黒潮文化について

 

 

 私は先に、『 多分、相模野台地の集団が「海の民」や「山の民」に先導されて、大挙して海に行ったり山に行ったりしたのであろう。「海の民」や「山の民」の中には、狭い範囲の交易に従事している人も少なくなかったと思われるので、そういう人が道案内に当ったのではなかろうか。黒曜石の採掘は相模野台地の人たちにとっては大事業であったはずだ。だから・・・・、ある年に海にも行き山にも行くというようなことはなかったと思う。神津島に行くにも八ヶ岳に行くにも大変なのである。なにせ鉄道や道路のない頃のことである。道らしい道のない頃のことである。大変なことだ。特に、神津島には命がけで行かなければならない。数年に一度・・・神津島に行ったり、数年に一度・・・八ヶ岳に出かけたりしたのではなかろうか。「武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」・・・という黒曜石に関する第1の不思議については、あるていど理解していただいたであろうか???まだ、物部氏の登場にはほど遠く、黒潮文化圏はほとんど内陸部に及んでいなかったのである。物部氏の登場によって一挙に黒潮文化が鎌倉や武蔵野台地に及んでくるが、その段階になってはじめて府中や国分寺が関東の中心地となる。しかし、それはずっと後のことだ。』・・・・と述べた。

 黒曜石の七不思議のひとつ・・・「武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石はなぜ神津島のものでなく八ヶ岳のものなのか?」という疑問については、一応、私なりの答えを申し述べたのだが、もしそうだとしても、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」という疑問が湧いてくる。この疑問に答えるためには、どうしても黒潮文化について勉強する必要がある。これからしばらく、いろいろと黒潮文化に関する現在の知見を勉強するとしよう!

 

 

 『 柳田が『海上の道』に至ったには、ずいぶん長い時間がかかっていた。なんといっても『海上の道』は柳田の最後の著作なのである。これを発表した翌年の昭和37年に、柳田は死んだ。

 一貫した論文ではない。「島の人生」「海神宮考」「みろくの話」「根の国の話」「鼠の浄土」「宝貝のこと」「稲の産屋」などで構成されている。しかし、この著作をもって柳田は柳田の民俗学が訴えてきたことを行方に託したのだ。日本人はどこから来て、どこへ行くのか。それが柳田の最後に語ろうとしたことだった。

 柳田が語ろうとしたこと、それは琉球諸島に漂着した者たちが稲と貝に価値を感じて、それを伝承し定着させていったのではないかということである。そのことを語るのに長い時間がかかっていたというのは、この稲をもった日本人の漂着という物語の発端が、柳田が青年のときに渥美半島の伊良湖岬で椰子の実が流れ着いているのを見たことから始まっていたからだ。明治31年の24歳のときである。

 その年の8月の1カ月、柳田は伊良湖岬に滞在して、黒潮に乗って遠い島から流れついた椰子の実に何事かを感懐したのである。

 当時は同じ新体詩の仲間だった友人の島崎藤村が「その話、もらったよ」と言って『椰子の実』という詩にし、それに大中寅二が曲をつけたという、あのことである。

 柳田は大正9年に沖縄に渡った。3カ月ほどの滞在だったが、沖縄学の父ともいうべき伊波普猷(いなみふゆう)と出会い、『おもろそうし』に感嘆し、笹森儀助の『南東探検』を読み耽り、本島や八重山や宮古島や石垣島のそこかしこを歩いた。その体験が『海南小記』になった。このとき柳田は琉球独自の文化に惹かれたことはいうまでもないのだが、他方で、琉球と日本をつなぐ共通性に思いをめぐらしていた。ただ、そのことを伊良湖岬の椰子の実から日本民族の稲作にまでつなげる時空を超えた構想にするのに、生涯の時間をかけたのだ。』

 

 上記は、松岡正剛の「千夜千冊」の最後の文書からの抜粋である。日本人はどこから来て、どこへ行くのか。松岡正剛も言っているように、柳田は伊良湖岬に滞在して、黒潮に乗って遠い島から流れついた椰子の実に何事かを感懐したのである。江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」を横目で見ながら、黒潮の流れへのロマンを胸に秘め、マイペースで研究を進めていった柳田国男の直感は正しかったようだ。

 私はかって、「伊豆山神社のいわれ」に関し、初木姫伝説を紹介することで語ったつもりである。伊豆山神社は黒潮を航海する船人を司る神さんである。北条氏は伊豆山神社を支配することで大平洋の制海権を掌握したのだ。古代から黒潮の流れを熟知している者が大きな富と権力を持ったのである。私は、かって由比が浜の長者のことを書いたが、由比が浜の長者が多分そうなのである。由比が浜の長者とは染屋太郎太夫時忠のことであるが、染屋太郎太夫時忠は、藤原鎌足の玄孫に当たり、南都東大寺良弁(ろうべん)僧正の父にして、永く鎌倉に居住した。そして、東8カ国の総追捕使となり、東夷を鎮めた。藤原氏が物部氏にとって変わったということだろう。その象徴的人物が由比の長者なのであろう。私はそう考えている。黒潮の流れについてはそのときに概略を説明した。また、大和朝廷の東北経営の拠点・石城における「潮目の海」でも黒潮の流れに触れておいた。黒潮を熟知しないと東北経営は成り立たないのである。黒潮なのだ。黒潮・・・なんとロマンある響きか!いいですね!実にいい!

 

 

椰子の実(島崎藤村作詞・ 大中寅二作曲)

 

名も知らぬ遠き島より

流れ寄る椰子の実一つ

故郷の岸をはなれて

なれはそも波にいく月

  

 

佐伯市の歌人・大内須磨子の歌

・・・黒潮に遠く運ばれ流れ寄る 椰子の実一つ砂に埋れて・・・

 

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 私はこの「古代社会源流の旅」で黒曜石のロマンを語ろうとしているが、そうだ、黒曜石のロマンと黒潮のロマン、いよいよこの二つのロマンを同時に語るときがきたようだ。山のロマンと海のロマンだ。「山の民」と「海の民」に寄せるロマンでもある。黒曜石と黒潮のロマン・・・、まずは「黒潮の考古学」から始めよう!

 川勝平太の「海洋史観」と梅棹忠夫の「生態史観」いうのがある。私の予感としては、黒曜石のロマンと黒潮のロマンを追求していけば、多分、「海洋史観」と「生態史観」を統合する・・・・新しい史観ができていくかも知れない。今西錦司の「棲み分け論」に繋がるところの・・・・「多様体史観」・・・・???? 私は、田辺元の「多様態哲学」にあやかって「多様態史観」と呼びたい気もするのだが、どうであろうか。「種の論理」をもととした歴史観というところか。生物も人間もすべて、その地域の地質や気候や生態系に適応して、仲良く棲み分けて・・・生きていく。世の中はそのように進化しているのではないか。フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」を書いたが、私はやや意見を異にする。ヨーロッパ文明というかアメリカ文明がけっして終わりではないのだ。そのあとに日本文明という歴史がつづくのではないか?

 私はかって、『 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だと言ってきている。「違いを認める」ということは、(中略)「非対称アシンメトリー原理」が働いているということであり、「流動的知性」が働いていることである。「流動的知性」が働いているという点から言えば、「わび・さび文化」と言っても或いは「イキの文化」と言っても、それらは同じことでもある。それが「日本人の感受性」である。 』・・・と書いたが、世界の歴史は「非対称アシンメトリー原理」が働くように動いているのではないか。私にはそう思えてならない。そういう観点から世界の歴史を見る態度、それは「アシンメトリー史観」と言って良いかも知れない。

 

 「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)という本がある。稲田孝司という岡山大学の先生が考古学会起死回生の思いで書かれたロマン溢れる本である。私はこれを片手に「古代社会源流の旅」を始めようとしているのだが、例の「旧石器捏造事件」のあのうっとうしさを吹っ飛ばす・・・すばらしい本である。北海道は白滝の旧石器人たちが、津軽海峡を渡り、どのように日本列島を遊動していったか??? 黒曜石の文化と黒潮の文化がどのようにぶつかりあうのか??? こんなワクワクすることはない。さあ、「黒潮の考古学」を始めよう!

 

栫ノ原型石斧

 

 図は、鹿児島県加世田市から出土する・・・・かの有名な「栫(かこい)ノ原石斧」である。小田静夫の命名による。小田静夫は「黒潮圏の考古学」というすばらしいホームページを持っているので、とりあえずここではそれを紹介しておくこととする。 そのホームページのうち「海上の道の始まり」というページによれば、黒潮文化に関する要点は次のとおりである。すなわち、

 『 約5万年前頃スンダランドの海岸地域に、海洋適応戦略を成功させた新人段階の旧石器人が定着していた。かれらは東南アジア内陸部の熱帯雨林に展開した「礫器文化」に対峙するように、海岸や島嶼部を拠点に「不定形剥片石器文化」を発達させた。おそらく筏(竹か)などの渡航具を使用し、河川・海洋資源を主生業にした漁撈・採集民であった。彼らは、最寒冷期に向う気候変動の過程で生じたスンダランド地域の海進と海退の環境変動に促される形で、黒潮海域を活動の場として、外洋航行にも順応できる「海洋航海民」に成長していったと考えられる。 』

 『 約5万年前頃東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られている。かれらは目視できる島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活している。 』

 『 神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人である。かれらは琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた新人集団と考えられる。種子島の立切、横峯B遺跡(約3万年前)、東京の西之台B、中山谷遺跡(約3万5千年前)で出土した礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。同様な旧石器群は、ベトナム、香港、台湾島などにも分布が認められている。』・・・と。

 

 以上である。その他、このホームページでほとんど重要なことは言い尽くされているので、私などが補足すべきことはほとんどないのであるが、まあそうは言っても、私なりの主張もなくはないので話を続けよう。大事な点は、何と言っても、「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」だ。そこで「栫(かこい)ノ原石斧」がどのように説明されているか、それが大事であって、それが私の「古代社会源流の旅」の具体的な出発点になる。稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」では「栫(かこい)ノ原石斧」を次のように説明されている。すなわち、

『 小田静夫はこの種の石斧を「栫(かこい)ノ原石斧」と呼び、伊豆諸島・南西諸島などの類例とあわせ黒潮との関連を考えた。栫(かこい)ノ原石斧は刃が強く彎曲し基部に突起をもつなど独自の形態を示すけれども、その起源については、丸ノミ形という刃の特徴が共通するから、やはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。』・・・・と。長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する旧石器時代の石器は、もちろん石斧も含むが、北海道白滝の湧別技法の影響を受けつつ・・伊那谷の人びとが作り上げた世界最高の黒曜石加工品である。これと同型の石斧を神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土しているが、九州では大分県犬飼町市ノ久保(いちのくぼ)遺跡で出土しているのは特に注目される。北海道白滝の湧別技法が九州まで影響を与えたことになるし、稲田孝司がいうように、「栫(かこい)ノ原石斧」についてもやはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。黒曜石の文化と黒潮の文化がここでも画期的なぶつかり合いを行なったのではないか?

 

さあ、それでは、黒曜石文化と黒潮文化がどうぶつかり合ったのか、

その辺の状況について、

鹿児島県の遺跡を中心にやや詳しく見ていくことにしようか。

そうしよう!そうしよう!

 

 

 今までの・・

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「中津川の胞衣伝説」から「日光の陰・礼讃」までの一連のページは、

「スピリット(精霊)」に関するものです。

私の以前のテーマに「スピリット(精霊)」の問題であったのです。