神仙的世界の形成について

    大和国吉野郡竜門寺をめぐって

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 はじめに

 

 奈良県中央部にある竜門山地には、白鳳期に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したといわれる竜門寺と呼ばれる寺があったとされる。竜門山地は、大和盆地の南西部、宇陀郡・桜井市・高市郡・御所市と吉野郡が境をなす位置にあり、中世以来の山城として知られる高取城や、そのわずか西の壺阪寺、そして鎌足を祀る談山神社がある多武峰などがその中に含まれている。また、吉代以来、竜在峠、芋ケ峠、壷阪峠、芦原峠など峠越えの諸道が通じてもいる。そして、南側には吉野川が流れ、この山地と南に続く吉野大峰山系との境をなしている。

 この竜門山地は広い意味で吉野と呼ばれる地域に属している。その吉野は人麻呂の吉野讃歌以来、神仙思想の聖地ともいうべき位置づけがなされているが、竜門山地の主峰竜門岳の南にあった竜門寺もまた、奈良、平安峙代、神仙思想の仙境と考えられていた。この土地がなぜそのような扱いを受けるに至ったのかなどの諸間題について、若干の考察を加えることとしたい。

 ところで、この竜門という名称であるが、後に記す発掘調査の結果、竜門寺が竜門の滝を軸にその伽藍を配置していたことが判明し、そのことからも知られるように、その名の起こりは竜門の滝にあると考えられる。この滝は上・中・下の三段に分かれ約二○メートルあまり、深くえぐれた岩の間を水が滑り落ちるというものである。高く垂直な岸壁から一気に水が落ちるという滝ではなく、あえていえば「門」というその名にふさわしい。そうしたこの滝の形状と、山深いあたりのたたずまいから「竜門の滝」と名付けられたものと思われる。

 なお、この当時の貴族社会における神仙思想盛行の様は万葉棄・風土記などをはじめとする文学作品を通して知りうるものばかりではない。新聞報道を通じてではあるが、七世紀末の藤原宮跡の発掘で、不老不死の仙人になるための仙薬として知られていた「王石敬」の原料となる鉱物が発見されたことが伝えられており(注1)、このこと一つを見ても、当時の責族・皇族がこれら神仙思想につよい関心を持っていた様子を知ることが出来る。

 

   一

 

 さて、この寺が仙術修行の場であったことを示している資料には次のようなものがある。まずよく知られているのは、今昔物語集に見られる「久米仙人」の話である。今昔物語集巻十一「久米仙人始造久米寺語第二十四」には、

  今昔、大和国、吉野ノ郡、竜門寺ト去寺有り。寺ニニノ人篭り居テ仙ノ法ヲ行ヒケリ。其仙人ノ名ヲバ、

  一人アヅミト云フ。一人ヲバ久米ト云フ。

とある。まず安曇仙が仙術を体得して昇天し、次に久米仙が空に昇ったものの吉野川で着い女の自いふくらはぎを見、「凡夫ノ愛欲に依リテ、女人二心ヲ穢シテ」並みの人間にもどってしまったというのである。なお、同じ話の中には、この久米仙人が修行していた様が竜門寺の扉に描いてあり、菅原道真が讃の文を書き添えていたという様子が記されている。

 また、同じく今昔物語集巻十三「陽勝修苦行成仙人語第三」には、比叡山で修行していた陽勝という人がつよい道心を起こして仙法を体得し、麒麟・鳳凰のように飛行して、竜門寺の北の峰をにいる姿を目撃された、とある。これら今昔物語集と同様の話は扶桑略記延喜元年八月の条にも見える。

 また、時代は下るが、千載集に見られる能因法師の歌には次のように竜門寺が取り上げられている。

   竜門寺にまうでて仙家に書きつけ侍ける

  葦田鶴に乗りてかよへる宿なれば跡だに人は見え画ぬなりけり

                       (千載集巻一六)

仙人は、鶴に乗って飛行するという話が中国の古典にもあるが、この場合も仙人が鶴に乗って通った家であるので、普通の人々の住んだ形跡すら見えないというのである。

 さらに「伊勢集」には、

「山とに三月ばかりありけるに、りう門といふてらにまうでたりけり。正月十一日ばかりなりけり。このてらのさま は、くものなかよりたきはおつるようにみゆ。山の人(仙人)のいへといふは、いたうとしへて、いはのうえにこけやへむしたり。みしらぬ心ちにいとかなしう、物のみあはれにおぼえて、なみだはたきにおとらず。

   たちぬはぬ きぬきし人もなきものをなにやまひめのぬのさらすらむ」

裁ちもしないし縫いもしない仙人の着物を着る人もいないのに、なぜ山姫は布をさらしているのだろう、と滝を布に見立てたのがこの歌である。なお、この歌は古今和歌集巻一七に「竜門にまうでて、たきのもとにてよめる伊勢」という詞書を付して載せられている。

 

   二

 

 さて、こうして神仙境として位置づけられた竜門寺であるが、その歴史はどこまてさかのぼれるのであろうか。この寺に関する最も古い文学的な資料は、懐風藻に載る葛野王の詩である。

  五言。遊龍門山。一首。

  命駕遊山水。長忘冠冕情。

  安得王喬道。控鶴入蓬瀛

 

  五言、龍門山に遊ぶ一首

  駕を命じて山水に遊び長く忘る冠冕の情

  いづくにか王喬が道を得て鶴を控きて蓬瀛に入らん

(馬車を命じて龍門山の山水に遊び、しばらく高位高宮の身にある煩わしさを忘れたい、この龍門山で王子喬のような仙術を得、鶴に乗って神仙の住む仙山に行きたい)

王の死は慶雲二年(七○五)であるから、それ以前すでにここが神仙的な土地として認識されていたことを知ることが出来る。

 この竜門寺については「昭和二七〜二八年の発掘調査で、塔や金堂跡の礎石が明らかになり、八世紀の瓦も出土した」(注2)とのことであって、「寺の創建年代は吉瓦や塔の規模などから奈良前期と見られ、室町頃まで存続したと考えられる」(注3)とされるから、この葛野王の詩の製作以前に本格的な寺が建設されていた可能性は薄い。そうであれぱ、自鳳期に義淵僧正が建立したという竜門寺縁起の記述はどのように理解すればいいのだろうか。もちろん、何らかの修行場が白鳳期そこに存在していた可能性は一概に否定できないが、寺の建立をその時期に想定することは困難である。だとすれば、この寺の建立の時期が意図的に白鳳期に移されたものと考えるほかない。ならば、その理由は何であろうか。その点で注意されるのは、この寺の創建の目的が「国家の隆泰と藤原氏の栄昌」にあったという、縁起の記述である。この寺が藤原氏と関わりを持つ可能性は、以下のような資料から見て間違いない。今昔物語集巻一二「多武峰の増賀聖人語第二十三」は、表題にある多武峰の聖人の奇行に富んだ生涯を語ったものであるが、その話の最後には自分の死期を知って甥に当たる竜門寺の春久聖人とその弟子たちの前で、碁を打つなどし、思い残すことなく入滅するという記述がある。藤原氏と関わりの深い多武峰は、竜門寺とも関係を持っていたのである。

 また、時代はかなり下るが、平安時代、竜門寺が興福寺の末寺に編入され、興福寺別当が竜門寺別当職を兼ねるようになり、それまで竜門寺領だった竜門郷が同じく興福寺別当の管領するところになっているのも注意される。治安三年一○月藤原道長がここに来ているのも、またそれ以前に、清和上皇・陽成天皇・字多上皇などがこの寺を訪れているのも、そのことと無縁ではないだろう。

 竜門寺はいわゆる仙境であったわけであるが、神仙思想そのものと藤原氏との関係についても若干言及しておきたい。多武峰は先にも記したように、古くから藤原氏と深い関わりを持つ寺院で、鎌足の子定慧が鎌足の墓をここに移して大いに栄え、神仏習合の時代を経て、明治時代に談山神社になっている。この多武峰について、日本書紀斉明ニ年の条に次のような記述がある。

「田身の嶺に周れる垣を冠らしめ、復、嶺の上の両つの槻の樹の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰ふ」

詳細な説明は引用しないが、この観(たかどの)が道教寺院であるといわれているのである(注5)。道教は、中国において神仙思想が展開した結果生じたものであるから、このことをもって藤原氏と神仙思想との有縁な関わりを想定することは不可能ではないであろう。もちろん、斉明夫皇の時代、藤原氏はまだ中臣氏と呼ばれていて、鎌足もまだまだ後のような権威を持ち得てはいなかった。しかし、道観(道教寺院)があるこの地に積極的に関わっていくのは、それなりに道教・神仙思想に対して関心を抱いていたからだと考えるほかない。

 ところで、大阪府高槻市にある阿武山古墳は昭和九年偶然の経過から発掘され、中にあった冠帽などから鎌足の真の墓ではないかとの説のある古墳である。この古墳はその後埋め戻されたのであるが、最近になって当時のX線写真が注目され、再度人々の関心を集めた。その後、この墓にあった髪の毛が分析され、その中から、砒素が発見されたのである(注6)。砒素は中国でも不老長寿の仙薬として服用されており、もしこの墓の主が間違いなく鎌足であるとすれば、鎌足さらには藤原氏の人々の神仙思想への関心の深さを示す一例になるものと思われる。

 また、藤原氏の前身中臣氏は宮廷の祭祀者であったことが知られるのであるが、日本の在来信仰と神仙思想には類似した点があることが、かねてより指摘されていることも、この際注意すべきであろう。横田健一氏は、竜門寺・竜蓋寺など「竜」の名が付く五ケ寺が義淵僧正によって創建されたとの扶桑略記の記述をめぐって、

  およそ、これら竜の字を冠する寺を建立した理由は、おそらく古代の政府にとって、田畑の農作のために必要な雨を祈ることが最も重要な政治であり、そのためには水神の神社に奉幣すると同時に、祈雨のために寺院をつくり「大雲輪請雨経」のような祈雨に呪力のある経典をよませることにあった(注7)

と記している。横田氏はまた別の論文で、詳細な論証過程はここでは省くものの中臣氏の出自について「中臣氏は常陸の鹿島社を奉斎するト部から出て、宮廷の雨師的司祭者として立身したのではないかと推定したい」(注8)と述べており、「祈雨」という点でも竜門寺と藤原氏の関係は深いと思われる。天智天皇紀九年三月の条に「山御井の傍に、諸神の座を敷きて、幣帛を班つ。中臣金連、祝詞を宣る」とあるが、このこともよくいわれるように、中臣氏のもともとの職掌が忘れ去られてはいないられていないことを示す例といえよう。

竜門寺と中臣氏が祈雨という点でつながるとして、祈雨と神仙思想との結びつきはどうであろうか。この点で参考になるのは、先にも取り上げた今昔物語集の久米仙人の話である。女の白いふくらはぎに目を奪われて仙力を失った久米は、高市の郡の都づくりで重い材木を仙人の力で運ぶよう求められ、再び道場での修行を続け、そして八日目の朝、

  俄二空陰り、暗夜ノ如ク也。雷鳴り雨降テ、露物不見エ。是ヲ怪ビ思フ間、暫計有テ雷止リ空晴レヌ。

そして、その後久米の力によって大小の材木が工事現場に飛んでくるのである。この話が直接的に、雷をおこし雨を降らせる仙人の能力について語ろうとしているわけではないが、当時仙人にはそうした能力があると考えられていたのは事実であろう。藤原氏の前身中臣氏は、仙術への関心を高めつつあった一般の貴族以上に、それに注目せざるえない立場にあったのである。

 以上のようなことを確認しつつも、では竜門寺自体はなぜ神仙思想と結びつけられたのかという問題にも答えを出さなければならない。「龍門」といえば、後漢書などに見られる有名な急流の名でもある。この龍門は黄河の上流にあって、鯉がこれを登ればたちまち龍に化すといわれるものである。その名の類似から、龍門山にある龍門の滝も、この龍門と同様のものと考えられるに至ったのではないか。そして、日本の貴族社会に神仙思想が広まるのにあわせて、鯉ではなく人間が、仙術を修めて昇天する場所であるとの認識が広まっていったのだと思われる。

 こうして、中臣(藤原)氏、竜門寺、祈雨、神仙思想という当面のキーワードが、すべてそれぞれに結びつくことなったのである。

 

  三

 

 では、先の問いに戻って、なぜ竜門寺の創建は白鳳期にまでさかのぼることになったのか。そのことを、同じく神仙思想の聖地とされる吉野と、竜門寺との違いを確認する中から考えてみたい。なお、この場合の吉野は宮竜を中心とした、いわば狭義の吉野を指している。吉野は柿本人麻呂の長歌をはじめとする宮廷歌人たちの歌に、神々しく、清らかで、精霊たちに満ち、そして永遠に絶えることなく官人たちの訪れる場所として描かれている。そこには豊かな生命力が湛えられ、いわば完成された理想郷としてのイメージに彩られている。こうした吉野の性格は、大海人皇子が近江大津宮を逃れてこの土地に足を踏み入れ、そしてこの土地から壬申の乱の闘いに出発し、その後天武天皇によって諸皇子や皇后を含めた吉野の盟約が交わされ、さらには天式亡き後もその妻持統天皇が繰り返し訪れて、しだいに形成されていったものである。

 これに比べると、同しく仙境とはいいながら、竜門寺の性格は著しく異なっている。そこは修行によって昇天する道場であり、国家的な重要性をになって充分なる雨がもたらされるよう祈る場所なのである。その竜門寺に比し、吉野には文芸的・観念的な側面がつよく、どちかといえば天の羽衣伝説や、浦島伝説などのイメージにつながっている。今昔物語集の久米仙人は、「吉野」の若い女の自いふくらはぎを見て、空中から落下するのであるが、女のいる場所が吉野であるのを偶然と見ることは出来ない。羽衣伝説にも見られるように文芸的・観念的な仙境には美しい女の存在がふさわしく、それらを通じてある種享楽的なロマンの世界が形成されているのである。そして、久米仙人は竜門寺で修行して、吉野で落下する。このように考えてみると、完成された理想郷としての吉野と、実践的・修道的な竜門寺の性格の違い(注9)は、ある意味では対立的であるとすらいいうるのではないだろうか。観点を変えればその関係を相互補完的と考えることも可能であろう。

 こうした吉野と竜門寺の関係は、実は、皇室と藤原氏との関係に重なり、だぶるところがあるのではないか。天智天皇と鎌足以来、藤原氏が具体的な政務を担い、天皇や皇族がその上に君臨するという、いわば天皇と藤原氏による共治の体制が例外的な時期をはさみつつも続いたことは、よく知られている通りである。そして、実際的な政務を遂行する藤原氏はそれにふさわしい竜門寺を、全的な権威として君臨する天皇家は吉野を、それぞれの聖地として所有していたのではないか。藤原氏と天皇家の関係が、藤原氏の側から見て、並び立つようなものとして意識されたとすれば、竜門寺の建立の時期をあえて吉野が聖地として完成していく自鳳期に求め、それをより権威づけたいという誘惑にかられることもまた理解出来るのではないか。この場合、竜門寺の権威が高まることは、自らの権威を高めることにもつながるのである。こうしたことは、政治が政治そのものとして独立しておらず、信仰や思想と不可分に結びついている社会だから起こり得ることなのである。

 

  おわりに

 

 神仙思想に関係する土地は全国様々なところにある。今回は、吉野の竜門寺を通じて、藤原氏がつよく関わりつつ、そこが仙境となるに至る道筋を確かめた。また、その検討を通じて天皇家に対する藤原氏の側の意識とでもいうべきものの一端をも確認できたと思う。

 

 

注1  読売新聞タ刊一九八八年二月八日

注2  大安隆氏 『芭蕉大和路』 和泉書院

注3  『奈良県史』6寺院 名著出版

注4  『角川日本地名大事典』

注5  福永光司氏他『日本の道教遣跡』 朝日新間社

注6  朝日新間朝刊 一九八九年一二月一三日

注7  横田健一氏 「義淵僧正とその時代」 『橿原考吉学研究所論集第五』

注8  横田健一氏 「中臣氏とト部」 『日本古代神話と氏族伝承』

注9  本文中とくに使い分けてはいないが、吉野を聖地と呼び、竜門寺を仙境と呼ぶのが感覚的に合うの    は、このあたりのことと関係しているのであろうか。