御子柴は聖地か

 

その1・・・・・・羽広観音と経ヶ岳・・・・・・

 

 

 

  御子柴遺跡のある御子柴というところはまたとない聖地である。 更新世末期の大きな環境変化と異文化集団との接触という危機に対処するためには、従来の社会秩序をたびたび確認するための祭祀必要になってくるのであって、御子柴遺跡なる「場所」は、よくもこんな場所があったと思われるほどまたとない聖地である。

  前に述べたように、安斎正人は、「泉の上で大猟を祝う祭りが盛大に開かれた。彼らは石器を種類別にまとめて、槍は穂先をそろえて、石刃や石の中に獲物を積み重ねて祝いの歌と踊りが繰り広げられる」・・・・という 林茂樹自身の思いを紹介しているが、それは、安斎正人がそう言う林茂樹の想像にそれなりの魅力を感じていたからであろう。

 

  これも前に述べたが、 安斎正人は、御子柴遺跡のある御子柴というところについて、その聖地性を否定したけれど、その特徴を次のように指摘している。すなわち、

 

  『 御子柴遺跡が残された空間がどのような場所であったかを見ておきたい。遺跡は西の木曽山脈と東の赤石山脈とに挟まれて南北に流れる天竜川の右岸、上位の大泉段丘の東端にある孤立丘の上、海抜713mの平坦面にあり、川面から比高は約60mである。現在、遺跡は指摘されないとそうとはわからない平凡な畑地であるが、調査時の遺跡写真をみると、丘の高まりはよりはっきりしていた。遺跡に立つと、背後に緩やかな斜面の先に木曽谷へと続く権兵衛峠の窪みを挟んで中央アルプスの山々が連なり、全面には眼下の伊那谷の先に南アルプスの連峰が見渡せ、広大に開けた展望である。木曽谷側から峠を越えて伊那谷へと降りてきた人々にとって、段丘先端のこの小丘は格好の目印となった。同様に、諏訪方面から天竜川沿いに南下し、峠を目指して支流の谷を西に向かった人々にとっても、段丘先端のこの丘は最初に目に入る場所であった。

 遺跡を中心とした西およそ60kmの所に下呂石の山地である湯ヶ峰山が、北40kmの所に黒曜石の山地である霧ヶ峰や和田峠があり、さらに北へ20kmで唐沢Bである。信濃川に沿って下流へと向かえば硬質頁岩(けつがん)・珪質凝灰岩質頁岩(玉髄)の産地が想定された日本海沿岸地域である。この地理的配置から想定した集団群の季節的移動と長距離間交換網は図122のとおりである。』・・・と。

 

 

羽広観音の近くから御子柴方面を望む。

 

画面の右側に三峰川の谷が見えるかと思うが、

その向こうに高遠がある。

 

遥か彼方に大きな雲が見えるが、

その付近が千丈岳。

 

 

 

  安斎正人の指摘は、まさに的を得た指摘である。ただ、現地調査をもっと広範囲かつ日数をかけてやっていただければ、もう少し突っ込んだ考察ができた筈でその点が残念だ。

  御子柴遺跡は大清水川沿いの丘にある。その大清水川を遡って、経ヶ岳を目指すと羽広観音に行き着く。現在、羽広観音は経ヶ岳の登山口になっているが、古代の人々も羽広観音のところから経ヶ岳に続く尾根筋に登った筈だ。下呂石の山地は御岳の向こうにあるが、そこに行くためには、まずは御岳を目指して木曽谷に行かねばならない。実は、もっと大きな話として、日本列島を南下するにはどの地域を通ったかという・・・古代の道の問題がある。日本列島を南下するには権兵衛峠を越えるかどうかは別として、経ヶ岳に登って周辺の地形を見ることが不可欠であった。私は、古代の人々は行く先を見定めるために経ヶ岳に登った・・・と考えている。

  集落とともに渡し船が発達し、或は海の航行がそれなりに行われるようになってからは、古代の道というものは徐々に現代のものに近づいてくるのだろうが、少なくとも旧石器時代は、大きな川も日本海も大きな障害になっていた筈であり、日本列島を南下するには、この付近(権兵衛峠又は鳥居峠)を通るしかほかに方法はない。この付近から御岳を目印に木曽谷に出て、御岳を見ながら開田高原を経て下呂に至る。あるいは、木曽川の右岸を付知川合流点まで下り、付知川を遡って舞台峠を経て下呂に至る。下呂からは、飛騨川から馬瀬川を経て郡上八幡に至る。郡上八幡から美濃に出るしか、日本列島を南下する方法はないのであって、そのことをしっかりと頭に入れておいて欲しい。私のいちばん言いたいことはそのことだ。

  再度言う。日本列島を南下するとき、初期の頃、人々は必ず経ヶ岳に登って「土地見」をした筈である。御子柴遺跡のある御子柴というところは、日本のフォッサマグナ沿いに太平洋に出る場合のみならず、日本列島を南下する場合に、必ず通らねばならない・・・そういう「場所」である。しかも、御子柴遺跡のある御子柴というところは、前に述べたように、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の・・・まあ「境界」と言っても良いような「場所」にある。私は前に、『 「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)で稲田孝司が述べている内容とほぼ同じように、私も、湧別技法集団は本州の広範囲に渡って植民・遊動領域を拡げ、御子柴文化を生み出すきっかけを作り、そしてその新たな御子柴文化が九州にまで影響を与えたとすれば、湧別技法集団は、ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と並んで、縄文時代草創期における列島の立派な主人公である。』・・・と述べたが、御子柴文化はまさに「境界」と言っても良いようなこの地から日本列島を南下していったのである。

 

 

 

羽広観音の入り口

 

 

  なお、地元の案内板には、経ヶ岳の由来について、次のように書かれているので、紹介しておくが、これをそのまま鵜呑みにしてはならない。案内板にはこう書いてある。すなわち、

『 昔々の弘仁7年(816)慈覚大師は夢のお告げで信濃に下り、この山の霊木を得て十一面観音像を刻みました。観音像を刻んだ木片に写経し、経塚を作ってそれを納めたところから、以来、この山を「経ヶ岳」と呼ぶようになったのです。その観音様をご本尊として、ふもとの羽広部落に開山したのが仲仙寺の始まりと伝えられ、江戸時代・明治時代には「馬の観音様」として広く信仰を集めました。

経ヶ岳山麓をめぐるハイキングロード、信濃路自然歩道「権兵衛峠ルート」は、この羽広観音が起点です。標高/2296m 』・・・と。

 

  しかし、私は、人々と経ヶ岳のおつきあいは、なにも慈覚大師の頃から始まったのではなく、もっともっと古いものと考えている。慈覚大師が経塚を作ったから経ヶ岳が聖なる山になったのではなく、その逆である。経ヶ岳が古くから聖なる山であったからこそ、慈覚大師は経ヶ岳に経塚を作ったのだ。

 

さあ、それではまずは羽広観音にお参りするとしよう。

 

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残念ながら、まだ私は経ヶ岳に登っていない。

機会を見て是非登ってみたいと思っているが、・・・・。

ここでは人の写真を紹介し、経ヶ岳のイメージを膨らますこととしたい。

 

まずはここをクリックしてください!

 

 

 

LEAD Technologies Inc. V1.01

経ヶ岳頂上付近から見た御岳。

 

 

頂上は木が密集しているため、眺望がきかない。

したがって、良い写真が少ないのだが、

ネットサーフィンをしていたら、すばらしい写真が見つかった。

それをここに紹介しておきたい。

 

 

 

権兵衛峠付近から経ヶ岳を見る。

右が乗鞍岳。左が御岳。

http://walstone.sub.jp/mtwalk/s_kyougt.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

御子柴方面を望む。

この道を下っていくと御子柴である。

 

この道の先、遥か彼方に南アルプスの仙丈ヶ岳が見える。

 

それにしても電柱と電線が邪魔ですね。