今までのWhatsNew(20070526)

 

 

 

「ジオパーク」の狙い

白滝への道

御子柴型石器はどこで始まったか? 神子柴で出土した黒曜石の尖塔器はいつ頃どこの誰が開発したのか?

女性原理と憲法改正と過疎対策

ひな祭りに思う

境川と遺跡

「ジオパーク」の演劇性

諏訪神社

月見野遺跡(その4)・・・水の神は死んだか(つづき)・・・

月見野遺跡(その3)・・・水の神は死んだか・・・

月見野遺跡(その2)・・・太古のリズムを感じるか・・・

月見野遺跡(その1)

御子柴型石斧を訪ねよう!  

 

 

 

今までのWhatsNew(20061123)

 

 


 

「ジオパーク」の狙い

 

 

 早いもので、平成の御代になってはや20年近くが過ぎようとしている。新年号が公布されたのは1989年1月7日であったから、正確には、今年は19年目を迎える。当時の小渕官房長官がテレビで「内平かに外成る」「地平かに天成る」と「平成」の意味を説明しておられたのを鮮明に覚えている。しかし、今は、まことに内憂外患、とても内平かに外成っていると言い難いし、地平かに天成っているとは言い難い。私は、この21世紀、そう簡単に世界平和がやってくるとは思わないが、少なくとも日本は、国是として世界平和の努力をつづけなければならない。

 私は、日本こそ世界平和を実現する力を持っているのだと考えている。世界のアメリカ化はしばらく続くであろうが、アメリカは日本の助けを借りないと真に世界から尊敬される理想の国にはならない。そもそもアメリカは、イロコイ族から手を引かれるようにして、自由と民主の理想に燃え、そして世界で始めての建国憲法をつくった。今度は日本だ、否、イロコイ族も含めて、私たちモンゴロイドがアメリカと手をたずさえて世界平和の実現に骨を折っていかなければならない。これからのアメリカは、「ソフトパワー」を発揮していかなければならないのであって、ふたたびイロコイ族と手をたずさえて建国憲法をつくった・・その原点に帰らなければならない。今アメリカに必要なのはイロコイ族の感性であって、そのイロコイ族と私たちモンゴロイドが連携していくのだ。それが、中沢新一のいう・・「環太平洋の環」構想である。

 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄が「違いを認める文化」にあり、そういう意味では、日本では歴史的に見て「平和の原理」が働いてきたといえる。それを「平和の論理」として世界の人びとに語って行かなければならない。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観光」の重要性を訴えているひとつの理由はそのためだ。そして、私が、わが国の「ジオパーク」を推進しようとしているのは、その演劇性にあり、万年前からの「歴史と伝統・文化」をビジュアルに見せるためである。私が「劇場国家にっぽん」と言っている所以である。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観光」の重要性を訴えているもうひとつの理由は、地域の活性化のためできるだけ多くの外国人観光客に来てもらうためである。できるだけ多くの外国人観光客に来てもらうためには、観光資源として、これからの新しい文明を創造するために役立つというか、これからの生き方に重要な示唆を与えうる・・・文化的価値の高いものが必要である。しかもそれが唯一日本にしかないとなれば、外国人向けの観光資源としては最高のものとなる。それが私の考える「ジオパーク」だが、そこには世界的な説明がビジュアルになされていなければならない。外国人にも判り易くなければならないし、若い人にも判り易くなければならない。つまり、「演劇性」がもっとも大事な点だ。

 「風景100年、風土1000年、精霊万年」である。精霊万年というのは、中沢新一のアドバイスを参考に私が言っている言葉だが、日本の場合、他民族に征服されたことがないために、「歴史と伝統・文化」は、万年前から断絶すること無く連綿と現在に続いている。現在は、昭和、大正、明治に繋がっているし、その明治は江戸時代や鎌倉時代に繋がっている。そして、時代は、大雑把にいって、奈良時代を通じて弥生、縄文、旧石器時代に繋がっているのである。要は、旧石器時代の文化は現在に繋がっているということだ。旧石器時代の文化の典型は黒潮文化と黒曜石文化であるが、例えば「月見野」などにはその融合した姿がある。それが、「わび」「さび」「粋(いき)」などの日本文化につながっている。私はそのような文化を「アシンメトリー文化」と呼びたいのだが、わが国における旧石器時代の文化というものは、そういう「アシンメトリー文化」の源流ということになる。そういうものがいろいろな地域にある。それをアースダイバーとなってひも解き、その源流からどのような流れが発生し、どのように多様な文化をつくってきたかを明らかにしなければならない。その成果を見せようとするのが私が言うところの「ジオパーク」なのである。一般的な定義とは違うかも知れないが、そもそも「ジオ」に対する認識が違うのだ。「ジオ」に対する私の認識葉、地質学や地理学、あるいは「地学」ではない。風土学や風土工学が入っているし、「芸術人類学」が入っている。新しい概念なのだ。

 「ジオパーク」については、地質学、地理学の知見を駆使しながら、そしてまた中沢新一の進める「芸術人類学」の助けを借りながら、風土哲学と土木技術の融合が図られなければならないと・・・私は考えている。。そうでないと、真に有意義で、かつ、ドラマチックな「演劇性」というものを生み出すことは不可能であろう。私は、そのような考えから、今、「月見野ジオパーク」の勉強を始めた。「月見野ジオパーク」の中心テーマは、「非対称アシンメトリー原理」の源流ということである。「非対称アシンメトリー原理」の源流と私が考えているひとつの例は・・・富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏である。それについてはすでに述べた。富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の中心は、諏訪湖から長野県富士見町と山梨県須玉町にかけての地域と天竜川の流域であるが、多摩川流域と相模川流域に遺跡が散らばっているのに注目願いたい。もちろん、その中に月見野を中心とした境川流域が含まれる。月見野を中心とした境川流域は、黒潮文化と黒曜石文化というか、海の文化と山の文化の融合した・・・私のいう「非対称アシンメトリー原理」の源流である。その源流からさまざまな文化が発生していくが、そのもっとも重要なものが「大山(おおやま)」に対する信仰でである。大山信仰は、良弁と繋がり徳一と繋がっている。良弁は東大寺で華厳宗を始めたが、その華厳宗が明恵を生んだのである。明恵は北条泰時に思想的な強い影響を与え、そのことが自ずと「象徴天皇制」に繋がっていくのだが、歴史の妙がそこにある。「関係性」の妙といっても良いかも知れない。黒潮文化と黒曜石文化を源流として、歴史はまことに複雑にさまざまな文化を生み出していくが、そこにはまさしく「関係性」の妙がある。多様性の世界があるのである。「華厳の世界」があるといっても良いかも知れない。この世の中の文化はまことに多様であるが、それらが摩訶不思議な関係で繋がりながら、より良い文化へと進化していく。そういった動きの心髄的なものを各地の「ジオパーク」で見せていきたい。

 

 さて、私は先にも述べたが、 少しそれを補強し、哲学的には「違いを認める文化」と「わび・さび文化」とが同じことであることを説明しておきたい。

  日本人がこれほどまでに自然の造形にこだわった理由はいったい何であっただろうか? それは、日本における四季折々の自然又は気象、そして複雑な地形や地質といった自然・・・・、それらに順応した生活に起因するのであろう。日本人は、そういう生活の中で、豊かな自然の姿や形に美を見いだし、人の手で再び自然を写し取ったり「見立て」や「借景」といった日本人独特の自然に対する接し方を会得して、やがて日本人独自の美意識を育み、日本文化を支える美学が成立したのである。自然を観察する日本人の細やかな情緒性が野辺に咲く山草、雑草や小動物にも目を向け美の対象とした。すべて自然のお陰である。 

 そういった「日本人の感受性」をフラクタル幾何学によって分析すれば、自然における「非対称アシンメトリー原理」にあることが判っている。西洋の美意識が左右対称、いわゆる対称シンメトリーであるのに対し、日本のそれは左右非対称、非対称アシンメトリーであるといわれる。一分の隙もなく完成された左右対称ではなくあえてセンターをはずすことで、完成ちょっと手前の状態にするのが良いとされる。完璧につくってしまえば、あとは崩れてゆくだけでその先がないから。思えばこの「もうちょっと感のある完璧」は、人にも当てはめられるような気がする。隙のない完璧を目指す必要はないし、目指したとしてもどだい無理なこと。「ここがもうちょっとだなぁ」をいくつか問題を抱えながらも凛として、地に足のついた自分で居られれば成功といえるのではないだろうか。人として目指すべきはいくつか問題を抱えながらも凛とした「日本的完璧」である、

 自然の構造はフラクタル構造であり、そこには「非対称アシンメトリー原理」が働いているのである。茶の湯文化の茶室の曲がった柱、形がいびつ、ひび割れたうわぐすりが均一でない陶芸作品などは、すべて、「非対称アシンメトリー」であり、「フラクタル構造」で表現できる。

 

 山折哲雄が言う「無常の旋律」というものは、私は、結局、「わび」、「さび」、「風流」、「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題・・・・に通底する問題であると思う。そして、そういった「日本人の感受性」というかわが国の「違いを認める文化」が、世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」をもたらすのではなく、未来の世界文明を切り拓いていく・・・と考える次第である。

 最近、フランシス・フクヤマは「アメリカの終わり」(フランシス・フクヤマ、2006年11月28日、講談社)という本を書いた。帯びには、<世界唯一の大国に対する、もっとも現実的でもっとも思慮深い警告!>と書いてあった。訳者解説を読んで私が思う大事な点は次の4点である。

1、本書は、1990年代に世界的なベストセラーとなった「歴史の終わり」の著者、フランシス・フクヤマの最新刊<America at the Crossーroads>の邦訳である。原著は2006年2月にアメリカ、ヨーロッパで同時出版されるやいなや大きな反響を呼んだ。ヨーロッパ版には<After the Neocons>というタイトルがつけられている。

2、原著の刊行後半年強を経て、東アジアでは北朝鮮が核実験に踏み切った。アメリカはイラクでの失政の意味を噛みしめている。それは終章に描かれているとおりだ。事態は「アメリカの終わり」を導きかねない。その行き詰まりからどのようにして抜け出すか・・・。本書の指針は、ますます重要性、喫緊性をおびている。日本版タイトルには、そうした意味が込められている。

3、イラク戦争開戦に際してアメリカが国連を無視する態度をとったことを非難する人びとも、国連とその関連機関の枠組みだけでは今日の世界が抱える多様な問題に対処しきれないという点は否定できないだろう。

4、翻って日本外交に目を向けると、単に国連安全保障理事会の常任理事国入りによるステータス向上を求めるだけで、国際システム全般に対する創造的思考がかけている。それは外交当局者の思想的貧困によるものだろう。もし日本が、アメリカのグローバル・パートナーとしての役割を担うつもりでいるなら、新たな国際システムづくりにおいて、フクヤマ氏を凌駕するような現実的かつ大胆な提案をしていくようでなければ努まるまい。

 結局、「重層的多国間主義」ということがフランシス・フクヤマのいちばん言いたいことなのだが、この考え方は単独主義か国連重視かの二者択一論を超えているし、これからの新たな国際システムづくりにさまざまな分野の人びとが係わっていかなければならないことを意味している。日本は「文化観光」にもっともっと力を入れていかなければならないし、「文化観光」のもっとも重要なものが「ジオパーク」である。「ジオパーク」は、もちろんユネスコ認定の世界レベルのものから、国立レベルのもの、都道府県レベルのものもあって良いし、市町村レベルのものがあっても良い。否、そうあるべきである。今、政府は、外人観光客1000万人を目標に頑張っているが、私は「フランス並み」を目標にすべきだと考えている。1000万人ではあまりにも小さすぎる。少なくとも6000万人を超えなければならないのではないか。全国各地に「ジオパーク」ができれば、日本は観光立国としてフランスを凌駕することもけっして夢ではない。問題の核心部分は「ジオパークの演劇性」である。それには地域の人びとが主役にならなければならない。「メディオン」だ。

  


 

白滝への道

 

 

 私は、今、「白滝ジオパーク」の実現を目指して、必要な勉強をしている。その過程で、古代から連綿と続く「歴史と伝統・文化」を勉強しながら、私が直感する「非対称シンメトリー文明」というひとつの文明観が私なりに語れれば大変ありがたいと思っているが、あくまで焦点は「白滝ジオパーク」である。その中心テーマは、いうまでもなく「ジオパーク」である。それを具体的に展開する重要なテーマとして、「風土と技術」の問題と「森と熊」の問題があるが、「ジオパーク」では、「湧別川技法」がわが国にどのように伝わっていったかを語らねばならないし、さらにはその「湧別川技法」がどこから伝わってきたかを語らねばならない。私の直感としては、「湧別川技法」のルーツを探るということは、モンゴルとの関係を探ることに繋がり、ひいては世界平和のために役立つものと考えている。私に言わせれば、「非対称シンメトリー文明」というものを語るということは世界平和のためになるし、「湧別川技法」を語ることも世界平和のためになる。だとすれば、私がこれから取り組もうとする「白滝ジオパーク」は世界平和のためでもある・・・ということになる。もちろん、白滝というか湧別川流域の活性化に役立つだけで十分なのかも知れないが、私の望みはそれだけにとどまらないのである。残りの人生をかけてせっかくやるなら、世界の白滝、世界の湧別川にしたい。

 

 わが国の黒曜石文化については、まだほんの緒についたばかりであるが、それでもかなり勉強してきた。その勉強を続けると同時に、ぼちぼち「湧別川技法」のルーツについて勉強をしなければならないし、白滝の活性化の問題にも実践活動を始めなければならない。それらの鍵を握っているのは「モンゴル」である。

 

 先に述べたように、中沢新一は著書『熊から王へ』(2002年・講談社)の中で次のように言っている。すなわち、『 人類学では、かつては世界の三大人種をネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドと呼んできたが、今日ではそれぞれ主な居住地域から、「アフリカ人」、「ヨーロッパ人」、「アジア人」という呼び方で分類している。「アフリカ人」は、ホモ・サピエンス誕生以来ずっと故郷の地に暮らし続ける肌の黒い人々。「ヨーロッパ人」はアフリカを旅立ったのち、東に向かったわれわれの祖先たちと別れ、欧州に住み着いた人々を指す。そして、太陽の昇る方向を目指して長い旅を続けた集団を「アジア人」と呼ぶ。ここで注意しなければならないのは、「アジア人」とアジアの人とは違うということである。「アジア人」は、中沢新一の言う「東北」つまり「環太平洋の環」に対応した概念であり、アジアの人々という意味ではない。この「アジア人」の仲間のうち、もっとも長い旅路を歩いたのは、南米大陸の南端まで到達したアメリカ先住民の一派である。彼らはシベリアからベーリング海峡を越え、アラスカを抜けて北米大陸を南下、さらに南米大陸を一気に下って、かつてマゼランが「火の国」と名付けた最南端のフェゴ諸島まで、実に五万キロもの移動を成し遂げた。その末裔はオナ族、ヤーガン族という狩猟民族であり、ダーウィンの航海記録にも顔を出している。しかし、その後ヨーロッパからの侵略という不幸に見舞われ、二十一世紀の今、ほとんど姿を消してしまった。ともにアフリカを出発し、西に進路をとる「ヨーロッパ人」と東の「アジア人」が別れたのは、遺伝学の分析によると今から五万年前から六万年前のことである。「ヨーロッパ人」と別れて東に向かった一団は、大きく二つのルートに分かれる。故郷アフリカの温暖な気候を求め進んだ「南回廊」と、極寒のシベリア平原を進んだ「北回廊」である。「南回廊」は西アジアから南アジア、インドネシアを経由しつつ、中国南部から朝鮮半島を抜け対馬海峡を越えるか、柳田国男の唱えた「海上の道」、つまり琉球諸島を北上するルートをたどる。一方、「北回廊」はシベリアを越え、サハリンから北海道へと到るか、モンゴル、中国北部を経由しながら朝鮮半島を通って日本へ到達するか二つのルートをイメージしてもらいたい。詳細に見れば四つのルートだが、大きくは「北回廊」と「南回廊」という二つの道である。二つの道を別々に歩んだわれわれの祖先たちは、それぞれ旅の途中で人類史上に燦然と輝く偉大な記録を残している。北回廊を歩んだ人々は、温暖地方でしか生きられなかった人類にとって初めての「寒冷地克服」という快挙を成し遂げた。そして南回廊にコマを進めた人々は、陸地しか移動できなかったヒトが、初めて海を渡るのに成功するという「海洋適応」を果たしたのである。この二つの偉業をともに成し遂げたのが、いわゆるモンゴロイド、つまり私たちアジア人の祖先たちである。そして先ほども言ったように、その私たちアジア人の祖先たちのうち、一部がベーリング海峡を渡ってアメリカ先住民の一派となった。アメリカ先住民の一派なども広い意味の「アジア人」つまりモンゴロイドである。 』・・・・・と。

 さて、これも以前に述べたことだが、中沢新一は、「モノとの同盟」というこれからの世界をリードするかもしれないすばらしい哲学を発表している。「光と陰の哲学」といってもよい。彼によれば、霊魂を「タマ」という。この「タマ」というものを充分理解して現代の科学文明にある種の修正を加えていかないと、この先、世界はやっていけないという。私もまったくそのとおりだと思う。「タマ」と「スピリット」が大事だ。物質的な科学文明だけではダメで、「タマとの同盟」が必要なのだが、それをなし得る地域というのはモンゴロイドである。まずそのことをしっかり認識しておきたいものである。

  「日本人はるかな旅(第1巻)」(2001年8月、日本放送出版協会)によれば、わが国の縄文人29体とDNAが一致してているのは、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人とブリヤート人であるが、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人はそれぞれ縄文人29体中一体が一致したのに対し、驚くことには、ブリヤート人は縄文人29体中17体が一致したという。ブリヤート人は、アムール川の上流及びバイカル湖の周辺に住む民族であり、現在は、モンゴルと外モンゴルに属している。私は今年の夏にできればムングンモリトとダダルに行きたいと考えているが、ともにアムール川の水源地・ヘンティ山地である。ヘンティ山地に私の想像するような森林があるのかどうか、その辺を見てみたい。もちろんブリヤート人のモンゴル側の拠点である。チンギス・ハンの生まれ故郷はダダルである。したがって、私たち日本人のDNAとチンギス・ハンと同じかも知れない。

 

さあ、それでは

日本人のDNAはチンギス・ハンと同じか?」

というテーマで少々話をしようか。

そうしよう!そうしよう!

 

 


 

御子柴型石器はどこで始まったか?

 神子柴で出土した黒曜石の尖塔器はいつ頃どこの誰が開発したのか?

 

 

 稲田孝司「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)によれば、神子柴文化については、三つの種類に分類できるという。

 私は、先に述べたように、その三つの種類を、おじいさん、お父さん、孫の時代に喩えて説明した。

 時代的に見て最初のものは、例えば神子柴遺跡であり尖塔器と石斧と石刃素材をともなう。唐沢B遺跡なども同様である。私の喩えで言えばおじいさんの時代である。おじいさんは湧別技法を参考に御子柴型の石器を開発した。

 次の時代のものは、例えば月見野上野1遺跡だが、尖頭器と石斧と湧別技法細石刃石器群をともなうもので、寺尾遺跡などもこの種類に含まれる。私の喩えで言えばお父さんの時代である。お父さんは、黒曜石に頼らなくても在地の岩石で鋭敏な大型尖頭器を作れるよういろいろと研究開発を重ね、尖頭器の槍と細石刃の槍の両方をいろいろと使ってみた。試行錯誤の時代である。

 最後の時代のものは、例えば佐久市下茂内(しももうち)遺跡だが、大型尖頭器を主体とする神子柴石器群で、あきるの市前田耕地遺跡などもこの種類に含まれる。私の喩えで言えば孫の時代である。孫は、在地の岩石にもよるが、できるだけ在地の岩石で尖頭器の槍を作るようにした。それだけ加工技術が発達したということだ。

 

 ところで、御子柴型の時代つまり私の言うおじいさんの時代とはどういう時代であろうか。私は先に、『 こういった御子柴型石斧はよほど熟達した技術がないと作り得ない。より繊細な研摩を可能とした手持ち砥石の開発と磨製技術の開発が行なわれたということだが、湧別技法の流れを組む前処理技術(敲打技術こうだぎじゅつ)があって始めてこういう世界最高の黒曜石加工品が誕生した。』・・・と述べた。 そして、これもそのときに掲載したが、神子柴で出土した尖頭器は、下呂石と玉髄と黒曜石である。

 私は、例えば御子柴遺跡や唐沢B遺跡は、尖頭器と石斧と石刃素材をともなうもので、湧別技法を参考に御子柴型の石器を開発したと述べたが、今ここでは黒曜石に焦点を絞ろう。「神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」 現在その点がさっぱりわかっていない。黒曜石七不思議の四つ目の疑問である。この疑問について私なりに考えてみたいと思うが、それにしても石器の加工技術がどのように発達してきたのか、その点につき勉強しなければならない。それを勉強するにもっともふさわしい「場所」がある。その「場所」とは八ヶ岳の東山麓の「野辺山高原」である。

 野辺山と言われてもピンと来ない人が多いと思うがJR小海線は「清里」の先、日本で一番標高の高い鉄道の駅「野辺山駅」付近の高原が「野辺山高原」である。インターネットで調べても「野辺山高原」のことはほとんど判らない。その最大の理由は、「野辺山高原」が南牧村と川上村にまたがっており、総合的な観光案内がひとつもないということである。もうひとつの理由は、現在の観光には文化観光という視点が欠如しており、観光部局の人に文化的な知識が乏しいために、「野辺山高原」を総合的に案内する気運が長野県にも欠如しているからである。

 野辺山高原からは、神津島産黒曜石の細石刃石核が出土している。万年前という旧石器時代に、200kmもの距離をおいて、なぜ野辺山の地まではるばると神津島の黒曜石が運ばれたのか。これは最大級のミステリーではないか。さらに、南牧村川上村を含むこの地は旧石器時代から縄文時代にかけての全国的な遺跡の宝庫である。極めて貴重なのである。にもかかわらず、観光案内にはそのようなことは何一つ触れられていない。野辺山高原の何たるやを知るのは、本来、いくつかの本を読まなければならないが、どんな遺跡があるかを手っ取り早く知るには堤隆のホームページが良いと思うので、とりあえずここをクリックして欲しい。

 石器の加工技術がどのように発達してきたのか、それを勉強するため、私は、堤隆の著「遠き狩人たちの八ヶ岳」(1993年9月、ほおずき書籍)を片手に冬の野辺山高原を歩き回った。しかし、今ここでは、「黒曜石の御子柴型尖頭器」に関連して、取り急ぎ「中ツ原遺跡の5B地点」のみ紹介したいと思う。月見野ジオパークに関する一連のページの合間を見ての旅の報告である。今年(平成19年)1月の速報だと御理解いただきたい。野辺山高原の遺跡群にもとづく石器加工技術の変遷については、月見野ジオパークに関する一連のページが終わり次第じっくりと勉強するとしよう。5月の梨の花が咲く頃に、川上村も含めて、もう一度野辺山高原に行かなければならない。その予告として今回の速報をご覧いただければありがたいと思う。

 

ここをクリックして下さい! 

 


 

 

女性原理と憲法改正と過疎対策

 

 

 

平成19年2月10日

広島にて 

参議院議員岩井国臣

 

要点

1、女性を子どもを生む機械に喩えた柳沢発言をどう批判するか?

女性を語るとき、「女性原理」というもの、「女性の持つ宇宙生」というものを考えねばならない。

 

2、憲法改正をどう考えるか?

私たちが戦前教えられた我が国の歴史というものは、皇国史観にもとづく歴史であった。もちろんそれは現人神(あらひとがみ)天皇を中心とする国のありようというものが一番良いのだというものだ。しかし、戦後、天皇のいわゆる人間宣言があった。天皇は神ではなく人間である。歴史的に見ればこれは当たり前のことだが、天皇自らが皇国史観を否定されたのだ。やはり皇国史観というものは歴史的に見ておかしい。では天皇というものをどう考えるのか?

私は、天皇を中心とする国のありようというものが最善という点では皇国史観と同じだが、皇国史観というものではなく、「空の思想」にもとづく歴史観を持っている。象徴天皇、つまり「空の天皇」である。「空の天皇」については、私のホームページを見てもらいたいが、そのもっとも基本となる認識は、日本の「歴史と伝統・文化」の神髄は「違いを認める文化」にあるというものである。そして、そういうわが国の「歴史と伝統・文化」の象徴が天皇である、そう考えている。 

3、過疎対策

日本の「歴史と伝統・文化」の神髄は「違いを認める文化」にある。さらにそのことを「ジオパーク」との脈絡で言えば、「違いを認める文化」の源流に、黒曜石文化と黒潮文化がある。そして、世界的な広がりの中で黒曜石文化を語るとすれば、「白滝ジオパーク」が一番良いと考えており、その実現に向けて活動を開始した。世界的な広がりの中で黒潮文化を語るとすればどこが一番良いのか?「地質百選」が決まり次第、その中から一番良いところをピックアップして、その勉強を始めたいと思っているが、当面、「白滝ジオパーク」の実現を目指したい。

 

 詳細は、ここをクリックして下さい!

 


 

ひな祭りに思う

 

 

 来る3月3日は、ひな祭りである。今でも全国各地でそれなりの祭りが行なわれるが、伊豆稲取(東伊豆町)の「雛のつるし飾り」は、柳川の「さげもん」と山形の「傘福」とともに全国三大つるし飾りと言われており、伊豆稲取(東伊豆町)では、「雛のつるし飾り」を観光振興のひとつの柱にしようとして、「雛のつるし飾りの里づくり」が行なわれている。そして、大変ユニークなことには、観光協会の事務局長が公募で選ばれ、このたび渡辺法子さんという人が事務局長なった。そして、その人も交え、2月25日に「これからの雛のつるし飾りの里づくり」と題して、パネルディスカッションが行なわれることになっている。私もパネラーの一人に選ばれた。そこで、伊豆稲取における「雛のつるし飾りの里づくり」について、私なりに考えてみた。

 まず、私がいちばん言いたいことは、「地域」ということである。観光については、まず観光客がいて、それを受け入れる地域の人びとがいる。地域の人びとがどのような役割を担うのか、そこがまず問題である。「稲取ももの会」などの関係者のみならず、一般の町民は「雛のつるし飾りの里づくり」にどのような形で関与しているのか?各家庭で「ひな祭り」は行なわれているのか?「ひな祭り」はともかく、歴史的認識といってはちょっと大袈裟だが、「どんつく祭り」に対する感覚はちょっとずれてはいないか?少なくとも町のリーダーは「どんつく祭り」に対する歴史的認識をきっちり持って、「どんつく祭り」の正しい感覚というものを植え付けて欲しい。また、一般的に、外国人の受け入れは大丈夫か?そして、文化観光に関し、地域としての戦略、戦術を地域の人びとがどう理解しているのか?・・・などなど多くの問題があるが、それらについてはまた後日にお話をするとして、今日は、「世界遺産のユネスコ認定を目指して」・・・文化観光をどうすすめるか・・・ということでひとつの問題提起をしておきたい。

 

 これは「ひな祭り」や「どんつく祭り」などに限らず、一般的に、地域の行事について言えることだが、その歴史というかその源流に関して、哲学的とまではいかなくても、ある程度しっかりした認識というかある程度奥の深い思想に裏打ちされたものでないと、観光客に深い感動を与えることはむつかいのではないか。文化観光というものはそういうものだ。お雛さんの歴史というかルーツはどうか? また、それは人類の歴史のなかでどういう意味を持っているのか?それを世界の人びとに説明する必要がある。その助けになるかどうか判らないが、木戸寛という人が「志縁塾セミナー」で、ひな祭りに関連し、日本人の世界観にある男性原理と女性原理の結びつきについて話をされることになっているらしい。現在、そういう話のできる人があまりいないため、後日、彼を呼んで話を聞くのも一考かもしれない。しかし、私は、やはり「ひな祭り」について、地域のリーダー的な人びとがまず勉強することだと思う。人の話を聞くのもいいが、まずは自分なりに勉強することだ。自分なりに勉強した上で、地域の風土にあった文化観光のあり方を議論して欲しい。「ひな祭り」や「どんつく祭り」は、日本人の世界観にある男性原理と女性原理の結びつきを語るに格好の祭りである。「ひな祭り」はともかく、「どんつく祭り」も神事としておごそかに行なわれなければならない。興味本位でこれを行なってはならないのである。特に、事務局長は、女性であるので、「ひな祭り」や「どんつく祭り」に関連して、女性原理というもの、女性の偉大さというものをきっちり認識しておいてもらいたい。

 

詳しくは、ここをクリックして下さい!

 


 

境川と遺跡

 

 

 境川に人が遊動してきたのはいつ頃だろうか? その頃の境川はどのような状態であったのか? 「大和市つる舞の里歴史資料館」のホームページでは次のように説明している。すなわち、

 『 この頃、すなわち2万年前頃は、最後の氷河期ビュルム氷期の中で最も寒い時期であった。 シベリア・北ヨーロッパなどには厚さが数千mにも及ぶ大陸氷河が 作られていた。その結果、海水面は現在の海岸線より120m以上 も下にあり、日本列島は大陸と陸つづきで、多くの動物や人たちが 日本列島に渡ってきました。市域は気温が年平均で約8度も低く、 現在の北海道十勝平野に近い気候で、ナウマンゾウやオオツノジカ などが住んでいました。』・・・と。

 

 

 

 

 この写真で薄茶色で塗りつぶしてあるのは、当時、陸地であったところであり、これを見ると、黄海(こうかい)は陸地であって朝鮮半島は半島になっていない。北海道もサハリンと繋がっており、日本海は湖になっていた。海面は今より120m以上も低かった。もちろん江ノ島は島ではなく陸地であって、境川はそのずっと先が河口になっていたのである。東京湾も陸地であった。現在の鎌倉は海面より100mも高い丘になっていた。鎌倉には大きな川がないので、遊動してきた人びとは自ずと境川に集まってきたのではないか。有史時代になって鎌倉は「海人」の拠点になったが、2万年前頃はその気配すらなかったのではないか。あくまでも中心地は境川沿川地域なのである。引地川は境川ほど大きくなく、八王子には繋がっていない。相模川は大きすぎて丸木舟で八王子まで行き来するには厄介である。やはり境川が舟運には最適なのである。

 時代も下って、縄文海進が進むと、渡 部瞭さん(鵠沼を語る会・藤沢メダカの学校をつくる会会員) のホームページが示すように、境川も相当奥まで海になってしまう。藤沢の駅は海の中である。下の図は、6000年前頃の地図である。

 

 

 海面が最も上昇したのは、今から6000〜5500年ほど前、すなわち縄文時代の初期においては、藤沢付近では現在の海面よりも10m程度高かったと思われる。そのため、海の面積が拡がり、境川や引地川の谷は細長い入江となった。この細長い入り江を取り巻く台地の表面には、入り江に下りて魚介類を捕ったり、台地に群れていたイノシシやシカを狩ったりして暮らしていたであろう縄文人の集落跡がいくつも見つかっている。それでは目黒川沿川の月見野あたりの状況はどうであったのであろうか。「大和市つる舞の里歴史資料館」のホームページでは次のように説明している。すなわち、

 『 縄文時代人の暮らしは、それまでの移動生活から定住生活を始めるようになり、 大きく変わりました。人類史上画期的なことです。気候もほぼ現在と同じで、森には 照葉樹林や落葉樹林が覆い茂っていました。人々は見晴らしのよい台地上の 竪穴の住居に住み、煮炊きするための土器を携えるようになりました。 そして多くの生活道具を携え、物を貯蔵・蓄積するようになりました。 やがて、食糧を安定して確保するために、必然的に個々の領域が生まれ、 村が形成されていきます。』・・・と。そう、月見野の地域も村の形成が見られるようになり、縄文文化が花開いていくのである。その間、海岸線は少しづつ後退して現在の境川が形成されていく。昭和30年代のの激しい都市化が始まるまでは境川も目黒川も本当に川らしい川であった。現在はその「らしさ」がほとんど無くなってしまったが、川らしい川を取り戻す余地も決してなくはないので、一応、「月見野ジオパーク」を意識しながら境川のほとりっを歩いてみよう。

 

 境川で「月見野ジオパーク」と関係しそうなところは三地区に分けられるのではないかと思われる。私はそれを城山遺跡公園、深見城址公園、深見神社公園と仮に呼ぶこととする。

 城山遺跡公園地区は、平成8年に発掘調査が行なわれ、旧石器時代、縄文時代、中世時代の遺物や遺構が出土したところで、今は大和市立北大和小学校になっているがもともとはお城の跡でもある。北條の家臣・山中修理助か定信か定住かはっきりしないが、ともかく北條の家臣のお城であったという。この付近は緑も多く残されており、境川もまあ感じがいい。

 

 

 

 これは上流を見た写真で、田園都市線が向こうに見える。そのすぐ左側が「つきみの駅」である。河原がないのであまり良い水辺環境とは言えないが、まあまあの景色ではなかろうか。

 

  下流の方景色はここをクリック! これの左側が遊歩道になっており、少し歩いていくと大山街道に出くわすが、その角に鶴間山観音寺がある。上流の景色はまあまあだが下流はさっぱりだ。よくもこんな不細工な景色にしてくれたものだ。河川環境の専門家としてまことに腹立たしく思う。しかし、もし「月見野ジオパーク」が国立ジオパークになれば、この境川と目黒川の合流点付近を大改造して、画期的な博物館を作ることができるであろう。

 

 次に、深見城址公園地区を紹介したい。国道246号線が境川を渡る橋が大和橋である。大和橋の沼津方面の三叉路が山王原東の交差点である。沼津方面に向って右に行けば小田急線鶴間の駅である。その交差点と橋の間に西松建設の研究所がある。その研究所の建設工事に際して昭和62年に発掘調査が行なわれ、旧石器、縄文時代草創期の遺跡が発見された。長掘北遺跡である。縄文時代草創期(16,000年から10,500年前)の石器群は貴重なもので、砕石刃石核は「湧別技法」が用いられている。これは説明版のある場所から246の渋谷方面を見た写真。この先に境川が流れている。

 山王原東の交差点を南側に渡ったところ、246沿いに下鶴間長掘遺跡がある。昭和54年に国道246号線の改良工事に際して発掘調査が行なわれて、旧石器時代の遺跡と縄文時代の遺構が出土した。旧石器時代の石核は、湧別川技法ではなくて、西南日本に多く分布する形態と似た技法だと言われている。

 大和橋から下流右岸が整備された自転車歩行者占用道路になっていて、まあ快適に歩ける。少し歩いていくと右側に深見城址公園が見えてくる。中に入っていく。 天竺坂というのだそうだ。城址公園の中を歩いていく。良い雰囲気だ。

 

 柳田国男が四万坂付近を歩いたというので、私もその辺を歩いてみた。柳田国男の著書『水曜手帖(てちょう)』にはこう書かれている。『 深見という村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、『和名鈔』(わみょうしょう)にも見えている古い郷(ごう)で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔の郷の中心はどの辺かということと、以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろうかということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の停留所から下りて、東端の一之関という部落に入ってみた。川のへりに四五町歩の稲田があって、小さな支流が民家との境を流れ、その岸を南北に路(みち)が通じ、石橋が架かり、その角の屋敷の端に男女双体を刻した道祖神が二つ並んで立っている。一つは寛延二年のものでまん中に割れ目があり、今一つは最近昭和十五年三月のもので、男神の袴(はかま)を青に、女神の裳(もすそ)を黄色に塗っている。その後に古い五輪が四つ、これは古風だから立って熟視していると、そこへ五十ばかりの男が自転車で通りかかった。何をしているのかという顔をするから、私は鎌倉時代の道路が、川のどちら側を通っていたかを考えているのだと告白したところ、それはわかっている、この道がそうだといと無造作に教えてくれた。』・・・と。この文章で「鎌倉時代の道路」というのは滝山街道のことである。私は、滝山街道というよりもむしろ境川に焦点を当てて滝山街道と境川の間を行ったり来たりしたのであった。

 四万坂は今はないが、有料老人ホーム・「ベルビルガーデンやまと」の・・・・前から坂の上に無理無理入っていけることはいける。私は無理無理茂みの中に入って境川の写真をとった。

 

 

  

これが四万坂の古戦場である。

 

 

 

 

 今回の目的は、四万付近を歩いて、石祠(せきし)や道祖神を探し出したかったからである。朝早くから暮れの深見を歩き回った。最初は引地台公園の西南の角にある道祖神を見て、そののち四万坂付近を歩いたのであった。銀行坂を歩き、深見諏訪山遺跡の前を歩き、深見学校跡付近を歩いて、やっとお目当ての道祖神を見つけた。すばらしい。

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 この日の探索についてはここをクリックして下さい!

スライドショウが始まります。

 

 

境川も相模鉄道までが何とか見れる景色であり、

それより下流は直線のまったく風情のない河川となっている。

まことに情けない。

 

 

 深見神社の祭神は、武甕槌神、建御名方神であり、鹿島大神である。境川に架かる橋の名が鹿島となっているのそれ故であろう。境川が流れる低地は坊ノ窪と呼ばれる。住宅に囲まれているが神社の境内のみやっと杜(もり)の雰囲気を残す。大和市内唯一の延喜式内社であるが、創建はもっと遡る筈である。 宮司さんの話によれば、拝殿西に位置する「おくら稲荷(宇賀之御魂・保食)」が本来だったらしい。江戸時代は鹿島社と呼ばれていて、明治に入ってから深見神社と呼ばれるようになった。昭和の火災で古い資料はすべて焼失、今の社殿は南向きだが本来は稲荷のある東向きだったらしい。東の鳥居階段下が旧街道の岐(わかれ)という。境内社:稲荷神社。 境外社:八雲神社、八坂神社、諏訪社。神奈川名木100選、ハルニレ樹高30m目通4m推定樹齢400年。なお、稲荷については、前に「関東三大稲荷」のことを書いたことがあるが、アースダイバーとしては「花園稲荷」のこともあり、さらにプラトンの「コーラ」との関係もあり、まだまだ勉強する必要がありそうだ。否、「稲荷信仰」だけではない。先に述べた「諏訪信仰」はもちろんのこと、「石神信仰」、「大山信仰」、「古峯信仰」、諏訪との繋がりの深い「秋葉信仰」、稲荷との繋がりの深い「八坂信仰」など古代信仰について勉強しないといけないようだ。

 

 

 

 下鶴間城山遺跡公園地区のスライドショウはここをクリックして下さい!

深見城址公園地区のスライドショウはここをクリックして下さい!

 

 


「ジオパーク」の演劇性

 

2007年2月3日

参議院議員岩井国臣

 

 さる昨年12月、国会が終わるのを待ちわびるようにして、モンゴルに行った。モンゴル文化教育大学のソイルト学長の熱心なお招きがあってのことだが、「白滝ジオパーク」構想を現実のものとするためには、モンゴルとの草の根レベルでの友好親善が前提になるとの認識があったからだ。日本大使館への表敬訪問や労働大臣との会談などの後、大統領と会談する幸運を手にすることができた。ソイルト学長その他の関係者の努力があってのことである。大統領からの求めに応じ、私の思いを申し上げた。すなわち、「民族的な血の繋がりというものは大事である。モンゴリアンと私たち日本人には民族的な血の繋がりがあり、私はモンゴリアンを兄弟のように感じている。日本は幸い経済的に発展した。貴国のために日本のできることがある。逆に、日本のために貴国のできることがある。貴国はチンギス・ハーンを生んだすばらしい国だ。政府レベル民間企業レベルの友好親善交流は次第次第に深まってきていて喜ばしい。今後、さまざまなレベルでの交流が今後ますます増えていくと思う。是非、私も努力したい。私としては、モンゴル文化教育大学を中心として、草のレベルの友好親善交流に特に力を入れていきたいと考えている。大統領は暖かく見守っていていただきたい。」・・・と。

 さらに大統領には、「モンゴルと日本が力をあわせることが世界平和に繋がるのだ」ということを一応申し上げておいた。一応というのは、何故そうなるかという理由はいつか又機会を見て申し上げるとして、とりあえず将来のために伏線をはっておいたという意味である。これからの私の言動によって、日本の人もモンゴルの人もやがて、「モンゴルと日本が力をあわせることが世界平和に繋がるのだ」ということの意味がわかってくれるのではないか、私はそう感じている。

 先に述べたように、中沢新一は著書『熊から王へ』(2002年・講談社)の中で次のように言っている。すなわち、『 人類学では、かつては世界の三大人種をネグロイド、コーカソイド、モンゴロイドと呼んできたが、今日ではそれぞれ主な居住地域から、「アフリカ人」、「ヨーロッパ人」、「アジア人」という呼び方で分類している。「アフリカ人」は、ホモ・サピエンス誕生以来ずっと故郷の地に暮らし続ける肌の黒い人々。「ヨーロッパ人」はアフリカを旅立ったのち、東に向かったわれわれの祖先たちと別れ、欧州に住み着いた人々を指す。そして、太陽の昇る方向を目指して長い旅を続けた集団を「アジア人」と呼ぶ。ここで注意しなければならないのは、「アジア人」とアジアの人とは違うということである。「アジア人」は、中沢新一の言う「東北」つまり「環太平洋の環」に対応した概念であり、アジアの人々という意味ではない。この「アジア人」の仲間のうち、もっとも長い旅路を歩いたのは、南米大陸の南端まで到達したアメリカ先住民の一派である。彼らはシベリアからベーリング海峡を越え、アラスカを抜けて北米大陸を南下、さらに南米大陸を一気に下って、かつてマゼランが「火の国」と名付けた最南端のフェゴ諸島まで、実に五万キロもの移動を成し遂げた。その末裔はオナ族、ヤーガン族という狩猟民族であり、ダーウィンの航海記録にも顔を出している。しかし、その後ヨーロッパからの侵略という不幸に見舞われ、二十一世紀の今、ほとんど姿を消してしまった。ともにアフリカを出発し、西に進路をとる「ヨーロッパ人」と東の「アジア人」が別れたのは、遺伝学の分析によると今から五万年前から六万年前のことである。「ヨーロッパ人」と別れて東に向かった一団は、大きく二つのルートに分かれる。故郷アフリカの温暖な気候を求め進んだ「南回廊」と、極寒のシベリア平原を進んだ「北回廊」である。「南回廊」は西アジアから南アジア、インドネシアを経由しつつ、中国南部から朝鮮半島を抜け対馬海峡を越えるか、柳田国男の唱えた「海上の道」、つまり琉球諸島を北上するルートをたどる。一方、「北回廊」はシベリアを越え、サハリンから北海道へと到るか、モンゴル、中国北部を経由しながら朝鮮半島を通って日本へ到達するか二つのルートをイメージしてもらいたい。詳細に見れば四つのルートだが、大きくは「北回廊」と「南回廊」という二つの道である。二つの道を別々に歩んだわれわれの祖先たちは、それぞれ旅の途中で人類史上に燦然と輝く偉大な記録を残している。北回廊を歩んだ人々は、温暖地方でしか生きられなかった人類にとって初めての「寒冷地克服」という快挙を成し遂げた。そして南回廊にコマを進めた人々は、陸地しか移動できなかったヒトが、初めて海を渡るのに成功するという「海洋適応」を果たしたのである。この二つの偉業をともに成し遂げたのが、いわゆるモンゴロイド、つまり私たちアジア人の祖先たちである。そして先ほども言ったように、その私たちアジア人の祖先たちのうち、一部がベーリング海峡を渡ってアメリカ先住民の一派となった。アメリカ先住民の一派なども広い意味の「アジア人」つまりモンゴロイドである。 』・・・・・と。

 さて、これも以前に述べたことだが、中沢新一は、「モノとの同盟」というこれからの世界をリードするかもしれないすばらしい哲学を発表している。「光と陰の哲学」といってもよい。彼によれば、霊魂を「タマ」という。この「タマ」というものを充分理解して現代の科学文明にある種の修正を加えていかないと、この先、世界はやっていけないという。私もまったくそのとおりだと思う。「タマ」と「スピリット」が大事だ。物質的な科学文明だけではダメで、「タマとの同盟」が必要なのだが、それをなし得る地域というのはモンゴロイドである。まずそのことをしっかり認識しておきたいものである。

  「日本人はるかな旅(第1巻)」(2001年8月、日本放送出版協会)によれば、わが国の縄文人29体とDNAが一致してているのは、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人とブリヤート人であるが、韓国人と台湾に住む中国人とタイ人はそれぞれ縄文人29体中一体が一致したのに対し、驚くことには、ブリヤート人は縄文人29体中17体が一致したという。ブリヤート人は、アムール川の上流及びバイカル湖の周辺に住む民族であり、現在は、モンゴルと外モンゴルに属している。私は今年の夏にできればムングンモリトとダダルに行きたいと考えているが、ともにアムール川の水源地・ヘンティ山地である。ヘンティ山地に私の想像するような森林があるのかどうか、その辺を見てみたい。もちろんブリヤート人のモンゴル側の拠点である。チンギス・ハンの生まれ故郷はダダルである。したがって、私たち日本人のDNAとチンギス・ハンと同じかも知れない。

 

  

 これからの国土づくりや地域づくりや町づくりにおいては、「風土」ということが強く意識されなければならない。哲学としてはプラトンの「コーラ」であり、宗教としては「空」であり、民間信仰としては「スピリット」というか「石神信仰」である。

 「地域づくり」は「人づくり」であり「場所づくり」である。私が「劇場国家にっぽん」を提唱する所以の一つは、「場所づくり」において演出というものが不可欠だからである。私は、ビジター産業を日本のリーディング産業にしたいと考えており、そういう立場からすると、「地域づくり」には「演劇性」が必要であり、どうしても演出家の助けが必要だ。場所の演出にあたっては、その歴史的背景や伝統や文化が密かに感じられることが肝要だ。例えば、日本的集落の構成原理については園田稔の素晴らしい研究があるが、「地域づくり」にあたっては、そういう学者の研究成果というものが訪れる観客に何となく感じられるような演出が望ましい。考古学的な研究成果によって、わが国の「歴史と伝統・文化」の実態が次第次第に明らかになってきており、そういった学問的研究成果にもとづいた「劇場性」というものがこれからの地域づくりの核心になっていくと思われる。

 そしてまた、「縄文との響き合い」とか「宇宙との響き合い」というものも「劇的空間」としては極めて大事である。きっと、そのような「地域づくり」は地域の人びとの流動的知性を養うに違いない。そして、そのことはまた、日本人の流動的知性を養うよすがとなろう。

 「和のスピリット」の出現する聖なる空間というものは、「宇宙との響き合い」のできる貴重な空間である。

 そこで大事な要素となるものがいくつかあると思うが、何より心惹かれるのは、空であり、星である。夜空いっぱいに満点の星が光またたく。こんな神秘なことはなかろう。私は、若いときから登山をやっていて、幾度となく星空を眺め、目と身体でしっかりと覚えている。

 空のほかに大事な要素となるのは、地質だ。空や星も重要だが、大地との響き合いも重要である。温泉が吹き出ているとか、大きな岩が露出しているとか、何か地質学的な特徴があれば、それを手引きに大地との響き合いができる。

 次に大事なのは川だ。川は千差万別。いろいろな表情を四季折々に見せてくれる。とくに洪水のときは自然の猛威を見せつける。自然の恵みと自然の恐ろしさを実感させてくれるのは川である。

 こういった自然の・・・聖なる地のひとつに、縄文の遺跡があるのではなかろうか。「縄文との響き合い」・・・、これは、世界の人びとに是非とも体験してもらいたいと思う。きっと、ビジター産業のキャッチフレーズになるにちがいない。

 しかし、私は、そういう聖なる地に生息する「和のスピリット」の力によって、ここがいちばん大事なところだが、人びとは、流動性知性というものを身につけることができるのではないかと考えている。  

 わが国は多神教の国である。神社や寺院のほかに、キリスト教会なども結構数多く見受けられる。今後、わが国には、いろんな異境の神が入ってくるであろう。すでにイスラム教徒も少なくないようであるが、そのうちに本格的なモスリムも珍しくなくなっていくであろう。キリスト教のほか、イスラム教も結構わが国に馴染んでくることだろう。しかし、キリスト教やイスラム教という一神教も、原理主義的なものは日本では育たないように思える。

 わが国は、徳一と最澄の宗教論争のほか、明恵と法然の宗教論争というものすごい論争があって、結局は、現在のように、いろんな宗教ないし宗派がこの狭い国土に共存するようになっている。わが国は「和の国」である。わが国は、多分、風土に起因する・・・「違いを認める文化」というものを持っているのである。「和のスプリット」の活躍が旺盛なのである。しかし、みなさん、ここがいちばん大事なところだが、その「和のスプリット」というものは、わが国特有のものではなくて、モンゴロイドすなわち「環太平洋の輪」に見られる世界の・・・それも極めて広範囲に、しかも世界一古くから生息する・・・「平和の使者」なのである。

 今後、どのような宗教がわが国に入り込もうとも、その「和のスプリット」の働きのお陰で、わが国では、原理主義がはびこることにはならないと思う。異境の神を恐れてはならない。むしろ、今後、わが国は、積極的な移民政策をとって、異境の神を積極的に受け入れなければならないのである。

 わが国の風土は、あらゆる宗教を日本化する力を持っていると思う。神仏習合の父・徳一を勉強して、私はそのことを学んだ。日本化ということは、「違いを認める」ということであり、まあいうなれば「和」の精神によって、原理主義の角がとれて・・多少柔らかく変質することである。習合といってもいい。「和のスピリット」の力のことである。

 私は先に、『 中村哲学や中沢哲学から導きだされる大事な点は、「身体性の問題」であり、「心の問題」である。「景観哲学」・・・、それは、ひとことでいえば、日本人の「感受性の問題」である。「観光立国」という脈絡からいえば、わが国の「歴史と伝統・文化」に照らし、「日本人の感受性」が問われるのである。』・・・とのべてきた

 中村雄二郎はいろんな場で「文化とはかたちであり、かたちとはリズムである」と言っているが(例えば、彼のエッセー集6・デザインする意志)、彼によれば、景観などのかたちの問題は最終的にはリズムの問題に帰着するのである。中村雄二郎は「社会的にいって人間は自分たちを律する明確なかたちや形式を持たないときには安んじて生きていけない。型の喪失は歴史的に見ても大きな問題なのである。」・・・と言っているが(例えば、彼のエッセー集6・デザインする意志)、そのこともさることながら、今ここで「観光立国」との脈絡においては、わが国を訪れる外国人に対し、わが国の「歴史と伝統.文化」の心髄が正しく伝わるかどうかを問題にしている。日本人のこころというか「日本人の感受性」が正しく伝わるかどうかが問題なのである。

 けばけばしい看板や傍若無人な電柱は、少なくとも観光の「道行き」ではただちに排除しなければならない。日本人のこころというか「日本人の感受性」が正しく伝わるかどうかは、中沢新一の「モノとの同盟」を進める上で、つまり世界平和を実現する上で、基本的な大問題なのである。私は、せめて観光の「道行き」だけでもいいから、けばけばしい看板や傍若無人な電柱を無くべきだと思う。そうでない限り、「観光立国」などというのはおこがましいのではないか。せめて観光の「道行き」だけでもいいから、けばけばしい看板や傍若無人な電柱を無くすよう、今こそ、国としての政策を展開すべきである。

 

 

この続きはここをクリックして下さい!

 

 


 

諏訪神社

 

 

 

 「らしさ」というものは大事である。「らしさ」は「柄(がら)」とか「風(ふう)」或いは「振り(ぶり)」でもある。それらしく生きていれば、その人のお人柄というものができていく。岩井国臣風の生き方というものがあっても良い。家柄(いえがら)、土地柄、おクニ柄という言い方がある。最近は、お家柄というのは流行らなくなっているが、土地柄とかおクニ柄というものは今も健在である。私は京都生まれ京都育ちであるが、私にも京都の土地柄がある程度しみ込んでいて、当然、京都人らしさというものがある。家柄三代というけれど、親父が九州からでてきて私が生まれたので親子二代目である。だから、根っからの京都人とは言えないのかも知れない。私はおばあちゃん子でおばあちゃんに育てられた。おばあちゃんと親父の影響を強く受けて育ったので、そういう意味では九州男児でもある。九州の土地柄がある程度染み(しみ)込んでいるという訳だ。

 土地柄というものは大事なものであるらしく、県人会などは今も盛んだ。その土地の風物にそれぞれが同じような面影(おもかげ)を見い出し、言わず語らずの内にある種のコミュニケーションができてしまう。暗黙の了解というものができてしまう。土地振り(ぶり)の働きがあるのであろう。民族にも「らしさ」や「振り(ぶり)」がある訳で、私は、モンゴルと日本は民族的な「らしさ」を共有していると考えている。「風(ふう)」或いは「振り(ぶり)」に共通のものがあるという訳だ。そのことはおいおい説明していくとして、ここでは「土地柄」について語りたい。

 

 月見野という土地は、万年前から人びとが住み、それなりの土地柄ができてきた。問題はどういう土地柄か・・・ということである。万年前であるから、境川や目黒川はあった。八王子方面と行き来する獣道(けものみち)にちょっと毛のはえた程度の道はあったかもしれない。しかし、大山街道はなかった。大山(おおやま)はあったが、そこと行き来する道はなかったであろうということだ。私は、獣道(けものみち)にちょっと毛のはえた程度の道であっても、大山方面と行き来する道はなかったと考えている。しかし、大山(おおやま)はあった。大山(おおやま)に対する崇敬(すうけい)の念はあったと思うが、仮に、宗教的な目的で月見野から大山に行くとしても、交通手段は船であったろう。舟運だ。私は八王子方面との行き来も舟運が主であったと考えている。もちろん、万年前の舟運といえば、丸木舟かも知れないが、なにせ黒潮を乗りこなす航海技術はあったのだから、境川を丸木舟で行き来するぐらいはへっちゃらだ。お茶の子さいさい・・だ。

 私が、今、「大山に対する崇敬(すうけい)の念はあったと思うが、仮に、宗教的な目的で月見野から大山に行くとしても、交通手段は船であったろう。」と申し上げたのは、舟運を司る「海の民」のもっとも頼りにするのは「大山(おおやま)」であったからである。この当時、「山の民」の拠点は八ヶ岳や甲府盆地や桂川流域であった。先に述べた富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏を思い出して欲しい。そして、その宗教的な象徴は、現在でいえば諏訪神社、当時でいえば「石神信仰」である。大山寺は石尊大権現と呼ばれ、江戸時代、「大山詣で」は「石尊詣で」とも言われた。これも「石神信仰」であるが、「石神信仰」についてはいずれ機会を見てゆっくり語りたい。ここでは、とりあえず、「山の民」の象徴である諏訪神社にお詣りするとしよう。もちろん、諏訪神社というのはここ境川と目黒川の合流点の近くにある諏訪神社のことである。

 

 

月見野の諏訪神社については、ここをクリックして下さい!

 


 

月見野遺跡(その4)

・・・水の神は死んだか(つづき)・・・

 

 

 私は前回、『 私は、本来、「つきみ野」という土地を「つきみ野」という土地あらしめているもの、目黒川、その現状を見た。今のシビルエンジニア(土木学者)というものはひどいものだ。すっかり目黒川を殺してしまったかに見える。あれはもう川ではない。川の水というものは本来飲めるものである。また、川には魚や昆虫がうじゃうじゃいて、それを子どもが自由に掴めるようでなければならない。本来「生成の場」とはそういうものだ。でもすっかり変わってしまった。ああ、目黒川はすでに死んでしまったのであろうか・・・? 』・・・といい、その上流を見て歩いた。今回はその続きとして、下流を見て歩こう。 

 

下流暗渠の入り口を見る][下流暗渠から下流を見る

下流暗渠の出口から下流を見る][下流暗渠の出口を見る

 

 河川は公共物である。したがって、その用地は国が所有している。国有財産なのである。同じ公共財であっても、そこが道路や下水道といちばん違うところで、道路は、もちろん公共財である場合がほとんどではあるが、私的財である場合もあるのである。箱根のターンパイクなどは私的財である。あまり知られていないが、箱根ターンパイクは2004年に東急からオーストラリアの銀行・マッコーリー等に買収された。金儲けのためである。観光道路だけでなく、特定の団体が所有している農道や林道もある。しかし、そういうことは河川にはない。日本の河川法に限っていえば、河川は、営利のために使ってはならないことになっており、その上空占用なども真にやむを得ない場合に限られている。暗渠にするなどはもってのほかである。だから、目黒川は河川ではないのである。下水道である。上に述べたように、本来、「つきみ野」という土地を「つきみ野」という土地あらしめているものは目黒川であるから、その価値を再認識して、目黒川を本来の河川に戻すとともに、目黒川を中心として「ジオパーク」を作るべきではないか。そんなことを考えながら目黒川の下流を歩いた。

 

 

それではここをクリックして下さい! 

 


 

月見野遺跡(その3)

・・・水の神は死んだか・・・

 

 

 私は、先に、次のように述べた。すなわち、『 「つきみ野」は、膨大な石器が出た遺跡の地である。しかも、御子柴型石器と湧別川技法による細石刃が併出するという全国でも貴重なな遺跡だ。私は、「つきみ野」という土地にできるだけ多くの古代の痕跡を見い出して、何とか古代に想いを馳せようとしている。過去、現在、未来という時間を超越した何か神のようなものというか宇宙的なものの響きを幽かに感じながら、過去や現在や未来について、一体、私に何が語れるのか? 黒曜石や「つきみ野」という土地に対する私の想いが、このインターネットによって地元の人びとにどう伝わるのか? また、今後、地域の人びとの想いがこの「つきみ野」という土地にどう刻印さていくのか? そして、将来、「つきみ野」という土地からどういう人が生まれて、どういうものが生成されていくのか? コーラ(chra)は母である。生成の「場」である。「つきみ野」に幸いあれ!』・・・・と。

 「つきみ野」という土地は、確かに、黒曜石を語るになくてはならない誠に貴重な土地である。「つきみ野」という土地と黒曜石文化との関係を語らねばならない。そのためには、黒潮文化との関係を語らねばならないし、縄文文化との関係を語らねばならない。これは地理学者の仕事だ。また、「つきみ野」という土地の未来を語るには、「つきみ野」という土地の現在や過去を語らねばならない。未来と現在と過去を語るということは、過去、現在、未来という時間を超越した何か神のようなものというか宇宙的なものの響きを幽かに感じながら、それとの関係を語るということだ。これは言うまでもなく存在論であって哲学者の仕事だ。さらに、私は、今、『 黒曜石や「つきみ野」という土地に対する私の想いが、このインターネットによって地元の人びとにどう伝わるのか? また、今後、地域の人びとの想いがこの「つきみ野」という土地にどう刻印さていくのか? そして、将来、「つきみ野」という土地からどういう人が生まれて、どういうものが生成されていくのか? コーラ(chra)は母である。生成の「場」である。「つきみ野」に幸いあれ!』・・・・と述べたが、これはもう創造の話であって、こういったことを成すか成さないかはシビルエンジニアリング(土木学)次第だ。今の土木学は、こういう地理学と哲学を総合しながら、新しい価値あるものを作っていない。本来、土木工学は「場所づくり」のためにあるのであって、「場所」についての地理的な分析と哲学的な深い思考を前提として、地域の人びとに働きかけ、地理学的及び哲学的にすばらしい人びとを生成しくような・・・、そういう「場所」を作っていかなければならないのである。本来の「場所」を取り戻すこと、それは生成の「場所」を作ることであり、コーラ(chra)・「母」の復権を果たすことだ。

 

 さて、私は、本来、「つきみ野」という土地を「つきみ野」という土地あらしめているもの、目黒川、その現状を見た。今のシビルエンジニア(土木学者)というものはひどいものだ。すっかり目黒川を殺してしまったかに見える。あれはもう川ではない。川の水というものは本来飲めるものである。また、川には魚や昆虫がうじゃうじゃいて、それを子どもが自由に掴めるようでなければならない。本来「生成の場」とはそういうものだ。でもすっかり変わってしまった。ああ、目黒川はすでに死んでしまったのであろうか・・・?

 

 今のシビルエンジニア(土木学者)というものはひどいものだが、本来のシビルエンジニア(土木学者)に戻る萌芽はすでにでてきている。風土工学の誕生だ。私はかって、『 私の提唱する・・・・個性ある地域づくり、共生の思想にもとづく地域づくり、川童の棲む川づくり、巨木の町づくり、怨霊、鬼、妖怪の棲む町づくり・・・・これらはとりもなおさす風土工学の問題といったらよかろう。風土工学の新たな展開を心から願い、そして「杜のくに・・・日本」の幸せを願いつつ、明日のよろこびを夢見ることとしたい。』・・・と、元土木研究センター風土工学研究所所長の竹林征三さんの進める風土工学に期待を込めながら、若干、シビルエンジニアリング(土木学)に哲学の必要なことを書いたし、さらには中沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論の必要性を書き、そういった・・・新技術論をどう展開するかという点にも触れておいた。私の言いたいことの要点は、『 地域づくりのNPO活動をやりながら、陰翳の技術、タマシイの技術、鎮魂の技術を含む「モノ的技術」、私に言わせればそれらは公共財ということになるが、そういう「タマ的技術」を含む「モノ的技術」を身近に感じることのできる「場」を作っていくことだ。そうすれば、世界の人びとは日本においてそれを体験し、自国にその種を植え付けることができる。それができれば、それが萌芽となって、世界レベルで「モノとの同盟」が行なわれていくのではなかろうか。それが可能となれば人類の新たな文明が始まる。 』・・・・ということであった。その後の勉強の成果を踏まえながら、今、このことを言い直すと、このような言い方・・・『 本来、土木工学は「場所づくり」のためにあるのであって、「場所」についての地理的な分析と哲学的な深い思考を前提として、地域の人びとに働きかけ、地理学的及び哲学的にすばらしい人びとを生成しくような・・・、そういう「場所」を作っていかなければならないのである。本来の「場所」を取り戻すこと、それは生成の「場所」を作ることであり、コーラ(chra)・「母」の復権を果たすことだ。 』・・・ということになる。

 

 そんなことを思いながら、目黒川の上流と下流を歩いた。目黒川はすっかり下水路のようになって元の目黒川の「面影(おもかげ)」を見い出すことは難しいのだが、目黒川の上流はほとんどの区間が暗渠になっていて元の目黒川の存在すら判らなくなっている。「面影(おもかげ)」がなくなったということは、その場所に「面向き(おもむき)」がなくなったということであり、まことに残念なことである。「面影(おもかげ)」と「面向き(おもむき)」の問題は、哲学としてはコーラ(chra)・「母」の問題であり、いずれゆっくり勉強するとして、ここではとりあえず、以前にとりあげた・・・胞衣(えな)信仰を思い出しておいて欲しい。

 

この続きはここをクリックして下さい!

 


 

月見野遺跡(その2)

・・・太古のリズムを感じるか・・・

 

 

 「つきみ野」は、膨大な石器が出た遺跡の地である。しかも、御子柴型石器と湧別川技法による細石刃が併出するという全国でも貴重なな遺跡だ。私は、「つきみ野」という土地にできるだけ多くの古代の痕跡を見い出して、何とか古代に想いを馳せようとしている。過去、現在、未来という時間を超越した何か神のようなものというか宇宙的なものの響きを幽かに感じながら、過去や現在や未来について、一体、私に何が語れるのか? 黒曜石や「つきみ野」という土地に対する私の想いが、このインターネットによって地元の人びとにどう伝わるのか? また、今後、地域の人びとの想いがこの「つきみ野」という土地にどう刻印さていくのか? そして、将来、「つきみ野」という土地からどういう人が生まれて、どういうものが生成されていくのか? コーラ(chra)は母である。生成の「場」である。「つきみ野」に幸いあれ!

 

全体はここをクリックして下さい!

 

 


 

月見野遺跡(その1)

 

 

 今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については稲田孝司の「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、前にも述べたように、その本から九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。

 北海道湧別川(白滝)の旧石器人が細石刃をつくる技術を湧別技法というが、その湧別技法でつくられた細石刃が月見野遺跡から出土した。このことすら驚くべきことだが、稲田孝司はその程度の話にとどまらないで、湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげた・・・といっているのである。だとすれば、白滝の黒曜石を語らないで日本の黒曜石を語ることはできないではないか。こういう稲田孝司の考えはどこから来るか。少々説明をしておかなければなるまい。

 

全体はここをクリックして下さい!

 


 

御子柴型石斧を訪ねよう!

 

 

 私は、今、黒曜石のロマンと黒潮のロマンを追求していけば、多分、「海洋史観」と「生態史観」を統合する・・・・新しい歴史観ができていくかも知れない・・・そんな予感を持ちながら「古代社会源流の旅」をつづけている。「武家社会源流の旅」がそうであったように、今回の「古代社会源流の旅」もまた家の近くから始めた。

 堂ヶ谷戸(どうがやと)遺跡で学んだ要点は、『 石器時代でも後期旧石器時代というのは3万5000年ほど前から1万2000年ほど前までのおおむね2万3000年ほどの間をいうが、その中間ぐらいの時代、今から2万5000年ほど前に黒曜石が使われはじめる。大変化が起こっているのは、時代でいえば2万5000年ほど前の時代、地層でいえば第、層が形成された時代である。』ということである。

 そして、瀬田遺跡と等々力根遺跡を訪れながら次のように述べた。すなわち、『 かって、私は、「武家社会源流の旅」をこの等々力から出発したのであったが、今回の「古代社会源流の旅」もこの地(瀬田遺跡と等々力根遺跡)から出発するとしよう。この地では、3万年ほど前にはすでに人びとは石器文化をもって結構豊かな生活をしていたのではないか。私はそんな想像をしている。そして5000年ほどが経過し2万5000年前ごろになると、石器文化に急激な変化が起こる。八ヶ岳の大量の黒曜石が持ち込まれナイフ型石器などかなり高度な加工が行なわれるようになる。しかし、まだ湧別技法などという極めて高度な加工技術は日本列島のどこにも始まっていない。そういう画期的な技術革新が始まるのはずっと後のことであるが、2万5000年ほど前に八ヶ岳の黒曜石が関東平野に大量に持ち込まれているということは大変興味のあるできごとだ。八ヶ岳山麓から多摩川にかけての文化圏は、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏と呼ばれるが、その源流に八ヶ岳の黒曜石がある。問題は、武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのかということである。』・・・と。

 そして、黒曜石の七不思議のひとつに触れ、次のように述べた。すなわち、『 第1の不思議は「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」・・・ということである。伊豆・箱根や神津島の黒曜石は、実は、相模野台地には結構大量に持ち込まれている。相模野台地の場合も八ヶ岳の黒曜石が大量に持ち込まれている時期もあるのだが、相模野台地の場合はおおむね伊豆・箱根や神津島の黒曜石が卓越している。なのに武蔵野台地には伊豆・箱根や神津島の黒曜石がほとんど持ち込まれていない。これはおそらく武蔵野台地の人びとは伊豆・箱根や神津島と馴染みがなかったからではないか。(中略)「黒潮を渡った黒曜石・・見高段間遺跡」(池谷信之、新泉社、2005年4月)には、伊豆七島付近の海は難所で、これを渡り切ることは大変なことであることが縷々書いてある。そのとおりであろう。私も同じように思う。しかし、旧石器時代からそういう難所を乗り切る航海術があったらしい。海流と風をどう読むか、その技術だ。こういう技術は宇宙との響き合いの中でしか生まれない。黒曜石の湧別技法もそうだ。宇宙を感じ、自然と一体になることだ。そうすればどういう風の時にどういう風にして難しい海流を乗り切るか、自ずと判ってくる・・・というようなものではなかろうか。河津町の段間遺跡が神津島産黒曜石の陸揚げ地と推定されているのは、縄文時代中期のことであるが、私は、それより古くから、河津町、東伊豆町、伊東市、熱海市などには人が住んでおりその中心は熱海ではなかったかと想像している。熱海には古い神社があるからだ。伊豆・箱根の黒曜石も周辺でとれる。想像を逞しく申し上げる。伊豆半島の東海岸には主だったところに、漁業と舟運を専らとする「海の民」があるていど住んでいて、周辺の人たちと交易を行なっていた。その交易を行なっていた人たちのお陰で・・・相模野台地に神津島や伊豆・箱根の黒曜石は持ち込まれた。そのリーダー的な人びとというのは、熱海とか伊豆半島の人びとではなかったか。熱海は摩訶不思議なところである。縄文時代から弥生時代を経て、大和朝廷の東北経営が盛んになると、鎌倉がクローズアップされてくるが、旧石器時代はまだ鎌倉は辺鄙なところであって熱海が中心であった。熱海は実に摩訶不思議なところなのである。ではとりあえず、伊豆山神社を訪れるとしようか。伊豆山神社については、かって「武家社会源流の旅」で紹介したことがあるが、再度ご覧いただきたい。まず「初島」をクリックし、その後に伊豆山神社を訪れて欲しい!なお、伊豆半島や熱海を理解するには伊豆山神社というものをしっかり認識する必要があるし、また伊豆半島や熱海、そして伊豆山神社というものをしっかり認識するには、黒潮というものをきっちり理解しておく必要がある。黒潮についてはここをクリックして欲しい! 』・・・と。

 

  黒曜石の七不思議のひとつ・・・「武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石はなぜ神津島のものでなく八ヶ岳のものなのか?」という疑問については、一応、私なりの答えを申し述べたのだが、もしそうだとしても、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」という次の疑問が湧いてくる。この疑問に答えるためには、どうしても黒潮文化について勉強する必要がある。・・・ということで、いろいろと黒潮文化に関する現在の知見を勉強することとした。

 

続きはここをクリックして下さい!

 


 

今までのWhatsNew(20061123)