御子柴型石斧を訪ねよう!

 

 

 私は、今、黒曜石のロマンと黒潮のロマンを追求していけば、多分、「海洋史観」と「生態史観」を統合する・・・・新しい歴史観ができていくかも知れない・・・そんな予感を持ちながら「古代社会源流の旅」をつづけている。「武家社会源流の旅」がそうであったように、今回の「古代社会源流の旅」もまた家の近くから始めた。

 堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡で学んだ要点は、『 石器時代でも後期旧石器時代というのは3万5000年ほど前から1万2000年ほど前までのおおむね2万3000年ほどの間をいうが、その中間ぐらいの時代、今から2万5000年ほど前に黒曜石が使われはじめる。大変化が起こっているのは、時代でいえば2万5000年ほど前の時代、地層でいえば第、層が形成された時代である。』ということである。

 そして、瀬田遺跡と等々力根遺跡を訪れながら次のように述べた。すなわち、『 かって、私は、「武家社会源流の旅」をこの等々力から出発したのであったが、今回の「古代社会源流の旅」もこの地(瀬田遺跡と等々力根遺跡)から出発するとしよう。この地では、3万年ほど前にはすでに人びとは石器文化をもって結構豊かな生活をしていたのではないか。私はそんな想像をしている。そして5000年ほどが経過し2万5000年前ごろになると、石器文化に急激な変化が起こる。八ヶ岳の大量の黒曜石が持ち込まれナイフ型石器などかなり高度な加工が行なわれるようになる。しかし、まだ湧別技法などという極めて高度な加工技術は日本列島のどこにも始まっていない。そういう画期的な技術革新が始まるのはずっと後のことであるが、2万5000年ほど前に八ヶ岳の黒曜石が関東平野に大量に持ち込まれているということは大変興味のあるできごとだ。八ヶ岳山麓から多摩川にかけての文化圏は、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と呼ばれるが、その源流に八ヶ岳の黒曜石がある。問題は、武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのかということである。』・・・と。

 そして、黒曜石の七不思議のひとつに触れ、次のように述べた。すなわち、『 第1の不思議は「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」・・・ということである。伊豆・箱根や神津島の黒曜石は、実は、相模野台地には結構大量に持ち込まれている。相模野台地の場合も八ヶ岳の黒曜石が大量に持ち込まれている時期もあるのだが、相模野台地の場合はおおむね伊豆・箱根や神津島の黒曜石が卓越している。なのに武蔵野台地には伊豆・箱根や神津島の黒曜石がほとんど持ち込まれていない。これはおそらく武蔵野台地の人びとは伊豆・箱根や神津島と馴染みがなかったからではないか。(中略)「黒潮を渡った黒曜石・・見高段間遺跡」(池谷信之、新泉社、2005年4月)には、伊豆七島付近の海は難所で、これを渡り切ることは大変なことであることが縷々書いてある。そのとおりであろう。私も同じように思う。しかし、旧石器時代からそういう難所を乗り切る航海術があったらしい。海流と風をどう読むか、その技術だ。こういう技術は宇宙との響き合いの中でしか生まれない。黒曜石の湧別技法もそうだ。宇宙を感じ、自然と一体になることだ。そうすればどういう風の時にどういう風にして難しい海流を乗り切るか、自ずと判ってくる・・・というようなものではなかろうか。河津町の段間遺跡が神津島産黒曜石の陸揚げ地と推定されているのは、縄文時代中期のことであるが、私は、それより古くから、河津町、東伊豆町、伊東市、熱海市などには人が住んでおりその中心は熱海ではなかったかと想像している。熱海には古い神社があるからだ。伊豆・箱根の黒曜石も周辺でとれる。想像を逞しく申し上げる。伊豆半島の東海岸には主だったところに、漁業と舟運を専らとする「海の民」があるていど住んでいて、周辺の人たちと交易を行なっていた。その交易を行なっていた人たちのお陰で・・・相模野台地に神津島や伊豆・箱根の黒曜石は持ち込まれた。そのリーダー的な人びとというのは、熱海とか伊豆半島の人びとではなかったか。熱海は摩訶不思議なところである。縄文時代から弥生時代を経て、大和朝廷の東北経営が盛んになると、鎌倉がクローズアップされてくるが、旧石器時代はまだ鎌倉は辺鄙なところであって熱海が中心であった。熱海は実に摩訶不思議なところなのである。ではとりあえず、伊豆山神社を訪れるとしようか。伊豆山神社については、かって「武家社会源流の旅」で紹介したことがあるが、再度ご覧いただきたい。まず「初島」をクリックし、その後に伊豆山神社を訪れて欲しい!なお、伊豆半島や熱海を理解するには伊豆山神社というものをしっかり認識する必要があるし、また伊豆半島や熱海、そして伊豆山神社というものをしっかり認識するには、黒潮というものをきっちり理解しておく必要がある。黒潮についてはここをクリックして欲しい! 』・・・と。

 

  黒曜石の七不思議のひとつ・・・「武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石はなぜ神津島のものでなく八ヶ岳のものなのか?」という疑問については、一応、私なりの答えを申し述べたのだが、もしそうだとしても、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」という次の疑問が湧いてくる。この疑問に答えるためには、どうしても黒潮文化について勉強する必要がある。・・・ということで、いろいろと黒潮文化に関する現在の知見を勉強することとした。

 

 

栫ノ原型石斧

 図は、鹿児島県加世田市から出土する・・・・かの有名な「栫(かこい)ノ原石斧」であるが、これに関連して小田静夫は「黒潮圏の考古学」というすばらしいホームページを持っているので、それを紹介した。 そのホームページのうち「海上の道の始まり」というページによれば、黒潮文化に関する要点は次のとおりである。すなわち、

 『 約5万年前頃スンダランドの海岸地域に、海洋適応戦略を成功させた新人段階の旧石器人が定着していた。かれらは東南アジア内陸部の熱帯雨林に展開した「礫器文化」に対峙するように、海岸や島嶼部を拠点に「不定形剥片石器文化」を発達させた。おそらく筏(竹か)などの渡航具を使用し、河川・海洋資源を主生業にした漁撈・採集民であった。彼らは、最寒冷期に向う気候変動の過程で生じたスンダランド地域の海進と海退の環境変動に促される形で、黒潮海域を活動の場として、外洋航行にも順応できる「海洋航海民」に成長していったと考えられる。 』

 『 約5万年前頃東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られている。かれらは目視できる島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活している。 』・・・と。

 

 

 そして、小田静夫はそのページの中で上の図を示しながら、神津島の発見者について次のように述べている。

『 神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人である。かれらは琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた新人集団と考えられる。種子島の立切、横峯B遺跡(約3万年前)、東京の西之台B、中山谷遺跡(約3万5千年前)で出土した礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。同様な旧石器群は、ベトナム、香港、台湾島などにも分布が認められている。』・・・・と。

 

 なお、黒潮文化の典型として金関丈夫の「八重島群島の古代文化」を紹介したが、ここでは触れない。また、小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)も黒潮文化を勉強するのに書くことのできない本でありその核心部分を紹介したが、ここでは触れない。

 

 要するに、約3万年ほど前に黒潮海流を北上してきた南方モンゴロイドが伊豆半島にも住みついたと考えてよいようである。そして、その人たちが神津島の黒曜石を採取したのではないかと考えられる。上述したが再度申し上げると、河津町の段間遺跡が神津島産黒曜石の陸揚げ地と推定されているのは、縄文時代中期のことであるが、私は、それより古くから、河津町、東伊豆町、伊東市、熱海市などには人が住んでおりその中心は熱海ではなかったかと想像している。熱海には古い神社があるからだ。伊豆・箱根の黒曜石も周辺でとれる。想像を逞しく申し上げる。伊豆半島の東海岸には主だったところに、南方モンゴロイドを起源とする・・・漁業と舟運を専らとする「海の民」があるていど住むようになって、周辺の人たちと交易を行なっていた。その交易を行なっていた人たちのお陰で・・・相模野台地に神津島や伊豆・箱根の黒曜石は持ち込まれた。そのリーダー的な人びとというのは、熱海とか伊豆半島の人びとではなかったか。

 熱海において、黒曜石の文化と黒潮の文化が、わが国でははじめて、画期的なぶつかり合いを行なったのではないか? 私の想像である。北方モンゴロイドの黒曜石文化と南方モンゴロイドの黒潮文化との画期的なぶつかり合いというものがないと、黒潮の複雑な流れを乗り切って神津島の黒曜石が採取されるなどという・・・世界に例のないあのようなものすごいことができる訳がない。

 こういった私の考えの傍証として私は「熱海大越遺跡の黒曜石はどこからきたか・・神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」というページを書いた。その要点は、次のとおりである。すなわち、『 平成5年に武蔵考古学研究所によって詳しい発掘調査が行なわれた結果、ナイフ型石器、台形石器、尖頭器、細石刃、石核など旧石器時代の遺物が多数出土した。今のところ、熱海ではもっとも古い石器で、約2万年前から1万3000年前の石器である。黒曜石も多く含まれていた。報告書「大越遺跡」(平成7年、熱海市教育委員会)により、私なりに整理してみると、黒曜石の原石地は、約360点が畑宿(箱根)、約70点が信州、約60点が神津島である。そして、鍛冶屋(湯河原)19点、柏峠(伊東)14点、湯の花(箱根)17点、その他12点である。圧倒的に伊豆・箱根の黒曜石が多いが、神津島の黒曜石がかなり混じっているのに注目されたい。伊豆の「海の民」は、少なくとも約2万年前から神津島にあの黒潮の激流を渡って黒曜石を採取していたことはまちがいない。』・・・と。

 

 ところで、堤隆一の「黒曜石 3万年の旅」(2004年10月、日本放送出版協会)によれば、『 神津島産黒曜石の最古の利用例は、東京都府中病院敷地内で発掘調査された武蔵野台遺跡ィa文化層にあることが、藁科博士らの蛍光線分析によって明かとなった。9点の分析試料は、和田峠7点、麦草峠1点、神津島1点という産地構成を見せた。立川ローム層下部の武蔵野台地ィ層は、後期旧石器時代初頭にあたり、3万年前をさかのぼる年代が与えられる。さらに神津島から200キロメートルの距離を隔てた内陸部の山梨県横針前久保遺跡からも、後期旧石器時代初頭の局部磨製石斧に伴って、神津島産の黒曜石が確認されている。』・・・とあって、どうも神津島産の黒曜石は、3万年前を遡る頃からあの激流を越えて採取されていたようである。「熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」という新たな疑問が出てくる。これが黒曜石の七不思議の第3番目の不思議である。

 「熱海市歴史年表」(平成9年、熱海市)によれば、大越遺跡から上多賀産の黒曜石が出土しないか期待されながらその期待が裏切られたようなことが書かれている。また、三浦半島の旧石器時代の遺跡には上多賀産の黒曜石が含まれている可能性が示唆されており、どうも上多賀産の黒曜石が旧石器時代にも採取されていたらしい。私の想像では、神津島の黒曜石が採取しはじめられた3万年前頃、上多賀の黒曜石は海岸に露頭していたのではないかと思っている3万年前頃は海面が100mほど低かったので、もし海岸付近に黒曜石の露頭があったとしたらそれはすでに海底に水没してしまっている。さらに私は、上多賀産の露頭だけではなく、それを採取しながら、伊豆半島や伊豆諸島の海岸付近を探索し、黒曜石を捜しまわった「海の民」がいたのではないか・・・・、と考えている。根拠はまったくない。根拠はないのだが、そうでも考えないと、3万年前に神津島の黒曜石が発見され、その採取が頻繁に行なわれたということの説明がつかない。ということで、「熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第3の不思議)に対しては、とりあえず、『 伊豆半島や伊豆諸島の海岸付近を探索し、黒曜石を捜しまわった熱海の「海の民」がいたが、その痕跡は海底に沈んでしまった 』・・・ということにしておこう。 

 

 ところで、「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)という本がある。稲田孝司という岡山大学の先生が考古学会起死回生の思いで書かれたロマン溢れる本である。私はこれを片手に「古代社会源流の旅」を始めようとしているのだが、例の「旧石器捏造事件」のあのうっとうしさを吹っ飛ばす・・・すばらしい本である。北海道は白滝の旧石器人たちが、津軽海峡を渡り、どのように日本列島を遊動していったか??? 黒曜石の文化と黒潮の文化がどのようにぶつかりあうのか??? 稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」では「栫(かこい)ノ原石斧」を次のように説明されている。すなわち、『 小田静夫はこの種の石斧を「栫(かこい)ノ原石斧」と呼び、伊豆諸島・南西諸島などの類例とあわせ黒潮との関連を考えた。栫(かこい)ノ原石斧は刃が強く彎曲し基部に突起をもつなど独自の形態を示すけれども、その起源については、丸ノミ形という刃の特徴が共通するから、やはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。』・・・・と。

 さて、その御子柴型石斧とは、長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する・・・旧石器・縄文移行期の石器である。神子柴遺跡から出土する石器にはもちろん石斧も含むが、全体として、世界最高の黒曜石加工品である。そのうち特に石斧に注目し、それを神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土しているので、私の「古代社会源流の旅」は、今後しばらくそれを中心に、旧石器時代の遺跡や縄文時代の遺跡を旅することになる。

 

御子柴型石斧

 

 図の左一点は、長野県伊那谷の神子柴遺跡から出土した石斧である。長さは21cm、厚さは4cmほどである。右2点は長野県菅平(すがだいら)の唐沢B遺跡から出土した石斧であるが、こういった御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生した。

 

神子柴遺跡の大型石槍

 

 図は、神子柴遺跡から出土した大型の石槍だが、石斧と同様に、世界最高の黒曜石加工品といえる。左は下呂(げろ)石、中央は玉髄、右は黒曜石で作られている。その美しさには目を奪われる。左の長さは25、2cm、厚さは1cmである。

 

 今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。

 長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する旧石器・縄文移行期の石器は、もちろん石斧も含むが、世界最高の黒曜石加工品である。これと同型の石斧を神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土しているが、九州では大分県犬飼町市ノ久保(いちのくぼ)遺跡で出土しているのは特に注目される。北海道白滝の湧別技法が九州まで影響を与えたことになるし、稲田孝司がいうように、「栫(かこい)ノ原石斧」についてもやはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。黒曜石の文化と黒潮の文化がここでも画期的なぶつかり合いを行なったのではないか?

 

 

 白滝黒曜石の湧別川技法を語るには神子柴型石斧を訪ねる旅が必要だ。

私は例のごとくして、近くの遺跡を訪れることからその旅を始めるとしよう。

それではいよいよ月見野遺跡を訪ねるとするか。

そうしよう!そうしよう!