曜石の七不思議
 
2008年7月23日
国土政策研究会会長
岩井國臣
 
 
 白滝における黒曜石の加工技術・湧別技法は驚くべき技術である。私はそのことを十分意識しながら,黒曜石を中心に旧石器文化の勉強をする必要性に気づき,昨年までいろいろと考古学的な勉強を重ねてきた。そしてそのときに感じた不思議を「黒曜石七不思議」として呼んで、素人なりに自分なりの考えを述べてきた。六つまで書いたが,七つ目がまだ残っている。実は,この七つ目の不思議は,縄文文化誕生の謎とも関連し,極めて重大な意味を持つ問題提起かと思われる。昨年の作業から何もしないまましばらく時間が経過したが,縄文文化をひもときながら私の文明論を展開する・・・・そういう心の準備もできたので,いよいよ七つ目の不思議に挑戦したいと思う。
 ただし,その前に,黒曜石の七不思議について今までの記事を振り返っておきたい。今までの記事は以下の通りである。
 
第1の不思議は「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」であった。この不思議ついて考えながら学んだことは, 富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏というものの存在の大きさである。
 
第2の不思議は「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」であった。この不思議について考えながら学んだことは,黒潮文化のすごさである。日本はやはり海洋国家であることをやはりしっかりと意識すべきだと思った。
 
第3の不思議は「 神津島の黒曜石は3万年ほど前から盛んに採掘されるようになったにもかかわらず, 熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」であった。この不思議について考えながら学んだことは,日本の歴史において熱海の持つジオ的な重要性である。
 
第4の不思議は「神子柴で出土した黒曜石の尖頭器はいつ頃どこの誰が開発したのか?」であった。この不思議について考えながら学んだことは,もちろん御子柴文化の持つ歴史的な価値であるが,同時に,旧石器人の移動というものが私たちが考えるより遥かに広範囲であるということである。
これを言い直して「 野辺山には近くに八ヶ岳の黒曜石があるのになぜ神津島の黒曜石が運び込まれ、しかもその野辺山で、神子柴で出土したあのようななまさに芸術品とでもいうべき尖頭器がつくられるようになったのか?」であった。この不思議について考えながら学んだことは,新しい文化というものはやはり異質の文化のぶつかり合いのなかから生まれでてくるのだということである。
 
第5の不思議は「湧別技法集団は北海道から日本列島のどこを通って南下していったか」 出会った。この不思議を考えながら学んだことは,旧石器時代の道についてである。旧石器時代の道について私なりの考えができたと思っている。 
 
第6の不思議は「「何故、あそこに御子柴遺跡のようなすばらしい遺跡があるの?御子柴は聖地か?」であった。この不思議を考えながら学んだことは,聖地ということについてである。やはり聖地というものは,山と川そして水が関係するのではないかと思った。
 
 
 
 さて、これから黒曜石七不思議の最後の不思議に挑戦するのだが,縄文時代の勉強を少し初めて,今, 疑問に思うのは,小瀬が沢遺跡と室谷遺跡のことである。最古の縄文土器が出土したそれらの遺跡に白滝の黒曜石や八ヶ岳の黒曜石が運ばれており,それらの遺跡は誠に重要な遺跡であるが、それらは新潟県の福島県よりの奥深い山のなかにある。何故こんな山奥に我が国最古の縄文土器が眠っていたのか? また,何故白滝や八ヶ岳の黒曜石がここまで運ばれてきたのか? 誠に不思議ではないか。
 
 
 
 
それではまず現地に赴くとするか。

 

 

 
2008 年6月10日
国 土政策研究会会長
岩 井國臣



は じめに

私 は、今年の正月に書いたように、日本におけるジオパークと いうものを夢見て、現在、一生懸命になって旗を振っている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/geo/geo.html

し かし、ジオパークというものが具体的にどんなものかもう一 つイメージが湧かないという声が多く、苦労しながらいろいろと説明をしているのだが、現段階 で、私なりの説明をしておきたい。少しでも多くの方にご理解をして欲しいと願うばかりである。


* ジオパークとは、地域の人々が自ら作る公園であり、観光を強 く意識して官民が協力して地域全体を整備するものである。

* その場合のコンセプトは、ジオ(地球)であり、地域の共通感 覚は、国内の他地域との繋がり、東アジアとの繋がり、アメリカとの繋がり、太平洋諸島との繋 がり、世界との繋がり、さらには宇宙との繋がりを強く意識した・・・・ 地球的感覚である。

* それらの繋がりは、関係と言い換えてもいいが、地質学的見 地、地理学的見地、生態系学的見地、歴史学的見地、文化的見地から学問的、専門的に検討され る。(注:地球学との関係は後日触れる。)

* したがって、ジオパークは、地質公園と呼んでもいいし、地理 公園と呼んでもいいし、生態系公園と呼んでもいいし、歴史公園と呼んでもいいし、文化公園と 呼んでもいいが、それらを総称して地球公園と呼ぶこともできよう。

* そして、基本的に大事なことは、地理学者を始め専門家の力に よって、その地域の観光資源、つまりその地域の光り輝くものとは何か、そのことが地域の人々 に十分理解されていなければならないことである。(注:地理学との関係は後日触れる。)

* その上で、地域の人々は、自らの地域に誇りを持ちながら、自 らの知見と感覚によって、観光客のためのインフラ整備をする。

* 地域の人々が自ら活動するもっとも基本的なものは、ソフト面 ではお祭りその他の芸術文化活動であり、ハード面では地域の環境整備と手作りの案内板やベン チなどの利便施設の整備である。

* 地質学的な説明などの地球学的な説明は、ジオパークのもっと も根幹をなすものであるにもかかわらず、きわめて難しいので、インストラクターの活動が不可 欠である。

* つまり、ジオパークは地域の人々が主役であり、インストラク ターが脇役となる。民間企業と行政はそれらを支えるという役割分担となる。

* 民間企業は、博物館や宿泊施設などのサービス施設を整備する ものとするが、その際、地域の光り輝くものが何か、その地域と他地域との繋がりはどうなって いるか、芸術的に実感できるよう工夫されていなければならない。実感できるということは、理屈でなく感覚的にとらまえることができるという意味である。

* 行政は、地域の人々と連携して、道路や河川の環境整備を行 う。特に、遊歩道の整備に当たっては、地域の環境整備と手作りの案内板やベンチなどの利便施設 の整備が不可欠である。私はそういうインフラ整備が重要であると思う。
http://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/kokkai/kaigi/166-kok-15.html#05




以 上は、5月21日のブログであるが、どうもこれではちょっ と言い足りないところがあるような気がして、その後、少し私の思いを書いてみた。以下はそれ である。まだ書き足りない気分であるが、いずれまた補足するとして、とりあえずこれまでのところを報告しておきたい。



 



 
 
 
鷹 峯というところを語るには、まず愛宕神社とのご縁を語らねばならない。
 
亀 岡の愛宕神社については、次のような謂われ(いわれ)が語られている。
 
創 祀は不詳。
御 祭神は軻遇突智神(火産霊神)・伊邪那美神・大国主神。
遠 く神代に山を神籬・磐境として祭祀してゐた。継体天皇元年に初めて神殿が建立され、信仰・修験の神社として崇敬されてきた。延喜式内社。鎌倉後期建立の本 殿は重要文化財。愛宕の本宮・総社・元愛宕とも呼ぶ。山 城国鷹峯に当社の分霊が祀られ、その後、和気清麻呂の請願で嵯峨山山上に移したと言ふ。これが愛宕山の愛宕神社である。
 
こ こで注目願いたいのは、愛宕神社というのは、いうまでもなく、現在の愛宕山にある。その山は、昔は嵯峨山と言ったのだそうだが、平安時代に愛宕神社ができ たのでそれ以降は愛宕山というようになったらしい。愛宕神社のルーツは亀岡である。その亀岡から愛宕の神の分霊がこの鷹峯という地に祀られ、その後、そ の鷹峯の愛宕神社を和気清麻呂の請願で嵯峨山山上に移したということらしい。
 
小 野陽太郎さんの話によると、天が峰に鷹峯愛宕神社の祭壇があったらしい。天が峰は鷹峯三山の一つである。したがって、鷹峯というところを語るには、鷹峯三 山を語らねばならない。
 
鷹 峯というのは、あまりにも有名だが、鷹峯三山のうち、せいぜい知られているのは鷲ヶ峰ぐらいであり、天が峰を知る人はほとんどない。天が峰は、私の実家の 裏山である。
 
 
私 の実家の背後の山・天が峰
 
 
売 りに出ている私の土地は、私の実家の天が峰よりの隣にある。この写真でいえば、この塀の向こうが実家の庭であるので、その向こう隣が売りに出ている私の土 地ということになる。
 
 
 
 
 
 
鷹 峯三山
 
 
鷹 峯と鷲ヶ峰
 
誰 もが一度は見たことがあるススキの上に出ている満月の「花札」。実は鷹ヶ峯と鷲ヶ峰の山がモデルだったのだそうだ。一度満月の夜に眺めてみては? しょうざんの工芸館からきれいに見えるらしい。次のホームページはそのように書いてある。
 
「 しょうざん」は、 私の実家から歩いて20分ぐらいのところにある。「しょうざん」から鷹が峯と鷲が峰を眺めるのも良いが、私としては、光 悦寺か ら眺めて欲しい。庭の風景にとけ込んで実にすばらしい眺めだということと、鷹峯三山が見えるのは光悦寺だけだからだ。光悦寺は 私の実家から歩いて10分ぐらいのところにある。
 
 
 
 
こ の鷹峯という土地は、「京の七口」に一つ「長坂口」のあったところで、長坂口は鷹峯街道が繋がるところで、京見峠を経て杉坂から周山、そして若狭方面へと 通じる「鯖街道」の一つでもあったようだが、丹波方面に通じる丹波街道も「長坂口」を通った。京見峠はその名の通り、峠に立つと都が一望でき、現 在でも夜景スポットとなっているようだが、私としては日の出をお薦めしたい。京 見峠から眺める東山から昇る日の 出は実にすばらしいと思う。
こ の鷹峯から、京見峠を越え、杉坂に至る土地は、かって小野篁(たかむら)が天皇から拝領した土地で、小野篁(たかむら)の屋敷はこの鷹峯にあったらしい。
 
 
京 見峠を越えると小野道風(とうふう)神社がある。道 風神社には、平安三蹟の一人・小野道風が硯(すずり)の水に使ったという積翠池(しゃくすいいけ)や和香水碑(わごうすいひ)がひっそりと残る。小野道風 は小野篁の孫である。かの有名な小野小町は小野道風の従兄弟か兄弟に当たるらしい。
 
 
 
 
 
聴 風館道場は私の土地のすぐ近くにあり、先日、小野陽太郎さんにお会いしいろいろなお話を聞いた。 聴 風館道場竹内流古武道師範・小野陽太郎さんはすばらしい方だ。
小 野陽太郎さんは元をたどれば、平安時代の小野篁(妹子の六世・参議・遣唐使)につながる家系で38代目にあたるらしい。祖父の代までは代々、皇居勤めであ り、御所の近くに住んでいたが、祖父が医者を開業する際に先祖の土地を手放すことになり、風水の思想からこの地がすばらしいところであることから、この地 に屋敷を建て移り住むことになったらしい。ところがこの地は、まったくの偶然ながら、遠祖の篁(たかむら)の土地であった・・・ということのようだ。篁 (たかむら)の命日に小野陽太郎さんが生まれたのだそうで、まことに不思議な縁があるものですね。

ひとしきり、鷹峯というところのご説明が終わったので、次は、私の実家の近所を紹介することとしたい。

 

 



 



私は、この前に、新羅(しんら)三郎のことをことを書き、
http://kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_ff86.html

「 今、ここで私が言いたいのは、東北というところは縄文製鉄の盛んなところであったのではないかということだ。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/jyoutetu.html 」・・・・ と述べた。

けだし、私の考えでは、新羅(しんら)三郎は古代製鉄のキーワードだと思う。

例えば秩父の場合、これは新羅(しんら)三郎ではなくてその子孫の話であるが、やはり古代製鉄が行われことを示唆している。

秩父の大滝に次のような伝承がある(「秩父の伝説」、2007年3月、秩父市教育委員会、幹書房)。すなわち、
「 昔の武将新羅(しんら)三郎義光の子孫に当たる武田信玄が全盛のころ、配下の人々が雁坂(かりさか)峠を越えてきて、何カ所もの地で金を採掘した。 中津川奥の若沢にも多くの人が移り住んできて、先祖の新羅三郎の守本尊である不動尊を祀り、その傍(そば)に二本の桧(ひのき)を植えて信仰していた。そ の後、武田勢は滅亡したが、その一族は若沢に住みついて、鉱山仕事に携(たずさ)わって暮らしていたが、大嵐による洪水のために不動尊は流されてしまっ た。明治の時代となり、中津川原生林を伐採し川流しをした時、長さ13間、直径2尺以上もある大欅(けやき)材が、三高山眼下の川瀬にある大岩の激流にぶ ち当たり真っ二つに折れてしまった。土地の人々は、<これは新羅三郎の守本尊である不動尊の仏罰にちがいない>とその淵(ふち)を探し、川底の土砂にまみ れている不動尊一体を見つけた。さっそくこの不動尊を小滑沢(こなめざわ)奥にある三条の滝の岩陰に安置し、折木(おりき)不動尊と称して祀っ た。」・・・と。


さあ、そこで私の考えだが、大滝は若沢に移り住んできた人々というのは武田の配下の人々ではない。ずっと以前から新羅の人々が製鉄のために来ていたので ある。
もしも、はじめて、武田の家中のものが移り住んできたのであれば、武田信玄の伝承が語り継がれる筈であり、新羅三郎の伝承にはならなかったであろう。も しも、はじめて、武田の家中のものが移り住んできたのであれば、新羅三郎の守本尊云々という話が伝わる筈がないのである。

新羅系の人々、それは多分秦一族だと思われるが、そういう人々によって古代から大滝で製鉄が行われていたことは間違いないと思う。実は、秦一族が大滝に 入ってくる以前から大滝には新羅系の人々が製鉄を行っていたと考えているのだが、その点はちょっと横においても、古代、秩父では、少なくとも秦一族によっ て製鉄が盛んに行われていたのは間違いないのではないか。和同開珎よりはるか以前に・・・・だ。

秩父に限らず、新羅(しんら)三郎は、東北における古代製鉄の謎を解く鍵である。



 






今日(2008年1月6日)、「世界の里山紀行」(NHKテレビ)の再放送を見た。

すでに、昨年の8月22日に、矢竹拓という人がその放送についてブログに書いているので、それをまず
こ こに紹介しておこう。
http://yataketa.blog.ocn.ne.jp/moppy/2007/08/post_858c.html
すなわち、彼いわく。
『 フィンランドの里山と人間の関わりを取り上げたドキュメンタリーを見た。広大な森林の殆どが人の手の入った「里山」なのだという。森の手入れをし、 育てたその森からあらゆる恵みを得てきた人々の、自然と調和した生き方、考え方。とりわけ印象的だったのは、畏怖と尊敬の対象である「森の王」ヒグマを追 うクマ撃ちの姿だった。クマを追う前に一晩、森に入り身を清める。食事はせず、焚き火にあたり、体の匂いを消す。若い頃から長年クマを追ってきた彼が今ま でしとめたヒグマは8匹。得た獲物は村の皆で分ける。ヒグマを食すというのは、ヒグマの力を授かるという意味がある。最後に、綺麗にした頭骨を高い木の枝 に掛けて天に返す「クマ送り」をするのだった。彼は9匹目のヒグマを仕留めた。生き絶えたクマの荘厳な表情と、その頭をいとおしそうに撫でている彼の姿が あまりにも印象的でたまらなかった。』・・・・と。

私もその再放送を見て、彼と同じように、生き絶えたクマの荘厳な表情と、その頭をいとおしそうに撫でている彼の姿があまりにも印象的であった。


熊は森の王である。熊は神の国からの使者であり、森の象徴でもある。森はさまざまな恩恵を私たちに与えてくれる。自然の恵みだ。その象徴である熊に対し ては畏敬の念を持って接しなければならないし、底知れぬさまざまな力を持つ熊は、それを私たちの体の中に食べ入れて、そのさまざまな力を私たちのものにも しなければならない。かかる憶いを持ちながら、神の国からの使者は大切にしなければならない。その故を持って世界にはさまざまな熊の神話がある。
熊の神話及びその変形は、中沢新一の「人類最古の哲学・・・カイエ・ソバジュ・」(2002年1月、講談社)に詳しい。すなわち、「熊の主題をめぐる変 奏曲」というタイトルで書かれている部分である。これは、エコロジカルネットワークを考える場合、まず基本的に知っておかなければならない事柄であるの で、少々長くなるが、ここに紹介しておきたい。




●プーさんの人気の秘密

ヨーロッパの民話や童話の最大の人気者といえば、それは熊でしょう。いろいろな名前をもった、魅力的な熊たちが登場してきます。いちばんの人気者はプー さんでしょうか、それともパディントン駅に降り立った、あのかばんを下げたかわいらしい熊さんでしょうか。どの熊も、とても魅力的な心の持ち主です。ゆっ たりとして争いごとを好まず、子供のように無垢(むく)でありながら、賢い老人の智恵をあわせ持っています。

民話や童話には、狐やウサギや犬や猫や、ほかの動物たちもたくさん登場してきますが、熊の存在感というのは、ちょっと格別です。狐は「ずるがしこい」と 言われるだけあって、人をだましたり、予想の裏をかいたりするのが得意ですし、直球ばかり投げているようなウサギは、とても可愛らしい行動をします。犬は 忠実、猫はちょっと悪魔的な奥深さをもった動物として描かれます。ところが、熊だけは、そういう類型をはずれているのです。

行動はゆったりとして、ときどき間が抜けているようにさえ見えますが、じつはその智恵の深さは人間の智恵をはるかに越えて、遠い古代にまで届いているよ うです。熊はまるで夢見ながら思考しているようです。人間たちが困っているときに、熊がのっそりとした口調でなにかを教えてくれます。その教えを聞くと、 私たちははっとします。外の世界のあわただしい出来事に振り回されて、すっかり本来の自分のこころのあり場所を忘れてしまった人間たちに、これらの賢い熊 たちは、「ドリームタイム(夢見の時間)」からの伝言を伝えてくれるのです。

熊はヨーロッパでは、サーカスや大道芸の人気者でもありました。愛らしい姿で描かれる童話の場合とちがって、今度はお客さんたちの目の前に、生身の熊が 登場してきます。現実の熊はいくらかわいいと言っても、北方の世界では最強を誇る動物です。熊のパンチは強烈ですし、あのからだにのしかかられたら、ひと たまりもありません。その熊が、調教師たちがたくみに誘導して、おとなしい猫のように甘えたり、大きなからだで子供用の自転車に乗ってみせたりするのを見 ては、私たちはとても楽しい気持ちになるのです。

熊の中にはこのように最強の動物としての凶暴さや、瞬発的な攻撃力や、人間の幼児のようなからだつきや、太極拳でもやりそうなゆったりとした動作や、い つも夢見ているような無垢さや、古代的な深い智恵などが一体になっています。そのために、動物園に行っても、パンダをはじめとする熊類の動物は、ことに子 供たちに人気がありますし、いまだに童話やアニメにはかかせない登場人物となっています。





●熊神話の環

ヨーロッパばかりではなく、シベリア地方でも、北アメリカ大陸のインディアン世界でも、人々は熊という動物には、きわめて古い時期から、格別の関心をし めしていたようです。熊をとおして、人間は、自分に生きる糧(かて)をあたえてくれる自然との関係を、考えようとしてきました。また巨大なからだと強い力 を持つ熊という動物について思いをめぐらすことで、人間は自分たちの能力をはるかに凌駕(りょうが)している「超越的なもの」について、思考しようとして きました。熊はのちに民話や童話にすがたを変えていく神話の思考に、豊かな糧をあたえていたばかりではなく、「超越的なもの」をめぐる思考、すなわち宗教 の発生にも深い関わりを持つ動物となったのです。

そればかりではありません。熊は冬になると穴に籠(こ)もって冬眠をします。このときの冬眠用の穴は、地面を掘ってつくられた穴か、自然の洞穴などが用 いられます。そのために熊は「大地」の下にある世界と深い関わりがある動物だと考えられたり、「死」を身近に感じさせる動物であるとも、考えられることが 多かったのです。

いずれにしても、人間と動物の世界とのつながりを考える神話的思考にとって、熊は特別な動物でした。とくにユーラシア大陸の北部では、きわめて古い時 代、そう、旧石器時代の後期から、すでに熊は人間にとってもっとも重大な意味をもつ動物として、扱われていたようです。熊はまさに「自然の王」「森の王」 でしたから、人間は熊を通して、自然や超越性について思考しました。そのために、熊に関わる神話は、動物との関わりを語る、いちばん古いタイプの神話をか たちづくったのです。人間と山羊や羊やジャガーなどの関わりを語る物語は、多くの神話に語られていますが、そうした神話そのものの原型は、熊をめぐる原神 話(プロトミス)だったのではないでしょうか。

アメリカ大陸に豊かな文化を築き上げたインディアンと呼ばれた人々(ネイティブ・アメリカン)が、もともとは一万数千年前に、バイカル湖周辺から移動し てチェコト半島にまでたどり着き、そこから氷結したベーリング海峡を渡ってその大陸に入り込んだ人々の子孫であることは、よく知られている事実です。彼ら は北東アジアの故地で語られていた神話を携(たずさ)えて、ベーリング海峡を渡っていったことでしょう。そしてわずか数百年の間にアメリカ大陸を縦断し て、ついにはペンギンたちの群れている南米大陸の突端にまでたどり着いたのでした。

アラスカから南極まで、じつに広大な領域を踏破していったものです。その間には、見知らぬ自然の景観と出会い、見たこともない動植物と出会ってきたこと でしょう。とくに北緯四〇度をすぎたあたりからは、大型の熊は生息しなくなります。そのとき、インディアンの祖先たちは、自分たちがアジアから伝えてきた 熊をめぐる重要な意味をもつ神話が、リアリティを持たなくなっている世界に入り込んで、はじめはさぞや当惑したことでしょう。

しかし、彼らはすぐに気を取り直して、身の回りの動物や植物の世界を見渡して、ここにはもう熊はいないけれど、熊と同じ働きを神話の中で演じてくれそう な、山羊やジャガーがいるではないか、彼らを主人公にして、同じメッセージを伝えることのできる、新しい神話を作り出してみよう、と思い立ったはずです。 もとの神話を変形することによって、つぎつぎと新しい魅惑的な神話が作られていきました。

あるいは、こういうことがおこったのかも知れません。熊を主人公とする神話を通して、人間と自然の関係を思考してきた人々が、他の動物たちの生態に目を つけて、もともとの熊神話を変形して、新しい神話をつくりだし、それによって、自分たちの知的財産である神話のレパートリーを豊かにしようとした- ---いずれにしても新石器時代に原型がつくられた神話にとって、熊はもっとも重要な位置をしめる動物だったので、そのあとにつくられたどんな神話も、熊 神話の構造からなんらかの影響を受けることになったのです。

こうして、たとえばサハリン(樺太)島のニヴフ族に伝えられている熊神話が、かたちと登場人物を変えて、北米と南米のインディアンたちの間に、ジャガー や蝶々を重要な登場者とする神話として見いだされることになるのです。



●ふたたび「鳥の巣あさり(Bird Nester)」神話へ

ニヴフ族は熊を主人公にした、つぎのような神話を伝えています。



ある村で一人の男が狩りに出かけて、熊の足跡を見つけた。村へ戻ってきて知らせた。足跡を追うために彼は人を集めた。そして人々は足跡をつけて行った。 熊は海へ向かい、下へ降りて、崖の下に巣穴をつくって棲んでいた。大変に険しい崖だった。人が降りることはできなかった。人々は崖っぷちに着くと、立ち止 まった。「さあ、誰が下へおりるか。」一人が「じゃあ、私を縛って下ろしてくれ」と言った。そこで皮紐で彼を縛り、上から巣穴へ下ろすと皮紐を手放し、彼 の方へほうり投げた。人々はそれから村へ帰って行き、仲間を置き去りにした。仲間には食べるものが何もなかった。それで巣穴の傍にいて、腹を空かせてい た。それから皮紐を食べた。その後、ある時眠っていると、熊が「さあ、わたしのところに入って来なさい」と言っている夢を見た。それから目が覚めると彼は 熊の巣穴に入って行き、熊のそばに横たわった。眠ると夢で熊がこう言った。「もしお腹が空いたら、小指を吸いなさい。水が飲みたくなったら、もう一方の小 指を吸いなさい」と熊は言った。目が覚めると、「腹が空いた」と思った。そこで彼は熊の片足を持って吸いはじめ、存分に吸った。それから「水が飲みたい」 と思った。そこで熊のもう片方の足を持って吸うと渇きが癒された。

とうとう春がきた。そして熊は外へ出ようとしていた。彼が眠ると夢で熊が言った。「わたしは明日起き上る。わたしが外に出たら、おまえはわたしによじ 上って私の背に乗っていなさい。そして、自分の村に帰ったら、三匹の犬を縛ってわたしのところに寄こしなさい」と熊は言った。翌日男の主人は外へ出た。男 も外へ出て、熊の背に馬乗りになった。すると、熊は崖の上に上がって、立ち止まった。それで男は降りて、自分の村に帰った。三匹の犬を縛って熊に送った。 一年扶養してもらったお礼に三匹の犬を送った(シュテルンベルク、一九〇八年。荻原眞子『北方諸民族の世界観』草風館、一九九六年)。



海岸べりの崖にある洞窟の入り口に、仲間から置き去りにされてしまった主人公は、しかたなく熊の巣穴に入っていきました。食べるもの飲むものを、仲間は 置いていってくれなかったので、飢えと渇きですっかり衰弱してしまいましたが、その巣穴で冬眠中だった熊に助けられて、春までそこで眠り続けて、命拾いを します。熊が手のひらに塗りつけた蜜などをなめて、からだを養うことができたからです。冬眠からさめた熊は男を崖の上にまで運んでくれますが、このときお 礼に犬を三匹、自分に送って欲しいと頼みます。

この神話にはいろいろは異文があります。いちばん問題になるところは、どうしてこの男が仲間によって熊穴のある崖に置き去りにされたか、と言うことで しょうが、これについては、男がけんか好きでしかも臆病でみんなから嫌われていたとか、いつも人に悪態ばかりついていやな奴だったからとか、その男の妻に 仲間の一人が横恋慕していたからだ、などと理由づけがされていますが、いずれにしても、神話的思考にとって重要なことは、男が社会から切り離されて、陸地 と海のちょうど中間にあたる崖の中程に、放置されてしまい、空腹に苦しんでいた、ということでしょう。





●調理の火

さて、ここで私たちはサハリン島から数万キロも離れている、南米大陸のアマゾン川流域にすむティンビラ族のもとに、ひとっ飛びしてみます。驚くべきこと に、私たちはそこにこのニヴフ族の「親切な熊」の神話ときわめてよく似た、つぎのような神話を見いだすことになるのです。



ある男がアララ鳥の巣を、険しく切り立った崖の中腹に見つけた。男はまだ少年である自分の妻の弟、つまり義弟を呼んできて、崖を登って鳥を捕ってこさせ ようとした。アララ鳥の羽からは、よい飾りがつくれるからである。高い木を切って梯子(はしご)にして崖に立てかけ、少年はそれを伝ってがけの上にある巣 に登っていった。巣に近づいて手を伸ばすと、ひな鳥たちがいっせいに攻撃してきた。少年は怖くなって逃げようとした。怒った男は梯子をはずして、少年を高 い崖に置き去りにして、村に帰ってしまった。

お腹がすいているし、のども渇いて、少年は死にそうに苦しかった。アララ鳥たちは少年の上に糞をして、少年を糞だらけにした。おかげで鳥たちは少年のこ とを怖がらなくなった。

そのとき、一匹のジャガーが崖の下を通りかかった。ジャガーは地面に少年の影を認めた。ジャガーは上を見上げて言った。「そんなところで何をしているん だ」。少年は事情を説明した。「アララ鳥を捕まえて、わしに投げ下ろしてくれないか」。少年が言われた通りにすると、ジャガーは喜んで「わしの背中に飛び 降りてこい。助けてやろう」と言うのだった。はじめは怖がっていたが、思い切って少年はジャガーめがけて飛び降りた。ジャガーは両の手のひらで少年をみご とに受け止めてくれ、背中に乗せて、ジャガーの村に連れていってくれた。

ジャガーの村には、すばらしい調理の火があった。そのころはまだ人間は火を持っていなかった。ジャガーはその火で、炙(あぶ)った肉を食べていた。ジャ ガーの妻は少年を嫌った。それというのも、少年が焼き肉を食べるときに、チューチューといううるさい音をたてるからだ。夫のジャガーが狩りに出たあいだ、 妻のジャガーは少年を脅かし続けた。このことを夫のジャガーに話すと、弓矢を渡して、また妻が怒りだしたらこれで射ろと教えるのだった。

少年は自分に向かってきた女ジャガーに矢を射て、大急ぎで村に逃げ帰った。帰り道をジャガーが教えておいてくれたからである。村にたどり着いた少年は父 親に、ジャガーの村には調理の火があるんだよ、と告げた。そこで村いちばんの足の速い男を選んで、ヒキガエルと一緒にジャガーの村に送りだした。ジャガー の家につくと、男ジャガーは狩りに出て留守で、女ジャガーしかいなかった。そこで人間の男は火を全部奪って逃げ出した。女ジャガーは、全部持っていかない でおくれ、と頼んだが、炉の火は全部奪われてしまった。こうして人間は火を手に入れたのである(クルト・ニムエンダジュ『東部ティンビラ族』一九四六 年)。



「調理の火の起源」を説明する神話を、アマゾン川流域のインディアンは、「崖の中腹に取り残される男」という、狩りの能力の獲得を説明するニヴフ族の神話 と同じ構造を利用して、語り出そうとしています。ニヴフ族では、熊狩りのために崖の中腹の巣穴に取り残された男を親切な熊が助けてくれます。ここでは、装 飾品をつくるためにアララ鳥の羽を捕りに、崖の巣に登って取り残された少年は、下を通りかかった親切なジャガーに救われ、調理の火という貴重なものを手に 入れることになります。

この神話にも、付近のインディアンたちのもとには、たくさんの異文があります。そこでは、どうして少年が崖に取り残されることになったのかを、いろいろ に説明しています。

その一つで、近くのボロロ族は次のようにこの神話を語りだしています。



ある日一人の女が森に入っていくと、息子の一人がこっそりとついて行って、彼女を犯した。夫はそのことに気づいて、復讐しようとして、息子に険しい崖の 中腹にある金剛(こんごう)インコを捕まえにいこうと語り合った。父親は崖の麓(ふもと)に着くと、長い棒を架け渡して、それを伝って金剛インコの巣まで 上がってこい、と息子に命じた。息子が高い崖に登り着くと、父親は棒をはずして、息子をその場に取り残して、村に帰ってしまった。若者は飲み物も食べ物も ない、崖の巣に置き去りにされたのだ(レヴィ=ストロース『生のものと調理したもの』)。



ここから少年の冒険がはじまります。少年は最後に(火ではなしに)水をコントロールする能力を手に入れることになります。ここでも、天界と地上のまんな かに置き去りにされた少年が、親切な動物たちの助けによって、超自然的な能力を獲得する、というエピソードが語られます。





●『神話論理』の開幕を告げる

これはレヴィ=ストロースが著した全四巻におよぶ『神話論理』の第一巻『生のものと調理したもの』の冒頭の部分に、知的大冒険の開幕を告げる「キー・ミ ス(鍵となる神話)」としておかれて有名になった、ボロロ族の神話です。この神話が、先ほど紹介したサハリン島のニヴフ族の神話と、とてもよく似た構造を 土台に用いてつくられていることは、すぐにわかります。おたがいの間には、つぎのような「変形」関係があります。

北東アジアでは「熊の巣をあさる」話であったものが、アマゾン川流域では「鳥の巣をあさる」話になり、出てくる動物たちの種類も違えば、話の結末も別の かたちに変わってはいますが、私たちのうちにそなわった「形態の類似性を認識する」直感力は、この二つの神話が同じ構造をもっていることを、はっきりとつ かみとります。二つの神話は、とてつもない距離を隔てて発見されています。しかしこの類似性を偶然のものとして、片づけてしまうことはできそうにもありま せん。

北の動物である熊とジャングルの動物ジャガーの間には、たくさんの共通点があります。どちらもとても強大な力を持つ動物で、火や武器を持たないかぎり、 人間などがまともに立ち向かえる相手ではありません。それに北の世界にも南の世界にも、「シャーマン」と呼ばれる魂の専門家たちがいますが、この人たちは 熊やジャガーと特別なつながりがあると主張しています。シャーマンはトランス状態の中で、熊やジャガーに出会うと、それぞれの世界では語られていますし、 シャーマン自身が熊やジャガーに変身することができると信じられているのです。

熊とジャガーは、どちらの世界でも、超自然的な力の領域の支配者である、と考えられています。神話の主人公はそういう動物たちと出会って、その好意を得 るためには、崖の中腹に取り残されたり、高い木のてっぺんに置き去りにされる必要があるようです。動物の「巣穴をあさる」ことには、どうも重大な意味が隠 されているようです。その好意が「媒介機能」を発揮して、動物の持つ超自然的な力との接触を、可能にしてくれるのです。





●北米インディアンはこう変形した

そのことは、北米大陸インディアンに伝えられている、つぎのような神話をとりあげてみると、もっとはっきりするでしょう。これはクラマス族の語る神話で す。



クムカムチ神にはアイシシュという息子がいた。クムカムチはその息子の美しい妻たちに横恋慕したのである。息子の妻たちを手に入れるために、高いケナワ の木に巣をつくっている鷲を取りに行くように、息子に命じた。アイシシュに着ているものを全部脱ぐように命じて、息子は素っ裸で木に登った。しかし、そこ には鷲の巣などはなく、それどころかみるみるうちに木の幹は高く伸びて、とうとう降りられないほどになってしまった。

クムカムチ神はそのあいだに息子の着ていたものを身につけて、そっくりになりすまして、妻たちのもとに出かけた。アイシシュの妻たちを手に入れようとし たが、彼女たちはニセモノと思って、相手にしなかった。

木の中程の鳥の巣に取り残されたアイシシュは食べ物も飲み物もないので、すっかりやせ衰えてしまった。二匹の蝶々が鳥の巣の中でぐったりしている彼をみ つけた。親切な蝶々は水や食べ物を運んできてくれた。そして籠に入れて、彼を地上まで運びおろしてくれたのだ。こうしてアイシシュは村に帰ることができた (クロード・レヴィ=ストロース『裸の人間』一九七一年)。



このように、太平洋を取り囲むようにして、アジアとアメリカの広大な領域にまたがる三つの地域で、同じ構造を用いた神話が語られていたことがわかりま す。一つは、南米のアマゾン川流域のジャングルの中にすむ人々によって、もうひとつは北米のカリフォルニア・インディアンと北西海岸部のインディアンのも とで、そしてもう一つはアムール川流域とサハリン島にまたがってすむ人々の記憶の中で。

海に向かって落ちていく崖の中腹や、岩山にある崖の中腹、あるいはとてつもなく高い木の中程の鳥の巣などに、親族や仲間によって置き去りにされた主人公 が、いろいろな動物の助けによって地上に戻ってくることができるのですが、そのときには狩りの能力や火や水をコントロールする能力などを手に入れている- --こういう構造上の一致は、そうそう偶然におこるものではありません。

この三つの地帯で、同じ構造を用いた神話が見いだされるということには、とても大きな意味があります。一万数千年前アメリカ大陸に渡っていった人々の 原郷が、バイカル湖の周辺であったらしいことは、今日の考古学の研究によってあきらかになったことですが、そのうちの初期の移動によってこの大陸に入り込 んだ人々が持っていた、きわめて古いタイプの文化が、どうやらアマゾン川流域のジャングルに入り込んだ人々とカリフォルニア・インディアンのもとに、残さ れたらしいからです。アメリカ大陸を縦断する神話学の旅を敢行したレヴィ=ストロースが、アメリカ神話学の宇宙全体の出発点であり到達点である神話を、例 の「鳥の巣あさり」神話に設定したのは、そういう理由によるのです。

そして、わがニヴフ族は、バイカル湖周辺に後期旧石器時代からいた人々の、直接の子孫たちです。私たちは、とてつもなく長い時間を隔(へだ)てながらも 変化しなかったものの、生きた実例を前にしているのではないでしょうか。モンゴロイドの長い長い旅の間、揺れて壊されたり、洪水や嵐に持ち去られたり、火 に焼かれたりして、消え去ってしまう可能性はおおいにあったことでしょう。それにもかかわらず、壊れなかった構造が、いまも生き残っている---これはた しかに一つの仮説にすぎませんが、こうやって考えてみるとき、はじめて見えてくることがたくさんあることも事実です。





●「熊の王」から「鮭の王」への変形

ここに、日本の東北に伝えられたつぎのような伝承をつけ加えてみると、神話的思考の強靱な生命力に、さらに深い感銘を受けるにちがいありません。東北か ら北海道にかけては、縄文時代以来、熊や鹿の狩猟とともに、鮭と鱒の漁労がさかんにおこなわれていました。これは、アムール川流域諸族や北亜アメリカ北西 海岸のインディアンの場合と、まったく同じ状況です。森の王者が熊ならば、さながら川の王者は鮭なのです。そのために、鮭についての神話の思考は、熊につ いて考えた場合と、とてもよく似たパターンを利用しています。ニヴフ族の熊が、ここでは鮭たちの王である「鮭の大助」に姿を変えて、海上の島の巨大な松の 木にある鷲の巣に置き去りにされてしまった主人公を助けるのです。



気仙郡竹駒村の相川と云ふ家に残る昔話である。此家の先祖は三州古河ノ城主であったが、織田信長との戦に負けて、遥々と奥州へ落ちのびて某所に棲まつて 居た。或日多くの牛を牧場に放して居ると、不意に大きな鷲が来て子牛を攫つて飛び去つた。主人は大に怒って、如何にしても彼の鷲を捕らへなくてはならぬと 言って、弓矢を執り、牛の皮を被り、牧場にうづくまって鷲の来るのを五六日の間待つて居た。其中に心身が疲れてとろとろつと睡ると、やにわに猛鷲が飛び下 り来て、主人をむんずと引つ提げたまま、杳冥遥かと運んで行つた。

主人はどうとも為す術がないので体を縮め息を殺して、鷲のする通りになって居ると、遠くの海の方へ行く。そして或島の巨きな松の樹の巣の中へ投げ込んだ まま、また何処ともなく飛去つた。

主人は鷲の巣の中に居て、はて如何かして助かりたいものだと思つて、周囲(あたり)を見回すと、巣の中に鳥の羽がたくさん積まれてあつた。そこで其を集 めて縄を綯(ぶ)つて松の木の枝に結びつけて漸(や)つと地上へ下りたが、それからは如何する事も出来ぬから、其の木の根元に腰をかけて、思案に暮れて居 た。

其所から何処から来たのか一人の白髪の老翁が現はれて、お前は何処から此所へ来たのか、何の為に来られたか、難船にでも遭つたのなら兎にも角にもこんな 所へ容易に来られるものではない。此所は玄界灘の中の離れ島であると言つた。主人は今までの事を物語つて、如何かして故郷へ帰りたいが、玄界灘と聞くから には既に其望みも絶えてしまつたと歎くと、老翁は、お前がそんなに故郷へ帰りたいなら、俺の背中に乗れ。さうしたら、必ず帰国させて遣ろうと言つた。主人 は怪訝(けげん)に思つて、それではお前様は何人で、また何処へ行かれるのかと訊くと、俺は実は鮭ノ大助である。年々十月二十日にはお前の故郷、今泉川の 上流の角枯淵(つのがんぶち)へ行つては卵を生む者であるとのことであつた。そこで恐る恐る其の老翁の背中に乗ると、暫時(しばらく)にして自分の故郷の 今泉川に帰つてゐた。斯う謂う訳で、今でも毎年十月の二十日には礼を厚くして此羽縄に、御神酒供物を供へて今泉川の鮭漁場へ贈り、吉例に依って鮭留数間を 開ける事にすると謂ふのである(『佐々木喜善全集Ⅰ』遠野市博物館、一九八六年)。



この話は大正十四年(一九二五年)の冬頃に、岩手県の未崎村という所で、民俗学者の佐々木喜善(ささききぜん)が、及川與惣治という人から聞いて、『聴耳 草紙』に載せたものです。この佐々木喜善という人は、岩手の生まれで、子供の頃からいろいろな昔話を老人から聞かされて育った人でした。上京してからは柳 田國男と知り合い、彼にたくさんの話を聞かせて、それをもとにして有名な『遠野物語』が書かれたのです。

「鮭の大助」の話は、とても興味深いものです。話自体は、数百年前のご先祖が実際に体験した話を伝えているように語られていますが、「環太平洋」をへめ ぐって、熊やジャガーをめぐる狩猟民の神話をかいまみてきた私たちは、この話がその程度の意味をもつものではなく、人類的な深い記憶の層から呼び出されて きたものであることを、知っています。





●昔話から神話へ

これを伝承している相川家は、この地方で古くから(縄文時代から!)盛んに行われてきた、鮭漁に深い関係を持っている一家です。産卵のために今泉川を遡 行してくる鮭の群れにたいして、「鮭留数間を開ける」ことによって、乱獲をしないようにいましめている話です。このあたりでは、「鮭の大助」と言えば、鮭 の大群を率いて、産卵のための困難な旅のリーダーとなって川を遡(さかのぼ)ってくる「鮭たちの王」だと考えられていました。

一〇月の二〇日の前になると、この「鮭の大助」がすさまじい叫び声をあげながら、川を上ってきます。その叫び声を聞いた者は、即座に死んでしまうといわ れていたこともあって、この日の夜には、みんな家に籠もって、外に出歩かないようにしていたほどでした。

その鮭の王者との出会いを語るこの話は、外見は昔話風に変えられていますが、詳しく見てみるとわかるように、人々の生活や自然観察に密着した「具体性の 論理」としての、神話のはっきりとした特徴をそなえています。じっさいにこの地方で、縄文時代以来ずっと鮭漁をおこなってきた人々の思考から生み出されて きたもので、けっして話し上手の芸人によってつくられたり、運ばれたりしてきたものではないと思います。話の芸人ではなく、「神話作者Myth Maker」が語り伝えてきたものとして「環太平洋」的な性格を、保存してきたのでしょう。

まず、この話には二つのタイプの「狩猟」が語られています。一つはこの話の背後にある「鮭漁」ですが、もう一つは鷲の狩りで、これはとても面白い罠猟の やり方をとっています。狩人自身が、牛の皮をかぶって中に籠もり、それを鷲が襲ってくるのを待つのです。狩人自身が「餌」になって罠をかける、こういうタ イプの狩猟のやり方は、アメリカ・インディアンがもっとも得意としてきたものです。一例をあげましょう。平原部にすむマンダン族は、地面に大きな穴を掘っ て、狩人はその中に身を隠し、上手にふたをして、その上にウサギの死体などを置きます。上空からこれを発見した鷲が急降下してきます。そして餌につかみか かったところを見計らって、鷲の足をむんずとつかむのです。

このタイプの狩りでは、狩人自身が「餌」や「死体」になります。すると大鷲は彼をさらって、大海の中の孤島に生えた巨大な松の木の上の巣に連れていき、 そこに放り込んだまま、何もせずに去っていきます。そこへ鮭の大助があらわれて、狩人を助けて故郷に連れ戻してくれます。本人が死人と同じ立場になる、と いうことは短期間だけれども、狩人は社会から切り離されていることになります。

これをマイナスの価値で表現すれば、みんなから「見捨てられる」ということになるでしょうが、そうすると、「鳥の巣あさり」神話では親切なジャガーや蝶 々(これは死の生物です)があらわれて、主人公を救ってくれましたし、アムール川流域諸族の「慈悲深い熊」神話では、大地の穴に眠る「死の生き物」である 熊が、主人公を救って、崖の上まで送り届けてくれました。ですから、岩手の伝承に語られる鷲の狩りにも、それと同じ意味が、もともとはこめられていたので はないか、と推測することができます。

とてつもなく遠いところにあるという「玄界灘」の孤島に生えた巨大な松、その枝につくられた鷲の巣。数奇な運命によってそこへ運ばれると、「鮭の王」と の出会いが果たされるのです。この伝承はどうやら、アムール川流域の古いタイプのモンゴロイドたちが伝える「慈悲深い熊」の神話や、南北両アメリカ大陸に 伝わった「鳥の巣あさり」神話群と、密接な関係を持っていそうです。この地方で、鮭漁を古来からおこなってきた人々が伝えてきた神話が、近世になってもあ まり手を加えられることのないままに、ついこの間まで、生き生きと伝承されていた---このような考えが正しいとすると、これはまことに重い意味をもった 伝承ということになるでしょう。

どうやら私たちは、「東北」とか「日本」とかいう概念を、いままで考えられてきたことをはるかに超えて、思い切って拡大して考えていかなくてはならない のではないでしょうか。少なくとも、神話についてだけ言えば、熊と鮭の生息していた「北方半球 Northern Hemisphere」は、ひとつながりの世界と考えなくてはならないようです。





●神話から歴史へ

「鮭の大助」をめぐる岩手県気仙地方の言い伝えは、神話的思考の驚くほど強靱な生命力を思い知らせてくれます。一万数千年ほどの時間の厚みを蓄え込んだ 一つの思考が、歴史の時間をかいくぐって、たくみに変形や偽装をこらしながら、したたかにいきつづけてきたのですからね。しかし、遠野地方に伝えられた次 のような伝承を見ると、神話的思考の生命力というものに、あらためて驚くことになるのではないでしょうか。

その話というのはこうです。さっきの話と同じ人物が主人公で、いわばその話の後日談になりますが、鮭の王様に助けられて今泉川のほとりの故郷に戻ったこ の男、才覚を認められて鮭漁場の「帳付」となりました。ということは、話の舞台は近世です。

おりもおり、今泉と川ひとつ隔てた高田との間には、つねに鮭漁場の境界争いが絶えませんでした。ときには死人さえ出るしまつで、これまではなんとかこの 男の仲裁でことなきをえていたのですが、ある年鮭が大変に不漁の年があり、人の気持ちもすさんで、いつもより境界争いも激しく、この男がいくら説得して も、闘争はおさまらなくなりました。

そのとき、この人は意を決して川のまんなかに進み出て、大音声でこう呼ばわりました。「今泉の衆も、高田の衆も、ようく聞いてくれ。今度ばかりはいくら 俺ががんばっても、事態は少しもよくならないばかりか、こうして日夜喧嘩ばかりが続いている。そこで俺はこの場で死んで、争いを納めることとしたい。皆様 は俺の首の流れる方を今泉の漁場とし、胴体の流れる方を高田の漁場としてくれ。ではみなの衆、さようなら」。そう言うが早いか、男は刀で自分の首を掻き落 として亡くなりました。その男の自害したあとには中州ができて、自然と両村の境界となり、川争いもおさまったと言います(『聴耳草紙』)。

鮭の漁場をめぐっての人々の争いをおさめるために、自分の首と胴体を切り離して、自己犠牲をとげるこの人こそ、みずからが鮭の大群を率いて川を遡上し、 産卵という種族の大業をみごとに指導してなしとげてきた「鮭の大助」、その人にほかなりません。「鮭の大助」に助けられたこの人は、自分が「帳付」として 監督する世界の危機に直面したとき、今度は自身が「鮭の大助」となって、偉大な自己犠牲の精神を発揮して、この世界を救おうとしたのです。まさに「鮭のた めに生き鮭のために死んだ」と言えましょう。この先祖は、神話の力によって「鮭によって生き」たのですが、この神話の思考は歴史上の人物に姿を変え(たぶ ん、これとよく似た実話があったのでしょうね)、今度は「鮭のために死ぬ」ことによって、人々を生きさせようとしたわけです。

熊を主題とする神話的思考のさまざまな変奏曲は、北東アジア(ここには、日本の東北地方や北海道を加えることができます)から南北アメリカ大陸にわたる 広大な地理的空間にまたがって、モンゴロイドたちの思考をとおして奏(かな)でられてきましたが、またそれは歴史的時間の中にまで潜り込んで、一万年以上 もの時間を隔てながら、人間と自然の奥深いつながりを歌いあげるその調べを、私たちのもとへ届けてくれているのです(二〇〇二年一月二一日 於中央大学大 学院)。





又兵衛人形と又兵衛の祭壇

(谷川健一編集『鮭・鱒の民俗』三一書房)

「 変形」のプロセスはまだ続く。神話的思考はさらに深く歴史の現実の中に侵入して、いまもつづいている一風変わったお祭りまで、つくりだす。岩手県宮古 市津軽石では、「又兵衛人形」なる藁人形をこしらえて、その周りで「又兵衛祭」をおこなっているが、それはこんな「歴史」に由来している。「津軽藩がこの 地方の鮭漁を経営していた頃、役人に来た後藤又兵衛は、鮭は豊漁なのに米は凶作続きで、餓死者まで出るさまをみて、禁令をおかして自由に住民に鮭を捕らせ た。そのために逆さはりつけの極刑にされた。彼の人間愛を銘記するために。住民は刑死した又兵衛の姿を藁人形につくって祀り、豊漁を祈念する祭りをはじめ た」(神野喜治「鮭の精霊とエビス信仰」)。「鮭の大助」伝承が歴史化されるとき、自らの命を人間に贈与してくれる動物霊は、人間愛によって悲劇的な運命 に見舞われた恩人に変形されていくのである。



以上は、私たちの勉強のため、中沢新一の「人類最古の哲学・・・カイエ・ソバジュ・」(2002年1月、講談社)から引用させていただきました。中沢新 一先生に深く感謝します。







謹 賀新年

・・・ジオパークを 夢見て・・・


 
平 成20年元旦
国土政策研究会
会長 岩井國臣



文芸春秋の先月号(平成19年12月号)に藤原正彦さんが「教養立国ニッポン」という題で、経済至上主義では人心が乱れてくにが滅ぶという・・・救国の 提言をなさっている。内容について、皆さんはどうお感じになったか判らないが、私は藤原さんとほとんど同じ考えである。経済は重要だし、一連の経済改革も 必要だが、経済至上主義はいけない。日本は、経済とともに教養も同じ程度に大事にされなければならないと私は思う。
また、潮の先月号(平成19年12月号)に文化庁の長官・青木保さんが「<文化力>が日本の存在を輝かせる」という題で、日本文化を発信するために国家 的戦略が必要なことを訴えている。その中で、青木さんは、「海外からの観光客はこれまで年500万人超、昨年は700万人台に達したという報告もありまし たが、ここ2、3年で増えているとはいうものの、インドネシアやタイなどの約2000万人、中国の約5000万人、フランスの約7000万人などと比べる と、これだけの経済大国で、しかも長くて深い歴史と独自の文化を持っている国にしては、少々さびしい気がします。」と言っているが、私もまったく同感であ る。いや、さびしいなどというよりも、私は、むしろ情けない思いがしている。
<文化力>という言葉は悪くはないが、ちょっと誤解を与えるかもしれない。というのは、どんな国でも文化はある訳で、したがって<文化力>はそれなりに あるわけである。しかし、日本が今考えねばならないことは、日本の経済力と相まって、日本が世界平和に与える影響力である。そのことをきっちりと認識でき ていないと、日本文化を発信するために国家的戦略が必要なことを一般には理解できない。日本の「歴史と伝統文化」の心髄は何か、またそのことが世界平和と どう繋がっていくのか。

「ジオパークの演劇性」に書いたように、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄が「違いを認める文化」にあり、そういう意味では、日本では歴史的に見て「平 和の原理」が働いてきたといえる。それを「平和の論理」として世界の人びとに語って行かなければならない。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観 光」の重要性を訴えているひとつの理由はそのためだ。そして、私が、わが国の「ジオパーク」を推進しようとしているのは、その演劇性にあり、万年前からの 「歴史と伝統・文化」をビジュアルに見せるためである。私が「劇場国家にっぽん」と言っている所以である。私が「劇場国家にっぽん」と言ったり「文化観 光」の重要性を訴えているもうひとつの理由は、地域の活性化のためできるだけ多くの外国人観光客に来てもらうためである。できるだけ多くの外国人観光客に 来てもらうためには、観光資源として、これからの新しい文明を創造するために役立つというか、これからの生き方に重大な示唆を与えうる・・・文化的価値の 高いものが必要である。しかもそれが唯一日本にしかないとなれば、外国人向けの観光資源としては最高のものとなる。



なお、昨年は、広島と札幌でジオパークをテーマとした講演会があった。次は、そのときの私の用意した映像であり、念のために紹介しておく。

究 極の観光資源・まちづくり

ジ オパークは北海道を変えるか?


また、昨年は、白滝ジオパークの関係で、3回、現地でセミナーをやった。次は、そのときの私のテキストであり、念のために紹介しておく。

地 域の持続的発展とは何か?

黒 曜石文化とは?

子 どもの教育の原 点は何か?









さ る11月22日に札幌で「平成 19 年度秋季講演会」が開催され、白滝の黒曜石では世界的に有名な札幌大学の木村先生や遠軽の地元の後藤さんとともに、私も講演しました。私の演題は、「ジオ パークは北海道を変えるか?」でした。




下記


 
北 海道環境保全技術協会・白滝黒曜石遺跡ジオパーク推進協議会共催
「平成 19 年度秋季講演会」のお知らせ

 
平 成 19 年 10 月 2 日
北海道環境保全技術協会
会長 前 田 寛 之
白滝黒曜石遺跡ジオパーク推進協議会
会長 吉 田 敏 充

関係各位

拝啓 時下ますますご清祥のこととお喜び申し上げます。
このたび、北海道環境保全技術協会は、白滝黒曜石遺跡ジオパーク推進協議会と共催で、下記のとおり平成 19 年度秋季講演会を開催いたします。皆様の多数のご出席をお待ちしております。

敬 具

 


1.名称:「H19 年度秋季講演会」
主催:北海道環境保全技術協会
共催:白滝黒曜石遺跡ジオパーク推進協議会
2.日時:平成 19 年 11 月 22 日(木)、14 時 00 分ー16 時 50 分
3.場所:KKR ホテル札幌5F・丹頂(定員 150 名)
(札幌市中央区北 4 条西5丁目 tel:011-231-6711)
4.参加費:無料
5.参加者:一般、北海道環境保全技術協会会員

6.講演内容:

(1)基調講演「ジオパークは北海道を変えるか?」(60 分) 14:05ー15:05
講師 国土政策研究所所長 岩井國臣様 (前参議院議員・元国土交通副大臣)

(2)「シベリヤから白滝へ---環境変動とマンモスハンター」(60 分) 15:15ー16:15
講師 札幌大学文化学部教授 木村英明様

(3)「白滝黒曜石遺跡ジオパーク実現に向けて---推進協議会の取り組み」(30 分) 16:15ー16:45
講師 白滝黒曜石遺跡ジオパーク推進協議会事務局 後藤 裕

7. その他



注: この札幌の講演会では、ジオパークの初歩的な説明はしなかった。ジオパークの初歩的な説明は、広 島の講演会でしたので、参考のために、紹介しておきたい。こ こをクリックして下さい!







今、私は、秩父ジオパークへの道を歩きながら、ジオパークに関連するいろんな情報を全国に発信したいと考えているが、エコロジカルネットワークについて も、秩父から全国的な運動を呼びかけるつもりである。
ここでは、今までの経緯を説明するために、まずは、平成10年3月11日の国土・環境委員会における私の発言の一部を紹介しておきたい。

『 いよいよ五全総といいますか新しい国土計画がまとまりつつございます。その新しい国土計画では盛んに地域連携というようなことを言われているんです ね。それは結構なんですけれども、私が若干心配しておりますのは、連携というキーワード、これはまことに時宜を得て私としてはいいキーワードだなと思って おりますが、国民レベルで考えたときにまだ共生とか連携といったことについての哲学が希薄というか、例えば自然との共生と口では言うんだけれども、そう いった自然についての認識というものがまだまだ希薄ではなかろうかな、こんなふうに思うんです。

私も実は、これからの二十一世紀におけます大事なキーワードとして共生、コミュニケーション、連携というようなことをふだん言っているんです。この三つ の言葉はそれぞれニュアンスが違いますけれども根っこは同じ同根の言葉でございまして、ですから、共生社会を目指すと言ってもいいし、コミュニケーション 社会を目指そうと言ってもいいし、連携社会を目指そうと言ってもいいと思うんです。あるいは、ネットワーク社会を目指そうと言ってもいいと思うんです。余 りそう違いはないんだろうと思いますが。私は、ネットワークということが非常に大事だろうと。

今度の新しい国土計画において、私は・・・三大ネットワークと言っておるんですけれども、一つは御案内のとおり高速道路を中心にしました道路のネット ワークです。それからもう一つは情報のネットワークなんです、高度情報化といいますかマルチメディアに向かっての情報のネットワーク。そして三つ目がエコ ロジカルネットワークなんです。この三つのネットワークを私は言っておるわけでございます。

御存じの方も少なくないと思いますけれども、ヨーロッパでは野生生物の生息空間をネットワークで結んでいこうという動きが活発なんですね。大変活発だ と。一九九二年のハビタット指令というのがあるんです。ハビタット指令。加盟国十五カ国なんですけれども、その加盟国がヨーロッパとして一つの考え方に基 づいて野生生物の価値の高い生息空間というものをそれぞれ法的に保護していこう、そういうことで大変な運動が進んでおる。民間組織におきましても、Eエコ ネット、ヨーロッパ・エコロジカルネットワーク構想というものがあるようでございまして、これが大変大きなうねりになっておるようでございます。

一九九二年の地球サミット、そしてそのとき決められましたアジェンダ21。そして先ほどの生物多様性条約。そういった一連の動きを見るまでもなく、私た ちこれからの時代というものは自然再認識の時代である、そういうふうなしっかりした認識に立ちまして生態系保護にかかわる国民的な運動を今後展開していか なければならないのではなかろうか。そのときに環境庁としてぜひ強力にリーダーシップを発揮していただく必要があるのかな。私たちはヨーロッパの人々に負 けないふうに、自然に対するしっかりした認識の上に立って、環境先進国の仲間入りをしていかなきゃいかぬなというようなことを痛切に感じるわけでありま す。

問題は、行政と民間がどうやって連携していくか、連携しながらそういう運動をどうやって展開していくか。連携でございます。これが大変重要な問題。行政 と民間の連携。コミュニケーションということがその前にあるかもわかりません。先ほど言いました共生、コミュニケーション、連携ということが極めて大事で はなかろうか。

平成七年十一月に、先ほどもちょっと出ておりましたが、財団法人日本生態系協会主催の、生態系の危機、挑戦と課題というテーマでエコロジカルネットワー ク・シンポジウムというものが開かれました。

シンポジウムにおきましては、日本生態系協会の池谷奉文会長が、我が国の生態系というものがどういう危機的状況にあるのか、そういうことについてるるお 話しになりました。そして、そのような危機的状況を回避するためにポスト四全総、新しい国土政策でエコロジカルネットワークということを提案されたんです ね。俗にエコネットと、こう私どもは言っておるんですが。

そして、そのシンポジウムにおきましては、オランダからグラハム・ベネットさんという方が来られ、お話をいただいた。ドイツからはヨーゼフ・プラープさ んという方が来られ、その方のお話も聞いた。ヨーロッパにおけるエコネットの発展の経緯と現状、そして実践上の課題というようなもののお話をお聞きしたわ けであります。

そして、その三人のそのほか国土庁の方、それから建設省の方も加わりまして、信州大学名誉教授の櫻井善雄先生の司会のもとにパネルディスカッションが行 われたんです。

あのシンポジウムは、我が国の生物多様性の国家戦略の具体化を図る、具体化ということを考えたときに、言うなれば、私流に言いますと国土政策上の立場か ら考えて私は画期的なことであったのではなかろうかなと思います。あのシンポはすばらしい成果が上がったのではないか、こんなふうに思っております。そし て、あれを契機にエコネットというものが徐々に徐々にいろんな人に知られ、いろんなところで言われるようになってきておるのではなかろうか。

今後、私たちはできるだけ多くの人々が我が国におけますエコネットの構築に向けてそれこそ共生の思想に基づいてコミュニケーションを深め、そして連携し ていくことが必要ではなかろうか。

というようなことで、長くなりましたけれども、そこで質問でございますけれども、環境庁は生物多様性に関する国家戦略について具体的にどういう具体的な 施策を展開しようとしておられるのかお伺いしたい。

そして、その際、エコロジカルネットワークの構築につきましては、私は自然の二大要素は水と緑だ、水と緑のネットワークだと、こんなふうに思っているん ですけれども、したがって環境庁は、ぜひ建設省とそれこそ連携してやっていくべきではないか。 』

http://www.kuniomi.gr.jp/chikudo/kokkai/kaigi/142-kok-3.htm#path5





なお、エコロジカルネットワークについては、

まずは秩父に関連するものとして、
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/01241/contents/003.htm

私と池谷奉文さん達との対談、
http://river-ing.com/person/person_200606.html

を是非参考にしてください!






現在、格差問題がいろいろな議論を呼んでいる。所得格差は確かに最近拡大してきている。原因は企業というか経済のグローバル化にあり、特に、ベルリンの 壁が破れ、ソビエット連邦も崩壊、自由主義陣営というかアメリカの勝利がはっきりした、日本の年号でいえばちょうど平成になってひどくなってきているよう だ。

しかし、地域間格差、つまり過疎過密の問題は、高度成長期、つまり昭和30年代を通じて深刻化してきた。これは、農業と林業が、一般的には、国際競争に 勝てないいわゆる斜陽産業になったからであって、基本的には、所得格差の問題と同様に、国際競争というか貿易の自由化に原因があるとも言えるが、過疎化 は、都市化の進展に反比例して、昭和20年代から始まり、昭和30年代からひどくなってきた。島根県匹見町は、昭和33年に人口はピーク時のおおよそ三分 の一に減った。

国土交通省と総務省の調査によれば、全国のの過疎地域にある約6万2千の集落のうち、4%強にあたる2641集落が高齢化などで消滅する可能性があるこ とがわかった。うち422集落は、10年以内になくなる可能性があるという。


いよいよ地域格差問題が大きな問題になってきた。過疎問題は今に始まったことではないが、いよいよ大変だ。どうすれば良いか? 広島の皆さん、みんなで 考えてみよう!


今度の土曜日(071117)にお話しする要点をあらかじめお知らせしておきたい。「地域の持続的発展とは何か?」という前の問題提起につづき、今回 は、その続きである。今私が力を入れて取り組んでいる「ジオパーク」に焦点を当てて、新たな問題提起をしたいと思う。「地域通貨」の問題もお話ししたい が、それはまた次の機会にしよう。

そ れでは、まず、ここをクリックして下さい!



 




 
 
それ以前のWhatsNewは次をクリックして下さい!
 
 
 
 
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nippon9.html#(平成17年3月19日)