石器づくりの原石を求めて

 

 

 稲田孝司の「遊動する旧石器人」(2001年12月、岩波書店)は、堤隆の「黒曜石3万年の旅」(2004年10月、日本放送出版会)とともに、 黒曜石に関する手引きとしては格好の本である。以下稲田孝司の「遊動する旧石器人」にしたがって、核心部分を紹介しておきたい。

 

 関東地方南部の石器石材

 石器をつくるには器種の用途に適した石材が必要だ。ナイフ形石器のような鋭い刃物のためには、硬くて均質に割れやすいガラス質(珪質)の石材がふさわしい。黒曜石が代表だ。これは火山活動で噴出する岩石なので、日本列島には産地がたくさんある。北海道東部の通称「十勝石」には赤褐色のまだら模様をもつものが含まれ、目立ちやすい。信州や伊豆・箱根の黒曜石は、旧石器・縄文時代には中部・関東地方でひろく利用された。島根県隠岐(おき)や佐賀県腰岳をはじめとする西日本の諸産地の黒曜石も、それぞれの地域で石器に使われた。                      

 瀬戸内地域の場合は、香川県の国分台(こくぶだい)や金山(かなやま)、あるいは大阪府と奈良県境の二上山(にじようさん)に産するサヌカイトをおもに用いた。サヌカイトは安山岩の一種で、黒曜石と同じ火山岩に属するけれども、石理が発達しているので板状に割れやすい。北海道南部から東北地方の日本海側には珪質頁岩がひろく分布する。堆積岩に属するが、珪化が進んでいるので鋭利な刃物をつくるのに適している。

 これらは、打製石器の製作にとっていわば理想的な石材である。産地が多いとはいっても、産地から離れた地域ではそう簡単に入手できない。例えば関東地方南部の武蔵野台地の場合、多摩川の河原や台地の端の崖下にのぞく段丘礫層をいくら探しても、これらの石材を見つけることはできない。地元産の石といえば、8割方が砂岩で15パーセントほどをチャートが占める。ほかに粘板岩やホルンフェルスなどがわずかずつふくまれるにすぎない。

 旧石器時代の石器づくりは、在地石材を利用するのが基本であった。だから、武蔵野台地の人びとは鋭利な刃物用には、関東山地から流されてきたチャートなどを用いた。相模野台地の場合、硬質細粒凝灰岩で刃物をつくった。だが、こうした在地石材のほかに、石器製作には遠隔地石材を用いることも少なくない。南関東のように良質な在地石材を豊富に得ることができないところでは、遠隔地石材の方がむしろ量的に多い場合もある。

 南関東における遠隔地石材の代表は黒曜石である。これはもうよく知られた事実だ。ところが近年、石器石材のくわしい研究が進んだ。これまで漠然と地元産かと考えられてきた岩石の原産地がつきとめられ、遠隔地石材と判明した例がある。ガラス質黒色安山岩(緻密質黒色安山岩)と黒色頁岩である。山本薫・柴田徹らによれば、関東地方ではガラス質黒色安山岩が群馬県利根川周辺、茨城県大洗(おおあらい)海岸周辺、神奈川県箱根周辺に産し、これらの一部が南関東へ運ばれているという(山本薫「神奈川県海老名市柏ヶ谷長ヲサ遺跡における石器石材の入手について」『柏ヶ谷長ヲサ遺跡』、1997年)。黒色頁岩は群馬県の利根川周辺で多く採集できる。

 

 

 南関東へもたらされた黒曜石には、信州系(長野県の和田峠男女倉(おめぐら)・霧ヶ峰蓼科(たてしな)など)、伊豆・箱根系(畑宿・鍛治屋・上多賀(かみたが)・柏峠など)、高原(たかはら)山系(栃木県高原山)がある。運ばれた量は、時期によって大きく変化する。石器・剥片類の数でいえば、立川ローム第7層以前では黒曜石が石器群のなかで数パーセント程度をしめるにすぎない。ところが第6層の時期になると急増し、黒曜石が半数以上をしめる石器群も目立ってくる。こうした黒曜石の量の多さは、多少の増減があるにしても、おおむね旧石器時代末期の細石刃文化期までつづくから、一時的な出来事とはいえない。第6層の時期に、黒曜石の運搬ルートか、それを持ち運ぶ集団か、あるいは黒曜石をめぐる社会関係になにか大きな変動が生じたことを推測させる。

註: 立川ローム第7層とはおおむね2万7000年前の地層である。立川ローム第6層は2万5000年前。

 時期的な変化を、こんどは産地別でたどってみよう。田村隆が南関東の石器石材を網羅的に検討した結果によれば、立川ローム第7層以前の時期には、台地により、おもな産地が違っている。下総台地では高原山産、武蔵野台地は箱根産、相模野合地は神津(こうづ)島産・箱根産がそれぞれ多いという。第6層の段階になると、信州系が主体となって、台地ごとの違いが少なくなる(田村隆「考古学的分野」『自然科学の手法による遺跡・遺物の研究5 先土器時代の石器石材研究』千葉県文化財センター研究紀要11、1987年)。金山喜昭も、第7層以前には武蔵野・大宮・相模野の各台地で箱根系黒曜石が多く、第6層になって信州系が増えることを確認している。

 

立川ローム層段階では、南関東における黒曜石の使用が急増するとともに、

伊豆・箱根系黒曜石より信州系黒曜石の比率が高くなる。

 

 では、信州や箱根からどのようにして南関東へ黒曜石が運ばれたのだろうか。この問題については多くの研究者が関心をもっているのだが、具体的に検討する証拠や手がかりに乏しく、まだ明解な答が得られていない。

 石器石材の移動については、一般論としていえば、直接採取説、交換説、交易説の三つの考えがなりたつ。直接採取では、石材を消費する者が自ら原産地へ出かけて遠隔地石材を入手する。交換による場合は、他の物資との交換のくりかえしで石材が原産地に近い集団から周辺の集団へわたり、次第に遠隔地の集団へ波及する。なお交換には、対価となる物資を直接受け取ることのない、一方的な贈与が含まれる場合もあろう。交易説では、原産地と消費地との間に、石材またはそれを含む物資の交易を担う集団の介在を想定する。原産地の集団が、その役割を担ったと考えてもよいわけだ。

 どれも魅力的な考えだ。それぞれの説にはさまざまな変異が考えられるし、石材移動の三つのあり方が複数組み合わさって原産地から遠隔地へ運ばれた可能性もある。ただこれまでは、社会的分業がそれほど発達していないようにみえる旧石器時代の段階では、交易を担う特別な集団の活躍が支配的であったとは考えにくい、と受けとめられてきた。また、集団から集団への手渡しによる交換では、原産地に近い集団ほど、自分の消費分以上の石材をよほど多く手元にかかえておかなければならない。定住集団ならばいざ知らず、遊動集団でそれが可能であったかどうか。

 交換説や交易説は、定住生活が常態となった社会ではわかりやすい。しかし、だれもが遊動生活をおくっているような社会では、だれが原産地の集団でだれが消費地の集団か、それほど固定的な区別があったわけではないだろう。遊動の過程で、だれもが原石を採取し交換をおこなうとすれば、みんなが交易に携わっているような結果にもなる。遊動生活をおくりながら、原石を直接採取したり集団内・集団間で交換をおこなうことにより石器石材が遠隔地へひろがった、というのが旧石器時代の実情ではなかろうか。直接採取・交換・交易が、未分化なままに遊動生活のなかに胚胎している状態といえばよいかもしれない。定住社会が前提となった民族誌や歴史的な事例を参考にするのはよい。しかし、そこからただちに旧石器時代の物資の移動を三つの類型に割り切って理解していこうとすると、どうしても無理が生じる。

 

 黒曜石の運搬ルートと愛鷹・箱根山麓遺跡群

 石器石材の移動を具体的に考えるため、まず運搬のルートの問題をとりあげよう。小野昭は信州と南関東を結ぶ黒曜石運搬ルートとして、だいたい現在の信越本線と中央本線に沿った道を示し、相模野については富士川流域と箱根を経由する道を推定した。安蒜(あんぴる)政雄は、関東山地を越える道筋としてさらに長野県野辺山(のべやま)高原と埼玉県荒川上流域を結ぶ道も想定しているようだ。伊豆・箱根系の黒曜石の場合は、海上での運搬を想定しなければならない神津島産をのぞき、南関東との間はほぼまっすぐに結ばれる。

註:長野県野辺山(のべやま)高原と埼玉県荒川上流域を結ぶ道とは、長野県川上村から十文字峠を経て埼玉県秩父市大滝の川俣に下りる道である。十文字小屋付近には石楠花(しゃくなげ)のみごとな原生林があるので、是非一度はお出かけ下さい。長野県側からは車でかなりの所まで行けるので登りは簡単。埼玉県側から登れば長尾根と称する尾根を延々と歩かなければならないのでやや大変か。近くに林道が県道に格上げさrた道があるがあまりお勧めできない。長尾根は古代から利用された道であるのでやはりそれを行くのがいい。

 

黒曜石運搬ルートの推定

 

 相模野合地における立川ローム第7層相当層以前の黒曜石の産地をみると、たしかにほとんどが伊豆・箱根系である。第6層から第4層下部相当層においては、神奈川県寺尾遺跡第6文化層のように信州系黒曜石が圧倒的な主体をしめる例もあるが、同県柏ヶ谷(かしわがや)長ヲサ(ながおさ)遺跡では依然として伊豆・箱根系が大きな比率を占めている(諏訪間順「相模野合地における石器石材」『岩宿フォーラム・シンポジウム−石器石材2』、1997年)。

註: 立川ローム第7層とはおおむね2万7000年前の地層である。立川ローム第6層は2万5000年前であり、第4層はおおむね2万年前である。

 ここで注意したいのは、信州系と伊豆・箱根系のいずれが主体になるにせよ、両者が同一石器群に含まれる事例が少なくないことだ。つまり、二つの系統の原産地の黒曜石が、一つのルートにのって相模野へ運ばれた可能性があるのではないか、ということである。可能性があるとした場合、伊豆・箱根系が相模野へまっすぐ運ばれたことは疑いないから、信州系黒曜石の方が伊豆・箱根方面を経由して相模野へ達したことを意味する。第7層相当層以前においても、第10層相当層とされる神奈川県吉岡遺跡群D区B5層から一点の信州・霧ヶ峰産の黒曜石が出土している。後期旧石器時代の早い時期から、両系統の黒曜石が同じルートで運ばれた可能性があるわけだ。はたして伊豆・箱根方面にこうしたことを裏づける証拠があるだろうか。

註: 立川ローム第10層とはおおむね3万5000年前から3万年前頃までの地層である。吉岡遺跡は綾瀬市の目久尻川のほとりにある。目久尻川は、相模川の支川であるが、かの有名な寒川神社の前を流れている河川である。

 愛鷹山麓から箱根西麓にかけて、多数の旧石器時代遺跡がのこされている。この地域の落とし穴遺構については、すでにふれた。伊豆・箱根系と称される黒曜石原産地群に近くて、もっとも大きな遺跡群である。

 愛鷹・箱根山麓遺跡群では、南関東と異なり、後期旧石器時代の前半期から石器製作に黒曜石を多く使っている。例えば、沼津市土手上遺跡BB5層(立川ローム第9層相当)の場合、第1地点では石器・剥片類2297点のうち1497点(65%)が黒曜石であった。第2地点では932点中の607点(65%)を、第3地点では1137点中の915(80%)をそれぞれしめていた。興味深いのは、望月明彦や池谷信之らの努力により、これらのうちの多数の黒曜石が蛍光X線分析法で原産地推定がなされたことだ。第1地点の結果では、分析した黒曜石882点のうち、伊豆・箱根系の五つの産地が計812点(92%)、信州系のちの産地が70点(8%)をそれぞれ占めることが判明した。第2地点と第3地点においても、多数の伊豆・箱根系に少量の信州系がともなっている(望月明彦・池谷信之・小林克次・武藤由里「遺跡内における黒曜石製石器の原産地別分布について」『静岡県考古学研究』26、一九九四年)。

註:静岡県沼津市土手上遺跡の25,000年〜30,000年前の地層から発見された黒耀石は、相模湾沖に浮かぶ神津島の黒耀石であることが蛍光X線分析から突き止められている。

 地元の伊豆・箱根系より、むしろ信州系の方が多い石器群もある。静岡県清水柳北(しみずやなぎきた)遺跡東尾根BB5層では、黒曜石122点のうち90パーセント以上が信州系の蓼科産であった。同県柏葉尾(かしばお)遺跡BB3層の石器群の場合、石器・剥片類446点中の391点が黒曜石で、原産地の判明した黒曜石227点のうち信州系が197点を占めていた。のこり30点が伊豆・柏峠産である(望月明彦「愛鷹・箱根山麓の黒曜石製石器の産地同定」『愛鷹・箱根山麓の旧石器時代編年』収録集、1996年)。

 箱根西麓の初音ヶ原(はつねがはら)遺跡群の場合、AT火山灰降下期以前の第4文化層・第3文化層では地元の柏峠産が圧倒的に多いが、それでも数パーセントは霧ヶ峰・蓼科などの信州系黒曜石を含んでいる。

 こうしてみると、愛鷹・箱根山麓遺跡群の旧石器集団は、南関東の立川ローム第6層段階に先んじて石器製作に多量の黒曜石を使いはじめ、しかも近距離の伊豆・箱根系のみならす、遠隔地石材である信州系黒曜石までを恒常的に入手しうるルートを確保していたことになる。相模野合地や武蔵野台地の集団が伊豆・箱根系の黒曜石を採取しにきたおり、あわせて愛鷹・箱根山麓遺跡群の集団から信州系黒曜石を入手した可能性は十分あるというべきだろう。あるいは、南関東の集団は伊豆・箱根の黒曜石原産地を直接訪れたのではなく、愛鷹・箱根山麓の集団から伊豆・箱根系と信州系の両方をセットで入手した可能性も考慮にいれておかなければならない。主体をなす伊豆・箱根系に少量の信州系黒曜石が混じる南関東の立川ローム第7層以前の石器群のあり方は、これで十分説明がつくはずだ。

 さきに紹介したように、小野昭は早く相模野合地への信州系黒曜石の運搬が伊豆・箱根方面を経由する図を示していた。最近では、堤隆が相模野における細石刃期の信州産黒曜石の搬入のあり方として、単独で信州から搬入されるモデルとともに、伊豆・箱根産黒曜石とあわせて搬入されるモデルを提示している(望月明彦・堤隆「相模野合地の細石刃石器群の黒曜石利用に関する研究」『大和市史研究』23、1997年)。いずれも重要な指摘だ。わたしは、南関東の集団が伊豆・箱根産黒曜石を入手するために出かけたおりにあわせて愛鷹・箱根山麓の集団から信州産黒曜石を得たこと、このあり方は後期旧石器時代の初頭から始まったこと、少なくとも立川ローム第7層以前においては相模野合地のみでなく武蔵野台地を含む南関東の広い地域において同様な方法での黒曜石の入手がなされただろうということを推定したいのである。

 

黒曜石産地別比率

愛鷹・箱根山麓遺跡では、後期旧石器時代前半から石器製作に黒曜石が多く使用された。

地元の伊豆・箱根系黒曜石(白抜き)だけでなく、

量の多寡はあるものの信州系黒曜石(横線)もつねに入手しうる機会があった。

 

 立川ローム第6層以後、南関東では黒曜石の使用量が急増し信州系黒曜石が主体となる。したがってこの時期以降、少なくとも武蔵野台地・大宮台地の集団にあっては、関東山地を越えて直接信州系黒曜石を入手するルートが主流になったらしい。このルートは、第7層以前からじょじょに開拓されてきた可能性もあろう。

 関東山地を越える経路のうち、碓氷峠(うすいとうげ)あたりを越える信越本線沿いの道は、群馬県西部の集団に黒曜石を供給したにとどまったようだ。なぜなら、群馬県西部の黒曜石はたしかに信州産が主体だが、その量はそれほど多くなく、利根川を越えるととたんに栃木県高原山産が主役になってしまうという程度のものだからである。大宮台地・武蔵野台地への信州産黒曜石搬入ルートとしては、野辺山高原から荒川上流域へ抜ける道や甲府盆地から東へ抜ける道の可能性が考えられる。しかし、ルートの存在を証拠だてる遺跡が発見されているわけではないので、検証はこれからの課題だ。

 

 貴重な黒曜石をなぜ浪費する

 運ばれてきた黒曜石の原石が、消費地のキャンプでまとめて保管されていた例がある。箱根西麓の静岡県観音洞(かんのんぼら)B遺跡では、径60センチ前後、深さ20センチ余りの不整形な穴のなかに10個の黒曜石原石をおさめていた。重さは平均220グラムほどで、握り拳一つかそれよりやや小さい。この地から13キロメートル離れた箱根・畑宿の産という。いま一つは、東京都多摩ニュータウンNo769遺跡の例である。ここでは掘りくぼめた穴はなかったが、黒曜石原石3点が数センチ間隔で置かれ、他の一点がそこから70センチ離れた位置にあった。径7センチほどの亜円榛で、一点に試し割りの剥離痕がのこっていた。伊豆の上多賀(かみたが)産か鍛冶屋産ということだ。どの原石も表面の尖った稜が磨滅しているので、革袋のようなものに包んで長距離を運ぶうちに原石どうしがぶつかりあって角が磨滅したのだろう、と阿部祥人(よしと)は推測する。神奈川県向原2遺跡では、拳大より大きい黒曜石原石9個をまとめて置いたところがあったという。

 これらの事例は、いずれもナイフ形石器文化の、AT火山灰降下期よりやや新しい時期に属する。先にもふれたように、後期旧石器時代後半期には石器文化の地域色が顕著になる。おそらく日本列島の各地で人口が増え、旧石器集団の遊動範囲が狭くなるとともに、遊動領域の固定化が進んだ結果であろう。このころの南関東・武蔵野台地では、次のような集団関係があったとわたしはかつて推測した。

 つまり、この台地では、東京都小平市鈴木遺跡の位置あたりを要として、台地を開析する多くの小河川が東方へ扇状に流れでる。こうした各河川に沿って複数の小集団が遊動生活をおくり、河川流域集団ともいうべき社会単位を形成していただろう。いくつもの河川の谷頭に近い鈴木遺跡には、他の遺跡にくらべれば破格ともいえる量の黒曜石がのこされている。鈴木の集団を経由して各河川流域集団に黒曜石が運ばれた可能性があるわけだ。だから、この台地の諸小集団は、鈴木遺跡の集団を中心にして一つの部族的な関係を結んでおり、鈴木の集団の差配のもとで、各小集団から人をだして黒曜石を入手するための採取集団を原産地へ派遣したのではないか、と(稲田孝司「旧石器時代武蔵野台地における石器石材の選択と入手過程」『考古学研究』30−4、1984年)。つまり、後期旧石器時代後半期には遊動領域が狭くなり固定化が進むけれども、そのかわりに小集団の間の結びつきを組織化し、恒常的に黒曜石を獲得するためのシステムをととのえたのではなかろうかと考えたのである。

 相模野台地の例だが、最近、後期旧石器時代後半期の小集団が台地を開析する河川に沿って遊動領域を形成していたことをうらづける有力な手がかりが得られた。綾瀬(あやせ)市吉岡遺跡群B区は目久尻(めくじり)川左岸の台地上にあり、そこから約2キロメートル下流の同じく左岸に藤沢市用田鳥居前(ようだとりいまえ)遺跡がある。この二つの遺跡から出土した石器がぴったり接合したのである。三つの原石で接合関係があった。いずれも吉岡遺跡群B区で製作されたナイフ形石器や剥片の一部が、製品として用田鳥居前遺跡へ持ち運ばれたものだ。三つの接合資料があるから、たぶん同じ集団の移動を示すのだろう。栗原伸好・吉田政行らは、吉岡遺跡群B区の集団がそのまま移動したのではなく、その集団の一部が狩りのために用田の地を訪れたのだろうと推定している(旧石器時代研究プロジェクトチーム「旧石器時代後半における石器群の諸問題−相模野の遺跡間接合から」『かながわの考古学』かながわ考古資料刊行会、2001年)。移動したのが集団の本体か一部成員かはともかく、河川流域集団を構成する小集団の遊動生活の具体像を、じつにいきいきとものがたる。

 観音洞B遺跡や多摩ニユータウンNo769遺跡の黒曜石原石は、数がそれほど多いわけでない。だから、交換用というより、たぶん小集団が自分たちの石器製作のために保管していたのだろう。入手した黒曜石は、石器製作のために割られる。まとまった黒曜石が手に入った直後ならば、キャンプ跡には黒曜石の多い石屑がのこされるだろう。小集団は、数個から十数個の原石または石核を所持し、十数個の石核で並行して石器製作をおこなう。剥片剥離を終えた石核から順次廃棄し、そのたびに廃棄分を新しい石材で補給しなければならない。だからせっかく入手した黒曜石も、数か所のキャンプを移動したあとには、再び在地石材が主体の石器群にもどってしまう。

 石核の形で、いま少し黒曜石が所持されることはある。ナイフ形石器のように製品として加工されれば、もっと生き延びることもできよう。しかし、それにしても遠隔地からかなりの苦労をして入手できることになった黒曜石にしては、あっけない消費のしかたである。遺跡にのこされた黒曜石には、まだいくらでも製品をつくれそうな大きさの剥片が含まれでいる。これでも石屑なのか、と黒曜石の多い石器ブロックを見るたびに疑問に思う。

 石屑ではなく、次にその地へ戻ってきたときのためにそうして黒曜石をのこしたのだ、とい見方もできよう。げんに、完全な形の製品でさえ、剥片類といっしょにのこされている例がいくらもあるではないか。しかし仮にそう考えたにしても、やはりまだ使えそうな黒曜石の剥片類が石器ブロックのなかに未使用のまま多くのこされたという事実にかわりはない。黒曜石の入手噌程で想定される困難さと、ほとんど無駄使いともいえる消費過程とのあいだの落差には、とまどうばかりだ。

 

 ここで黒曜石にこだわらず、石器石材の原産地のあり方に目を移そう。石器石材と一口にいうけれども、それを原産地から運び出す場合、およそ五つの形があった。第一は原石のままの形ある。原産地には証拠がのこらず、先にあげたような消費地の遺跡において原石での持ち出し判明する。第二は石核素材の形である。原石を大割りし、石核をつくるためにその大型の剥片または石塊を運び出す。第三は石核原形または石核の形。石核は石刃あるいは剥片を剥離しはた母体で、石核原形はその剥離の直前の粗加工した姿をいう。第四は石器素材の形。石刃や剥片、瀬戸内技法の翼状剥片などがこれにあたる。第五は完成された製品またはその直前の粗加工の段階の形である。

 瀬戸内地域においては、サヌカイトが盤状剥片・翼状剥片石核・翼状剥片・国府型ナイフ形石器の形で原産地から搬出されたことを絹川一徳が指摘している(絹川一徳「五色台産サヌカイトを中心とした石器石材の獲得と瀬戸内技法」『瀬戸内技法とその時代』、1994年)。つまり、第二から第五までの形での持ち出しがあるわけで、このほか松藤和人は原石での搬出も推定している。

 長野県鷹山遺跡群は、星糞峠(ほしくそとうげ)の黒曜石原産地に接した遺跡群である。調査にあたった安蒜(あんびる)政雄・小菅将夫らは、当地の黒曜石は素材としての石刃の形で、あるいはナイフ形石器・尖頭器などの製品の形で搬出されたものとみなしている(鷹山遺跡群調査団編『鷹山遺跡群U』長門町教育委員会、1991年)。

 北海道東部の白滝遺跡群のすぐ北に、良質の黒曜石を産する赤石山(あかいしやま)がある。赤石山山麓の幌加沢(ほうかざわ)遺跡遠間(とおま)地点を調査した木村英明は、この遺跡に居住した集団が赤石山から原石を持ち語り、ここで細石核またはその原形に加工する作業を一手に引き受け、それらを交換により近隣の消費地へ分配したと考える。他方、道東地域で発見される荒屋型彫器には、道南に産する珪質頁岩など黒曜石以外での製品が多い。帯広市暁遺跡からは100点をこえる多量の荒屋型彫器が出土しており、こうした集団を媒介にして道東の黒曜石と道南の珪質頁岩製彫器が交換されたのだろうという。分業と交換がかなり発達したシステムを想定するわけだ(木村英明「黒曜石・ヒト・技術」『北海道考古学』31、1995年)。

 

 石器石材の交換と製作技術の伝承

 こうしてみると、原石・石核素材・石核・石器素材・石器(製品)という五つの形で石器石材が原産地から運び出されたことは疑いないようだ。どの形が主体であったか、時期や地域によって差があったらしい。

 石材の運搬という面から考えると、原石・石核よりも、製品や石器素材で運搬するほうがはるかに合理的だ。同じ重さでたくさんの製品を運ぶことができる。消費地で予想される製作の失敗や多量の石暦分の石材をわざわざ運ぶ必要はないはずだ。とくに交換によって石材が移動する場合、同じ石材量でくらべれば、製品の形に近いほど価値が高くなるにちがいない。そういう意味で、北海道の珪質頁岩製荒屋型彫器や安山岩を選んで製作されることの多い九州の剥片尖頭器などは、交換品として遠隔地へ運ばれた可能性は十分あろう。

 鷹山遺跡群で製作された石刃や尖頭器については、南関東の集団がやってきて製作し、持ち出したと安蒜政雄は推定する。その可能性はあるかもしれない。しかし、立川ローム第6層以降の南関東の信州産黒曜石がすべて石器素材か製品で搬入されたものでないことも明らかだ。なぜ、運搬に有利な製品の形での搬出が一般化しなかったのだろうか。

 ここで次のことに注意したい。石器石材搬出の五つの形というのは、じつは消費地である南関東の旧石器人が在地石材を使っておこなう石器製作のなかで普通にみられる形と同じだということである。例えば埼玉県砂川遺跡には、在地石材のチャートを角裸に近い形の石核として遺跡地に持ち込み、いくらかの石刃を剥離したあと、かなり小さくなった石核をまた次のキャンプ地へ持ち出したことを示す接合資料がある。石刃・ナイフ形石器・彫器なども、製品として多く持ち込んでいる。キャンプを移すとき、この遺跡地でつくった石刃やナイフ形石器を持ち出したことも想定できる。

 黒曜石原産地などで原石から製品までの五つの石材搬出の形があるというのは、たぶん消費地においてキャンプを移動しながら石器製作をおこなう際に現れる石器運搬の姿の反映なのだ。仮に黒曜石製品が交換で出回ったとしても、それをいつでもどこでも100パーセント確保できるみこみがないかぎり、消費地では在地石材での石器製作をやめるわけにいかない。石器製作を続ける以上、原石の打剥から製品の仕上げまでの技術を維持・伝承しなければならない。だから黒曜石も、原石か石核の形で入手するのが基本となったのだろう。長距離を運んできた黒曜石をたちまち石屑に打ち割ってしまうあり方も、技術の維持・伝承に必要な投資と思えぱ、それほど無駄な浪費とはいえない。

 旧石器人においては、そもそも製品のみが手に入れば用がたりる、といった発想は希薄だったのではあるまいか。あったとしても部分的な道具にとどまっただろう。石器製作の過程は、たんに機能的な道具を得たり、製作技術を維持し発展させるだけの場ではない。製作の手順を追い物の形を仕上げていくなかで、製作者は他人のやり方や形のモデルを模倣し改変し、あるいは新しい工夫をつけくわえながら、間接的に社会ともかかわっていく。石器づくりは、石器を媒介にした社会との対話の過程でもあるわけだ。

 また、旧石器時代の石器づくりというのは、あらかじめ製作すべき製品の器種や数の目標を定めて、その分の石材を入手しょうとするのではなかった。まず一定量の石材を確保しておいて、必要な時に必要な種類と数の製品・素材をつくっていこうとするやり方だ。打剥の過程でできる剥片類を使い、便宜的な道具に利用していくこともできる。多量の石屑は、石材の使い道をファジーにしておくための代償であったともいえる。なぜ暖味にしておくのか。たぶん、不意の出来事にそなえ、臨機応変に石器をつくることができる余裕を石器製作者が確保しておく必要があったろうし、集団内の他の成員からだされる石器の注文にも応じなければならない、という事情などが考えられる。

 黒曜石で鋭利な刃を得るというのは、石器石材の実用的な機能である。石器製作技術の維持・伝承、石器の形や技術の模倣と交流、必要に応じた石器づくりなどというのは、いわば石器石材の社会的な機能である。

 黒曜石の鋭利な刃がほしい。しかし、石器づくりの社会的機能も捨てたくない。みんながそう思うとなれば、もはや道は二つしかない。第一は、自分で黒曜石の原産地へ出かけること。そこで自ら石器製作をおこない、他集団と交流し、あるいは原石・石核を消費地へ運び出すのである。立川ローム第7層以前の段階では、集団の全体あるいは主要部分がそうした移動をおこなっていたらしい。遊動領域はおのずから広範囲であった。第6層以降の段階では、遊動領域が狭く固定するのにともない、集団の本体は本拠地からあまり大きく動かず、原石採取のために一部の構成員を採取集団として派遣する方法が主になったのだろう。

 第二は、原石・石核を交換で入手すること。将来の石屑分を含んだ交換だから、製品の交換にくらべれば未熟な交換物資といえる。交換物資に直接社会的な機能がまとわりついているかぎり、交換物資は純粋に実用的な製品の姿として現れにくい。その未熟さが支配的であるところに、旧石器時代の石器石材にかかわる交換経済の限界がある。

 

 黒曜石をもたない集団

 信州や伊豆・箱根の黒曜石原産地までの距離が南関東とほぼ同じでありながら、黒曜石をほとんど用いない集団がある。静岡県の西部・磐田原(いわたはら)台地の旧石器人たちだ。この台地は、天竜川の東岸に沿って南北11キロメートル、東西5キロメートルほどの広さをもつ。台地上には、天竜川を見おろす西側の崖際を中心に、70か所余りの旧石器時代遺跡が分布する。後期旧石器時代後半期における部族的な集団のまとまりとその領域のあり方をコンパクトに示している。もちろん一時期に形成されたものではないけれども、遺跡群のまとまり方から人間集団のあり方を類推しやすい好例だ。

 この遺跡群をのこした旧石器人は、石器をつくるためシルト岩を中心に細粒砂岩・流紋岩・チャートなどを使っていた。これらは天竜川の河原で採取でき、円礫の状態で台地上へ持ち運んだ。つまり在地石材なのである。

 ところで、この遺跡群では黒曜石がごくまれにしか発見されない。広い面積の発掘調査がおこなわれた寺谷、広野北、匂坂中、高見丘V、高見丘3などの各遺跡では、石器総数の一ないし2パーセント以下であった。天竜川をまっすぐ北にさかのぼれば、信州の黒曜石原産地にいたる。その距離約150キロメートル。かなり遠いかもしれない。そのうえ、山地を越えなければならない。しかし、黒曜石を豊富に利用している愛鷹・箱根山麗遺跡群からは100キロメートルしか離れていない。こちらは海岸沿いの平地を歩くことになるから、障害はないに等しい。それでも黒曜石は少ないのである。

 このことに着目した富樫孝志は、磐田原台地の旧石器集団の行動を次のように復元する。当地の黒曜石には信州の和田峠・霧ヶ峰産などと伊豆の柏峠産を含むけれども、いずれも原石を持ち込んだ証拠はない。石核の形での搬入以外に、製品のセットの場合と剥片のみの場合が想定される。で、搬入された黒曜石製のナイフ形石器は、磐田原台地のつくり方よりも、むしろ信州の特徴をそなえている。だから、磐田原台地の集団が信州の伊那谷(いなだに)へ出かけ、交換でこの製品を入手した可能性が高い。いずれにせよ、黒曜石の少なさからみて、当地の集団が伊那谷や箱根方面へ出かけたのはごくごく例外的な出来事であったらしい。彼らの日常の行動範囲はほとんど台地周辺地域に限られていた、と富樫は考えるのである(富樫孝志「磐田原台地における旧石器時代の黒曜石搬入・消費活動」『静岡県考古学研究』31、1999年)。

 原産地から遠く離れたところの集団が黒曜石を日常的にどれほど多く用いるかは、もっぱら部族的な集団の間の結びつきの強弱によって決まったといってよさそうだ。もちろんその結びつきの発端には黒曜石の実用的な魅力があり、黒曜石を媒介にして集団間の関係が強化される側面はある。だが、そうした集団間関係を発展させることのできなかった、あるいは発展させることを望まなかった集団は、黒曜石の移動範囲の枠外におかれる。遠隔地における一定量の恒常的な黒曜石の獲得は、自由な交換や交易にもとづく経済行為の結果というよりも、おしなべて集団関係の結びつきの成果というべきだろう。交換をおこなうのも、そのような枠組みのなかでのことであったろう。いうまでもないが、個別的で偶然の交換は集団のふだんからの結びつきなどなくても十分おこりうる。

 南関東の武蔵野台地や相模野台地では、台地間の距離が比較的近いため、集団の区分が必ずしも明瞭でない。磐田原台地の遺跡群と集団の行動を参考にすれば、台地と集団の関連をある程度具体的に思い浮かべることができよう。ただ、部族的な集団の規模は南関東の方がはるかに大きく、河川流域集団や小集団としての分散遊動も進んでいた。黒曜石の多さからみて、台地間の交流はさらに頻繁であったらしい。

 後期旧石器時代後半期には、信州、伊豆・箱根、高原山などの黒曜石やガラス質黒色安山岩・黒色頁岩などをめぐり、中部・関東地方の広い地域を舞台にして、いくつもの部族的集団が直接・間接の結びつきを発展させていた可能性がたかい。