5、場所(トポス)とは

 

 田邊元は西田哲学「場所の論理」を静的直感として批判したが、私は、「場所の概念」というものは、或いは「場所」というものは、誠に大事であると 感じている。和辻哲学は、ハイデガー哲学「時間性にもとづく人間把握」に対抗して、「場所性にもとづく人間把握」として誕生し、それ以来「風土」の概念が 定着した。私は、人間というものを理解する上で、民族というものを理解する上で、或いは文化というものを理解する上で、「場所」とか「風土」というものが 何よりも大切であると考えている。この場合、人びとにとって、実際的には、その場所を理解するといっても容易ではなく、何はともあれそこに行くこと、そこ で楽しむこと、そこで実際に人々や歴史や自然と響き合うことである。私が旅を薦め、、そして「劇場国家にっぽん」を提唱する所以である。

「劇場国家にっぽん」では場所(トポス)づくりを目指しているのだが、そもそも・・場所(トポス)とは哲学的にどのように理解すればいいのか。ま ず、中村雄二郎の哲学的な説明に耳を傾けよう。

 

 『場所とは、私たち人間にとって、きわめて古くてしかも新しい問題である。哲学の歴史のなかでも、ギリシャ哲学以来の由緒ある問題である。ところ がこの場所の問題は、西洋の近代哲学ではほとんど顧みられることはなかった。なぜだろうか。一口に言って、場所の反対概念は主体(主観)であるが、その主 体 (主観)が基体になったからであろう。主体(主観)が自立する方向をとったからであろう。すなわち近代人は主体としてできるだけ他者に依存せずに自立しよ うとした。デカルトの<われ思う、ゆえにわれあり>は、近代人のそのような欲求をもっともよく表すとともに、その根拠づけを行った画期的な主張であった。

 このように自己を根拠づけることによって、人間(個人)はその自立を推し進め、ここに近代思想と近代文明は、<主観〜客観>の図式のもとにその可 能性を徹底的に追求することができた。主観 (主体)の自立と能動性を前提として、外界や自然に対する働きかけや支配がいっそうすすめられた。けれども、その可能性がほとんど実現されそうになるに 至って、その行きすぎが人間自身の生存の基盤・・・たとえば生態系・・・を突き崩すことが次第に明らかになった。こうして、意識的な自我主体を内実とする 人間の自立ということがつよく疑われるようになった。自己(セルフ)と区別された自我 (エゴ)の自立性への疑いである。こうして、意識的な自我の隠れた存在根拠を形づくるものとして、あらためて共同体や無意識や固有環境などが大いに顧みら れるようになった。かって人間は、それらの場所からおのれを解放することによって活力を得た。けれどもそのときには、その活力そのものが実は少なからずそ の場所に負っていたことに気がつかなかったのである。

 共同体や無意識は、固有環境とちがって、ふつういう意味での空間的な場所を形づくるものではない。が、それらは、意識的自我がそこにおいて成り立 つ場あるいは場所を形づくっている。つまり、共同体、無意識、固有環境のいずれにもいえることは、それらが人間的自己にとって、基体としての場所、場所 (基体) だということである。

・・・・(中略)・・・・

共同体や無意識と同様に、固有環境もまた、意識的自我の基体としての場所である。この固有環境という言い方は、生物学的、生態学的な意味合いがつよ い。そのかぎりでは、個体の生存と活動を成り立たせている生物学的、生態学的な基盤のことである。(中略)・・しかし固有環境ということは、心的な意味を 含めてもっと広い意味で、人間についてもいうことができる。人間に関しては、それが、コロス的な共同体や無意識の具体的なあらわれでもありうるからであ る。ある場所や土地の心的固有性を示す表現としてゲニウス・ロキ(土地の精霊)ということばがあるが、これは固有環境の心的側面をよくあらわしている。』

 

 さて、コロスとは、もともとギリシャ悲劇におけるヒーロー(主役、劇的行動者)に対する言葉で、中村雄二郎は舞唱隊の人びとと言っているが、要 は、コーラス隊の人びとのことである。ちょっと永くなりすぎて恐縮であるが、中村雄二郎の説明はつづく。

 

『劇的行動者であるヒーローに対して、コロスは行動しないが、そのことばは民の声であり、神々の声であり、大地の声である。このようにコロスは、す ぐれて共同体の無意識を体現している。そしてヒーローはコロスから分化し脱したものであるが、その十全な存在はコロスなしには成り立たない。十全なヒー ローとは、人間存在の深層と表層の重層性を個人のうちに体現した人間のことである。それに対して、近代の自我(主体) が次第に自足化し固定化していったのは、コロス的な基体との結びつきが断ち切られ、コロス的な基体を失ったからにほかならない。(このことは、自我(セル フ)と自我(エゴ) との関係でいえば、根源的な自己と結びついた自我が、その自己との結びつきを失った、ということになる。)』

 

そうなのだ。氷山をイメージしてもらいたい。自我すなわち水面上の部分は、水面下に隠れたものすごいでっかい氷山を基体として存在しているのであっ て、基体というものを抜きにして成り立つはずがない。意識界の自我が無意識界の基体を統合して自己を形成しているのであって、私達は自己に目覚めなければ ならないのである。基体を忘れて自我だけを主張してはならない。

以上、中村雄二郎の説明を中心に、意識的自我の存在根拠あるいは基体としての場所として、共同体、無意識、固有環境について簡単に見てきた。それら はいずれも、現在あらためて人びとが関心を向けざるを得なくなった場所の問題であるのだが、現在問題になってきている場所とは、それだけに尽きないと中村 は言う。中村はいま見てきたものを<存在根拠(基体)としての場所>と呼ぶならば、少なくともそのほかに、<身体的なものとしての場所>、<象徴的な空間 としての場所>、そして<論点や議論の隠された所としての場所>の三つがあるというのである。次にそれらを勉強していきたいと思う。

 

まずは、<身体的なものとしての場所>に ついて!