木村清孝「華厳経をよむ」1997年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

華厳経をよむ 

 

 

第一講 『華厳経』と現代

1 『華厳経』とのふれあい

 奈良の大仏は、正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)・盧舎那仏(るしゃなぶつ)・遮那(しゃな)・びるさな・るさな、などと呼ばれておりますが、どれも古代インド語であるサンスクリット語のヴァイローチャナ(Vairocana)の音写、またはその省略形で、いわば「光の仏」を意味しております。

 そこで意訳して、「遍一切処(へんいっさいしょ)」(あらゆるところに現れる仏)、「光明遍照(こうみょうへんじょう)」(すべてを照らし出す光の仏)などともいいます。のちにインドで七、八世紀頃から盛んになり、中国・日本にも伝えられる密教において大宇宙の根本の仏とされる大日如来も、この仏から展開したものです。

 この太陽の光のはたらきに喩(たと)えられる盧舎那仏(ヴァイローチャナ仏)こそ『華厳経』の教主であり、それを『梵網経(ぼんもうきょう)』の構想の助けを借りて具象化したのが「奈良の大仏」です。ですから、「奈良の大仏」にお詣りするということは、『華厳経』の教主を拝んでいるということなのです。

 

 

2 『華厳経』から学ぶもの

 存在するものは心の表れ

 

 『華厳経』の考え方とは、具体的にはどのようなものでしょうか。

 思うに、その第一は、「存在するものは、すべて心の表れである」という思想です。この思想自体は、哲学的には四世紀以後、インド大乗の瑜伽行派(ゆがぎょうは)の人びとによって大成されるもので、一般に「唯識思想」と呼ばれております。『華厳経』には、その「唯識思想」の根本的な押さえ方が随所に見られるのです。

 ただし、このことは、唯識思想が『華厳経』のそのような思想を全体的に承けて体系化した、という意味ではありません。たとえばヴァスバンドゥ(Vasubandhu世親、天親、三三〇−四〇〇頃)の書いた唯識思想の綱要書ともいうべき『唯識二十論』では、『十地経』、すなわち、「十地品」として『華厳経』に組み込まれるにいたる一経典の唯識思想が教証とされているだけです。ともあれ、次に具体的な教説の例をいくつか挙げて考えてみましょう。

 

 たとえば第十六章の「ヤマ天宮の菩薩たちの詩の章」を見ますと、如来林菩薩の詩句の一節に、

 心は工(たく)みなる画師の、種々の五陰(ごおん)を画(えが)くが如く、一切(いっさい)の世界の中に、法として造らざる無し。

 心の如く仏も亦(ま)た爾(しか)り。仏の如く衆生(しゅじょう)も然(しか)り。 心と仏と及び衆生と、是の三に差別(しゃべつ)なし。

 諸仏は悉(ことごと)く一切は心より転ずと了知(りょうち)したもう。若(も)し能(よ)く是(かく)の如く解せば、彼(か)の人は真の仏を見ん。

  心は、巧みな画家がさまざまの五陰(ごおん)〔から成る人〕を描き上げるように、  一切の世界においてあらゆるものを造り出す。

  心のように、仏もそうであり、仏のように、衆生もそうである。心と仏と衆生との三  者には、区別はない。

  仏たちは、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っている。も  しもこのように理解することができれば、その人は真の仏を見るだろう。

とあります。いわば心の変数として、仏を、衆生を、そして一切の存在を捉え、そのような見方の正統性を主張するわけです。

 

 また第二十二章の「十地の境地の章」には、有名な、

 三界(さんがい)は虚妄(こもう)にして但(た)だ是(こ)れ心の作(さ)なり。十二縁分も是れ皆心に依(よ)る。

  三つの迷いの世界は仮に現れている空虚なものであって、ただ心がつくり出している  にすぎない。〔迷いの世界を構成する〕十二の因縁のそれぞれも、みな心に依存している。

という教説が出てきます。この一文は現存するサンスクリット本の『十地経』などでは、 この三つの迷いの世界に属するものは、この心のみなるものである。また、如来によって分析的に説かれた十二種の迷いの存在の構成要素(十二因縁)も、またすべて、一心に依存するものである。

となっていて、もともとそれが瞑想体験を通じて把握された世界観の直接的な表明であることがはっきりとわかります。ここには、仏教の唯心的世界観が端的に示されているといってよいでしょう。

 

 このように『華厳経』は、まず第一に、私たちの常識に挑戦し、自己と自己を取り巻く世界の全体を心の表れとみなし、この見方に立って仏と私たち衆生とも一体であると論じます。つまりは、『華厳経』に従えば、他のすべての人びと、あらゆる事物・事象も仏たちさえも、私たち一人ひとりが描き出す画像にほかならない、というわけです。

 このような思想は、「自分が存在する、しないにかかわらず、世界は実在する」とか、「仏は私たちを超えた絶対の存在である」といった認識の仕方に慣れた私たちには、なかなか理解できません。しかし、よく反省してみますと、そもそも私たち一人ひとりはみなものの見方・考え方が違い、生き方が違う、ということが事実としてあります。このことは、私たちの心がちょうど鏡のように外界の存在をそのまま映し出しているのではなく、むしろ外界に積極的にはたらきかけ、そのイメージを構成し、それにもとづいて生きている、ということを立証しております。私たち一人ひとりの心が、実は私が生きる世界を一つの図式として組み立て、私たち一人ひとりがその図式にのっとって生きているというわけです。一切のものを心の表れと見る『華厳経』の考え方は、そのような、徹底して自己自身とかかわるものとしての世界のあり方、主体的な世界の成り立ちを明らかにしているのです。

(註:この辺りの考え方を味わいながら「違い」ということについて考えて下さい! 一人ひとりの心は違い、考え方が違い、生き方が違う。しかし、一人ひとりが仏と一体である。仏と繋がっているのである。だから、違いを是認すべきなのである。尊重すべきなのである。違いというものを否定的に捉えてはならない。対立的に捉えてはならないのである。)

(註:日本の「歴史と伝統・文化」の心髄については、ここをクリックして下さい!

 私たちは、ともすれば、外界の実在性とその自律性、つまり、たとえば自分が勤める会社や官庁も、日本という国も、さらには国際社会も、自分とはほとんど関係なく厳然と存在し、それぞれの機能に従って動いているということを鵜呑みにして、絶望的になったり、自暴自棄になったりしがちです。しかし、上に述べたように、『華厳経』や唯識の教えによれば、私たちは誰もが自分の世界を自分でつくりあげ、それを生きる存在です。その意味では、私たち一人ひとりがかけがえのない固有の世界の創造者なのです。すべての人びとが、自らの生に誇りをもち、自らの心で自らの生をデザインし、自らの世界をより美しく価値あるものにしていってほしいと願わずにはおられません。

 

 

 小が大であり、一つがすべてである

 次に『華厳経』における注目すべき第二の考え方は、つきつめていえば、「小が大であり、一つがすべてである」という思想です。

 『華厳経』においては、具体的な事物や事象に関しても、時間に関しても、個々のものを決して孤立した実体的な存在とは捉えず、あらゆる存在が他のすべて、ないし全体と限りなくかかわりあい、通じあい、はたらきあい、含みあっているとされます。詩的に表現すれば、一滴の雫(しずく)が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている、というわけです。

 このような見方は、すぐれた文学者や芸術家の美の世界の捉え方にもうかがえます。たとえば、『奥の細道』で有名な俳人の松尾芭蕉は、立石寺を訪れたときに、

  閑かさや岩にしみ入る蝉の声

の句を残しております。これは、常識的な立場からは、「蝉が鳴いているのに、どうして閑(しず)かであるといえるのか」という反論さえ出てきそうな句ですが、おそらく芭蕉はこの蝉の声を、すべての周囲の音と動きを奪い取り、一切を深い静寂へと導き入れるものとして聴いたのです。少なくとも芭蕉にとっては、この蝉の声は、暫時、全宇宙を飲み込んだのです。「閑か」とは、そういう存在の深淵が開かれたすがたの表現なのではないでしょうか。

 だが、このような感じ方や見方は、すぐれた宗教者や文学者、あるいは芸術家だけのものなのでしょうか。私はそうは思いません。たとえば、渇きの中でコップ一杯の水を手にしたとき、その一杯の水に生命をよみがえらせてくれるほどの大きな力を感じはしないでしょうか。静かな海辺で朝日が昇ってくるのを見るとき、その幾筋かの光の中に宇宙の荘厳な動きを感じとりはしないでしょうか。『華厳経』は、実はそのような感じ方・見方こそが真実のものであり、存在のすがたに正しく対応している。また、そのような感じ方・見方ができる場は私たちの一つひとつの行動や思考に即して無数に開かれている、と説くのです。

 私たちがともすれば動かしがたいもののように思い込んでしまう小と大、一と多、個と全体といった区別はまったく表面的・暫定的なものにすぎません。どれほど小さな存在にも他のすべてにかかわる大きなはたらきがあり、限りない力と価値が含まれていることに、私たちは改めて思いをひそめたいものです。

 

 ところで、物理学や哲学では、華厳哲学というものが注目されるようになりました。 実は、わが国の「違いを認める文化」というものを重視する私の主張の理論的根拠も華厳哲学にあるのです。

 

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