御子柴遺跡の謎




 御子柴型石器について、私は先に次のように述べた。

 「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)という本がある。稲田孝司という岡山大学の先生が考古学会起死回生の思いで書かれたロマン溢れる本である。私はこれを片手に「古代社会源流の旅」を始めようとしているのだが、例の「旧石器捏造事件」のあのうっとうしさを吹っ飛ばす・・・すばらしい本である。北海道は白滝の旧石器人たちが、津軽海峡を渡り、どのように日本列島を遊動していったか??? 黒曜石の文化と黒潮の文化がどのようにぶつかりあうのか??? 稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」では「栫(かこい)ノ原石斧」を次のように説明されている。すなわち、『 小田静夫はこの種の石斧を「栫(かこい)ノ原石斧」と呼び、伊豆諸島・南西諸島などの類例とあわせ黒潮との関連を考えた。栫(かこい)ノ原石斧は刃が強く彎曲し基部に突起をもつなど独自の形態を示すけれども、その起源については、丸ノミ形という刃の特徴が共通するから、やはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。』・・・・と。

 さて、その御子柴型石斧とは、長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する・・・旧石器・縄文移行期の石器である。神子柴遺跡から出土する石器にはもちろん石斧も含むが、全体として、世界最高の黒曜石加工品である。そのうち特に石斧に注目し、それを神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土しているので、私の「古代社会源流の旅」は、今後しばらくそれを中心に、旧石器時代の遺跡や縄文時代の遺跡を旅することになる。

 


御子柴型石斧


 

 図の左一点は、長野県伊那谷の神子柴遺跡から出土した石斧である。長さは21cm、厚さは4cmほどである。右2点は長野県菅平(すがだいら)の唐沢B遺跡から出土した石斧であるが、こういった御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生した。

 


神子柴遺跡の大型石槍


 

 図は、神子柴遺跡から出土した大型の石槍だが、石斧と同様に、世界最高の黒曜石加工品といえる。左は下呂(げろ)石、中央は玉髄、右は黒曜石で作られている。その美しさには目を奪われる。左の長さは25、2cm、厚さは1cmである。

 

 今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。

 長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する旧石器・縄文移行期の石器は、もちろん石斧も含むが、世界最高の黒曜石加工品である。これと同型の石斧を神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土しているが、九州では大分県犬飼町市ノ久保(いちのくぼ)遺跡で出土しているのは特に注目される。北海道白滝の湧別技法が九州まで影響を与えたことになるし、稲田孝司がいうように、「栫(かこい)ノ原石斧」についてもやはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。黒曜石の文化と黒潮の文化がここでも画期的なぶつかり合いを行なったのではないか?



 この世界最高の芸術品とでもいうべき御子柴型石器が最初にどこで作られるようになったのか。この問題について、私はさらに別のところで、次のように述べた。素人だからこそ許される単なる推理である。学問的な価値はまったくない。しかし、「劇場国家にっぽん」を提唱する私としては、学問的な知見を基本としながらも、未知の部分についてはおおいに想像を働かしてシナリオを描くことこそ重要なのである。古代人の生き方や心について、できるだけおおくの人に興味を持ってもらいたいと願うからである。 

 旧石器時代というものは、川に橋が架かっている訳でなし、渡し船がある訳でもない。徒渉するのだ。したがって、私の経験からは、交易のルートとしてはできるだけ川を徒渉しないでいけるルートを選ばなければならない。まあ、水量が多いと渉(わた)れないと思わなければならない。すなわち、大きな川の場合は、川の下流部とか中流部は渉(わた)れないと思わなければならないのだ。人びとの定住が始まり、集落というものができ、川舟が一般的に見られるようになると、頼んで川向こうに渡してもらえばいい。少なくともそれまでは、大きな川の場合は、川の下流部とか中流部は渉(わた)れないと思わなければならないのだ。したがって、今ここで問題にしている旧石器時代においては、野辺山から佐久、小諸、上田、菅平を経て、千曲川と魚野川の合流点、つまり荒屋遺跡まで千曲川の左岸を行ったと思う。そして、それ以北の幹線ルートは、小出から阿賀野川最上流部の尾根筋を通って会津に出たと考えている。そして、会津から米沢、山形、秋田、津軽、或いは仙台や盛岡方面へと向ったのではないか。もちろん、幹線ルートのほかに枝線があった筈である。そういう縄文時代の道のネットワークは、歴史の連続性からいえば、近世まで継続していたのではないか。その中には、上に紹介した「マタギの道」があったと私は考えている。そういう「マタギの道」や縄文時代の道のネットワークを研究すれば、旧石器時代の交易ルートも自ずと明らかになってくるのではないか。しかし、今回ここでは、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏から東北地方に交易に向うには千曲川筋がもっとも基本となったのではないか・・・という点を指摘するにとどめたい。詳しくは、主な遺跡を訪れてから考察することにしよう。

 野辺山が、唯一とはいわないけれど、東北との交易にはもっとも優位な「場所」であったと思う。今回ここでは、皆さんに、そういう考え方もあることさえ知っていただければそれでいい。問題は感覚というか考え方なのである。もし、私のいうことが正しいとすれば、「野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのになぜ神津島の黒曜石が運び込まれ、しかもその野辺山で、神子柴で出土したあのようななまさに芸術品とでもいうべき尖頭器がつくられるようになったのか?」・・・という疑問に答えがでたということになるかもしれない。野辺山は富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏における最大の流通センターであったが故に、世界最高の技術集団である荒屋技法集団と湧別技法集団がともに野辺山に来たのだと思えてならない。それら世界最高の技術集団がやって来てはじめて野辺山は世界最高の尖頭器や石斧をつくることができるようになったのではなかろうか。


 私は、この黒曜石を訪ねる旅で、いくつかの疑問を投げかけ、自分なりの考えを申し述べてきた。その疑問というのは、「武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石はなぜ神津島のものでなく八ヶ岳のものなのか?」、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」、「熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?
」・・・などという疑問であるが、白滝の黒曜石も含め、いずれ最後に、「黒曜石7不思議」なるものを提唱しようかと考えている。この「野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのになぜ神津島の黒曜石が運び込まれ、しかもその野辺山で、神子柴で出土したあのようななまさに芸術品とでもいうべき尖頭器がつくられるようになったのか?」・・・という疑問がその黒曜石7不思議のハイライトであるかもしれない。しかし、実は、御子柴遺跡そのもについて私のもっとも言いたいことがあるのだ。学問的な価値はほとんどないかもしれない。素人が勝手な想像をして・・・と学者の先生におしかりを受けるかもしれない。しかし、これまた、古代人の生き方や心についてできるだけ多くの人に興味を持ってもらいたいと願う想いから、思い切って私の考えを申し述べてみたいと思う。では、そのまえに、御子柴遺跡の性格についてどのような学者の考えがあるか、さっとその勉強をしておきたい。

 まず最初に、紹介しておかなければならないのは、古代学第9巻第3号に掲載された藤沢宗平と林茂樹による「御子柴遺跡・・・第1次発掘調査概報」である。そのなかで、次のように述べられている。

(2) 石器群の出土状況については(第3図参照)墳墓説,祭祀説,デポ説などが提出されているが,現状では,これを決定づける根拠を見出すことはできない。50数箇の定型新鮮な石器が5×3mの楕円状に配列並びに集積されていたこと,石屑が極めて少なかつたことなどからみて,何らかの目的をもつて配置された特殊な遺構であると認められることについては異論がないであろう。



 石槍型尖頭器が集中して出土した事例は, 長野県横倉遺跡,秋田県綴子村,福井県鳴鹿山麓の場合があり,尖頭器の形態としても極めて類似している点興味深いものがある。殊に横倉綴子の場合は尖頭器のみに限られて出土していることは,デポ的な遺構と推察し得るのである。またシベリアのヒン(Хинь)文化に後行するイサーコヴォ(Исаково)期の主要な遺跡であるパナマリェーヴォ(Лономарево)墳墓は,新石器時代初頭と認められているが,細石器を共伴し,中石器的な様相を多分に含んでいる。この埋葬形式には遺体の上に石器を配置する風習が多く認められる。そして尖頭器,石斧または組み合せられた細石器など大型のものは,腹部・胸部に,土器は脚部に,石鏃は脚部先端,もしくはその側部に配置される傾向が認められる。また石器中,局部磨製石斧,尖頭器が本例に類似していることは,興味深いものがある。本遺跡の土質が,動物性有機質を保存するのに適さない点を考慮に入れれば,この出土状況は埋葬形態を推察し得る可能性が濃厚になつてくるのである。
 これらの事例に対して,本例は石器配置が規則性をもつ傾向にあること,楕円形のプランの長軸がほぼ南北方向を指していること,出土層位に僅かながら木炭屑を認め得たこと,出土層位に上層土の混入は全く認められなかつたことなどが確認されており,今名の研究に重要な条件を提示してくれているのである。
 本遺構の性格決定は,前述のようにこれを決定づける根拠が見出されず,その早急な決定は,次に述べる石器の組成および土器共伴存否の問題など本遺跡の文化を把える上に決定的な前提となるので,速断は許されないと思う。よつて本例の示めした事実や条件を前提として爾後の考察をすすめていきたい。
 また,本例の性格決定は,第二次調査において明確に実証されるべきものであつて,これが前述のようにある特殊な遺構であるとするならば,その基盤となるべき生活址的な要素を多分に持つ遺跡が近くに存在することが予想される。この生活址の検出こそ今後の調査における重要な目的の一つであり,その時に始めて本例の性格が決定され得るのである。


 このページの冒頭に紹介した・・・稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)という本は、御子柴型石器に焦点を合わせて一般向けにはすばらしい本である。私はこれを片手に「古代社会源流の旅」を始めているのだが、それには御子柴遺跡について次のように書かれている。

 神子柴文化の遺跡では、しばしば完成された石器ばかりがまとまって出土する。道具類がセットで、しかもあるていどの数がそろって発見される。ところが、石器づくりの石屑はほとんどともなわない。旧石器時代の遺跡では、多数の製品があれば、それの何倍もの石屑が周囲に散らばっているのが普通だから、石器づくりの歴史からいえば、これはかなり特異なあり方なのだ。
 したがって従来、これらはヨーロッパの新石器時代・青銅器時代の類例などからデポとかキャッシュと呼ばれ、交易用の隠匿物資ではないか、などという憶測を生んできた。一つ一つの石器が大型で精巧につくられているうえに、数がまとまるものだから、幻惑されるのである。
 しかし、石器の出土状態や組み合わせを正しく理解すると、特殊な理納や隠匿を想定しなくても、人びとの通常の生活跡の一種とみなして少しもさしつかえないことがわかる。長野県真田町唐沢B遺跡がそのよい例だ。この遺跡は森島稔らが1968年に発掘していたものだが、最近報告書が刊行され、興味深い内容の全貌が明らかになった(千曲川水系古代文化研究所編・発行『唐沢B遺跡』、1998年)。
 唐沢B遺跡は菅平高原スキー場に隣接し、標高1260メートルの高地にある。日本でもっとも標高の高い遺跡の一つだろう。周囲との比高差3メートルほどのなだらかな地形の高まりの頂部に石器が分布していた(図88)。


図88 唐沢B遺跡の発掘調査

長野県唐沢B遺跡は、森島稔らにより1968年に調査された(上)。
御子柴型石器やその他の完成された石器が、
何か意味のありそうな配置で出土した(中・下)。


 石器は、発掘前の採集品を含めても35点のみ。石斧11、尖頭器5、掻器1、削器4、石刃1、剥片11、砥石2という組み合わせだ。石器の大部分が完成品だから、他の場所で製作されたものが当地ヘ持ち込まれたことは明らかだ。このうち20点が径3メートルの範囲内に置かれていた(図89)。


図89 唐沢B遺跡の遺構と遺物の分布

右が唐沢B遺跡の遺構・遺物の全体図。
左は石器が集中した直径3m範囲の拡大図。
右図下方の穴のすぐ左に、焼けた礫を含む炉跡がある。


 3メートルという空間は、たぶんテントの範囲を示すのだろう。よく見ると、その西北側では五か所の石器置き場が半円弧を描いて並ぶ。北東端から西へ順に三か所が石斧と削器、南西端には尖頭器・砥石など8点の石器をまとめて置いてある。五か所はそれぞれ80センチほどの間隔をたもっているから、4点の石斧は柄に装着された状態でそれぞれの所有者の居場所にのこされていたのだろう。五か所の石器置き場に囲まれた中央には、石斧3点と剥片2点のまとまりがある。3点の石斧はいずれも打製のままだ。これから刃部の研磨作業をおこなうために、まとめて置いてあるように見える。ちょうどそこから1メートルほど離れた位置に、胡瓜形の砥石がころがっている。
 テントの南東側のすぐ前に、二つの穴が掘られていた。一つは長径160センチ、深さは140センチもある。底が平坦なので落とし穴のようにみえるが、一つなので用途は不明としておこう。さらにテントから3メートルほど南へ離れたところに四つの重なりあった穴と炉跡がある。炉跡には焼け土があり、赤化した礫がのこされていた。炉の近くに剥片2点があり、またテントのすぐ側には焼けた礫がころがっているから、テントの住人がこの炉を使用していたことは確かなようだ(図90)。


図90 このキャンプでは石器をつくらない

唐沢B遺跡の石器がまとまって出土した場所は、
テントの位置であったろう。
一点ずつ置かれた磨製石斧には柄がつけられ、
所有者の居場所に残されていたのではあるまいか。

御子柴文化の人々は、
キャンプ場でしばしば石器づくりを行わず、
完成石器のみで生活した。


 こうしてみると、石器づくりはしていないけれども、ここが生活の場であったことは疑えない。唐沢B遺跡を念頭においてみると、最初にデポだといわれた長野県神子柴遺跡も、居住跡であることがもっとはっきりする。 ここでは60点余りの完成された石器が長径約6メートル、短径約3メートルの範囲内から発見された。少し大きいが、やはりテントがあったのだろう。テントがあったとすれば、その裾にそって石器をまとめて置いた場所が八か所ほど並ぶ。中央部に炭化物があったということだから、こちらの場合はテントのなかで火を焚いたのかもしれない。
 青森県東北町長者久保遺跡では、神子柴石器群に属する50点の石器・原石が径5メートルの範囲内から発見された。石斧は3点、尖頭器は2点にすぎない。したがって、さすがにこの遺跡をデポという人はいない。けれども、その他の石刃素材の掻器・削器・彫器や23点の石刃そのものを含め、すべての石器は他の場所から持ち込まれたものである。二次加工が施されていない石刃にも明瞭な刃こぼれや磨滅痕がみえ、いずれも道具として使用されている。完成された持ち込み石器で生活する姿は、唐沢B遺跡や神子柴遺跡と少しも変わらない。ここでも径5メートルほどのテントが推定できそうだ。
 ところで長者久保遺跡では、最初の発掘から35年を経た1997年に、地元の青森県郷土館が再発掘をおこなった。その結果、先の遺物集中範囲から6メートルほど離れたところから、黒曜石と頁岩の微細な砕片が76点まとまって発見された(青森県立郷土館編・発行『東北町長者久保遺跡・木造町丸山遺跡』、2000年)。これらの砕片は、石器の仕上げ加工か再加工をおこなう際の石屑である。長者久保出土の上記の石器を加工した石屑であったならば、それらが生きた道具として生活に用いられていた証拠になるはずだ。

 大平山元I遺跡には、付近に産する珪質頁岩を使って確かに石器製作をおこなった証拠がある(図91・92)。


図91 御子柴文化の石刃石器

上段は二つ以上の機能を備えた石器で、
左から順に彫器+掻器、彫器+掻器+削器、掻器+削器。
下段はすべて掻器。
左上の長さは9・5センチ。青森県大平山元1遺跡出土。



図92 御子柴文化の石鏃

石鏃と報告されているが、加工が荒く先端も尖っていないので、
弓矢に用いた矢じりと断定できない。
長さは、左が2・9センチ、右が2・76センチ。
青森県大平山元1遺跡出土。



 石刃石核がのこり、剥離された石刃や剥片の接合資料もある。しかし、谷口康浩らがおこなった1998年の発掘区では、出土した262点の石器・剥片類のうち、当地での石器製作にともなう石屑は多くても160点どまり。「掻器・彫器などの加工具類と石刃・縦長剥片を搬入して、若干のメンテナンス」をおこなうことが主であったという。
 神子柴文化の集団は、完成された石器だけをもって、少なくとも完成品を主とする石器群をもって遊動する場面が多かったらしい。石器製作用の原石・石核ではなく、製品が中心だ。このことは、石器を製作する場と石器を消費する場との分離を意味するだろう。旧石器時代の集団では、遊動しながら石器製作をおこなう、石器を使用しながら遊動する、というのが常態であった。つまり、遊動生活のなかで石器の製作と使用が表裏一体で結びつきながら循環していた。だから、神子柴集団における遊動と石器の製作・使用との関係は、それとは明らかに異質な面をみせている。


 これが稲田孝司の「(御子柴遺跡における)完成石器の集中はデポか居住跡か」という問答の要点である。「御子柴遺跡・・・第1次発掘調査概報」において問題提起された墳墓説と祭祀説について稲田孝司がどのような考えを持っているのかは、私の知る限り、不明であるが、この御子柴遺跡の性格に関する検討は、安斎正人が行った我が国では初めての理論的検討だと思われるので、次に、それを紹介しておきたい。


 
 旧石器社会の構造変化(安斎正人、2003年10月、同成社)の第8章「後期旧石器時代から縄文時代へ・・・御子柴・長者久保石器群の再検討」が安斎正人のもっとも新しい論文であるので、まずはそれを紹介しておこう。

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 旧石器社会の構造変化(安斎正人、2003年10月、同成社)が出版されるほぼ3年前に、八ヶ岳旧石器研究グループ(代表 堤 隆)結成10周年を記念し、新たな考古学的展望を切り拓くため、「人類の適応行動と認知構造」と題して、「野辺山シンポジューム2000」が行われた。その際、安斎正人が「景観と象徴」と題した小論文を発表しているので、次にそれを紹介することとする。この小論文は、安斎正人の基本的考えがよくわかるし、考古学の新たな展望を切り拓く・・・きわめて中身の濃い論文であると思う。

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