黒曜石の7不思議

神子柴で出土した黒曜石の尖塔器はいつ頃どこの誰が開発したのか? 

 

 

 

 

 この図は、国立科学博物館が行なった「日本人はるかなる旅展」に展示された図であるが、この図に示されているように、人類がスンダランドから黒潮に乗ってはじめて日本列島にやって来たのが5万年前である。その後氈`2万年たった氷河期に、大陸からはじめて別の人びとが日本列島に渡って来た。徒歩で渡って来た。今から3〜4万年前のことである。現代人に直接つながるいわゆる新人(ホモサピエンス)がヨーロッパに現れたのが3〜4万年前というから、黒潮に乗って日本にやって来た人びとも又氷河期に大陸から日本に渡って来た人びとも、ともにネアンデルタール人である。ネアンデルタール人は3万年前に滅亡したと言われているので、日本列島でも現代人に直接つながるいわゆる新人(ホモサピエンス)とネアンデルタール人が共存していた時期がある。技術の伝承はあったであろうし、若干の混血もあったであろう。しかし、人種としてはまったく違う人種である。知能的に新人(ホモサピエンス)より劣っていたらしい。知能的には現在の私たちと新人(ホモサピエンス)とはまったく同じであると言われている。したがって、少なくとも御子柴型石器がつくられた頃は、私たちともう同じ感覚で行動をしていたのである。もちろん、道具は石器しかないので行動に制限はあるものの考える能力は私たちとまったく同じであったらしい。技術は蓄積されるし、経験も蓄積される。現在の私たちは当時よりはるかに便利な社会生活をしているのだが、考える能力は現在も当時もあまり変わらないのだ。当時の社会生活を想像するには、今、私が、石器しか道具がないとして、当時の技術水準で何をするだろうかを考えれば良い。では、御子柴文化の時代を想像してみよう。

 御子柴型の時代つまり私の言うおじいさんの時代とはどういう時代であろうか。私は先に、『 こういった御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生した。』・・・と述べた。 そして、これもそのときに掲載したが、神子柴で出土した尖頭器は、下呂石と玉髄と黒曜石である。

 私は、例えば御子柴遺跡や唐沢B遺跡は、先頭器と石斧と石刃素材をともなうもので、湧別技法を参考に御子柴型の石器を開発したと述べたが、今ここでは黒曜石に焦点を絞ろう。「神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」 現在その点がさっぱりわかっていない。黒曜石七不思議の四つ目の疑問である。この疑問について私なりに考えてみたいと思う。

 

  さて、2006年はモンゴル帝国建国800年にあたり、一年を通じて様々なイベントが行われた。モンゴル建国の歴史は、過去1,000年で最大の偉人と言われるチンギス・ハンの歴史と深く関わっている。1206年“赤い虎(ウランバル)”の年、45歳のチンギス・ハンは歴史上初めてモンゴルを統一し、モンゴル帝国の建国を宣言した。

 昨年、モンゴルでは140以上の記念イベントが企画されたらしい。建設、情報、伝統文化、記念式典、芸術、海外での観光PRの6カテゴリーに分けられ、2006年版特別カレンダーも発行されたようだ。

 昨年の1月1日に開会式が行われた。国を挙げた祝典は、7月のナーダム(モンゴルの夏の祭典)に併せて行われる。このほか、2月に「モンゴル帝国800」博覧会とオペラ「チンギス・ハンの母」、3月にオペラ「チンギス・ハン」、6月と9月に国際学術会議、7月にアートフェスティバル、8月に第26回世界詩人フォーラム、10月に歴史・文化フォーラム、11月に「モリン・フール」音楽コンテスト、12月に写真展など様々な行事が予定され、12月31日に閉幕した。私はたまたま12月の18日から22日までウランバートルに居て、モンゴル建国800年と同国オリンピック委員会の設立50周年記念行事として新設された「チンギスハン・トロフィー世界スポーツ大賞」の授賞式に立ち会った。日本の鈴木桂治にエンフバヤル大統領からトロフィーが贈呈されたのである。こんなうれしいことはない。同賞は世界中のスポーツ選手から選考され、鈴木は最終選考でウズベキスタンのレスリング選手と争い、アテネ五輪での圧倒的な強さが評価されたらしい。

 記念行事を通じて、何千年もの間、世界の民族の橋渡しをしてきた遊牧民の重要性が強調され、国連総会では次のように指摘された。「遊牧民族特有の自然と調和する生活文化は、自然が生息する微妙な生態バランスを保つ。現在の環境危機と課題を背景に、自然の気まぐれにも順応する遊牧民の才能は、ますます有効性が高い」。しかし、私に言わせれば、こういう認識は必ずしも十分でなく、中沢新一の進める「芸術人類学」の観点からモンゴルという国の重要性を語らなければならないのだが、その点についてはいずれゆっくり語るとしよう。

 ところで、「日本人はるかな旅(第1巻)」(2001年8月、日本放送出版協会)に斉藤亮一の写真が載っている。その一部を紹介しておく。私たち日本人と本当によく似ていることを感じていただければ良い。

 

 

ムングンモリト(モンゴル)の少年

 

 

ウランウデ教育大学(外モンゴル)の学生

 

 

 「日本人はるかな旅(第1巻)」(2001年8月、日本放送出版協会)によれば、わが国の縄文人29体とDNAが一致してているのは、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人とブリヤート人であるが、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人はそれぞれ縄文人29体中一体が一致したのに対し、驚くことには、ブリヤート人は縄文人29体中17体が一致したという。ブリヤート人は、アムール川の上流及びバイカル湖の周辺に住む民族であり、現在は、モンゴルと外モンゴルに属している。私は今年の夏にできればムングモリトとダダルに行きたいと考えているが、ともにアムール川の水源地・ヘンティ山地である。できればヘンティ山地を少しでも歩きたい。ムングモリトはアムール川の上流ヘルレン川の畔、ダダルはアムール川の上流オノン川の畔にある。ヘンティ山地はウランバートルの北東200km付近からロシアにかけての山地であり、ムングモリトやダダルはその麓の町である。もちろんブリヤート人のモンゴル側の拠点であり、ダダルはチンギス・ハンの生まれ故郷であって、下の地図の真ん中あたりのやや上・ロシアとの国境付近にその町はある。ムングモリトもそうだが、ダダルもアムール川流域である。それらヘンティ山地やムングモリトやダダルは、ヘンティ県であり、その中心都市はウンドゥルハーンであり、下の地図の真ん中あたりにある。ムングモリトのヘルレン川下流になる。私は、ヘンティ県の知事から、羊を沒ェ潰して歓迎するから夏に来いと言われている。

 

 

 

 

 また、モンゴル科学アカデミーの話によると、ヘンティ山地を含むヘンティ県は3万年前から突然遺跡が増えるらしい。黒曜石はないようだが、今年の夏が楽しみである。石器の加工技術の面でモンゴルと日本とがどう繋がっているか、そのことについては白滝の黒曜石を語るときにじっくり触れるとして、ここではとりあえず、荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の近辺ないしはアムール川の沿川地域だという・・私の勝手な想像をもとに・・・話を進めていくこととする。考古学者は、おおむね、荒屋技法集団のルーツを沿海州またはシベリアのどこか沿海州に近いところと考えているようだが、私は、さらにそれらのルーツはどこかということを問題にしている。仮に、沿海州またはシベリアのどこか沿海州に近いところでそれらの集団が荒屋技法に繋がる技法を発達させたとしても、さらにそれらの集団のルーツを辿ったとき、結局は、アムール川の源流ないしはバイカル湖の近辺にいくのではないか・・・と私は考えているのである。今ここで詳しい説明は省力するが、ともかく、世界最高の技術集団が、その拡散によって、遂に、野辺山にまでやってくるのである。

 

 再度申し上げるが、御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生したのである。荒屋技法は、黒曜石の加工技術ではなく、それ以外の石器加工技術であるが、これも当時は世界最高の技術であったことは間違いない。野辺山には、荒屋技法集団と湧別技法集団が付かず離れずの状態で生活するようになった。言葉や生活習慣が似ていたのであろう。同じ親戚みたいなものである。これらの集団が野辺山に来た。来たのだ。ともかく世界最高の技術集団が来たのだ。これら世界最高の技術集団が来てはじめて野辺山は世界最高の尖頭器や石斧をつくることができるようになったのである。だとすれば、なぜ、野辺山なのかという問題を考えねばならない。そこがポイントである。荒屋技法集団と湧別技法集団が付かず離れずの状態で生活していた土地というのは何も野辺山だけではないのに、なぜ、野辺山だけが荒屋技法集団と湧別技法集団によって新たな技術開発が行なわれ、あのような芸術品ともいうべき世界最高の黒曜石加工品がつくることができるようになったのか。それを考えねばならない。

 実は、野辺山には、近くに八ヶ岳の黒曜石があるのに、神津島の黒曜石が運び込まれている。これもまことに不思議なことで、これも黒曜石7不思議のひとつに数えても良い。しかし、「 野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのに、なぜ神津島の黒曜石が運び込まれているか?」・・・という疑問について答えるということは、「 神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」という疑問に対して答えるのと同じであると私は考えるので、今ここで、ふたつの疑問をひとつにしてしまおう。つまり、「 野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのになぜ神津島の黒曜石が運び込まれ、しかもその野辺山で、神子柴で出土したあのようななまさに芸術品とでもいうべき尖頭器がつくられるようになったのか?」・・・・と言い直そう。なお、神子柴で出土した下呂石による尖頭器も私は野辺山でつくられたと考えている。その理由は、下呂には荒屋技法集団と湧別技法集団の生活した形跡がまったくないからである。上の新たな疑問に答えるということは、なぜ野辺山で下呂石によるあのようすばらしい尖頭器がつくられたのか、その疑問に答えることにもなる。推理ののポイントは、野辺山が大流通センターであったということである。何故か? 私が当時の石器人であれば必ず野辺山に大流通センターをつくると思うからである。なにせ、私と当時の石器人は同じ知的能力であるから、私が考えることぐらいは当然彼らも考えたであろう。それだけのことである。

 下呂石の石器にしろ、神津島の石器にしろ、現地であらかたの石器をつくり、それらを流通センターに運び込む。流通センターでは、それに二次加工を加え、付加価値を高めて需要先に運んでいく。石器の流通センターというものは、ただ単にものを集めて配送するというだけでなく、付加価値を高めて配送するという機能を持っていたのだと思う。何故か? 私ならそうするからである。

 

 では、いよいよ佳境に入っていくが、なぜ私が野辺山を大流通センターに選ぶのか、その点につき説明せねばなるまい。

 

次へ!