(平成16年11月14日)

今までのWhatsNew

 

 

天皇について思うこと・・それは「空」!  註:空の天皇

世界の王・聖杯  註:和のスピリット

天台哲学と魔多羅神  註:和のスピリット

後戸に立つ食人王・摩多羅(またら)神  註:和のスピリット

日光の陰・礼讃  註:和のスピリット  註:私の旅

緑したたる金春禅竹  註:和のスピリット

ヨーロッパの胞衣(えな)信仰  註:和のスピリット

須玉町歴史博物館  註:和のスピリット  註:私の旅

富士見町・井戸尻遺跡  註:和のスピリット  註:私の旅

柳田国男と胞衣(えな)信仰  註:和のスピリット

胞衣(えな)信仰  註:和のスピリット  註:私の旅

奇跡の書  註:和のスピリット

謎の宿神  註:和のスピリット

宮坂宥洪の流動的知性  註:流動的知性

呉善花(お・そんふぁ)の流動的知性  註:流動的知性

自力本願  註:流動的知性

 

河童に夢を託す  註:河童大明神

交流の「場」  註:juu-net

「講」のすすめ  註:juu-net

公共財管理と地域の人びと  註:地域づくり

ビジター産業のすすめ  註:地域づくり

[No2]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 2、宿神(シュクジン)  註:流動的知性

中津川の胞衣(えな)伝説  註:私の旅

[No1]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 1、藤原成通(なりみち)  註:流動的知性

和のスピリット  註:和のスピリット  

淳仁天皇の怨霊  註:空の天皇

空の天皇  註:空の天皇

流動的知性とは  註:流動的知性

流動的知性 偉大なるクラウンマザー  註:流動的知性

流動的知性にもとづいて  註:流動的知性

あるべきようわ  註:流動的知性

 

 

註:平成16年6月までのWhatsNew

 

註:上記の各ページは、註書きに記したように、流動的知性、和のスプリット、空の天皇、地域づくり、JUUUーNET、私の旅、河童大明神のいずれかに収納してあります。 御確認下さい!


 

天皇について思うこと・・それは「空」!

 

 

 以上、中沢新一著「精霊の王」の勉強を終わって、今、思うことは、「空」ということである。私は、国家の統治構造のあるべき姿を「中空均衡構造」と言っているのだが、ここにも「空」という文字が含まれている。そしてまた、このリニューアルされた新しいホームページ「劇場国家にっぽん」では、「空の天皇」というテーマを掲げた。

 中沢新一は「空」を「力の充溢した空間」と言っているが、「空」という言葉を使うときは、否定的な「空」つまり「無」なのか、肯定的な「空」つまり「有」なのか、そこはきっちり意識しておかなければならない。

 私は、多分、中沢新一とはちがって、天皇というものを少なくとも理想的には肯定的な「空」と考えている。何もないときは無力というか普通に見えるけれど、いざ国の危機存亡というときはそれを乗り越える力を発揮する・・・そういう存在を天皇の理想像としているのだが、はたして私が「空の天皇」というとき、そういう意図が透けて見えるだろうか。いつに「空」の概念にかかっている。「空」の概念が国民の間にどの程度定着しているかにかかっている。

 

 さて、私は、この一連の勉強のうち、第一章において次のように述べた。

 『 私は、かって、中沢新一の「モノとの同盟」という考えを紹介し、その中で、「モノ」と「タマ」についても勉強をした。上の文章では、「空」は「力の充溢した空間」と言っているが、これはまさに「タマ」そのものではないか。私たちは、仏教哲理に弱いし、「空」の概念を身につけていない。何となしに判ったようで判らない・・・そんな感じだと思うが、「翁」つまり「宿神」を理解するには、まずは「空」の概念を身につけることがいちばん大事なことかもしれない。「空」は何も無い空間ではない。何も無いように見えるけれど、実は、「力の充溢した空間」なのである。ここがいちばん肝心なところである。

 このようにお考えいただければいいかもしれない。プラスの電子とマイナスの電子が一杯充満しているとしよう。外見上プラスマイナス0、すなわち「空」であっても、その空間には電子は充溢している。だから、その内包空間から多くの電子が外へ飛び出すこともある。その電子が外に飛び出し、何らかの不可思議な形を作ろうとしている・・・・その様子が「翁」であり「宿神」である。 』・・・・と。

 

 プラスは「陽」であり、マイナスは「陰」である。ものごとはすべて「陽」か「陰」である。善があれば悪がある。美があれば醜がある。二元論で理解するのがわかりやすいのだが、実は、真実はそうではないらしい。善であり悪である。善でもないし悪でもない。二元論であるあるテーゼを肯定したのち、それを否定して、最初のテーゼとはまったく逆のアンチテーゼを考え、さらにそれも否定して、テーゼとアンチテーゼを新たに統合するというかアウフヘーベンして、ジンテーゼをつくり出すやり方は弁証法。そういう弁証法的な思考方法を、私は、禅語の一部を引用して「両頭截断」といっている。

 禅では、よく「馬鹿になれ」とか「幼児のごとく」とかいう。これも弁証法的な思考法であり、大いに勉強をして賢くならなければならないのだが、さらに進歩すればその利口さが見えなくなって、馬鹿のように見えたり幼児のように見えたりする。私は、馬鹿に見えたり幼児のように見たりするようでは、まだ修練が足りないのだと思う。普通がいい。「空」は、普通にしか見えないが、普通ではない。利口でもあり馬鹿でもある。利口の要素はいっぱいあるし馬鹿の要素もいっぱいある。そこは臨機応変。利口にならなければならないときは利口になる。馬鹿にならなければならないときは馬鹿になる。臨機応変である。ものすごい力を発揮すべきときはものすごい力を発揮するのである。そういう人がいちばん偉いのだと思う。利口そうに見える人はあまりたいした人ではないのではないか。「空」とは利口の要素がないのではない。利口の要素はいっぱいある。一方、馬鹿の要素もいっぱいあって、利口か馬鹿か判らない。利口か馬鹿か判らないが、そこは臨機応変、利口でなければならないときは、誰にも負けない利口さが発揮される。「空」から利口がいっぱい飛び出してくるのだ。「空」は「力の充溢した空間」なのである。

 

 私は先に、国の統治構造に関連して、中空均衡構造ということをいったが、天皇は「空」であることが望ましい。禅風にいえば、天皇は馬鹿のようになることが望ましいし、幼児のようになることが望ましい。天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴、そしてわが国民の象徴である。したがってわが国国民の統合の象徴である。天皇は、何にもない空ではなく、何でもある「空」でなければならないが、それも国民次第である。「力の源泉」としての「空」であることが望ましいが、それも国民次第である。

 

 中沢新一は、「主権者」に関連して、次のようにいう。

 『 正統なる「主権者」を、現実の権力者たちの間を廻って探し求めるのは無駄なことだ。そうした「主権者」たちは、国家が出現して以来、地上を支配し続けてきたが、彼らのすべてが偽物なのだ。世界をなりたたせている「力の源泉」の秘密を知っている者は、そこにはいない。歴史のゴミ捨て場、記憶の埋葬場にこそ、それはいまもいる。』・・・と。

 あるいは、

 『 古代の王たちから現代のグローバル資本主義にいたるまで、偽の「主権者」たちによってつくりあげられてきた歴史を終わらせ、国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界について、もっとも正しいヴィジョンを抱きうるものは、諸宗教の神ではなく、長いこと歴史の大地に埋葬され、隠されてきた、この「世界の王」をおいて、ほかにはない。』・・・と。

 

 中沢新一が言っている上記の文中、偽の「主権者」という言葉があるが、これは天皇を含めて言っているのだと思う。この点につき、私は、さすがの中沢新一にも何か思い違いがあるように思われ、残念である。

 私の考えでは、天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であり、「世界の王」である必要はまったくない。「力の源泉」に満ちている必要はない。それが望ましい姿だとしても、そうなるかならないかは国民次第である。つまり、そこに「力の源泉」があろうがなかろうが、天皇は天皇なのだ。そこに「宿神」が祀られていようがいなかろうが、天皇は天皇である。

 わが国の民が、一人でも多く「宿神」を祀り、一人でも多く「力の源泉」に深い祈りを捧げることは、これからの世界平和にとって極めて大事なことである。しかし、そのことは自ずと天皇に反映することであって、天皇がこうでなければならないとか、ああでなければならないとか、そういうことではない。私たち国民が「歴史と伝統・文化」を生きている以上、天皇はそのままで天皇である。天皇は、私たち国民の象徴なのだから・・・・。

 

 

それでは、「空」を「力の充溢した空間」であるという

仏教哲理について少々勉強しておきたい。

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精霊の王/中沢新一  エピローグ 

世界の王・聖杯

 

 

 『明宿集』の中のとりわけ印象的な一節で、金春禅竹は猿楽の「翁」は北極星であり、それゆえ「王のなかの王」であると述べている。この文章を読んで、私は不思議な共鳴現象に驚くのである。

 

 フランス十二世紀後半の作家クレチアン・ド・トロアの書いた有名な『ぺルスヴァルまたは聖杯の物語』は、・・・古いケルトの伝承であるアーサー王と円卓の騎士の物語と、これも古い起源を持つキリストの聖杯をめぐる伝承とを・・・ひとつに結びあわせて、長く人々の心を虜にするすばらしい物語を書いた。

 アーサー王はブリテン島を拠点にするケルト族の王であり、この島に侵入を試みるサクソン人と果敢に戦ったことで知られる実在の王である。この王は城を構えず、いつも天幕を王宮にして、移動しながら統治をおこなっていたと言われる。彼のまわりにはガラハド卿やぺルスヴァル卿をはじめとする、十二人の忠実な騎士たちがいて、大きな石でできた円卓を囲んで座り、おたがいの忠誠を誓っていた。

 この円卓の騎士の一人ぺルスヴァル卿が、聖杯探究の物語の主人公である。

 古いヨーロッバの伝承によれば、十字架上のキリストの血を受けた杯であるこの聖杯は、その後アリマタヤのヨセフという人物によってひそかにエルサレムから持ち出され、マルセイユを経由してヨーロッパに持ち込まれたあと、すぐに行方が分からなくなってしまった。一説にはケルト世界に運ばれて、そこで秘密裏に保管されてきたという。

 この聖杯について適切な質問をおこない、正しい理解をもった者があらわれるとき、大地には水と緑と生命力がみちあふれ、あらゆる病気は癒されていく。聖杯は現実の世界から隠された「力の源泉」をあらわしているのである。

 

 この物語は、つぎのニつの点で私の興味を強くひく。まず、アーサー王という人物そのものが、熊との深い結びつきを持っている点である。現代の神話学者フィリップ・ヴァルテルの研究(『アーサーまたは熊と王』など)によると、アーサー王のイメージには「熊のジャン王」というケルト伝承圏での原型があり、多くの点でアーサー王と森の王である熊は深い結びつきを持っている。そして天空を見上げるとそこには大熊座(北斗七星)と北極星がある。英語圏でいう「アーサー」はフランス語圏では「アルチュール Arthur」であるが、この言葉はもともと「熊」を意味するケルト諸語に由来している(例、ブルトン語arzh、ガリア語artos、ウェールズ語arth)。これが変化してArthurとなったのである。こうして、アーサー王、熊、北極星は、神話的思考において、ひとつの体系をなしていることがわかる。

 北方世界における熊の存在を考えてみるとき、アーサー王の名前にはきわめて重大な意味が隠されている。その世界で熊は偉大な「森の王」であったからである。

 力(主権)の源泉は人間の世界にはなく、人間の力を越えた自然の中に潜んでいるものだと考えられていたが、熊こそがそのような「超越的な主権」の体現者にほかならない、と考えられていたのだ。天体においては大熊座とその中心である北極星が、「天上の熊」とみなされていた。しかも北極星は動かない。すべての天体が、この星を中心に廻る。人間の世界の外、そして人間の手の届かない遠い所あるいは次元の違う領域に、真実の意味で世界を司っている存在がいる。まさに熊こそは、北方世界における「世界の王」だったのである。

 神話的な熊としてのアーサー王は、そこから神秘的な力を得ていたのである。アーサー王は、現実の世界の権力者たちと同列にならぶ王ではないことが、そこには暗示されているからだ。世俗の王たちは、王権やその象徴(レガリア)のまわりに組織された空間に、王の主権は実在すると信じている。つまり、王の権力の源泉が人間の世界にくり込まれている、あるいは、王権は天上界の神から人間にもたらされたと考える。ところが、そのような「天上界」は人間の幻想に所属しているものであって、結局はそういうやり方で人間の世界の内部にくり込まれてしまっている。

 ところがアーサー王は「世界の王」でありながら、人間の王を越えている。この王の「超越的主権」のあり場所は、国家を持たない北方の狩猟民にとってと同じように、人間の世界の外、自然の内奥にひそんでいると考えられている。神話的な熊であるアーサー王は、人間の世界に二次的な王、偽の王たちが出現してくる以前の、真実の「主権」のあり方をあらわしている。つまり、彼こそが二次的な王たちの出現と同時に見えない存在となってしまう「王のなかの王」であり、真実の「世界の王」としてこの世界のどこにもない空間を、天幕の王宮と一緒にたえまなく移動しつつある存在なのである。

 

 したがって、クレチアン・ド・トロアの出現を待つまでもなく、アーサー王と聖杯の伝説は結びつくべくして結びつく因縁を持っていたと言えるだろう。「カイサルのものはカイサルに、神のものは神に返しなさい」と語ったキリストの血を受けたその杯には、どのような意味であれ人間の世界に持ち込まれた「主権」を承認しなかったお方の思想が、深く染み込んでいる。聖杯は、地上のあらゆる権力の正当性ならびに正統性を否定する思想をはらんでいるのだ。

 聖杯こそが真実の力の源泉なのである。そこには大地を潤し病を癒す無限の豊穣力が宿り、それに触れた者は地上の権力者たちを超越した、真実の「世界の王」となる資格を得ることになるだろう。しかし、この聖杯は人の目に触れることのない異空間に隠されてしまった。偽りの力が世界を支配し、その力のまき散らす虚偽によってすっかり目を眩まされてしまった人々には、けっして見ることも触れることもできない異空間に、聖杯は隠れてしまったのだ。そこに入り込んでいける資格を持った者は、人間の世界を支配する力への欲望や嫉妬や愚かさから自由になれた、アデプト(精神の達成者)でなければならない。つまり、精神の探求における真実の「騎士」でなければ、聖杯に近づくことは許されない。

 アーサー王伝説と聖杯伝説は、このようにはじめから内密のつながりを持っていたわけである。北極星、熊、聖杯は、いずれも人間の世界の外にある「超越的主権」のあり方を象徴している。そこに、移動する天幕を王宮として、世界に堕落をもたらす外敵の侵入と戦う王の姿や、失われた聖杯城を求めてあくなき探求を続ける気高い騎士のイメージが引き寄せられて、ペルスヴァル(パルシファル)の物語が誕生した。

 この物語を、中世ヨーロッパにおける「主権」思想の新しい表現として、とらえ直してみることができる。そこには「ケルト」によって象徴される国家を持たなかった人々が抱いていた、「主権」をめぐる思想の復活が試みられているとも言うことができるだろうが、それが十二〜十三世紀という資本主義の勃興期に生まれたということには、何か大きな意味が隠されているような気がする。

 

 

さあ、次はいよいよ「力の源泉」の秘密へ!

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天台哲学と魔多羅神

 

 

註:以下は、中沢新一の「精霊の王」<第六章 後戸に立つ食人王・本覚論と魔多羅神>からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

 私は「自力本願」というエッセイの中で、中沢新一の宗教についての考え方を紹介しながら、次のように述べた。

 『スピリットに帰れ!流動的知性に帰れ!・・・という訳だ。私たちは、[超越性]の領域に入っていければ、心の野を開くことができ、野生状態の心を取り戻すことができる。そして、イキイキと躍動するスピリットたちをはっきりと見ることができる。問題は、どうすれば[超越性]の領域、それは[無]の領域とか[トワイライトゾーン]と言ったほうが一般には判りやすいのかもしれないが、そういう[超越性]の領域に入っていけるかということである。私は、[両頭截断]とよく言うが、物質文明か精神文化とか、右か左かとか、白か黒かとかそういう相対的に相異なる違いというものを乗り越えてというか、そういう二元論的なもののこだわるということのない、まあ言うなれば[中空]領域というか[無]の領域に入っていけるかということである。その方法ははっきりしているのではないか。』・・・・と。つまり、これからの世界は、キリスト教原理主義のような二元論的な思想ではもはややっていけないのであって、日本仏教のような一元論的な思想を必要としているのではないか・・・ということだ。日本仏教における一元論的な思想は必ずしも本覚論だけではないが、中沢新一は、もっともラジカルなものとして本覚論を取り上げている。

 一元論的な思想で大事なことは、以下に紹介する天台哲学のように、対極にあるどちらも取り込み、主たるものの対極にあるものも同時に大切にするということである。それでは、以下において、中沢新一の考えを紹介しよう。

 

 

 どうして本覚論のようなラジカルな一元論の哲学が、摩多羅神に凝縮されている古代的ないし新石器的思考を呼び寄せることになったのか。

 

 それでは、そのことを理解するため、本覚論の思考そのものの内部に立ち入ってみることにしよう。

 本覚論の思考の特徴は、つぎのような文章にあからさまである。この文章は本覚論の思想が形成される過程でとても大きな働きをした、『天台法華宗牛頭法門要纂(てんだいほつけしゆうごずほうもんようさん)』(伝最澄作)という書物に載せられている。

 

 

第五 煩悩を一時に断滅すること

 

 真理の前に頭を垂れて、いっさいのおごりたかぶりを捨てて思慮してみると、生と死という二つの存在のあり方は、唯一無二の存在である「心」というもののしめす霊妙な働きであり、また有と無なる二つの存在のあり方は、人間にもともと備わった覚知性(本覚)の属性そのものだと言うことがわかる。その理由は、「心」はほんらい過去も未来もない時間性を超越した純粋な働きであり、「たましい(神)」というものはこの宇宙をあまねく埋め尽くしている存在の理法のことを、いいあらわそうとしているからである。このように考えれば、この世に生まれたからと云って、なにかがやって来たわけでもなく、死ぬからと云ってどこかへ去っていくわけでもない。過去・現在・未来という時間性を超越している「心」は、ほんらい潜在的なものであるが、これに現実化の作用がほどこされるとき、「心」は六つの知覚能力をそなえた具体的人間として生まれるのである。これをわれわれは仮に「生」と名付けている。存在の世界の理法である「たましい」に、空の働きが及ぶとき、五陰(ごおん)(色受想行識)で構成された現実的身体は、滅びていくことになる。これをわれわれは「死」の現実と呼んでいる。このように真実のリアルとは、「無来の妙来(なにもやって来ないようにしてやって来ること)」であり、「無生の真生(しんせい)(生まれないようにて真実に生まれていること)」であり、「無去の円去(えんきよ)(去らないようにして完全に去っていること)」であり、「無死の大死(だいし)(死なずして大いなる死のうちにあること)」にほかならない。生と死は一体である。有と空は同じものである。このように知り、このように認識するとき、はじめて自らの「心」の中にある仏生が顕れるようになり、生きるも死ぬも自在となる。

 六道(ろくどう)を生きる衆生のなんと哀れであることか。現実の迷いの世界を生きる三界の凡夫のなんと悲しいことか。いったん生まれたと云っても、無意識の欲望のままに生きて、生というものの真実を知らない。いずれ死んでいくのであるが、死の意味を知らないまま、むなしく死んでいくのである。唯一である「心」のしめす霊妙なる働きとしての生死は、無始無終(起源もなければ終末もない)として、常にここにあって働き続けている。こういう「心」に立ってみれば、死ねば生前のカルマが消えてしまうという考え(断見)が誤りであることがわかり、また自我が永久に続いていくという考え(常見)の誤りであることも知られる。死ねばなにもなくなってしまうのであれば、救済すべき衆生も存在しない。またもしも自我が永久に持続するのなら、涅槃(ニルヴアーナ)の大楽もないことになる。

 だから諸君は、生死に住んではいけないのである。生死の現実に無自覚なまま住むと、どうしても輪廻の苦を受けることになるが、これはまったく耐え難いことになる。またその反対に、生死を離れようとしてもいけない。自殺して解放が得られると考えるならば、それは断見の誤りに陥っているといわざるを得ない。諸君はすみやかに、唯一の「心」というものを認識して、断と常との誤りから逃れなければならない。誤った見解を捨て、まちがった修行法がもたらしてしまったものを癒さなければならない。これが生死に自在な真実の生き方であり、死に臨んでもうろたえることなく、仏を念じて心静かに死を待つ状態を実現する方法である。行者諸君、どうかこのところをよく思索して、生死を怖れない心を養ってくれたまえ。(『天台本覚論(日本思想大系9)』)

 

 ここにはきわめて大胆な思考が展開されている。インドに生まれた仏教は、二元論の思考を深層にセットしてあることによって動く、思想の体系である。それははじめ煩悩の世界から離脱するブッダの行為に出発する思想として、煩悩と悟りの間には厳密な区別が立てられ、煩悩を断つ修行によって、生死自在な悟りの境地が得られるものだと、考えたのである。現世への否定が、そのような思考を突き動かしている。ところが、日本に展開した天台本覚論においては、仏教の体系を支えている二元論の結構を解体に導いていくような、大胆な一元論的思考が活発な活動をはじめたのだった。

 伝統的な仏教は、煩悩と悟りの二元論から出発する。しかし、その区別がいったいどこに発生しているかと言えば、いかなる概念作用もおこっていない純粋清浄な「一心(唯一の心)」の上にほかならないではないか、と本覚論は考えはじめた。「一心」は有でも無でもない。知覚がもたらす情報から、思考は有と無の区別をつくりだす。ところが「一心」にはそのような区別が立てられない。知覚を動かしているのがその「一心」であり、そのようなものとして「一心」は有や無を超えているのである。

 この「一心」が霊妙きわまりない働きをおこすとき、生と死と呼ばれる現実がおこる。物質の元素をひとつに集合していく現実化の妙用がこの「一心」に働けば、身体や神経組織や脳の組織がつくりだされて、そこに具体的な人間が生まれてくるのだが、これを解体させていく空の力が働くと、死と呼ばれる現実が人に訪れることになる。しかし、その生も死も、同じひとつの「一心」が自己変転してあらわれた現実の二つの様態にほかならない。だから、生まれたといっても、それでなにかが世界に増えたわけでもないし、死んだといってもなにかが去ってしまったわけでもない。「一心」は、来ることもないし、去ることもなく、常にここにあって、妙用をなしている。日常凡俗のこの現実世界の中で、それは常に働いている。いや、日常凡俗がそのまま「一心」として、常に私たちの前にあらわれて、妙用をおこなっている。そうなると、修行をして現世を離脱することが重要なのではなく、たとえ修行などをしなくともすでに悟りは常にここに働いていると認識することが、真実の修行だということになるではないか。

 

 本覚論の思考方法は、だいたいこういうものである。仏教の修行を中心とした体系を支えてきた、深層の二元論がここでは解体されてしまっている。この思考法を徹底すれば、修行には意味がないことを知るのが修行であることになり、煩悩の世界を離脱することには意味がなく、煩悩のまっただなかに生きていながら、それが純粋清浄な「一心」の霊妙な働きであることを認識している生き方を実現してみせることこそが、真実の出家だということになっていく。本覚論はいわば「知」の極限まで接近していって、そこで「知」の体系を支えている土台を解体して、「知」でも「無知」でもない、「非知」の領域へ飛び込んでいけと、教えようとしていたのだった。

 まさにこの場所である。この場所において、本覚論は摩多羅神を招き寄せることになったのである。仏教は、ラジカルな二元論を深層にセットしてあることによって、自分をふつうの世間知とは違う、大きな体系として組み立ててきたのであるが、この二元論が「一心」による一元論につくりかえられていくとき、仏教という「知」の体系性は解体して、そこから普遍的な「人類の思考」というものが、大きく浮上してくることになる。「知」の体系性の背後に、ぽっかりと暗い「後戸」の空間が広がり、そこから新石器的な「野生の思考」の妙用が出現し、人類の普遍的な思考の「大地」と仏教という「知」の体系とが、この場所でひとつに溶け出そうとしている。

 

 

 それにしても、本覚論が展開したラジカルな一元論の試みがなかったとしたら、こんなふうな神々の集合はおこらなかったような気がする。天台本覚論をひとつの哲学の試みとしてみると、そこでは物質と精神、大地と天、フィジックとメタフィジック、肉体と意識などを、一串で貫くことのできる全体的な思考の探究がおこなわれていた、と見ることができる。それによって、二元論をドライブとして駆動する仏教という伝統的な思考の体系は、解体の方向に向かわされていくことになったが、そのおかげで、仏教の「知」の体系と、縄文時代以来この列島上で生まれ成長をとげてきた「大地の神々」をめぐる思考とが、ひとつに結びあわされていくことも、おこったのだ。日本の中世を彩る多彩な思考の展開は、「知」の体系と「大地」的なもののおこなう非知的思考との結合の結果として、生み出されている。一元論思考の活躍が、それを可能にした。中世思想の面白さと言えば、ひとえにそのことにかかっている。

 

 

 このような時代風潮の中で、金春禅竹は『明宿集』を著したのである。これは草稿本のかたちでしか残っていない。その草稿本を見ると、はじめ禅竹はこの本のタイトルを『明翁集』としようとして、あとで訂正して『明宿集』と書き直している。これを見てもわかるように、翁の本質をあきらかにするために書き始められたものが、翁は宿神であるというテーゼを展開することに力点が移って、ついには「宿神としての翁」の視点から、神々と芸能の世界の全体を、統一的に解釈しなおそうとする大きな意図にまで発展していったものと推測される。

 私たちがすでに見てきたように、宿神はこの列島上できわめて古い時代から生き続けてきた「古層の神」の一形態である。もともとは境界性をあらわそうとする「サないしス音+ク音」の結合として、さまざまに発音されてきた共通の神の観念のつながりの中から、宿神と呼ばれるこの芸能者の守護神はかたちづくられてきている。この「古層の神」はミシャグチの名前で、諏訪信仰圏では独自な発達をとげた。その観念の形成を、藤森栄一氏はほぼ五世紀頃と推測しているが、この推測はミシャグチ神の構成の内部に、縄文的な要素と弥生的な要素がほぼ対等の力関係で共存しあっていることが、今日に残されている信仰の痕跡からも、はっきりと確認できるところからきている。

 ここでいう境界性は、地形的なものだけを意味しているのではない。諏訪信仰圏のミシャグチは多くが水源との関わりをもっていることはたしかだが、この神をめぐる神話的思考の内部に立ち入ってみると、それが「胞衣」のような胎生学的オブジェに、強く結びつけられていたことがわかる。胞衣は「子供がやってくる空間」と現実の世界との境界を包囲して、内部の胎児を守る働きをしている。この膜状のものは、霊界の力が現実世界に不用意にさらされて、傷ついたり汚染されるのから守る働きをしている。またその膜は、荒々しい霊性をひめた自然力に直接に触れているものであるから、胎児を守る機能が失われれば、この世にあって恐るべき荒神と化すのである。いずれにしても、この膜を境界にして、さまざまな転換が発生している。「古層の神」の境界性とは、そのような広くて深い思考を包み込んでいるのである。

 シャグジ神の痕跡は、東日本の広い範囲で確認されてきている。その多くがいまでは八幡神社や熊野神社やさらに小さな小祠にすがたを変えてはいるけれど、そうした神社の今置かれている地形や環境を、過去の状態に復元してみるならば、そこがかつてはなんらかの意味での境界性にかかわっていることが、はっきりと見えてくるようになる。

 

 

第六章 後戸に立つ食人王・本覚論と魔多羅神の

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[No13]

後戸に立つ食人王・摩多羅(またら)神 

 

 

 常行堂(じようぎようどう)というお堂のある天台系の寺院に祀られている「摩多羅(またら)神」は、仏教の守護神としては異様な姿をしている。

 だいたい仏法を守る守護神としては、インド伝来の神々の姿をしているものが、おおむね主流である。これらの神々は、もとはと言えば仏教とは関わりのない「野生の思考」から生み出されたインド土着の神々で、象徴的に含蓄の多い姿をしているものである。ところが、常行堂の後戸の場所に祀られているこの神は、少しもインド的でない。さりとて中国的ですらなく、かといって日本的かと言えば、そうとも言いきれない。かつては天台寺院において重要な働きをした神であるのに、摩多羅神は謎だらけの神なのである。

 摩多羅神の神像図(「摩多羅神の曼陀羅」)といわれているものが、古くから伝えられているから、まずそれをよく見てみよう。

 

さあ、それではここをクリックして下さい!

  


[No11] 

日光の陰・礼讃 

 

 

 私は、前のホームページ「桃源雲情」で、徳一をおいながら、徳一と最澄との宗教論争を勉強した。もちろん私は、日本のアイデンティティーを「違いを認める文化」とする立場から、徳一の方に軍配をあげており、次のように述べた。

 『 徳一の歴史的価値はいうまでもなく最澄との「三一論争」にあり、私は、法相宗「唯識論」と相まってこの論争の重要性がもっと叫ばれて良いのではないかと考えている。源信の評価によって「三一論争」の最終決着が図られたとされているが、そんなことはない。「唯識論」の21世紀的発展と相まって「三一論争」の再評価がなされて然るべきではないかと思うのである。イスラム教原理主義やキリスト教原理主義は判りが良いかも知れないが、「平和の原理」としてはダメである。最澄や法然もこれ又然り・・・である。違いというものは認められなければならない。

 私の考えでは、かかる観点から、「三一論争」自体極めて高い歴史的価値を有しており、徳一研究は、「三一論争」にその重点が置かれて当然だと思うのだが、高橋富雄が指摘するように、仏教哲学と古代信仰の結びつき・・・・・、これはとりもなおさず徳一の目指した宗教改革だが、私には、これも又、極めて高い歴史的価値を有しているのではないかと思えてならない。』・・・と。

 しかし、最澄の歴史的価値を認めていないわけではもちろんない。徳一とのやり取りを見る限り、政治的には空海の方が一枚も二枚も上手で、最澄はちょっと真面目すぎるのではないかと思われる。空海からもぼろかすに言われて、ちょっと可哀想なぐらいだが、比叡山を天台密教の源源(げんげん)に仕立て上げていったその力量は驚異的なものがある。

 そして、その源源(げんげん)の流れの源(みなもと)近くに、慈覚大師(じかくだいし)こと円仁(えんにん)がいる。円仁の最大の功績は、私は、魔多羅神(まだらじん)を天台宗の「裏戸(うらど)の神」にしたことであると考えている。そして、私は、拙著「劇場国家にっぽん」のなかで『 わが国の古来の信仰、わが国の心、それは「野生の思考」ということなのか?「後戸」の神、マダラ神こそ、21世紀を暗示するもっとも大事な神のような気がしてならない。』・・・と述べた。

 ところで、光があれば陰がある。中沢新一のいう「モノとの同盟」は、まあ私に言わせれば「光と陰の哲学」である。今、東京でいちばん面白く光り輝いているのは「お台場」であるが、その陰である本当のお台場を紹介したことがある。同じように、日光東照宮は光り輝く表の日光である。ところが、実は、その裏に、本当の日光がある。それが日光・常行堂である。「常行堂を知らずして日光を語る事勿れ!」・・・である。

 さあ、それではいよいよ日光東照宮は常行堂へお詣りするときが来た。

 

 

 日光山境内はとにかく広い。どこに何があるかがよく判らない。東照宮(とうしょうぐう)を真ん中にして、東側には輪王寺(りんのうじ)と四本龍寺(しほんりゅうじ)跡が、西側には二荒山(ふたらさん)神社と大猷院(たいゆういん)がある。上の図は西側の図である。慈眼大師(じげんだいし)は天海(てんかい)上人のことだが、天海上人の墓所になっている慈眼堂が図の下側に見えるが、その慈眼堂と二荒山(ふたらさん)神社の間に常行堂がある。西側に隣接する法華堂と慈眼堂を二つ堂というが、ここを訪れる人は少ない。この二つ堂の裏の坂道を登っていくと慈眼堂に行く。是非訪れて欲しいところだ。

 

 

日光は常行堂の場所も判った!

では、いよいよ常行堂へお詣りしよう!

そうしよう!そうしよう!

 


 

 緑したたる金春禅竹

 

 

 宿神(シャグジ)が住まいし、宿神が守護する空間のなかでは、植物や動物が人間に姿を変えたり、目に見えない霊的な存在が人間の世界にあらわれたりする、「変身」の過程がごく自然におこる。そこでは、たがいに異なる存在どうしを隔てている隔壁が溶解して、そのあいだを流動的ななにものかが行き来するようになるのだ。猿楽のような芸能は、諸存在を深いところでたがいに通底させる、この変身や変容の過程に注目して、それを象徴的に表現しようとする。そのために、植物と人間とのあいだに通底路を開こうとする作品を、いくつも見ることができる。

 金春禅竹による『芭蕉』はそういう作品である。ワキの僧は禅竹が親しかった一休和尚かと思われる。女に化けた芭蕉の精霊が人をたぶらかすという中国の話があるが、その話を大幅にアレンジしたものである。草木成仏という日本独自の仏教的思想を演劇化したものである。

 「劇場国家にっぽん」では、このように、いろんな日本独自の思想を演劇化して、日本人はもちろんのこと、外国人にもできるだけ数多く見てもらいたいと考える次第である。能というものは、本来、日本の仏教思想を演劇化したもので、法相宗の総本山・興福寺で始まったものである。興福寺は、いうまでもなく藤原氏の菩提寺である。そういうように、能というものは、本来、日本の仏教思想を演劇化したものであるから、植物と人間とのあいだに通底路を開こうとする作品を、いくつも見ることができるのである。

 

では、緑したたる金春禅竹の思想に迫っていきたいと思う。

そうしよう!そうしよう!

 


 

ヨーロッパの胞衣(えな)信仰

 

 

 ヨーロッパ世界における「古層の神」genus cucullatusと、私たちの列島における「古層の神」ミシャグチとは、驚くほど多くの共通点を持っている。ずきんをつけた精霊genus cucullatusは、温泉のわき出ているところなど、水源に近い場所に祀られていることが多い。そのそばには、たいてい樫の古木が立っている。これはミシャグチの配置を連想させる。この古い神もまた、水源や淵の近くなどを選んで祀られているが、そばには必ず檀(まゆみ)や松や檜などの植物が生えている。

 ミシャグチは子供のイメージと密接なつながりがある。「宿神」と呼ばれた芸能の守護神は、しばしば童子の姿をして、人間の前に出現するが、なかには猿のような動物と童子の合体した姿をしているものもある。ケルト世界のずきんをつけた精霊も、子供である。しかもこの精霊は、動物の世界と自由に往来できる能力をそなえている。動物のことばを語り、動物のようにしなやかに動きまわれる身体を持っているのだ。

 ずきんをつけた精霊の持つそのような能力は、「胞衣をかぶって生まれた子供」のイメージに深くつながれている。胞衣によって外界の現実の影響から守られているそのような子供は、神話の時間、夢の時間(ドリームタイム)を生きることができる。神話の時間の中では、人間と動物は兄弟のように語り合い、おたがいの変身も自由だ。ずきんをつけた精霊genus cucullatusは、象徴化された胞衣をかぶることによって、変身自在な能力を得ているのである。

 この点は、ミシャグチも同じだ。この「古層の神」には、つねに胎生学的イメージがつきまとっていることを、すでに私たちは確認してきた。中世の記録には、ミシャグチとは胎児の姿をした神であり、胞衣に包まれて守られている、と語られている。芸能の守護神宿神には、このことがとても印象的なかたちで表現されている。猿楽は変身を心髄とする芸能であり、その中でもっとも重要な演目とされた「翁」では、存在世界の変容そのものの表現が、芸能となっている。その「翁」は宿神と呼ばれるミシャグチそのものだと言われているが、この芸をはじめた神話上の開祖秦河勝は「うつぼ」状の壺に入って、人間の世界にあらわれ、去っていくときにも「うつぼ」になった船に封じ込められて、海上に消えたとある。いずれも胞衣のイメージを彷彿とさせる。ここでも、変身の芸能と胞衣は一体である、と考えられているようだ。

 胞衣に守られた内部空間で、自在に変身し、流動していく若々しい力が、しなやかな躍動をくりひろげているのである。ケルト世界のgenus cucullatusは、この躍動する力を、男根の形をした子供として表現している。この点では、ミシャグチとて負けてはいない。ミシャグチの神体こそ、まぎれもない男根状の石(石棒)であるからだ。この石棒を背後から檀や松などの植物が抱き、包み込むようにして、各地のミシャグチは祀られている。いまでは、立派な社殿の脇にとりのけられるようにして、ひっそりと正体不明の石棒として祀られているのがこのミシャグチだが、そのユーラシア的普遍性において、神道の神などはとうていミシャグチの相手ではないのである。

 

 

詳しくはここをクリックして下さい!

 


 

須玉町歴史博物館

 

 

 須玉町の歴史博物館はすごい。21世紀型の博物館である。「劇場国家にっぽん」の・・・まあ・・ひとつのモデルとなる博物館ではなかろうか。

 まずは、金をかけないで・・・歴史的価値のある小学校を残しながら、それを博物館にうまく活用しているということと、NPOが「オープンミュージアム」というインターネット上の博物館を開設している人いうことと、中沢新一の提唱する「対称性人類学」のもっとも大事な人面土器が展示されているということから、私はすごいといっているのだ。まずは、須玉町オープンミュージアムをご覧いただきたい。国土交通省の国土地理院が始めている電子国土に参加する先進的な試みであり、今後の活動が期待される。

 なお、須玉町のホームページは、ここをクリックして下さい。

 

 それでは、津金御所前遺跡から出土したという・・・お目当ての人面土器を見るために、須玉町歴史博物館に行くとしよう。そうしよう!そうしよう!

 

それでは、ここをクリックして下さい!

 


[No7] 

富士見町・井戸尻遺跡

 

 

 富士見町の井戸尻遺跡は、JR中央線では信濃境でおりるのだか、ほぼ八ヶ岳の南山麓にある。この地域は、全体が釜無(かまなし)川に向かって緩やかに落ち込む傾斜地となっており、湧水が豊富である。全体が南に広々と開かれて、明るく、これほど水に恵まれ住み良いところは全国にもそうはないのではないか。富士眉月弧(びげつこ)文化圏の中心地域であっただけのことはあって、自然環境が抜群に良いのである。古来いちばん自然環境の良い「場所」に人びとの暮らしがあり現在に繋がっている...というわけだ。みなさんも是非一度は井戸尻遺跡を訪れてみては如何でしょうか。

 

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[No6] 

柳田国男と胞衣(えな)信仰

 

 

 ミシャグチは日本の民俗学にとって、いまもなおその草創期と少しも変わることなく、謎にみちたロゼッタ・ストーンであり続けている。

 ロゼット・ストーンは、1799年にナポレオン率いるフランス軍によって、エジプトのロゼッタ村で発見された石碑である。その石碑には上段・・・ヒエログラフ(象形文字)、中段・・・デモティック(古代エジプトの民衆文字)、下段・・・古代ギリシャ語の3つの言葉で同じ内容が刻まれている。以後、この石碑をもとに古代エジプトの象形文字に関する研究が進められはいるが、今なお謎が解明できたというわけではなく、中沢新一は「謎にみちたロゼット・ストーン」という言い方をしている。

 縄文土器の紋様は、ただ単に装飾が施されているというものではなく、そこに「野生の思考」が表現されている。したがって、それら縄文土器の紋様は、文字というものではないけれど、象形文字的な意味を持っており、その解明が期待されている。中沢新一は、「東北学VOL9」(2003年10月、東北芸術大学東北文化研究センター)のなかで縄文土器が表現する「野生の思考」に関する特別論考を行なっている。さすが中沢新一・・・という・・・目からウロコが落ちるような・・・驚くべきというかきわめて新鮮な識見であり、縄文考古の研究者は是非それをもとに今後の研究を深めていってもらいたいと思う。

 

さあ、それではここをクリックして下さい!

 


[No5] 

胞衣(えな)信仰

 

 

 猿楽の徒の先祖である秦河勝は、壺の中に閉じ籠もったまま川上から流れ下ってきた異常児として、この世に出現した。この異常児はのちに猿楽を創出し、のこりなくその芸を一族の者に伝えたあとは、中が空洞になった「うつぼ船」に封印されて海中を漂ったはてに、播州は坂越(サコシ)の浜に漂着したのだった。その地で、はじめ秦河勝の霊体は「胞衣荒神」となって猛威をふるった。金春禅竹はそれこそが、秦河勝が宿神であり、荒神であり、胞衣であることの、まぎれもない証拠であると書いたのである。

 ここで坂越と書かれている地名は、当地では「シャクシ」と発音されていた。もちろんこれはシャグジにちがいない。この地名が中部や関東の各地に、地名や神社の名前として残っているミシャグチの神と同じところから出ていることは、すでに柳田国男が『石神問答』の冒頭に指摘しているとおりで、「シャグジ」の音で表現されるなにかの霊威をもったものへの「野生の思考」が、かつてこの列島のきわめて広範囲にわたって、熱心におこなわれていたことの痕跡をしめしている。

 

 「あこがれの会津」では「火伏せ」について触れておいたが、その「火伏せ」のほか、各地に残る「賽の神」も縄文時代から連綿と続く信仰であり、石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(えな)信仰と同じ系統のものである。それは、近年に至って、いろいろと変型して道祖神や賽の神の誕生に連なっている。それら全体を私は「和のスピリット」と呼びたいのだが、如何なものであろうか。「和のスピリット」の源流に・・・・石棒信仰や丸石信仰、あるいは胞衣(しんこう)がある。

 

 胞衣(えな)信仰については、先に、「中津川の胞衣(えな)伝説」とタイトルで伏線を張っておいた。 ここではそういう「和のスピリット」がどういう地域に広がっているかを紹介しておきたいのだが、これは次回に回して、とりあえずは中沢新一の「精霊の王」から大事な部分を紹介することにしたい。 

 

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[No4]

精霊の王/中沢新一

註:以下は上記の本からの抜粋である。

 

第二章 奇跡の書

 

 

 まさかあの金春禅竹(こんぱるぜんちく)がこんな本を書いていたとは、誰も想像していなかった。

 

 金春禅竹は大和猿楽四座の中でも、もっとも古い歴史と豊かな伝承を持つ円満井(えんまい)座を率いる、優れた芸能者だった。二十歳代前半には、観世座の世阿弥の娘を妻とすることによって、禅竹は世阿弥と深い因縁で結ばれることとなった。禅竹は世阿弥から多くの教えを受け、また彼のほうでも世阿弥に円満井座に伝えられてきた、おそらくは猿楽最古の伝承のいくつかを与えたのであり、その痕跡は『風姿花伝(ふうしかでん)』のいくつもの箇所に見つけ出すことができる。

 金春禅竹は同時代の芸能者から多くの点で抜きんでていた。そのことはいまに伝えられている『定家』や『小塩』のような、禅竹の手になる謡曲台本を読んでみれば、たちまちあきらかになることだが、それと同じくらいに重要なのは、彼がいくつもの優れた能の理論書を著したことにある。強靱な理論的思考の能力に恵まれていた禅竹は、天台数学、両部神道、伊勢神道、儒学、歌学などの知識を旺盛に吸収したうえで、『六輪一露之記』や『五音一曲』といった堂々たる理論書を書いたのである。

 

 多くの専門家たちを驚かせたのは、そこに「翁」が宿神であり、宿神とは天体の中心である北極星であり、宇宙の根源である「隠された王」であるという主張が、はっきりと書きつけられていたことである。私たちはこの書物をとおして、はじめて中世に宿神と呼ばれていた芸能の神=精霊の活動について、なまなましくも正確な知識を得ることができるのである。この書物に書かれていることを出発点にして、私たちはとてつもない精神の冒険に旅立つことができる。『明宿集』は日本文化が発掘した、ある種の『ナグ・ハマディ文書』なのである。

 

 円満井座の神話的始祖である秦河勝(はだのこうかつ)の事績について、禅竹はつぎのように書く。

 

 秦河勝の事績は、聖徳太子の著した御目録の中に記されている。それによると、そもそもこの河勝のことは、その昔の推古天皇の時代に、泊瀬川に洪水がおこり、上流からひとつの壺が流れ下ってきたことが発端となった。人々はこの壺を不審に思い、磯城島(しきしま)のあたりで拾い上げてみると、壺の中にはたったいま生まれたばかりの子供が発見されたのである。急いでその子供を抱き取ってみると、そばにいた大人の口を借りて、こう語り出した。「ぼくは秦の始皇帝の生まれ変わりだよ。日本に生まれ出る機縁があって、こうして出現しました。急いで朝廷にぼくのことを報告してください」。しばらくしてこの報告は、天皇のお耳にも入った。天皇もこの子供の出現をいたく奇特なことと思し召して、自分のおそば近くにお召し寄せになり、親しくお育てくださることになった。その子供は成長するにつれて、抜群の才能と知恵をしめすようになり、賢臣よ忠臣よとたいへんな栄誉を受けるようになった。そののちは聖徳太子のおそばから離れることなく、忠実にお仕え申した。太子が反乱をおこした物部守屋を攻め滅ぼされたときのことである、神通力のこめられた太子の放った矢に当たった守屋は、櫓(やぐら)から転げ落ちた。そのとき守屋は「如我昔諸願、今者己満足(私がその昔に立てた願いが満たされ、今は満足である)」と唱えた。これに唱和して河勝は即座に「化一切衆生、皆令入仏道(一切の衆生をうながして、皆が仏道に入るようにいたしましょう)」と唱えたという。これはいずれも法華経の言葉であるが、その頃はまだこのお経は我が国にはもたらされていなかった。守屋も河勝もどちらも尋常でない人であって、そうした人たちの用いる方便は、意外なやり方で人々に福祉をもたらすものである。

 聖徳太子はこの河勝に命じて、猿楽の技をおこなわせた。橘寺(たちばなでら)の御殿の紫宸殿(ししんでん)において、「翁」は河勝によってはじめて舞われたのである。太子の御目録に記されているとおりである。したがって、こういう因縁や結縁のことを考えてみるに、この秦河勝は「翁」が人間に仮現なさった存在であることは、まったく疑いの余地がない。

 その理由をあげてみよう。秦の始皇帝は中国の皇帝である。つまり王であり、王とはすでに述べたごとく「翁」にほかならない。河勝はまた始皇帝の生まれ変わりと名乗っているので、ますます「翁」であることは疑いがない。そういうお方であったからこそ、猿楽の道を創始されることになったのであろう。そののち、猿楽の技を子孫に伝えたあと、現世に背を向けて、空舟に乗り込んで、西方の海上に漂流をなさったが、播磨の国の那波(なわ)にある尺師(さこし)の浦に打ち寄せられた。漁師たちが舟を陸にあげてみると、たちまち化して神となった。あたり一帯遠くの村々にまで憑いて祟りをおこなったので、大変に荒れる神と呼ばれた。すなわち大荒神となられたのである。この大荒神については、すでに書いたように、母の胎内の胎児を包む胞衣(えな)の象徴である、「翁」のまとう「ちはやの袖」と呼ばれるものに符合している。胞衣はすなわち荒神であるので、この対応は正しい。そののち、坂越(さこし)の浦に神社をつくってお祀りすることになった。そののちは播磨国赤穂郡上郡(はりまのくにあこうぐんかみごおり)(山の里)の諸処に勧請され、おびただしい数の神社が建てられて、西海道の守りの神とはなったのである。そのあたりの人たちはこの神社を、猿楽の宮とも宿神ともお呼び申し上げている。このことをもってしても、いよいよ秦河勝は「翁」であったことを知らなければならない。したがって、「翁」のことは大荒神とも、本有の如来とも崇敬すべきなのである。ある秘文に言う。「その心が荒れ立つときは三宝荒神(さんぽうこうじん)、その心が寂静のときは本有(ほんう)如来(によらい)」。この文の含意を深く理解すべきである。のち播磨の山の里から、大和国桜井の神社に示現なさったという伝承もある。

 秦河勝には三人の子があったが、一人は武士となり、一人は楽人となり、もう一人は猿楽者となって、それぞれの伝統を伝えた。武芸を伝承した子孫は、いまの大和長谷川党の人々である。楽人の技芸を伝えた子孫は、我が国における仏法最初の寺である四天王寺に依って、百二十調の舞を舞いはじめた人々である。そして、猿楽を伝えた直系子孫が、我々円満井座の金春太夫(だゆう)である。秦氏安から数えて、いまにいたるまで四十数代に及ぶ。なお行く末は千秋万歳、家業繁盛して、限りがあってはなるまい。ただ深い信心をもって、この家の伝統にますますの利益をもたらすように努力すべきである。当家の子孫たちよ、謹んで敬い奉れ。

 この部分だけ取り上げてみても、私たちにもたらされる知識にはおびただしいものがある。それは芸能史的な側面から神話学的な側面におよび、さらにそこから社会史的側面に、民俗学的な側面へと広がりを見せている。この記事でなによりも重要なのは、芸能者にとっての守護神である宿神が、播磨国の民俗誌にあらわれる宿神の観念につなげられていることである。芸能史と民俗学が、ここではひとつに結びあって、折口信夫の先を行っている。私たちは奇しくもここに、この列島に生きた人々の精神にとって、宿神という神=精霊が果たしていた巨大な働きの一片を、垣間見ることができる。

 

この記事の背景には、つぎのような歴史的事実がある。

 三輪山(みわやま)の背中には、この秀麗な山を抱きかかえるようにして、御室山(みむろやま)がどっしりと構えている。この御室山からは豊かな泊瀬(初瀬)川が流れ出していて、その水源のあたりは縄文時代からの祭祀の中心地になっていた。つまりそこには何か別の名前で呼ばれていた可能性もある「シャグジ」の神が祀られていた、と推定される。そこに百済(くだら)からやってきた職人によって彫り出された十一面観音の像が安置されるようになってからは、泊瀬川上流のこの地帯は、ようやく建設がはじまった初期のヤマト朝廷の人々の信仰までも吸収するような宗教的センターとして、しだいに重要性を増していったのである。

 泊瀬川は麓に着くとすぐに西の方角に流れを変えて、三輪山の麓の磯城(しき)と呼ばれるあたりの土地を潤しながら、ゆったりと盆地に流れ出していく。この川は磯城のあたりで大きくカーブを描いていく。泊瀬川がカーブを描いていくそのあたりに、古くからさまざまな芸能者や呪術的宗教者や技術者たち、中世の言い方でひとくくりに「職人」と呼ばれる人々の、大きな集落が形成されていたのである。奈良時代の記録には、ここに天体の知識に詳しく、それをもって雨乞いの儀式などをおこなう「ヒジリ」たちの住んでいたことが記されているし、渡来系の技術者の家族もここには多数住んでいた。

 のちに「大和猿楽」と呼ばれることになる芸能集団が、いつ頃からこのあたりをひとつの拠点としはじめたのか、詳しいことはわかっていないが、少なくとも金春禅竹が少年時代を送ったのは、この職人集落の中心である秦楽(じんらく)寺のすぐそばにあった「金春屋敷」にほぼ間違いはなかろう、と今日の歴史学者たちは推定している。猿楽者の大きな集団が、このあたりを根拠地としており、その中でも円満井座(のちに金春座と改められた)は、もっとも古い出自と伝承を持つ集団として、猿楽集団の中でも格別な位置にあったのだった。

 円満井座の人々は、自分たちの先祖は朝鮮半島からの渡来人「秦氏」であると主張し、そのことに高い誇りを抱いていた。朝鮮語で「海原」を意味する「パタ」の名前を持った渡来人の集団が、はじめて日本列島にたどり着いたのは、五世紀の初頭ないし中頃のことと考えられる。はじめは北九州の香春(かはる)に定着し、得意の鉱山技術を生かしてその地方に大きな勢力をつくりだしたのち、さらに拡大を求めた人々は、瀬戸内海に向かっていくグループと、宇佐地方にひとつの勢力を確立したあと宇和海を渡って四国西南部に向かうグループとの二つに分かれて、列島上に散開していったのである。

 このグループには、多数の技術者や芸能者が含まれていたと考えられる。陰陽道の知識に詳しい人々、さまざまなタイプの語り物や歌謡にたくみな人々、散楽系の身体芸をもって農事の儀礼に参加する人々、土地の精霊を祀るための神事芸能の知識をもった人々、人形(くぐつ)を舞わせて不思議な感覚を醸し出す技術に熟達した人々……泊瀬川の流域に住み着いた職人や芸人の先祖は、おそらくはこういう人たちであったはずだ。

 伝承している芸能の性格から判断しても(あきらかにそれは「散楽」に属する芸能である)、また長い間根拠地となった居住地から考えても(そのあたりは古くから「秦庄(はだしよう)」と呼ばれている)、円満井座に属する猿楽者たちが、渡来系「ハタ」氏の末裔であったという可能性は、とても高いと思われる。もっとも同じ「ハタ」と言っても、数波にも分かれて渡来した大集団の末端の人々であったはずであるから、それがあの有名な秦河勝という人物を直接の先祖としているという伝承は、そのまま信用するわけにはいかないかも知れない。しかし、斑鳩(いかるが)にあった「橘」という自分の土地を聖徳太子に寄贈したのが、この秦河勝であったことなどからも、地理的な関係だけ考えてみても、猿楽円満井座の先祖の「ハタ」の人々と、国家官僚秦河勝の属した「ハタ(ハダ)」とが、なんらかの関係をもっていたことだけは、認めてあげてよいと思う。

 泊瀬川流域の集団に、平安の頃、秦氏安という傑物があらわれて、この集団をおおいに守(も)り立てる活躍をした。中世を迎えて活気づいたこの集団は、大きく三つに分かれて、それぞれの発展を図ることになった。中心にあった集団は猿楽の芸能を、自分たちの職業に選んだ。また猿楽の舞に付属していた楽人たちの一部は分かれて、聖徳太子とも縁の深い四天王寺の楽人として迎えられ、雅楽の専門集団を形成した。そしてもうひとつの集団は、このあたりを根拠地とする武士の集団「長谷川党」を名乗って、有力な中世武士団をかたちづくっていった。

 猿楽といい、雅楽といい、武士といい、まぎれもない「職人」の技である。猿楽は空間の技芸である。「シャグジ空間」という特別な時空の構造を、身体の動きでもって表現する技芸を、円満井座=金春座の人々は家業として受け継いだ。これに対して、雅楽は時間意識の流れを扱う技芸にほかならない。それは目には見えない領域に人々の意識を誘い込んで、時間の感覚を変容させる技術をあらわしている。そして、武士は「殺人」の技術をもって、力の空間を制覇していこうという人々である。この技芸は、一面では賤しめられながらも、権力の獲得にはなくてはならない技術として、そのうち政治空間の質まで変えていってしまうだろう。

 こうして、泊瀬川流域に住んだ古代の渡来人秦氏の末裔の一流から、円満井座の猿楽集団、四天王寺の楽人集団、武士団長谷川党の集団の三つが、生まれ出たのである。禅竹の時代、彼らはそれぞれの「技芸」の領域で、卓越した活躍をしめしていた。

 

 禅竹の『明宿集』に登場する秦河勝をめぐるこの伝承は、このような歴史を背景として、語り出された「神話」にほかならない。これと同じ伝承は世阿弥の『風姿花伝』にも採録されている。二人の語っている内容がほとんど同じであるのには、理由がある。世阿弥は娘婿となった禅竹の口から直接に、この円満井座伝承の話を聞いたと思われるからだ。伊賀の服部氏(これも秦氏の遠い流れである)の出であるとも噂されている観阿弥・世阿弥父子であるが、このころには「秦氏清(はたのうじきよ)」などの秦姓を名乗るようになっていた。秦河勝を猿楽の祖とする伝承は、円満井座の狭い範囲を越えて、猿楽者全体の共有物となろうとしていた。

 そこで『風姿花伝』は、つぎのように語る。欽明(きんめい)天皇の時代に、大和の泊瀬川が洪水になった。そのとき川上から一つの壺が流れ下ってきたのを、三輪神社の鳥居のあたりで拾う者があった。壺の中には玉のように美しい幼児がいた。これは天から降ってきた人だというので、さっそく内裏にこのことを報告しておいたところ、その夜の天皇の夢に「わたしは秦の始皇帝の再誕である」というお告げがあった。そこでこの幼児を内裏に迎え、殿上人として育てることにした。成長するにつれて大変な才能を発揮するようになったために、十五歳になったとき、「秦」の姓を与えて、これを「はだ」と読ませ、秦河勝(はだのこうかつ)と呼び、重用することとなった。

 聖徳太子の時代、物部守屋の反乱があり、政情が不安定であったとき、例の神世と釈迦時代の吉例を思い出されて、六十六番の物まねをして、天下に平安をもたらそうと考えられた。その役に秦河勝を抜擢したのである。太子は六十六番の猿楽の面を手ずから彫られ、河勝に与えた。橘の内裏(橘寺の内裏の意味だが、ここがもと秦氏の所有地であった可能性があるとも言う)の紫宸殿でこれを上演した。すると政情も安定し、国は静かになった。このとき太子は、「神楽」を変形して「申楽」として、この音楽を以後そう呼ぶことにした。

 秦河勝は猿楽芸を子孫に伝えたのち、「化生の人は痕跡を留めない」のことばどおりに、摂津難波の浦から「うつぼ船」に乗って、風まかせに西の海に漂流していった。播磨国の坂越(しやくし)の浦に流れ着いた。漁師がこれを引き上げると、たちまち人間のかたちに変じたが、人に憑いてはすさまじい猛威をふるった。そこで人々がこれを神として祀ると、ようやく穏やかとなって、かえって国は豊かに栄えた。この神を「大いに荒れる」と書いて「大荒(おおさけ)大明神」と名づけた。

 以上が世阿弥の書き記した秦河勝伝承である。禅竹の語るものと、ほぼ一致している。細部には興味深い点がたくさん埋め込まれているが、当面の私たちにとって重要なのは、河勝のおこなった二度にわたる異常な出現のかたちである。

 

 子供の姿をして濁流の泊瀬川を流れ下ってくるときも、瀬戸内海に浮かんで播磨国の坂越の浦に漂着したときも、この人物はまわりを密封された「容器」に守られて、水界を渡りきってみせるのである。泊瀬川を流れ下るとき、秦河勝は壺に密封され、「ちいさ子」として人の世に出現する。これは、朝鮮半島から中国、さらには中国西南部をへてチベットにいたる広大な地帯で語られている「壺中童子(ごちゆうどうじ)」のモチーフに共通である。驚異的な仕事をなす人物は、普通の誕生をしない。こうして壺の「容器」に守られながら、水界を渡って人の世に現れるという話であるが、興味深いことに、ユリウス・カエサルのようなローマ世界の英雄は、陶器製の壺ではなく、人間の母親の胞衣(えな)に包まれて、特別な誕生をおこなうと言われているのである。

 このローマの伝承は、ただちに秦河勝伝承の後半部の主題に関係を持ってくる。さまざまな有意義な業を終えた河勝は、今度は壺ならぬ「うつぼ舟(空舟)」に込められて、風まかせに西の海を漂って、たどりついた坂越の浦で、恐ろしい荒神となってふたたびこの世に出現するのである。ここには、二重三重の意味で、宿神が大きな影を落としている。この伝承は、中空の容器に密封されていた霊的存在が、殻を破って出現するときには、人の世界にとって恐るべき力をはらんだ荒神となる、と語っている。民間伝承にも深い知識を持っていた金春禅竹は、そこに一貫した象徴的思考の働きを直観して、つぎのように書くのである。ここでは原文で示しておこう。

 

 業ヲ子孫ニ譲リテ、世ヲ背キ、空舟ニ乗リ、西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波尺師ノ浦ニ寄ル。蜑(あま)人舟ヲ上ゲテ見ルニ、化シテ神トナリ給フ。当所近離ニ憑キ崇リ給シカバ、大キニ荒ルヽ神ト申ス。スナワチ大荒神ニテマシマス也。コレ、上ニ記ストコロノ、母ノ胎内ノ子ノ胞衣、「ちはやノ袖」ト申セルニ符合セリ。[胞衣ワスナワチ荒神ニテマシマセバ、コノ義合エリ]。ソノ後、坂越ノ浦ニ崇メ、宮造リス。(……)所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。コヽヲ以テモ、翁ニテマシマスト知ルベシ。サレバ翁ノ御事、大荒神トモ、本有ノ如来トモ、崇メタテマツルベキ也。

 

 禅竹の思考では、つぎのようなアナロジーの連鎖がおこっている。秦河勝を密封した「うつぼ舟」が海上に浮かんでいる。その様子は、羊水の中の胎児を守る「胞衣」を連想させる。胞衣は羊水の中に浮かぶ子供にとっては、まさに壺であり、うつぼ舟の働きをしてくれている。胞衣の「舟」に乗って、子供は危険な胎生学的時期を、無事に渡り切ることもできるのだ。荒々しくも若々しい生命が、胞衣の舟に乗って、この世にむかって漂流してくるというイメージが、その背後にある。

 しかし、出産のとき、母親のからだの外に排出されてきた胞衣は、そのとたんに「荒ぶる存在」へと変貌する。胎児は母親の胎内にあって、へその緒とこの胞衣をとおして、リズミカルに胎動する巨大な暗い空間に自分をつないでいることができた。その意味で、この段階の子供はまだ人間の世界のものではなく、神の領域のものだったのである。その子供は、へその緒を断ち切って母親のからだの外に出てくる。そして、それといっしょに、あの巨大な暗いリズム空間と子供との隔壁となっていた胞衣は、この世界ではもはやどこにも「置かれ場所」というものを持たない恐るべき存在として、人の世界にとり残される。

 金春禅竹は、これこそが「翁」であり、宿神であり、大荒神であり、だからこそ秦河勝だと考えるのである。象徴思考こそは、禅竹の異能である。存在の異なる位相の間に、関係性の構造の同一性(ホモロジー)を発見することによって、物事の表面からは隠されている意味の連関を発見する技術に、彼は特異な才能を持っていた。このような才能は、偉大な世阿弥にさえ見出すことはむずかしい。

 

 猿楽は、ある特殊な空間の感覚を主題にした芸能なのである。その空間はあの世(他界)の余韻を保ったままにこの世(現実世界)に出現をとげている、高次元のなりたちをしている。その空間には若々しい、そして荒々しい生命力がみなぎっている。その生命力は胞衣や壺やうつぼ舟の皮膜に守られていることによって、傷つかない。そのために、永遠の生命(それは「翁」と「童子」で表現されるだろう)が、いつまでも現実世界の中に生きているという、美しいひとつのイデアの表現となるだろう。それが「翁」であり、宿神であり、猿楽はそのような存在によって創始された奇跡をはらんだ芸能なのである。禅竹の思考は、ここで火花を放っている。

 

 それだけではない。ここに記されている内容に目を凝らしてみると、話は狭い猿楽の世界を越えて、日本列島の全域に広がっていくある普遍的な思考構造のほうに、ぐんぐんと拡大していこうとしているのがわかる。秦河勝を乗せたうつぼ舟が漂着した浦の地名を、思い起こしてほしい。それは坂越(さこし)であった。サコシはあきらかにシャグジの仲間である。

 秦河勝の本性が宿神(シヤグジ)であることを主張したいだけならば、その人が漂着して大荒神の御業をおこなった地名として、サコシの浦が選ばれたというのもわかる。しかし、同じ音韻の構成でできた地名が、列島上の広い範囲から、ほぼくまなく見出されるという事実はどう説明したらよいのだろうか。ちなみに、柳田国男の『石神問答』という本によって、明治四十年代に確認できたそのような地名の一部を列挙してみる。

 

 若狭三方郡の三方湖の西岸より常神岬の方へ越ゆる峠に「塩坂越」とかきてサコシ

 播州の海岸備前境に接して坂越 これは今日サカゴエなど申す者も之れ有り候へ共(ども)実はサコシにて 以前はシャクシに近く唱へ候か

 備前北松浦郡(びぜんきたまつうらぐん)海上の小島にシャクシ

 壱岐(いき)にも杓子松(しやくしよう)といふ由緒ある古松二所まで之れ有り

 美濃揖斐郡宮地村宮地字杓子(みのいびぐんみやじむらみやじあざしやくし)

 美作久米郡倭文東村福田下字杓子田(みまさかくめぐんしとりひがしむらふくだしもあざしやくしだ)

 越前足羽郡麻生津村徳尾(えちぜんあすわぐんあそうづむらとくお)杓子山

 磐城西白河郡信夫村増見字尺子内(いわきにししらかわぐんしのぶむらますみあざしやくしうち)

 遠江榛原郡坂部村字前玉(とおとうみはいばらぐんさかべむらあざさいたま) 坂口山(さくちやま) 

 

 ここに石神井(シヤクジイ)や精進(シヨウジ)や象頭(ゾウズ)や佐久神(サクジン)や十三(ジユウサン)(これについては諸説ある)など、音韻の通ずる地名をつけ加えていくと、じつはこのリストは膨大なものになっていく。それというのも、東日本では「シャグジ」の名前をもった小祀がおびただしい数で分布しており、それにちなんだ小字名にも事欠かないからである。

 これらの地名がすべて芸能者や職人に関わりがあるとは言えないだろうから、考えられるのは、「シャグジ」の音で言い表される何か特別な意味内容についての思考が、かつては列島上の広い範囲でおこなわれていたのではないか、という仮説であろう。そしてこの仮説が正しいとすると、その思考は「翁は宿神なり」とする猿楽の思考とも内面的な関係を保ちながら、芸能者や職人以外の人々によっても、「シャグジ」の思考はおこなわれていたと考えることができる。蹴鞠の精が宿り、そこからは神秘的な「翁」が出現する不思議な空間についての思考は、ひとり芸能の徒の独占物ではないのかも知れない。しかもその思考は、とてつもなく古い精神の地層に属するものなのかも知れない。

 私たちはいま、私たち自身の歴史によって隠されてきた、巨大な精神の地層の実在を示す、たしかな手応えを感じている。発掘作業の鍵は、宿神である。

 

 

さあ、いよいよ佳境に入ってきた。

胞衣(えな)との御対面・・・・・。

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[No3]

精霊の王/中沢新一

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

 

第一章 謎の宿神

 

3、猿楽の「翁」

 

 蹴鞠は鞠精の形をした守宮神(宿神)の助けを借りて、驚異の技を演じてみせようとした。ほかの芸能についても事情はほぼ同じで、「昔ハ諸道ニカク守宮神タチソヒケレバ」こそ、常の人の能力を超えた技芸の達成を実現することもできたのである。石を立てて庭を造るのにも、花を生ける(石の場合と同じように「花を立てる」、といったようだ)のにも、「諸道」の者たちはただ自分の美的感覚や造型の技術を頼みにすればよいというのではなく、それぞれの道にふさわしい守宮神の護りを得る必要があった。それはたんなる神頼みというものではなく、その神をとおして、それぞれの芸がどこかで「へその緒」のようなものをとおして、揺れ動く「シャクジ空間」につながっている必要を感じていたからである。そういう空間から立ち上がってきた石や花でなければ、霊性にひたされた芸能とは呼ぶことのできない、ただ美しいだけのただの物質的現象にすぎない、と見なされた。

 日本の中世の芸能者・職人の世界では、このように守宮神(宿神)は、ことのほか大きな意味をもっていた。表だっては伊勢や春日の大神を崇敬する様子を見せながら、ひとたび家の芸のことに心が向かえば、最高の神は誰あろう守宮神をおいてほかにはなかった。守宮神には大きな神社もなければ、国家による認定もない。家の中の小さな祠に祀られて、その由来も神話も定かではない、世間からは得体のしれない精霊の扱いを受けてきた守宮神であるが、この神こそが芸能者・職人にとっては、宇宙の王にも等しい存在だったのだ。

 

 このことが、猿楽の従の間では、とくに大きな意味をもった。観阿弥・世阿弥の時代に「能」としての大成をとげることによって、賤民芸能の世界から抜け出して、芸術的な発達をとげることになったこの芸能は、もともとが呪師(しゆし)(呪術師)の芸から発達したと言われるだけあって、宗教的源泉とのつながりを、いつも深く意識していたように思われる。猿楽者たちは、ほかの芸能者や職人たちとおなじように、自分たちの芸能の守護神として「宿神」を祀っていた。しかし彼らはそれ以上のことをした。猿楽者は宿神の住む空間の構造そのものを探求して、その構造を身体の芸能として表現しようとしたのである。

 

 今日(こんにち)の能でも、「式三番」として演じられる演目の最初に登場してくる「翁」には、特別に儀式めいた雰囲気がつきまとっているが、猿楽の伝承では、この「翁」のことをこれから猿楽芸の演じられる空間全体の本質を体現している、もっとも重要な存在として特別視したのである。そして、この「翁」こそ宿神にほかならないという秘密の伝授が、師から弟子へとひそかに伝えられていた。幸いにして今日まで、「翁」こそが宿神の立ち居振る舞いそのものを表現しようとしたものであるという伝承の記録が、わずかながらも残されてきた。

 

 たとえば、十六世紀の後半に書かれたと推定される観世座(かんぜざ)の口伝書『八帖花伝書(はつちようかでんしよ)』は、猿楽自体が低迷期に入り始めた時期に、危機感にかられた観世座の誰かが、やむにやまれぬ思いで秘密をうち明けたという性格の書物であるが、そこには「翁」に関しての、いくつもの興味深い内容が素直に書きつけてある。

 

 一 大和四座は、申楽と書ひたり。

 近江さるがくをば、猿といふ字を書いたり。日吉の使者、猿なる故に、比を知らすとなり。

     大和申楽の次第を申に、

   一 第二 天照大神    翁舞   連ぬし殿

   一 第一 八幡大菩薩  千歳   鈴太夫殿

   一 第三 春日大明神  三番   神楽大夫殿

 されば、春日殿に、三千人の宮人の社家の頭たり。頭の連主殿は守久神。本地、釈迦如来なり。(中略)春日の四所明神に、一人づゝの御守なり。一番、大菩薩。二番、天照大神。三番に春日大明神。又、若宮の守久神の御事なり。守久神は、三人の父母の御神也。若宮を守る御神と言へり。これは、天照大神宮・八幡大菩薩・春日大明神のおかせ給ふ、父母の祝言の面を顔に当て、天長地久の祈祷たり。式三番はいかにもいかにも、謹んで有べき大事なり。

 

 まことに難解な文章だが、服部幸雄氏の画期的な論文「宿神論」の助けを借りながら読んでみると、ここには当時の春日大社における翁猿楽奉納の構成と内容がしるされているのがわかる。春日大社は、連主(むらじぬし)と呪師(すし)(この文章で「鈴」と書かれている人物)と神楽男(かぐらお)によって構成され、きわめて重要な翁猿楽を奉納するにあたって、大和猿楽座は神主・神人と呪師猿楽とから、それぞれの人数を動員して、これを舞ったのである。

 能・「翁」において重要なのは、守宮神(守久神)の登場である。この神が、大菩薩から天照大神から春日明神まで、いずれの神々をも「御守」するというのである。「守久神は、三人の父母の御神也。若宮を守る御神と言へり」。さらにこの守宮神は春日四所明神の、とりわけ若宮を守る神であり、その姿は一座中最長老ともいうべき「頭の連主殿(むらじぬしどの)」によって演ぜられる「翁」として、表現・影向(ようごう)されることになっていた。

 いずれにしても、「翁」として影向する守宮神なくしては、春日大社につどう神々のおもだった面々でさえも、自身にそなわった強力な霊威を発動させることができない、と考えられていたところが重要である。守宮神は神々の父母であり、とりわけ荒々しい霊威を発散させるがまだまだひ弱なところのある若宮にとって、守宮神の守りは絶対に必要なものだった。守宮神は、天照大神や春日大明神や八幡大菩薩よりも、さらに根源に近い神なのだ、とここにははっきりと語られている。また人間で言えば胎児や新生児の状態をあらわす若宮を外界の力から守る働きをおこなうとも言われている。

 

 あきらかに、守宮神が住処とする特別な空間の様式というものが、猿楽の徒には明瞭に直観されていたのがわかる。それは、神々以前からあって、神々を自分の中から生み出す空間である。しかも生まれたばかりの神々を優しく包んで、破壊されないように守る役目をしているのも、この空間だ。この空間には荒々しい霊威が充満している。それが神々の背後にあって発動をおこなうとき、前面に立つ神々も奮い立って、それぞれの神威をふるうことができるのだという。宇宙以前・空間以前からすでにあったコーラChola(場所)とでも言おうか、物質的諸力の影響を受け付けないシールド空間とでも言おうか、これはきわめて難解な構造をした力動的空間であって、猿楽者たちはそれを直観によってつかみとろうとした。とにかく猿楽者たちがその芸能をとおして発達させた「翁」の概念は、いまだに汲み尽くされない深い井戸のような印象を、私たちにあたえるのである。

 

 守宮神(宿神)という神または精霊と結びつけられるときあらわになってくる「翁」の性質には、ひとつの大きな特徴がある。猿楽者たちは、仏教哲学でさえたやすくは表現のできなかった絶妙な成り立ちをした空間に、じつに大胆な身体表現を与えていこうとしていたが、そのときに自分たちが直観でとらえているその空間の性質を、好んで「胎生学的」なイメージを駆使して、表現しようとしたのである。成通卿(なりみちきょう)の眼前にあらわれた鞠の精のたたずまいに、私たちはすでにそのことを感じ取っていた。作庭にせよ立花にせよ手品やアクロバットの芸にせよ、芸能の思想には、いつもこのイメージがつきまとう。それどころか、同じ宿神を祀るさまざまな職人たちのおこなう技術の背後にさえ、その荒々しくもどこかに柔らかな変容性を含んだその空間の実在を、感じ取ることができる。それが猿楽における「翁」の思想になると、じつに宇宙的な規模にまで拡大をとげるのである。

『八帖花伝書』のつぎのような記述を見てほしい。

 

一 楽屋入りをして、物の色めも見えざる所は、人の胎内に宿る形也。

一 幕を打上げ出づる風情、是、人間の生るゝ形なり。

一 翁といつぱ、釈尊出世の仏法を、弘め給ふ心也。翁の謡、陀羅尼(だらに)と神道をもつて、これを作り、大夫・笛・大小・太鼓をば、五躰・五輪に表し、地・水・火・風・空を象る。大夫をば空の字にたとへ、笛をば風の字に象る。小鼓を火の字にたとへ、大鼓を水の字にたとへ、太鼓を地の字にたとへ、大夫を空にたとふ事、空は、天地・陰陽・五躰・五輪・仏法の水上なり。此理、釈尊も述べがたきと、説き給ふ。御歌に、

   空の字はちゞみがしらにたとへたり とくもとかれず言ふも言はれず

 

 楽屋は暗黒の(物の色めも見えざる)空間であり、出番を待ってこの中にじっと身を潜めている芸人は、自分はいま母親の胎内にいるのだと観想しなければならない、とこの口伝は語っている。すべてが未発の状態にあって、力を湛えたまま静止と沈黙のうちにある。そして、幕を打って出る。これは出産の瞬間にほかならない。まさに新生児として出現するのが猿楽の芸であるのだが、なかでも「翁」は新生児のイメージのさらに根源にある宇宙的胎児のイメージそのままに、幕の外に出現を果たすものだ、とここには書かれている。

 このように胎児がなにかのベールに護られたまま、繊細微妙な条件を保たれた環境の中に、静かに立ち現れてくる様子を、そっくりそのままとらえようとしたのが「翁」である。これを仏教哲理で表現すれば、空(力の充溢した空間)の内部から、物質的世界を形成する諸元素がまだ「微分」の状態で、地とか水とか火とか風とかいう「ベクトル」となって出現して、目には見えない微分状の生命体を形作ろうとしている様子を、身体の動作だけで表現しようとした絶妙な芸能こそが、「翁」にほかならない、ということになるが、この表現の背後には、密教的な胎生学の知識がひそんでいる。

 

 私は、かって、中沢新一の「モノとの同盟」という考えを紹介し、その中で、「モノ」と「タマ」についても勉強をした。上の文章では、「空」は「力の充溢した空間」と言っているが、これはまさに「タマ」そのものではないか。私たちは、仏教哲理に弱いし、「空」の概念を身につけていない。何となしに判ったようで判らない・・・そんな感じだと思うが、「翁」つまり「宿神」を理解するには、まずは「空」の概念を身につけることがいちばん大事なことかもしれない。「空」は何も無い空間ではない。何も無いように見えるけれど、実は、「力の充溢した空間」なのである。ここがいちばん肝心なところである。

 このようにお考えいただければいいかもしれない。プラスの電子とマイナスの電子が一杯充満しているとしよう。外見上プラスマイナス0、すなわち「空」であっても、その空間には電子は充溢している。だから、その内包空間から多くの電子が外へ飛び出すこともある。その電子が外に飛び出し、何らかの不可思議な形を作ろうとしている・・・・その様子が「翁」であり「宿神」である。

 

 ここにいたって、成通卿の前に鞠の括り目をつかんであらわれた、あの三人の童子のことが思い出される。これらの童子は人間の顔をしているが、手足と体は猿であったという。つまり、小さな身体しか持っていないのだ。「シャグジ空間」そのものは、生物時間を超越した「翁」の姿をもって表現された。しかし、この「翁」としての空間が自ら生み出すものは、小猿のような身体をもった童子なのであり、この童子の守りによって、芸能者は「へその緒」を得て、源泉である空間に自分をつなげておくことができるのである。

 守宮神=宿神の住むという空間は、時間性と空間性において、私たちの知覚がとらえる時空間とは、ラジカルな違いをもっている。過去・現在・未来という時間の矢に貫かれながら進んでいく、私たちの知覚のとらえる時間の様式とは違って、「シャクジ空間」では時間は円環を描いている。そこには遠い過去のものと未来に出現してくるものとが、ひとつの現在の内部で同居しているのだ。また「シャグジ空間」は三次元の構成を越えた多様体としての構造をしている。そのおかげで、やすやすと鞠の表裏をひっくり返したりもできる。つまり、この世界にいながら、高次元の空間の内部に、するすると入り込んでいくこともできる。

 老人なのか子供なのか、人間なのか猿なのかわからない宿神のイメージをとおして、芸能者たちは自分たちの守護神の本質を表現しようとしていたが、そういう試みの頂点に、猿楽の「翁」はいる。しかし、それについての口伝の類は、ほとんど残されてこなかった。そのために私たちは断片的な記述をとおして、その背後に隠れていると思われる豊穣な世界を手探りすることしかできなかった。

 

 ところが昭和三十九年、事態は劇的な変化をおこした。偶然に発見された金春禅竹の著した『明宿集(めいしゆくしゆう)』というテキストには、「翁」と宿神の関係、宿神のほんとうの意味、神々の世界の中での宿神の位置などについては、それまで想像もしなかった驚くべき記述の数々が、書き付けられてあったからである。

 

 

さあ、それではいよいよ宿神の秘密に迫っていこう!

そうしよう!そうしよう!

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註: 今までのあらすじ(下から順次・・・)

[No2]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 2、宿神(シュクジン)

中津川の胞衣(えな)伝説

[No1]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 1、藤原成通(なりみち)

和のスピリット

淳仁天皇の怨霊

 


 

宮坂宥洪の流動的知性

 

 

 中沢新一が所長をしているゾクチェン研究所というのがあり、ゾクチェン研究所通信『セム』という冊子が不定期に年2回ほど発行されている。一部オンラインで読むことができ、ちょうどうまい具合に中沢新一と宮坂宥洪とが対談がアップされている。これは誠に貴重な対談であり、是非みなさんも読んでもらいたい。

 そのなかで、宮坂さんが次のように言っているのは、まさに宮坂さんという人が「流動的知性」の持ち主であることを示しているが、まあそのことは別として、宮坂さんのように、あるものを勉強するときに、そこからちょっと距離をおいて眺め、再びその中に入って熟慮するという態度が肝要であると思うので、その部分をピックアップしておく。つまり、

 『 仏教を仏教の側だけからみていたのでは、これはいつまでたっても絶対わからないなと、あるとき思ったんです。これはもっと大きな流れのなかから生まれてきた思想に違いない。それはバラモン教とか、インドの宗教全部なんですけれど、では、そのインドの本質とは何だろうか考えてみたとき、それはインドだけのものというよりも、現代人の記憶の彼方にあるもっと人類に共通した普遍的な根っこから生まれてきたものではないかと、ふと思った。

 だから、仏教からだけみて、すでに定型化した諸行無常とか無とかいった言葉を聞いても絶対に人間の本質はわからないし、自分にも迫ってこないんです。そういう思想が生まれてくる基盤、それがアンチテーゼであれ、平行するものであれ、いわゆるインドで本流となっているものを一度勉強しておきたい、そう私は思ったんです。

 まぎれもなくインドでは、仏教は本流ではありません。仏教は支流なんです。しかし、支流でありながら、仏教はいいところをついたんでしょうね。最終的に仏教はインドの宗教のいいところをみんな汲み上げてしまった。その成果が密教でしょう。そうすることに成功した。そして、そういう思想だからこそ、仏教はインドを飛び出すことができたと思うんです。ヒンドゥー教はやっぱりヒンドゥーの本流で、インドにとどまってます。しかしヒンドゥー教の思想の深いところをうまく汲み取った、仏教は千年かけてそれに成功したんです。

 この方法をもって仏教はインドをでることができたし、中央アジアでも中国でも日本でも国や地域ごとに違う仏教を作り上げてしまった。よく仏教学者は、日本仏教はインド仏教とは違うから本来の仏教ではないという言い方をするけれど、そうじゃない。これが仏教の本質だと思うんです。その土地の習俗なり信仰なり、昔からあるものを否定しない。単に否定とか肯定とかじゃなくて、そこにある本質をうまく体系づけてしまう、そういう方法をもっていたのが仏教だったと思うのです。考えてみれば、シャカ族の宗教というのがそれ自体きわめて古い起源を持つ民族宗教なんだけれども、これをお釈迦様がより普遍的なことばで再構築し、体系づけたわけで、これが仏教のはじめからの本質であり特徴だと思います。』・・・・と。

 

 そうなんだ! そう・・・宮坂さんは素晴らしい人だ! 本流を知るためには支流を知らなければならないし、支流と知るためには本流を知らなければならない。善を知るためには悪を知らなければならないし、悪を知るためには善を知らなければならない。違いというものの理解なしにことの本質を理解することは難しい。

 民主主義は多数決の原理でものごとをきめるシステムだが、それに代わる良い方法がないからそうしているだけであって、必ずしもそれで十分ということではない。不十分である。やはり、少数意見というものを充分聞いて、多数の意見とどう折り合いをつけるのか・・・、そのことに充分な時間をかけなければならないのである。

 現在は、力のあるものが或いは便利なものが或いは経済的なものが幅を利かす時代であるが、ぼちぼちそういう傾向に修正を加えていかないと世界はおかしくなる。力のないものもイキイキと生きていかなければならないし、不便なものや不経済なものの中にも良いものがあるはずであり、そういうものは大事にしていかなければならない。それをなし得るのは、「流動的知性」である。

 「流動的知性」の持ち主である・・・宮坂宥洪のような人物が岡谷で燻っているのは勿体無い。まったく勿体無い! 全国走り回って・・・、ほとんど死んでしまっている仏教界に・・・・活を入れるべきではないか。

 

 ところで、私は、4年前に、京都の精華大学でダマイ・ラマの講演・「人間と自然性」を聞いたことがあるが、ダマイ・ラマという人は、ひとの良い叔父さんというか何でも話のできる叔父さんという感じの人だが、まさに菩薩そのものであって、その話を直接聞くことのできた私はまさに幸運としか言い様がない。

 そのダマイ・ラマが、1980年代に全部で4回、ヨーロッパとアメリカで説法を行なった。ダマイ・ラマハ、「ゾクチェン」というチベット仏教の心髄を現代世界へのメッセージとして、まさに宮坂宥洪がいうように・・・、渾身の熱意を込めて語った。歴史的にもまさに画期的なことであった。

 冒頭に述べた中沢新一の「ゾクチェン研究所」は、いうまでもなく、そのダマイ・ラマの説法と密接不可分の関係にある。また、その説法の全貌は、4年前にアメリカで出版されたのだが、その日本語翻訳は宮坂宥洪が担当した。「ダマイ・ラマ  ゾクチェン入門」(2003年5月、春秋社)である。その二人の対談を読みながら「流動的知性」のことを考えているのだが、これを契機に、私も、ゾクチェンの入門をしなければなるまい。

 

 


 

呉善花(お・そんふぁ)の流動的知性

 

 

 私は、過日、呉善花(お・そんふぁ)の「女帝論」(2004年6月、PHP研究所)を称して・・・天皇制を考える場合の必読書ではないか・・・と述べたが(私の掲示板「自由の広場」の発言番号1951、この本は、実は、雑誌「正論」に「女帝論をめぐって・・・天皇制度の原像を探る」と題した15回にわたる連載(平成14年10月号〜平成15年12月号)がもとになっている。彼女には、天皇制度についてはもっと実力をつけてから再挑戦をしたいという思いがあって、天皇制どの直接かかわる記述を大幅に削除し、今回の「女帝論」となったようである。しかし、私には、もとの連載ものの方が・・・彼女の想いが隠っているというか・・・彼女の才能の一端を伺い見ることができて楽しい。

 

 彼女は、第1回の「皇室の父母系複合宗教的な性格」のなかで、林房雄の「大東亜戦争肯定論(1964年、番町書房)の文章を引用し、次のように述べている。

 『 林氏の言葉を借りれば、「天皇制は様々に変化し、しかも変わることなく存続した」が、その「変わることなく」というところが重要である。様々に変化してきたとはいえ、皇室は常に現在性と歴史性の二つが凝縮した場所としてあり続けてきた。だからこそ時代を超えての存続を可能にしたのだとすれば、女帝問題もそうした角度をきちんと入れ込んで考えていかなくてはならないだろう。』・・・と。

 

 私は、歴史性を基本に据えて、現在性との矛盾をどう解決していくのか、そこに流動的知性を働かせるべきであると考えており、現在性を軽視する訳ではないけれど、歴史性をより重視するという態度であり、だからこそ・・・口癖のように、『「歴史と伝統・文か」を生きる 』などという言い方をしているのである。したがって、こういう私の感覚からいえば、上記に示した彼女の「現在性と歴史性の二つが凝縮した場所」という言い方にやや不満な面もないではないが、まあその辺は言葉尻みたいな話かもしれないので、ここではこれ以上その点には触れない。重要なのは、彼女が林房雄の考え方に賛意を示すように、「変わることなく」というところである。

 私は先に、『 田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考であり、対立しあっている表象をひとつの概念の同一性の中で合致させるような弁証法とは根本的に異質な、「絶対弁証法」とでも呼ぶべき差異の思考なのである。「種の論理」は、私たちのまわりの世界の様子を、根本的に変化させていく力をもっている。

 すなわち、田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考の立場として、哲学と科学と芸術の理解に、決定的な方向を開く力を備えているのだ。もともとこの思想は、国家の問題、「個」と「公」の関係を解明するために追求されたものであるから、実践的な政治学の方法としても、発展させることができる。また、それは宗教の理解にも、威力を発揮する。』・・・という中沢新一の・・・・田辺元の「種の論理」についての説明を再び紹介したが・・・・・、対立しあっている表象をひとつの概念の同一性の中で合致させるような弁証法とは根本的に異質な、「絶対弁証法」とでも呼ぶべき差異の思考が重要なのであり、それが「流動的知性」であり、「対称性社会」における思考である。

 

 呉善花(お・そんふぁ)の思考は、まさに「流動的知性」そのものであり、未来を切り拓く力を持っている。 

 

 


 

自力本願

 

 

 仏教用語に「自力本願」という言葉はないらしい。俗語らしい。しかし、一般には、「自力本願」という俗語が普通に使われている。一般の人には、ほとんど無意識のうちにそういう言葉を使っているのだろう。私も、特に深い考えもなしに・・・何とはなしに「自力本願」という言葉を使っている。

 拙著「劇場国家にっぽん」でも、第1章「明恵の思想<あるべきようわ>」の最後に、私は、次のように書いた。つまり、

『 彼(明恵)はおそらく、自分の生き方について多分こう言ったであろう。

 「私は後生で済われようとは思っていない。ただ、現世においてあるべきようにあろうとするだけだ。修行すべきように修行し、振舞うべきように振舞えばいい。今は何をしてもかまわない、死後往生して助かればいい、などとはどの経典にも書いてない・・・」と。

 やはり法然とは根本的に考え方が違っていたようだ。法然の念仏思想は極楽往生を前提とした他力本願であり、明恵の「あるべきようは」は臨機応変の「自力本願」だ。きっとこれからのインターネット時代というものは即応性と融通性のある「自力本願」が求められよう。「あるべきようは」にこめられた明恵の思いが見直され、注目されるに違いない。』・・・と。

 

 そこで、友人から「仏教用語に「自力本願」という言葉はない」という指摘を受けたのだが、この点について少し考えてみたい。

 まずは、本願ということについてはここをクリック、他力本願ということについてはここをクリックして下さい。その上で、自力本願という言葉がどのように使われているかだが、インターネットの検索エンジンで検索すると、おおむね9000ページが検索される。その代表的なものはここをクリックして下さい。

 

 さて、問題は、「自力本願」という言葉が俗語のまま仏教用語として認知され得ないのか、それとも仏教が変質して「自力本願」という言葉が仏教用語としても正式に使われるようになるのかということである。

 私は、友人の指摘を受けて、その後いろいろと考えたのだが、どう考えても「自力本願」という言葉に執着せざるを得ない。この点を説明するには、よほどの準備が必要である。そう簡単には説明できない。いずれおいおいと述べていくとして、ここでは、二つのことを申し述べておきたい。

 ひとつは、これからあるべき「流動的知性」によれば、つまりこれからあるべき「対称性社会」では、「他力本願」という概念があるのであれば、当然、「自力本願」という概念があって然るべきだということである。

 まず、この点については、ここをクリックして欲しい。 そして、メニューバーの「流動的知性とは」・・・をクリックすると、その中で私は、次のように言っている。

 『 特定の考え方にこだわらない知恵、それが中沢新一のいうところの「対称性社会の知恵」であります。私流にいえば、「両頭截断」ということになりますが、世の中すべて対称性があります。善人がおれば悪人がいる。権力的な抑制があれば非権力的な自由がある。男性的なものがあれば女性的なものがある。光の部分があれば陰の部分もある。世の中にはまあいろんなものがあるんですね。千差万別。まさに曼陀羅(マンダラ)の世界といっていいのではないでしょうか。私は、このことを華厳哲学は教えていると思うのです。』・・・と。

 このような考えから言えば、今までの仏教に「自力本願」という概念がなくても、「流動的知性」は、まあ無意識のうちに「他力本願」という言葉を生み出すのではないか。それが、中沢新一の言う「対称性社会」だと私は理解するのである。

 これと同じ理解の仕方としては、田辺元の多様態哲学がある。かって、私はそのことを前のホームページ「桃源雲情」に書いたが、今ここでそれを振り返っておこう。つまり、その中で私は、中沢新一の次のような説明を紹介している。つまり、

 『 田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考であり、対立しあっている表象をひとつの概念の同一性の中で合致させるような弁証法とは根本的に異質な、「絶対弁証法」とでも呼ぶべき差異の思考なのである。「種の論理」は、私たちのまわりの世界の様子を、根本的に変化させていく力をもっている。

 すなわち、田邊元の「種の論理」は、徹底した中間性の思考の立場として、哲学と科学と芸術の理解に、決定的な方向を開く力を備えているのだ。もともとこの思想は、国家の問題、「個」と「公」の関係を解明するために追求されたものであるから、実践的な政治学の方法としても、発展させることができる。また、それは宗教の理解にも、威力を発揮する。』・・・と。

 

 次に、言いたいことは、このこととももちろん関連しているが、「流動的知性」によらなければ、つまり中沢新一のいう「モノとの同盟」、私流にいえば「光と陰の哲学」ということになるが、そういう新しい哲学によらなければ宗教は死んでしまうのではないかということである。

 科学文明がものすごい力で世界を変えつつある現在、すべての宗教はそれに対抗する力を失っている。すべての宗教は死にかかっており、中沢新一のような「後戸の哲学者」の力を借りないと、とてもその再生は難しいのではないか。

 中沢新一は、その著書(「カイエソバージュ「、神の発明」、2003年6月、講談社)の中で次のように言っている。つまり、

 『 宗教は「超越性」に名前を与え、ときにはそれを像に刻み、その領域の光景を描写してみることまで試みてきました。その宗教がしだいに力を失うようになってからすでに年久しく、「超越性」の領域への通路には無数のゴミが分厚く堆積して、「聖霊の風」のさわやかな流れを阻み、恩寵(おんちょう)も奇跡もめったなことでは及んでこれないほどに、「この世」の仕組みはふてぶてしいものになってしまいました。

 そういう世界を自分の手でつくりあげてしまいながら、現生人類以来の不変の脳をもった私たち人類は、なにか根本的に新しいものの出現を待ち望んでいるように感じられます。その根本的に新しいものは、商品社会がふさいでしまった「超越性」への通路を、ふたたび開いてみせるものでなければなりません。数千年の歴史をもつ古い諸宗教に、それを実現できる余力は残されているでしょうか。

 スピリットから唯一神へと展開していった一神教の内部から、私たちの言う根本的に新しいものを生み出すという可能性はあるのでしょうか。大統領が自分たちのとっている軍事行動を正当化するために、「神(ゴッド)」の名前を唱えるたびに、私たちは、そのような可能性はたぶんないだろう、と思わされてしまうのです。

 あらゆるものを商品化し、情報化し、管理する今日のグローバル文明は、長い歴史をもつ諸文明が生命を汲み上げていた泉の多くを、すっかり干上がらせてしまいました。本物そっくりの偽物はあふれかえっていますが、じっさいにはすでに根を断ち切られているので、古い伝統をもつ宗教でさえ、いまでは造花の美しさや見かけの正しさしかもっていないケースがほとんどです。 』・・・と。 

 以上のように、中沢新一は、宗教は死んだと考えているようだ。しかし、彼は、「未来のスピリット」に希望を持っており、次のように述べている。

 『 しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけあることを忘れてはいけません。それは私たちの脳であり、心です。数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、現生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。

そこにはまだ、はじめて現生人類の心にスピリット世界が出現したときとそっくりそのままの環境が、保たれ続けています。根本的に新しいものが出現する可能性をもった場所と言えば、そこしかありません。私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか、ほかには道などないでしょう。』・・・と。

 スピリットについては 、ここをクリックして下さい!

 

 スピリットに帰れ!流動的知性に帰れ!・・・という訳だ。私たちは、[超越性]の領域に入っていければ、心の野を開くことができ、野生状態の心を取り戻すことができる。そして、イキイキと躍動するスピリットたちをはっきりと見ることができる。問題は、どうすれば[超越性]の領域、それは[無]の領域とか[トワイライトゾーン]と言ったほうが一般には判りやすいのかもしれないが、そういう[超越性]の領域に入っていけるかということである。私は、[両頭截断]とよく言うが、物質文明か精神文化とか、右か左かとか、白か黒かとかそういう相対的に相異なる違いというものを乗り越えてというか、そういう二元論的なもののこだわるということのない、まあ言うなれば[中空]領域というか[無]の領域に入っていけるかということである。その方法ははっきりしているのではないか。

 仏教においては菩薩の道ということになるのであろうが、仏教や道教や修験道などそれぞれの宗教においてそれぞれ修行の方法が説かれている。それは、私流に言えば、「身体と脳の学習プログラム」ということだが、ここでの文脈から言えば、「自力本願」ということである。

 

 


 

今までのWhatsnew

 

 

 先月の7月22日に、拙著「劇場国家にっぽん」が初版出版されたのを機会に、私のホームページ「桃源雲情」もリクルートしようと作業をしてきたが、その作業がほぼ終わった。まだ不十分なところがない訳ではないが、これからは「桃源雲情」あらため「劇場国家にっぽん」ということで私の思いをいろいろと発信していきたい。

 先月の7月22日以降、新しいホームページの作成作業をやりながら、並行してWhatsnewに新しいページを紹介してきたが、整理ができていなかった。本日ようやくその整理がほぼできたという訳だ。今までのWhatsnewは、この新たなホームページ「劇場国家にっぽん」の・・・「流動的知性」、「和のスピリット」、「空の天皇」、「愛の通貨」、「地域づくり」、「Juuu-Net」、「私の旅」、「河童大明神」・・・のどこかに分類整理して納められている。

 今までのWhatsnewはそれらを見ていただくのがいちばん良いのだが、一応、今までのWhatsnewを次のとおりアンカーをつけておく。したがって、ここをクリックしてみていただくことも可能である。

 

 

河童に夢を託す

交流の「場」

「講」のすすめ

公共財管理と地域の人びと

ビジター産業のすすめ

[No2]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 2、宿神(シュクジン)

中津川の胞衣(えな)伝説

[No1]精霊の王/中沢新一 第一章 謎の宿神 1、藤原成通(なりみち)

和のスピリット

淳仁天皇の怨霊

空の天皇

流動的知性とは

流動的知性 偉大なるクラウンマザー

流動的知性にもとづいて

あるべきようわ

 


 

河童に夢を託す

 

 

 私は、日本人は、本来、流動性知性に長(た)けているのだと思う。民族としてこれをもっともっと磨かなければならない。そのためには、それぞれの地域において、その地域の風土というものを大事にしなければならないのではないか。景色10年、風景100年、風土1000年というが、風土というものはその地域かが先祖から受け継いできたものである。私は、これからの日本、「歴史と伝統・文化」を大事にしていかなければならないと考えている。否、大事にするというようなものではなく、生きる目的ぐらいに考えねばならないのかもしれない。私たちは、過去も現在も、そして未来も、「歴史と伝統・文化」を生きているのである。私たちの生きざまそのものが歴史であり、伝統であり、文化であるのかもしれない。

 だとすれば、森もそうだが、各集落の川の自然を復活しなければならない。地域の自然というものは大事にしなければならない。私たちは風土を生きているのだとすれば、地域の自然を生きているとも言えるのではないか。私たちは、地域の川を生きている。

 戦後あまりにも水害が頻発した。そのために河川改修に重点をおいて公共事業を進めてきた。まだまだ災害の危険は解消されていないので、場所のよってはダムをつくらなければならないところはあるし、一次改修を進めなければならないところがある。環境などといっておられないところがあるということだが、今まで河川改修によって自然が壊れているところはその復活を図らなければならない。魚や獺(かわうそ)や河童が棲めるような川に復活しなければならないのである。それが「地域の川を生きる」ということだ。川で生計をたてる人が少なくなったので「地域の川を生きる」というひとがほとんど見られなくなってしまったが、川の生態系を豊かにして、なんとか「地域の川を生きる」という人を増やしたいものだ。

 

 私は、川づくりの専門家である。これから全国の川の診断に出かけようと思っている。そして、「川のカルテ」をつくっていきたい。そして、川を中心とした「水と緑のネットワーク」をつくるよう働きかけていきたい。そう考えている。かって、梅原猛は、「巨木の町づくり」ということを言ったことがあるが、私の場合は、「水と緑の町づくり」ということをいろいろと言ってきた。合い言葉は、「河童の棲む川づくり」であり、「天狗の棲む森づくり」である。もちろんこれは私一人でできることではない。いろんな人と一緒に、まあいえば、国民運動としてやっていかなければならないのではなかろうか。私は、一介の火付け役であり、一介の旗ふり役でしかない。あくまで主役は地域の人びとである。清水博の唱える「地域の文化」というものは、「地域という劇場」のなかで、地域の人びとがつくりあげていくものである。地域のメディオンが主役でなければならないのである。それが「劇場国家にっぽん」の姿(かたち)なのだから・・・・・。

 幸い、全国に河童の伝説が残っている。そういう伝説こそ地域の財産であるから、大事にして子供や孫に残していかなければならない。河童伝説を訪ねるところから始めよう。

 河童は、まあいうなれば水の精霊である。水のスピリットだ。河童伝説を訪ねながら、河童以外にも、水のスピリットが出現するさまをいろいろと実感できればありがたい。また、河童の棲む世界は私たちと違う世界である。「流動的知性」でしか見ることのできない世界である。しかし、そういう世界に身を置けば、私たちの世界のおかしいところがいろいろと見えてくるだろう。河童伝説を訪ねながら、そういう河童的感覚をいろいろと紹介していきたいと思う。いろいろである。ともかく河童伝説である。いろいろと河童伝説を訪ねることから始めよう。 

 

 

それではまずは**川から始めるとするか。

そうしよう!そうしよう!(工事中)

 


 

交流の「場」

 

 

 田中優子は「江戸はネットワーク」(1993年2月、平凡社)のなかで、連の「場」について次のように語っている。

 『 ある「場」に、複数の人間がいることによって、何ごとかが起こる。彼らは「集まった」のだろうか。それとも、そこにそうしていることによって、何かが彼らを「結界」したのだろうか。人間が「場」に向かって動いたのだろうか。それとも、磁極のあるところに磁場ができるように、人間のいるところにたちまち「場」ができるのだろうか。

 人間の心理的な「場」を個人と環境の関数で表わそうとした学者がいた。しかし「場」とは「空間」ではない。入れもののことでもなければ、環境のことでもない。誰もいなくても意味を発しつづける個体のようなものでもない。ましてや、個人がおのれの努力によってつくることができるものでもない。

 ここでは日本文化のなかでの「場」、とりわけ中〜近世におけるそれを語ろうとしている。その限定のなかでいうならば、「場」とはそもそも、神の座である。複数の人びとによって共有された「神」という名の力が、降り立つその座である。磁場はそこにできる。したがって人間たちの方は、たとえ神のことを忘れていても、磁場をつくっている磁極の由来について考えたり、場の目的や名分について思い悩んだりすることはほとんどない。彼らにとっての「場」は権威や論理によって保証されるものではなく、前提がはっきりしている以上、あとは実際の働きによって保証されるものだからだ。心安らかにその力の「働き」になりゆきを委ねていればいいのであって、意味づけに奔走する必要もない。それは「集団」ではなくて「場」であるにすぎないから、コーディネイターは存在しても、指導者すら存在しない。』・・・・と。

 

 そうなんだ。私は、かって「プラットフォーム」と呼んだし、現在、幸野さんがつくっているホームページもそうなっている。幸野さんのつくったホームページから、Juuu-Netの設立趣旨には、「コミュニケーション、交流、 響きあいの場」とか「相互に知恵を出しあい学びあうシステム」という言い方がしているが、田中優子のいっている「連」という「場」もおおむねお同じようなことではないかと思う。田中優子は、「サロン」という言い方もしている。Juuu-Netは、「プラットフォーム」であり、「コミュニケーション、交流、 響きあいの場」であり、「相互に知恵を出しあい学びあう場」であり、「サロン」である。「集団」ではない。

 なお、ちなみに言っておけば、「講(こう)」や「結(ゆい)」は「集団」である。私は、河童に関する「講(こう)」や旅に関する「講(こう)」をつくるように働きかけていきたいと考えているが、それはJuuu-Netの活動とは別のものである。それは「劇場国家にっぽん」の理念にもとづく実践活動そのものである。先に述べたように、私は旗は振るけれどJuuu-Netについてはあくまでもお手伝いであり、大分の幸野さん、博多の今泉さんや針貝さんらが主役である。彼らにお願いして、なんとか九州から産声をあげるて欲しいと・・・・とただひたすら願っている次第であるが、彼らにはこのJuuu-Netが「神の座」であることを充分認識しておいて欲しいということだ。田中優子が言うように、『 「場」とはそもそも、神の座である。複数の人びとによって共有された「神」という名の力が、降り立つその座である。磁場はそこにできる。』 私としては、「神」という言葉はあまり使いたくないので、それを「和のスピリット」なしし「流動的知性」と言い換えるが、Juuu-Netは「神の座」であり「和のスピリットの座」であり「流動的知性の座」なのである。だから、Juuu-Netに来れば、「神」「和のスピリット」「流動的知性」に出会える・・・・そういう「プラットフォーム」にしたいものである。これは私の希望だ。

 

次へ!

 


「講」のすすめ

 

 

 これからの時代は、いよいよ世界のアメリカが進んでいくのだろうと思う。好むと好まざるとにかかわらずだ。だから、中沢新一のいう「モノとの同盟」が必要なのであり、日本は、ただひたすら「歴史と伝統・文化」を生きていく必要があるのである。

 江戸時代には、世界に珍しいもネットワーク組織がわが国に著しく発達していた。「講(こう)」とか「結(ゆ)い」という組織である。「連」というサロンもそうである。この「講」や「結」や「連」については、田中優子が詳しいが、彼女は、例えば「連」について次のようにいっている。

 『 こういう「連」が都市の中に展開しているのだが、これも情報収集のための非常に小さなグループなのである。ただ、江戸時代の小さなグループというのは大体の場合、ネットワークをつくっていることが多い。つまり小さなグループが小さなグループとして閉じていなくてネットワークをつくっている。だとしたら大きな組織にすればいいではないかと私たちは思ってしまうのだが、絶対に大きな組織にしないという特徴がある。人数が集まってきた場合には分裂する。分裂するというよりも他の「連」になってしまう。他の「連」になったとしても、お互いに閉じていないわけだから、いくつかの「連」が一緒に何かをやるということもあり得る。これは同じように何々の会と名づけられたものでも同じことが起こる。』・・・・と。

 

 日本人は、比較的「流動的知性」に富んでいて、いろいろなスピリットの為せる技であろうか、人びとの心にいろいろな価値観が自ずと生まれ出てくる。それが故に多神教の国になっているのだろう。わが国では、なかなか一つの価値観に統一するということが難しい。人生いろいろ、会社もいろいろ、「講」や「結」や「連」もいろいろである。小さなグループがいろいろとできやすい。宮本常一のまな弟子・山崎禅雄の「0.1%論」というのがある。これは、同好の志というものは0.1%も集まれば充分ではないか・・・・、とう考えであるが、私も最近そう思うようになった。要は、わが国の場合、田中優子がいうように、小さなグループしかできないのである。

 しかし、普段はそういう小さなグループで充分だけれど、時には他のグループの力を借りたいこともあるので、いくつかのグループでネットワークを組む必要がある。

 

 今後、私は、地域づくりや川づくりに関して、小さなグループがいろいろできていくものと考えている。現在もある程度そういう動きが出てきているが、今後はさらに増えていくのではなかろうか。私は、今後の地域づくりや川づくりを考えたとき、住民主役でなければならないのであって、そういう意味で、地域づくりや川づくりに関する小さなグループをもっともっと増やしていかなければならないと考える。

 

 Juuu-Netという・・・地域づくり、川づくりに関する・・・小グループのネットワーク組織をつくろうという話を大野川の河童こと幸野さんとしてきた。一応、幸野さんにはホームページもつくってもらっている。しかし、幸野さんも大野川の関係で忙しく、なかなか具体化の運びになっていない。旗ふり役の私も、「劇場国家にっぽん」の理念づくりに忙しく、幸野さんのお手伝いをすることができなかった。「劇場国家にっぽん」の理念づくりもおおむね見通しがついたので、その実践活動を始めると同時に、それとは別途、いよいよJuuu-Netのお手伝いを始めたいと思う。旗は振るけれどJuuu-Netの方はあくまでもお手伝いであり、大分の幸野さん、博多の今泉さんや針貝さんらが主役である。彼らにお願いして、なんとか九州から産声をあげるて欲しいと・・・・とただひたすら願っている次第である。

 

 

では、まずはJuuu-Netの性格論についてひとくさり・・・。

ここをクリックして下さい! 

 


 

公共財管理と地域の人びと

 

 

 公共財を土地の人々が支える……それに必要な技術となると、「伝統技術」ということになるであろう。公共財を守る主役が地域だとすれば、それを補佐する脇役「伝統技術」を大事にしていかなければならない。それには日本の歴史に培われた「タマ」を信じ、「陰に埋もれている技術」に目を向けることである。

 私の新技術論は、「立たせない力」、「陰の技術」、「伝統技術」、あるいは「心を鼓舞する祭り」を見直すことに尽きるのだが、かといって商業主義や功利主義と結びついた技術開発を否定しているわけではない。河川の技術においても、機械化が進み、コンクリートのプレキャスト化が進んで、工事のスピードアップとコストダウンが図られている。ダムや橋梁なども建設業者の施工技術のめざましい進歩があったからこそ大規模建設も可能になった。水門や堰などの構造物もそうだ。現在の建設技術は建設業者の技術の賜物といっても過言ではない。

 しかし、一方で伝統技術はほとんど消え去ってしまった。昔は堤防を作るときに「人柱(ひとばしら)」を立てたり、祭りをしたり、民衆の魂が堤防にこもっていた。ところが現代の建設業者の建設技術はたしかに立派だが、いったん出来あがれば作りっぱなしで、堤防に対する愛情なんてまったく感じられない。やや言い過ぎの感もあるが、実態はそれほど違ってはいないだろう。そこで私が提起したいのは、公共財の管理をPFIでやればそのような問題が解決できるのではないかということだ。

 公共財管理の責任はいうまでもなく行政にある。

 しかし、陰の立て役者というか「後戸(うしろど)の神」は、水防団をはじめ、地域のNPOでないのか。私は、「公共財というのは土地の人々が支えていく回路である」という「大畑原則」の理念を大前提とすべきであると思う。だとすれば、水防団なりNPOをどうやって作っていくか? それがいちばんの悩みなのだが、ここで地元の建設業者の出番となる。 

 

  先に述べた「9805台風に伴う青森県大畑川の洪水記録」は、多くの示唆を私たち河川技術者に与えてくれるが、私がもうひとつ注目すべきと考えている点は、あの災害の主たる原因が山の荒廃にあるということだ。これは近代治山技術の敗北であり、ひいては近代科学文明の敗北を物語るものではないか。

 林業技術が商業主義ないし功利主義を背景に、皆伐方式ないし準皆伐方式を前提に成立していることがまず大問題である。よしんばそれを横においても、木材の搬出方法に問題がある。外材と競争するには、できるだけ人手のかからない搬出方法をとらざるを得ないため、林道が作られるのが通例である。林道が必要だとしても、これに起因する災害発生は絶対に避けなればならない。

 ところが、前記の「大畑川の洪水記録」によれば、林道建設に起因する土砂崩れが多く、それが大災害発生の引き金になっている。機械化が進み、技術が進んで便利になればなるほど、それに伴う悪影響も大きくなる。しかし、商業主義というものがそこに介在する限り、その悪影響に目をつぶることになりかねない。こと林道については、欲得が災いし、充分な対策が講じられない・・・そういうことが実に多いのである。山の管理もきめ細かく心の隠った管理をしなければならない。心の荒廃は山の荒廃に繋がり国の荒廃に繋がる。

 

 今日の社会は、物があふれ、物の増殖がいよいよ勢いを増しているために、「礼」や「祈り」、「心」や「魂」といったものがわが国ではもはや陰が薄くなっている。  今こそ魂のこもった技術を礼賛するときではなかろうか。谷崎潤一郎の「陰翳礼賛」ではないけれど、そういう陰翳の技術、タマシイの技術、鎮魂の技術にあらためて光を当て、目を凝らさなければならない。それをなし得るのは、商業主義を超えたところにあるNPOであろう。地域における公共サービスの部門、地域における公共インフラの部門にNPOが介在することによって、「モノとの同盟」が可能となる。 「劇場国家にっぽん」において、今後シビル・エンジニアリング(土木)は、その原点に立ち返らなければならないし、その意味でも地域における建設業の大いなる変身に期待するところ大である。

 これからの建設産業は、地域のサービス産業に変身して、シビル・エンジアリングとして大いなる発展をすべきだというのが私の一応の結論である。建設産業は今後、大いに町づくり型PFIに参画して、NPOとの連繋を図らなければならない。公共財は、河川や森林だけではない。

 21世紀の世界交流を考えるとき、公共財事業の目玉は「モノづくり博物館」であろう。シビル・エンジニアリングとしての建設産業は、この博物館で最先端の技術と伝統技術のハーモニー(調和)を世界の人々に判りやすく見せなければならない。

 地域全体が「モノづくり博物館」として、さまざまな道具立てで、いろんな仕掛けを構じなければならない。公共財管理の現場もそれはそれで「モノづくり博物館」だが、ともかく地域全体が「モノづくり博物館」であるという考え方が重要だ。さて、舞台装置をどうするのか。演し物はどうするのか。そこが「劇場国家にっぽん」の見せどころとなろう。野菜づくりに森づくり。尺八づくりに川づくり。むろん祭りも技術のうち、大胆な技術開発が必要である。新しい多種多様な祭りを、新しい技術のもとでいろいろと考案しなければならない。祭りのためにいろんな仕掛けとモノを作らなければならない。

 そして、全国いたるところに「響きあいの場所」があり、全国いたるところに豊かな博物館があるようにしなければならない。これが「劇場国家にっぽん」の姿(かたち)であり、21世紀におけるリーディング産業のあるべき姿であろう。そしてその担い手は、現在の建設産業をおいてほかにない。それは地域のサービス産業であると同時に、ビジター産業でもあるのだ。したがって私は、なんとしても建設産業をわが国のリーディング産業に育てなければならないと思っている。

 

 「立たせる力」と「立たせない力」。「光の技術」と「陰の技術」。公共財を土地の人々が支える……その技術とはいうまでもなく「伝統技術」である。公共財を守る主役が地域だとすれば、とりわけ伝統技術を大事にしなければならない。これを大事にするということは、「立たせる力」や「光り輝く先端技術」に目を奪われることなく、「立たせない力」というものを信じ、「タマ」を信じ、「陰に埋もれている技術」にも目を向けることである。 

 この先あるべき新技術というのは、科学万能に頼る「立たせる力」によって貪欲に開発される技術に対峙した、環境面からの充分なチェックと対策が講じられたものでなければならない。「立たせる力」と「立たせない力」とのバランスが大事なのである。商業主義に対しては、安全面や環境面からの充分なチェックと対策が講ぜられるよう、地域の厳しい規制が不可欠となる。

 すなわち「立たせない力」とは、「立たせる力」の行きすぎを是正する力である。 科学技術の進歩にひたすら邁進するものに、ブレーキをかけるものである。

 それは、「回帰する力」と言ってもいい。われわれ人類の進化のプロセスを顧みて、真に棲みやすい場に回帰しようとする力である。

 伝統文化を懐かしみ、豊かな自然に回帰しようとする力である。形状記憶合金のように、宇宙の「タマ」がそうなさしめるのではないか。水が循環するように、この宇宙には循環する力、回帰する力がある。

 私は、科学文明の行きすぎを是正する「立たせない力」が必ず働くことを信じて、伝統技術を大切にし、「大畑原則」に見られるような地域における知恵を大切にしていきたいと思っている。

 

註:以上は、最近上梓(じょうし)した拙著「劇場国家にっぽん」の中の一節ですが、私は、この一冊に、私の地域づくりのビジョンを掲げ、日本再生のヒントを挙げてみました。歴史のなかで光明を発する日本民族の魂と知恵。その魅力を紹介することが、日本の未来を切り拓くヒントになる、という衝動に駆られて筆をとりました。今こそ日本民族の魂と知恵の源泉をさぐり、この国のありようを検索すべきとき・・・・その思いに衝き動かされて筆をとった次第であります。この先、日本はどうなるのか? 日本人は何をなすべきか? 見えない未来に光を投げかけるのは、実は、歴史に埋もれた日本民族の魂と知恵ではないだろうか?

「劇場国家にっぽん」の購入に関しては

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 (工事中)

 


 

ビジター産業のすすめ

 

 

 わが国のアイデンティティーは違いを認める文化にある。これをどのようにして文明にまで高めるかがこれからの課題である。

 第一に、憲法改正にあたって「歴史と伝統・文化の継承」を大きな柱にする。

 第二に、ビジター産業をわが国のリーディング産業に育てなければならない。

 第三に、歴史と伝統・文化にもとづく地域づくりを進めなければならない。

 第四に、さまざまな生物とスピリットの棲息空間を確保するためエコロジカル・ネットワークを整備したい。

 そして最後に、住民主導の地域づくりを進めなければならない。ここでは「劇場国家にっぽん」の姿(かたち)を支える、ビジター産業について触れてみたい。

 わが国は情報技術(IT)の最先端国家をめざそうとしている。今後いろんな取り組みが行われて、IT革命が進展するであろうし、それによって人々のライフスタイルも大きく変革されていくものと思われる。

 ライフスタイルの変革をもたらすのはIT革命だけではない。21世紀は平和の時代であり、コミュニケーションの時代であり、旅の時代である。そして何よりも感性の時代であると思う。その新しい時代の動きに対応し、ライフスタイルも変革せざるをえないであろう。  そこで、新しい国土政策が求められ、コンテンツ産業とビジター産業を意識した新たな地域振興策が必要となってくる。

 コンテンツ産業とは、インターネットで入手する情報を作る産業のこと。各地域の歴史と伝統・文化に基づいて作られるものすべてがその対象となり、地域の人々が幅広く従事できる。またビジター産業とは、いわゆる観光産業のほか、研修や会議、スポーツ大会、グリーンツーリズム、草の根国際交流などを対象とし、その整備からサービス提供までさまざまな職業があり得る。

 それは各産業を育てるための地域振興策であると同時に、それによる利益を積極的に活用する政策でなくてはならない。そのためには各機関においていろんな試みが求められるが、国土交通省としても、その所管事業のなかで何か新しい取り組みを行わなければならない。新時代の二大潮流を意識しているところにこの事業の新鮮味があるし、育成と活用という両義性を有しているところに国家政策上の意義がある。

 その観点から、IT革命とライフスタイルの変革に対応した地域振興策をモデル的に実施する。それによって21世紀における国土づくりのニューフロンティア・多自然居住地域(過疎地域)の整備のあり方を提示したい。

 二〇〇五年に実現されるべき超高速通信の先行的整備、自然環境の保全と整備、リゾートオフィスやクラインガルテン(ドイツで普及しているセカンドハウスつきの市民農園)等の交流施設の整備、ならびに中心都市との連携強化のための施設整備、それらを行うとともに必要な関連公共事業を行う。事業期間はおおむね五年とし、その間にコンテンツ産業及びビジター産業の誘導を図る。なお、関連公共事業についてはPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ。民間資金活用の公共サービス提供方式)のモデル事業として行うよう市町村や都道府県に働きかけるが、それを本事業採択の条件にはしない。なお、現時点で地域要件に合わない地域からの希望があれば、三か年の予備調査を行い、その可能性を探る。

  事業のイメージは次のとおりである。

●河川及び渓流を中心に、魚の上りやすい川づくりや多自然型川づくりなど「エコロジー・ネットワーク(日本生態系協会)」の先行的整備を行う。

●地域における新産業の振興は、コンテンツ産業及びビジター産業を中心とする。そのためには各種交流施設の設置を図るとともに、コンテンツ産業強化のために芸術家や創作者の定住または滞在環境を整備する。地域に関する有益な資料はすべてデータベース化する。

●中心都市との連携を図るため、交通条件の改善などが必要な関連公共施設の整備を行う。

●地域の自然、歴史、文化についてのサイバー博物館、サイバー大学をつくる。この場合、その地方はもとよりわが国の自然、歴史、文化についても充分な学習ができるように配慮する。  なお、このリゾートオフィス等の地域振興モデル事業については、市町村が要望すればどこでも採択するというのではなく、事業効果の観点から「場所」についての厳しい採択要件が必要であろう。その地域要件として、私は次のようなことを考えている。

●高速道路、空港などの交通条件に恵まれていること。

●光ファイバーなどの超高速通信条件に恵まれていること。ただし、現状においてこの条件を満たさない場合、光ファイバーの敷設に関して道路管理、河川管理と連携を図って、すみやかに条件を整えることが可能な地域であること。

●オートキャンプ、渓流釣り、カヌー、レガッタ、登山、ハンティング、ゲレンデスキー、山スキー、歩くスキー、自然歩道、バードウォッチング、サイクリング、ゴルフ、乗馬、ホーストレッキング、ハングライダー、クラインガルテンなど、各種のリゾート環境に恵まれていること。ただし、自然環境には恵まれているものの現状において充分な施設がない場合、それらリゾート施設の実現性の高い整備計画があればいい。

●ビジターに対する地域の受け入れ体制が整っていること。たとえば、地域のサークル活動などにビジターが自由に参加できること。これからのビジターは、たんに観光や見学するだけでなく、訪問地でのさまざまな体験や交流により地域と深い関わりをもつことになるので、そのための地元の受け入れ体制というものが、このモデル事業を成功させるかどうかの重要な鍵を握っている。

●おおむね60分以内のところに中心都市があり、その中心都市に文化施設の集積があること。

●当該市町村及び中心都市の文化施設等の運営管理をPFIの対象事業とする。

 

 私たちは、これからに時代、「対称性社会の知恵」によって価値ある生き方を生きていかなければならない。白と黒、善と悪、都市と田舎、大企業と中小企業・・・・。どちらに偏してもいけない。違いを認めながら共和する心が大事だという古代から連綿と続いている歴史的な知恵を「対称性社会の知恵」と中沢新一は呼んでいる。

 都市と農山村との対立を超えて、互いに自立と尊厳を支えあう関係を作り出さないかぎり、私たちは生きる価値を失わずに生きていくことはできないのではないか。農山村の問題は、決してマイナーな問題ではない。私たちは、今、「都市と農山村との共生」を進めなければならないのである。

 また、これもすでに述べたことだが、日本には「違いを認める文化」というものがある。もし文化面で日本が世界に大きく貢献できれば、世界は変わる。世界平和のための国際貢献・・・・、これこそわが国の最大の課題だが、その基本は国際交流を深めることである。そして、国民参加の国際交流で大事なことは世界の人びとに来てもらうことである。

 これらの観点から、ビジター産業をわが国のリーディング産業に育てることこそ、国土政策上、もっとも重要な課題であると言えるのではないか。

 

註:以上は、最近上梓(じょうし)した拙著「劇場国家にっぽん」の中の一節ですが、私は、この一冊に、私の地域づくりのビジョンを掲げ、日本再生のヒントを挙げてみました。歴史のなかで光明を発する日本民族の魂と知恵。その魅力を紹介することが、日本の未来を切り拓くヒントになる、という衝動に駆られて筆をとりました。今こそ日本民族の魂と知恵の源泉をさぐり、この国のありようを検索すべきとき・・・・その思いに衝き動かされて筆をとった次第であります。この先、日本はどうなるのか? 日本人は何をなすべきか? 見えない未来に光を投げかけるのは、実は、歴史に埋もれた日本民族の魂と知恵ではないだろうか?

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[No2]

精霊の王/中沢新一

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。 

 

第一章 謎の宿神

 

 

 

2、守宮神(しゆぐうしん)または「宿神(シュクジン)」 

 

 蹴鞠の名人・成通(なりみち)の前に出現したという三人の「鞠精」の話を聞いたとき、人びとは、中世の芸能・技芸にたずさわるものたちの守護神と言われた「守宮神(しゆぐうしん)」の姿と重ね合わせて考えた。この「守宮神(しゆぐうしん)」は猿楽や田楽の芸人ばかりではなく、造園の技術者である作庭家や大工にはじまって、もろもろの細工師、金属の技術者、染織家などの技を見守る重要な神または精霊(スピリツト)であったのだが、その精霊(スピリット)がたまたま三人の「鞠精」の姿となって蹴鞠の名人・成通(なりみち)の前に出現したというわけだ。

 いま私は、「和のスピリット」というテーマで平和な世界の舞台をつくろうとしている。平和な世界の舞台というものは「和のスピリット」の出現する「場所」だという考えである。地域づくりというものは、まあいってみれば地域が元気になる「場づくり」のことであるから、平和な地域づくりとは、ある面で、「和のスピリット」の出現する「場所づくり」とも言えるわけで、いろんな「場所」で「守宮神(しゆぐうしん)」を祀ればいいということになる。「守宮神(しゆぐうしん)」こそ平和の使者ということである。日本はもちろんのこと、世界中、いろんなところで「守宮神(しゆぐうしん)」を祀っていけばいいのだ。

 問題は、「守宮神(しゆぐうしん)」とはどんな神かということである。

 

 「守宮神(しゆぐうしん)」はシュグジともシュクジンともシャグジとも呼ばれる。中世に発達したもろもろの芸道で、この神に関係を持たなかったもののほうがめずらしい。守宮神は芸能と密接な関係をもった、これほどに中世的な神もいないと思えるほどに、中世の神なのである。

 この神は、しかしいまだに多くの謎に包まれている。守宮神はまた「宿神」とも書かれる。このように書かれて、猿楽の能ではその神はきわめて重要な地位を占めてきた。

 能の演目中で最重要と考えられてきた「翁(おきな)」とは、この宿神の顕現の姿であると、猿楽の徒に代々伝承されてきたからである。

 ところが、翁の本体であるこの宿神について、ほとんどすべての能の指南書には「別に口伝あらん」と言って、口を閉ざしている。民衆的な芸能者の中でももっともソフィスティケートされた知性を持っていた猿楽者にしてからが、そうなのであるから、あとは推して知るべしである。それほど重要な神または精霊であるのに、守宮神(宿神)はいまだに解き明かされることのない、多くの謎をひめている。そもそもそれがどんな姿をしているのかさえ、定かではないのだ。

 その守宮神(しゅうぐうしん)が人の眼前に出現した希有な記録が、この成通卿の『口伝日記』なのである。もちろんそこには鞠の名人の想像界に働くイメージ(幻視)が、決定的な影響を与えていることはたしかだろう(おまけに、この『口伝日記』を実際に書いたのが、成通本人でない可能性も大いにある)。しかしそのイメージ造型の源泉が、芸能の徒に伝えられた守宮神をめぐる諸伝承の中に潜んでいることは、まずまちがいがない。鞠の精の姿形について成通の伝えた詳細な描写には、ほかの中世芸能の口伝書に語られた、守宮神や宿神の持つとされる特徴との、多くの点での共通点を見つけだすことができる。これは、たんなる個人的な幻視ではない。そして、個人的な体験の記録をとおして、その時代の精神の共通構造にたどり着いていくことも可能なのである。

 さあ、それでは、「守宮神(しゆぐうしん)」、いいかえて「宿神(しゅくじん)」の謎に迫っていこう。とてつもない秘密の洞穴を探検するようだが、これから先き、はたして何が出てくるのやら・・・・??? そう・・・今からワクワクするではないか。

 

 

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中津川の胞衣(えな)伝説

 

 

 旅は、思わぬものとの出会いがあって実に楽しい。宮本常一の「歩く、見る、聞く」ではないけれど、できるだけ歩くことだ。

 仕事での出張は旅とはいわぬかもしれないが、それでも早朝に歩くことだ。私はそうしている。今回の中津川行きは、参議院選挙の応援のためであったが、雨の中、傘をさして散歩した。

 私が中部地方建設局にいた頃の記憶にあった中津川に陰陽石のことを口に出したら、案内の方がついでに立ち寄ってくれた。ホテルからちょうど朝の散歩にいい距離であるので、翌日の早朝に写真を撮りに出かけたというわけだ。お目当ては、地元では夫婦岩といわれている陰陽石であったが、途中、思わぬ街の風情に出会い、そのときもまた大変楽しい散歩となった。

 

 

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[No1]

精霊の王/中沢新一/2003年11月/講談社

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

 

第一章 謎の宿神

 

1、藤原成通(なりみち)

 

 

 

 侍従成通卿(じじゆうなりみちきよう)(藤原成通、1097年生)と言えば、比例のない蹴鞠の名人と讃えられ、のちに難波(なにわ)家と飛鳥井(あすかい)家に分れた二つの蹴鞠道の家元からは、「鞠聖」とも呼ばれて尊ばれた人物である。

 優美にして明朗、誰からも好かれる人柄で、白河上皇の取り巻きの中でも、ずば抜けた才能の持ち主であった。笛の名手で今様もみごとに歌った。乗馬にも早業にも巧みで、その方面でも早くから才能をあらわした人であるが、その人がもっとも情熱を注いだのが、蹴鞠の道であった。

 私は先に、京都の白峯神宮を紹介したが、実は、その白峯神宮は、もともと飛鳥井家の屋敷跡で、境内末社としてかの蹴鞠で有名な飛鳥井家の鎮守さんを祀っている。そして、なにあろう・・・その鎮守さん・「精太明神」というのが、蹴鞠の神様のことである。鞠そのものが神様になったらしい。中沢新一の「精霊の王」では「まりの明神」の社と呼ばれている。

 

 『成通卿口伝日記(なりみちきようくでんにつき)』(『群書類従(ぐんしよるいじゆう)』巻354)の記述にしたがえば、藤原成通(なりみち)は、蹴鞠の庭に立つことじつに7000日を超え、そのうち2000日は1日も欠けることなく、連日鞠を蹴り続けたという。病気のときには、病床に鞠を持ち込んで、ふとんの端をまくりあげて、寝たまま鞠を蹴った。よほどの雨降りでないかぎりは、庭に出て鞠を蹴ったが、ひどい土砂降りの日には、大極殿へ出かけて仲間といっしょに練習を続けた。このような人物であったから、明朗な人柄の奥に、なにやら神秘的な雰囲気を感じ取る人たちも多かったらしく、生前から彼のまわりにはさまざまな不思議な出来事の噂が語られていた。 

 なかでも人々に深い感銘を与えたのは、成通卿(なりみちきょう)がある夜「鞠の精」に対面したという出来事であった。この出来事は当時の人々に深く記憶され、のちに後鳥羽上皇は成通卿と鞠精の出会いの光景を描かせて、その絵をおごそかに奉納までした。『口伝日記』によると、その様子はつぎのようであった。

 その成通が1000日の間休むことなく蹴鞠を続けた「千日行」満願の日に、成通は当時の蹴鞠の名手とうたわれていた人々を招いて、盛大に鞠蹴りの祭式を催した。蹴り上げた鞠の数は300、どの鞠も地上に落下することがないというほどの、名人技が繰り広げられた。そのとき庭には二つの棚が設けられ、一つの棚には鞠が置かれ、もう一つの棚には神棚を設け、御幣などが飾られた。蹴鞠のことが果てると、この御幣を取って鞠に捧げ、これを礼拝する儀式をおこない、ようやくめいめい座について、祝宴が始まった。乾杯ののちには各人とっておきの芸が披露され、さんざめく雰囲気の中で、今日の蹴鞠に参加した全員にご褒美の品物が手渡されたのである。

 その夜、ようやくくつろぎをとりもどした成通(なりみち)が、灯火を近づけて文机(ふづくえ)に向かって日記をつけようと、墨を摺っていたやさきのことだ。棚に置いてあった鞠が、ころころと転び落ちて、成通の前でふっと止まった。ゾクッとするものを感じた成通は鞠に目をこらした。するとそこには、いずれも顔は人間であるが、手足と身体は猿という、三、四歳ばかりの童子が三人、鞠の括り目のところを抱いて立っているではないか。あまりのことに驚いた成通は、声を荒げてこの童子たちに、「お前たちは何者だ」と問うた。するとその猿のからだに人間の顔をつけた童子たちは、「私たちは御鞠の精です」と応えるのであった。

 鞠の精たちは、成通をみつめながら、こう話しかけてきた。

 「昔からあなたほど鞠を好んだ人は見たことがありません。ましてこのたびは、念願の千日の蹴鞠も果たされ、私たちにもさまざまなお供え物がありました。まことに悦ばしく存じます。あなたさまのこと、また鞠のことを、いろいろ語りたいと思い、こうして出てきたしだいでございます」

 成通はそこで各人の名前を問うた。三人は「これをご覧なさい」と言って、眉にかかった髪をかき上げてみせた。すると一人の額には春楊花(しゆんようか)とあり、もう一人には夏安林(げあんりん)、さらにもう一人の額には秋園(しゆうえん)という文字が、いずれも金色で描かれていた。これを見た卿(きょう)はますます不思議なこともあったものだと驚きながらも、落ち着いた風情を装って、彼らにこうたずねた。

 「鞠は人が蹴鞠をするときには生きてあると言うこともできるが、人がそれをやめてしまえば、もうそれは生きてあるとは言えないだろう。お前たちはそうなったときには、どこに住んでいるのかね」

 鞠精の一人が楽しそうに応える。「蹴鞠がおこなわれているときには、もちろん鞠に憑いています。でも人が蹴鞠をやめてしまえば、ぼくたちは柳の木の生い茂る、気持ちのよい林中の木に戻って住むことにしているのですよ。人々が蹴鞠を愛好している時代には、国も栄え、よい人が政治を司り、幸福がもたらされ、寿命も長く、また病気もしないと言われております。また蹴鞠は、後世にもよい影響を与えると申されます」

 「蹴鞠が現世によい影響をもたらすとは、そのとおりであろう。しかしどうして死後のことにまで影響を与えることができるのかね」と成通卿。

 すると別の鞠の精がまじめな顔をして応える。「そのようにお考えになるのももっともです。人の心はたえず思い乱れ、一日のうちに心に浮かぶ思いのほとんどが、罪の種子となっています。しかし、鞠を好む人は、いったん庭に立ちますと、それからあとはただ鞠のことの他には何も余計なことを思わなくなります。そうなれば自然と心の罪はなくなっていき、輪廻転生にもよい影響をもたらす縁が生まれることとなるのです。蹴鞠をすれば功徳を積むことになるのですから、ますますこの道にお励みなされますよう。蹴鞠をなされるときには、私たちの名前を呼んでください。そうすれば、木を伝ってすぐに参上します。かならずご奉仕申し上げましょう。ただしまわりに懸木(かかりぎ)のない場所でおこなわれる庭鞠は、ご遠慮のほどを。木から離れてしまいますと、私たちはご奉仕することができません。さて、これから後は、ご自分にはこういうものが見守っているのだと、いつも私たちのことを心に懸けていてください。そうすれば私たちはたえずあなたを守護し、ますます蹴鞠の道に上達することを約束いたしましょう」

 こう言い果てるやいなや、鞠の精たちの姿はかき消すようにいなくなった。

 成通はこの夜の体験に深い衝撃を受け、特別に場所を定めて「まりの明神」の社を建てて、お祀りするようになった。のちの記録にはこう書かれている。「侍従大納言成通ときこえし人。この道の奥義をきはめて、神変不思議のことなどもありき……まりの明神をあがめ申されて、紀行景といふものを神主にさだめられて、種々の神事など行はれける。其みやしろ今にありとかや」(『享徳二年晴之御鞠記(きようとくにねんはれのおまりのき)』)。

 

 

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和のスピリット

 

 

 「地域づくり」は「人づくり」であり「場所づくり」である。私が「劇場国家にっぽん」を提唱する所以の一つは、「場所づくり」において演出というものが不可欠だからである。私は、ビジター産業を日本のリーディング産業にしたいと考えており、そういう立場からすると、「地域づくり」には「演劇性」が必要であり、どうしても演出家の助けが必要だ。場所の演出にあたっては、その歴史的背景や伝統や文化が密かに感じられることが肝要だ。例えば、日本的集落の構成原理については園田稔の素晴らしい研究があるが、「地域づくり」にあたっては、そういう学者の研究成果というものが訪れる観客に何となく感じられるような演出が望ましい。考古学的な研究成果によって、わが国の「歴史と伝統・文化」の実態が次第次第に明らかになってきており、そういった学問的研究成果にもとづいた「劇場性」というものがこれからの地域づくりの核心になっていくと思われる。

 

 そしてまた、「縄文との響き合い」とか「宇宙との響き合い」というものも「劇的空間」としては極めて大事である。きっと、そのような「地域づくり」は地域の人びとの流動的知性を養うに違いない。そして、そのことはまた、日本人の流動的知性を養うよすがとなろう。

 

 

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淳仁天皇の怨霊

 

 

 前に「いかみの怨霊」について述べたが、それは一部であって、奈良時代から平安時代に移行するその頃の権力闘争はものすごいものがあった。まあ、奈良時代から平安時代の初期は怨霊だらけといっていい。怨霊うじゃうじゃ・・・。その中でも天皇の怨霊がいちばん恐ろしいものがあったのはいうまでもないことである。その最たるものが「淳仁天皇の怨霊」である。

 

 760年、光明天皇がなくなった。藤原仲麻呂の最大の後援者が失われたことになる。老練な政治家、吉備真備(きびのまきび)がこの好機を逃すはずがない。

 孝謙天皇も、母親の死によってかえって権力意識が強くなり、弓削の道鏡と大ぴらに親しくし始めた。あまりの親密さに、政治的危機を感じた藤原仲麻呂は、淳仁天皇を通じて、二人の関係を告発する。孝謙天皇はやむおえず出家するが、ほとんど院政に近いかたちで実権は外さなかった。吉備真備(きびのまきび)の支えがあったからであろう。 

 吉備真備(きびのまきび)の外交工作が密かに行なわれる。そして、遂に、藤原仲麻呂の新羅出兵の近づいた時、クーデターが起こるのである。764年9月11日、孝謙帝は退位して高野上皇となっていたが、行動を興すのである。激戦の内に、高野上皇から仲麻呂は逆臣として指弾され、一転して仲麻呂軍は反乱軍となった。この鮮やかなタイミングの駆け引きの裏には当然、吉備真備(きびのまきび)の周到な読みと準備があったであろう。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)ら渡来豪族の国際派は、みな女帝の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味徒党34人が捕らえられ、湖畔で斬られた。哀れなものである。

 

 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は、もはや仲麻呂の率いる軍勢もなく、衣服もはきものもそこそこに、母と3、4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まって、淡路流配の身となった。淡路廃帝と呼ばれた天皇は、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、院中に薨(みまか)りぬ」と記されている。死因不明。暗殺の疑いが濃い。この幽憤は、怨霊としてやがて、皇室を悩ます。まだ33歳の若さだった。

 

 その淳仁天皇の怨霊をお祀りしてあるのが白峰神宮(しらみねじんぐう)である。京都の堀川は「戻り橋」からすぐのところである。歩いて5分。今出川堀川を東にいったすぐのところに白峰神宮はひっそりとある。この白峰新宮は、実は、明治になって創建されたもので、淳仁天皇の霊は、淡路島の御霊からお迎えして、京都にお祀りすることにしたのである。今は、淳仁天皇の霊は、崇徳天皇の霊とともに白峰神宮(しらみねじんぐう)にお祀りしてあるのである。

 

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空の天皇

 

 

 私は、さる5月26日の参議院憲法調査会で、次のように述べた。

 『 再度申し上げますが、私たちは「歴史と伝統・文化」に生きているのではありません。私たちはあくまで「歴史と伝統・文化」を生きなければならないのであります。そういう意味で、天皇は我が国の「歴史と伝統・文化」の象徴であります。それがゆえに、天皇は我が国の国民統合の象徴になり得るのであって、憲法改正にあってはそのことの論理が明確にされなければならないと私は考えております。』・・・と。

註:全文はここをクリックして下さい!

 

 ところで、私は、憲法改正について、以下のような考えを持っており、その基本的な考え方のみを述べたのである。 

 私は、日本が世界に誇れるもっとも良い点は「違いを認める文化」を持っているところだと思う。もしそうだとすれば、これは大変なことで、これからの新しい世界文明を切り開く力がわが国にあるということだ。日本の「歴史と伝統・文化」の何をもって「違いを認める文化」と言い得るのかということはそう簡単な問題ではない。哲学的な検討も必要だ。わが国のアイデンティティーが「違いを認める文化」にあることを明らかにするには、やはり学者の研究が欠かせない。私は、今後の研究が大いに進むことを期待しながら、この小著ではとりあえず、平安時代のとくいち徳一という一人の秀でた僧侶に焦点を絞って、その思想的背景を語ってみたい。いずれ明恵という鎌倉時代の思想家ついても言及ながら、憲法に関する私の基本的考え方を明らかにしたいと考えているが、ここではひとまず、そのさわりだけを述べておきたい。

 私は、時代というものは人々の予想を越えて変化していくものだと思う。なぜなら、後に詳しく述べるが、フランスの精神分析医ラカン(1901〜1989)の鏡像段階論で説くように、真実は言葉で語れないからである。人間は言葉を発明し、言葉で考える。その言葉が真実に迫れない限界があるとすれば、どんな思想にも、どんなシステムにもある種の限界というものが生じてくる。世の中の出来事というものは、誰かがそう考えたからそうなったというものではない。また、神がそう仕組んだものでもない。「モノ」の力によって、世の中のすべてのものは変化していくのである。したがって、どんなシステムを作ったとしてもある程度時代を経れば世の中の実際の出来事との間に矛盾が生じてくるのである。

 これからの世界はグローバルに激動していくので、河合隼雄はその点を心配して、これからは「矛盾システム」を生きていかなければならないだろうと言っている。たしかに、河合隼雄に言われるまでもなく世の中は矛盾だらけである。しかし、その矛盾を何とかするのが政治ではないのか。「下手な考え休むに似たり」というが、私たちがいくら考えたところで、なかなかいい知恵など思いつかない。ここはひとつ、先人の知恵に学んでみてはどうか。実はそこに、日本の未来が秘められているのではないか?古代の知恵のなかに、これからのわが国のあるべきかたち姿が見出せるのではないか。そう、「歴史と伝統・文化」を見直し、先人に学ぶことが日本にとって大きな救済になるだろう。

 私の考えでは、歴史というものはその時々、矛盾するものであっても、なんとかそれを乗り越える形で時代を形づくってきた。先人たちは苦しみつつも矛盾を乗り越え、なんとか苦難をやり過ごしながら歴史を刻んできた。よって「歴史と伝統・文化」のなかには先人の知恵がいっぱい詰まっている。

 政治というものは、その貴重な知恵の軌跡と凡例に学びながら、目の前の矛盾を一つずつ解決していくべきではないのか。政治理念の根幹は、実はそこにあるのでは?そう考えるとき、私はイギリスの不文律憲法に強い憧れを抱く。

 しかし、かくも世の中が複雑になってくると、やはり成文憲法が必要である。また憲法解釈にもおのずと限界があろう。それに異論を唱える人はいだろう。

 今の憲法は間違いなく押し付け憲法だと思う。日本の歴史と伝統・文化を知らない人が草案を作っているのだから、妙な箇所がいくつかある。そのためにも憲法を改正して、少しでも日本の歴史と伝統・文化にのっとった憲法に変えなければならない。

 改正案については、私なりの考えがある。多くの政治家が、それぞれに腹案を持っているだろう。自民党も民主党もそれぞれ党内で改正案をまとめることになり、議論が白熱するかもしれない。しかし、大事なことは、現状のまま放置しないで、わが国の姿(かたち)に合った、わが国らしい憲法に変えることである。政治は妥協である。自分の考えに固執していたのでは、いつまでたってもまとまらない。

 私は、憲法九条の問題や人権問題はもちろんのこと、参議院問題などについても強い関心を抱いて私なりの考えもいろいろあるが、今ここでは、これだけは譲れないという、もっとも重要な点だけを述べておきたい。

 先に、わが国のアイデンティティーは「違いを認める文化」にあると述べた。世界に誇るべきわが国の歴史と伝統・文化によって、今後、日本は世界に貢献していかなければならない。この考え方をまず基本にして、憲法改正にのぞみたい。そのことが、私の提唱する「劇場国家にっぽん」の場づくりにつながり、歴史と伝統・文化を生かしたの劇的空間を創るということにつながる。

 したがって、「劇場国家にっぽん」の観点からすると、天皇に関する憲法のなかでもっとも大事な条項である第一章第一条は、

 「天皇は日本国の歴史と伝統・文化の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

というように、「歴史と伝統・文化」という文言を付け加えなければならないと考えるのである。重ねて言うが、われわれ日本人のアイデンティティーは、太古から連綿と繋がっている歴史と伝統・文化によって創りだされ、それによって培われた「違いを認める文化」によって世界に通ずる普遍性をもつのである。

 私の政治理念の一つの根幹をなすものとして、古(いにしえ)の先人たちの叡智がある。その導いてくれる思想家の一人が、鎌倉期の名僧・明恵上人である。この八百年前の哲学者が残した意味深い言葉「あるべきようは」のなかに、違いを認めて共和する心を読み取るとき、強い憧れを抱くのである。明恵の思想についてはおいおいと勉強していくとしよう。

 

 さて、5月10日の皇太子発言がいろいろと話題になっているが、私も、宮内庁の体質には大いに問題があると思っている。彼らは、「歴史と伝統・文化」に生きているのであって、「歴史と伝統・文化」を生きているのではない。私たち国民は、「歴史と伝統・文化」を生きている。私に言わせれば、「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇及び皇室は、率先して、ホワイトヘッドのいうように、常に革新に努めなければならないのである。その足を引っ張っているのが宮内庁である。「流動的知性」が全く欠如しているのではないか。猛省を促したい。

 

 ところで、天皇及び皇室が、国民とともに、日本の「歴史と伝統・文化」を生きるということはどういうことか。具体的には・・・?

 

さあ、それではいよいよ

「空の天皇」のあるべき姿(かたち)

を探っていくこととしたい。

 そうしよう!そうしよう!

 

註:今まで、「空の天皇」に関係すると思われる「桃源雲情の」ページは、かなりのものがあります。その主なものはここをクリックして下さい!

 


 

流動的知性とは

 

 

 流動的知性というのは、まあいうなれば、一つの考え方にとらわれないで、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことのできる知性であるといっていいでしょう。 流動的知性という言葉は、スティーヴン・ミズンが最初に言い出した言葉だと思いますが自信はありません。中沢新一がよく使う言葉です。

 スティーヴン・ミズンは、心を考古学から解明しようという研究といっていいかもしれませんが、私たちの知性や心が何千万年とかけてどのように発達してきたかを研究しており、彼の著書・「心の先史時代」(松浦俊輔, 牧野美佐緒訳. 1998年8月、 青土社)によると、私たちの脳には博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などそれぞれの部屋があるのだそうです。それぞれが専門的な仕事をおこなっているのですが、それらはほとんど関連せず、単独で動いていて、お互いに関連していません。ところが、現代人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、つまり現代の私たち)にだけ、流動的知性というものが備わっています。これはそれぞれの部屋をつなぎ、関係させる知性のことです。そしてこの知性は「関係の中にある何か」に、意味を与えようとしてきたのです。コンピュータでいえばネットワークコンピュータが出来たといってもいいかもしれません。これによって、現代人類はネアンデルタール人に比べ、小さな脳を持ちながらも、多大な文化を生み出すにいたったのだそうです。

 人間には本来こういう流動的知性を有しているので、博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などのある特定の知性にこだわらなければ、無意識のうちにもいろんなことがらを勘案しながら、そのときどきのもっとも良い判断をくだすことができる筈ですが、人間は生活環境や教育環境などさまざまな環境によって知性の流動性というものを失いがちですので、本来の能力を発揮できなくなるようです。したがって、博物的知性、社会的知性、技術的知性、言語的知性などを高めながらも、どうすれば特定の考えにこだわらないで流動的知性が発揮できるかということが問題となります。

 特定の考え方にこだわらない知恵、それが中沢新一のいうところの「対称性社会の知恵」であります。私流にいえば、「両頭截断」ということになりますが、世の中すべて対称性があります。善人がおれば悪人がいる。権力的な抑制があれば非権力的な自由がある。男性的なものがあれば女性的なものがある。光の部分があれば陰の部分もある。世の中にはまあいろんなものがあるんですね。千差万別。まさに曼陀羅(マンダラ)の世界といっていいのではないでしょうか。私は、このことを華厳哲学は教えていると思うのです。

 中沢新一と赤坂憲雄との対談「網野善彦を継ぐ」(2004年6月、講談社)の中で、中沢新一は、「無縁・公界(くがい)・楽」(網野善彦、1978年、平凡社)において網野善彦が語った人びとの「欲望」について、『 現実の中でつねに否定されて、短い期間に限って、ちいちゃな空間の中に自分を実現した欲望が、まるで夢のようなかたちで出現しますが、つねに権力がそれを破壊したり、自分の中に組み込んでしまおうとしていく過程が起こります。』・・・と述べています。人びとの欲望というものが社会的な問題になるときは、つねに権力との関係がぎくしゃくしているということでありましょう。権力との関係がいくらぎくしゃくしても、なお、人びとの「欲望」はそれを乗り越えて・・・まさに夢のようなかたちで出現するということでありましょう。

 私は、人間には流動的知性が備わっているため、人びとの「欲望」をある特定の枠の中に閉じ込めてしまうことはできないのだと思います。特定の枠の中から飛び出す・・・、それが「自由」というものではないでしょうか。人間は、流動的知性があるからこそ「自由」を生きることができるように思われます。

 日本では、西洋に比べて、現在なお流動的知性が濃厚に働いているように思われます。いろんな場で申し上げてきたように、私たちは、「歴史と伝統・文化」を生きているのですから、何を考えるにしても「歴史と伝統・文化」が基礎になります。したがって、わが国の「歴史と伝統・文化」のなかでその流動的知性がどのように働いてきたのか、実証がなければなりません。その偉大な作業をなしたのが網野善彦の「無縁・公界(くがい)・楽」であります。この研究成果の評価はあまり芳しくないようですが、私は、中沢新一などと同じように、極めて高く評価したいと思います。網野善彦の「無縁・公界(くがい)・楽」を語らずして天皇制を語ることはできないと考えているからです。人びとの流動的知性がわが国の天皇制を支えているし、そういうわが国民の象徴としての天皇自身にも、当然、流動的知性が働いているのでありましょう。

 流動的知性は、わかりやすくかつ端的にいってしまえば、「バランス感覚」といっていいかもしれません。

 

 

対称性社会の知恵 ・・・その他26個のページがあります!

両頭截断 ・・・その他両頭切断など48個のページがあります。

人権問題と「劇場国家にっぽん」・・・啓発のための社会装置を如何に作るか

 

神にならなかったグレートスピリット

熊の主題をめぐる変奏曲

神話と現実

マメの神話学

南方熊楠

日本神話の構造・・・中空均衡構造

トライアッド

縄文・ミシャグチ・道祖神

新しい文明の鍵・「後戸(うしろど)」

魔多羅神 ・・・天下の奇祭・「広隆寺の牛祭り」も是非御覧下さい!

 

メビュース縫合型とトーラス型

現代の社会問題と唯識・・・唯識の現代性

 

註:「場所」に関するページはここから入って下さい! 西田哲学の心髄に触れることができます。「場所」に関するページは、ほとんどの場合流動性知性と関係があります。

 

註:「流動的知性」は中沢新一がよく使う言葉ですが、私は、かって、「ハイブリッド思想」と呼びながら、この問題に取り組んだことがあります。是非、ここをクリックして下さい! 田辺哲学の心髄に触れることができます。

 

註:「モノとの同盟」はここから入って下さい! 中沢哲学の心髄に触れることができます。これからの時代、「流動的知性」を働かせて世界の平和を実現するということは、「モノとの同盟」を実現することに他ありません。是非、中沢哲学の心髄・「モノとの同盟」を勉強していただきたいと思います。

 


 

流動的知性 偉大なるクラウンマザー

 

 

 奥さんとか奥方というのは、常に奥に居て、表に出ないけれども、実質的にはいちばんの実力者だ。人類は、おばあさんと、子供と孫の三世代が同居する唯一の生物であると言われている。 

 家にはおじいさんも居るかもしれないが、どうしてもおばあさんには頭が上がらないのではないか。したがって、家の大事はすべて、おばあさんが仕切ることになる。おばあさんが偉いのだ。おばあさんが居たからこそ、人類はこのように発展してきた。一見、根拠のないウソ話のようだが、どうも本当らしい。

 ものごとの理解の仕方には部分的な見方と、包括的な見方と二つの方法がある。おばあさんはそれまで生きたいろんな経験をもとに、ものごとを包括して見ることができる。おじいさんは死んでしまってもう居ないという家が多いが、元気に生きていても大体は、盆栽など何か一つのことに凝ってしまって、もう全体が見えにくくなっているのではないか。部分的な見方は、思考の流動性に欠けるので、思考停止になりがちだ。やはり流動的な思考でないと、全体が見渡せないし、脳の進化もしにくいのではないか。私は、そんなことを思いながらおばあさんの偉大さを考えている。おばあさんが居たからこそ、人類はこのように発展してきた。私にはよくわかる。

 さて、インディアンには「クラウン・マザー」という、おばあさんのなかのおばさんが居る。まあ、普通のおばあさんといえば普通のおばあさんだが、子供を育て、人に優しく世話好きで、もっとも人望のあるおばあさんが「クラウン・マザー」に選ばれるのだそうだ。普段は権力的なことはとくに何もしないのだが、実は、大酋長がおかしくなったと思ったら、その首を切ることができるという。もちろんいきなりというのではなく、三回注意して直らなければ……ということらしい。しかし、大酋長の首切りができるということはすごいことだ。そして、こんなシステムを持っているインディアンはすばらしい。「クラウン・マザー」は、表面的なことだけでなく、ものごとの真実が見えているということだろう。

 私は、この「クラウン・マザー」というシステムを生み出したインディアンの大いなる知恵に「平和の原理」が隠されているように思われてならない。後でおいおい説明していくことになるが、私は、平和には「奥の奥」という感覚が大切だと考えている。表も大事だが、奥も大事である。光も大事だが、陰も大事なのだ。御本尊だけではどうも元気が出てこない。進化に自ずと限界が出てくるのではないか。御本尊のほかに「後戸」の神が必要なのである。アメリカという御本尊に「後戸」の神としての日本。そんな思いを抱きながら私はイラク戦争を見ている。

 

 ラカン(1901〜1989。フロイトの考え方に新生面を拓いたフランスの精神科医・精神分析家)の鏡像段階説ではないけれど、言葉では真実は語れないのだ。我々がいかに考えても、その時に考えつくことなんて大したことではないのではないか。生活に関わることは、おばあさんの知恵で何とかいけるだろう。しかし、社会的な事柄については、歴史の知恵というか、歴史と伝統・文化に学ばなければやはり正しい判断はできないのではないか。歴史を生きるということはそういうことだと思うのである。

 

さあ、それではいよいよ「流動的知性」

探究の旅に出かけるとしよう!

そうしよう!そうしよう!

 

註:今まで、流動的知性に関係すると思われる「桃源雲情の」ページは、かなりのものがあります。その主なものはここをクリックして下さい!

 

 


 

流動的知性にもとづいて

 

 

 私は先に、『 現在、私が重大な関心を寄せている二大政策課題は、わが国の「歴史と伝統・文化」と「天皇制」と「NPO」に関連して「憲法問題」であり、「モノとの同盟」と「農山村」と「NPO」に関連して「地域貨幣の問題」であります。』・・・と述べた。

 しかし、こういう具体の政策課題を解くには、哲学的な思索の助けを借りて、本質的な問題というか原理原則的な問題を明らかにしていかなければならない。明らかにするということは、自分の思想もさることながら、わが国の「歴史と伝統・文化」に照らしてどうか・・・、その点を明らかにすることである。

 

 世界のアメリカ化が危険視され、現代の科学文明の限界が懸念される今日、中沢新一がいうように、私たちが依って立つべき学問は「対称性人類学」であり、私たちが頼りにしなければならない「知性」は「流動性知性」である。

 私たちは、現下の問題について、できるだけ「流動的知性」を働かせながら哲学的な思索を深めると同時に、わが国の輝かしい将来のために、そういった「流動的知性」を育むためのさまざまな「場所づくり」を・・・・、国土政策の重要な柱として、実践していかなければならない・・・と考えている。

 その際、「妖怪」、「縄文」、「東北」、「神話」、「自然」、「宇宙との響き合い」などさまざまなキーワードがあろうかと思うが、それらを一言でいえば・・・「スピリット」ということになるのではなかろうか。今後の新しいホームページでは、どのように形でまとまっていくのか、まあ、歩きながら考えていくこととしたい。

 同じ思いを持つ仲間と交流しながら、いろいろな場所を訪れたい。特に私がこだわっている「こだわりの場所」は「河童」の棲む川であるが、人それぞれ心に深く刻み込まれた「場所」があると思う。自分の「好きな場所」をどれだけ持つことができるのか、人生の意義はそれで決るのではなかろうか。

 

 ところで、現下の問題については、私の見るところ、早急に解決しなければならない問題として、やはり本質的な問題というか原理原則的な問題が二つある。新しいホームページ「劇場国家にっぽん」の中心的テーマである。

 ひとつは、「流動性知性」を働かせながら私たちの精神的活動というか宗教的活動のあり方を探ることである。その鍵は「スピリット」にあるが、わが国の場合、多神教と仏教の習合が問題になり、私はすでに「徳一」への接近を試みた。現在は、「明恵」への接近を試みようとしているが、さらに根本的にわが国の精神的活動というか宗教的活動のあり方を探るためには、わが国の「歴史と伝統・文化」に照らして考察を深めていかなければならないだろう。とりあえずは、「国分寺」と「廃仏棄釈」の問題にアクセスすることとしたいが、はたして、将来、どのようなテーマが生じてくるのであろうか・・・・。

 今一つは、「流動性知性」を働かせながら私たちの物質的活動というか経済的活動のあり方を探ることである。先に述べたように、現在、「地域貨幣」の問題が世界的にクローズアップされてきており、物質的活動というか経済的活動のあり方を解く鍵は・・・どうも「貨幣」にあるようだ。しかし、この「貨幣」の問題も根本的には、やはり・・・わが国の「歴史と伝統・文化」に照らして考察をしなければならないのあり、私の見るところ、結局は、中沢新一のいう「純粋贈与」というか「自然」の問題に帰するのではなかろうか。わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴は「天皇」である。したがって、「劇場国家にっぽん」では、「象徴天皇」を中心として・・・・この「贈与経済」の問題を考えて参ることとしたい。そのためには、権威と権力の棲み分けに混乱が見られる近代は別として、中世から近世にわたって、天皇なり寺院という権威がどのような経済に支えられていたのか、その辺りを勉強していく必要があるのではないか。私は、そういうわが国の「歴史と伝統・文化」を十分踏まえ、そして現在の「地域貨幣」の国際的動きも視野に入れながら・・・・、今後、わが国における「流動性知性」にもとづく経済活動のあり方というものを明らかにしたいのである。

 

 次へ!


 

あるべきようわ

 

 

 「劇場国家にっぽん」もいよいよ「明恵」の思想を勉強する段階になり、どうやら中沢新一の「モノとの同盟」を具体的に考えることができるようになったかと感じています。まだまだ未熟ですが、とりあえずは哲学からその実践に移行していこうと思っています。もちろん、「光と陰の哲学」を引き続き勉強しながら・・・ということになりますが、その実践、つまり具体の政策を提案していきたいのです。現在、私が重大な関心を寄せている二大政策課題は、わが国の「歴史と伝統・文化」と「天皇」と「NPO」に関連して「憲法問題」であり、「モノとの同盟」と「農山村」と「NPO」に関連して「地域貨幣の問題」であります。

 

註:今までにアップした「劇場国家にっぽん」(総論)は、

総論その1、天皇制の劇的空間 

総論その2、「東北」への旅立ち 

総論その3、神話の劇的空間 

総論その4、宇宙との響き合い 

総論その5、徳一とその劇的空間

 

 

 近々、『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』という本を出す予定であり、それを契機にこのホームページもリニューアルしようかと考えています。それまでの間、今までのとおりです。

 考えてみますと、河川環境管理財団時代にパソコン通信は、HP(ホームパーティー)なるものをはじめて、かれこれ10年という月日が立ちました。その間ほとんどリニューアルしないできましたので、何と申しましょうか、私のこのホームページ「桃源雲情」も骨董的価値が出てきて、手放しづらいのですが、この際思いきってリニューアルしようと思います。タイトルも「桃源雲情」から「劇場国家にっぽん」に変えたいと思います。

 

 私の今までの著書は、「風土と地域づくり -風土を見つめる感性を育む-」、「21世紀 建設産業はどう変わるか -建設エンジニアのパラダイム転換-」、「桃源雲情-地域づくりの哲学と実践-」の三冊ですが、前の二册は共著でありますので、私の本ということになりますと、今回の『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』が二冊目になります。ですから、ホームページのタイトルも「桃源雲情-地域づくりの哲学と実践-」を変えて・・・『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』にしたいと思います。

 

 

 さて、『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』のいちばん難しい問題は、「地域通貨の問題」であります。「モノとの同盟」を実現するには「地域通貨」が欠かせません。国内問題でいえば、農山村の「活充化」を実現するには、どうしても「NPO」の活躍が必要ですが、それを支えるのが地域通貨です。

 

 なお、土地は経済活動を支える基本財ですが、私的財はともかく、公共財は、「利子のつかない交換貨幣(地域通貨の交換のために日本銀行が発行する交換貨幣)」で取引が行なわれる必要があるようです。

 経済活動は、市場原理にもとづく通常の経済活動と・・・どうもその範疇には入らないボランティア経済活動というか贈与経済活動に分けるのが良い。一国二制度・・ですね。中沢新一いうところの「モノとの同盟」の経済システムです。したがって、貨幣も「利子のつく貨幣」と「利子のつかない貨幣」の二つが流通する訳です。

 公共工事において、その用地は、土地収用法が適用され得ることを見て明らかなように、土地所有者は金もうけのために土地を手放すのではない。もちろん、通常の評価額より高額で譲渡されるべきだと思いますが、土地所有者は、公共事業のために手放すのであり、その精神はボランティアの精神というか贈与の精神であります。したがって、支払いは「利子のつかない貨幣」で行なうのが合理的なのです。坪当たり10万円の土地ですと、「利子のつかない貨幣」12万充(じゅう)が支払われますが、それは両替えして10万円プラスアルファーの充分な補償額を手にすることもできます。金もうけのしたい人はそのように両替えすれば良いのです。金もうけを望まない人は、12万充(じゅう)のまま持って、贈与経済の世界で公共サービスを購入すれば良いのです。

 なお、一生懸命金もうけに励んできた人があるときボランティア精神に目覚め、贈与経済の世界に入りたい場合は、たとえそれがジョージソロスのような金もうけの権化のような人であっても、寄付をするという気持ちになれば良いのです。つまり、円を充(じゅう)に換算するときは、為替レートが低いのです。10万円が8万充(じゅう)にしかならない。その差額は、今までの罪滅ぼしをして贈与経済の世界に入るための寄付みたいなものでしょう。

 当面、地域通貨の使い道を広げるために、ボランティア活動によるサービスの他、公共の宿泊施設など様々な公共サービスの利用に際しても、原則的に、地域通貨で支払うようにすれば良いと思います。

 地域通貨は、それぞれの地域で勝手に発行している通貨でありますが、それが全国に流通しうるように、適当な為替レートで両替えでいるようにすれば良いと思います。円と充(じゅう)と両替えするときだけ、両替えする方が損をするようにしておけば良い。損というか贈与の精神ですね。寄付が考慮されていると考えても良いでしょう。

註:上記の充(じゅう)という「利子のつかない貨幣」の単位は、今適当な呼び名がないので、とりあえずjuuu-netのjuuuを使っています。仮の名です。juuuの充(じゅう)です。なお、円の由来はここをクリックして下さい!

 

 この「利子のつかない交換貨幣」は、もちろん地域通貨の発行量に応じて発行されます。日銀が発行するのです。ところで、地域通貨の発行量は、公的なサービスを含めて、NPO等の活動が活発かどうかに係わっていますので、結局は、「利子のつかない交換貨幣」の発行量もNPO等の活動次第ということになります。NPO等の活動が活発になればなるほど、「利子のつかない交換貨幣」の発行量は増えていきます。公共用地はそれで取得し、その分だけ国の累積債務を減らしていくことが可能になる。地域が生き返り、国の累積債務も減少させ得る。まさに、「利子のつかない交換貨幣」は、わが国の救世主になるのです。

 

 しかし、私は、「利子のつかない交換貨幣」に関して、わが国の国内問題だけでその必要性を言っているのではないのです。視野は世界に向いています。現在の利子を生む貨幣では世界は滅びるのです。アメリカでは1%の人の金と99%の人の金が量的に同じなのです。こんなバカなことが許され良いはずはありません。こういう「世界のアメリカ化」は絶対に防がなければなりません。多分、「利子のつかない交換貨幣」は「世界のアメリカ化」を防ぐことができるはずです。

 「モノとの同盟」が実現するのです。「同盟」です。アメリカの顔も立て、日本を始めとする「スピリット」の国々の顔も立てるのです。キリスト教と「スピリット」との同盟です。日本が中心となって、「東北」つまり「環太平洋の環」の国々に呼び掛けなければなりません。

註:ややくどいですが、いちばん最初の「モノとの同盟」というページはこれです!

 

 それには、「隗より始めよ!」・・です。まずは、自分のできるところから・・・です。NPOの活動に参加し、NPOの活動を活発にするところから始めましょう。私たちの言い方でいえば、地域の活充化、NPOの活充化です。それにはNPOのネットワークが必要です。

 

 それが「juuuーnet」です。みなさん、よろしくお願いします!

 

註:この文章は、少し前にjuuu-netの仲間である針貝武紀さんからいただいたメールを見て日頃の思いを綴ったものです。誠に未熟なものですが、みなさんの意見もお聞きしながらおいおい磨きをかけていきたいと思います。この「地域通貨」なり「利子のつかない貨幣」はこれからの「劇場国家にっぽん」の重大な課題です。

註:今までのWhatsNewはここをクリックし下さい。

 

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WhatsNewの履歴

 

註:このWhatsNewは、おおむね平成16年6月からのものですが、それ以前のWhatsNewは次の通りです。

 平成16年1月〜6月は、上記の註と同じですが、ここでもOK!

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 それ以前のものは、ここから入ってご覧いただけますが、 当時の整理が悪くて、古いものはその履歴がもうわからなくなっています。ただし、履歴はともかくとして、すべてのWhatsNewはこのページのどこかに収納されている筈です。つまり、このページは過去にアップされたページのデーターベースになっているという訳です。