾の分岐点に「左くさつ道、右信州道」の道しるべ。狩宿から鎌原、大笹へ浅間ヶ原を横切り、鳥居峠を経て信濃(長野県)へとゆく。
 鳥居峠は、四阿山(あずまややま)登山の出発点として人気のある峠で、私も一度は四阿山(あずまややま)に登り菅平へ降りてみたいと思っている。また、鳥居峠は、猿飛佐助の活躍舞台となったところともいわれており、四阿山(あずまややま)登山でなくても、是非一度は立ち寄ってみたいロマンある峠である。標高は1362m。江戸時代北信濃の種油が大量輸送されたことから油(あぶら)峠とも呼ばれた。四阿山の遥拝所があり、鳥居が設けられたことからその名がつけられた。戦国時代真田氏軍用道路。巨岩奇岩が点在する。

 菅平は、大笹街道の主要経過地である。当時の街道は、現在の国道406号とは違って、仁礼から峰の原高原に向かって、菅平に入る。ホテル白樺荘やホテルアローザのあるところで唐沢を渡る。唐沢B遺跡の少し上流である。大笹街道は、越後や善光寺平から上州を経て江戸へ出る重要な脇街道であるから、菅平の重要性がわかろうというものだ。



 この地図で、真ん中あたりに唐沢の滝があり、その少し上に、矢印のついた「菅平高原」という字が見えるが、その左横に十字の印がある。その印のあたりが唐沢B遺跡がある筈だ。
 この街道は、千曲川端の福島宿(須坂市)から鮎川沿いにのぼり、仁礼宿(須坂市)を経て標高1600mの峰の原高原を横切り鳥居峠から上州大笹宿にいたる間、峠越えの厳しい道筋だった。しかし大笹街道は北国街道の脇往還として繁栄し、北信濃の種油が大量輸送された。

 善光寺平から江戸へ出る本街道(北国街道)より、大笹街道が利用されたのは、本街道に比べ宿数が少なく里程が短いので、宿継ぎに要する経費や荷いたみに優れ経済的で早いためだった。仁礼から沓掛まで2宿14里(北国街道では10宿20里)で短いため荷駄は専ら大笹経由で運ばれた。今の国道406と国道 144号線。
 北国街道福島宿〜仁礼(須坂市)〜鳥居峠〜大笹の間は「山道八里」と称し、標高1000メートルを越える菅平高原を越える険しい道で、冬季は積雪吹雪のため交通不可能になる事が多かった。また、冬の厳しい時に峠越えの道筋で犠牲になった旅人や牛馬は数多く、その供養と旅の安全を祈って、仁礼宿の外れから、仁礼峠の頂上というべき峰の原の供養塔まで、約17kmの間に60体ほどの石仏がある。



 この地図は、大笹街道の古道がどこを通っていたかを示したものである。少し字がぼやけているので判りにくいが、現在の鳥居峠の少し上に旧鳥居峠が通っている。出典は、次のWebページである。
http://www.city.ueda.nagano.jp/kankoka/sanada/contents/column/oozasa/road1.html
 この
Webページには、5回シリーズで大笹街道を詳しく紹介しているので、是非、参考にされたい。すばらしい内容である。



 この地図には、ホテル白樺荘やホテルアローザのある上述の交差点から現在の鳥居峠に向かう道が記載されているが、これより少し上を古道は通っていたらしい。あずまや温泉の辺りか・・・・??


 さて、菅平高原がどういうところか。信州の上田の近くにあるということ、昔から日本を代表するスキーとメッカであるということぐらいは知っている人は多いと思うが、それ以上のことを知っている人は少ないと思うので、唐沢B遺跡のある菅平高原の関連知識として、まず上田地方のことを勉強しよう。

 千曲川の北岸に北国街道という江戸時代の街道があって、その真ん中あたりに上田がある。現在でいえば、長野新幹線の終点・長野のひとつ手前が上田である。上田というところはどういうところか、それを説明しているいくつかのホームページがあるので、ここではそれらを紹介しておきたい。


「信濃国分寺資料館・バーチャルワールドへようこそ」

信州上田の旅と歴史

合併以前の真田町のホームページ

山家神社

山家神社の創建は古く、延喜式神明帳に名をつらねる格式高い神社です。山家郷の産土神として大国主命を祀っています。他に祭神に伊邪奈美命(いざなみのみこと)、菊理姫命を合祀しています。
古くは四阿山(あずまやさん)を神体としていました。養老年間(717-724)に修験者「浄定」が加賀白山より勧請合祀し四阿山に山家神社の奥宮を建立したそうです。
山家神社は白山神社を合祀したので、「白山様」ともよばれているそうです。四阿山から流れ出る本流は御手洗(みたらし)の水と呼ばれ、水分(みくまり)の神の宿る神聖な川として大切にされてきました。


真田一族のホームページ

戌立石器時代住居跡(いんだてせっきじだいじゅうきょあと)

神川(かんがわ)紀行

信州考古学探検隊