今までのWhatsNew(20071115)





地 域の持続的発展とは何か(その2)?

御 子柴遺跡周辺の水環境

御子柴は聖地!

御 子柴は聖地かその2・・・・・・ 地霊の発する声が聞こえるか・・・・・・

野生の感覚と 男性原理

御子柴は聖地か
その1・・・・・・羽広観音と経ヶ岳・・・・・・

御子柴遺跡の謎

菅平の水場

唐沢B遺跡を訪ねて

唐 沢の岩陰遺跡とその周辺

野辺山

荒屋遺跡

日 本武尊(ヤマトタケルノミコ ト)の酒折宮伝説・・・古代の道を考え る

湧別技法の広がり

地域の持続的発展とは何か?







地 域の持続的発展とは何か(その2)?



 現在、格差問題が いろいろな議論を呼んでいる。所 得格差は確かに最近拡大してきている。原因は企業というか経済のグローバル化にあり、特に、ベルリンの壁が破れ、ソビエッ ト連邦も崩壊、自由主義陣営というかアメリカの勝利がはっきりした、日本の年号でいえばちょうど平成になってひどくなってきているようだ。

 しかし、地域間格差、つまり過疎過密の問題は、高度成長期、つまり昭和30年代を通じて深刻化してきた。これは、農業と林業が、一般的には、国際競争に 勝てないいわゆる斜陽産業になったからであって、基本的には、所得格差の問題と同様に、国際競争というか貿易の自由化に原因があるとも言えるが、過疎化 は、都市化の進展に反比例して、昭和20年代から始まり、昭和30年代からひどくなってきた。島根県匹見町 は、昭和33年に人口はピーク時のおおよそ三分の一に減った。

 国土交通省と総務省の調査によれ ば、全国のの過疎地域にある約6万2千の集落のうち、4%強にあたる2641集落が高齢化などで消滅する可能性があること がわかった。うち422集落は、10年以内になくなる可能性があるという。


 いよいよ地域格差問題が大きな問題になってきた。過疎問題は今に始まったことではない が、いよいよ大変だ。どうすれば良いか? 広島の皆さん、みんなで考えてみよう!


 今度の土曜日(071117)にお話しする要点をあらかじめお知らせしておきたい。 「地域の持続的発展とは何か?」という前の問題提起につづき、今回は、その続きである。今私が力を入れて取り組んでいる「ジオパーク」に焦点を当てて、新 たな問題提起をしたいと思う。「地域通貨」の問題もお話ししたいが、それはまた次の機会にしよう。

それでは、まず、ここをク リックして下さい!



 
御 子柴遺跡周辺の水環境
 
 
 
   さあ、それでは、南箕輪村の湧水を紹介するとしよう。唐木村長はじめ関係の方々に大変お世話になった。この場を借りて心から御礼を申し上げる。皆さん方 も、表面的なものだけでなく、南箕輪村本来のすばらしい水環境を、是非、心眼でもって見てほしい。
 
   神子柴簡易水道水源は、
上 伊那郡南箕輪村神子柴の    大清水川沿いの沢にあり、
水 道水源となっているので、一般には入れない。
 
 
 
     
半 沢の湧水は、
上 伊那郡南箕輪村田畑にある田畑神社北の
半 沢川上流に湧水となって流れている。
 
ホ タルの会によって保護活動が行われて夏にはホタルが多く見られる。
 
 
 
 
不 死清水(しんずらしみず)は、
上 伊那郡南箕輪村南殿     「しんずらしみず」として村の伝説の残る湧水 である。
 
三 州街道を通るたびに、この清水でのどを潤していた長者が、
臨 終間際と思われたある日、清水を飲みたいと願った。
供 の者が水くみに行き「主人はもう死んずら」と思いながら水をくんで帰ったところ、
ま だ息があり、清水を飲んで元気になったという。
 
そ れからこの清水は「しんずら清水」と呼ばれ、
村 人や旅人が長寿の水として親しまれるようになった・・・
と 伝えられている。
 
  清らかな水を証明するように、この水を使って最近までワサビが栽培され、
昔 はサケの稚魚を養殖したとの記録も残っている。
 
明 治の初め、近代国会を目指す政府は、
新 産業として養殖したサケの稚魚を川に放流する計画を立てた。
同 村では一八七八(明治十一)年、
有 志が養殖に関する要望書を県に提出した。
  水質調査をしたところ、清水の水は養殖に最適とされ、
七 九年から四年間、
こ の水を使って養殖されたサケの稚魚が天竜川に放流された。
 
し かし、村人の願いはかなわず、
天 竜川にサケが戻ることはなく、事業は失敗に終わってしまった、という。
 
  昔から不死清水に親しんできた山崎ことえさん(78)は
「清 水は昭和三十年ごろまで飲料水として使われていたが、
水 道の普及で次第に飲まれなくなった」と話す。
 
し かし、いまでも冬には近所の人がお菜洗いに集まり、
夏 には学校帰りの子どもたちがのどを潤す地域の憩いの場となっている。
 
  清水周辺は、道路改良に伴って公園へと整備された。
言 い伝えにあるような昔の光景は見ることができなくなったが、
今 でも「不死の水」を求めて、水をくみに来る人が絶えない。
 
 
 
     
北 殿湧水地は、上那郡南箕輪村北殿にある。
こ の付近は、昔から清澄な湧水が多く、中井沢川の源流となっている。
 
子 どもの遊び場ともなっているが、
地 元では、保全のため立ち入りしないよう呼びかけている。
 
      地元において立ち入り禁止をよびかけているが、
当 面、やむ得ないのではないか。
 
そ れにして、実に良いところである。
水 神さんもあるし・・・・・。
 
 
 
 
塩 ノ井湧水地は、上伊那郡南箕輪村塩ノ井にある。
 
少 し前は、
信 州「自然村」として観光資源として利用されていたが、
や はりお客さんが少ないということで、
  観光施設としては廃業状態となっている。
 
一 部がわさび畑になっているものの誠に残念である。
 
 
 
 
 
    こ のように、 御子柴及びその周辺は 、天竜川の豊富な河水のほかに、 河岸段丘における湧 水の豊富なところであったらしい。
   現在は、 ほとんどは「水の聖性」というものを感じることができなくなっているが、心眼で見れば、往時の状態を見ることができるだろう。そして、どういう工夫をして 「水の聖性」を表現するかがこれからの課題だ。
 
   今のシビルエンジニア(土木学者)はあまりシビルの匂いがしないかもしれないが、本来のシビルエンジニア(土木学者)に戻る萌芽はすでにでてきている。 風土工学の誕生だ。
   私はかって、『 私の提唱する・・・・個性ある地域づくり、共生の思想にもとづく地域づくり、川童の棲む川づくり、巨木の町づくり、怨霊、鬼、妖怪の棲 む町づくり・・・・これらはとりもなおさす風土工学の問題といったらよかろう。風土工学の新たな展開を心から願い、そして「杜のくに・・・日本」の幸せを 願いつつ、明日のよろこびを夢見ることとしたい。』・・・と、元土木研究センター風土工学研究所所長の竹林征三さんの進める風土工学に期待を込めながら、若 干、シビルエンジニアリング(土木学)に哲学の必要なことを書いたし、 さらには中 沢新一の「光と陰の哲学」による新技術論の必要性を書き、そ ういった・・・新 技術論をどう展開するかという点にも触れておいた。
   私の言いたいことの要点は、『 地域づくりのNPO活動をやりながら、陰翳の技術、タマシイの技術、鎮魂の技術を含む「モノ的技術」、私に言わせればそ れらは公共財ということになるが、そういう「タマ的技術」を含む「モノ的技術」を身近に感じることのできる「場」を作っていくことだ。そうすれば、世界の 人びとは日本においてそれを体験し、自国にその種を植え付けることができる。それができれば、それが萌芽となって、世界レベルで「モノとの同盟」が行なわ れていくのではなかろうか。それが可能となれば人類の新たな文明が始まる。 』・・・・ということであった。その後の勉強の成果を踏まえながら、今、この ことを言い直すと、このような言い方・・・『 本来、土木工学は「場所づくり」のためにあるのであって、「場所」についての地理的な分析と哲学的な深い思 考を前提として、地域の人びとに働きかけ、地理学的及び哲学的にすばらしい人びとを生成しくような・・・、そういう「場所」を作っていかなければならない のである。本来の「場所」を取り戻すこと、それは生成の「場所」を作ることであり、コーラ(chra)・「母」の復権を果たすことだ。 』・・・というこ とになる。
 
 
   そんなことを思いながら、かって、月見野遺跡は目黒川の周辺を歩いた。目黒川はすっかり下水路のようになって元の目黒川の「面影(おもかげ)」を見い出 すことは難しいのだが、目黒川の上流はほとんどの区間が暗渠になっていて元の目黒川の存在すら判らなくなっている。「面影(おもかげ)」がなくなったとい うことは、その場所に「面向き(おもむき)」がなくなったということであり、まことに残念なことである。「面影(おもかげ)」と「面向き(おもむき)」の 問題は、哲学としてはコーラ(chra)・「母」の問題であり、いずれゆっくり勉強するとして、ここではとりあえず、以前にとりあげた・・・胞 衣(えな)信仰を 思い出しておいて欲しい。
 
 
   以上は、月 見野遺跡を訪れた際に書いた文章で あるが、御子柴遺跡の場合も同じようなことをつくづくと思う。水の神は死んだのか・・・・と。 皆さん、如何でしょう?  御子柴では水霊の発する声は聞 こえますか?   十分聞こえるというのなら、結構、結構・・・・。だが、もうちょっと工夫があってもいいのではなかろうか。
 
 
 
 
 
 
 



御子柴は聖地!

その3・・・・・・「御子柴ジオパーク」を夢見て・・・・・・





  先に述べたように、私は、御子柴遺跡のある「場所」は、経ヶ岳を含めて聖地であると思う。しかし、現状は、いろいろと気になる点があって、とても聖地 としての環境が維持されていない。これを「御子柴ジオパーク」として整備して、聖地にふさわしい「美しい場所」にしなければならないのではないか。私は、 アメリカ人観光客を前に、1万年前の御子柴を語りたい。1万年前の日本文化を語りたいのである。

  ところで、私は前に、次のように述べた。すなわち、
 『 9月11日の同時多発テロは、アメリカのみならず私たち自由主義社会をまさに驚愕のどん底に陥れた。宗教の怖さというものを今さらながら思い知ると 同時に、 21世紀における世界平和を願うときに暗澹たる想いにかられる。あのテロはイスラム原理主義のジハード(聖戦)であり、仮にビンラディンがいなくなって も、イスラム原理主義が勢いをを得ているかぎりジハードはなくならないといわれる。アメリカ及び同盟国を敵としたテロはなくならないということだ。日本は 間違いなくアメリカの同盟国であるからジハードの対象となりうる。恐ろしいことだが、わが国においてもジハードは起こりうるという前提で対処しなければな らないだろう。危機管理というか安全管理に万全を期すと同時に、経済援助を中心にアラブ諸国とも平和外交を進めなければならない。それが経済大国の責務で あることはいうまでもないが、一方で、とくに文化面において、わが国の優れた思想や宗教のことをもっと世界に知ってもらう努力をしなければならないでだろ う。
 日本は山国である。国土面積の約70%が山だという国は世界でも珍しい。
 そして、日本の登山の歴史はとても古く、世界に類を見ないほどである。西洋では、山は悪魔の住むところとして近代まで近寄る人は少なかったようである が、わが国の場合、縄文時代にすでに山頂で祭祀が行われていたようであり、石器時代の狩猟生活を考え合わせてみれば、日本人の山との関わりあいは相当に古 い。
  <日本百名山>の山の文学者、深田久弥が「信仰登山」のなかでこう記している。
 「・・・・<万葉集>に、山部赤人の富士山をたたえた歌や、大伴家持の立山をあがめた歌が残っている。山岳文学といったものを設定するとすれば、おそら くこれが世界最初の山岳文学の傑作であろう。これほど早くから、山をあがめ、山に親しみ、山が好きだった国民は世界中どこにもなかった。
  富士山に最初に登ったのは「続日本紀」に出てくる役小角(えんのこづぬ)という僧といわれ、天武天皇の時代である。また「富士山記」が収められている 『本朝文粋』は平安朝の書である。その文章には実際に富士山に登ってみないと書けない山頂の詳しい描写が綴られている。
 このように日本の登山史は世界に類を見ないほど古く、今から1200年前に、宗教的な登山ではあったが、すでに登山の黄金時代があった。僧や修験者によ り、富士山、立山、槍ヶ岳、白山など多くの山が開かれている。記録としては633年の富士山登頂が世界で最も古く、それから九百年を経た1522年にメキ シコのポポカテペトルが登られるまで、その登頂高度記録は破られなかったという。

  立山は701年に慈興(じこう)上人によって開山され、白山は716年に泰澄によって開かれた。さらに相模の大山は755年に良弁によって、日光の男 体山は782年に勝道(しょうどう)上人によって登頂されている。ちなみに、ヨーロッパ・アルプスの最高峰モン・ブランが初登頂されたのは、それから千年 後の1786年のことである。
  こういう日本の歴史を世界の人にも知ってほしいと思っている。日本文化のなかにいかに山の文化が育まれ、森の文化が含まれているか、日本人の心の源流 がいかに自然に根ざしているのかを知ってほしいと思っている。
  日本人のアイデンティティーは山への畏敬(いけい)の念、森への畏敬の念から成り立っている。それは自然のなかを漂泊する自我であり、無の実感であ る。漂泊することにより自我にめざめ、違いを認める文化が生じ、それが多神教の文化をもたらす。多神教がいいとか一神教が悪いなどと言っているのではなく て、いろんな文化が共生する世界であってほしいのだ。違いを認めあう世界でなければならないということだ。もはや世界は一神教の文化ではやっていけないと 思うのである。 』・・・・・・と。

   しかし、私は、文献的な記録はないけれど、1万年前には、我が国ではすでに経ヶ岳などの「土地見山」に多くの人々が登っていたと考えている。




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次第に佳境に入っていきます。




御子柴は聖地か

その2・・・・・・地霊の発する声が聞こえるか・・・・・・





  
そもそも御子柴というところは、諏訪湖から左 岸を下ってきて、初めて南アルプスの仙丈ヶ岳が見える場所である。その逆方向に経ヶ岳がある。つまり、仙丈ヶ岳と経ヶ岳を結ぶ線と天竜川が交差するところ が御子柴という「場所」である。唐沢Bの場合もそうであったが、古代人が木の小枝をもって地面にその場所の説明をする場面を想像してほしい。経ヶ岳は先に 見たとおり「土地見の山」であった。日本列島を南下するにはどうしても登らねばならない山であった。その山の位置ををどのように人に説明するか。君ならど うするか?
  私なら、まず八ヶ岳を意味するギザギザの山と諏訪湖を意味する丸い湖を地面に書く。そこから流れ出る天竜川と仙丈ヶ岳を意味する大きな山を書く。その 山の見える位置が御子柴であるので、それを想像してテントの絵を描く。その反対側に経ヶ岳を意味する山を書く。より丁寧に説明するには、テントから経ヶ岳 方面に大清水川を意味する小さな川を描いておくと良いだろう。これで御子柴にいったことのない人でも御子柴遺跡のその「場所」に辿り着ける筈だ。

 ところで、中沢新一は、その著「アースダイバー」の中で、『 縄文時代の人たちは、岬のような地形に、強い霊性を感じていた。そのために、そこには墓地 を作ったり、石棒を立てて神様を祀る聖地を設けた。』・・・と言っているが、御子柴遺跡はまさにそういう場所にある。岩波の古語辞典においても、岬には必 ずそこを支配する神がいると考えられていたと説明している。だから、そういう「場所」では心頭滅却すれば自ずと「地霊の声」が聞こえる筈だ。


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野生の感覚と男性原理




  最近、男性原理とか女性原理という言葉がよく聞かれるようになった。グーグルで検索すると、144万件ほどのページが出てくる。もううんざりだと思う 方も少なくないと思うが、まあしばらくおつきあい願いたい。ここでは、祭祀との関連で男性原理か女性原理かという問題を取り上げる。

  男か女か、白か黒か、善か悪かなど、二項対立的に論ぜられることが多い中で、私は「両頭截断」と言っているのだが、認識の基本的な問題としてそういう 相対的な認識は、断固、排さなければならないことをまず強調しておきたい。 男か女か、白か黒か、善か悪かなどという・・・二元論ではなく、善でもなく悪でもない、しかし善といえば善、悪といえば悪、・・・そういう全体的な認識の 仕方が大事なのである。世の中はそういう風にできているのである。
  それを私流に説明するとこうなる。デジタルというものを想起してほしい。デジタルというものはすべて二進法で表現できる。0と1の数字からなる二進法 である。0は、−1と+1を足したものであるから、デジタルの世界あるいはフラクタルの世界というのは、結局は、−1と+1からなっている。−1と+1の 組み合わせで無数のものが作られるが、そのなかから−Aと+A、−Bと+B、−Cと+Cなどという二項対立的なものを取り出せば、対照的でわかりよい。対 照的でわかりいいというだけであり、そのどちらか選択しなければならないということではない。二者択一の問題ではないのである。その場面、その時の状況に よって・・・・、善と考えられるものが選択されることもあるし悪と考えられるものが選択されることもある。

  今ここで問題にしようとする文脈でいえば、そのときの自然状況や社会状況によって、男性原理が優先されることもあるし女性原理が優先されることもあ る。男性原理が良くて女性原理が悪いという問題ではないし、男性原理が悪くて女性原理が良いという問題でもない。

  さて、長期にわたって自然的または人為的な猛威にさらされる時、その苦痛をやわらげるため、画期的な技術革新が行われ、技術崇拝の信仰心が芽生える。 人為的な猛威というのは戦争とか暴君の圧政のことである。自然の猛威というのは旧石器時代末期から縄文時代草創期にかけての激しい気候変動がそれに相当す るのではないか。そういう激しい環境変化のもとにあっては、それに的確に適応するための新たな技術革新が不可欠であると思われる。
  また、技術革新だけでなく、激しい環境変化に適応するためには、それなりの社会変動を伴う。社会的に新たな緊張が生じるということだ。新たな技術革新 や新たな社会システムの構築は、どちらかといえば男性の力に追うところが多く、男性原理がいろいろな形で作用するようだ。私は、そのように、主として男性 の力の働く原理を男性原理と呼んでいるが、世の中の出来事には男性原理の働く場合と女性原理の働く場合があるようであるが、世の中の状況に応じ、それぞれ に強弱が生じるようだ。現代は、科学技術の行き過ぎというか限界がとやかく言われ、ディープエコロジーなどと自然重視の風潮があるが、女性原理が働き始め ているのかもしれない。旧石器時代の狩猟時代は、もちろん野生の感性というか男性原理が優勢である。女性原理の働く余地がほとんどないのかもしれない。


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御子柴は聖地か

その1・・・・・・羽広観音と経ヶ岳・・・・・・




  御子柴遺跡のある御子柴というところはまたとない聖地である。 更新世末期の大きな環境変化と異文化集団との接触という危機に対処するためには、従来 の社会秩序をたびたび確認するための祭祀必要になってくるのであって、御子柴遺跡なる「場所」は、よくもこんな場所があったと思われるほどまたとない聖地 である。
  前に述べたように、安斎正人は、「泉の上で大猟を祝う祭りが盛大に開かれた。彼らは石器を種類別にまとめて、槍は穂先をそろえて、石刃や石の中に獲物 を積み重ねて祝いの歌と踊りが繰り広げられる」・・・・という 林茂樹自身の思いを紹介しているが、それは、安斎正人がそう言う林茂樹の想像にそれなりの魅力を感じていたからであろう。

  これも前に述べたが、 安斎正人は、御子柴遺跡のある御子柴というところについて、その聖地性を否定したけれど、その特徴を次のように指摘している。すなわち、

  『 御子柴遺跡が残された空間がどのような場所であったかを見ておきたい。遺跡は西の木曽山脈と東の赤石山脈とに挟まれて南北に流れる天竜川の右岸、 上位の大泉段丘の東端にある孤立丘の上、海抜713mの平坦面にあり、川面から比高は約60mである。現在、遺跡は指摘されないとそうとはわからない平凡 な畑地であるが、調査時の遺跡写真をみると、丘の高まりはよりはっきりしていた。遺跡に立つと、背後に緩や かな斜面の先に木曽谷へと続く権兵衛峠の窪みを挟んで中央アルプスの山々が連なり、全面には眼下の伊那谷の先に南アルプスの連峰が見渡せ、広大に開けた展 望である。木曽谷側から峠を越えて伊那谷へと降りてきた人々にとって、段丘先端のこの小丘は格好の目印となった。同様に、諏訪方面から天竜 川沿いに南下し、峠を目指して支流の谷を西に向かった人々にとっても、段丘先端のこの丘は最初に目に入る場所であった。
 遺跡を中心とした西およそ60kmの所に下呂石の山地である湯ヶ峰山が、北 40kmの所に黒曜石の山地である霧ヶ峰や和田峠があり、さらに北へ20kmで唐沢Bである。信濃川に沿って下流へと向かえば硬質頁岩(けつがん)・珪質 凝灰岩質頁岩(玉髄)の産地が想定された日本海沿岸地域である。この地理的配置から想定した集団群の季節的移動と長距離間交換網は・・・(中略)』・・・ と。

  安斎正人の指摘は、まさに的を得た指摘である。ただ、現地調査をもっと広範囲かつ日数をかけてやっていただければ、もう少し突っ込んだ考察ができた筈 でその点が残念だ。


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御子柴遺跡の謎




 御子柴型石器について、私は先に次のように述べた。

 「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」(2001年12月、岩波書店)という本 がある。稲田孝司と いう岡山大学の先生が考古学会起死回生の思いで書かれたロマン溢れる本である。私はこれを片手に「古代社会源流の旅」を始めようとしているのだが、例の 「旧石器捏造事件」のあのうっとうしさを吹っ飛ばす・・・すばらしい本である。北海道は白滝の旧石器人たちが、津軽海峡を渡り、どのように日本列島を遊動 していったか??? 黒曜石の文化と黒潮の文化がどのようにぶつかりあうのか??? 稲田孝司の「遊動する旧石器人・・・先史日本を復元する1」では「栫 (かこい)ノ原石斧」を次のように説明されている。すなわち、『 小田静夫はこの種の石斧を「栫(かこい)ノ原石斧」と呼び、伊豆諸島・南西諸島などの類 例とあわせ黒潮との関連を考えた。栫(かこい)ノ原石斧は刃が強く彎曲し基部に突起をもつなど独自の形態を示すけれども、その起源については、丸ノミ形と いう刃の特徴が共通するから、やはり神子柴型石斧との関連も検討してみる必要があるだろう。』・・・・と。

 さて、その御子柴型石斧とは、長野県伊那谷の南箕輪町神子柴から出土する・・・旧石器・縄文移行期の石器である。神子柴遺跡から出土する石器にはもちろ ん石斧も含むが、全体として、世界最高の黒曜石加工品である。そのうち特に石斧に注目し、それを神子柴型石斧という。神子柴型石斧は多くの地域で出土して いるので、私の「古代社会源流の旅」は、今後しばらくそれを中心に、旧石器時代の遺跡や縄文時代の遺跡を旅することになる。

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菅平の水場




 菅平高原の東北にある四阿山(あずまやさん)と根子岳(ねこだけ)は、直径約3kmの四阿火山のカルデラの一部であり、浦倉山、奇妙山とともに、 須坂市に注ぐ米子川の源流を中心とした爆裂火口の外輪山を形成している。火山の規模からすると、すぐ隣の浅間山よりはるかに大きなものだったと考えられて いる。火山のことについては群馬大学教授早川由紀夫がすばらしいホームページを持っておられ、四阿山(あずまやさん)についても書かれているので、それを参照されたい。ここ では、菅平高原が大火山の広大な裾野であることを十分認識してもらえれば良い。菅平高原は、大火山の広大な裾野であると同時に盆地地形を形成しているの で、湧き水が豊富である。そういうことも幸いしてのことだろう、菅平高原には古代の遺跡が多い。


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唐沢B遺跡を訪ねて




 昨年(平成18年)の秋、菅平に立ち寄ったが、唐沢B遺跡の標識も案内板も何もなく、唐沢の滝と偶然見つけた唐沢の岩陰遺跡を見るだけにとどまった。今 回は、一泊の予定できたので、何としてでも唐沢B遺跡の場所を見つけなければならない。ある程度のことは教育委員会に聞くなり、資料を調べるなりしてきて いるので、まあ、容易に判るだろう。

(中略)



 上述したように、中沢新一は、『 アメリカ先住民の「アースダイバー」神話が語るように、頭の中にあったプログラムを実行して世界を創造するのではな く、水中深くダイビングをしてつかんできたちっぽけな泥を材料にして、からだをつかって世界は創造されなければならない。』・・・と。「アースダイバー」 神話が語っているような作業について、中沢新一は『 気ままな仕事に見えるかも知れない。でも、僕の抱える中心的な問題は全部含まれる。地底から縄文の思 考を手づかみすることは、歴史の連続性を再発見すること』・・・であると言っている。
 世界最高の芸術品である石器がなぜ菅平高原にあるのか、そのことを考えるもっとも大事な点は、地底から縄文の思考を手づかみすることであり、それができ ていないと世界最高の芸術品である石器がなぜ菅平高原にあるのか、そのことの答えは出てこないと思われる。
 一番基本的な問題は、「縄文草創期以降、なぜデポ的な遺構がなくなったのか?」ということ である。ここにメスを入れねばならない。私の考えでは、多分・・・・、居住システムの質的な転換、すなわち定住化の進行によって、住居内での装備管理が強 化されたことなどが原因で埋納形態に画期的な変化が起こったなどということではあるまい。そんな気がする。


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唐沢の岩陰遺跡とその周辺




 いずれ、私は、白滝黒曜石について語りたいと思っている。今は、そのための準備であり、御子柴型石器の何たるやを語ろうとしている。御子柴遺跡を語ると きがぼちぼち近づいているが、その前にどうしても唐沢B遺跡のことを語らねばならない。

 唐沢B遺跡は 縄文時代草創期の遺跡で、石斧や石槍、砥石など石器32点が出土した。出土品には神子柴型石斧(みこしばがたせきふ)とよばれる大型の石斧が多数含まれて いる。同じ石器が上伊那郡南箕輪村神子柴遺跡で最初に発見されたことからこの名がつけられており、刃先をきれいに磨いたものがあるのが特徴とされている。 唐沢B遺跡の石斧には使用痕(刃こぼれなどの傷)が認められず、石器の材料には、群馬・新潟県境や、遠く山形県で産出する石も使われており、石器が交換と いう手段で遠方まで運ばれるシステムが15,000年も前にすでに存在していたことを示すものと考えられる。全国的にも、神子柴遺跡出土品とともに神子柴 石器文化を代表する石器群の好資料として評価が高い。

 唐沢B遺跡の所在地は、今は市町村合併で上田市になったが、つい先だってまでは真田町の菅平で あった。遺跡というものを語るためにはその場所を知らねばならない。何度かその場所に赴いて、その場所のことを良く知らねばならない。
 私は、とりあえず、そもそも唐沢B遺跡がどういうところにあるのかを知りたくて、昨年(平成18年)の秋、その近くに行ったとき、立ち寄ってみた。しか し、何としたことか、現地には唐沢B遺跡の標識や案内板がまったくなく、さっぱりその場所が判らなかった。意気消沈して帰路につき、唐沢の滝を見物したところ、唐沢の岩陰遺跡というのがちょうどそこにあった。

 多分、この滝の上流に唐沢B遺跡があるのだろうが、近々、時間的余裕を持って、唐沢B遺跡を訪ねねばならない。そうでないと唐沢B遺跡を語ることはでき ないのである。しかし、菅平に立ち寄ったことで多少の感じはつかんだので、少しは机上で勉強はできる。ここではその成果を報告しておきたい。現地を見ての 報告はいずれまた・・・・・。


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野辺山



 石器の加工技術がどのように発達してきたのか、それを勉強するため、今年の1月、私は、堤隆の著「遠き狩人たちの八ヶ岳」(1993年9月、ほおずき書 籍)を片手に冬の野辺山高原を歩き回った。それはすでに報告した。 しかし、冬のこと故、あまり広範囲には紹介できなかった。今回は、例の名木「梨の木」の花の咲く頃と思い、連休明けに出かけた。これはそのときの報告であ る。

 まずは、野辺山のスライドショウをご覧いただきたい。野辺山には高原列車でゆったりと行こう。小淵沢からJR小海線。日本で一番高いところにあるJRの 駅が野辺山である。

ここをクリック!


注:クリックした後。画面の下の「自動ボタン」を押してしばらくそのままで お待ちください。少し時間がかかるかもしれません。画面が出たら、後はそのままスライドショウをご覧いただけます。「停止ボタン」を押してから、「次へ」 のボタンを押す方法もあります。


 先に述べたように、日本の石器時代の研究は、皆さんも御承知のとおり、「岩宿」から始まる。つまり、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見さ れ、その翌年、明治大学と相沢氏が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見、日本に旧石器時代が存在していたことが証明されたという訳だ。昭和 24年のことである。しかし、岩宿発見の20年以上も前の大正年間から、この野辺山では地元の人によってもっと旧石器が大量に採取され続けてきた。馬場平 遺跡のことである。馬場平遺跡は、この中ツ原遺跡の東、約5kmの・・・千曲川河畔の河岸段丘にある。行政区画は南牧村の隣の川上村である。

 この馬場平遺跡については、残念ながら明治大学考古学研究室の目に止まるのが遅く、調査のメスが入ったはやっと昭和28年になってからであった。

 その後、野辺山は、矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、 先ほどの「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになった のである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀 形石器などが出てきたのだ。

注:詳しくは、野辺山が如何に細石刃遺跡の宝庫として価値があるのか、その 辺の様子は、上に紹介した堤隆の著「遠き狩人たちの八ヶ岳」(1993年9月、ほおずき書籍)同じく堤隆の著「氷河期を生き抜いた狩人・・・矢出川遺跡」(2004年9月、神泉社)をお読みください。

 加藤晋平によれば、この荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の近辺だという。これはえらいことだ!

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荒 屋遺跡




 私は前に、「石器づくりの原石を求めて」というページにおいて、初めて荒屋の問題に触れ た。すなわち、
『 北海道東部の白滝遺跡群のすぐ北に、良質の黒曜石を産する赤石山(あかいしやま)がある。赤石山山麓の幌加沢(ほうかざわ)遺跡遠間(とおま)地点を 調査した木村英明は、この遺跡に居住した集団が赤石山から原石を持ち語り、ここで細石核またはその原形に加工する作業を一手に引き受け、それらを交換によ り近隣の消費地へ分配したと考える。他方、道東地域で発見される荒屋型彫器には、道南に産す る珪質頁岩など黒曜石以外での製品が多い。帯広市暁遺跡からは100点をこえる多量の荒屋型彫器が 出土しており、こうした集団を媒介にして道東の黒曜石と道南の珪質頁岩製彫器が交換されたのだろうという。分業と交換がかなり発達したシステムを想定する わけだ(木村英明「黒曜石・ヒト・技術」『北海道考古学』31、1995年)。』・・・と。
 実は、荒屋型彫器というのは、新潟の荒屋遺跡から出土したものをそう呼んでいるのであるが、上の文章は、帯広など北海道に広範囲に出土するということを 言っているのである。

 その次に荒屋の問題に触れたのは、「御子柴型石器はどこで始まったか・・・神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」と いうページであった。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 さて、日本の石器時代の研究は、皆さんも御承知のとおり、「岩宿」から始まる。つまり、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見され、その翌 年、明治大学と相沢氏が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見、日本に旧石器時代が存在していたことが証明されたという訳だ。昭和24年のこ とである。しかし、岩宿発見の20年以上も前の大正年間から、この野辺山では地元の人によってもっと旧石器が大量に採取され続けてきた。馬場平遺跡のこと である。馬場平遺跡は、この中ツ原遺跡の東、約5kmの・・・千曲川河畔の河岸段丘にある。行政区画は南牧村の隣の川上村である。

 この馬場平遺跡については、残念ながら明治大学考古学研究室の目に止まるのが遅く、調査のメスが入ったはやっと昭和28年になってからであった。

 その後、野辺山は、矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、 先ほどの「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになった のである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀形石器などが出てきたのだ。

 加藤晋平によれば、この荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の 近辺だという。御承知のように、湧別技法はアムール川と繋がっている。今年の夏、アムール川の水源地を見たいと思っているが、荒屋型彫刻形石器が アムール川と繋がっているかどうか判らない。しかし、もし何らかの形で繋がっているとなると、これはもうえらいことである。大変だ!日本文化のルーツはモ ンゴルということになる。アムール川の水源地はいうまでもなくモンゴルだし、バイカル湖も昔はモンゴルである。』 ・・・・と。
すなわち、加藤晋平の説を紹介しながら、北回りのモンゴリアンが日本にやってきた有力な証拠に荒屋技法があるのではないかという私の思いを述べたものであ る。私は、湧別技法と並んで荒屋技法の問題は、は日本人のルーツにも関係する大事な問題であると考えているのである。湧別技法集団と荒屋技法集団は、とも にそのルーツをモンゴルとし、つかず離れずの関係を保ちながら、日本列島を南下していった。そして、新潟県の川口に日本を代表する誠に貴重な大遺跡を残し たのである。

 そして、私は、先の「白滝への道」というページでは、モンゴルに対する熱い思いを縷々述べたのであ る。それは白滝や遠軽町の活性化のためであり、日本の国際貢献のため、世界平和を考えてのことであった。

 げに荒屋遺跡は大事な遺跡である。荒屋遺跡を語らずして、日本の石器時代を語ることはできない。では、いよいよ荒屋遺跡について勉強することにしよう。


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日本武尊(ヤマトタケルノミコ ト)の酒折宮伝説 
古代の道を考える




 景行天皇の皇子ヤマトタケルノコトは、熊襲征伐から帰ると、休むいとまもなく父の命令で、荒ぶる神やまつろわぬ者共を征服するため東征の途についた。
 『古事記』と『日本書紀』とでは記事に若干のちがいがあって、今日ここでは、そのことについて考察してみたい。

 
古事記の段階はまだ大和朝廷の勢力は筑波まで及んでいなかったが、書記の段階は大和朝廷の勢力は筑波まで及んでいて陸奥まで偵察隊が行っ ていたようだ。南信濃については言えば、大和朝廷の勢力は、当然、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の全域に及んでいたものと考えられる。問題 は、千曲川沿いの地域であり、これら北信濃の地域はまだ大和朝廷の勢力が及んでいなかったのではないか。

 書記によれば、ヤマトタケルは、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を巡った後、碓日嶺(うすひのみね)に着いた。関東平野には大和朝廷の勢力はどのよ うに拡大していったか。

 私は、このホームページ『劇場国家にっぽん」の前に、「桃源雲情」というホームページをつくっていた。その中に、「武家社会源流の旅」というコーナーが あった。その「武家社会源流の旅」は、私の家のすぐ近くの等々力渓谷からスタートするだが、等々力渓谷では次のように書いた。すなわち、
 『 言うまでもなく、縄文時代から弥生時代にかけて、人々は容易に水の得られるところに集落を作りました。それがクニ、クニの発生に繋がっていき、やが てそれらのクニ、クニは力のある豪族にまとめられていく。そして最終的には、結局、大和朝廷に統一されていくのでありますが、関東では、大和朝廷の全国統 一過程において、群馬、埼玉、東京・神奈川にそれぞれ勢力のある豪族がいたようであります。

それら三豪族の発生過程はよく判りませんが、それを想像するには、少なくとも関東平野の形成過程を頭に描いておく必要があるようです。縄文海進は紀元前 4000年頃がピークで、その頃、関東における沖積平野のほとんどは海であったのですが、それ以降、・・・・海の後退につれて次第に氾濫原が作られていく わけです。その氾濫原で稲作がお行なわれ、クニ、クニが発生するということでありますから、河川を抜きにして豪族の発生というものを考えるわけにはいきま せん。風の吹きだまりというものがありますが、川の流れにもそういうものがあって、氾濫原の形成過程もそういうものを考えておく必要があります。

氾濫原ということでは、利根川、荒川、多摩川など・・・大河川のほとりが有利でありますが、それら大河川のほとりであればどこでも良いかとなると、そうで はなくて、大河川の近くの丘陵地の近くで、水の容易に得られやすいところということになります。このようなことから、群馬、埼玉、東京・神奈川に地域を束 ねる大豪族が発生した。氾濫原と水のお蔭ですね。 

しかも、面白いことに、・・・・東京・神奈川が関東では一番早く地域が発達していたようで、最初、そこの豪族は親大和朝廷であったようであります。大和朝 廷との結びつきの中で勢力を拡大していったのかも知れません。しかし、やがては、群馬の豪族と連合して・・・・大和朝廷に対抗することになり、結局は大和 朝廷に滅ぼされるのですが、・・・・・・・あの平将門と同じように、その反骨精神は見上げたものではないでしょうか。

野毛大塚古墳や御岳山古墳を作った・・・ここ等々力渓谷近辺の豪族は結局滅んでしまうのでありますから、その反骨精神が板東武士にまで引き継がれた訳では ありませんが、板東武士が朝廷に対して「一所懸命」に対抗して鎌倉幕府を作り武家社会の基礎を作ったことを思えば、・・・・ある種の感慨というものが湧い てきます。板東武士のルーツをここに見る思いです。開拓者としての独立精神です。

群馬の豪族(上毛野君かみつけのきみ)も含め、結局は、関東地方全体が大和朝廷に屈服することになるわけですが、関東地方がずっと我国のフロンティア(開 拓のフロンティア)であったため、関東地方の豪族は基本的に開拓者としての独立精神が旺盛であったと思います。その開拓者としての独立精神が鎌倉幕府を 作った・・・それが私の考えであります。そう考えると、・・・・・平将門や等々力渓谷の豪族(小杵おき)におおいに声援を送る気になってくるではありませ んか。』・・・・と。


 旧石器時代の勉強をしてきた現在における私の考えは、上の記述とは少々ちがって、大和朝廷は、当初、東海から相模を勢力下においたあと、その勢力は相模 川や境川などの河川沿いに八王子まで及ぶが、多摩川の中下流域というか武蔵野台地には及んでいないと考えるものである。その、大和朝廷の勢力は、八王子か ら青梅、青梅から飯能、飯能から秩父に及んだ後、入間川や高麗川や都幾川や荒川などの河川沿いに、埼玉全体を制圧する。秩父は関東平野における大和朝廷勢 力の一大拠点となった。私はこのように考えているのである。秩父である。
 この時点において、多摩川の中下流域や・・・利根川の左岸域すなわち上野(かみつけの)はまだ大和朝廷の勢力下にはない。その後、大和朝廷は、多摩川の 中下流域に対しては神奈川と埼玉の両方向から、そして上野(かみつけの)に大しては神流川流域と埼玉の両方から、それぞれ制圧の手を加えていったのではな いか。私の考えの要点は、秩父が関東平野における大和朝廷勢力の一大拠点となったのではないかという点であ る。ヤマトタケルの伝説が秩父に多いのもこれでうなづけるのではないか。

 さて、話は元に戻る。書記によれば、ともかく、ヤマトタケルは、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を巡った後、碓日嶺(うすひのみね)に着いたのであ る。碓日嶺(うすひのみね)については、これを碓氷峠(うすいとうげ)であるという説と鳥居峠(とりいとうげ)であるという説がある。



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湧別技法の広がり


 

 

 私は先に、神子柴型石器に関する稲田孝司の考え方を次のように紹介した。

今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島 の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係 を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』 という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、 稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と 神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。

 

 御子柴型石器に関する稲田孝司の考えについては、学問的には、まだまだ議論の余地があるようである。私は、稲田孝司の考えに大いなる魅力を感じるが、そ の点についてはあまり深く突っ込まないで、ここでは、とりあえず、白滝ジオパークとの関連で湧別技法の広がりをどう理解しておけば良いのか、その基礎的な 勉強をしておきたい。


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地域の持続的発展とは何か?



 これからあるべき地域づくりは、地域資源を十分に行かした「個性ある地域づくり」でなければならない。私は、今まで、「個性ある地域づくり」とい うこと を言いながら「交流活充運動」という運動を展開してきた。その目指すところは、地域の自然的特性、歴史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分を 震わせるような気配りのされた個性ある地域づくりであって、それは「共生の思想」にもとづいて行われなければならない。地域の自然的特性、歴史・文化的特 性のうち、人々の感受性の深層部分を震わせるような地域資源は何かを考えねばならない。地域の人々は何が本 物かを学習しなければならない。地域の知的水準の向上が何より必要だということだ。
 私は先に述べたように、日本は「文化観光」に もっともっと力を入れていかなければならないし、「文化観光」のもっとも重要なものが「ジオパーク」である。「ジオパーク」は、もちろんユネスコ認定の世 界レベルのものから、国立レベルのもの、都道府県レベルのものもあって良いし、市町村レベルのものがあっても良い。否、そうあるべきである。今、政府は、 外人観光客1000万人を目標に頑張っているが、私は「フランス並み」を目標にすべきだと考えている。1000万人ではあまりにも小さすぎる。少なくとも 6000万人を超えなければならないのではないか。全国各地に「ジオパーク」ができれば、日本は観光立国としてフランスを凌駕することもけっして夢ではな い。問題の核心部分は「ジオパークの演劇性」である。それには地域の人びとが主役にならなければなら ない。「メディオン」だ。

 さて、よく地域づくりは人づくりと言われるが、地域づくりに取り組むサークルや団体が生き生きしていなければ決して良い地域づくりはできない。数名の サークルから大きな団体までいろんな組織があって、生き生きと独自の活動をし、そして、それらの組織が、ある共通のテーマで結ばれている、そういう地域社 会は生き生としている。
 福井県立大学の坂本慶一学長は、リージョナルコンプレックスと 呼んでおられるが、今後、我が国は、そういう地域社会の実現を目指さなければならない。交流はコミュニケーションと言い換えてもよく、また、共生とコミュ ニケーションと連携は同根の言葉であるので、そういう地域社会は、共生、コミュニイケーション、連携をキーワードとする共生社会でもある。
 リージョナルコンプレックスを形成していくため、福祉その他各般の施策が必要であるが、国土政 策においてもそのことが重視されなければならない。地域における多くのサークルや団体が何を共通のテーマにして連携するのが適当なのか、今後、そういった 議論が必要であろう。
地域資源はすべて活用する。人も資源である。したがって、サークル活動の活性化が必要で、共通の目標を目指 したリージョナルコンプレックスをつくらねばならない。

 多くの人の参加が必要である。多くのメディオンが必要ということだ。


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