野辺山



 石器の加工技術がどのように発達してきたのか、それを勉強するため、今年の1月、私は、堤隆の著「遠き狩人たちの八ヶ岳」(1993年9月、ほおずき書籍)を片手に冬の野辺山高原を歩き回った。それはすでに報告した。 しかし、冬のこと故、あまり広範囲には紹介できなかった。今回は、例の名木「梨の木」の花の咲く頃と思い、連休明けに出かけた。これはそのときの報告である。

 まずは、野辺山のスライドショウをご覧いただきたい。野辺山には高原列車でゆったりと行こう。小淵沢からJR小海線。日本で一番高いところにあるJRの駅が野辺山である。

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 先に述べたように、日本の石器時代の研究は、皆さんも御承知のとおり、「岩宿」から始まる。つまり、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見され、その翌年、明治大学と相沢氏が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見、日本に旧石器時代が存在していたことが証明されたという訳だ。昭和24年のことである。しかし、岩宿発見の20年以上も前の大正年間から、この野辺山では地元の人によってもっと旧石器が大量に採取され続けてきた。馬場平遺跡のことである。馬場平遺跡は、この中ツ原遺跡の東、約5kmの・・・千曲川河畔の河岸段丘にある。行政区画は南牧村の隣の川上村である。

 この馬場平遺跡については、残念ながら明治大学考古学研究室の目に止まるのが遅く、調査のメスが入ったはやっと昭和28年になってからであった。

 その後、野辺山は、矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、先ほどの「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになったのである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀形石器などが出てきたのだ。

注:詳しくは、野辺山が如何に細石刃遺跡の宝庫として価値があるのか、その辺の様子は、上に紹介した堤隆の著「遠き狩人たちの八ヶ岳」(1993年9月、ほおずき書籍)同じく堤隆の著「氷河期を生き抜いた狩人・・・矢出川遺跡」(2004年9月、神泉社)をお読みください。

 加藤晋平によれば、この荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の近辺だという。これはえらいことだ!






 
野辺山の駅から右手に200mほど行くと、道路の向こう側に「びっくり市」が見え、ペンションの看板に気がつく筈だ。そこを右に折れる。その道の2000m先の突き当たりが「森のふぁみりー」などのペンション群(B点)である。「陶工房たわん」はそこにある。これらのホームページから野辺山の良いところを感じ取って欲しい。この付近はあまり人が来ないので、静かで良い感じ。上の地図のA点が「ヤマナシの木」。順序として「ヤマナシの木」を見てからペンションの方に向かうこととする。





 
 








 
この向こう側に小さな沢があって、そのさらに向こうの台地が「中っ原遺跡・5B地点」である。このペンションのところで右に曲がり、少し行って左、左と曲がっていく。右手に「中っ原遺跡・5B地点」を見ながら、まっすぐ台地の鼻先(C点)まで行く。向こうに川上村の名峰・男山が見える。

 「中っ原遺跡・5B地点」周辺はこの程度とし、あとは野辺山の「しし岩」などの名所を見て歩こう。









荒屋遺跡




 私は前に、「石器づくりの原石を求めて」というページにおいて、初めて荒屋の問題に触れた。すなわち、
『 北海道東部の白滝遺跡群のすぐ北に、良質の黒曜石を産する赤石山(あかいしやま)がある。赤石山山麓の幌加沢(ほうかざわ)遺跡遠間(とおま)地点を調査した木村英明は、この遺跡に居住した集団が赤石山から原石を持ち語り、ここで細石核またはその原形に加工する作業を一手に引き受け、それらを交換により近隣の消費地へ分配したと考える。他方、道東地域で発見される荒屋型彫器には、道南に産する珪質頁岩など黒曜石以外での製品が多い。帯広市暁遺跡からは100点をこえる多量の荒屋型彫器が出土しており、こうした集団を媒介にして道東の黒曜石と道南の珪質頁岩製彫器が交換されたのだろうという。分業と交換がかなり発達したシステムを想定するわけだ(木村英明「黒曜石・ヒト・技術」『北海道考古学』31、1995年)。』・・・と。
 実は、荒屋型彫器というのは、新潟の荒屋遺跡から出土したものをそう呼んでいるのであるが、上の文章は、帯広など北海道に広範囲に出土するということを言っているのである。

 その次に荒屋の問題に触れたのは、「御子柴型石器はどこで始まったか・・・神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」というページであった。そこでは次のように述べた。すなわち、
『 さて、日本の石器時代の研究は、皆さんも御承知のとおり、「岩宿」から始まる。つまり、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見され、その翌年、明治大学と相沢氏が共同で発掘作業を行った結果、数カ所から石器を発見、日本に旧石器時代が存在していたことが証明されたという訳だ。昭和24年のことである。しかし、岩宿発見の20年以上も前の大正年間から、この野辺山では地元の人によってもっと旧石器が大量に採取され続けてきた。馬場平遺跡のことである。馬場平遺跡は、この中ツ原遺跡の東、約5kmの・・・千曲川河畔の河岸段丘にある。行政区画は南牧村の隣の川上村である。

 この馬場平遺跡については、残念ながら明治大学考古学研究室の目に止まるのが遅く、調査のメスが入ったはやっと昭和28年になってからであった。

 その後、野辺山は、矢出川遺跡などが次々と発掘調査され、矢出川細石刃文化という言葉が生じるほど細石刃遺跡の宝庫として有名になっていった。しかし、先ほどの「中ツ原遺跡・5B地点」の調査によって状況が一変する。矢出川細石刃とはまったく性格の異なる、もうひとつの細石刃文化の存在が明らかになったのである。つまり、「中ツ原遺跡・5B地点」の発掘調査では、湧別川技法の流れを組む楔(くさび)形細石刃石核をはじめ、細形細石刃、荒屋型を含む彫刻刀形石器などが出てきたのだ。

 加藤晋平によれば、この荒屋型彫刻形石器は、湧別技法と同じく、そのルーツはバイカル湖の近辺だという。御承知のように、湧別技法はアムール川と繋がっている。今年の夏、アムール川の水源地を見たいと思っているが、荒屋型彫刻形石器がアムール川と繋がっているかどうか判らない。しかし、もし何らかの形で繋がっているとなると、これはもうえらいことである。大変だ!日本文化のルーツはモンゴルということになる。アムール川の水源地はいうまでもなくモンゴルだし、バイカル湖も昔はモンゴルである。』 ・・・・と。
すなわち、加藤晋平の説を紹介しながら、北回りのモンゴリアンが日本にやってきた有力な証拠に荒屋技法があるのではないかという私の思いを述べたものである。私は、湧別技法と並んで荒屋技法の問題は、は日本人のルーツにも関係する大事な問題であると考えているのである。湧別技法集団と荒屋技法集団は、ともにそのルーツをモンゴルとし、つかず離れずの関係を保ちながら、日本列島を南下していった。そして、新潟県の川口に日本を代表する誠に貴重な大遺跡を残したのである。

 そして、私は、先の「白滝への道」というページでは、モンゴルに対する熱い思いを縷々述べたのである。それは白滝や遠軽町の活性化のためであり、日本の国際貢献のため、世界平和を考えてのことであった。

 げに荒屋遺跡は大事な遺跡である。荒屋遺跡を語らずして、日本の石器時代を語ることはできない。では、いよいよ荒屋遺跡について勉強することにしよう。


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日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の酒折宮伝説 
古代の道を考える




 景行天皇の皇子ヤマトタケルノコトは、熊襲征伐から帰ると、休むいとまもなく父の命令で、荒ぶる神やまつろわぬ者共を征服するため東征の途についた。
 『古事記』と『日本書紀』とでは記事に若干のちがいがあって、今日ここでは、そのことについて考察してみたい。

 
古事記の段階はまだ大和朝廷の勢力は筑波まで及んでいなかったが、書記の段階は大和朝廷の勢力は筑波まで及んでいて陸奥まで偵察隊が行っていたようだ。南信濃については言えば、大和朝廷の勢力は、当然、富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏の全域に及んでいたものと考えられる。問題は、千曲川沿いの地域であり、これら北信濃の地域はまだ大和朝廷の勢力が及んでいなかったのではないか。

 書記によれば、ヤマトタケルは、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を巡った後、碓日嶺(うすひのみね)に着いた。関東平野には大和朝廷の勢力はどのように拡大していったか。

 私は、このホームページ『劇場国家にっぽん」の前に、「桃源雲情」というホームページをつくっていた。その中に、「武家社会源流の旅」というコーナーがあった。その「武家社会源流の旅」は、私の家のすぐ近くの等々力渓谷からスタートするだが、等々力渓谷では次のように書いた。すなわち、
 『 言うまでもなく、縄文時代から弥生時代にかけて、人々は容易に水の得られるところに集落を作りました。それがクニ、クニの発生に繋がっていき、やがてそれらのクニ、クニは力のある豪族にまとめられていく。そして最終的には、結局、大和朝廷に統一されていくのでありますが、関東では、大和朝廷の全国統一過程において、群馬、埼玉、東京・神奈川にそれぞれ勢力のある豪族がいたようであります。

それら三豪族の発生過程はよく判りませんが、それを想像するには、少なくとも関東平野の形成過程を頭に描いておく必要があるようです。縄文海進は紀元前4000年頃がピークで、その頃、関東における沖積平野のほとんどは海であったのですが、それ以降、・・・・海の後退につれて次第に氾濫原が作られていくわけです。その氾濫原で稲作がお行なわれ、クニ、クニが発生するということでありますから、河川を抜きにして豪族の発生というものを考えるわけにはいきません。風の吹きだまりというものがありますが、川の流れにもそういうものがあって、氾濫原の形成過程もそういうものを考えておく必要があります。

氾濫原ということでは、利根川、荒川、多摩川など・・・大河川のほとりが有利でありますが、それら大河川のほとりであればどこでも良いかとなると、そうではなくて、大河川の近くの丘陵地の近くで、水の容易に得られやすいところということになります。このようなことから、群馬、埼玉、東京・神奈川に地域を束ねる大豪族が発生した。氾濫原と水のお蔭ですね。 

しかも、面白いことに、・・・・東京・神奈川が関東では一番早く地域が発達していたようで、最初、そこの豪族は親大和朝廷であったようであります。大和朝廷との結びつきの中で勢力を拡大していったのかも知れません。しかし、やがては、群馬の豪族と連合して・・・・大和朝廷に対抗することになり、結局は大和朝廷に滅ぼされるのですが、・・・・・・・あの平将門と同じように、その反骨精神は見上げたものではないでしょうか。

野毛大塚古墳や御岳山古墳を作った・・・ここ等々力渓谷近辺の豪族は結局滅んでしまうのでありますから、その反骨精神が板東武士にまで引き継がれた訳ではありませんが、板東武士が朝廷に対して「一所懸命」に対抗して鎌倉幕府を作り武家社会の基礎を作ったことを思えば、・・・・ある種の感慨というものが湧いてきます。板東武士のルーツをここに見る思いです。開拓者としての独立精神です。

群馬の豪族(上毛野君かみつけのきみ)も含め、結局は、関東地方全体が大和朝廷に屈服することになるわけですが、関東地方がずっと我国のフロンティア(開拓のフロンティア)であったため、関東地方の豪族は基本的に開拓者としての独立精神が旺盛であったと思います。その開拓者としての独立精神が鎌倉幕府を作った・・・それが私の考えであります。そう考えると、・・・・・平将門や等々力渓谷の豪族(小杵おき)におおいに声援を送る気になってくるではありませんか。』・・・・と。


 旧石器時代の勉強をしてきた現在における私の考えは、上の記述とは少々ちがって、大和朝廷は、当初、東海から相模を勢力下においたあと、その勢力は相模川や境川などの河川沿いに八王子まで及ぶが、多摩川の中下流域というか武蔵野台地には及んでいないと考えるものである。その、大和朝廷の勢力は、八王子から青梅、青梅から飯能、飯能から秩父に及んだ後、入間川や高麗川や都幾川や荒川などの河川沿いに、埼玉全体を制圧する。秩父は関東平野における大和朝廷勢力の一大拠点となった。私はこのように考えているのである。秩父である。
 この時点において、多摩川の中下流域や・・・利根川の左岸域すなわち上野(かみつけの)はまだ大和朝廷の勢力下にはない。その後、大和朝廷は、多摩川の中下流域に対しては神奈川と埼玉の両方向から、そして上野(かみつけの)に大しては神流川流域と埼玉の両方から、それぞれ制圧の手を加えていったのではないか。私の考えの要点は、秩父が関東平野における大和朝廷勢力の一大拠点となったのではないかという点である。ヤマトタケルの伝説が秩父に多いのもこれでうなづけるのではないか。

 さて、話は元に戻る。書記によれば、ともかく、ヤマトタケルは、武蔵(むさし)・上野(かみつけの)を巡った後、碓日嶺(うすひのみね)に着いたのである。碓日嶺(うすひのみね)については、これを碓氷峠(うすいとうげ)であるという説と鳥居峠(とりいとうげ)であるという説がある。



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湧別技法の広がり


 

 

 私は先に、神子柴型石器に関する稲田孝司の考え方を次のように紹介した。

今のところ(2006年8月現在)、日本列島の黒曜石については「遊動する旧石器人」という本がいちばん良く書かれている。そこで私は、それから「九州の旧石器文化」に関する記述部分を紹介した。その要点は、『・・・湧別技法集団は本州全域に植民・遊動領域をひろげ、神子柴文化が九州南端まで影響を与えたとすれば、もはや列島の立派な主人公である。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団とを対等な主人公としつつ、その,緊張関係を旧石器・縄文移行期のなかに描くことができれば、より均衡のとれた歴史復元になるのではないかと思う。・・・』という部分だ。ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団と神子柴集団という三つの集団が登場する。三つの集団が登場するのだが、稲田孝司が「ナイフ形石器文化・南西日本細石刃文化を担った集団と湧別技法集団・神子柴集団」と書いている点に注目されたい。稲田孝司は、湧別技法集団と神子柴集団とが密接不可分な関係というか身内のような関係にあることを主張しているのである。

 

 御子柴型石器に関する稲田孝司の考えについては、学問的には、まだまだ議論の余地があるようである。私は、稲田孝司の考えに大いなる魅力を感じるが、その点についてはあまり深く突っ込まないで、ここでは、とりあえず、白滝ジオパークとの関連で湧別技法の広がりをどう理解しておけば良いのか、その基礎的な勉強をしておきたい。


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地域の持続的発展とは何か?



 これからあるべき地域づくりは、地域資源を十分に行かした「個性ある地域づくり」でなければならない。私は、今まで、「個性ある地域づくり」ということを言いながら「交流活充運動」という運動を展開してきた。その目指すところは、地域の自然的特性、歴史・文化的特性にもとづき、人々の感受性の深層部分を震わせるような気配りのされた個性ある地域づくりであって、それは「共生の思想」にもとづいて行われなければならない。地域の自然的特性、歴史・文化的特性のうち、人々の感受性の深層部分を震わせるような地域資源は何かを考えねばならない。地域の人々は何が本物かを学習しなければならない。地域の知的水準の向上が何より必要だということだ。
 私は先に述べたように、日本は「文化観光」にもっともっと力を入れていかなければならないし、「文化観光」のもっとも重要なものが「ジオパーク」である。「ジオパーク」は、もちろんユネスコ認定の世界レベルのものから、国立レベルのもの、都道府県レベルのものもあって良いし、市町村レベルのものがあっても良い。否、そうあるべきである。今、政府は、外人観光客1000万人を目標に頑張っているが、私は「フランス並み」を目標にすべきだと考えている。1000万人ではあまりにも小さすぎる。少なくとも6000万人を超えなければならないのではないか。全国各地に「ジオパーク」ができれば、日本は観光立国としてフランスを凌駕することもけっして夢ではない。問題の核心部分は「ジオパークの演劇性」である。それには地域の人びとが主役にならなければならない。「メディオン」だ。

 さて、よく地域づくりは人づくりと言われるが、地域づくりに取り組むサークルや団体が生き生きしていなければ決して良い地域づくりはできない。数名のサークルから大きな団体までいろんな組織があって、生き生きと独自の活動をし、そして、それらの組織が、ある共通のテーマで結ばれている、そういう地域社会は生き生としている。
 福井県立大学の坂本慶一学長は、リージョナルコンプレックスと呼んでおられるが、今後、我が国は、そういう地域社会の実現を目指さなければならない。交流はコミュニケーションと言い換えてもよく、また、共生とコミュニケーションと連携は同根の言葉であるので、そういう地域社会は、共生、コミュニイケーション、連携をキーワードとする共生社会でもある。
 リージョナルコンプレックスを形成していくため、福祉その他各般の施策が必要であるが、国土政 策においてもそのことが重視されなければならない。地域における多くのサークルや団体が何を共通のテーマにして連携するのが適当なのか、今後、そういった議論が必要であろう。
地域資源はすべて活用する。人も資源である。したがって、サークル活動の活性化が必要で、共通の目標を目指したリージョナルコンプレックスをつくらねばならない。

 多くの人の参加が必要である。多くのメディオンが必要ということだ。


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