(平成18年1月22日) 

今までのWhatsNew

 

地域構造と「空」・・・その2

地域構造と「空」・・・その1

謹賀新年  ふたたび「空」について

天皇と民衆

天皇にもっと自由を!

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

いよいよ「愛の通貨」!

「違いを認める文化」の象徴としての天皇

なぜ天皇はわが国国民統合の象徴なのか

第二講『華厳経』のあらまし

いま、読み直される『華厳経』

 

華厳経を勉強しよう!

1、ぼちぼち天皇を語ろうか?  2、井手の里  3、山背古道と良弁の滝

4、東大寺の不思議  5、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄  6、法相宗と華厳宗

7、天皇に関する歴史認識  8、聖武天皇  9、比曽山寺  10、元興寺

 

これからの政治家のあり方

「小泉改革」の歴史的意義

小泉劇場について

山越阿弥陀図

中沢新一と関連する主なページ

河合隼雄の「明恵 夢を生きる」(1987年)

愛知万博・・・「自然の叡智」はどこに??

何故明恵なのか

 

(平成17年3月19日) 今までのWhatsNew


岩井国臣の「劇場国家」!

 地域構造と「空」・・・その2

 

  

 私は先に、『 地域構造のあるべき姿(かたち)を考える際にも「空」を中心に据えなければならない。それは宗教であってはならないし、もちろん行政でもない。行政は権力であり、それとは別に権威が必要なのである。地域構造と「空」については、後ほどゆっくり考えるとして、私が今イメージしていることを申し上げておくと、それは・・・コミュニティーのなかにどのようにして権威あるNPOをつくるか・・・ということである。』・・・と申し上げた。「権威あるNPO」ということで思い出すのは、リージョナルコンプレックスということである。このリージョナルコンプレックスということは、元福井県立大学の学長・坂本慶一の言っていたことで、私は、10年ほど前に書いた・・・「四全総総点検を点検・・・地域づくりの哲学はあるか」のなかに・・・それを紹介しておいた。

 リージョナルコンプレックスはさまざまな団体からなっている。もちろん、いろんなNPOがあるだろう。そこはどうでなければならないということはない。しかし、私としては、私の頭の中の整理上、地域介護に関するもの、地域教育に関するもの、地域づくりに関するもの、地域通貨に関するものの四つに分類しているが、そのどれが地域の主体になってもかまわないし、どういうNPOが先にできてもかまわない。ただ、私としては、地域づくりに関するものと地域通貨に関するものに関心があるし、それらの地域活動のお手伝いができればありがたいと思っている。

 道路や河川などのいわゆる公共事業は、地域生活や地域経済を支え、地域がイキイキとやっていけるための基本事業であり、行政に働きかけ、まずはこれの促進に力を入れていかなければならない。しかし、公共事業といえども、これからは行政だけに頼っているという訳にはいかないだろう。地域介護や地域教育の問題もそうであろう。

 地域づくりは「場所づくり」だと思っており、宇宙や自然との響き合いの「場所」、インターネットのプラットフォームも含めいろんな交流の「場所」を積極的に作っていかなければならないと考えている。しかし、これらの課題も、公共事業、介護、教育などの問題と同様に、これからは行政だけに頼っていくという訳にはいかない。今後、それらの公共財については、リージョナルコンプレックスとして、まずは地域通貨を普及させ、そしていずれはその地域通貨を使って整備していかなければならないのではないか。

 以上述べたような地域活動を前提として、リージョナルコンプレックスの精神的な支えとして、<地域の「空」>がなければならないと思う。私としては、「クラウンマザー」を中心としたNPOをイメージしている。「クラウンマザー」を中心としたNPOは<地域の「空」>であるから、当然、然るべき権威がなければならない。そのNPOが「権威あるNPO」であるためには、何らかのかたちで「天皇」と繋がっている必要があるのではないか。私はそのように考えている。

 わが国の各地域が安定するためには、各地域にリージョナルコンプレックスができていて、そのリージョナルコンプレックスの頂点に「クラウンマザー」がいる。さらには、その頂点に天皇ないし皇室がいるというような社会構造が望ましいのではないか。このような社会構造を可能にするのは「愛の地域通貨」を前提にしているし、また逆に「愛の地域通貨」は「空の天皇」を前提にしている。「愛の地域通貨」と「空の天皇」とは密接不可分な関係にあるのである。

 


岩井国臣の「劇場国家」!

地域構造と「空」・・・その1

 

 

 女帝問題が国論を二分するような大問題になっている。確かにわが国の国体にかかわる大問題である。しかし、女帝問題を議論する前に、天皇に関する議論をし、それをもっともっと深めなければならない。近々、私も女帝についての持論を公表したいと考えているが、まだその時期ではない。今は、天皇でさえ、私の考えが人びとを説得できるほどにまとまっている状況ではないので、今急いで自分の考えを整理しているところである。もちろんおおよ自分の考えはあるのだが、人びとには説得力を持って話できないという訳だ。しかし、説明できるときがすぐそこにまで来ている。だから、女帝についての持論を公表できる日も近いという訳だ。女帝問題については、もう少し待ってほしい。

 御承知のように、憲法改正が現実の政治課題として浮上している。現行憲法はマッカーサーによる押し付け憲法であるので、できるだけ早くわが国の自主憲法を作ることが肝要である。私の考えでは、憲法改正で一番問題にすべきは、前文でもなく、第9条でもない。第1条の「天皇」に関する記述だ。天皇はなぜ国民統合の象徴なのか。そもそも天皇はなぜ存在しなければならないのか。そういう基本的な認識論をしっかりとしなければならない。わが国の国体、すなわち・・・わが国のあるべき姿(かたち)として天皇がなければならないということを、なんとしても私たち国民の共通認識にしなければならない。現在、その辺の堂々たる議論がまったくできていないではないか。私は、そういう堂々たる議論を惹起するために、今、天皇に関する私の考えをまとめているところである。すなわち、拙著にある程度の示唆をしておいたが、目下、天皇に関する論点として、

「違いを認める文化」の象徴としての天皇

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

○ 天皇と民衆

○ 天皇家はなぜ永く続いたか

○ 歴史は終わるか?

を掲げ、考えのまとめにはいっているところだ。そして、昨日、元旦に、天皇は「空の天皇」でなければならないとして、「空」ということの意味を深く掘り下げておいた。河合隼雄は、わが国の構造は「中空均衡構造」又は「中空構造」だとしているが、私のいう「空」と・・・まあ同じだと考えていただいて差しつかえはない。

 1990年代初頭から、さまざまな学問の領域において「複雑系」に関する研究の流れが起こってきているが、その最新の研究成果を踏まえて「空」の解説をしたつもりである。家族にも「空」が必要だし、地域にも「空」が必要だし、国家にも「空」が必要だ。私の考えでは、国家の「空」は天皇である。

 家族の場合は、おばあちゃんであったり、お母ちゃんであったりする場合が多い。おじいちゃんやおやじというものは、威張って入るが、実質的には「おばあちゃん」や「お母ちゃん」を中心に動いている。今ここでは「クラウンマザー」を紹介するにとどめ、まあ、「家」と仕切る人が必要だということを言うぐらいにしておこう。河合隼雄の見解は極めて重要な指摘である。河合隼雄は、その著書「家族関係を考える」(1980年9月、講談社)の中で次のように言っている。

 『 中心に存在するものは、永遠の同伴者である。家族の成員は個性的に生きるために、他の成員によって自由を束縛されることを好まない。しかし、中心を欠いた自由は崩壊につながってゆく。そこで、これからの家族は、このような不可思議な中心をいかに見い出してゆくかという大変な課題と取り組んでゆかねばならないのである。このような考えの解りにくい人は、家族はそのときに応じて、父親なり母親なり子供なりを中心として生きてゆく、つまり家族のなかに、永遠の同伴者の顕現を感じとってゆく、と考えていいかも知れない。つまり中心となる人は固定しないのである。それはあくまで仮の中心であり、本当の中心は背後に存在している。』・・・・と。

 このように、「 本当の中心は背後に存在している。」などという言い方を聞くと、大方の人は宗教的なことを思うかも知れない。この点につき河合隼雄が何を考えているかは判らないが、私は、「先祖を敬う心」が大事である点を申し上げておきたい。 

 ちなみに、国のリーダーたる者は科学的な思索にもとづいて経済社会のあるべき姿を考えねばならない。哲学は科学であり宗教は科学でない。もちろん宗教にも、華厳哲学という言葉があるのを見ても判るように、哲学的部分が少なくないので、いちがいに宗教を非科学的という訳にはいかないが、神話と同様に、宗教については、注意深く哲学的な目でもってその内容を見る必要がある。かって私は、社会に対する遺言としてそれを書いたと思われる・・・カール・セーガンの「科学と悪霊」という本の要点を紹介したことがあるが、国のリーダーたるもの、常に科学的な思考をしなければならないものと自戒している。その上で申し上げることだが、「空」は、国のあるべき姿を考える際も、コミュニティーのあるべき姿を考える際にも、或いは家族のあり方を考える際にも、宗教的な色はできるだけ控えた方がよい。「先祖を敬う心」が大事であるであるとして、ゆめゆめ先祖の霊がどうのこうという霊能者が世に蔓延(はび)ることのないよう社会構造そのものを変えていかなければならない。祖先崇拝を云々するとき、その点は強調しておかなければならないだろう。

 

 さて、地域構造のあるべき姿(かたち)を考える際にも「空」を中心に据えなければならない。それは宗教であってはならないし、もちろん行政でもない。行政は権力であり、それとは別に権威が必要なのである。地域構造と「空」については、後ほどゆっくり考えるとして、私が今イメージしていることを申し上げておくと、それは・・・コミュニティーのなかにどのようにして権威あるNPOをつくるか・・・ということである。

 


岩井国臣の「劇場国家」!

 

謹賀新年

 ふたたび「空」について

 

 

 私のホームページ「劇場国家にっぽん」では、その中心的なテーマを「空の天皇」としている。私は、わが国の「歴史と伝統・文化」の心髄は「違いを認める文化」であると考えているのであるが、もしそうだとすれば、これは大変なことで、これからの新しい世界文明を切り開く力がわが国にあるということになる。

 私はすでに、天皇について思うこと・・それは「空」!・・・というタイトルで「空」について若干書いたが、「空」はけっして空虚なものでもないし何もないという「無」というものでもない。中沢新一がいうように、「空」は「力の充溢した空間」なのである。「空」は「力の充溢した空間」であるというのはおおよそ今までの一般的な理解とは違うのではないかと思う。しかし、私は、中沢新一の言っていることは正しいと思う。「空」は「力の充溢した空間」である。

 では、この点につき、ダライ・ラマの言っていること(言葉)を紹介したいと思うが、その前に、私なりの説明をしておきたい。「空」の説明ではない。そうではなくて、「空」は「力の充溢した空間」であるということについて、ゼロ(零)についての数学的な概念も使いながら一般に判り易い説明をしておこうかと思うのだ。

 さて、私は以前、日本人の感受性について書き、次のようにフラクタルの説明をした。

 地球上の自然がすべてフラクタル構造であるのはもちろんだが、宇宙の構造がどうもフラクタル構造らしい。竹内薫は、その著書「宇宙フラクタル構造の謎(1994年5月、徳間書店)」で、『 世の中すべてフラクタルになっていると言っても過言ではない。(中略) 我々の住んでいる巨大な銀河宇宙だってフラクタルになっている。それどころか、万物の根源であるミクロの素粒子だってフラクタルになっている。』・・・と言っている。

 フラクタルの発見は、ベンワ・マンデルブロ(イェール大学数学教授ベンワ・マンデルブロ)によるものであるが、フラクタルの発見は20世紀最大の発見と言う人もあるぐらい、フラクタルに関する科学はすばらしい。そのフラクタル理論が「日本人の感受性」の秘密を解きあかしてくれるのである。フラクタルには、黄金比に深い関係があり、結果として非定形の美にも黄金比が含まれていると言われている。日本文化は、非定形文化であり、「フラクタル文化」といってよい。

 以上であるが、「地球上の自然がすべてフラクタル構造である」ということに関して、ゼロ(零)についての数学的な概念も使いながら一般に判り易い説明をしておこうという訳だ。まずは、ゼロ(零)について、「ダライ・ラマの般若心経」(2004年9月、ジェネオン・エンタテイメント)の取材を行なった大谷孝三の解説を紹介する。彼いわく。

  〈何々が空である〉という表現を理解するには、サンスクリット語の歴史を知るのが早道だろう。紀元前四世紀、言語学者パニニは、世界最古の文法書である、サンスクリット語の文法書アシュタディヤーイの中で、サンスクリット語文法の基本を説明するのにこのシューニャを使っている。サンスクリット語の動詞や名詞は語根に接尾辞がついて様々な意味を表現する。しかし、接尾辞のない単語もある。これを〈接尾辞がシューニャである〉、すなわち〈あるべき場所に接尾辞がない〉と表現したのである。この用法を、仏教徒も数学者も借用して、それぞれ「空」と「0」を発展させたと考えられている。哲学的概念である「空」が先か、数学の「0」が先かについては議論があり、まだ決着がついていない。文献で世界最初に「0」が記録されているのは、紀元前458年8月25日の日付があるジャイナ教の文書、ロカヴィバーガであることは確認されている。

 

 ゼロ(零)に関する大谷の解説は以上のとおりであるが、彼の言うとおり、〈何々が空である〉という表現を理解するには、ゼロ(零)についての数学的な概念も使いながら、地球上の自然がすべてフラクタル構造であることを理解する必要がありそうだ。

 御承知のように、デジタルというのは二進法の世界である。0と1で書いたプログラムによって、デジタル写真が出来上がっているし、インターネットやデジタルテレビの映像が出来上がっている。つまり、デジタル写真やインターネットやデジタルテレビの映像はすべて0と1で成り立っているという訳だ。0はマイナス1とプラス1を足したものであるので、すべて0と1で成り立っているということは、とりもなおさず、世の中のものはすべてマイナス1とプラス1で成り立っているということだ。

 もし、マイナス1とプラス1のバランスがとれていれば、世の中の全体はゼロ(零)となる。もし、マイナス1とプラス1のバランスがとれていなければ、世の中の部分がゼロ(零)となる。そういったゼロ(零)の世界は、マイナス1とプラス1が数知れずあって、多様な世界をつくり出しているのだ。つまり、ゼロ(零)の世界は多様な世界である。「力の充溢した世界」なのである。

 

 それでは、いよいよ、「空」は「力の充溢した空間」であるという点につき、ダライ・ラマの言っていること(言葉)を紹介しておきたい。ダライ・ラマいわく。

 

 『「空は実に形あるものである」が表現しているのは、空は非存在を意味しないということである。空は固有の、それそのものだけで存在するものの非存在を意味している。したがって、これが意味するのは事象が互いに依拠して生成(縁起)することである。ものごとは原因と条件によって生起する。この因果関係は十分に批判に耐えるものである。この相互関係の世界では、人は原因と結果を判定することができる。この因果関係の世界は、ものごとが互いに依拠しあって生成する世界でのみ成り立つ。そして、この互いに依拠しあう世界は、独立して、それそのものだけで存在するものが存在しない世界でのみ成立する。したがって、「空は形あるものである」は、形あるものは空から生起することを意味している。空は形あるものを生成させる基盤となる。  

 

 

「ダライ・ラマの般若心経」から

「空」に関する部分については、

ここをクリックして下さい! 

 


 

天皇と民衆

 

 

 山本峯章の「天皇問題」(2005年12月、光人社)は大変示唆に富む良い本である。私の共鳴する部分が多い。例えば、『国体というのは、政体ができる以前の、国のかたちである。』、『権力は、つねに歴史の切断という牙を隠しもち、伝統や文化を断ち切ろうとする。この短絡を防ぐのが権威である。』、『(権威と権力という)二元論をふまえておかなければ、なぜ日本に天皇陛下がおられるのか、その根本原理がわからなくなる。』、『歴史の試練に耐え抜いたもの、それが、正統性(レジティマシー)である。正統性といえば、万世一系だけが強調されがちだが、2000年の歴史と、連綿とひきつがれてきた日本の文化、・・・・国体こそゆるぎのないレジティマシーといえよう。』とか、『伝統や古典、習俗などの文化(中略)を根幹でささえているのが、文化の象徴としての天皇である。』 ・・・・などという部分は、まったく正しいと思う。私も同感である。しかし、山本峯章はある部分で重大な勘違いをしているようなので、以下に、今まで私がこのホームページ「劇場国家にっぽん」で述べてきたところを再掲し、誠に簡単ではあるが、私の意見具申としておきたい。では・・・・。

 

 私は先に、次のように述べた。すなわち、

 『 保元(ほうげん)の乱は武家社会を語る上でも天皇制を語る上でも欠かすことのできない重要な歴史的事件であるが、私はとりわけ崇徳(すとく)天皇が言ったといわれる・・・天皇自身の言葉(天皇制否定の心情)に注目している。大岩岩雄の「天狗と天皇」(1997年、白水社)には次のように書かれている。

 天皇を民衆とし、民衆を天皇とする(「皇を取て民となし、民を皇となさん」)という崇徳の逆転宣言は、痛烈な天皇制打倒宣言であり、反逆宣言である。

 すなわち、崇徳(すとく)天皇は革命的な思いを抱いたのではあるが、それはそのとき限りのもであって、天皇制打倒の動きなどまったく出てくる由(よ)しもなかった。

註:崇徳(すとく)天皇については、このページを参考にして下さい!

 保元の乱は、平治の乱に繋がり、やがて承久(じょうきゅう)の乱へと繋がっていくのだが、北条泰時(ほうじょうやすとき)は、後鳥羽上皇を配流にするけれど、天皇制そのものは維持している。崇徳(すとく)天皇の天皇制打倒宣言を根拠に天皇制を廃止することもできたのにそれをしなかった。天皇自らが天皇制打倒宣言をしているのに北条泰時はなぜ天皇制を廃止しなかったのか、そこが問題の核心部分である。 』・・・・と。

 

 また、私は先に、赤坂憲雄の象徴天皇論に対する反論を書いたことがある。それをここに再現しておきたい。すなわち、次のとおりである。

 議論のたたき台として、私は、赤坂憲雄の象徴天皇論をとりあげたい。まずは赤坂憲雄の言っていることを紹介しておきたい。

 『 わたくしたちはすでに、戦後まもない時期の津田左右吉や和辻哲郎の一連の論考の中から、その後の象徴天皇制を基層においてささえる、もっとも重要なイデオロギーの源流を掘り起こしてきた。津田は国家や宗教との結びつきを否定し、天皇がもっていた伝統的な権威はあくまで精神的なものであるとし、<国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在意義がある>(「建国の事情と万世一系の思想」)と語った。和辻はやはり国家や国体との結びつきを否定し、天皇のおびる権威の宗教性を巧みに表層から沈めたうえで、<国民の全体性の表現者>(「国民統合の象徴」)として、<文化共同体としての国民あるいは民衆の統一(同上)の象徴としての天皇のイメージを語った。

 ふたりの思想家が、国家や宗教とはきりはなされた、文化的・精神的な象徴の位相に、新しい時代の天皇のあるべき場所をひき絞っていったことは、むろん偶然ではあるまい。国家・宗教から文化・精神への転換をはたすことによって、天皇という制度は戦後社会に生き延びてゆくわずかな方途(みち)を見出したのだ。あるいは、ふたりの思想家によって生き延びてゆく可能性を託されたのが、文化と精神という場所であったといってよい。』(赤坂憲雄「象徴天皇という物語」1990年9月、ちくまライブラリー46)

 『 しかし、歴史の中の天皇が、<何よりもまず、祭りをする人であり、この国の最高祭司としての宗教的権威を、ながく承けつたえてきた存在>(村上重良「天皇の祭祀」)であり、そのおびる宗教的権威ゆえに、歴史上つねに政治的権力=国家を掌握した勢力によって担ぎあげられる「玉(ぎょく)」のようなものであったことは、やはり否定しがたい。天皇は常民大衆の精神的な帰依の対象として、あるいは、日本文化の生ける象徴として、千数百年の歴史をくぐり抜けつつ存続させられてきたわけではない。天皇はつねに・すでに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいて、宗教や国家とともにあったのだ。伝統文化のにない手としての天皇など、所詮、宗教や国家の隙間からこぼれ落ちた表層のイメージにすぎない。』(同上) 

 

 赤坂がいうように、たしかに、天皇は常民大衆の精神的な帰依の対象として、あるいは、日本文化の生ける象徴として、千数百年の歴史をくぐり抜けつつ存続させられてきたわけではないし、天皇はつねに・すでに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいて、宗教や国家とともにあったのであろう。そして、赤坂は、伝統文化のにない手としての天皇なんてものは単なるイメージにすぎないのであって、そんなものは実際に存在したわけではないと主張する。もちろんそうだろう。伝統文化のにない手を文化的権力と呼ぶとすれば、天皇は、文化的権威であっても文化的権力ではない。天皇の権威は、政治的あるいは宗教的にもそうであるが、文化的な側面においても権力に作用するのであって、常民大衆の精神に直接作用するのではない。天皇はつねに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいてさしつかえないのである。

 

 以上のように、天皇は、庶民とはかけ離れたところにおられたのであって、山本峯章が言うように庶民と身近なところのおられてのではない。山本峯章は、「天皇問題」(2005年12月、光人社)の中で、「(平安時代に)戦乱がなかったのは天皇の権威が、当時、すでに地方にまで及んでいたからであり、文化が栄えたのは、民が権力のもとではなく、権威のもとでくらしていたからである。」とか「民のために天に祈るという神事をとおして天皇が民の側に立ったため、権力よりもつよく、もっと徹底したかたちで国体が民の心に浸透していった。」などと述べ、「 国民イコール天皇なのである。」とまで言っているが、これは彼のイデオロギーであって、おおよそ事実とは違うのでじゃないか。

 その点についていえば、沖縄やアイヌはもちろんのこと、かって蝦夷といわれた現在の東北地方の人びとは、おおよそ天皇を身近に感じながら暮らしていた訳ではない。ここがいちばん大事なところである。私は、沖縄やアイヌはもちろんのこと、かって蝦夷といわれた現在の東北地方の人びとにとっても、現在の天皇は・・・やはり「自分達の歴史と伝統・文化」の象徴である・・・と感じている思うのである。私は、沖縄やアイヌはもちろんのこと、かって蝦夷といわれた現在の東北地方の人びとにとっても、「歴史と伝統・文化」とは、世界に誇りうる「違いを認める文化」であり、「わびさび文化」であり、中沢真一いうところの「流動的知性」にもとづく縄文文化なのである。もし、彼がそういう意味で「 国民イコール天皇なのである。」というのなら、それはそのとおりである。

 庶民が天皇を求めたのではない。権力者たちが天皇を求めたのである。わが国は、わが国独特の地形などの自然的条件から、或いは権力者がその権力をもつに至った歴史的経緯などから権力がある程度分散せざるを得なかったのではないか。もちろん庶民の感覚や思想がその根底にあったであろうが、天皇が今まで永く存続し続けてきた必然性を、権力者との関係を分析・説明せずに、直接、庶民との関係から説明するのは如何なものであろうか。天皇の権威は、政治的あるいは宗教的にもそうであるが、文化的な側面においても権力に作用するのであって、常民大衆の精神に直接作用するのではない。天皇はつねに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいてさしつかえないのである。

 再度申し上げる、庶民が天皇を求めたのではない。権力者たちが天皇を求めたのである。天皇の権威は、政治的あるいは宗教的にもそうであるが、文化的な側面においても権力に作用するのであって、庶民の精神に直接作用するのではない。天皇はつねに、庶民からはるかに遠い雲上界にいてさしつかえないのである。山本峯章の論説は、この天皇と庶民との関係さえ修復されれば、すばらしい論説になっていると思う。なぜ、天皇がかくも永く続いてきたのか、そのことのもつ意味をきっちり説明することは極めて重要である。

 

 前に申し上げたように、 天皇は、時により権力闘争に巻き込まれながら、その時代その時代に応じた姿で日本の歴史を生き抜いてきた。上記のように政治的権威に裏打ちされながら、天皇家はかくも永く続いてきたのである。天皇を中心とした永い歴史というものがあって、はじめて、現在の日本があるし、未来の日本がある。 

 さて、歴史があるからこそ伝統・文化がある。歴史と伝統・文化は一体のものである。したがって、歴史という代わりに「歴史と伝統・文化」という言葉で言い替えても差し支えないだろう。上記のように、日本の歴史というものは天皇との係わり合いの中で推移してきた。したがって、『 天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴である。』と言い得るのである。

 ところで、日本の歴史のもっとも誇りうるものは何か。それは日本の歴史の底流を流れる日本民族の精神文化であろうが、私が思うに、それは「違いを認める文化」である。日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は「違いを認める文化」である。天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であるが、これを言い換えれば、天皇は「違いを認める文化」の象徴でもあるということだ。わが国は「違いを認める文化」の象徴である天皇を戴いている。「空」の天皇である。これは何とすばらしいことか。

  山本峯章は、冒頭に述べたように、「天皇問題」(2005年12月、光人社)の中で、『伝統や古典、習俗などの文化(中略)を根幹でささえているのが、文化の象徴としての天皇である。』と言っているので、文化の象徴としての天皇ということについて、再度強調しておきたい。前に述べたように、「違いを認める文化」と「わび・さび文化」とは同じことである。日本文化の特徴に・・・山折哲雄が言う「無常の旋律」というものがある。「無常の旋律」というものは、私は、結局、「わび」、「さび」、「風流」、「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題・・・・に通底する問題である。そして、そういった「日本人の感受性」というかわが国の「違いを認める文化」が、世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」をもたらすのではなく、未来の世界文明を切り拓いていく・・・と考える次第である。

 


註:天皇論の論点整理

「違いを認める文化」の象徴としての天皇

「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

○ 天皇と民衆

○ 天皇家はなぜ永く続いたか

○ 歴史は終わるか?

 


 

天皇にもっと自由を!

 

 

 天皇の周辺には、皇室の代表数名と有識者数名から成る御前会議が必要である。私は、天皇とは、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であり、天皇にはわが国の「伝統・文化」をもっとイキイキと生きてほしいと思っている。天皇の私的行為があまりにも窮屈過ぎると思うからだ。もちろん、私的行為といえども、内閣の責任の責任があるので、まったく自由という訳にはいかない。だから御前会議で審議するのだ。「天皇の自由」の問題は、いずれ憲法論議の中で議論しなければならない問題であると思う。「空の天皇」である象徴天皇は、権力を超えたところにおられ、権威に生きる存在である。通常は「物言わぬ天皇」であるのだが、幸明天皇がそうであったように、「歴史と伝統・文化」を生きるうえで極めて由々しき事柄が起こったときは、御前会議に謀(はか)り、天皇は内閣に助言をすべきである。私としてはそこまで「天皇の自由」を拡大すべきと考えているのだが、これは憲法論議の中で議論しようという訳だ。

 憲法に天皇の国事行為は定められているが、天皇以外の皇室については何の規定のない。皇室典範などの法律にも何ら規定がない。天皇の御家族として、必要に応じ、天皇と行動をともにされたり、天皇の補佐的な仕事をされる。私的行為と公的行為(以下、公務という。)との区別が必ずしもはっきりしないが、皇室の行なう公務とは、昭和40年4月21日の衆議院内閣委員会の答弁にあるように、「天皇の公的行為と同じように、政治にわたらないもので、国民のために行なわれるものであるが、それは内閣の責任において行なわれる。」というものであろう。ここで、内閣とは、一義的には、宮内庁と考えて良いので、結局、皇室の公務は宮内庁の責任で行なわれるということになる。皇室の公務を御前会議にかけるという訳にはいかないような気もするが、それでは・・・、勢い、皇室の公務は宮内庁の意志で定まるということになるであろう。それでは「皇室の自由」が妨(さまたげ)られる。問題は、宮内庁がわが国の「歴史と伝統・文化」を十分に認識できているかどうかであって、私は、然るべき宮内庁改革が必要だと痛感している。皇室の公務に関しても、御前会議若しくはそれに代わる審議組織が必要だ。

 御前会議若しくはそれに代わる審議組織が国民に開かれたものであるためには、有識者の選定もさることながら、わが国の「歴史と伝統・文化」についての議論が、国民に開かれた形で、もっと幅広く行なわれるようにならなければならない。

 文化観光との関連も考慮して、国土交通省もそういった議論の「場」を提供するのが良い。もちろん、文部科学省を中心として、各省庁はそれぞれの立場で・・・わが国の「歴史と伝統・文化」に関する取り組みを行なうべきである。国土交通省としては、文化観光という立場から、そういった議論の「場」を提供するのが望ましい。

 文化観光を重視する意義には、もちろん経済的な側面もあるが、世界平和のためでもある。平和的な国際貢献という観点からいえば、外国観光客にできるだけ日本の「歴史と伝統・文化」というものを知ってもらう必要があるのである。私は、文化観光を推進するインフラ整備は、「天皇及び皇室の自由」を確保するインフラ整備とも重なっているとおもう。国土交通省が提供するそういった議論の「場」における議論が・・・先の御前会議若しくはそれに代わる審議組織に反映されればすばらしい。例えば、私が奈良講演(平成18年2月の予定)で訴えたいと考えている・・・わが国の「違いを認める文化」というものは、先に述べたように、「わび・さび文化」でもあり、また山折哲雄のいう「無情の旋律」でもある。そういった「日本人の感受性」というかわが国の「違いを認める文化」が、世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」をもたらすのではなく、未来の世界文明を切り拓いていく・・・と私は考えている。

 世界平和をという観点から、皇室は、わが国の「伝統文化」の維持保全の先頭に立って欲しい。それが私の願いであるが、実は、宮中の儀式と関連した古来の伝統技術が消えかかっているのである。わが国の「歴史と伝統・文化」を生きるという立場からいえば、これは由々しき問題で、早急に何とかしなければならない。緊急事態である。とりあえず、わが国の「違いを認める文化」について議論を始めるが、実は、わが国の「歴史と伝統・文化」を語るということは、わが国の「違いを認める文化」を語ることであり、また「日本人の感受性」を語ることでもある。さらに言えば、わが国の「伝統文化」の象徴としての「宮中の儀式と関連した古来の伝統技術」を語ることでもあるのである。わが国の心ある有識者は、わが国の「違いを認める文化」に重大な関心をもつとともに、少なくとも、そういった宮中の儀式と関連する「匠の技(わざ)」にも重大な関心をもって欲しい。

 

 「空の天皇」の周辺環境整備の奥は深い。「空の天皇」にもっと自由を与えてほしいと願っている!

 


「違いを認める文化」と「わび・さび文化」

 

 

 私は先にも述べたが、 少しそれを補強し、哲学的には「違いを認める文化」と「わび・さび文化」とが同じことであることを説明しておきたい。

  日本人がこれほどまでに自然の造形にこだわった理由はいったい何であっただろうか? それは、日本における四季折々の自然又は気象、そして複雑な地形や地質といった自然・・・・、それらに順応した生活に起因するのであろう。日本人は、そういう生活の中で、豊かな自然の姿や形に美を見いだし、人の手で再び自然を写し取ったり「見立て」や「借景」といった日本人独特の自然に対する接し方を会得して、やがて日本人独自の美意識を育み、日本文化を支える美学が成立したのである。自然を観察する日本人の細やかな情緒性が野辺に咲く山草、雑草や小動物にも目を向け美の対象とした。すべて自然のお陰である。 

 そういった「日本人の感受性」をフラクタル幾何学によって分析すれば、自然における「非対称アシンメトリー原理」にあることが判っている。西洋の美意識が左右対称、いわゆる対称シンメトリーであるのに対し、日本のそれは左右非対称、非対称アシンメトリーであるといわれる。一分の隙もなく完成された左右対称ではなくあえてセンターをはずすことで、完成ちょっと手前の状態にするのが良いとされる。完璧につくってしまえば、あとは崩れてゆくだけでその先がないから。思えばこの「もうちょっと感のある完璧」は、人にも当てはめられるような気がする。隙のない完璧を目指す必要はないし、目指したとしてもどだい無理なこと。「ここがもうちょっとだなぁ」をいくつか抱えながらも凛として、地に足のついた自分でいられれば成功といえるのではないだろうか。人として目指すべきは「日本的完璧」である、

 自然の構造はフラクタル構造であり、そこには「非対称アシンメトリー原理」が働いているのである。茶の湯文化の茶室の曲がった柱、形がいびつ、ひび割れたうわぐすりが均一でない陶芸作品などは、すべて、非対称アシンメトリーであり、フラクタル構造で表現できる。

 ちなみに、地球上の自然がすべてフラクタル構造であるのはもちろんだが、宇宙の構造がどうもフラクタル構造らしい。竹内薫は、その著書「宇宙フラクタル構造の謎(1994年5月、徳間書店)」で、『 世の中すべてフラクタルになっていると言っても過言ではない。(中略) 我々の住んでいる巨大な銀河宇宙だってフラクタルになっている。それどころか、万物の根源であるミクロの素粒子だってフラクタルになっている。』と言っている。

 フラクタルの発見は20世紀最大の発見と言う人もあるぐらい、フラクタルに関する科学はすばらしい。そのフラクタル理論が「日本人の感受性」の秘密を解きあかしてくれるのである。フラクタルには、黄金比に深い関係があり、結果として非定形の美にも黄金比が含まれていると言われている。日本文化は、「非定形アシンメトリー文化」であり「フラクタル文化」といってよい。

 

 日本人は、古代から、その中沢新一のいう「流動的知性」によって、ありのまま自然と響きあって、日本人独特の感性を育ててきた。感性だけではない。考え方、すなわち思考もそうだ。レビーストロースの「野生の思考」といっていいだろう。

 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だと言ってきている。「違いを認める」ということは、上記の文脈でいえば、「非対称アシンメトリー原理」が働いているということであり、「流動的知性」が働いていることである。「流動的知性」が働いているという点から言えば、「わび・さび文化」と言っても或いは「イキの文化」と言っても、それらは同じことでもある。それが「日本人の感受性」である。

 フラクタルから「日本人の感受性」を説明している人はそう多くはないが、ここでは、三井秀樹の語る「日本の美意識」と・・・・藤原歳久の語る「日本の美意識」を紹介しておきたい。私が言いたいのは、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は・・・・、「違いを認める文化」だが、それは「わび・さび文化」でもあり、また山折哲雄のいう「無情の旋律」でもある。「日本人の思考」や「日本人の感性」といいうものは、自然がそのまま現れるのである。自然がそうあらしめるのである。そう、それが流動的知性というものだ。

 

 それでは、山折哲雄のいう「無情の旋律」を思い起こすために、前に書いた「歴史は終わるか?」というページを再掲しておく。山折哲雄のいう「無情の旋律」についてもう一度じっくり考えてみよう。

 私は前に、『 けばけばしい看板や傍若無人な電柱は、少なくとも観光の「道行き」ではただちに排除しなければならない。日本人のこころというか「日本人の感受性」が正しく伝わるかどうかは、中沢新一の「モノとの同盟」を進める上で、つまり世界平和を実現する上で、基本的な大問題なのである。』・・・・と述べ、『 21世紀になり、日本人がかつて美意識の拠り所にしていた「わび」、「さび」、「風流」などといった、造形的な美しさに加わった感受性の重要性が問われている。私は、現代社会において・・・そういった「日本人の感受性」がよみがえる事が世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」ではなく、未来の世界文明を切り拓いていくと考えている。』・・・・と述べた。

 また、中村雄二郎は、その著「エッセイー集2・哲学的断章(1993年9月、青土社)」の中で、『 日常化された社会生活のリズムの彼方に、文化のリズム、自然のリズムを再発見して行くのが、芸術(art)というものであろう。そして、狭い意味での芸術だけでなく、思想も学問も哲学も、自分自身の中での、文化のリズムや自然のリズムの新たなる接触なしには、真に創造的であることはできない。空間的なもの、視覚的なものに囚われたイメージ論は、時間的なもの、聴覚的なもの、さらにはその他の身体的諸感覚の働きを考慮に入れたリズム論によって、解放され、深められ、展開されるはずである。また、リズムというものがイメージを含んだものであれば、自然のリズム、文化のリズム、社会生活のリズムの重層的な構造から成り立っているリズムの問題、しかも集団面と個人面とをともに持っているリズムの問題は、その点からも言語の問題と重なってくる。 』・・・・・と言っている。

 

 以上のように、「わび」、「さび」、「風流」、「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題は、日本の歴史的な大問題であるばかりでなく、未来の世界文明が切り拓かれるかどうかの人類の大問題なのである。こういうと、誇大妄想的な・・・と思われる方も少なくないであろう。そこで、以下において、山折哲雄の著書「日本文明とは何か・・・パクス・ヤポニカの可能性(平成16年11月、角川書店)」

 

 フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」という問題意識が、急激に歴史の上に登場してきているが、山折哲雄はこれに関して次のように述べている。

 『 私の疑問というのは、こうだ。フクヤマ氏のいう通り共産主義の崩壊と冷戦構造の消滅によって、たしかに「リベラルな民主主義」が最後に生き残りうる統治形態として歴史の最後の段階に浮上してきた。それはそれとして認めるとしよう。しかしながら氏のいうその「リベラルな民主主義」は、これまでの多くの歴史観がしばしば主張してきたように、はたしてこの地球上の各地に噴出してきた「民族」的な紛争要因と「宗教」的な紛争要因までをも克服し、制圧することに成功するであろうか。近代文明が発展し、近代化のための諸装置がととのえられていくにつれて、それらの紛争要因を、完全に根絶するところまではいかないにしても、せめて馴致(じゆんち)しコントロールすることに成功するであろうか、という疑問である。

 考えてみるまでもないことだが、これまでの歴史観や文明史観の多くは、それが社会主義の理論にもとづくものであれ、そうでないものであれ、「近代」の段階に入る過程で前近代的な「宗教」と「民族」の要因がいずれ克服され、極小化の方向をとるのだ、と主張してきた。けれども、そのような歴史記述の常道は、今後もそのまま生きつづけていくのであろうか。そのような楽観的な「近代」歴史観は、その歴史解釈の真実性をこれまでと同じように今後も維持しつづけることができるのであろうか。

 われわれは冷戦構造が崩壊したあとの世界の歴史的動向が、パレスチナ紛争、チェチェン紛争、湾岸戦争やイラク戦争をみるまでもなく、世界の各地で民族と宗教による絶望的な対立の状況を生みだしていることを知っている。これまでの楽観的な近代史観や文明史観が危殆(きたい)に瀕(ひん)している現場をみせつけられ、そのような歴史観を再検討せざるをえない状況に立たされているのではないだろうか。』・・・・と。

 

 『 コジェーブは、「動物性」に逆行しつつある「アメリカ的生活様式」の普遍化、世界化に警告を発していたのだ。(中略)・・ そして驚くべきことに、そのように書きつけた直後に、かれは「日本」の問題なるものをもち出している。「アメリカ的生活様式」とは正反対の道をすすんだ「日本の文明」のモデルをわれわれの眼前につきつけるのである。能楽や茶道や華道などの、日本特有のスノビスム(上品振舞い)というテーマがそれである。(中略) 

 能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスムの頂点(これに匹敵するものはどこにもない)は上層富裕階級の専有物だったし今もなおそうである。だが、執拗(しつよう)な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている。(中略)

 最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、日本人を再び野蛮にするのではなく、(ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。 』・・・・と。

 

 『 眼前に迫りくる世界のグローバリゼーションの大波に抗して立ちつづけようとするとき、すでにわれわれ自身があのサバイバル・セオリーにがんじ搦(がら)めになっている自画像がみえてくる。「最後の人間」からの脱出口を探し求めて右往左往しているわれわれの自画像だ。 とすればわれわれははたして、かつて平安時代の三五〇年、江戸時代の二五〇年において実現されたあのパクス・ヤポニカの戦略を今日この手で取りもどすことができるのか。明治無血革命を可能にした思想的エネルギーを新たに回復することができるのか。そのように思い屈するとき、この時代の強大な風圧の下からあの無常セオリーの旋律がきこえてくる。「平家物語」の無常の旋律である。(中略)

 生き残り戦略と無常戦略の対決、そして相互克服の問題である。「歴史の終わり」をのり越えていく第三の道にかかわる問題といってもいい。それによって「最後の人間」観を塗りかえる転機をつかむことができるかどうか、ということだ。換言すれば、ここでいう生き残り戦略と無常戦略の相反する旋律が、今後はたして調和のとれた二重奏を生みだすことに成功するかどうかということである。(中略) 

 われわれは今日、まさに世紀の分岐点に立たされていると思わないわけにはいかないのである。 』・・・・と。

 

 山折哲雄が言う「無常の旋律」というものは、私は、結局、「わび」、「さび」、「風流」、「粋(イキ)」などといった「日本人の感受性」の問題・・・・に通底する問題であると思うのである。そして、そういった「日本人の感受性」というかわが国の「違いを認める文化」が、世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」をもたらすのではなく、未来の世界文明を切り拓いていく・・・と考える次第である。

 


 

いよいよ「愛の通貨」!

 

 

 私は、地域通貨のことを「愛の通貨」と呼んでいる。いよいよ「愛の通貨」について本格的な勉強を始めるときがきた。ところで、「愛」ということだが、その哲学的な意味を私はまだ知らない。目下、私は、「空」について勉強しているところである。いずれは、「愛」についても哲学的な勉強をしたいと思っているが、とりあえずここでは、ダライ・ラマが・・・「愛は相手が幸せになることを願う心だ」「愛によって、私達がつくり出した問題は解決していくのではないでしょうか」・・・・と言っていることを紹介しておきたい。「愛の通貨」は、市場原理の渦巻く世界において、現在、生じているさまざまな社会問題を、多分、解決してくれるであろう。「愛の通貨」によって、市場原理の渦巻く世界にあっても、多分、生き生きと生きていける筈だ。

 小泉改革も進んできていろんな歪みが顕在化してきた。私は小泉改革には基本的に賛成である。しかし、諸般の改革を進めながら顕在化するいろんな歪みに対し必要な対策を講じていかなければならない。いろいろな対策があろうかと思うが、私としては、根本的な問題をいろいろと考えてきた結果、中沢新一の「モノとの同盟」こそそれを解く鍵であるとの結論に達した。

 「モノとの同盟」を実現するには、「和のスピリット」と「空の天皇」と「愛の通貨」が一体で実現されていかなければならない。「モノとの同盟」を支える精神は「和のスピリット」であるし、「モノとの同盟」を可能にする社会というものは「空の天皇」からなる国の姿(かたち)でなければならない。「和のスピリット」から始まり「空の天皇」についていろいろと勉強してきた。いよいよ「愛の通貨」を勉強するときがきた。「モノとの同盟」とは、経済でいえば「市場経済と贈与経済の同盟」ということであるから、私は、いよいよ贈与経済の問題と取り組もうという訳だ。

 

 まだ、「空の天皇」も勉強すべき点が残っている。しかし、ここらで一応、区切りをつけて(平成17年12月)、ひきつづき「空の天皇」を勉強しながらあわせて「愛の通貨」についても少しづつ勉強を始めたいと思う。しばらくは、WhatsNewにおいて、「空の天皇」に関する記事と「愛の通貨」に関する記事が混在することをお含み願いたい。

 

 今アップされている「空の天皇」は、次のとおりである。

●はじめに(憲法改正について)

●空の天皇

●明恵の思想「あるべきようは」

●「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇

●淳仁天皇の怨霊

 WhatsNewにおいて・・・、今まで一年ほどかけて書いてきたもの及び今後最終的なまとめとして書き上げるものを、逐次、上記のものに追加して、できるだけ早く「空の天皇」というページを完成させたい。

 私は、ボランティア活動の普及には、天皇及び皇室の私的活動が必要ではないかと考えている。天皇及び皇室と国民との関係を歴史的に考察するとき、その姿(かたち)は、契約の関係ではなくて、贈与の関係であったのではないか。権力から距離をおいて権威に生きる天皇及び皇室・・・、その天皇及び皇室がわが国の「歴史と伝統・文化」を生きるということは、多分・・・そういう国民との贈与関係を強めるということではないかと私は思うのである。贈与関係というものは、哲学的にたいへん意味深いものであり、また実社会においてもたいへん面白い関係である。 私は、「空の天皇」と「愛の通貨」とは密接な関係があると思うのである。

 

 さて、「愛の通貨」については、一年ほど前に、次のように書いた。すなわち、・・・

 『「劇場国家にっぽん」・・わが国の姿(かたち)の「あるべきようわ」』のいちばん難しい問題は、貨幣の問題、言い換えれば「地域通貨の問題」であります。「モノとの同盟」を実現するには「地域通貨」が欠かせません。国内問題でいえば、農山村の「活充化」を実現するには、どうしても「NPO」の活躍が必要ですが、それを支えるのが地域通貨です。

 なお、土地は経済活動を支える基本財ですが、私的財はともかく、公共財は、「利子のつかない交換貨幣(地域通貨の交換のために日本銀行が発行する交換貨幣)」で取引が行なわれる必要があるようです。

 経済活動は、市場原理にもとづく通常の経済活動と・・・どうもその範疇には入らないボランティア経済活動というか贈与経済活動に分けるのが良い。一国二制度・・ですね。中沢新一いうところの「モノとの同盟」の経済システムです。したがって、貨幣も「利子のつく貨幣」と「利子のつかない貨幣」の二つが流通する訳です。

 公共工事において、その用地は、土地収用法が適用され得ることを見て明らかなように、土地所有者は金もうけのために土地を手放すのではない。もちろん、通常の評価額より高額で譲渡されるべきだと思いますが、土地所有者は、公共事業のために手放すのであり、その精神はボランティアの精神というか贈与の精神であります。したがって、支払いは「利子のつかない貨幣」で行なうのが合理的なのです。坪当たり10万円の土地ですと、「利子のつかない貨幣」12万充(じゅう)が支払われますが、それは両替えして10万円プラスアルファーの充分な補償額を手にすることもできます。金もうけのしたい人はそのように両替えすれば良いのです。金もうけを望まない人は、12万充(じゅう)のまま持って、贈与経済の世界で公共サービスを購入すれば良いのです。

 なお、一生懸命金もうけに励んできた人があるときボランティア精神に目覚め、贈与経済の世界に入りたい場合は、たとえそれがジョージソロスのような金もうけの権化のような人であっても、寄付をするという気持ちになれば良いのです。つまり、円を充(じゅう)に換算するときは、為替レートが低いのです。10万円が8万充(じゅう)にしかならない。その差額は、今までの罪滅ぼしをして贈与経済の世界に入るための寄付みたいなものでしょう。

 当面、地域通貨の使い道を広げるために、ボランティア活動によるサービスの他、公共の宿泊施設など様々な公共サービスの利用に際しても、原則的に、地域通貨で支払うようにすれば良いと思います。

 地域通貨は、それぞれの地域で勝手に発行している通貨でありますが、それが全国に流通しうるように、適当な為替レートで両替えでいるようにすれば良いと思います。円と充(じゅう)と両替えするときだけ、両替えする方が損をするようにしておけば良い。損というか贈与の精神ですね。寄付が考慮されていると考えても良いでしょう。

 この「利子のつかない交換貨幣」は、もちろん地域通貨の発行量に応じて発行されます。日銀が発行するのです。ところで、地域通貨の発行量は、公的なサービスを含めて、NPO等の活動が活発かどうかに係わっていますので、結局は、「利子のつかない交換貨幣」の発行量もNPO等の活動次第ということになります。NPO等の活動が活発になればなるほど、「利子のつかない交換貨幣」の発行量は増えていきます。公共用地はそれで取得し、その分だけ国の累積債務を減らしていくことが可能になる。地域が生き返り、国の累積債務も減少させ得る。まさに、「利子のつかない交換貨幣」は、わが国の救世主になるのです。

・・・・と。

 

 また、以上に続いて、次のようにも書いた。すなわち、・・・

 公共用地という公共財について、国及び公共団体は、原則として、利子のつかない「愛の通貨」(仮に、充(じゅう)と呼ぶ。以下に同じ)で購入することにする。そして、公共サービスについて、国民は、原則として、その「愛の通貨」(充)で購入する。

 もちろん、充は、円に換算できるが、その換算のレートはいろいろなことを考えて一工夫も二工夫もしなければならないだろう。100円を充に換算するときは80充、100充を円に換算するときも80円・・・などといえば、おおかたの人の感が狂うかもしれない。充の独自の世界を作らなければならないので、円を充に換算するときは然るべき寄付が必要であろうし、充が自由に流通するには円に換算しにくい仕掛けにしておかなければならない。そのような理由から、円と充は一対一に対応はしない。一国二通貨制度であるのその必要はないだろう。

 公共用地の購入にあたっては、もちろん、円換算で相場額が地権者の手許に残るように、充(じゅう)で支払う。円に換算するか充のまま使うかは、地権者の自由である。いちど円に換算してしまって、あとで充に両替えして使おうと思っても、100円で80充にしかならないので、損をする。できるだけ充のまま使った方が有利である。そういう仕掛けを作るわけだ。

 もちろん、充(じゅう)という通貨は日本銀行が発行する。公共事業は、用地について日銀が充(じゅう)で購入することになるので、そのぶん事業費(円)は安くなる。その分、財政再建に寄与できるわけだ。

・・・と。

 

 上記の記述にあわせ、「地域通貨」について「エンデの遺言」を紹介した。「エンデの遺言」はわが国にも大変大きな衝撃を与え、現在いろんな地域で「地域通貨」の試みが始まっている。世界の動きもある。それらの一部についても紹介ずみであるが、その後の動きもあるので、今後、逐次、紹介していきたいと考えている。今日ここでは、上記の記述に関連し、その補足的な説明をしておきたい。

 私は、「地域通貨」について、三つの段階を考えており、上記の記述は第3段階の話である。第1段階は、試行段階であり、ともかく何でもいいから、それぞれの地域が思い思いに「地域通貨」または商品券を発行する段階である。コンセプトは「地産地消」である。それが現段階であり、私としてはもう少し全国的な普及を図りたい。第2段階は、地域連携の段階であり、各地域の「地域通貨」の交換が可能となるように然るべき調整を行なう段階である。コンセプトは「地域連携」である。第3段階は、上記のように、日本銀行が「充(じゅう)(仮称)」を発行するという・・・制度的に「一国二通貨制度」ができる段階である。この段階では、原則的に、国は「充(じゅう)」で公共用地を購入できるし、国民は「充(じゅう)」で国立病院等国のサービスを受けられる。もちろん、各地域の「地域通貨」とは交換が可能であり、地域のさまざまなサービスも受けられる。第3段階では、地域レベルの公共事業ないし公共財事業は「地域通貨」でできる筈である。「地域通貨」は、地域が自主的に適正量を発行し、ボランティア的な仕事をどんどんつくり出していくであろう。地域医療や地域介護等の公共サービスも「地域通貨」によってはじめてイキイキしたものになる。

 

 それでは、いよいよ「一国二通貨制度」を目指して・・・私たちの活動が始まる。これから1〜2年を目安に、実践活動をやりながら「地域通貨」について本格的な勉強を始めようという訳だ。 いよいよだ!!!  juuu-netをはじめできるだけ多くの団体の協力をお願いしたい!!!  そこで、私の「地域通貨」に関する実践活動をすすめる場合のいくつかのイメージを明らかにしておきたい。

イメージ1:民間でできるものはできるだけ民間でやる。現在、市場テストということが言われ始めているが、どうしても民間でできない部分を公共でやるのがいい。

イメージ2:公共でやるものについても、できるだけPFIでやるのがいい。「地域通貨」はあくまでも補助的なものであって、全体の社会経済活動を100%としたとき、「地域通貨」の受け持つ部分はせいぜい10%〜20%位でなかろうか。

イメージ3:民間でもできないし公共でもできない場合、「地域通貨」でともかく先鞭をつけ、それを追いかけるようにPFIが引き受けるというケースが理想的である。PFIは民間主導の公共サービスである。

 

註:PFIについては、5年ほど前に「自由の広場」で発言した私の考え方を是非ごらんいただきたい。

 


 

「違いを認める文化」の象徴としての天皇 

 

 

 天皇は、時により権力闘争に巻き込まれながら、その時代その時代に応じた姿で日本の歴史を生き抜いてきた。したがって、天皇の歴史を語ることは日本の歴史を語ることに通じる。つまり、天皇を中心に歴史が刻まれてきたと言っても過言ではなかろう。大和朝廷を中心に歴史が刻まれてきたと言っても同じことだ。もっと正確に言うならば、天皇につながる人びととともに日本の歴史が刻まれてきたということだろう。日本の歴史というものは、天皇との係わり合いの中で推移してきたのである。

 

 ところで、天皇家はなぜそれほど永く続いたのであろうか。この点については格好の本がある。横浜市立大学教授・今谷明の「天皇家はなぜつづいたか」(1991年12月、新人物往来社)という本だ。そのなかに、赤坂憲雄、阿部泰郎、今谷明、山折哲雄、横井清によるパネルディスカッションが掲載されていて、今谷明が的確に話している部分があるので、ここにそれを紹介しおきたい。また、この問題に関する今谷明の考えもあわせて紹介しておく。私の考えはその後で述べる。では、まず横浜市立大学教授・今谷明の「天皇家はなぜつづいたか」から・・・・。

 

義満の非暴力的手法 

山折 最初からおもしろい問題を出していただきました。なぜ皇位簒奪ができるのにしなかったか、という一番目の問題からお答えをお願いします。

今谷 そういう疑問はいままで何回も出てきていますが、ひじょうにむずかしい問題だと思います。義満としては実力行使という派手(はで)な荒療治よりも、義満一流の手法、つまり政治的な手練手管(てれんてくだ)といいますか、かっこうよくやりたかったのだろうと思うんです。たとえば自分の奥さんを准母(じゅんぼ)にするわけです。本来准母(じゅんぼ)は先皇・父帝の嫡妻、または内親王(ないしんのう)にかぎられますが、天皇家とまったく血縁のない民間の日野家の女性を押し込むわけです。そこでもう勝負はついていたと思うんです。天皇制の一番大事な血のつながりを切っているからです。批判はいっぱいあって、一条経嗣(いちじょうつねつぐ)も日記に「於戯(ああ)悲しい哉」「諂諛(てんゆ)を先となす」と書いています。また、日明貿易で義満が自分を「日本国王源道義」、あるいは「臣」と書くのですが、公家は「書き様、以ての外なり。これ天下の重事なり」と日記には書きますが、義満の前へ出たら誰一人、面と向かってこれはおかしいのではないかということをいえない。

 義満とすればそこまできてますから、軍勢率いて内裏(だいり)へ乗り込んでいくというようなことは---それが可能かどうかはちょっと微妙なところですが---たしかに物理的には可能ですが、簡単にはできないし、無理にする必要はないのではないか。つまり、自分の妻を准母にして実績を積みあげて、最後に義嗣の践祚(せんそ)、即位というところまでこぎつければ、そんなむちゃな実力行使をやる必要はないのじゃないかと思うのです。長いスケジュールがあって、義満はそれにのってやっているわけです。たとえば、鎌倉時代の承久(じょうきゅう)の変(へん)(1221)でも同じことがいえるのではないでしょうか。あのときはもっと荒っぽいやり方ですね。三上皇を島流しにして、一度も皇位に就(つ)いたことのない仁和寺宮法親王を治天(ちてん)の君にたてた。そこまでやるのなら、天皇家をつぶして北条氏が王権をにぎればいいと思うのですが、やっぱりできない。 

山折 なるほど,おおざっぱにいうと、摂関までは天皇制には血の権威があった。院政期の途中からそれが崩れる、そのへんが問題なんですな。

今谷 そうです。「氏」というのは始祖からの男系の血の同一性なんですね。ところが、「家」というのはそうではなくて養子がありうる。天皇は氏で、男系の血のつながりをたどると天照大神(あまてらすおおのかみ)にいく。だから義満もそこが薄氷を踏む思いだったと思うんです。ですから吉田孝さんはこんなことをおっしゃったんです。義満が簒奪に成功した場合、公家層にたいしてどういい逃れをしたのか。古代では男女双系制ですが、中世では男系制が定着していて、「何を隠そう順徳(じゅんとく)天皇五世の孫でござい」といったところで通じない。義満のよりどころは清和源氏以来の皇家からの庶流ということ以外にないから、義満は清和(せいわ)天皇の末裔といういい逃れをしたのでしょうかというんです。継体(けいたい)天皇は応神(おうじん)天皇五世の孫という例があるけれども、義満は准母をたてたことで男系の血筋を切ったのだというと「なるほど」とおっしゃった。男系の血筋はひじょうに強固にあって、吉田さんが、レジームとしての天皇制が動かしがたいものになっているというのはそこだと思うんです。

 しかし私はやっぱり男系制を准母で突破したと思う。広義門院の先例があって、治天は皇家とつながってなくてもなれるという一点で突破したのですが、当時の公家層はその考え方に強い不満をいだき、義満との間に軋轢(あつれき)があった。公家が不穏なまなざしでながめていても、准母のときにやっている勢いから義満のカリスマ的権威で強引に国王になったと私は考えています。しかし吉田先生は納得しきれぬようでした。

 

 

律令〜院政期の天皇 

 さて、古代天皇制の基礎を固めたのは、壬申(じんしん)の乱(らん)後に成立した天武(てんむ)政権(天武夫人の持統(じとう)をも含む)であろう。従って話の順序として天武朝から始めようと思う。周知のように大海人皇子(おおあまのおうじ)は壬申の乱の戦勝後、大臣をまったく設置せず、皇親で側近をすべて固めるという特異な一族政治を行なった。石井良助氏も言うように、天武・持統の両帝はわが国天皇史でも特異な専制君主であったといってよいと思うが、そのような天皇による専制政治を制度として定着させる、すなわちレジームとして永続化をはかる過程で、必然的に天皇の専権に大幅な制肘(せいちゅう)を加えざるを得なくなってくる。それが律令(りつりょう)体制の整備といわれる事象で、その中心になった人物は藤原不比等(ふじわらふひと)であろうとみられている。天皇直属の諸機関が太政官(だじょうかん)として組織化され、詔・勅の発布手続に於て、大臣・納言等の議政局の干与(かんよ)が大幅に盛り込まれるようになったこと等はその一、二の事例である。このように古代貴族(豪族)と天皇との間の綱引きは、時期が降るほどに前者に優位に傾き、摂関政治(王朝国家)の時代に最高潮に達した。皇位継承(けいしょう)など"一(いち)の上(うえ)"つまり藤氏長者によって意のままに操(あやつ)られた。

 ところが右の趨勢(すうせい)も院政期に入って完全に逆転した。皇家の家督者である治天(ちてん)の君(きみ)(院政を執る上皇)は皇位はむろんのこと摂関の任免権(にんめんけん)まで握(にぎ)り、かつての天武・持統・称徳(しょうとく)ら古代天皇以上に専制君主となった。しかし治天優位も140年とは続かなかった。承久(じょうきゅう)の乱によって治天後鳥羽(ごとば)上皇が流刑に処せられてから、治天の任免は幕府に左右され、その地位は専制君主から、公家、寺社、武家など諸権門の総合調整を行なう調停者的君主に変貌(へんぼう)した。武家=幕府はそのような調停者(治天)の裏で事実上の国政を振った。

 

 

象徴天皇制の萌芽 

 天皇家は、かろうじて足利氏による簒奪を免れた。それも勤王の公卿によってではなく、皮肉にも領国制を展開する守護大名たちによってである。以後、歴代の武家で天皇家の簒奪を本気で考えた者は一人もいない。あの信長ですらその形跡はない。義満の構想が如何に破天荒で画期的なものであったかがわかる。封建諸侯である宿老たちによってその利用価値を見出された天皇の地位とは、一言でいえば権力は持たないが、ある種の権威を持つという存在である。それは、今日的言葉でいえば、"象徴天皇制"の一種と呼んでもよかろう。戦後GHQが天皇制を廃止し得ず、苦肉の策としてあみ出した象徴天皇制の伝統が---もし前近代にそれがあるとすれば---義満以後の天皇、具体的にいえば当時の人物で101代めの後小松天皇以降であろう。

 ここで注意せねばならぬことは、宿老達が期待した天皇の権威には、宗教性が殆(ほとん)ど含まれていなかったことである。義満の祭祀権(さいしけん)闘争によって当時の天皇は宗教的権威も形骸化(けいがいか)されており、廃絶を免れた天皇がかろうじて手中にしていたものは、皮肉にもある種の政治的権威であった。その権威の実体とは、ときの権力が政敵打倒にしばしば利用した「治罰の綸旨(りんじ)」つまり朝敵追討の錦の御旗なのである。権力喪失後の天皇制の存在価値は祭祀王としての宗教性であるとよく言われる。しかし、15世紀以降の現実の天皇の権威に宗教性はない。だからこそ、大嘗祭(だいじょうさい)を挙行しない天皇が連綿として続き、しかも天皇としての権威を全(まっと)うし得たのである。祭祀王が存在価値ならば、どうして大嘗祭未遂天皇の存在が許されようか。大嘗会だけではない。伊勢神宮の造替(ぞうたい)も十五世紀に入って廃絶し、宮中の節会儀礼も殆んど実施不能に陥(おちい)っている。そのような満身創痩(そうい)の天皇にも、宿老の目から見れば利用価値はあるのである。その最たるものが治罰の綸旨であり、栄典としての官位の任免であった。

 義満は、康暦(こうりゃく)の政変(1379年)以後、治罰の綸旨を廃止し、美濃の乱・明徳の乱・応永の乱という手ごわい宿老相手の戦争にも天皇の権威を借りずに切り抜けた。征伐綸旨は中絶されること60年、永享(えいきょう)の乱の勃発によって復活した。国王義教は、相次ぐ諸叛乱に苦しみ、ついに後花園(ごはなぞの)天皇の袞龍(こんりょう)の袖(そで)にすがりつき、関東公方足利持氏(もちうじ)追討の綸旨を得た。一度発給されてみると、綸旨の効果は大きい。永享の乱の3年後起った嘉吉(かきつ)の変では赤松追討の綸旨が出され、もはや幕府は綸旨なくしては諸叛乱を弾圧できないほど、綸旨依存体質に犯されてしまった。

 こうして、天皇側が全く意図せぬ権威が、勝手にころげ込んできた。武家がこのような綸旨依存病に罹(かか)れば、天皇はその存続を許されたも同然である。単に維持存続ばかりでなく、天皇の政治的権威は上昇の一途をたどることになる。宗教性を失った天皇が、皮肉にも政治的権威として復活するのである。応仁(おうにん)の乱では、責任者である筈(はず)の将軍義政(よしまさ)が何の責任も負わず、何の責任もない筈の後花園上皇が帝王不徳の責(せめ)を引いて自ら出家した。この事実も天皇の政治的権威が上昇したからこそ起り得たのであって、ここに義満が苦心惨澹(さんたん)して築き上げた国王政治は、跡かたもなく崩壊(ほうかい)してしまったのである。

 戦国期の天皇制研究は最も研究の遅れている分野である。網野善彦氏の供御人(くごにん)による偽文書作成などの問題は、主としてこの時期のものだが、戦国大名と天皇の関係など、政治史の問題としては本格的には取り上げられたことがなく、依然として"式微論(しきびろん)"まがいの天皇没落説がまかり通っている。大嘗会が制度的に中絶するのもこの時期だが、その政治的意味についても評価が定まっていない。戦国期の天皇論については、いずれ別の機会に改めて本格的に取り上げたいが、一つだけ指摘しておくならば、治罰の綸旨を含め、綸旨の効力が上昇の一途をたどり、大きな力を発揮したのがこの時代だということである。幕府の文書、すなわち奉行人奉書も依然として発給されてはいるが、その範囲は畿内近国に限られているのに対し、綸旨の発給領域は全国にくまなく及んでいる。すなわち中央から出される政治文書で全国的に共通する権威を持った文書は綸旨・口宣案なのである。 

 

 今谷明の「天皇家はなぜつづいたか」かの抜粋は以上であるが、吉田孝のいう「天皇の政治的権威」は、わが国のような多神教の国、それはとりもなおさず「違いを認める文化」の存する国ということになるが、そういう国だからこそ威力を発揮したのだと思う。いろいろな価値観がある。いろいろな考えの権力者がいる。わが国の場合、その地理的条件もあって、絶対的な権力者は成立しにくい。しかも、わが国の国体は、河合隼雄がいうように「中空構造」だ。時には例外もあったが、天皇自体が「空」なのである。「空」はいろいろな価値観を超越している。「空の天皇」は並みいる封建君主を超越しているのである。「空」とはそういうものだ。 

 天皇は、時により権力闘争に巻き込まれながら、その時代その時代に応じた姿で日本の歴史を生き抜いてきた。上記ように政治的権威に裏打ちされながら、天皇家はかくも永く続いてきたのである。天皇を中心とした永い歴史というものがあって、はじめて、現在の日本があるし、未来の日本がある。 

 さて、歴史があるからこそ伝統・文化がある。歴史と伝統・文化は一体のものである。したがって、歴史という代わりに「歴史と伝統・文化」という言葉で言い替えても差し支えないだろう。上記のように、日本の歴史というものは天皇との係わり合いの中で推移してきた。したがって、『 天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴である。』と言い得るのである。

 ところで、日本の歴史のもっとも誇りうるものは何か。それは日本の歴史の底流を流れる日本民族の精神文化であろうが、私が思うに、それは「違いを認める文化」である。日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は「違いを認める文化」である。天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴であるが、これを言い換えれば、天皇は「違いを認める文化」の象徴でもあるということだ。わが国は「違いを認める文化」の象徴である天皇を戴いている。「空」の天皇である。これは何とすばらしいことか。

 

前回アップした・・・・・・・

「なぜ天皇はわが国国民統合の象徴なのか」は

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なぜ天皇はわが国国民統合の象徴なのか

 

 

 なぜ天皇はわが国国民統合の象徴なのであろうか。わが国の象徴であるから・・・ということでは、答えになっていないとは言わないが、論理的でないように思われる。富士山はわが国の象徴と考えることもできるが、富士山がわが国の象徴であるからといって富士山をそのままわが国国民統合の象徴と考えるわけにはいかない。わが国の象徴であることがただちにわが国国民統合の象徴には結びつく訳ではなさそうである。何故か。この点につき少し考えてみよう。

 

 ところで、なぜ天皇はわが国の象徴なのであろうか。『 そりゃあ決まっている。わが国は、天皇とともに歴史を刻んできたし、天皇とともに伝統を作ってきたし、文化をつくってきたからだ。 』・・・と答える人が多いかもしれない。しかし、こういう言い方はおかしい。

 わが国を、わが国民と置き換えてみよう。はたして、わが国民は、天皇とともに歴史を刻んできたであろうか。はたして、わが国民は、天皇とともに伝統や文化をつくってきたであろうか。なんとなくそのように思うかもしれないが、深く考えればこういう言い方のおかしいことが容易にわかるはずだ。たとえば、アイヌは日本人であるが、はたしてアイヌは天皇とともに歴史を刻んできたであろうか。はたして、アイヌは天皇とともに伝統や文化をつくってきたであろうか。そうでないことはすぐに判る。

 「歴史と伝統・文化」というものは、それぞれの地域にそれぞれのものがあるのであって、「違い」がある。「多」である。いっぽう、日本の「歴史と伝統・文化」というときは、それぞれの地域の「歴史と伝統・文化」の共通点をいうか、代表的なものをいうことになるだろう。共通点にしろ、代表的ものにしろ、「一」である。「歴史と伝統・文化」というものは、本来「多」であり「一」である。「わが国」とか「わが国民」というものは、ひとつがあるだけで、「一」である。「多」ではない。

 したがって、『わが国の象徴』という言い方は、国全体を意識し地域性というものを意識しない言い方であろう。いっぽう、『「歴史と伝統・文化」の象徴』という言い方は、「歴史と伝統・文化」というものが本来「一」であり「多」であることから、国全体を意識し、かつ、地域性というものも意識した言い方であると言えよう。地域性というものは大事である。「違い」すなわち「多」というものは大事である。「違い」すなわち「多」があるからこそ、統合の価値が生じてくる。国民というものは「多」であるが、天皇は「一」であり「多」である。「空」と言って良いのかもしれない。天皇は「一」であり「多」であるものの象徴でなければならない。

 

 以上の観点から言って、第1条については、『天皇は、わが国の象徴・・・云々』

と言うより、『天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴・・云々』と言ったほうが良い。天皇は、「空」であるからこそ、「一」であり「多」であるものの象徴でなければならないのである。天皇は「空」である。それが私の第1の主張である。

 

 

 第1条を書く際に論理的に明らかにしなければならないことは、天皇の象徴性を支える基盤が何か・・・ということである。次にこの点を考えてみよう。

 

 議論のたたき台として、私は、赤坂憲雄の象徴天皇論をとりあげたい。まずは赤坂憲雄の言っていることを紹介しておきたい。

 『 わたくしたちはすでに、戦後まもない時期の津田左右吉や和辻哲郎の一連の論考の中から、その後の象徴天皇制を基層においてささえる、もっとも重要なイデオロギーの源流を掘り起こしてきた。津田は国家や宗教との結びつきを否定し、天皇がもっていた伝統的な権威はあくまで精神的なものであるとし、<国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在意義がある>(「建国の事情と万世一系の思想」)と語った。和辻はやはり国家や国体との結びつきを否定し、天皇のおびる権威の宗教性を巧みに表層から沈めたうえで、<国民の全体性の表現者>(「国民統合の象徴」)として、<文化共同体としての国民あるいは民衆の統一(同上)の象徴としての天皇のイメージを語った。

ふたりの思想家が、国家や宗教とはきりはなされた、文化的・精神的な象徴の位相に、新しい時代の天皇のあるべき場所をひき絞っていったことは、むろん偶然ではあるまい。国家・宗教から文化・精神への転換をはたすことによって、天皇という制度は戦後社会に生き延びてゆくわずかな方途(みち)を見出したのだ。あるいは、ふたりの思想家によって生き延びてゆく可能性を託されたのが、文化と精神という場所であったといってよい。』(赤坂憲雄「象徴天皇という物語」1990年9月、ちくまライブラリー46)

 

 『 しかし、歴史の中の天皇が、<何よりもまず、祭りをする人であり、この国の最高祭司としての宗教的権威を、ながく承けつたえてきた存在>(村上重良「天皇の祭祀」)であり、そのおびる宗教的権威ゆえに、歴史上つねに政治的権力=国家を掌握した勢力によって担ぎあげられる「玉(ぎょく)」のようなものであったことは、やはり否定しがたい。天皇は常民大衆の精神的な帰依の対象として、あるいは、日本文化の生ける象徴として、千数百年の歴史をくぐり抜けつつ存続させられてきたわけではない。天皇はつねに・すでに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいて、宗教や国家とともにあったのだ。伝統文化のにない手としての天皇など、所詮、宗教や国家の隙間からこぼれ落ちた表層のイメージにすぎない。』(同上)

 

 赤坂がいうように、たしかに、天皇は常民大衆の精神的な帰依の対象として、あるいは、日本文化の生ける象徴として、千数百年の歴史をくぐり抜けつつ存続させられてきたわけではないし、天皇はつねに・すでに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいて、宗教や国家とともにあったのであろう。そして、赤坂は、伝統文化のにない手としての天皇なんてものは単なるイメージにすぎないのであって、そんなものは実際に存在したわけではないと主張する。もちろんそうだろう。伝統文化のにない手を文化的権力と呼ぶとすれば、天皇は、文化的権威であっても文化的権力ではない。天皇の権威は、政治的あるいは宗教的にもそうであるが、文化的な側面においても権力に作用するのであって、常民大衆の精神に直接作用するのではない。天皇はつねに、常民大衆からはるかに遠い雲上界にいてさしつかえないのである。

 天皇の象徴性を支える基盤は、わが国の「歴史と伝統・文化」にある。したがって、第1条については、『 天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴 』と書かれなければならない。これが私の第2の主張である。

 

 

 なお、今(平成17年11月17日)までのところ、「空の天皇」については、次の文書をホームページ「劇場国家にっぽん」の「空の天皇」というコーナーにアップしてきている。 

はじめに(憲法改正について)

空の天皇

明恵の思想「あるべきようは」

「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇

淳仁天皇の怨霊

天皇について思うこと・・それは「空」!

 

 しかし、「空の天皇」と憲法との関係は、今回始めて書いた。憲法第1条でなぜ『 天皇は、わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴 』と書かなければならないのか、その理由を今回初めて上記のとおり書いたのである。上記のような文書は、華厳の思想を勉強して初めてかけるのであって、私の勉強もやっとここまできたかという思いがしている。感無量である。まだこれからも「空の天皇」については書くことになると思うが、ここでとりあえず、一区切りとしたい。

 なお、華厳思想については、このまま引き続いて、一連の勉強をしておきたいと思う。もちろん、私の興味のある部分だけを紹介するにすぎないが、是非、最後まで読んで欲しい!

 そして・・・、『 天皇は「空」である。天皇は、「空」であるからこそ、「一」であり「多」である・・・わが国の「歴史と伝統・文化」の象徴である。「わが国の象徴」という言い方は、国全体を意識し地域性というものを意識しない言い方である。いっぽう、「歴史と伝統・文化」の象徴という言い方は、「歴史と伝統・文化」というものが本来「一」であり「多」であることから、国全体を意識し、かつ、地域性というものも意識した言い方である。地域性というものは大事である。「違い」すなわち「多」というものは大事である。「違い」すなわち「多」があるからこそ、統合の価値が生じてくるのである。』・・・ということを是非理解して欲しい。

 

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第二講『華厳経』のあらまし

 

1 『華厳経』の構成

 

 『六十華厳』

 『華厳経』は一種の幻想的な歌劇の趣きをもっている。ステージは「七処八会(しちしょはちえ)(七つの場所、八つの場面)と変わるのですが、それは地上から天上へ、そして再び地上へという移動です。真の主役である盧舎那仏(るしゃなぶつ)は、そのいずれのステージでも無数の菩薩や神々に囲まれて中央に位置しながら、一言も発しません。次々と前へ進み出て実際に詠い、語り、演ずるのは、周囲の菩薩や神々です。いわば『華厳経』は、「さとり」を総合テーマあるいは根本テーマとする雄大な宗教歌劇の台本なのです。

 

 『華厳経』の誕生

 しかしこの台本は、残念ながら完壁ではありません。ステージとステージ、個々のテーマとテーマとの間のつなぎが上手にいっていなかったり、終始沈黙の中にあるはずの盧舎那仏が突然やさしい教えを説き出されるように受けとられかねない箇所もあります。実をいえば、このような欠陥は、主に、『華厳経』がもともとある時期に一気に生み出されたものではなく、前述したような構想のもとに編集・増補された集成経典であるという事実にもとづいております。

 これが成立したのは五世紀の初めで、サンスクリット語で書かれたその原本は、西域のコータンにあったといいます。

 成立史の面からまとめてみると、おそらくは西暦四〇〇年前後、早くとも四世紀の後半頃 に西域のコータンのあたりに一群の大乗の人びとが教団をつくっていました。彼らは、ひたすら釈尊を慕い、釈尊のさとりの体験をどうにかして自分のものとしようと努めていました。この「さとり追体験派」とでもいうべき人びとが、宇宙を舞台にさとりの世界とそこにいたる道を明らかにするという構想のもとに、それらの諸経典を選択・収集し、さらに新しく何章かを付け加えて全体を大歌劇台本のような形に体系的に組み上げ、一経典としての体裁を整えました。----こうしてできあがったのが『華厳経』であったと思われるのです。

 釈尊を「太陽の子孫」と呼ぶことがすでに紀元前三世紀の前半、釈尊の没後百年頃までには始まっていたと思われる。

 思うに、さとりを開かれ、智慧の輝きを得られた「太陽の子孫」釈尊は、やがて太陽そのもの、あるいは太陽のはたらきによって象徴されます。そしてこの信仰に、ゾロアスター教のアフラ・マズダーの仏教版ともいうべきアスラの王ヴァイローチャナのイメージが重なり、より高められます。----『華厳経』の教主盧舎那仏は、こうして現れるにいたったのかもしれません。そしてこれが、一方においてさらに展開して密教の大日如来(マハーヴァイローチャナ)となります。ヴァイローチャナ=盧舎那は、おそらくアスラの家系から生まれ、次第に中心的な仏に成長し、いま私たちの前に『華厳経』の教主として、また密教の主尊として身を現しておられるのです。

 

 次は、第三講 学びの伝統です。

ここをくりっくしてください!

 


 

いま、読み直される『華厳経』

 

 物理学の立場から

 

 『華厳経』には、私たちがほとんど忘れかけていた重要なものの考え方が全体を貫く基調として流れています。

 そして近年、先端的な研究を進めている科学や哲学の分野の人たちの中から、こうした考え方に注目し、それを取り込み新しい方向を開こうとする研究者が出てきています。たとえば、いわゆるニュー・サイエンス運動の旗手の一人であり、現在も版を重ねている『タオ自然学』(邦訳、工作舎、一九七九年)の著者であるフリッチョフ・カプラ(Fritjof Capra一九三九−)がいます。かれは、鈴木大拙(だいせつ)博士(一八七〇−一九六六)の『華厳経』理解に強く共鳴し、

 『華厳経』の中心テーマは、すべての事物・事象の統一性と相互関連性である。この考え方は、東洋の世界観の本質そのものであるのみならず、現代物理学によって明らかにされつつある世界観の基本的諸要素の一つでもある。

と主張しております。かれがここで述べている現代物理学とは、直接には、同書の後段に細説されるように、G・F・チュー博士が提唱したブーツストラップ(靴ひも)仮説を指すようです。

 

 ところで、物理学の立場はさておき、哲学的立場については・・どうなるでしょうか? 実は、わが国の「違いを認める文化」というものを重視する私の主張の理論的根拠が華厳哲学にあるのです。

 

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華厳経を勉強しよう!

 

 私は、このWhatsNewで、天皇を語るためにまず東大寺を語っている。天皇は、日本の「歴史と伝統・文化」の象徴である。したがって、天皇のもっとも大事なところを語るということは、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄を語るということにほかならないのだが、そのためには東大寺を語るのがいちばん良いのではないかと考えているからだ。

 このWhatsNewにおける東大寺に関する記事は次のとおりである。いずれ東大寺のまとめをする予定だが、とりあえず今までのおさらいをしておきたい。

1、ぼちぼち天皇を語ろうか?

2、井手の里

3、山背古道と良弁の滝

4、東大寺の不思議

5、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄

6、法相宗と華厳宗

7、天皇に関する歴史認識

8、聖武天皇

9、比曽山寺

10、元興寺

 

 東大寺は華厳宗の総本山である。

 華厳思想については、前に、河合隼雄の著書「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)からその要点を紹介した。すなわち、『 華厳思想では、事法界、理法界など四種の法界の体系に組織化している。事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>で、そこでは、それぞれの事物は明確に他と区別されて自立的に存在している。これは「華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない」という状態である。ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見るとどうなるだろうか。限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性の茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」と呼ぶのであるが、華厳の述語によると、このように見られた世界が「理法界」ということになる。・・・・・中略・・・・・。理法界の「空」は、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。したがって、無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。・・・・「空」(「理」)の、このような現れ方を、華厳哲学の述語で「性起」と呼ぶのである。』・・・と。

 

 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄に関して河合隼雄は「心髄がないのが心髄だ!」と言っているが、私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、「違いを認める文化」であると考えている。華厳思想によれば、事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>でAにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない。違いというものをしっかり認識すべきである。ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見るとどうなるだろうか。限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性の茫々たる無差別性の空間に転成するのである。すなわち「空」の世界が「性起」するのである。「違いを認める」ということはこのことではないか。

 

それではいよいよ・・・・・・・

華厳経の勉強を始めるとしよう!

そうしよう!そうしよう!

 


10 

元興寺

 

 

 前回の繰り返しになって申し訳ないが、以前、私は、徳一菩薩(とくいちぼさつ)というページで、『 ところで、天平のころ、法相宗の大徳に神叡(しんえい)という僧がいて、大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に籠り、「虚空蔵求聞意持法(こくうぞうぐもんじほう」(虚空蔵菩薩を念じて仏智を体得する修法)を修して、仏法を原点に立ち戻らせる行を積み、これが南都仏教における一つの流行をなして、「比蘇の自然智宗」と呼ばれていたという。すなわち、徳一や空海のころすでに法相宗を中心に「山岳仏教」の芽が出ていたのであります。』・・・・と述べた。

 また、『 奈良時代初期に元興寺に来た唐僧の神叡は,吉野川の北側の比蘇寺に二十年間に亘って篭もって、虚空蔵菩薩を本尊として修行し,自然智を得たのである。』・・・とも述べた。

 

 自然智派の本拠地、それが元興寺(がんごうじ)であったのである。そこを原点として、興福寺ができ、東大寺ができるのである。ここが東大寺を理解する上でもっとも大事な点である。東大寺に古密教的な側面があるのはそのためである。

 

では、いよいよ元興寺(がんごうじ)に参るとしようか。

そうしよう!そうしよう!

 

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9 

比曽山寺

 

 

 以前、私は、徳一菩薩(とくいちぼさつ)というページで、『 ところで、天平のころ、法相宗の大徳に神叡(しんえい)という僧がいて、大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に籠り、「虚空蔵求聞意持法(こくうぞうぐもんじほう」(虚空蔵菩薩を念じて仏智を体得する修法)を修して、仏法を原点に立ち戻らせる行を積み、これが南都仏教における一つの流行をなして、「比蘇の自然智宗」と呼ばれていたという。すなわち、徳一や空海のころすでに法相宗を中心に「山岳仏教」の芽が出ていたのであります。』・・・・と述べ、そして前に、「比蘇の自然智宗」について若干の説明をした。

 比曽山寺(現在の世尊寺)に行くには、吉野行きの特急に乗って大和上市(やまとかみいち)でおりるのが便利である。大坂方面からだと吉野行きの特急で乗り換えなしでいけるし、京都方面からでも橿原神宮前で乗り換えればよい。大和上市(やまとかみいち)はタクシーがあり、タクシーを利用すれば比曽山寺(現在の世尊寺)はすぐのところだ。帰りもタクシーを呼べば10分ぐらいできてくれるのでたいへん便利である。

 大和上市は、吉野のすぐ手前にあるが、大台が原の玄関口でもある。吉野は大峰山の玄関口であり、大台が原は谷筋がちがう。大台が原には大和上市からバスで行くのである。比曽山寺(現在の世尊寺)は、吉野の入り口でもあり大台が原の入り口でもある・・・そういうところにある。

 

 いよいよ「比曽山寺」を訪れる時となりました。いよいよです。いよいよ東大寺の話も佳境に入ってきたということです。日本の「歴史と伝統・文化」の心髄を語る時がきたということです。

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これからの政治家のあり方

 

 

 私は先に、『 国民は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置といった劇場システム、関係子は役者ということになる。すなわち劇場全体の情報は、それぞれの国民からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。「劇場国家にっぽん」では、政治家が関係子となって、国民から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていくのである。それが政治家の自己生産活動である。そして、これからの日本は、そういう活動によって政治の活性化を図っていかなければならない。』・・・と述べた。

 日本の政治が良くなるためには、政治家が良くならなければならない。政治家の自己生産活動というものが大事なのである。「劇場国家にっぽん」において、政治家が関係子(メディオン)となって、国民から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていかなければならないのである。

 拙著「劇場国家にっぽん」で私がいちばん言いたかったことは、その「あとがき」に書いたが、世界のアメリカ化が進む中で、世界平和のためにはそれぞれの国の「歴史と伝統・文化」が尊重されるということが大事であり、そのためには「違いを認める文化」というものを近代文明の中にビルトインしなければならないが、その際に、日本の役割というものが極めて大きい・・・・ということだった。日本はアメリカの「後戸の神」となって、世界平和のため、アメリカの足らざるところを補わなければならない。

 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、「違いを認める文化」である。今私は、東大寺界隈を勉強しながら、そのことを語ろうとしている最中であるが、図らずも「小泉劇場」が大当たりになったので、それとの関係で「劇場国家にっぽん」における政治家のあり方に触れておきたい・・・という訳だ。この点、若い政治家には是非お考えいただきたい。

 

 上に述べたように、「劇場国家にっぽん」において、政治家が関係子(メディオン)となって、国民から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていかなければならないのである。その際に、基本におくべきは「地域」である。家族を抜きに地域はあり得ないし、地域を抜きに国家はあり得ないし、国家を抜きに世界はあり得ない。政治家の活動でもっとも基本におくべきは「地域活動」である。私は先のシンポジュームで「風土」について語ったが、もっとも言いたかったなことは、『 結局、自由の問題は、社会で最も大切にされるべき価値観とは何か・・・・という問題に帰するのではないか。社会で最も大切にされるべき価値観とは、地域の人びととともに風土を生きる・・・その充実感である。』・・・ということであった。大事なことは、政治家も「風土に生きる」ということであり、政治家たるものは「風土に生きる人びと」の声を聞かなければならないのである。

 さて、人びとは無意識のうちにも「風土に生きる」として、人びとの問題意識はさまざまである。それらさまざまな問題意識に応じてさまざまなコミュニティーができる。人びとが無意識のうちにも「風土に生きる」からには地域的なコミュニティーが基本的なコミュニティーである。しかし、人びとの関心事は、自分の職業のみならず、個人的な趣味に始まり、社会的なボランティア活動などさまざまである。つまり、コミュニティーは、地域的なコミュニティーのほかに、、職業的なコミュニティー、趣味的なコミュニティー、ボランタリー的なコミュニティーなどがある。政治家たるもの、日頃からそれらのコミュニティーに参加して、人びととコミュニケーションを重ねなければならない。人びとの思いを聞きながら、自分の考えも率直に語らなければならない。そういったコミュニケーションを通じて、「政治家の自己生産活動」というものは行なわれるのである。

 しかしながら、選挙となれば様相は一変する。短期決戦である。選挙というものは、自分のいちばん訴えたいことをできるだけ多くの人びとに訴えて、多くの人びとの感動を得るものでなければならない。時間的に、コミュニティごとに話をするということは難しい。その都度、できるだけ多くの人を集めなければならない。その際には、いろんな人がいるので、話はできるだけ単純にして、判り易いものでなければならない。そこで、参考になるのが「小泉劇場」であるが、日頃の政治活動としては、上に述べた「政治家の自己生産活動」というものが基本になることは言うまでもないであろう。

 


 

「小泉改革」の歴史的意義

 

 

 御承知のように、ここ10数年、官僚の不祥事が続いている。官官接待から始まって、業者による官僚の過剰接待や数々の利益誘導、外務省の機密費スキャンダルなどが白日にさらされ、官僚の腐敗体質が露呈された。私も、参議院の決算重視のきっかけをつくるために、自民党を代表して厚生労働省の腐敗ぶりを厳しく追求したことがある。かなり改善されてきたとはいえ今なお官僚の腐敗ぶりは後をたたない。

 よく「政・官・業の鉄のトライアングル」というが、そういう政・官・業の癒着構造の中で、実は、官がその組織力を使って官の思うように日本を動かしてきた。「官僚独裁体制」と言う人もあるが、あながち間違っていないかと思われる。そういう独裁体制であったからこそ官僚の腐敗が進んだのであろう。小泉改革は、必ずしもそういった「官僚独裁体制」を打破するものではないが、その前提として、まずは既得権というものを打破しようとしている。

 私は前に、『 世界は、グローバルな時代に入っており、しかも激動の時代に入っている。官僚に任せておいて良い政策ができる訳がない。すでに日本の政治も、利権配分型政治から政策重視型政治に変わりつつある。それを成し遂げるのが「郵政改革」であり、「郵政解散」である。「小泉劇場」、おおいに結構!!!「小泉劇場」は、まあいうなれば「劇場国家にっぽん」のプロローグである。第1場面が始った。まずは利権配分型政治家の駆逐場面である。さて、これから第2場面が始まるのだが、どういう場面になるのやら・・・・???』・・・と述べたが、小泉首相の構造改革は既得権の打破と同義であると考えてよい。

 その辺の事情は、Vivid forum Column(互恵会)が適格に述べているので参照されたい。ここでは、その一部を紹介しよう。

『 官僚がなぜそのような力を発揮したかといえば、それは野口悠紀夫東大教授の著書「1940年体制」にあるように、戦時中の国家総動員体制が、金融・産業・労働・国民生活の各分野にわたって官僚の統制権を強め、網の目のような官僚支配の基礎を築いたからである。GHQによる戦後の民主化諸改革も官僚機構の根幹には届かなかった。官僚は特に経済の分野で、戦後の復興と高度成長を成し遂げる上で大きな力を発揮した。しかし同時に、特殊法人、補助金、公共事業などの予算権限、許認可権限などを利用して、業界や国民の上に立つ特権階級と化し、天下り先確保や待遇引き上げなど私益拡大に走った。そして政治家を抱きこみ、利益団体を手なずけることによって、強固な既得権構造を築き上げたのである。』

『 森政権までの歴代内閣は官僚支配脱却を表向き唱えながら、政官業の既得権構造に自分の足をどっぷり漬けたままであり、官僚の作文を棒読みすることしか出来なかった。小泉首相の構造改革宣言は既得権の打破と同義であり、官僚の支配力削減を意味している。一例を挙げると、国の予算案策定は経済財政諮問会議が示した方向にそって内閣府が大枠を作り、財務省がこれを具体化するというプロセスをとることとされており、従来の大蔵省の権限を大幅に削ることになる。(中略)このように、本気で既得権にメスを入れ、戦時中からの官僚支配を崩そうとしているところに小泉内閣のユニークさがあり、革命的と評価される所以がある。』

『 日本の戦後政治史もしくは民主主義発達史という観点から見ても、小泉政権は極めてユニークで、革命的とさえ言える。』

 

「小泉劇場」は、まあいうなれば「劇場国家にっぽん」のプロローグである。第1場面が始った。まずは利権配分型政治家の駆逐場面である。さて、これから第2場面が始まるのだが、どういう場面になるのやら・・・・???

 私は、これからの政治というものは国民の身近なところにあるようでなければならない。私は、拙著「劇場国家にっぽん」で清水博が唱える「場の文化」というものを紹介した。清水の著『生命を捉えなおす』(中公新書)の初版は1978年だが、その後研究が進み、増補版が出たのが1990年である。とくに注目すべきは「関係子」という考え方であろう。中村雄二郎は「メディオン」と呼んだらどうかとアドバイスしたようだが、中村のリズム論とも関係が深く、関係子が発生するリズムの「相互引き込み現象」は清水博の画期的な発見である。関係子に関する研究はこれからどんどん進み、生命の神秘がもっと明らかにされるであろう。関係子の着想は実に素晴らしいのだが、近著『場の思想』に、その話が出てこないのは誠に残念である。

 清水博のイメージする「関係子」の概念について、もう一度、要点を説明しておきたい。

 私は今まで、生命学という言葉を使ってきたが、清水博は、生命学とは言わないで、「生命関係学」と呼んでいる。関係性というものの重要性を充分認識したうえでのことである。生命システムには、多様な複雑性とそこに自己組織される秩序があるというのが清水博の考え方であるが、この秩序は一義的なものではなく多義性に富んだものである。

 では、秩序の多義性というものはどこからくるのか? 清水は、生命の働きを生成的、関係的にとらえない限り、この問題は解けないと考えている。関係性の重視である。その粒子がたくさん集まったとき、その状態によってグループとしてのさまざまな機能が出現してくるのだそうだ。もちろん粒子ごとに特定の機能というものはあるのだが、グループとしての機能はそれら個々の機能の合計ではなくて、全く別の新たな機能が出現してくる。それはなぜか? 多くの粒子がどのような状態になっているか、それら粒子と粒子の間の関係性により、いろいろな機能が出現する。よって関係性というものが重要となり、それに着目して研究を進める必要がある……というのが清水の考えである。

 劇場で役者が即興劇を演じる。観客がそれを見ている。そこには照明装置や音響装置など劇場としてのシステムがある。即興劇を演じる役者は、あらかじめ劇場主、シナリオ作家、演出家から必要な情報を与えられているが、いったん幕が上がると、あとはもう観客と一体になってその場の雰囲気で臨機応変に演じる。それが即興劇であるが、清水は『生命を捉えなおす』のなかでこう言っている。 「役者の演技は、大まかな筋という拘束条件のもとで、大ざっぱに決められますが、具体的には役者同士の演技の相互関係によって、選択されたり、つくられたりしながら劇を進行させていくのです。その演技は、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら展開していく必要があり、場違いな演技をすることはできません。……」

 そこには環境とシステムは出てくるが、活動主体が記述されていない。そこでは操作情報という言葉が使われており、情報を自己組織する活動主体というものを念頭に置いて、清水はそれを関係子と呼んでいる。すなわち関係子とは、システムや環境から発せられるさまざまな情報を受け取って、臨機応変に自らの活動に役立つ操作情報を自己生産するものである。つまり自己組織するとは、自己生産しながら自分の組織に組み込んでいくということである。要するに、関係子というのは、意味のある操作情報を自己組織するのである。

 即興劇モデルでいえば、環境は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置といった劇場システム、関係子は役者ということになる。すなわち劇場全体の情報は、それぞれの環境からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。「劇場国家にっぽん」では、地域の人びとが関係子となって、風土というシステムやビジターという環境から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていくのである。それが地域の人びとの自己生産活動である。そして、これからの日本は、そういう活動によって地域の活性化……私流にいえば、地域の活充化を図っていかなければならない。

 

 今私は、「小泉劇場」の歴史的意義を語っている。「小泉劇場」は、まあいうなれば「劇場国家にっぽん」のプロローグである。第1場面が始った。まずは利権配分型政治家の駆逐場面である。さて、これから第2場面が始まるのだが、どういう場面になるのやら・・・???

 上の即興劇モデルは地域づくりとの関連での記述である。これを政治との関連で言い直せば、『 国民は観客、システムは劇場の照明装置や音響装置といった劇場システム、関係子は役者ということになる。すなわち劇場全体の情報は、それぞれの国民からの情報、システムからの情報、関係子で自己組織される情報のトータルである。「劇場国家にっぽん」では、政治家が関係子となって、国民から発せられるさまざまな情報を受け取り、臨機応変に即興劇を進めていくのである。それが政治家の自己生産活動である。そして、これからの日本は、そういう活動によって政治の活性化を図っていかなければならない。』・・・となる。

 「小泉劇場」は、まあいうなれば「劇場国家にっぽん」のプロローグである。第1場面が始った。まずは利権配分型政治家の駆逐場面である。さて、これから第2場面が始まるのだが、どういう場面になるのやら・・・???

 

 


 

小泉劇場について

 

 

 文芸春秋の10月号で、中西輝政(京都大学教授)が、小泉総理をポピュリスト首相と断定し、日本国民に対し大いなる警鐘を鳴らしている。国民に対する警鐘としては中西輝政の言うこともそれなりに意味がある。それはそれで良いと思う。しかし、自民党という政党としては、中西輝政の言っていることについては、その是非を冷静に判断する必要がある。

 

 ポピュリズム(Populism)とは、カリスマ性のある為政者が大衆の評判を集める政策を行ない、内外の危機を煽るなどして民衆を扇動する主義のことである。 中西輝政は、「民主主義においては、旧来の利権配分型政治が通用しなくなった段階で、必ず大衆人気に迎合する政治家が出現する。しかし彼らが持ち込んだポピュリズムが、その国の政治史に巨大な負の遺産になったということも、西欧人の歴史的記憶として刻まれている。」・・・と言っている。そして、日本の政治はそういう歴史的経験をもっていない・・・まあいうなればまだ未熟な段階にあるので、日本の政治家ないし政党は、欧米先進国のように、世論のことは知るが、自己抑制が確立してしていない。したがって、小泉総理のようなポピュリストが出て来るのだと断じている。政治家ないし政党は、第1に、官僚に頼らずに政策を策定する能力を持つ、第2に、指導者が高い言語能力を持つ、第3に、官僚機構を完全に統制する力を持つ、第4に、国民全体が「政治的真面目さ」を取り戻す・・・・ことであると言っている。

 

 このような中西輝政の主張はまったく正しい。私もそう思う。しかし、問題は、国民全体が「政治的真面目さ」を取り戻すためにはどうすればいいのか・・・ということだ。今大事なことは、政治を国民の手に取り戻すことであり、選挙における投票率をあげることだ。地方選挙と国政選挙ともに...だ。一日も早く政治の信頼性を取り戻さなければならない。「小泉劇場」、おおいに結構である。

 政治に対する国民の関心が高まってくれば、自ずと政治かないし政党のレベルは上がってくる。世界は、グローバルな時代に入っており、しかも激動の時代に入っている。官僚に任せておいて良い政策ができる訳がない。すでに日本の政治も、利権配分型政治から政策重視型政治に変わりつつある。それを成し遂げるのが「郵政改革」であり、「郵政解散」である。「小泉劇場」、おおいに結構!!!

 

 「小泉劇場」は、まあいうなれば「劇場国家にっぽん」のフィナーレである。第1場面が始った。まずは利権配分型政治家の駆逐場面である。さて、これから第2場面が始まるのだが、どういう場面になるのやら・・・・???

 


8 

聖武天皇

 

 

 聖武天皇の即位は、724年であり、聖武天皇24歳の時である。藤原不比等が亡くなって4年目のことである。興福寺が創建されるのは平城京に遷都した年(710年)であるから、興福寺が創建されてから14年がたつ。興福寺の五重塔はまだできていないが、金堂や北円堂はできている。入唐僧玄ぼうが、法相宗を日本に持って帰るのが735年であるから、聖武天皇の即位のあと11年後のことである。このあと、741年には、国分寺、国分尼寺建立の詔(みことのり)が、そしてその2年後には、盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立を発願される。

 まだ、春日神社はできていない。春日神社が創建されるのは、768年であるから、ずっとあとのことで、大仏開眼から16年、聖武天皇が崩御されてから12年・・・あとである。関東及び東北から、物部の勢力を藤原が乗っ取るのに相当の年月がかかったということであろう。不比等が亡くなってから、藤原4兄弟の突然の病死あるいは藤原広嗣(ひろつぐ)や藤原仲麻呂(恵美押勝)の反乱という・・・藤原氏滅亡の危機がなくはなかったのだが、そこは不比等の引いたネットワーク組織のおかげで藤原の勢力は着実にのびていった。そして遂に、768年、春日神社が創建されるのである。藤原の官僚としての力はものすごいもので、政治はなかなか天皇の思うようにはいかなかったようだ。皇親政治は夢の又夢である。

 しかし、藤原の思うがままの政治を天皇として許すわけにはいかない。そこが聖武天皇のいちばんの思いではなかったか・・・。少しでも・・・皇親政治に近づけたい。藤原の官僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とかしなければならない。それは、中臣神道を否定できない以上又すべきでもないが、盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立して、何とか神道と仏教の習合を図る・・・ということではないのか。神道は藤原に任せるとして、仏教は天皇自らがやろう・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。人材が欲しい。入唐僧玄方(げんぼう)のほか、良い人物はいないのか? いるいる・・・。良弁行基がいるではないか!

 

( 註:かっての「武家社会源流の旅」を思い出しながら、ここらでちょっと休憩を入れたいと思う。ここをクリックして下さい! )

 

 上に述べたように、藤原4兄弟というのがいた。最終的は流行り病(疫病)で4人とも亡くなるのだが、この藤原4兄弟は、4人とも、聖武政権下で活躍する。亡くなるまで13年の永きに渡ってである。偉大な政治家・藤原不比等がいなくなっても、この4兄弟が聖武政権を牛耳っていく。聖武天皇は次第次第に無力化していくのである。早くも危機は即位後5年目にくる。左大臣・長屋王が自殺に追い込まれ、聖武政権に反藤原は一人もいなくなる。藤原4兄弟の思うままの政治が展開されるのである。聖武天皇は操り人形のようでまったく無力化していく。藤原4兄弟が亡くなった翌年、すなわち738年に、橘諸兄(たちばなもろえ)が右大臣になって、ようやく聖武天皇は皇親政治に舵を切ることが可能となった。新しい聖武政権の誕生である。橘諸兄(たちばなもろえ)と吉備真備(きびのまきび)の活躍するときがきた。

 聖武天皇が崩御した翌年に橘諸兄もなくなって、まったく政権は渾沌としていくのだが、その際、吉備真備の活躍によって何とか危機は回避できるのである。吉備真備は偉大な政治家である。聖武天皇が崩御したあと橘諸兄もなくなってからの混沌は、すでに先に書いたのでそれを見て欲しい。ここでは、聖武天皇のことを書く。書くといっても、中西進の名著「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998年11月、PHP研究所)があるので、その要点をごくごくかいつまんで紹介するだけであるが・・・。

 

 聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)が聖武新体制に反対して、九州で反乱の兵を挙げる740年から5年間、つぎつぎと都をかえる。世にいう「彷徨5年」である。聖武天皇は藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼになったという人もいたりして、聖武天皇は今の世の中の人にすこぶる評判が悪いのである。しかし、中西進はそれは間違いであるという。私もそう思う。ただ、中西進は聖武天皇は「巨大な夢を生きた」のだというのに対し、私は、聖武天皇は「夢を生きた」のではなく「現実の政治」を行なったのだと思う。先ほどもいったが、藤原の官僚ネットワーク組織が全国を支配する前に、何とかしなければならない。それは、中臣神道を否定できない以上・・・又すべきでもないが、盧舎那仏(るしゃなぶつ)金銅像(大仏)の建立して、何とか神道と仏教の習合を図る・・・ということではないのか。神道は藤原に任せるとして、仏教は天皇自らがやろう・・・、聖武天皇はそう考えたにちがいない。きっとそうだ。天皇として当然やるべき「揺りもどし」をやったのである。私はそこに歴史的必然性を感じる。若干そのような違いはあるが、中西進と同じように・・・・、私は、聖武天皇を高く評価したい。

 藤原広嗣(ひろつぐ)は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)の長男であり、新たな聖武体制の要である吉備真備と玄ぼうを天皇側近から除いて欲しいと上表した。同族としての甘えがあったのか、公私混同もはなはだしい。新たな聖武体制の要である吉備真備と玄ぼうを天皇側近から除いて欲しいとび上表は、天皇に対する反逆である。聖武新体制として断じてこれを許すわけにはいかないのである。上表文が奈良に届いたのが740年8月29日であり、聖武政権は、電光石火のごとく、9月3日にははや大野東人(おおのあずまびと)を大将軍として・・・1万7000の討伐軍を派遣させた。

 

 このことに関して、中西進は、その著書「聖武天皇・・・巨大な夢を生きる」(1998年11月、PHP研究所)の中でこう述べている。

 

 すなわち、『 真備はこう言っただろう。

「ただちに、東海、東山、山陰、山陽、南海の各地の国司に激をとばして農兵を集めよ。大軍をもって威圧する必要がある。

ついで在京の隼人を集めよ。彼らを味方にすることで九州の隼人の反抗心を柔げることができるだろう。あわせて隼人の心情について彼らの意見を参考にせよ。

佐伯常人と阿部虫麻呂を勅使として加えよ。官軍としての色彩が明瞭になる。

折しも新羅から帰国した遣新羅使の一行が長門にいるはずである。一行の中に人材があれば討伐の軍に加えよ。新しい戦略を知っているだろう。」

 』・・・・と。

 

 『 もうひとつ、真備の判断が働いた。都の情況が必ずしもわれに幸いしないことだ。陰に陽に、広嗣(ひろつぐ)の言い分に加担する者がいる。なにしろ藤原のネットはあなどりがたいものがある。ここはひとまず、天皇と藤原ネットとを隔離しておくべきだ。(中略)

 聖武の脳裏を、あの壬申の乱の時の天武天皇の吉野脱出が横切ったにちがいない。その故事にならうことが、わが身をふるい立たせた。事は急を要する。10月23日、行幸の次第を決定。26日、東国行を宣布。29日出発。行幸を守る兵は騎馬400。 』・・・と。

 

 『 天皇の前後をかこむ武官は御前長官が塩焼王、御後長官が石川王、前後の騎馬隊に号令した者は前騎兵大将軍が藤原仲麻呂、後騎兵大将軍が紀麻路である。(中略)多くの藤原シンパが官僚の中にいた。反対に右の従駕者の中に藤原氏の者は仲麻呂ひとりしかいない。 』・・・と。

 

 『 聖武が徴用したのは渡来系の東西史部と秦氏との私兵集団であった。寄せ集めの混成軍団である。しかし、独特の伝統や生活様式をもつ精悍な騎馬軍団に目をつけ、その機動力をもって一気に東国へとかけ抜けようとしたのである。機動軍団への注目、ここに聖武・真備ラインの鋭敏な感覚がある。 』・・・と。

 

 まあ、すごいですね。すごい! 吉備真備はすごいの一言に尽きるのではないか。この藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱のあと、橘諸兄と藤原仲麻呂との争いが表面化し、世にいう「彷徨5年」へとつづいていくのだが、ここでは、聖武天皇略年表(「彷徨5年」関連)と聖武天皇略年表(盧舎那仏建立関連)だけを紹介し、彷徨そのものについては述べない。ここでは、とりあえず、「聖武・真備ラインの鋭敏な感覚」というものを理解していただければそれで結構だ。聖武天皇は、藤原広嗣(ひろつぐ)の反乱が原因でノイローゼになったというようなものではさらさらない。聖武天皇は、必死になって藤原一族と戦っているのである。聖武天皇が藤原であり藤原でない・・・・と私が言う所以である。

 

( 註:中西進の見方については、かって、「権威ということ」という題で少し書いたことがある。ここでの問題と関係があるので、参考に見て欲しい。ここをクリックして下さい! )

 


7 

天皇に関する歴史認識

 

 

 「天皇」という呼び名が本格的に使われはじめたのは、天武・持統天皇の時代である。

 平成10年3月、奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)は、明日香村の飛鳥池遺跡から「天皇」と記された木簡が出土したことを明らかにした。時代は七世紀後半。それは、天皇の呼び名が確認できる最古の木簡であるばかりでなく、律令制度が整った天武・持統天皇の時代に、神格化された君主が存在したことを示していた。「壬申の乱」(672年)に勝利した天武天皇(在位672―686年)が、中国の皇帝に匹敵する強大な力を手にしたことを物語る資料だったのである。

 

 持統天皇(在位690〜697年)に引き継がれた藤原京の造営が終わり、日本はようやくにして「国」の形を整え始める。そして、藤原宮で、始めて完備した「大宝律令」が作られるのである。しかし、何故か、この都は20年で捨てられ、遂に、和銅3年(710)、都は平城に移るのである。何故、藤原宮が僅か20年で見捨てられ、新しく平城に都が作られねばならなかったか・・・、そこが問題である。

 

 ところで、この遷都の立役者は藤原不比等であることは間違いない。つまり、天皇を中心とした「国」の形が整うのは、天武・持統天皇の時代であるが、その完成は藤原不比等の手になるのである。

 したがって、天皇を中心とした「国」のあり方を語るためには、天武天皇と藤原不比等を語らなければならない。しかし、藤原不比等の行き過ぎを是正する・・・いわゆる・・日本独特の「揺りもどし現象」を語るためには、どうしても聖武天皇と良弁を語らなければならない。聖武天皇と良弁の行なった「揺りもどし現象」によって、わが国の律令社会は、自ずと鎌倉時代を経て武家社会へと移っていくのである。そのときに思想的に大きな役割を果たすのが明恵である。徳一もそうであるが、良弁も明恵も藤原氏である。無意識のうちに「揺りもどし現象」が起こる・・・・、それが日本の「歴史と伝統・文化」の特徴ではないか。私はそんなふうに考えている。こういった「わが国の姿(かたち)」に関する歴史観は、司馬遼太郎がすばらしいものをもっている。そのほんの一部だけだが、天武天皇と藤原不比等へ至る歴史的な動きに関し・・関連のホームページを紹介しておきたい。

 

 

 なお、「飛鳥と隠れた渡来人」という・・・天武天皇と藤原不比等へ至る歴史的な動きを勉強するにふさわしいホームページがある。以下は、その要点を紹介したものである。

 

 壬申の乱が終って、天武天皇は再び飛鳥へ帰ってきた。

 まず、天武天皇は、嶋宮に落ち着いた。嶋宮は、近江を追われて天武天皇と持統皇后が最初の夜を過した場所である。その思い出の場所で、近江を破った天皇と持統皇后は、三日を過して、岡本宮に移った。そこには父・舒明帝と母・斉明帝が都とした岡本宮の南に、飛鳥浄御原宮を造らせた。飛鳥浄御原宮は、飛鳥川の東、飛鳥寺の北、飛鳥としては、比較的広い土地である。

 どうしてこの土地に都を定めたか。恐らく、壬申の乱後の政治的安定をはかろうとしたためであろう。天智天皇も結局、改革を急ぎすぎたのである。そして、そのことによって、人心の不安と不信を招き、遂に滅んだ。天武天皇の任務はこの人心の不安と不信を除くことであった。その為には、70年の間、政務の中心であり、父と母との都であったこの飛鳥岡本宮の南に都を定めるのが一番良い。私は当時としては、それは最も賢明な選択であったと思う。

(中略)

 確かに、飛鳥浄御原政権は、行き過ぎた政治改新に歯止めをかけ、政治を安定させるためのものであった。壬申の乱に、天武側に参加した大和の豪族達も、そういう期待をもっていたに違いない。

 しかし、豪族達の期待はどうあれ、聖徳太子以来の律令制を完成するのが、時代の課題であった。天武天皇が、このような課題に本腰を入れるのは、天武10年からであると思う。この年、律令の撰修が命ぜられ、歴史の編修も始められるのである。

(中略)

 律令制には、都城制が不可分である。巨大な都城無しには、律令制国家の建設は不可能である。飛鳥浄御原宮には、大極殿、大安殿、小安殿などと見られる殿舎があったことは分る。しかし、何分飛鳥の地は、山に囲まれてあまり狭すぎる。律令制の完成するぬは、飛鳥の地を離れねばならない。

 この新しい都城を求めて、遷都を行い、律令国家の建設を完成すること、これが天武朝から持統朝にかけての大きな政治的課題となる。そして、その政治的課題は、一代にして完成されず、持統・文武朝を経て、遂に元明帝によって、完成されるのである。

(中略)

 藤原宮で、始めて完備した「大宝律令」が作られるが、何故か、この都は20年で捨てられ、遂に、和銅3年(710)、都は平城に移るのである。

 何故、藤原宮が僅か20年で見捨てられ、新しく平城に都が作られねばならなかったかはよく分らない。この遷都の立役者は藤原不比等であることは間違いない。

 

 熱心に造営に当たったに違いない藤原京を何故、彼は捨てて、平城に都を定めたか。彼の政治の革新につながるのかも知れない。藤原は、まだ飛鳥や小懇田に近い。蘇我氏の亡霊から自由になる。聖徳太子からも、天武天皇からも自由になる。そういう新しい政治をするには、都を小懇田や飛鳥から遠く離す必要があると、考えたのかもしれない。

(中略)

 

 こうして、飛鳥は遠くなったが、私は、不比等は、というより藤原は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは祓いの神道である。

 我々は、普通日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、決して昔から日本の神道中心的行事では無かった。例えば、大化の改新の時の詔が出ていて、ここで祓除(はらえ)は、一種のゆすり、あるいは私的リンチなのである。人が死んだりして何か不吉なことが起こった。その汚れを祓う名目でもって、何か財物を強要することが祓除なのである。律令に基ずく近代国家を作ろうとしていた大化の改新の政治権力者が、このようなゆすり、或いは私的リンチに似た祓除を、禁止するのは当然である。

 そかそ、どうしたわけか、この天武天皇の御世に、この祓除が、国家によって行われるのである。天武5年8月、何か不吉なことが起こったのであろう。そして、それを人民のせいにして、国毎に、祓えつものを出させる。一種の臨時の税の取り立てである。

 つまり、何か良くないことが起こった。そのために、権力者は財物を強要する。その代わりとして、その罪を許すというのである。

 このような祓いは、天武天皇の時代や文武天皇の時代に、度々報告されているが、それは、定例の神事にならなかった。それが定例の神事、つまり毎年6月の晦日や、12月の晦日になされる神事となったのは、大宝元年(701)からである。つまり「大宝令」の施行と共に、この祓いの行事は、最も重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏と共に重要な役割を演じるのである。

 

 ここで、祓いの神事は、二重なのである。中臣の祓いと、東西漢氏の祓いとで、東西漢氏の祓い詞は漢語であり、中臣の祓い言葉は、和語である。

 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形を捧げて、天皇の身の汚れを除き、金刀を捧げて、天皇のよわいの長久を祈るわけである。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈る為である。

 しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官をはべらせて、祓いがなされ、神の言葉を告げる。

 皇孫が天降りましてから多くの罪が出たが、この罪を、この6月の晦日、あるいは12月の晦日を期して、水に流してやる。それゆえに贖(あがない)物を出せ。

 

 これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。代々の天つ神は、現人神である天皇と共に、「私は、お前たちの犯した罪を知っている。しかし、この際水に流してやるから、贖い物を出すがよい」とおっしゃるのである。この神々や天皇の言葉を、ここで中臣氏が親王以下文武百官に告げるのである。 そして、中臣氏は、勿論藤原氏の一族である。つまり、中臣氏は、権力者藤原氏の身代わりとして、この祓いの言葉を語るのである。

 これは、恐ろしい言葉である。そして、それが「大宝律令」と共に国家の言葉となったことは、重要な意味をもっている。大祓いの神事は、律令の精神を神事にしたものであるといえよう。(註:中臣祝詞)(註:大中臣)(註:神道用語解説

 

 このような神事を国家の定例的な神事としたのは、「大宝律令」の事実上の撰修者であったと思われる藤原不比等その人であったと思われるが、不比等はこの神事を恐らく、東西漢氏というより、東漢氏の伝える道教の祓いの神事から思いついたのではないかと思う。それは、本来、皇帝の息災を祈る呪文である。そういう呪文を含みつつ、それをもっと政治的意味をもつものに変える。そこに不比等の工夫があったと言ってよい。

 

 そして、記紀神話は、このような祓いの神道によって作成された神話なのである。そして、この祓いの神道を国家計画化した古事記、日本書紀神話によって、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるようになったのである。とすれば、東漢氏、このコスモポリタンな文化人は、はなはだナショナルな神道の作成に一役買ったということになる。不比等は、都を平城に移すことによって、東漢氏の政治的影響力から自由になったけれど、彼は、彼の政治的発明の最も重要なものを、東漢氏から借りてきたと言わねばならぬ。

 このような不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓いの祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いの刑罰を含ませる事は、恐らく天武天皇から学んだのであろう。

 

 飛鳥浄御原宮の近くに甘樫丘がある。允恭帝の時に盟神深湯(くかたち)が行われたところであり、それは氏姓の混乱を正すための、裁判の丘である。

 この天武天皇の精神を受け継ぎ、律令を完成したのが、藤原不比等といってよかろう。不比等は天武天皇から、国史の編纂、律令制定、祓いの神道の定例化など多くのものを受け継ぎ、それを完成せしめたのである。

 

 このように、不比等はその精神において飛鳥を受け継いでいるにせよ、平城に都が移されたからには、飛鳥は都から遠くなったことは間違いない。都が飛鳥から遠くなり、ここに律令制は完成したのである。不比等は、聖徳太子以来の政治の課題を、飛鳥から遠く離れたところで完成したのである。

 

 多くの都城遷移の試みがあった。小懇田、百済、難波、近江、そして藤原、その五つの都城はせいぜい20年少ししか続かなかった。この律冷制の理念は、まだ当時の日本の社会に定着しなかったからであろう。こういう試行錯誤を経て、平城に都が移り、そして百年後また、平安京に都が移る。そこに至って律令制は、日本に定着したといいえようか。

 この百年にわたる、飛鳥へ、また飛鳥から、という二つの相反する方向における都の遷都は、ジグザグな運動をしつつ、一つの目的を果たそうとする歴史の意志を語っているように思われる。

 このような歴史の動きの中で、二つの豪族が決定的な役割を果たしている。一つは、蘇我氏、一つは藤原氏である。そして、蘇我氏の場合は失敗し、藤原氏の場合は成功した。

 それは、例えば、中国を統一したのは秦であり、隋であるが、この秦、或いは隋は、僅か30年で滅び、長く政権を握ったのは、その後継者である漢であり、唐であるように、この律令制への方向を開いたのが、蘇我氏と聖徳太子であるとしても、それは、あたかも、秦や隋の例がそうであるように、古い制度の破壊という恨みをかって、滅びる運命にあったのであろうか。

 飛鳥という土地にあまりにも執着したと思われる蘇我氏は、すでに、それだけの理由をもって、新しい政治の実行者としては不適格であったのであろうか。

 しかし、この飛鳥の歴史を解明しながら、思いがけなく、このような二つの権力者の背後にある、政治の裏役を発見したのである。

  東漢氏。一時は、財政、外交、技術、陰謀、恐らくは、政治の不可欠と思われるこのような仕事を一身に引き受けていた、後漢の霊帝の子孫と名乗る誇り高い知識集団の姿が、この時代の歴史の動きに、決定的な役割を果たしているのを見た。

 しばしば、この集団の動きが、歴史の方向を決定したかとさえ思われる。しかも、この集団は、決して歴史の方向に逆らうとしない。それは、一つの権力について歴史を進めながら、その権力が滅びると、さっさとその権力を見捨てて、別の権力について歴史を進める。それは、歴史そのもののように、固定的なモラルもなく、絶えず権力と共に動いていくのである。

 東漢氏のこのような生き方が許されたのは、恐らくこの時までであり、氏族制から律令制への変化の中では、解体せざるを得なくなった。

 全ての人間が、一般的な日本人となったのであるが、また、強烈な血の誇りを持って、日本人を逆差別する帰化人集団も、全くなくなったのである。

 

 飛鳥とは何かという問いは、思いがけなく、歴史の裏に存在する奇妙な人間集団を、暴き出したのである。

 飛鳥は日本の故郷であるといわれる。しかし、それは決して、永久の昔から日本の故郷であったわけではない。これはむしろ六世紀末から七世紀末にかけて、日本が、大いなる変革を求めた時代の政治的な根拠なのである。そして、その拠点は、その政治革新を進めようとすれば、そこから逃れねばならぬという大きな矛盾を含んでいた。そして、その矛盾によって、五回にわたって都は飛鳥に入り、そして飛鳥をでた。そして五回の遷都の後に、日本の政治は大きく変貌したのである。

 

 我々は、飛鳥を日本の故郷として、そこを現実逃壁の場所とすべきではないのである。我々は飛鳥から学ぶものは、かかる生き生きとした歴史の動きである。そして、そのような歴史の動きは、東アジア全体の歴史の方向に沿っているのである。歴史というものは、このような回り道をしながら、自己の意志を貫くものであろうか。現代に生きる我々も、かかる歴史の動きから、大きな教訓を得ることが出来る筈です。

 飛鳥を、現実逃壁の、夢見る人の故郷としてはいけないのである。

 

 以上である。このホームページでは、『 このように、不比等はその精神において飛鳥を受け継いでいるにせよ、平城に都が移されたからには、飛鳥は都から遠くなったことは間違いない。都が飛鳥から遠くなり、ここに律令制は完成したのである。不比等は、聖徳太子以来の政治の課題を、飛鳥から遠く離れたところで完成したのである。 』・・・と言っているが、実は、律令制は完成していないのである。たしかに、律令制は一応不比等によって完成したかのように見えるが、聖武天皇と良弁によってただちに「揺りもどし現象」が始まるのである。

 私は、良弁も徳一も明恵も藤原氏であると考えている。そうだとすれば、これは凄いことで・・・・、藤原不比等の作った強烈な律令社会の中にあっても、河合隼雄のいう「揺りもどし現象」のシステムが秘かに息づいていたということだ。本人の意識とは無関係に、聖武天皇と良弁の行なった大仏建立という大プロジェクトによって、わが国古来の「揺りもどし現象」というシステムが、社会システムの中で自ずと作動するようにうまくビルトインされていた・・・ということになる。「揺りもどし現象」のために、藤原氏の明恵が特に大きな役割を果たす。

 

 さあ、それでは、『良弁も徳一も明恵も藤原氏である』ということについて、説明をすることにしよう!

 

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6 

法相宗と華厳宗

 

 

 現在、わが国の仏教は、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗、時宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、黄檗宗のほか、次の三つの古い宗派がある。わが国の最古の宗派である。

 かっては、南都六宗といって、奈良仏教には6っつの宗派があったが、今では、法相宗、華厳宗、律宗の3っつの宗派のみとなった。私は、先に、「東大寺の不思議」を書いたが、そもそも東大寺の母体となった「法相宗」が不思議な仏教であって、わが国古来の自然崇拝が入り込んでいる。東大寺は、法相宗を母体として、華厳宗がその主たる教学となっていく。鑑真の来朝によって、わが国にも律宗が興るが、小乗仏教ということもあってか、わが国主流の仏教には成り得なかった。

 しかし、東大寺ができて、奈良仏教は華厳宗に吸収されたと考えてもあながち間違いではなく、教学的にはまあ同じようなものとみなして良いのではなかろうか。厳密な意味での違いはもちろんあるとしても、「違いを認める」という意味では、哲学的に・・・、唯識も華厳哲学とまあ同じようなものと考えて良いのではないか。今のところ、私にはそのように思われるが、その辺は、今後、おいおいに勉強して行きたい。

 法相宗は、藤原氏の菩提寺である興福寺が本山であり、東大寺とは一応独立した存在を維持してきたし、律宗は、東大寺の大恩人・鑑真和上に敬意を表して独立した存在を維持してきている。ただ、それだけのことではなかろうか。現在勉強すべきは、東大寺であり、華厳と唯識である。

 東大寺は、誠に懐の深い大本山で、良弁の影響を受けて古密教をも包含している。良弁は、藤原氏の祖・中臣鎌足のひ孫ともいわれ、間違いなく藤原氏である。そして、徳一と明恵はともに藤原氏であるが、徳一は特に藤原一族の影響を受けて法相宗を代表する名僧になったし、明恵は、本来藤原氏に連なる武士になる筈の叔父さんの影響を受けて、華厳宗を代表する名僧になった。

 私は、ふたりとも良弁の流れを汲む者であると思う。それは、古代から連綿と続く「流動的知性」である。

 「流動的知性」というものは、中沢新一が言い出した言葉であるが、人間に与えられたもっとも大事な知性であって、中沢新一の「モノとの同盟」という思想も、「光と陰の哲学」と私が呼ぶこれからるべき21世紀の哲学も、そしてこれからあるべき21世紀の政治や経済や宗教もすべてこの働きによって考えねばならない。

 徳一も明恵も特にこれという新しい宗派を興したのではない。しかし、日本の「歴史と伝統・文化」のなかでもっとも重要な人であり、この二人をおいて日本の「歴史と伝統・文化」を語ることはできない。新しいものが優れているのではない。古いもので今なお生き続けているものにもっとも重要な原理が隠されている。唯識や華厳哲学は日本でもっとも古い宗教哲学であり、今なお生き続けているとすれば、これは尋常一様のものではない。きっと、これからの時代を生きていく上での大事な秘密が隠されているに違いない。

 原理主義を排するという点で、彼らの思想に注目しよう。彼らの思想は常識的で、かつ、はすばらしい。徳一と明恵こそ、21世紀を切り開く重要な思想を今に伝えてくれているのではないか。

 

 


 

山越阿弥陀図

 

 

 昨日(2005年7月3日)、多摩美術大学で川本喜八郎の人形アニメーション映画「死者の書」の試写会があった。この映画は、昨年4月より約10ヶ月間、多摩美術大学のスタジオで撮影された・・・その縁から、一般公開に先立っての上映となったものである。

 

 

[川本喜八郎の挨拶]

 25年来の大きな夢、折口信夫原作の人形アニメーション「死者の書」が、本当にたくさんの方々の御協力を得て、このほど無事完成いたしました。心よりお礼申し上げます。

 奈良時代、藤原南家の郎女(いらつめ)の一途な信仰が、若くして非業の死をとげた大津皇子(おおつのみこ)のさまよう魂を鎮める物語は、今、我々が立ち止まって日本人とは何か、どこへ行こうとしているのか、という問いかけに何らかの示唆を与えてくれるもとの信じています。

 ご覧くださる皆さまに磨かれて「死者の書」が輝きを増すことを念じております。できるだけたくさんの方々にご覧いただけますよう、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

たしかに、川本喜八郎がいうように、「死者の書」が今、我々が立ち止まって日本人とは何か、どこへ行こうとしているのか、という問いかけに何らかの示唆を与えてくれるかもしれない。しかし、村井紀(おさむ)の「反折口信夫論」(2004年4月、作品社)などがあったりして、皇国史観の人・折口信夫という評価がどうしても付きまとう。したがって、小説「死者の書」を読む際にはよほどの注意が必要だ。小説である「死者の書」をただ単に小説として見るだけならば、もちろん失敗作だという評価もなくはないのだけれど、私は・・・、神仏習合を礼讃するものとして、あるいは源信が重要な役割を持つあの・・・「源氏物語」との共通点なども伺えて・・・大変面白いと思う。

 折口信夫は、「山越しの阿弥陀像の画因」の最後に・・『 私の女主人公南家藤原郎女の、幾度か見た二上山の幻影は、古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。さうして又、仏教以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き出た姿であったのだ、とも謂われるのである。』・・・と説明している。けだし、もっともである。彼のいちばん言いたいことがそれであったのであろう。

 ここに、僧都とは、恵信僧都のことであり、源信のことだ。僧都のふるさとは二上山の麓、当麻(たいま)である。

 

 それでは、折口信夫の注目する・・・・「山越阿弥陀図」を見てみよう!

 

山越阿弥陀図その1

鎌倉時代(13世紀)国宝 永観堂

山越えの阿弥陀と観音、勢至の二菩薩からなる来迎図。

山並の手前には、悪霊から往生者を守護する四天王と持幡(じばん)童子が佇む。

幡(ばん)は魂送りのシンボルらしい。

左上の「阿」字は阿弥陀の阿であると同時に

大日如来の象徴記号でもあり、

両者を同体とする高野山真言浄土教系の思想が反映されている。

 

山越阿弥陀図その2

鎌倉時代(13世紀)国宝 京都国立博物館

臨終しようとする信仰者の前に、

阿弥陀仏と眷属たちが極楽から迎えに来た場面を描いてい る。

本作品は 一般的な来迎図の形式をとりいれて斜め向きに変化しているのが特色である。

やわらかい山岳 表現ともども構図がよく整い、

鎌倉仏画の代表的作品にあげられる。

 

山越阿弥陀図その3

折口には、この物語を書く前、このたった一枚の当麻曼陀羅があっただけだ。

中将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。

折口はこれを見つめ、これを読み、

そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。

(松岡正剛の千夜千冊より)

 


 

中沢新一と関連する主なページ

 

 

 私は先に(「劇場国家にっぽん」の掲示板・自由の広場において)、・・・、再び「靖国問題」を取り上げた。そして、発言番号2270では、「私は、中沢新一こそこれからの世界をリードする哲学者だと考えており、日本の歴史学者はこぞって中沢新一を勉強する必要があるのではないか。」・・・・と述べた。私は、新しい歴史観でもって日本の歴史を見直すべきであると考えているのである。

 これからの新しい歴史観をどう呼べばいいのか? 明治以降終戦までの「皇国史観」に対してどう呼べばいいのか、中沢新一に聞いてみたいと思うが、私は、「神仏史観」と呼ぶのが良いのではないか・・・と思ったりしている。

 河合隼雄はわが国の姿(かたち)を中空構造だと言っているので「中空史観」でもいいかもしれないし、中沢新一は「精霊の王」を翁だと言っているので「翁史観」又は「精霊史観」でもいいかもしれない。また、私はメディオンを主役とする国家「劇場国家にっぽん」をこれからあるべきわが国の姿(かたち)だと考えているので「劇国史観」でもいいかもしれない。しかし、それらもどれもイメージ的に今いち・・・である。したがって、私は、わが国が多神教国家である点を重視してとりあえず「神仏史観」と呼んでおこう・・・というわ訳だ。

 まあ、いずれにしても、中沢哲学にもとづいて・・・だ、どなたか新進気鋭の歴史学者に・・・、頼山陽の「日本外史」にも負けない・・・21世紀型の日本通史を書いてもらわねばなるまい。そんな思いを持ちながら、この際、今まで私が私のホームページで書いてきた「中沢新一と関連する主なページ」を整理することにした。「劇場国家にっぽん」という言葉は、たしか「アメリカ同時多発テロ事件」が起こる少しまえから使っていたかと思う。911のあと、中沢新一は911に突き動かされるようにして「緑の資本論」を書くのだが、私は、ちょうどその頃、中沢新一に注目していたため、むさぼるようにそれを読んだものである。その頃から、私は、私のホームページ(「桃源雲情」と「劇場国家にっぽん」)において、中沢新一を意識しながらいろいろと書いてきた。以下はその主なものである。 

 

 

[日本の「歴史と伝統・文化」の心髄] [ Re: ダイバーシティーを育むために][ Re: 日本の文明原理を確立せよ]

[ Re: 世界水フォーラムの成功を祈る] [ Re: 世界水フォーラムの成功を祈る][対称性社会を目指して!] 

[Re: 少し怖くなってます] [Re: 地域と公共事業] [国家像] [新たな慰霊施設][Re: 少し怖くなってます]

[ Re: 中沢新一の「浄土論」 2161 2166 2168 2170 2172 2173 2160

[ Re: スギ花粉]  2176 2152 2153 

[ Re: 都市と農山村との交流!]

[良弁も藤原氏か][贈与する人 中沢新一][「複雑系社会における次世代環境デザイン」[愛知万博と「自然の叡智」]

[ Re: 移民の鍵は[農山村集落]が握っている!]

[徳一菩薩(とくいつぼさつ)-ひと おしえ がくもん- 高橋富雄 著]  takatoku iwataka 

[浄土はどこへいった? 中沢新一]

[ Re: 完全雇用で美しい日本の再生を!][水木しげるの「神秘家列伝 」]

[徳一と最澄の宗教論争]

[他力主義と自力主義][歴史は終わるか?] [看板規制を急ごう!][「複雑系社会における次世代環境デザイン

[明恵について] [いよいよ明恵に・・・!][胞衣(えな)信仰(その2)]

[3、猿楽の「翁」][エピローグ 世界の王 力の源泉]

[「天皇」という巨大な問題] [翁と天皇][精霊の王]

[Re: 京丹後市の特区案について] [劇場国家にっぽん][ Re: 講演録]

[ Re: 精霊の王]    

[渡航禁止なんてとんでもない!] [ Re: 直接支払い制度][ 新しい文明の鍵「スピリット」!]

[ ふたたび恵日寺をゆく!] [ 違いを認める文化] [ 現代の「ニヒリズム」] [ Re: 孤立よりも交流を!]

[ Re: 風土がひとを創り ひとが国を創る!] [宇宙との響きあい][共生の論理(その1)]

[流動的知性] [洲崎神社の御神体][胞衣(えな)信仰][柳田国男に帰れ!]

[21世紀・・・わが国の建設業を考える]

[地域と公共事業(論文)]   200208a 200301a 200308a 200412 200401a 

[あるべきようわ][日光東照宮は常行堂へお詣りしよう!][須玉町歴史博物館][日光の陰・常行堂]

[「精霊の王」関係総目次]

[宮坂宥洪の流動的知性][呉善花(お・そんふぁ)の流動的知性] [自力本願] 

[モノとの同盟][「空」の仏教哲理]

[天皇について思うこと・・それは「空」!][「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇]

[ 世界の王 力の源泉][天台哲学と魔多羅神]

[精霊の王/中沢新一 エピローグ][第六章 後戸に立つ食人王][第五章 緑したたる金春禅竹]

[第四章 ユーラシア的精霊][第二章 奇跡の書][3、猿楽の「翁」]

[2、宿神(シュクジン)][ 第一章 謎の宿神][本覚論と魔多羅神]

[中津川の胞衣(えな)伝説]

[ビジター産業のすすめ] [人類はるかなる旅] [清水博が唱える「場の文化」] [「講」のすすめ]

[愛の通貨 一国二通貨制度の実現に向けて] [貨幣の問題とは] [LETS PFI! Project (マレニーのコープ)]

[流動的知性にもとづいて] [流動的知性とは]

[世界平和と国際協力 ] [「モノ」と「タマ」] [縄文の声]

[「東北」への旅立ち] [神話の劇的空間] [宇宙との響き合い] [徳一とその劇的空間]

[平和の民] [「後戸」(うしろど)の哲学者] [宇宙との響きあい] [新しい文明の鍵・「後戸」(うしろど)]

[国家の統治構造について] [父母の愛] [「神話の劇的空間」への旅立ち] [HomePage search: <対称性>]

[日本的集落の構成原理] [「種の論理」というものについて] [田邊元の多様体哲学] [田邊元の多様体哲学その2]

[神話と現実] [ハイデッガーの技術論を超えて][新技術論と大畑原則(その2)] [共生の思想]

[サステイナブル・コミュニティー] [サステイナブルコミュニティ総合研究所]

[南方熊楠の大発見・・・シンダレラ物語] [世襲の論理]

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[イラク戦争の戦後復興は市場化が基本か]

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[劇場国家にっぽんと天皇制] [共生の論理 ] [光と陰の生活空間を生きる] [中村雄二郎の21世紀国家像]

[劇場国家にっぽん] [ネットワーク] [HomePage search: <明恵>] [明恵について] [マダガスカル]

[南方熊楠] [縄文・ミシャグチ・道祖神] [平将門の即位式] [マダガスカル友好親善訪問]

[マメの神話学] [ラカンの鏡面段階論] [草野心平] [公共財事業のすすめ]

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[一神教の誕生] [メビウス縫合型とトーラス型] [一神教のまやかし]

[未来のスピリット] [スピリット] [神にならなかったグレートスピリット] [陰について]

[鳥の巣あさり] [結婚の条件] [人類はるかなる旅] [人権問題・啓発のための社会装置を如何に作るか ]

[ハイブリッド思想の確立を!] [田邊哲学への期待] [ハイデッガーの技術論を超えて] [神(ゴッド)]

[源氏物語の宇宙性] [「冬祭り」の哲学] [対称性社会の知恵] [宇宙性のトポス]

[市町村合併問題について] [世界平和をどう実現するか・・わが国の役割]

[現代のニヒリズムとどう向き合うか]

[圓蔵寺の奥の院・弁天堂]

[モノとの同盟]

[ダイバーシティー]

[未開社会の思考を支配する「分有の法則」]

[ふたたび「分有の法則」について] [太古の響き] [アメリカの誤算]

[あこがれの会津] [足で稼ぐ][感動のシステム] [モノ的技術の復権] [贈与経済]

[「モノ」と「ピュシス」・・・その2異質性の根源] [「モノ」と「ピュシス」・・・その1類縁性]

[両頭切断その2] [山形でこんなことが!] [「モノ概念」の重要性] [穏やかな感性を磨く] [「劇場国家にっぽん」の構造]

[土木技術と哲学] [平和の原理を求めて!][対称性社会を目指して!][モノづくり博物館] [新たな慰霊施設]

[緑の資本論はすごい!] [関係子(メディオン)][川づくりと「劇場国家にっぽん」]

[田邊元の多様体哲学][両頭截断]

 


5  

日本の「歴史と伝統・文化」の心髄 

 

 私は、奈良時代(ならじだい)は日本の骨格ができた極めて画期的な時代であったと考えている。

 奈良時代とは、710年(和銅3)に元明天皇が平城京に都を移してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの約80年間をいうが、この8世紀の初めに、国号を倭から「日本」と改めたと中国史書にみえる。

 この遷都には藤原不比等が活動したが、律令国家制度についてもその完成は藤原不比等の手になるといってもいい。奈良時代の前・飛鳥時代の「飛鳥浄御原令」「大宝律令」が、日本国内の実情に合うように多方面から検討され、試行錯誤の結果、遂に藤原不比等の手によって律令国家という天皇中心の中央集権国家が完成したのである。

 

 藤原不比等の目指した律令国家は、いうまでもなく中臣神道が精神的支柱であり、天皇中心の中央集権国家とはいうものの、藤原一族の絶大な権力を作り上げるものでもあったのである。藤原一族の横暴は長屋王の変にその極に達したのかも知れないが、そこが日本の歴史のおもしろいところで、河合隼雄のいう「ゆり戻しの現象」が始まる。主役は、聖武天皇と良弁のコンビである。二人とも藤原であって藤原でない。そこが実におもしろい。そして、さらにおもしろいというか、不思議にさえ思えるのは、その良弁が明恵に繋がっているという点である。明恵も藤原であって藤原でない。

 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、その「ゆり戻し現象」だと考えている。日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、山口昌男のいう「両義性社会」と言っても良いし(参考1参考2参考3)・・・・、中沢新一のいう「対称性社会」と言っても良いかもしれない。私は、私流に・・・「違いを認める文化」とか「両頭截断」と言っているのだが、この場面では、「ゆり戻し現象」と言った方が判り良い。藤原不比等の手によって律令国家という天皇中心の中央集権国家がまさに完成した・・・その時に、聖武天皇と良弁のコンビによって、「ゆり戻し現象」が起こって、わが国は「両義性社会」というか「対称性社会」が維持されるのである。藤原不比等が、紀記を背景につくり挙げた「中臣神道」に対抗して「東大寺の仏教」が誕生する。

 先に触れたように、東大寺は不思議な寺院である。寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格もすでに色濃く帯びているのだが、その点はこれからゆっくり説明するとして、ここでは靖国問題に関連して、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄というものを意識していただければそれで良い。

 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は何かと河合隼雄に聞いたら、河合隼雄は「心髄がないのが心髄だ」と言っていたが、私は、上記のように考えている。日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、大事な時にきっちり「ゆり戻し現象」が働くことである。わが国は、ヨーロッパやアメリカのような非対称な社会ではないのである。この際、ヨーロッパやアメリカという国については、中国やロシアも含めて先進諸国といいかえてもいいかも知れないが、わが国は「非対称な社会」ではないのである。

 

 わが国では、大事な時にきっちり「ゆり戻し現象」が働くのである。明治から終戦までの軍国主義に対して、今は、その「ゆり戻し現象」として平和主義が定着している。今もっとも大事なことは、憲法改正である。わが国の自主憲法を創ることだ。しかし、それは、現在の平和憲法を下敷きに・・・最小限の修正を施すだけでいいのではないか。大事なことは、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄というものを意識して、明治とははっきり決別することだ。靖国問題についても、表面的な議論だけでなく、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄というものをはっきりさせて・・・もっともっと奥深い議論をしなければならないのではないか。

 明恵は、わが国の生んだ・・・歴史上最高の思想家である。自然の叡智を兼ね備えた明恵の智恵「あるべきようは」を学ばなければならない。そうすれば、靖国問題の解決や明治という時代の総括も、自ずと応えが出てくるはずである。私のもっとも言いたいことはこのことだ。

 


4 

東大寺の不思議

 

 

 東大寺は不思議な寺院である。寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びている。東大寺のもとは羂索院(のちの金鐘山寺<きんしょうせんじ>)である。その金鐘山寺において、天平12年(740)、のちに東大寺初代別当となる良弁が主宰して、わが国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられたのである。良弁は、義淵に師事して法相宗を学んだのだが、相弟子に行基(ぎょうき)や玄方(げんぼう)がいる。

 その法相宗は遣唐僧・道昭が日本に伝えた。道昭は、653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。また、道昭は、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導したことでも有名である。その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、第二伝に智通、智達、興福寺を中心に普及した第三伝に智鳳、第四伝に玄方、第三伝に智鳳がいる。みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。そして、法相宗第三伝・智鳳の高弟が岡寺の開基者である義淵(〜728)である。ちなみに、中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。

(註:唐の仏教については、ここをクリックして下さい!

 

 以上のように、法相宗は元興寺から広まったものであり、その流れの中に良弁がいる。良弁を語るとき、相弟子の行基や玄方を忘れるわけにはいかないし、元興寺を忘れるわけにはいかない。元興寺は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びているのだが、このことを理解するには、神叡(しんえい)に触れておかなければなるまい。

 以前、私は、徳一菩薩(とくいちぼさつ)というページで、『 ところで、天平のころ、法相宗の大徳に神叡(しんえい)という僧がいて、大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に籠り、「虚空蔵求聞意持法(こくうぞうぐもんじほう」(虚空蔵菩薩を念じて仏智を体得する修法)を修して、仏法を原点に立ち戻らせる行を積み、これが南都仏教における一つの流行をなして、「比蘇の自然智宗」と呼ばれていたという。すなわち、徳一や空海のころすでに法相宗を中心に「山岳仏教」の芽が出ていたのであります。』・・・・と述べた。

 ところで、「比蘇の自然智宗」については、春秋社発行「修験道と日本宗教」で以下のように説明されている。http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7726/772603.htm

 

『 〈山林修行と山寺〉

 わが国においては弥生時代以降,定住して水田稲作を営むようになって以来,山岳は,水を与え農耕を守る山の神の住まう霊地として崇めて来ました。そして更に山岳は祖霊の居所とされ,山の神は祖霊が神格化したもので,春先に里に下りて子孫の農耕生活を守り,秋には山に帰るとの信仰にと展開しました。こうしたことから,山麓に神社が造られ,春祭・秋祭が行われ,これが体系化して神社神道になって行ったのです。

 山岳は今一方において魑魅魍魎の住まう魔所としても怖れられました。里人等は神霊や妖怪などの居る山岳を聖地として崇め,山岳に入ることを慎みました。尤も山岳には既にそれ以前から狩猟・木こり・採掘などを仕事とする山民が居て,獲物・木・鉱物などを与えてくれる山の神を崇めていました。

 ところで云うまでもなく仏教は,インドにおいて釈迦(紀元前463〜同383頃)が創唱した宗教です。人生の問題に悩んだ浄飯王の子悉達多は家を出て,山林において修行の末に,人生は苦であり,その根源は人間が抱く集(欲望)にあります。その欲望を滅するためには八正道を修めなければなりませんとの苦集滅道から成る四つの真理(四諦)を悟ります。そしてこの教えを説き,こうした悟りを得るためには,一定期間山林に安居して禅定に入るように薦めたのです。この仏陀の教えはその後,一切の存在を空とする般若思想,万物の根源を心に置き,ヨーガの実践によって心を変革しますと悟りに達し得るとする唯識の思想にと展開しました。この唯識の思想は玄奘(602〜664)によって唐にもたらされ,法相宗(ホッソウシュウ)を生み出しました。そして,道昭(629〜700)によってわが国に招来されました。これが奈良の元興寺(南寺)・興福寺(北寺)で栄えたわが国の法相宗なのです。

 さて奈良時代初期に元興寺に来た唐僧の神叡は,吉野川の北側の比蘇寺に二十年間に亘って篭もって,虚空蔵菩薩を本尊として修行し,自然智を得ました。この自然智は,ヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を指し,その実践は自然智宗と呼ばれています。』・・・・と。

 次に、元興寺が明らかに律令仏教でありながら山林仏教としての性格も色濃く帯びているというを理解するには、「神仙思想の仙境と義淵との縁」にも触れておかなければなるまい。

 奈良県中央部にある竜門山地には、白鳳期に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したといわれる竜門寺と呼ばれる寺があったとされる。竜門山地は、大和盆地の南西部、宇陀郡・桜井市・高市郡・御所市と吉野郡が境をなす位置にあり、中世以来の山城として知られる高取城や、そのわずか西の壺阪寺、そして鎌足を祀る談山神社がある多武峰などがその中に含まれている。また、吉代以来、竜在峠、芋ケ峠、壷阪峠、芦原峠など峠越えの諸道が通じてもいる。そして、南側には吉野川が流れ、この山地と南に続く吉野大峰山系との境をなしている。

 この竜門山地は広い意味で吉野と呼ばれる地域に属している。その吉野は人麻呂の吉野讃歌以来、神仙思想の聖地ともいうべき位置づけがなされているが、竜門山地の主峰竜門岳の南にあった竜門寺もまた、奈良、平安峙代、神仙思想の仙境と考えられていた。この土地がなぜそのような扱いを受けるに至ったのかなどの諸間題については、ここをクリックして欲しい。

 以上いろいろと述べてきたが、義淵や良弁の山林仏教性・・・、したがって東大寺の前身である羂索院(のちの金鐘山寺<きんしょうせんじ>)の山林仏教性を説明したかったのである。御理解いただけたであろうか。東大寺は不思議な寺院であり、寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びているのである。

 


3 

山背古道と良弁の滝 

 

 

 京都南部都市広域行政圏のホームページによると、先に述べた「井手の里を歩く」(井出町商工会、2005年3月)の記事とは、基本的に差異はないけれど多少こちらの方が詳しいようだ。すなわち、私は、「旧大和街道に沿った才田川」というところに注目しており、現在良弁の滝の横を通っている町道が旧大和街道であるという点だ。その場所は旧多賀村と旧井手町との村界であって、伝承のもっともらしさを表わしているようだ。

 現在は、最近かってに呼びはじめた山背古道(やましろこどう)なるものが一人歩きしている。そんなものは歴史上存在しない。歴史上存在しないものをあたかも存在したかのような呼び名で呼ぶことは、歴史というものをないがしろにする以外の何ものでもない。山背古道(やましろこどう)は現在の単なるハイキングコースでしかない。そんなものを前提にすると、良弁の滝は、インチキ臭いものとなって、そのうちに歴史の舞台から姿を消すにちがいない。伝承は大事にしなければならない。伝承が歴史的に本当にあったものかどうかは判らないが、そういう伝承があったことは本当であるので、その伝承が本当であったこともあり得るのである。それをいとも簡単に消し去ってはいけない。

 私は、良弁の滝に係わる伝承を歴史的事実として注目している。先に述べたように、私は、良弁も徳一も明恵も藤原氏であると考えている。そうだとすれば、これは凄いことで・・・・、藤原不比等の作った強烈な律令社会の中にあっても、河合隼雄のいう「揺りもどし現象」のシステムが秘かに息づいていたということだ。本人の意識とは無関係に、聖武天皇と良弁の行なった大仏建立という大プロジェクトによって、わが国古来の「揺りもどし現象」というシステムが、社会システムの中で自ずと作動するようにうまくビルトインされていた・・・ということになる。良弁が藤原氏ではないかという根拠を先に縷々書いたが、良弁が藤原氏であることを語る一つの状況証拠が「旧大和街道に沿った才田川」の良弁の滝伝承である。

 

 

 さあ、それでは良弁の滝に出かけるとするか。

そうしよう!そうしよう!

 


2 

井手の里

 

 

 天平のころ、山城国の奈良街道に面した井手の地に、橘諸兄の別邸があった。井手左大臣とも呼ばれた諸兄は、この地に井手寺をつくり、庭に山吹を植ゑ、水を湛へて建築をすすめたが、寺供養の日に思はぬ讒言(ざんげん)にあって失脚し、庭を見ることもなく病の床に臥したといふ。

 

 漢国神社で述べたように、どうもこの世は陰陽によってできているようで、その一方に偏ると河合隼雄のいう「揺りもどし現象」が起こるらしい。大和王権は、各地に県(あがた)を設置したときに、その地の豪族の女性と天皇家と婚姻関係を結ぶこととした(三輪山の神々、2003年3月、学生社、p57)。やがてその子孫たちは何の抵抗もなく大物主神(おおものぬしのかみ)と大己貴命(おおなむちのみこと)を同一の神として祭りあげるであろう、藤原不比等はそう考えた。否、こういったやりかたは藤原不比等ならずとも誰もが考えるわが国の流儀であるのかも知れない。和の極意・・・それは陰陽の和合だ! 「陰陽の和合」すなわち「空」である。藤原不比等といえどもわが国固有の流儀に従わざるを得なかったのであり、わが国の場合、その基本的な構造が「空」であるが故に、河合隼雄のいう「揺りもどしの現象」が大事な場面で如何なく発揮されるのである。最大の政治場面・・・、それは律令国家の完成場面であり、中臣神道に対する「揺りもどしの現象」が聖武天皇の盧舎那仏(るしゃなぶつ)すなわち奈良の大仏さんの建立である。

 橘諸兄は、藤原不比等とは切っても切れない関係にはあるが、血がつながっているわけではない。長屋王殺害のような横暴が顕在化かすれば、これを放置するわけには行かないだろう。そこに藤原仲麻呂との闘争が生じてくるのだが、これが契機となって、それから永いあいだ藤原家と橘家との確執がつづくようだ。しかし、つねに「揺りもどし現象」が起こり、歴史はおおむね良い方向に動いてきたのではなかろうか。聖武天皇は藤原であって藤原でない。

 

では、橘諸兄を訪ねて「井手の里」に行くとしようか。

そうしよう!そうしよう!

 


河合隼雄の「明恵 夢を生きる」(1987年)

 

目次

 

 自由と不自由、平等と不平等、善と悪、権利と義務、父性本能と母性本能、陽と陰・・・・、世の中というものはひとつの価値観だけでやっていけない。禅の言葉に「両頭截断して、一剣天に依って凄まじ」という言葉があるが、これはそのことを言っているのであり、白とか黒とか・・・、そういう相対的な認識の仕方というものを戒めている。白でもあり黒でもあると同時に白でもないし黒でもない・・・・そういう絶対的な認識に立つべきとの教えである。こういう絶対的な認識の仕方から行くと、白か黒かという区別ができないのであるが、近代科学は、もちろん、それが白か黒かを区別しないとまあいうなればやっていけないのではないか。そういう思考の延長線上にキリスト教などの一神教があるが、本来、存在というものはそういうものではないだろう。存在というものは、そういう白とか黒とかという相対的な認識を超越したものであり、白との関係黒との関係が問題なのである。 

 

 京都大学100周年記念の記念講演会が一昨年の秋に東京であり、河合隼雄さんが「日本人の心のゆくえ」と題して講演を行なわれた。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいせいき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいせいき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。最後は、西洋文化と日本文化の共生の必要性を訴えられ、今後我々日本人は矛盾システムを生きていかなければならないと言われたのであるが、その思想的背景として、まあ、そういう日本文化の存在論、つまり挙体性起(きょたいせいき)ということをいわれたと思う。しかし、私は長い間、挙体性起(きょたいせいき)ということがよく判らなかった。どんな辞書を引いても出てこないのである。

 

 ところが、武家社会源流の旅の行き着く先に明恵(みょうえ)がいるのではないかとの考えから、私は、河合隼雄さんの著書「明恵 夢を生きる」(京都松柏社)を勉強して・・・・・やっと挙体性起(きょたいせいき)ということが判った。以下に河合隼雄さんの説明を紹介しておきたい。

 華厳思想の究極は、法界縁起にあると言われたりする。この法界という語は簡単には説明し切れないことのようだが、一応「望月仏教大辞典」を見ると、いろいろな意味が書かれている。そのなかで「・華厳教学では」という項を示すと、「<現実のありのままの世界>と<それをそのようにあらしめているもの>との二つの相即的に表現する言葉として用いられる。云々・・・・」となっている。(註;相即的という言葉もあまり使わない言葉であるので分りにくいと思うが、相は二つ以上のものの関係をいい、即はぴったりくっついている様を言うので、相即的とは、相対的な関係にあるいくつかのものを本来はひとつであると理解する・・・・そのような理解の仕方をいう。)

 法界はまず出発点として、<現実のありのままの世界>であるが、<それをそのようにあらしめているもの>は何かを考え出すことによって、その意味合いが変わってくるのである。それを華厳思想では、事法界、理法界など四種の法界の体系に組織化している。 

 

 事法界はわれわれが普通に体験している<現実のありのままの世界>で、そこでは、それぞれの事物は明確に他と区別されて自立的に存在している。これは「華厳的な言い方をすれば、事物は互いに礙(さまた)げ合うということ。AにはAの本性があり、BにはB独自の性格があって、AとBとはそれによってはっきり区別され、混同を許さない」という状態である。

 ところが、このように事物を区別している境界線を取りはずして、この世界を見るとどうなるだろうか。『限りなく細分化されていた存在の差別相が、一挙に無差別性の茫々たる無差別性の空間に転成する。この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」と呼ぶのであるが、華厳の述語によると、このように見られた世界が「理法界」ということになる。・・・・・中略・・・・・。理法界の「空」は、「無」と「有」の微妙な両義性をはらんでいる。したがって、無限の存在可能性である「理」は、一種の力動的、形而上的想像力として、永遠に、不断に、至るところ、無数の現象的形態に自己分節していく。・・・・「空」(「理」)の、このような現れ方を、華厳哲学の述語で「性起」と』呼ぶのである。

 華厳哲学において、「性起」の意味を理解することは重要であるが、井筒俊彦によれば、一番大切な点は、それが挙体「性起」であるという。つまり、井筒によれば、「理」は、如何なる場合でも、常に必ず、その全体を挙げて「事」的に顕現する。だから、我々の経験世界にあるといわれる一切の事物、そのひとつ一つが、「理」をそっくりそのまま体現している・・・・井筒はこのように言っている。 

 

 河合隼雄の説明はさらに続くが、ここではこの程度の紹介にとどめておきたい。再度申しておきたい。近代科学は、普遍性を求めるものであり、したがってあらゆる存在の明確な区別、言い換えれば、関係性の截断が必要である。華厳宗というものは、そういう近代科学の原理とは全く違うことをやったのであり、近代科学が否定した関係性を重視する。全関係の総和としての存在というものは、名前がつけられないから「無」と言わざるを得ないが、華厳宗ではそれを「挙体性起(きょたいせいき)」という。生け花というものは、存在が挙体性起(きょたいせいき)するもっともいい形を求めるものであり、そういう意味で、「存在が花している」のである。こういう日本文化の存在論からすると、存在の現れとしてそこに花がある。すべてのものは存在から出てきた。私は、存在が岩井國臣しているのである。

註:上記は、かって私が書いた「挙体性起(きょたいせいき)」についての文章である。 

 

1、明恵と夢

2、明恵とその時代

3、明恵が学んだ華厳と真言の二宗

4、母なるもの

5、身体とは何か

6、耳を切る

7、仏陀への思慕

8、阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)

9、仏教と女性

10、貞永式目の思想

 


1

ぼちぼち天皇を語ろうか?

 

 

 私は先に、『 私は、日本が世界に誇れるもっとも良い点は、「違いを認める文化」を持っているところだと思う。もしそうだとすれば、これは大変なことで、これからの新しい世界文明を切り開く力がわが国にあるということだ。(中略)

 世界に誇るべきわが国の歴史と伝統・文化によって、今後、日本は世界に貢献していかなければならない。この考え方をまず基本として、憲法改正にのぞみたい。そのことが、私の提唱する「劇場国家にっぽん」の場づくりにつながり、歴史と伝統・文化を生かしたの劇的空間を創るということにつながる。

 したがって、「劇場国家にっぽん」の観点からすると、天皇に関する憲法のなかでもっとも大事な条項である第一章第一条は、

 「天皇は日本国の歴史と伝統・文化の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」

というように、「歴史と伝統・文化」という文言を付け加えなければならないと考えるのである。重ねて言うが、われわれ日本人のアイデンティティーは、太古から連綿と繋がっている歴史と伝統・文化によって創りだされ、それによって培われた「違いを認める文化」によって世界に通ずる普遍性をもつのである。』・・・・と述べた。

 また私は、自民党・新憲法起草委員会の「天皇」小委員会(委員長・宮沢喜一元首相)で、

『 再度申し上げますが、私たちは「歴史と伝統・文化」に生きているのではありません。私たちはあくまで「歴史と伝統・文化」を生きなければならないのであります。そういう意味で、天皇は我が国の「歴史と伝統・文化」の象徴であります。それがゆえに、天皇は我が国の国民統合の象徴になり得るのであって、憲法改正にあってはそのことの論理が明確にされなければならないと私は考えております。

 この点につき、是非とも、この小委員会の幹部の皆様方において更に論議を深めていただくよう、切にお願いを申し上げる次第であります。』・・・と述べた。

 

 自民党・新憲法起草委員会では、「歴史と伝統・文化」の重要性は十分認識していただいており、新しい憲法のどこかにそのことが明記されるであろう。しかし、「天皇は日本国の歴史と伝統・文化の象徴であり・・云々・・」というように、「歴史と伝統・文化」という文言は第一章第一条に書くべきであって、前文に書かない方が良い。そういう私の主張は極めて少数意見であって、今のところ、天皇が我が国の国民統合の象徴になり得るという論理は不明確のまま終りそうだ。また、「歴史と伝統・文化」の未来性についても何ら触れられない虞れが強い。

 私たちは「歴史と伝統・文化」に生きているのではない。私たちはあくまで「歴史と伝統・文化」を生きなければならないのある。日本人である以上、日本の「歴史と伝統・文化」にはそれなりの興味をもって、それなりに重視なければならない。また逆に、日本の「歴史と伝統・文化」にそれなりの興味をもって、それなりに重視する覚悟を有する人であれば、現在は違う国籍の人でも、日本人に帰化することは差し支えないのではないか。私は、現在の帰化制度は再検討の余地があると考えているが、今はそれを語らない。今は、帰化人も含めて何故天皇が日本国民統合の象徴なのかという論理を憲法に明定すべきである・・・ということだけを申しておきたい。

 日本人は、新たに日本国籍を取得した人であっても、日本の「歴史と伝統・文化」にそれなりの興味をもって、それなりに重視する覚悟を有しなければならないのであって、故に、日本国の「歴史と伝統・文化」の象徴である天皇を・・・自分のごとく思わなければならないのある。私たちは、「歴史と伝統・文化」を生きている。その象徴が天皇であって、天皇は私たちの象徴であるということができる。

 

  私は、日本が世界に誇れるもっとも良い点は、「違いを認める文化」を持っているところだと思う。もしそうだとすれば、これは大変なことで、これからの新しい世界文明を切り開く力がわが国にあるということだ。世界に誇るべきわが国の歴史と伝統・文化によって、今後、日本は世界に貢献していかなければならない。

 私は、「違いを認める文化」を語るために徳一を語ってきた。そして、今、「違いを認める文化」を語り「空なる天皇」を語るために、明恵について勉強している。その勉強もかなり進んできて、あと「華厳」の勉強を残すのみとなった。ぼちぼち「違いを認める文化」を語り「空なる天皇」を語る準備に入りたいと思う。「場所」は奈良公園である。興福寺と春日神社と東大寺である。聖武天皇の劇的空間、それがこの界隈であるが、言うまでもなく・・・聖武天皇は藤原であり藤原でない。したがって、その劇的空間を語るためには、まずは・・・藤原ゆかりの「場所」を訪ねるところから始めなければならないだろう。

 

それでは、とりあえず、「漢国神社」に行くとするか。

参ろう!参ろう!

 


 

愛知万博・・・「自然の叡智」はどこに??

 

 私は先に、『さて、21世紀になり、日本人がかつて美意識の拠り所にしていた「わび」、「さび」、「風流」などといった、造形的な美しさに加わった感受性の重要性が問われている。私は、現代社会において・・・そういった「日本人の感受性」がよみがえる事が世界平和をつくり出していくし、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」ではなく、未来の世界文明を切り拓いていくと考えている。

 私の文脈から言えば、「日本人の感受性」は「自然との響き合い」、「宇宙との響き合い」に起因する。そのことを以下に説明するが、愛知万博(愛・地球博)のメーンテーマが「自然の叡知」であることを申し添え、3月に始まる愛知万博(愛・地球博)が、はたして、フランシス・フクヤマがいうような「歴史の終わり」ではなく、未来の世界文明を切り拓くために極めて重要な博覧会であることを申し添えておきたい。』・・・と述べた。

 ところで、愛知万博(愛・地球博)のメーンテーマ・「自然の叡知」という言葉はすばらしい言葉であり、これは誰が言い出したのか・・・・私は、それを知りたくて、調べてみた。どうも中沢新一であるらしい。そのことが判明して、やっと私の疑問も氷解したが、けだし、現在こういうことをずばっと言いうるのはやはり中沢新一だけであろう。中沢新一の哲学に傾倒する私としては、この際、愛知万博(愛・地球博)のメーンテーマ・「自然の叡知」について、少々、その顛末を記しておきたい。

 

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註:今までのWhatsNew

  明恵と夢 

 

何故明恵なのか

 

 

 日本の仏教は、奈良仏教を原点として、その後、平安時代には天台宗と真言宗が勃興し、鎌倉時代には真宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が勃興した。それらの新しい仏教は、当然、それを生み出した時代背景があり、それが生まれでてきた歴史的必然性があるのだが、奈良仏教がもはや時代の要請にあわなくなったということではない。

 現在、世界は混沌の時代に入っている。世界は新しい秩序を求めて目まぐるしく変化している。新しい哲学が必要であり、新しい思想が必要である。そして、人びとの生活を律する宗教が必要になってきている。

 私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、「違いを認める文化」だと考えている。河合隼雄は、心髄がないのが・・・日本の「歴史と伝統・文化」の心髄だと言っていたが、私はそうは思わない。もちろん、これからの研究が必要であり、学者の先生方に期待するところが大であるが、もし私の言うとおり、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄が「違いを認める文化」だとしたら、これは大変なことで・・・、世界における・・・哲学や思想や宗教に大きな影響を与える可能性がある。学者の先生方に頑張って欲しい。しかし、素人ではあるが、私なりに勉強して、その勉強ぶりをこのホームページで世に問いたいと思うのである。皆さん方のご意見やら感想やら、おおいに叱咤激励をいただきたい。

 日本の仏教は、奈良仏教を原点として、その後、平安時代には天台宗と真言宗が勃興し、鎌倉時代には真宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が勃興した。そして、そのつど、奈良仏教と激しい宗教論争があった。ひとつは、最澄と徳一の宗教論争だし、もうひとつは、法然と明恵の宗教論争である。私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄が「違いを認める文化」だという立場で、それぞれ徳一と明恵に軍配を挙げているのだが、今まで、徳一については、かなりの時間をかけて勉強してきた。徳一は、興福寺(法相宗)の代表である。しかし、奈良仏教を語るのに、東大寺(華厳宗)を語らないで何を語るのか・・・。政治はもちろんのこと、仏教教義の面でも、歴史的に、明恵は絶対に欠かせない人である。

 まあ、そんなことで、目下、明恵について、いろいろと勉強中なのである。今しばらくおつき合い願いたい。

 さて、私の家の墓は、京都の妙心寺(大心院)にある。昨日(平成17年3月20日)は、春のお彼岸であり法事があった。その法事の後の食事が始まる間を利用して和尚さんが話をなさるのだが、今回は私にせよとのお話で・・・、30分ほど講話をさせていただいた。明恵についてである。

 和尚さんは、若い頃、明恵に特別の関心をもって勉強された由。私の「劇場国家にっぽん」・・・「わが国の姿(かたち)のあるべきようは」をご覧になって、私に講話をさせることを思いつかれたようだ。ありがたい話である。私は喜んでお引き受けしたのだが、その講話の骨子は次のとおりである。ここに紹介しておきたい。

 

 禅宗というのは、「座禅」によって「悟り」を得ようとする仏教の一宗派ですけれど、臨済宗の「栄西」に始まります。栄西によって日本の座禅が始まりました。そして、これはあまり知られていませんが・・・・、栄西に教えを乞い・・・、見事な座禅を実践した人・・・それが「明恵」という人だと思います。後鳥羽上皇から特別の思(おぼ)し召しがあって、栂尾の高山寺を開いた人・・・、それが明恵ですけれど、東大寺を代表する偉い坊さんでもあります。栄西は・・・・明恵に臨済宗を引き継いでもらいたかったようですが、そういう事情があって、実現しなかったようです。

 ただし、明恵はお茶の栽培を栄西から引き継いで、それが・・・宇治茶に繋がっていきます。栄西と明恵の・・・まさに親子のような・・・親密な関係がなかったら、宇治茶というものは誕生していなかったかも知れません。

 

 宇治茶の話はどうでも良いのですが、今私がいいたいことは、「座禅」というものの「すごさ」、「座禅」というものの「すばらしさ」であります。「座禅」によって人は「悟り」を得ることができるし、人格を高めることができるようであります。その達人が明恵であります。したがって、明恵の思想はすごいのです。哲学でいえば、今注目の「華厳哲学」です。私は世界最高だと思っています。

 さて、明恵がこんな面白い詩を残していおります。

   「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」

 月をこよなく愛し、月を歌った歌が多いため「月の歌人」とも言われています。この歌にはいろいろと解説がありますが、私は、ともあれ、この歌は理屈抜きで味わってほしいものと考えています。

   「あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月」

 

 さて、皆様も御承知のように、今、世界は・・・ほとんどのものがアメリカの力によって動いています。しかし、アメリカの力の政策によって・・・・、はたして、イラクに平和は訪れるのでしょうか。アメリカの力の政策によって・・・・、はたして、テロはなくなり、世界に平和はやってくるのでしょうか。

 私は、アメリカが好きで、親米派ですが、アメリカの力の政策だけでは、21世紀・・・・、世界はやっていけないと思います。自爆テロといいますか、イスラム原理主義も困ったものですが・・・・、アメリカのキリスト教原理主義も困ったものであります。自分の考えていることが一番正しいという・・・原理主義はいけません。相手のことも考えなければならないのです。人さまざまであり、違いというものを認めなければならないのではないでしょうか。

 明恵の思想「あるべきようは」というのがあります。やはりこれが一番いい・・・・。臨済宗には、白隠禅師や山本玄峰などのものすごい人が出ていますが、歴史的に見て、私は、栄西直伝の「座禅」を組んだ明恵の思想・・・「あるべきようわ」が一番すごいように思われます。

 親には親のあるべき姿があり、子供には子供としてのあるべき姿がある。男は男としての姿があり、女は女としての姿がある。イスラム教にはイスラム教としてのあるべき姿があり、キリスト教にはキリスト教としてのあるべき姿がある。人それぞれにあるべき姿があるのであり、相手のことをとやかくいうことよりも・・・やはり自分に厳しくした方が良い。

 

 明恵はおそらく、自分の生き方について多分こう言ったであろうと思います。

 「私はあの世の天国で済われようとは思っていない。ただ、現世において、今、あるべきようにするだけだ。修行すべきように修行し、楽しむべきときは楽しめばいい。今は何をしてもかまわない、念仏を唱えて助かればいい、などとはどの経典にも書いてない・・・」と。

 

 やはり法然とは根本的に考え方が違っていたようです。法然の念仏思想は極楽往生を前提とした他力本願であり、明恵の「あるべきようは」は臨機応変の「自力本願」であります。

 

 きっと・・・これからのインターネット時代というものは・・・、臨機応変の「自力本願」というものが求められると思います。今後将来・・・、「あるべきようは」に込められた・・・・明恵の思想が見直され、きっと世界から注目されるに違いないと思います。

 

 「原点に帰る」という言葉がありますが、仏教は、やはりお釈迦さんの原点・「座禅」に帰って・・・・、或いは仏さんの前に坐って、静かにじっくりと・・・・、自分の「あるべきようは」をよくよく考えた方が良い。私はそのように考えるのですが、どんなものでしょうか。

 


河合隼雄「明恵 夢を生きる」1987年

註:以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

明恵と夢

 

 

 ながきよの夢をゆめぞとしる君やさめて迷へる人をたすけむ (『明恵上人歌集』)

 

 明恵房高弁(みようえぼうこうべん)は、承安三年(一一七三)に生まれ、貞永元年(一二三二)に六十歳(数え年。以下同じ)で没した、鎌倉時代初期の名僧である。彼の生きた時代は、平家から源氏へ、源氏から北条へとあわただしく権力の座が移り、その間にあって、法然、親鸞、道元、日蓮などが現われ、日本人の霊性が極まりなく活性化された時代であった。明恵はこれらの僧と共に名僧として崇められたが、他の僧のように「新しい」宗派を起こしたのでもなく、彼の教えを守る人たちが現代に至るまで大きい宗派を維持してきたというのでもない。しかし、彼は世界の精神史においても稀有と言っていいほどの大きい遺産をわれわれに残してくれた。それは、彼の生涯にわたる膨大な夢の記録である。

 

 明恵は「夢を生きる」ことによって自己実現を図り、華厳と真言の世界を統合した新しい世界、それは21世紀の哲学にも通じ得るまったく新しい世界であるが、そういった新しい華厳の世界の先達となった誠に希有な人であるが、河合隼雄によれば、そのすべてがそれら膨大な夢の記録によって解明できるのだそうだ。

 

 夢は心全体の平衡状態を回復させる機能をもつ、と先に述べた。個人が成長に伴って築きあげてきた自我は、ある程度の統合性や安定性をもっており、あまり事が起こらないと、そのままの状態で安定している。これは安定しているとも言えるが、停滞している、と言うこともできる。自我はそれなりに安定していても、異なる側面から見ればそれは何らかの意味で一面的であり、もっと高次の統合へと向かって変化してゆく可能性をもっている。従って、われわれが自分の夢に注目し、それを自分の自我の在り方と照合し、夢の告げるところの意味を悟り、自分の生き方をそれに従って改変してゆくときは、以前よりは高次の統合的な存在へと向かって変化してゆくことになる。このような変化の過程を援助する仕事をするのが、いわゆる分析家であり、その仕事のなかに夢分析ということが重要な役割を占めることになる。

 異質のものの結合によって新しいものが生まれ、その結合をなし遂げるためには、心理的・身体的な強力なエネルギーの流出を必要としている。

 

夢の作用 

 夢は補償作用をもっと述べた。ここでユングが述べている補償的(kompensatorisch)と補完的(komplementar)なはたらきの区別について明らかにしておく。補完的というのは、ある存在に対して、あるものをつけ加えて完全なものにする場合で、半円に対して他の半円を加えて完全な円とするような場合である。これに対して、ユングが補償的という用語を用いるのは、それが何らかの意味で他の一面的存在を補うはたらきをもっているが、それは必ずしも完全になることを意味していず、その存在にとって受け入れやすい特徴をもつことを意味している。例をあげるならば、たとえば、外向性の極めて強い人であれば、それと対極にある強い内向性は補完的な存在と言えるが、おそらくそれはあまりにも差がありすぎて両者が統合されることはまず不可能であろう。これに対して、弱い内向的傾向は、外向的な人にとっても受けいれられる可能性があり、それは補償的であると言える。ユングが無意識は補償的にはたらくと言うのは、その提示する内容が、自我にとってある程度受け入れやすいことを示しているのである。従って、ある夢を見るということは、そのことが自我とある程度近いということも示していることになる。

 このような点から考えると、夢は無意識の内容を示しているが、意識の状態とも大いに関係しているわけで、夢によってある程度、その人の意識の在り様を推察できるし、意識がある水準に達しなかったら、ある種の夢は見られない、ということもできるのである。つまり、ある程度の修練や努力なしに、意味深い夢を見ることは難しいと言える。

 意識の在り方がある程度夢に影響を与えるし―と言っても自分の見たい夢を見るなどというものではないが―、夢が意識の在り方に影響を及ぼす。意識と無意識の相互作用によって、そこに意識のみの統合を超えた高次の全体性への志向が認められてくる。このような過程を通じてこそ真の個性が生み出されてくると考え、ユングはこのような過程を個性化の過程、あるいは自己実現の過程と呼んだ。

 ユングは夢と自己実現ということとの関連を身をもって体験し、それを示したと言えるのだが、それと同様のことを、明恵が既に十三世紀に行なっていたということは驚異的なことと言わねばならない。

 

 

日本人の夢 

 明恵のこのような業績がいかにユニークなものであるとは言え、歴史の流れと関係なく突然に出てきたものでないことも事実である。日本の文化と夢とは密接に関連しているのである。

 ちなみに、世の中には、歴史的な人物という人がいて、そういう人はいろいろと話題になるし、書物にも書かれることが多い。現在でも、その人が歴史的人物になるかならないかは別として、その人が面白い人であれば、いろいろと話題になるし、書物にも書かれることがるだろう。それがたとえ特定の人であっても、その人は、その時代に生き、その時代の伝統や文化を生きているのであり、その時代というものが、或いはその時代の伝統や文化というものがその人に染み込んでいる。したがって、ある人を語るということは、その人の生きている時代を語りその時代の伝統や文化を語ることにほかならない。ある人を知るということは、その人の生きている時代を知りその時代の伝統や文化を知ることにほかならない。

 かって、宮本常一は、観光文化研究会をつくって「あるく、みる、きく」という・・・誠に彼ならではのすばらしい冊子を発刊したが、私は、「日本の文化と夢とは密接に関連している」という河合隼雄の主張と宮本常一の旅に対する思いとを重ね合わせながら・・・「あるく、みる、きく」という言葉の含意を考えている。どちらかといえば、私の旅は、「あるく、みる」だけであり、あまり人の話を聞かないのだが、これからは、せいぜい宮本常一を見習って「あるく、みる、きく」旅をするよう努めたい。 

 

 さて、合理主義によって武装された自我は強力であるが、それは完成したものではなく一面的存在であることを免れ得ない。現在の自我の状態に安住することなく、常にその成長を願うならば、現在の自我の状態に対して何かをそれにつけ加えようとし、あるいは、それに対する批判を加える存在を必要とする。そのような存在がわれわれの無意識であり、夢は無意識からのメッセージを睡眠中の自我がそれなりに意識化したものと考える。従って、夢の内容を自我の合理性に固く縛られてみるかぎり、ナンセンスと思われることが多いのであるが、その内容を自我を少し超え、現在の自我をより高次なものへと引きあげるための異質な世界からのメッセージとして見るときは、大きい意味をもってくることがある。もちろん、それは覚醒時の自我意識とは異なる意識内容であり、しかも、自我の盲点と何らかの意味でかかわるものであるから、そこから意味を引き出すことは容易ではない。

 このように考えると、夢分析を行なおうとするものは強力な合理性を身につけ、なおそれを超えて、敢えて非合理の世界と向き合う姿勢をもっていることが必要であることが了解されるであろう。強い合理性をもっていないと無害心識の餌食となってしまうし、合理性にのみ固執しているときは、夢の意味を見出すことは難しい。明恵はその点で、夢分析を自ら行なってゆくのにふさわしい能力をそなえた、稀有の人であったと考えられる。

 ちなみに、合理性と非合理性・・・その両面を兼ね備えることの重要性・・・、私が言いたいのはそのことであり、「流動的知性」ということを言っている所以である。 

 

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(平成17年3月19日) 

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明恵と夢

白上(しらがみ)山地の遺跡

水木しげるの「神秘家列伝 其の壱」

法然と明恵(目次)

天台宗

他力主義と自力主義

本覚思想と成仏

法然と明恵

日本人の感受性

胞衣(えな)信仰(その2)

翁と天皇

日本人を動かす原理・「日本的革命の哲学」(山本七平、1992年)

明恵の導入部に戻りますが・・・!

安房口神社の謎

国土政策フォーラム(6) 日本の復活・・地域再生と公共事業

いよいよ明恵に・・・!

 

 

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