子どもの教育の原点は何か?



平成19年11月10日
国土政策研究会会長 岩井國臣




はじめに

 私の言いたいことは、「子どもの教育の原点は何か?」ということである。私が思うに、教育の問題というのは、社会全般の問題であって、教育基本法を改正 すればよいというような単純な問題ではない。
 私が思うに、子供たちは幼児の頃から外に出て遊ばなければならない。教育ママを意識して言えば、子供たちは幼児の頃から外に出て学習しなければならない のである。何を学習するのか? それは・・・・・・、 人生にとって、あるいは生きる上で、もっとも大事なものを学習するのである。もっとも大事なも の・・・、それは・・・いろんなものに驚くことである。それが未知のものに対する関心を呼び起こし、やる気というものが出てくるのである。将来に向かって やる気を出すのである。「やる気」だ。生きる上でもっとも大事なもの、それは「やる気」であり、それは外でないと学習できないのである。
 願わくは、子供たちに「野生の感性」が身につくよう導かなければならない。外には、近くの外、遠くの外があり、「野生の感性」という視点で見たとき、遠 くの外には「驚き」がいっぱいある。だから、社会構造として見たとき、遠くにこそ拠点があると言えるのである。実は、「野生の感性」だけではない。私たち は、子供のときから、地球とか、大地とか、自然とか、歴史伝統文化に対する感性、すなわち「ジオ的感性」を養わなければならないのである。
 私は声を大にして言いたい。白滝ジオパークを「ジオ的感性」を養う大拠点、しかも世界的な大拠点にしたいということだ。母親や父親、それに教育関係者な ど世界から多くの人が白滝ジオパークにきて、子供たちが、驚きのなかに「野生の感性」を身につけ、そして・・・・・、地球とか、大地とか、自然とか、歴史 伝統文化に対する感性を身につける・・・・そのようなさまを実際に見ることができるであろう。そのためのカリキュラムが用意されなければならないが、白滝 というところはそういうことのできる格好の「場所」である。そういう「場所」はどこにでもあるというものではない。白滝というところは「子どもの教育の原 点は何か?」ということに思索をふける・・・・、そういう「場所」でもある。



1、小学生殺人事件について

 最近の小学生殺人事件として、加古川市小学生殺人事件は皆さんの記憶にも新しいことと思う。さる10月16日(火)午後6時5分ごろ、加古川市別府町の 自宅前路上で、女子児童が刃物ようのもので刺され、死亡する事件が発生した。犯人は現在も逃走中である。小学生や未就学児が犠牲になる事件は近年、全国的 に後を絶たない。昨年一年間だけでも百十件発生し、警察や地域の取り組みは進んでいるが、依然として厳しい状況が続いている。
 警察庁によると、未成年者が被害者となった殺人・殺人未遂事件は昨年一年間で156件。このうち0〜5歳が70件、6〜12歳が40件、13〜19歳が 46件で、5歳以下の幼児の被害が多かった。
 秋田県藤里町では昨年五月、小学一年生の男児(7つ)が近所に住む無職の女に絞め殺され、遺体を捨てられた。女の娘(9つ)はその一カ月前、水死体で見 つかった。その半年後には、同県大仙市で男児(4つ)が、母親と知人の男に頭や顔を殴られるなどして殺された。
 滋賀県長浜市では昨年二月、通園途中の幼稚園児二人が、別の園児の母親に刃物で殺害された。
 また、兵庫県内でも昨年九月、たつの市で小学四年の女児(9つ)が近づいてきた男にいきなり刺され、軽傷を負った。
 今年に入っては、五月にJR横浜駅前で二歳の女児が刃物でいきなり襲われ重傷を負ったほか、七月には宮城県大郷町で小学六年の女児が、今月五日には北九 州市で中学二年の男子生徒が通学途中に刃物で刺された。
 その他、栃木女子小学生誘拐殺人事件、京都小学生殺人事件、佐世保6幼児殺人事件、奈良小学生殺人事件など枚挙にいとまがない。


 10年ほど前になるが、世間を震撼せしめた事件として神戸の小学生猟奇殺人事件がある。私は、これほどショッキングな事件も、実は、いつ誰が引 き起こしてもおかしくない今の社会情勢だと考えている。教育問題を考える際に、やはり直視しなければならない。私は、これほどショッキングな事件も、例外 的なものとして決して見過ごしてはならないのではないかと思っている。したがって、「子どもの教育の原点は何か?」ということを考えるにあたって今一度あ の事件を振り返っておきたいと思う。

 平成9年5月27日朝6時40分頃、兵庫県・神戸市の市立友が丘中学校の職員が学校の正門を開けようとしたところ、児童の切り裂かれた頭部が鉄製扉前に 置かれているのを発見した。警察が駆けつけ現場検証を開始したところ、頭部は同校の西方1km先のマンションに住む市立多井畑小学校6年生・土師淳君(当 時11歳)と判明した。

 更に同日の午後3時頃、淳君の住むマンションの前にある通称「タンク山」にあるケーブルテレビのアンテナ基地(四方を金網で囲まれており入り口には頑丈 な南京鍵がかけられてある)で、淳君の胴体が発見された。

 淳君は、3日前の24日午後1時30分頃、「近所のおじいちゃんの家に行ってくる」と言って出たっきり行方不明になっていた。地元住民、学校関係者や須 磨警察署らが懸命に捜索していた矢先であった。

 実は、この閑静な住宅街「須磨ニュータウン」では、2月10日に小学校6生年の少女2人が頭を金槌で殴打されて負傷し、3月16日には小学校4年生の少 女がはやり金槌で頭部を強打され1週間後に死亡。この直後、小学校3年生の少女も腹部をナイフで刺されるという事件が連続して発生、地元住民は恐怖と不安 の中にあった。

 淳君の頭部は、口から耳元にかけて切り裂かれており、また目にも瞼にかけて?状に傷つけられていた。更に、切り裂かれた口にA4サイズの紙片がくわえさ せられていた。この紙片には「学校殺死の酒鬼薔薇聖斗」という署名で「さあゲームの始まりです・・・愚鈍な警察諸君・・・ボクを止めてみたまえ・・・ボク は殺しが愉快でたまらない・・・」といったメッセージが手書きされていた。

 酒鬼薔薇聖斗の2回目のメッセージ(挑戦状)は6月4日、地元の神戸新聞社に郵送されてきた。1300字にのぼる内容、脈絡からかなり高い教養をもった 30歳〜40歳前後の人間像が推定できた(学識者の意見)。
 確かに、27日の早朝、黒いブルーバードが中学校正門前に停車していたことをトラック運転手が目撃していたり、正門近くで黒いビニール袋を持ってうろつ く30歳〜40歳の男を近所の老婦人、新聞配達の人たち多数が目撃していた。

 ところが、須磨警察署はそれまで報じられていた犯人像とは似ても似つかない近所のA(当時14歳・中学3年生)を6月28日逮捕したのだった。皮肉に も、Aの両親は淳君捜索を手伝っていた。

Aは大手製薬会社に勤務する技術職の父親と母親、弟(当時、中学1年生)と末弟(当時、小学校4年生)の5人家族。両親の躾は厳しく、Aが小学4年生の 時、母親から強い叱責を受けて異常なまでの「泣き方」をしたという。医者からは「小児ノイローゼ」と診断されたため両親は一転して「放任主義」に変わった という。

 Aが小学5年生の時、一番可愛がってくれた祖母が亡くなると異常な行動が目立ち始めた。この時を境に死への興味を抱くようになり、近所の猫や小鳥など小 動物を虐待したり殺すことを繰り返していく。異常な残虐性を持ったAは近所でも有名で、友人もAを恐れて離れていったという。

 なお、教育が抱える現下の深刻な問題に学力低下の問題がある。学校5日制がゆとり教育とともに、学力低下の原因になっているのではないかという意見が強 まり、政府の教育再生会議など関係方面でいろいろと議論がなされている。福田首相も『社会総がかりの教育再生』を掲げているので、方向性は福田内閣のそれ とそれほど変わらないのではないかと思われる。しかし、学力低下の最大の原因は『学ぶ意欲』の低下にあるとの意見も強い。私もそう思う。
 また、教育再生会議では徳育の問題も議論されているが、財団法人「さわやか福祉財団」の堀田力理事長がいうように、道徳は子供たちがいろんな行動や体験 の中で習得していくものであり、強制的だったり画一的に教えるものではない。
 最近多発する小学生殺人事件も、私の考えでは、基本的には、「やる気」の問題である。かかる観点から、学力低下の問題と徳育の問題については、ここで特 に取り上げないで、小学生殺人事件のみを取り上げた次第である。「やる気」も道徳も、結局は、子供たちがいろんな行動や体験の中で習得していくものであ る。



2、脳内汚染

 「脳内汚染」(岡田尊司、文芸春秋)という本にもとづき、最近多発する小学生殺人事件の社会的背景をきわめて要領よく論説したホームページがあるので、 ここではそれをまず紹介しておきたい。
http://homepage1.nifty.com/Woodnote/books/others/nounai_osen.htm


 
 最近、頻発している凶悪な犯罪。青少年を中心とした、常識では考えられない殺人事件が、連日紙面をにぎわすようになったのは、いつ頃からでしょう。近 年、加害者の年齢層は、児童から中年に至るまでの広がりを見せていますが、その冷酷とも言える犯罪の手口と、加害者の低年齢化は、今や世界的規模で問題に なっています。何が加害者たちを、このような犯罪に駆り立てたのか。教育、社会、学校、そして家庭。さまざまなものが原因として取り上げられていますが、 全ての国の、あらゆるケースに当てはまる答えは、これまでのところ出ていなかったというのが現状です。
 しかし、『世界中で同時進行的に、同じベクトルをもった変化が、しかも急速に生じているとすると、それは、個々の社会さえも超えた超社会的な要因が、ど の社会にも、どの個人にも作用している結果だと考えた方が理解できる』のではないでしょうか(『』内は本文プロローグより引用)。本書は、この問題に対し て、マスメディアが脳にもたらす影響という観点からスポットを当て、精神科医である筆者が得た臨床調査結果と、さまざまなアンケートの結果に基づいて、考 察を加えたものです。
 一読して、戦慄を禁じえないというのが、偽らざる感想でした。私たちが、日常何の気なしに触れているもの・・・報道、ドラマ、映画、アニメ、漫画、ゲー ム、そしてインターネットといったマスメディアが、脳にこれほどのダメージを与えているとは。それはまさに、精神の麻薬であり、気づかないうちに私たちを 蝕んでいるというのです。しかも、脳が成長過程にあり、柔軟に刺激を取り込んでしまう子供たちほど、そうしたものによって傷害を受けることが大きいと知 り、私は背筋が寒くなるのを感じました。
 にわかには信じがたい事実ですが、データはその正しさを裏付けてくれます。以下に、本書の内容を、紹介させていただきたいと思います。

 たとえば、アメリカのハイスクールで起きた銃の乱射事件。
 あるいは、テレビを見ていた兄に、中学生の弟が、いきなり斧を振り下ろした事件。
 またあるいは、進学校に学ぶ優等生が、小学生の女児らに対して、強制わいせつを繰り返していた事件。
 最近頻発している、こうした事件の犯人には、国籍や育った環境が異なるにも拘らず、いくつかの共通点があります。
 ・無感覚に犯罪を行っていること。
 ・凶行に至る動機が乏しいこと。
 ・犯行時のことを「良く覚えていない」こと。
 ・罪悪感がないこと。
 ・ゲームやアニメビデオ、インターネットに耽溺していたこと。
 特に、最後の一点については、現在アメリカなどでも、激しい議論が巻き起こっています。つまり、犯行の手口が、ゲームやアニメと全く同じであるというこ とです。また、事件を起こした動機についても、犯人たちはこう言っています。「ゲームの中のことを、実際に試してみたかった」と。

 こうした犯罪や非行の「ゲーム化」は、凶悪な事件や性犯罪における、最近の傾向であると言われます。犯罪者には、しばしばゲームをプレイしているかのよ うな心理が見られ、かつての少年非行では考えられないような知能犯や営利犯罪が、ゲーム感覚で行われているのです。
 犯罪者の多くは、ごく普通の家庭環境で育った、ごく普通の子供や若者。にも拘らず、彼らは、まるでゲームをプレイするように、一瞬の欲望とスリルのため に、人を殺し、物を盗み、幼い娘を陵辱する。ここに、こうした犯罪の戦慄すべき特徴があります。
 このタイプの犯罪者に共通するのは、罪の意識の希薄さであり、それと表裏一体の現実感の乏しさであり、感情や痛みに対する無頓着さです。そしてその根底 には、「してはいけないこと」を止められないという、行動コントロールの破綻があると、筆者は指摘しています。
 何故、「最後の一線」が越えられてしまったのでしょうか。最も強い禁止がかかるべき「殺人」という行為にさえ、ストップがかからない。本来、本能によっ て、強力に人間の心を縛っているはずの「禁止プログラム」が、どうして働かなくなったのか。ここが大きな問題点であると、筆者は言います。
 たとえば銃殺刑の執行などの場合でも、このプログラムは作用するのです。引き金を引くことを躊躇したり、実際に撃つことのできない兵士の例が、アメリカ では多数報告されています。引き金を引くように訓練されている兵士ですら逡巡するのですから、このプログラムの抑止力がどれほどのものか、理解されましょ う。
 ところが最近の事件では、犯罪者たちは、いずれもためらうことなく被害者を殺傷しているのです。これは即ち、本能のプログラムが書き換えられた、あるい は損傷したことを意味しています。

 では、人間に本来備わっている行動プログラムを、変えてしまうことは可能なのでしょうか。
 実は、可能なのです。
 筆者はここで、「古典的条件付け」と「オペラント条件付け」という2つの方法を紹介しています。
 「古典的条件付け」とは、期待された行動が行われたときに報酬を与え、その行動を強化していくものです。たとえば、成績優秀な者に対して、賞賛や賞金と いった報酬を与えるといったやり方が、これに当たります。
 「オペラント条件付け」とは、一定の刺激に対して一定の反応が起こるように訓練することで、思考や感情に影響されない、反射的な反応回路を作ってしまう 方法です。この条件付けが成功すると、一定の刺激に対して一定の反応が即座に起きるようになり、躊躇や葛藤の入り込む余地がなくなると言われます。つま り、「考える以前に反応が起きる」という状態になるわけです。
 この「オペラント条件付け」の有名な例が、イギリス軍の行った、飛び出し式の人型標的による射撃訓練でした。標的が立ち上がった瞬間に発砲するよう、兵 士たちを訓練したのです。
 では、条件付けの効果はどうだったでしょうか。フォークランド紛争の際の、イギリス軍・アルゼンチン軍双方の発砲率を比較した、戦慄すべきデータが、こ こで提示されています。

 アルゼンチン軍・・・10〜15%
 イギリス軍・・・・・90%以上

 もし、このような条件付けと同じようなことが、未完成な子供の脳に対して行われたとしたら、どういうことになるでしょうか。考えるだけでもゾッとしま す。
 しかし、それが実際に行われているのです。
 ゲームの世界で。

 ある種のゲームは、攻撃行動を強化し、殺人の禁忌さえも取り去ってしまう「訓練」として機能している可能性が高いと、筆者は警告を発しています。そし て、そうした「訓練」に、その結果何が起こるかも分からないまま、子供たちは毎日何時間もゲームをプレイしているのです。

 アメリカ軍は、軍事訓練に、90年代からシミュレーション・ゲームを採用しているそうですが、これは新兵のトレーニングに、多大な成果を上げていると言 われます。つまり、こうしたゲームによる訓練を受けた兵士は、敵に対して発砲することを躊躇しないのです。
 それまで、新兵の半数以上は、実際に敵と遭遇しても、相手を殺戮することを躊躇したと言われます。そして、たとえ発砲して敵を殺しても、強い嘔吐感を感 じるのが普通でした。
 ところが、シミュレーション・ゲームにより訓練すると、90%以上の者が躊躇なく敵に向かって引き金を引き、しかも相手が倒れても、動揺することがな かったと言われます。こうした兵士たちがイラク戦争に投入され、虐殺など様々な問題を引き起こしたことは、記憶に新しいところです。
 そして、実際に異常な犯罪を犯した子供たちにも、これと同じような反応が見られるというのです。
 オペラント条件付けによって、いったん行動のプログラムが形作られてしまうと、一定の刺激に対して、即座に行動が起きるようになります。つまり、考える ことがなくなるわけで、ここに行動に伴う葛藤の入り込む余地はありません。従って、幼い子供たちが、躊躇なく相手に対して刃物を振り下ろすことも、起こり うるのです。
 アメリカのサウス・カロライナで、ウェズリー・シェーファーという少年が、友達の少年と一緒に地元のコンビニエンス・ストアに押し入り、38口径のピス トルで、店員を射殺したという事件がありましたが、この少年は、シューティングゲームマニアでした。逮捕された時、彼は困惑したように、こう言ったそうで す。
 「何故殺したのか、分からないんだ。間違いなんだ。こんなことになるはずじゃなかったんだ」
 攻撃的な行動は、『学習』されるだけでなく、ゲームという仮想的な『訓練』によって、人間に本来備わっている攻撃性を抑制する機能すらも、解除してしま うのです。

 しかし、そうした『訓練』機能を持つメディアは、ゲームに限りません。テレビやビデオなどの映像メディアを『見る』ことによっても、この条件付けが行わ れると、筆者は指摘しています。
 実際の暴力と異なり、メディアに描かれた暴力は、しばしば『恰好いい』ものであったり、『スカッとする』ものであったりするからです。実際、調査によっ て報告されているところでは、テレビに登場する暴力行為の四割程度が、悪役ではなく、主人公によって行われているそうです。子供たちは当然のこととして、 それを行動のモデルとして真似ることになるわけです。
 ところが、テレビなどで行われている暴力行為の半分以上は、実際に行われると、人の命を奪うか、再起不能にしてしまう危険のある行為です。メディアは、 結果に対する何らの配慮もなく、ただ格好よさと優越性だけを強調するために、こうしたシーンを垂れ流しているのです。
 それを見た子供たちや若者は、暴力的な行為を美化して考え、暴力的なヒーローに憧れと尊敬を抱き、自分もそうした存在になりたいと考えます。仮面ライ ダーごっこで、蹴られた子供が亡くなった事件は、まさにその典型といえるでしょう。現実と仮想世界の区別がつかなくなる、こうした状態を、『仮想現実失 調』といいます。
 ある調査では、小学校を終える段階で、子供たちは8千件の殺人と10万件の暴力行為を『目撃』していると言われます。平均的なアメリカ人の子供は、18 歳になるまでに、少なくとも殺人を4万回、暴力シーンを20万回『目撃』するそうです。そして、そうした体験が、全て幼い子供たちの心に刻み込まれ、蓄積 していくのです。
 ロンドンで、市内に住む13歳から17歳の少年、1,565人を対象として行われた調査では、テレビで暴力的な番組を平均より長時間見る少年は、そうで ない少年より約5割多く、重大な暴力行為を行っていたそうです。アメリカで、小学4・5年生を対象にして行われた調査でも、同様の結果が出ています。
 つまりメディアは、暴力行為の『訓練』を行っているというわけです。何と戦慄すべき事態ではありませんか。

 仮想現実失調の一つの例として、さらに最近しばしば論じられるようになってきた事実があります。それは、『死に対する考え方の変容』です。
 佐世保で同級生を殺害した小学生の女児が、殺害した同級生に「会って謝りたい」と語ったことは、報道でも大きく取り上げられました。この女児のみなら ず、「死んでも再び蘇る」と考えている子供たちの数が増加していることが報じられ、親や教育関係者たちは絶句したといいます。
 これは、ゲームだけでなく、漫画やアニメの影響であると指摘されています。そうしたメディアの中では、殺されても再び生き返ったり、重態の人間が即座に 回復するということが、日常茶飯事のように繰り返されているからです。
 この問題と関連して問題になっているのは、そうしたものの影響を受けた子供たちが、自分に不都合なことが起きた時、すぐ『リセットしてしまう』という安 易な考えに走りやすくなるということだと言われます。
 生理学的に、現実と仮想の区別がつくようになるのは、9〜10歳になってからだそうです。つまり、それ以前にこうした刺激を与えれば、仮想で『学習』し たことを、そのまま現実だと鵜呑みにしてしまったり、現実の中でも実行してしまうということが、起こりうるのです。
 昨今の凶悪犯罪が、世界で同時多発的に発生し、犯罪者の年齢も、十代から五十代にわたっていることは、こうしたメディアによる『学習』の効果なくしては 語れません。何故、五十代にまで効果が波及しているのか。商業テレビ放送の始まったのが、今から五十年前であることを考えれば、その答えは自ずから見つか るのではと思います。

 こんな調査結果があります。
 「暴力シーンを見ると、とてもワクワクする」と答えた子供の割合は、ゲームのプレイ時間に比例して大きくなり、4時間以上で飛躍的に増大します。その割 合は、何と約32%。ゲームを全くしない子供の約5倍となっています。
 また、平成8年に総務庁が行った、全国の12歳から29歳の男女6千人を対象とした調査では、ゲームをプレイする人に、次のような特性が見られたと報告 されています。
 ・深い友人関係を好まない。
 ・友人が悩み事を話し始めると、話を逸らしたくなる。
 ・相手の答えが遅いと、苛々する。
 ・面と向かってより、電話の方が話しやすい。
 ・傷つきたくないから、本気で議論しない。
 ・体験がなくても、情報として知っていれば十分だと思う。
 ・言葉より絵や音楽の方が、自分の気持ちをうまく表現できる。
 上記により、ゲーマーの心理的特性として、以下の諸点が指摘されています。
 ・共感性が乏しい。
 ・コミュニケーション耐性が低い。
 ・対人関係が表面的。
 ・傷つくことを回避したがる。
 ・現実体験より情報を重視する。
 ・言語よりも感覚を志向する。
 こうして傾向は、年齢が低い人ほど顕著に見られ、また女性よりも男性の方に強く見られたと言われていますが、これはゲームをプレイする時間数に影響され ているものと思われます。

 また、寝屋川市を中心に、東京・大阪・長崎で、4,762人の中学生と、その保護者を対象として行われた調査では、長時間ゲームやネットに耽(ふけ)る 子供に、以下の特性が見られたことが報告されています。

<否定的な自己像と現実的課題の回避>
 4時間以上ゲームをする子では、「生まれてきて良かったし、自分のことを好きだと思うか?」という問いに対し、「いいえ」と答えた子供の割合が、あまり しない子の約5倍に達した。
 また、「うまくいくか不安で、行動する前に諦めてしまう」と答えた子供の割合は、ゲームをあまりしない子供の約3.5倍であった。
 さらに、「現実の生活よりゲームやネットの方が大切である」と答えた子供の割合が、あまりしない子供の5倍以上もあった。

<対人関係における消極性>
 毎日4時間以上ゲームやネットをする子供では、「人付き合いや集団は苦手である」と答えた割合が、あまりしない子供の約4倍であった。また、こうした子 供は、友達の数も少なかった。

<2分法的な思考と過度な完璧主義>
 毎日4時間以上ゲームやネットをする子供では、「人は敵か味方かのどちらかだと思う」と答えた割合が、あまりしない子の2.5倍であった。また、「少し でもダメなところがあると、全部ダメなように思ってしまう」と答えた子供の割合が、あまりしない子の約2倍であった。
 敵か味方か、全か無か、といった2分法的な思考が、過剰な攻撃や極端な行動を誘発しやすいことは、既知の事実である。これは、境界性人格障害者や、キレ やすい若者に特徴的な認知様式である。

<対人不信感や基本的信頼感の乏しさ>
 毎日4時間以上ゲームやネットをする子供では、「人を信じられないことがある」と答えた割合が、あまりしない子の約2倍であった。この傾向は、長時間 ネットをする子や、頻繁にメールをやり取りする子において、より顕著であった。

<傷つきや復讐への捉われ>
 毎日4時間以上ゲームをする子供では、「傷つけられると拘り、仕返ししたくなる」と答えた割合が、あまりしない子の2倍強もあった。

<抑圧傾向と攻撃性、サディズム>
 毎日4時間以上ゲームをする子供では、「ケンカをした時、どうしますか」という問いに対して、「我慢する」「相手をやっつける」と答えた子が多かった。 また、ネットを長時間する子供では、「絶交する」が多かった。
 また、毎日4時間以上ゲームやネットをする子供では、「ちいさな動物をいじめたり、傷つけたことがある」と答えた割合が、あまりしない子の約3倍強で あった。特に「良くある」と答えた子の割合は、4時間以上ゲームをする子において顕著であった。
 また、毎日3時間以上ゲームやネットをする子供の保護者では、「子供がとても反抗的である」と答えた割合が、あまりゲームをしない子の保護者の約3倍近 くもあった。
 即ち、ゲーム中毒の子供は、外向きの対人関係において自分を抑える一方で、そのはけ口を、弱い存在や、思い通りになる親への攻撃的態度に向けているわけ である。

<共感性や状況判断力の不足>
 「人の気持ちは判りにくく、周囲とずれてしまうことがある」と答えた子供の割合が、ゲームを長時間する子では高かった。
 毎日3時間以上ゲームやネットをする子供の保護者では、「一方的にしゃべったり、場違いな発言や行動をする」と答えた割合が、あまりゲームをしない子の 保護者の約5倍であった。また、「冗談や皮肉をまじめに受け取る」と答えた保護者の割合は、2.5倍であった。

<自己特別視の傾向>
 毎日4時間以上ゲームをする子供では、「自分には人と違うところがあると思う」と答えた割合が、あまりしない子の1.5倍強であった。これは、ゲームに 特異的な傾向であった。
 この結果は、誇大な万能感や空想の存在を示唆している。

<無気力・無関心な傾向>
 毎日4時間以上ゲームやネットをする子供では、「何事にも気力がなく、興味ややる気が湧かない」と答えた割合が、あまりしない子の約4倍に達した。

<依存心の強い傾向>
 ゲームを長時間する子の保護者では、「何でも人に頼る方だ」と答えた割合が、あまりゲームをやらない子の保護者の約3倍もあった。ゲームを長時間する子 供は、依存心が強く、自立能力が低いことが分かる。

<多動性、衝動性、不注意>
 毎日4時間以上ゲームをする子供では、「気が散りやすく、よそ見、忘れ物、ミスが多い」と答えた割合が、あまりしない子に較べて、約2.5倍であった。 また、「じっとしていられず、動きたくなる」と答えた子の割合も高かった。
 毎日3時間以上ゲームやネットをする子供の保護者では、「じっと座っていることができず、絶えず動きたがる」と答えた割合が、あまりしない子の保護者の 約2.5倍であった。

<気分の変動、爆発性>
 毎日3時間以上ゲームやメールをする子供の保護者では、「怒ったり、泣いたり、感情の波が激しい」と答えた割合が、あまりしない子の保護者の約4倍も あった。
 また、「苛々としやすく、かっとなると、暴言や暴力になる」ことが「よくある」と答えた保護者の割合は、あまりゲームをしない子の保護者の約5倍もあっ た。
 ゲームやメール中毒の子は、情緒が不安定で、『キレ』やすい傾向が見られたのである。

 このように、ゲームやネットなどのメディアに耽ることが、子供たちや若い世代に指摘されている多くの問題点と深く関係していることが、明らかになったの です。
 筆者は、こうしたメディアを、『子供部屋に侵入した麻薬』と読んでいますが、35時間ゲームをやり続けて、心不全で死亡した若者のニュースなどを聞く と、それは適切な表現であると思います。『止められない』という点において、こうしたメディアは、麻薬と大差がないどころか、麻薬そのものであると言える でしょう。
 筆者はさらに、大脳生理学の観点から、テレビ・ビデオ・アニメ・漫画・ゲーム・ネットなどのメディアが、人間としての最終判断を司る大脳前頭前野へ及ぼ す障害について、詳細に論じていますが、これ以上長々と書き連ねるより、まずご一読されることをお勧め致します。
 メディアの有害性は、アメリカやイギリスなどでは、既に声高に指摘されて久しいそうですが、日本では、そうした業界の反発や政治力が強いのでしょう、未 だにさしたる問題にもなっていません。
 しかし、これは危険なことです。私たちは、次世代を担う子供たちのことを、もっと真剣に考えなければなりません。被害は、日一日と拡大していくばかりな のですから。
 そのような警鐘の意味を込めて、私はこの本を、お勧めしたいと思います。


以上が
http://homepage1.nifty.com/Woodnote/books/others/nounai_osen.htm
の紹介である。

 私は、子供の教育の原点は、「共生」の心を養うことだと思う。「共生」の心とは
相手の立場に立ってものを考えることであり、子供の頃からそういう慈しみの心をやしなわねばならないのである。そういう観点から、ここでは、共生、コミュ ニケーション(ひびき合い)、ネットワークということについて話をしておきたい。



3、コミュニケーション(ひびき合い)

 コミュニケーション(ひびき合い)は、交流とか触れあいとほぼ同義の言葉と考えて良く、共生、連携とは哲学的には根っこが同じ言葉である。同根の言葉で ある3つの言葉、共生、コミュニケーション(ひびき合い)、連携は、少しづつニュアンスを異にする。共生は、相手を滅ぼしたり完全に排除しない範囲で、多 少相手を傷つけることもあり得るレベルであり、コミュニケーション(ひびき合い)は、相手の立場に立って相手の意見を良く聞くレベルである。相手の立場と いうものを良く考えはするが、必ずしも相手の意見に同調する必要はない。連携となると、相手の意見と同調する部分も多く、同じ方向を向いた共同歩調の多い レベルである。厳密にはそうであるが、一般的には、コミュニケーション(ひびき合い)と言ったとき、共生や連携という言葉の持つニュアンスまで含めて使わ れれていることが多いので、哲学的には、共生、コミュニケーション(ひびき合い)、連携という3つの言葉を必ずしも厳密に使い分ける必要はないであろう。

 私は京都大学の山岳部であった。我々の先輩には西堀栄三郎、桑原武夫など偉い人が多いのだが、やはりボスは今西錦司であろう。その今西錦司の「棲み分け 論」はすごいと思う。ダーウィンの進化論・・・。我々は小学校・中学校とダーウィンの進化論を習うわけだが、あれは適者生存で、厳しい弱肉強食の世界であ る。今西さんは、学生の頃、京都の加茂川でカゲロウの幼虫の研究しておられ、そのときに、ふと思われるんですね。ダーウィンの進化論、あれはどうもおかし いのではないかと今西さんは考えられる。カゲロウの幼虫のようにまことにかぼそい生物も、上手くこの世の中を住み分けて立派に生きているではないか、とい うのが今西さんの棲み分け論。

 もう一人尊敬する学者に哲学者の梅原猛さんという方がおられるが、この方が、やはりこれから21世紀、今のヨーロッパ文明ではやっていけなくなるだろう とおっしゃっている。じゃあ東洋文明かというと、そんなことはない。西洋文明と東洋文明の混然一体とした中から、「第三の文明」というものが出てこなけれ ばいけない。そしてそのリーダーシップを日本が取らなくてはいけない。まあこうおっしゃっているわけだ。そしてその「第三の文明」の原理というものは、 「循環と共生」だとおっしゃっておられるわけである。
 今西錦司も梅原猛も「共生」ということの重要性をいっている訳だが、もう一人、清水博という人が・・・異なる学問的立場からも同様のことを言っておられ る。ここではそれを紹介しておきたい。

 すなわち、共存在の原理(共生の論理)について、清水博は「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)のなかで次のように言っている。

『 これまでの科学技術では、主客分離的対象を取り扱うから場が現われない。そのために対象の存在(場における対象の存在)を議論することができなかった のである。拡張された科学技術の論理では、対象が場とともに現われるから、存在者としての対象について議論することができるのである。場における存在と関 係して人間やその他の共存在者を考えることによって、人間の内部世界について考える足場が与えられる。したがって、これまでの伝統的な文科・理科の概念を 超える統合性が生れるのは当然である。さらにこのことによって、身体を構成するさまざまな細胞のように、多様な個が一つの場を自己組織しながら共に存在す るという「コミュニティ的存在」という存在の形を考えることが可能になる。このコミュニティ的存在こそ、共存在(共生存)の原理なのである。 』

もうお判りのように、清水博は、共存在の原理、共生存の原理、一般的には「共生の論理」という言い方でいいと思うが、今までの生命関係学に関する研究か ら、そういう原理を発見し、人間というものをそもそも本来的にはコミュニティ的存在だと考えている。科学文明が進み、或いは市場原理が進んで、コミュニ ティが失われそもそもの人間性が失われようとしている現在、「共生の論理」にもとづいて国のシステムを変えていかなければならない。清水博のいうことに耳 を傾けよう。

『 私は、個人と社会、個人と国家、個人と国際社会の関係も、多様な個と共存在の場の関係として捉えなおしてみる必要があると思う。共存在の場の自己組織 という考えは、たんに人間とそのコミュニティによって重要なばかりでなく、自然と人間の共生の原理も教えてくれる。それは多様な人間や自然の存在者が一つ の「コミュニティ的生命世界」を自己組織して共に生きる形を示唆するものである。 』

『 「救済者」とは、人間に働いてその価値観を主客分離的なものから主客非分離的なものに変えて、人間の自己中心的活動をコミュニティ的活動に変態させる 超人間的生命のことである。 』


 清水博は、この「超人間的生命」のことを「純粋生命」と呼んでいるが、何度も言ってきたように、これは西田哲学でいうところの「絶対無の場所」や「純粋 な述語性」と同じことである。中沢新一の言う「タマ」でもある。まあ一般的に判りやすくいえば、宇宙の神秘な力と考えてもいいし、「神」と考えてもいい。 しかし、そういう言い方をするともう漠然として掴みようのないものになるので、本来的な生命の力という意味で・・・やはり清水博のいう「純粋生命」という 言い方が良いのではないかと思う。私たち人間は、生れてから今日に至るあらゆる環境によって、本来もっている純粋生命が隠れてしまっている。しかし、それ なりの学習によって純粋生命が活き(はたらき)はじめて、コミュニティ生命世界に生きることができる。私たちは、自己中心的活動から脱却して、コミュニ ティ的活動をしなければならない。コミュニティ的生命世界に生きるのである。

 どうであろうか。生命学的な立場から言っても、「共生」ということが生命の本質であり、むやみやたらに人を傷つけてはいけないのである。相手の立場に 立ってものを考えなければならないのである。コミュニケーション(ひびき合い)ということが基本的に大事なのである。私は、子供の教育の原点は、コミュニ ケーション(ひびき合い)であると思う。家族とのコミュニケーション(ひびき合い)、友達とのコミュニケーション(ひびき合い)、自然とのコミュニケー ション(ひびき合い)・・・、そういうものがないと。っそもそも子供教育は始まらないのではないか。

 共生というものをどう教えるか・・・。もちろん、他者との接触のなかに共生の心を学ばねばならない。互いに傷つけ合いながらも、むやみやたらに人を傷つ けるものではないことを学ばねばならない。他者とのコミュニケーションなかに相手の立場になって考えることを学ばねばならない。他者との連携のなかに力を 合わせて何かをやることのすばらしさを学ばねばならない。恊働、コラボレーションのなかに感動を覚えることを学ばねばならない。しかし、今ここで私がいち ばん言いたいことは、宇宙との響き合い(天文学的な驚き)、地球との響き合い(地質学的な驚きや地理学的な驚き)、自然との響き合い(生物学的な驚きや気 象学的な驚き)、歴史との響き合い(歴史学的な驚き)ということである。これらはすべて「共生」の感性を養う。
  私が思うに、子供たちは幼児の頃から外に出て遊ばなければならない。教育ママを意識して言えば、子供たちは幼児の頃から外に出て学習しなければならな いのである。何を学習するのか? それは・・・・・・、 人生にとって、あるいは生きる上で、もっとも大事なものを学習するのである。もっとも大事なも の・・・、それは・・・いろんなものに驚くことである。「共生」の感性を養うその第一歩は驚くことである。それが未知のものに対する関心を呼び起こし、や る気というものが出てくるのである。将来に向かってやる気を出すのである。「やる気」だ。生きる上でもっとも大事なもの、それは「やる気」であり、それは 外でないと学習できないのである。
 願わくは、子供たちに「野生の感性」が身につくよう導かなければならない。外には、近くの外、遠くの外があり、「野生の感性」という視点で見たとき、遠 くの外には「驚き」がいっぱいある。だから、社会構造として見たとき、遠くにこそ拠点があると言えるのである。実は、「野生の感性」だけではない。私たち は、子供のときから、「驚き」のなかに、地球とか、大地とか、自然とか、歴史伝統文化に対する感性、すなわち「ジオ的感性」を養わなければならないのであ る。今一度言う。「共生」の感性を養うその第一歩は驚くことである。そしてその次に大事なのは「やる気」だ。「野生の感性」だ。私たちは子供のときに「野 生の感性」を身につけなければならないのである。
 「子どもの教育の原点は何か?」・・・・、それは「驚き」であり、「やる気」であり、「野生の感性」である。



4、ニヒリズムについて


 私たちは何のために生きているか?・・・・こりゃあ、難しくて、そう簡単には話せない。しかし、皆さん、考えてほしい。私たちは何のために生きている か?金儲けのためだろうか。違う。国のために尽くすことでしょうか。それも違う。それでは父や母のためでしょうか。それも違う。だって、父や母が死んだ ら、生きる目的がなくなるなんてことはない。では何のために私たちは生きているのか。そもそも目的はあるのか。実はそこが問題で、果たして私たちが生きて いく目的なんてものはあるのか。・・・・・これは私もなんて答えていいかわからない。
設問が悪いかもしれない。・・・・では、設問を変えるよう。

 私たちが生きていく上での価値とか価値基準とが当然あるとも思われるが、果たしてそれは何か?生きていく目的が何か良くわからないが、ともかく生きてい く以上、イキイキと生きていく必要があると思われるが、その際の価値とか価値基準とは何か?・・・・・ところが、実は、これがよくわからない。しかし、私 たちがイキイキと生きていく上での価値とか価値基準というのがある。それは確かだ。あるのは確かだが、それが何かがよくわからない。現代に入ってずっとわ からないままきているのだが、その時代その時代で、社会の共通意識とか共通感覚があることはある。良い悪いは別である。戦前は戦前で我が国の共通意識とか 共通感覚というのがあって、人々はそれなりにイキイキと生きてきたし、戦後も戦後として我が国の共通意識とか共通感覚というのがあって、人々はイキイキと 生きてきた。しかし、今は、それがなくなっている。

 イキイキと生きていくことの反対は、無気力とか、退廃的とか、そういうことだと思うが、それがニヒリズムである。現在、我が国は相当ひどいニヒリズムに 陥っている。それが私の考えであり、子供の教育を考える際にも、私は、このことに対するきっちりした認識がないといけないのではないかと思う。今、私たち の多くはニヒリズムに陥っている。その認識が重要で、そこからすべて出発しないと、子供の教育について確かな見通しを持つことは到底できないのではない か。

 したがって、私たちは、イキイキと生きていくためには、たとえニヒリズムに陥ったとしても、何とかしてそれから脱しなければならないのではないか。それ がここでの問題だ。
 では、佐伯啓思の本「現代文明論(下)・20世紀とは何だったのか。<西欧近代>の帰結(2004年6月、PHP研究所)」を参考にしながら、私なりの 説明をしておきたい。

 真正面からではないが、ニヒリズムの問題を哲学の問題として取り上げた最初の哲学者はニーチェである。上記の本によれば、ニーチェの中心的な主張は、 『単純化していえば、西欧近代化社会が唱える個人の自由や人間の平等、人間の権利といったもの、また、さまざまな道徳規律などは、決して確かな根拠を持っ たものでもなければ、優れた価値というものでもない。西欧の近代が奉じている理念は、いってみれば欺瞞(ぎまん)であり、その本質はといえば、弱者が強者 を支配するための口実である』ということであるが、要するに、ニーチェは強烈な西欧近代化社会批判を行ったのであり、ニーチェは、「西欧近代化社会は、 まったく無意味な社会であり、これを弱者のルサンチマン社会であるとまで言った。その弱者のルサンチマン社会では、最高の諸価値が崩壊しており、いうなれ ばニヒリズムに陥っているという訳だ。そして、ニーチェは、それから脱するには、新たな価値を作り出すしか方法がなく、それは「高貴な種の人間」、つまり 「超人」の手によらなければならないという。そして、そこから哲人政治の考え方が出てくる。

 しかし、それは、ハイデガーに言わせれば、デカルト哲学の延長線上にあり、西欧近代化社会の厳しい批判にもかかわらず、結局は、西欧近代化社会の論理か ら脱し切れていないという訳だ。

 皆様も或はすでにご承知のように、中村雄二郎流に言えば、この世界は主語と述語の世界でできており、述語の世界の論理、西田幾多郎流にいえば、「場所の 論理」がすっぽり抜け落ちている訳だ。

 私は、地域づくりは「場所づくり」であり、「場所の論理」が判っていない要では、「風土」や「コーラ」というものに対する十分な理解は及びもつかず、不 充分な地域づくりしかできないと考えている。したがって、ニヒリズムと対極にある意味のある地域社会というかイキイキした地域を作るためには、ハイデガー の哲学を出発点としなければならないのである。以下、佐伯啓思の本「現代文明論(下)・20世紀とは何だったのか。<西欧近代>の帰結(2004年6月、 PHP研究所)」により、「ハイデガーのニヒリズム」について説明する。

 ハイデガーの結論を先に言えば、西欧に限らず日本でも、近代化社会というものは、否が応でもニヒリズムに 陥らざるを得ないのであるが、そん原因は「ふるさとの喪失」にある。

 近代社会では、多くの人が場所や大地から切り離され、地に足のつかない「根なし草」となって価値観を喪失し社会をふらふらと浮遊しだすのである。人々は 地域のコミュニティなど伝統的コミュニティから切り離され、宗教や地域社会、或は企業や政党といったものを媒介にしては、ひとはもう結びつかないのであ る。

 ニヒリズムから脱却する、すなわちイキイキした社会を作るには、私は、地域社会を基本として、さまざまなコミュニティを育て、さまざまなコミュニケー ションを高め、さまざまなネットワークを作っていくことが肝要で、白滝ジオパークは世界レベルの理想的な「場所」になりうると考えている。そういう理想的 な「場所」で多くの子供たちに理想的な体験学習をしてもらいたいものだ。



5、「場所」というものについて

コミュニティーとか環境の問題は、現在あらためて人びとが関心を向けざるを得なくなった「場所」の問題であるのだが、中村雄二郎によれば、そもそも「場 所」というものは、そういうコミュニティーとか環境というような<存在根拠(基体)としての場所>のほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空 間としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがあるという。 

 まず、<身体的なものとしての場所>とは何か。 

 これは、コミュニティーとか環境といった通常いうところの場所、厳密に言えば、<存在根拠(基体)としての場所>ということになるのだが、そういう通常 いうところの場所とかかわり、一部重なり合っているのだと中村は説明している。というのは、中村によれば、意識的な自我主体は、実際には身体という場所を 基体とすることなしにはあり得ず、しかもそこに成立する身体的実存によって、空間的な場所は逆に意味づけられ、分節化されるからだという。そういう身体的 実存によって意味づけられた空間、身体的実存によって分節化された空間というものは、身体の拡張としてとらえられる。すなわち、<身体的なものとしての場 所>といってよい。 

やっぱり哲学者の説明は難しい。

私のホームページ(http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/nisida6.html) にわかりやすく解説しているので是非ご覧いただきたい。ここでは解説を省略する。

 

 <象徴的な空間としての場所>・・・・、これは聖なる空間としての場所のことである。先に述べたように、固有環境は、ただ単に生物学的・生態学的な意味 だけで存在しているのではなく、個人の意思との関係で心的な意味でも重要な役割を持っている。ロコスの働きがあるからである。先に述べたように、<存在根 拠(基体)としての場所>は身体的実在(身体性)によって分節化される。

 中村いわく、『 すなわち、空間あるいは世界は、ただテリトリーとして単に外部に向かって他のテリトリーと境界づけられるだけではない。空間あるいは世 界は、それと同時にテリトリーの内部でも、そこに棲んでいるもののいろいろな欲求に応じて、内部的に分節化されている。そしてとくに人間の場合には、その ような空間の分節化は、実際的な欲求の次元だけではなく、象徴的な欲求の次元でも見いだされる。<象徴的な空間としての場所>とは、このようなかたちで分 節化された空間あるいは世界のことにほかならない。濃密な意味と有意味的な方向性を持った場所と言ってもいい。この<象徴的な空間としての場所>をもっと もよく示すものは、世俗的な空間と区別された意味での聖なる空間、つまり宗教的、神話的な空間である。聖なる空間は、象徴的に特別な意味を持った核となる 地点の布置を含みつつ、そのまとまりを持った全体性から宇宙論的性格を帯びるのである。 』・・・・と。
 

では、<論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>とはなにか。これも中村の説明を紹介する。 

『 <論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>は、古代レトレックでいうところのトピカ(トポス論)の持つ問題性をもっと広い観点から捉えなおし たものである。もともとアリストテレスではトピカとは、自分の行おうとする議論はいかなる種類の事柄にかかわるか、どのような話題から始めるべきか、を決 めるものであった。キケロによれば、隠された場所がわかれば隠されたものがたやすく見出されるように、十分な議論をしようとすれば、その場所つまりロクス (トポス)を知らなければならない。こうしてトピカは発見の術とも呼ばれ、政治や法律の具体的な事例についての議論に不可欠なものとされた。

 このトピカは蓋然性の上にのっとった議論であるため、永い間、とくに近代世界に至って、不確かなものとして退かれることが多かった。しかし、近年になっ て、具体的な事例や問題の考察と議論において、適切な論点を発見することがいかに必要であるか、また、現実の多面的な豊かさを考えると、蓋然性を受け入れ ることがどんなに正確であるか、が見直されてきている。必然的な真理のもとづく議論はたしかに正確ではあるが、そうした議論はいくらしたところで、問題の 持つすべての局面を考察したことにはならないからである。つまり、正確な推論の出発点となる前提は、えてして単に現実の一局面しか表わさず、したがってそ こからの結論もおのずと限られたものになるからである。 』

 
 以上述べたように、「場所」には、通常いうところの場所のほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空間としての場所>、そして<論点や議論の 隠された所としての場所>の三つがある。「劇場国家にっぽん」における国土づくり、地域づくり、町づくりは、通常考えられている場所づくりのほかに、これ ら三つの場所づくりを目指さなければならない。





おわりに

 現在は、ニヒリズムが蔓延し、物事に驚きというものを覚えない無気力な子どもというものが一般的になってきている。

 物事に驚き意欲的な子ども(何事にもやる気のある子ども)に育てるためには、教科書による学習が基本だとしても、体験学習を欠かすことはできない。体験 学習とは、心の深層部分をふるわすことだ。中村雄二郎のリズム論というのがあるが、私は、響き合いと言っている。響き合い、それは驚きとか感動である。大 事なことは頭で覚えるのではない。身体で覚えるのだ。感動がないと身体で覚えるということにならないが、いちど身体で覚えると放っておいてもイマジネー ションはわいてくるし、そこから創造力がついてくるのだ。想像力は創造力でもある。体験というものがいかに大事かを知ってほしい。体験というものがない と、イマジネーションが湧かないので、読めないし、書けない。「あるく、みる、きく」という言葉があるが、「あるく、みる、きく」ということがないと、読 めないし、書けないのだ。
 「子どもの教育の原点は何か?」・・・・それは、物事に驚き意欲的な子ども(何事にもやる気のある子ども)に育てることだ。

 生命学的な立場から言っても、「共生」ということが生命の本質であり、むやみやたらに人を傷つけてはいけないのである。相手の立場に立ってものを考えな ければならないのである。コミュニケーション(ひびき合い)ということが基本的に大事なのである。私は、子供の教育の原点は、コミュニケーション(ひびき 合い)であると思う。家族とのコミュニケーション(ひびき合い)、友達とのコミュニケーション(ひびき合い)、自然とのコミュニケーション(ひびき合 い)・・・、そういうものがないと。っそもそも子供教育は始まらないのではないか。

 共生というものをどう教えるか・・・。もちろん、他者との接触のなかに共生の心を学ばねばならない。互いに傷つけ合いながらも、むやみやたらに人を傷つ けるものではないことを学ばねばならない。他者とのコミュニケーションなかに相手の立場になって考えることを学ばねばならない。他者との連携のなかに力を 合わせて何かをやることのすばらしさを学ばねばならない。恊働、コラボレーションのなかに感動を覚えることを学ばねばならない。しかし、今ここで私がいち ばん言いたいことは、宇宙との響き合い(天文学的な驚き)、地球との響き合い(地質学的な驚きや地理学的な驚き)、自然との響き合い(生物学的な驚きや気 象学的な驚き)、歴史との響き合い(歴史学的な驚き)ということである。これらはすべて「共生」の感性を養う。
  私が思うに、子供たちは幼児の頃から外に出て遊ばなければならない。教育ママを意識して言えば、子供たちは幼児の頃から外に出て学習しなければならな いのである。何を学習するのか? それは・・・・・・、 人生にとって、あるいは生きる上で、もっとも大事なものを学習するのである。もっとも大事なも の・・・、それは・・・いろんなものに驚くことである。「共生」の感性を養うその第一歩は驚くことである。それが未知のものに対する関心を呼び起こし、や る気というものが出てくるのである。将来に向かってやる気を出すのである。「やる気」だ。生きる上でもっとも大事なもの、それは「やる気」であり、それは 外でないと学習できないのである。
 願わくは、子供たちに「野生の感性」が身につくよう導かなければならない。外には、近くの外、遠くの外があり、「野生の感性」という視点で見たとき、遠 くの外には「驚き」がいっぱいある。だから、社会構造として見たとき、遠くにこそ拠点があると言えるのである。実は、「野生の感性」だけではない。私たち は、子供のときから、「驚き」のなかに、地球とか、大地とか、自然とか、歴史伝統文化に対する感性、すなわち「ジオ的感性」を養わなければならないのであ る。今一度言う。「共生」の感性を養うその第一歩は驚くことである。そしてその次に大事なのは「やる気」だ。「野生の感性」だ。私たちは子供のときに「野 生の感性」を身につけなければならないのである。
 「子どもの教育の原点は何か?」・・・・、それは「驚き」であり、「やる気」であり、「野生の感性」である。


 中村雄二郎が言うように、『 <論点や議論の隠された所としての場所(トポス)>は、古代レトレックでいうところのトピカ(トポス論)の持つ問題性を もっと広い観点から捉えなおしたものである。もともとアリストテレスではトピカとは、自分の行おうとする議論はいかなる種類の事柄にかかわるか、どのよう な話題から始めるべきか、を決めるものであった。キケロによれば、隠された場所がわかれば隠されたものがたやすく見出されるように、十分な議論をしようと すれば、その場所つまりロクス(トポス)を知らなければならない。こうしてトピカは発見の術とも呼ばれ、政治や法律の具体的な事例についての議論に不可欠 なものとされた。

 このトピカは蓋然性の上にのっとった議論であるため、永い間、とくに近代世界に至って、不確かなものとして退かれることが多かった。しかし、近年になっ て、具体的な事例や問題の考察と議論において、適切な論点を発見することがいかに必要であるか、また、現実の多面的な豊かさを考えると、蓋然性を受け入れ ることがどんなに正確であるか、が見直されてきている。必然的な真理のもとづく議論はたしかに正確ではあるが、そうした議論はいくらしたところで、問題の 持つすべての局面を考察したことにはならないからである。つまり、正確な推論の出発点となる前提は、えてして単に現実の一局面しか表わさず、したがってそ こからの結論もおのずと限られたものになるからである。 』

 そうなんだ。教育問題を考える場合、正確な推論が不可欠だが、その出発点となる前提は、得てして単に現実の一局面しか表されていない。本物の自然(ジオ エコロジー)を体験学習する場づくりがまずは必要で、そういう「場所」があってはじめて教育に関する正確な推論が可能になる。日本にそういう「場所」がな い。いな、世界にもそういう「場所」がない。私は、白滝ジオパークは、そういう「場所」になりうると考えている。
 まずは、地元において、白滝というか湧別川流域において、宇宙との響き合い(天文学的な驚き)、地球との響き合い(地質学的な驚きや地理学的な驚き)、 自然との響き合い(生物学的な驚きや気象学的な驚き)、歴史との響き合い(歴史学的な驚き)を体験する、そういうジオツーリズムをはじめて欲しい。