春日竜神

 

 

 春日神社は、言わずと知れた藤原氏の氏神である。興福寺は藤原氏の菩提寺であるから、神仏習合の立場から言えば、春日神社と興福寺はまあ同じようなもので、あの付近一帯は藤原氏の聖地であるといって良い。

 能は仏法を説くために生まれたが、その能の聖地で演じられる「春日竜神」という能は、春日神社を賛嘆する能であるだけに、初心者向きではあるがまことに格調の高い能である。したがって、これを鑑賞するにはそれなりの眼力が必要で、私など初心者にはとてもその心髄を人に説明することはむつかしいだろう。そこで、芸術に関してはもっとも眼力の確かな白州正子の解説(明恵上人愛蔵版、白州正子、1999年、新潮社)をここに紹介することとしたい。

 

 栂尾(とがのお)の明恵上人(みようえしようにん)が、入唐渡天を志し、暇乞いのため春日神社にお参りすると、一人の翁に出会う。翁はしきりに上人をいさめ、仏在世の時なら天竺へ渡るもよかろう。が、遺跡をたずねて何になる。それより日本にとどまって、上人を慕う人々を救うべきである。まこと志が深ければ、春日の山も天竺の霊鷲山(りようじゆせん)と見えて来よう。「天台山を拝むべくは、比叡山に参るべし。五台山の望みあらば、吉野筑波を拝すべし」云々と、言葉をつくしてさとした後、もし思いとどまるなら、釈迦の誕生から入滅に至るまで、ことごとくこの春日山に写してごらんに入れよう、と約して去る。 

 

 

 

 

 後シテは、春日の使者の竜神で、釈迦の一代記を描くのですが、場面は霊鷲山での説法の座にしぼってあり、むらがる群衆も、一人の竜王が代表してみせる。最後の所は、奇瑞を見て、感激した上人が、出発することを思いとどまり、

「これまでなりや明恵上人、さて入唐は」

「とまるべし」

「渡天はいかに」

「わたるまじ」

「さて仏跡は」

「たずぬまじや」

 とかたく誓って終る。春日竜神はそういった単純素朴な能で、むつかしい箇所など一つもない。特別な見どころもない。いってみれば、初心者向きの曲なのです。

 だから、つまらないといえばつまらない。私も長い間そう思っていたのですが、ある時梅若実翁が演じるのを見て、強い感銘を受けたことがあった。それは、今の後シテの場面で、竜神が、説法の座に、沢山の眷属(けんぞく)を集める所があり、幕の方を向いて、一々むつかしい名前を呼びあげる。むろん、そんなものは一人も現われないのですが、それら大勢のお供を従えた竜神が、「恒沙(ごうじや)の眷属引きつれ引きつれ、これも同じ座列せり」と、舞台の中央でどっかと居坐る。専門語では「安座(あんざ)」(あぐら)といい、ふつう勢いを見せるために「飛安座(とびあんざ)」ということをしますが、実さんは老齢のためか、飛上りもせず、むしろ柔らかくといいたい位に、軽く廻ってストンと落ちた。動作は羽毛のようだったが、坐った形は大磐石の重みで、舞台には一瞬深い静寂がおとずれ、橋掛から見物席に至るまで竜神がひしめき合い、釈迦の説法に耳を澄ますかのように見えたのです。

 それは今まで見た春日竜神とは、まったく別のものでした。しいていえば、昔の人が信じた浄土とか涅槃(ねはん)という理想の世界を、ふと垣間見た感じで、そんなことは考えてもみないシテが、無心の中に現わしてしまうこのような美しさが、不思議なものに思われてなりませんでした。もしかすると、その時私は、自分でも知らずに、明恵上人の姿にふれていたのかも知れません。

 

 以上が白州正子の解説であるが、この春日竜神という能は、金春禅竹の作かともいわれているが、「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」巻二の説話などを素材として作られたものである。しかし、創作とはいえかなり史実に近いことは河合隼雄の「明恵 夢を生きる」(1987年、京都松柏社)に詳しいのでそちらをご覧いただきたい。ここでは、春日神社や興福寺と明恵とが特別に深い関係にあったことを認識していただければそれで結構である。

 徳一は興福寺を代表する逸材で、明恵は東大寺を代表する逸材である。奈良仏教の威信をかけて、徳一は最澄と、そして明恵は法然と誠に激しい宗教論争を戦う。徳一についてはすでに取り上げてきた。いよいよこれからは本格的に明恵を追っていきたいと思う。明恵を勉強するということは、華厳哲学を勉強することでもあり、バークの政治哲学を勉強することでもあるが、現在に即していえば、保守主義の心髄を勉強することであり、また21世紀に求められている流動的知性について勉強することでもある。

 

 

さあ、それではいよいよ・・・・・

第1章「日本には革命思想はなかったか」です。

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