人 はなぜキツネにだまされなくなったのか
 
 
(1) 人々の語る理由
 
   日本では,1965年頃から,人がキツネにだまされたという新しい話が発生しなくなるのだそうだ。私の尊敬する哲学者・内山節(たかし)がそのことを問 題にし,「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という本を書いた(2007年11月,講談社)。名著であると思う。是非多くの人に読んでもらい たい。ここではその要点を紹介し,最後に,私の考えを申し上げたい。
 
  まず、日本人はなぜキツネにだまされなくなった・・・その理由だが,人々が語る第1の理由は,経済優先の社会になり,キツネからの働きかけに応じる能力を 日本人は失った・・・というものである。
 
  人々が語る第2は,「科学の時代」における日本人の変化・・・というものである。
      
  人々が語る第3の説は,情報,コミュニケーションの変化を問題にするものである。
 
  第4の理由として,学校教育の変化を上げる人も少なくないという。合理主義一点張りの学校教育が,伝統教育とともにあった人間の精神を衰弱させたのではな いか・・・ということである。
 
  人々が語る第5の理由として,死生観の変化と言うものがあるという。都市ほどではないにせよ,ムラでも人間たちの生の感覚,死の感覚が変わって行き,少し づつ、都市型の,個人のものになっていったのだという。それまで,包まれていた世界と響き合っていた個人が,響き合わない個人になっていった。そのことが 関係しているという。
 
  人々が語る第6の説は,自然観の変化である。日本人の自然観は,もともと自然(じねん)すなわち「自ずとあるもの」であり,自己と一体のものである。それ が西洋の自然観すなわち自己とは別の客観的な自然(しぜん)を意味するようになっていった。戦後の経済社会は,農地を客観的な生産の場へと、森林を客観的 な林業の場へと変えていった。水や川は客観的な水資源になった。こういう変化がムラでもおこっていた。自然の中に「じねん」を見なくなったとき,そして自 分たちの帰りたい「祈り」の世界を見なくなったとき,自然と人間の関係は変容した。この変容が,日本人がキツネにだまされない時代をつくり出したのではな いかというのが、6番目の説である。
  人々が語る第7の理由は,森林の荒廃であり,そもそもそこにはキツネが住めなくなったというものである。
 
  第8の理由として,「養殖ギツネ」がキツネの野生の能力を低下させたという点を上げる人もいるという。1956年頃から始まる「拡大造林」によって、山に はスギやヒノキなどの大量の苗木が植えられた。この変化が野ネズミや野ウサギをふやし、その結果野ネズミや野ウサギに苗木がかじられるという被害が続出し た。この事態に対処するために,1960年代に入る頃から,山にキツネを放つということが各地で行なわれた。それがキツネの能力を低下させたと,この説は 唱える人はいうのだそうだ。
 
 
 
(2) 内山節(たかし)の説
 
注: 下記において緑色は私岩井國臣の注書きである。その他の部分は,「日 本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」(内山節,2007年11月,講談社)からの引用。
 
  すべてのものを自分の村のなかでつくり変えながら生きていく。そういう生き方をしていた人々にとつては、知 性の継続、身体性の継続、生命性の継続(注: 森岡正博の無痛文明論では人間の欲望を身体の欲望と生命の欲望に分けている。)が 必要であった。ときには人々は知性を働かせて生きなければならない。しかし、知性だけで村の暮らしはつくれない。第二に身体性の継続と継承が必要になる。 それは多の場合は「技」という言葉と同一化していて、田畑をつくる技,用水路を維持する技、道を守る技、石組みや建築の技、山からいろいろなものを採取す る技、さらにさまざまなものを加工する技。そういったものが身体に刻み込まれるかたちで受け継がれていくことが必要だった。身体それ自身の力をとおして、 村人は一面では村の歴史をつくってきたのである。
 
  もうひとつ、生命性の歴史とでもいうべきものがある。自然の生命と人間の生命が結び合いながら生きてきた歴史である。
 
  日本では、伝統的には、自然を人間の外に展開する客観的なものとしてとらえる発想がなかった。その理由は、村の自然としてつくり変えたものが自然だったか らである。自 然は自然の力だけで生命的世界を築いているわけではな く、「ご先祖様」の力が加わってつくられているものでもあった。自然の歴史と人間の歴史は一体なのである。
 
 た だしすべての自然がそうなわけではない。山奥には、自然の力だけで展開する自然が存在する。それが人智を準えた自然であった。その自然は人里の生活に危険 を与えないがゆえにつくり変える必要のない自然であり、純粋な自然注: 奥山の自然)で ある。村とはこの純粋な自然を奥にもち、その 下に村人によってつくり変えられた自然(注: 里山の自然)と 里(注: ムラとノラ)を 展開させる世界であった。
 
  そして人々はこの全体のなかに生命の流れをみた。純 粋な自然 か ら里へと降りてくる生命の流れである。自 然も人間もこの世界のなかに暮らしている 自然そのものであり、自然に還った「ご先祖様」でもある「神」もこの生命の流れのなかに存在している。だ から「神」は純粋な自然としての奥山、霊山に暮らしながら、つくり変えられた自然のなかにも水神や山神として暮らし、さらに里にも「田の神」や「土地神 様」として暮らす。同 じ神がそれぞれの場所でそれぞれの姿を現わすのである。私たちの祖先はそうい うものを「権 現様」 と呼んできた。
  村人たちは自分たちの歴史のなかに、知性によってとらえられた歴史があ り、身体にょって受け継がれてきた歴史があり、生命によって引き継がれてきた歴史があるこ とを感じながら暮らしてきたのである。日本の伝統社会においては 、個人とはこの三つの歴史のなかに生まれた個体のこ とであり、いま述べた三つの歴史と切り離すことのできない「私」であった。
 と いっても 、次のこ とは忘れてはならないだろう。それは身体性の歴史や生命性の歴史は疑 うことのない歴史であるが 、知性の歴虹は誤りをも生みだしかねない歴史だということである。人の考え たことは間違うことがある。その理由を 、人々は、人間には「私」があるからだ と考えた。「私」があるから私の欲望も生まれるし 、私の目的も生まれる。そういものに影響されながら思考するとき、人間は純粋さを失ない誤った判断を下す。 といっても「私」をもっているのは人間の属性でもあるのだから 、それを捨てることのできない「悲しい存在」が人間でもある。この思いが自然(注: 特に純粋の自然,すなわち奥山)を 清浄として らえる心情をつくりだした 。穢れを捨て去れないのは人間の側なのである。自然(注: 特に純粋の自然,すなわち奥山)は 人間が還っていきたい と願う祈 りとともに存在する。
  キッネにだまされたいう物語を生みだしながら人々が暮らしていた社会とは 、このような社会であった。そ してそれが壊れていくのが1965年頃だっ たのであろう。高度成長の展開、合理的な社会の形成、進学率や情報のあ り方の変化、都市の隆盛と村の 衰弱。さまざまなこ とがこの時代におこ り、この過程で村でも身体性の歴史や牛命性の歴史は消耗していった。
  歴史は結びつきのなかに存在している。現在との結びつきによって再生されたものが 歴史である。現在の知性 に結びついて再生された歴史。現在の身体性と結びついて再生 された歴史。現在の生命性と結びついて再生された歴史。
  1965年頃を境にして 、身体性や生命性に結びついて とらえられてきた歴史が衰弱した。そ の結果 、知性によって とらえられた歴史だけが肥大化し、 広大な歴史がみえない歴史になっていった。
 
 
 も つとも 、身体性や生命性と結びついた歴史は もともと知性からはみえない歴史だったといってもよい 。それは村人にとつては 、つかみ とられた歴史、感じられた歴史であり、納得され た歴史、諒解された歴史であった。(注: 知性からは見えないが,そういう歴史があったのだから、今は,アースダイバーとなって,そのカケラを探し出し,少しでもそういう歴史に学ばねばならな い。)
 
  身体性 と結びついた歴史は 、身体と結びつい た力が受け継がれていくかぎり、感じられる歴史でありつづける。た とえば畑を耕やす技で もよい。その技を受け継いだとき、同じように畑を耕してき た人々の身体 とともにある歴史が感じられる 。それは ,ずっと人々はこうやって自然 とともに生きてきたのだ と感じられるよ うな歴史である。身体とともにある世界が 、たえず循環し継承されることによって諒解されていく歴史である。
 
  ところが生命性の歴史は、それ自体としては とらえよ うがない 。だからこの歴史は何かに仮託されなければみえるこ とはないのである。
 
  「神のかたち」は仮託された代表的な ものであろう。(注: 「神のかたち」のほかに、キツネなど「おのずからある」そしてやや神秘的なものに仮託することも当然あり得る。)村 人と ともにある 「神」は 、つきつめれば姿かたちがないばか りでな く教義もない。なぜなら神の本体は自然 と自然に還ったご先祖様であ り、その本質は「おのずから」だからである。「おのずから」のままにあ りつづけることが神なのである 。だから人々は神が展開する世界に生命が流れる世界をみた 。生命を仮託したのが神ではな く、「おのずから」の生命の 流れが神の展開なのである。だから人間も「おのずから」に還るこ とができれば神になれる。
 
  神と生命の世界には「おのずから」があるだけで何もない。ゆえにこの世界は何かに
仮 託しなければみるこ とができない。その結果生まれてきたのが「神のかたち」なのではないか と私は思っている。
  ときに神は山の神や水神、田の神などになって「かたち」をみせる。 とともにそれらの神々は「神の物語」 という「かたち」で伝えられる。さらに神を下ろし、祀る儀式である祭 とい う「かたち」つくるこ とによって神を体感する 。ときには山に入って修行をする という「かたち」に身を置 くことによって神をみいだす。こうして神はさまざまな ものに仮託され、そこに生命の世界を重ね合わせながら、人々は生命性の歴史を諒解してきたのではなかっ ただろうか。
 
 
 と ころで生命的世界を仮託したのは「神のかたち」だけではなかった。な ぜならもっと日常的な、いわば里の生命の世界もまた存在したからである。
 
  この里の生命の世界と神としての生命の世界とが重なり合うかたちで仮託されたものとしては、村の人々の通過儀礼や里の儀式、作法などがあったのだと思う。 それらは一面では神事というかたちをもち、他面では日々の生命の営みともにあった。
 
 そ して、最後に。日々の里(さと)の生命の世界のあり様を仮託していくもののして、人々はさまざまな物語を生みだしていた。こ の村が生まれたときの物語、我が家、我が 一族がこの地で暮らすようになった物語。さらには亡くなったおじいさんやおばあさんの物語。
 
 生 命性の歴史は、何かに仮託されることによってつかみとられていたのである。(注: 「神のかたち」のほかに、キツネなど「おのずからある」そしてやや神秘的なものに仮託することも当然あり得る。)
 
 そ して、この生命性の歴史が感じとられ、納得され、諒解されていた時代に、人々はキッネにだまされていたのではないかと私は考えている。だからそれはキッネ にだまされたという物語である。しかしそれは創作された話ではない。自然と人間の生命の歴史のなかでみいだされていたものが語られた。
 
  それは生命性の歴史を衰弱させた私たちには、もはやみえなくなった歴史である。
 
 
(3) 岩井國臣の考え
 「日 本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」。ここに紹介した理由はそれぞれにもっともだと思う。
  しかし,私は,内山節(たかし)の説に深い感銘を覚えており,ここに詳しく紹介した次第である。生命の世界と響き合い,イキイキとした生き方を生きるため に,生命世界の有様を「神のかたち」に仮託する代わりに,キツネにだまされるという物語が語られる。このことは誠に大事なことである。今後も,新たに「キ ツネにだまされる物語」が語られる必要がある思うが,その復活には若干年月がかかると思うので,現在必要なことは,過去に語られた物語を拾い集めること と,そのもの語りがしっかりと残っている所では,津川や王子の「キツネの行列」地域の行事として行なうことだ。
 津 川や王子の「キツネの行列」は、 生命の世界と響き合い,イキイキとした生き方を生きるために行なわれている。私の考えでは,こういう地域は,縄文時代からの「生命性の歴史」が息づいてい るのであると言えるのではないか。
『  一般に死骸がバクテリアに分解される際、リン化合物が光って狐火になる現象だったのではないかと言われているが、現在のところそれを確定する根拠は示され てはいない。
し かし、狐火がよく出た年は豊作であるという言い伝え(宮城地方)などは、化学肥料がなかった時代、動物の死骸の数と米の収穫量の関係からその説を支持す る。また、狐火がキツネと関係しているというのは、キツネが死肉もあさるということや、木の根付近に食べ残しを地中に埋めて忘れる習性から考えて不思議で はない。』・・・・と。
 
  ご承知のように,縄文時代から焼き畑農業を含めて耕作が始まった。それらの作物を野ネズミが食べ,その野ネズミをキツネが食べた。そういう植物連鎖の中 で,キツネは益獣とされ,しかも神出鬼没というその生態と相まって、霊獣とされたのではないか。実際、キツネは野ネズミの骨ごと食べたので、時には口から 狐火が出るということもあったであろうし、野ネズミの食べ残しをあちこちの木の根付近に埋めておくということもあり、それが狐火となって多くの人の目につ いたのではないか。
 
 
 
 
津 川に古くから狐火の伝説がある。
麒 麟山には狐がいて、
狐 火がよく見られたそうだ。
狐 火の多い年は豊作で縁起が良いとされていた。
  この伝説を基に、
15 年前から始まった『狐の嫁入り行列』。
毎 年5月3日に行われる。
 
 
 
 
 
東 京の北区王子の王子稲荷は、
稲 荷神の頭領として知られると同時に狐火の名所とされる。
浮 世絵師・歌川広重による『名所江戸百景』では、
狐 が口から炎を吐いて多くの狐火を灯している光景が描かれている。
 
か つて北区一面が田であった頃、
大 晦日に関東の狐たちが官位を得るため、
提 灯を灯しながら王子稲荷へ集まり、
壮 観なまでの狐火が見られたという。
 
装 束稲荷で装束を改めた狐たちは、
関 東総鎮守の王寺稲荷に参拝に出掛けるという訳だ。
そ のような故事に因み、
毎 年、 大晦日から元旦に掛けて、
氏 子が行列を再現している。