黒潮圏の考古学

 

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世界最古の海上航行:約5万年前頃東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られている。かれらは目視できる島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活している。

約3万2千年前頃、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、約180Km南の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。

神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人である。かれらは琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた新人集団と考えられる。種子島の立切、横峯B遺跡(約3万年前)、東京の西之台B、中山谷遺跡(約3万5千年前)で出土した礫器、大型幅広剥片石器、錐状石器、クサビ形石器、磨石、敲石などの「重量石器」を特徴としている。同様な旧石器群は、ベトナム、香港、台湾島などにも分布が認められている。

http://ao.jpn.org/kuroshio/kaijo.htm

 

日本の旧石器時代の石器の一つに「斧形石器」がある。この石器の大半は刃部を研磨した磨製石器である。この石器器種は、1949年(昭和24)日本で初めて「旧石器文化」が確認された群馬県「岩宿遺跡」の第 I 文化層に2点発見されていた。

石材は砂岩、頁岩、蛇紋岩、安山岩、片岩など多様であるが、中部地方北部では縄文時代にも多用された蛇紋岩製磨製石斧が卓越している。

斧形石器は現在北海道から九州、奄美大島まで約135カ所の遺跡で約400点出土している。

日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、名実共に「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種である。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものである。

日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3〜4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。

http://ao.jpn.org/kuroshio/palaeomafu.htm

 

 

関東地方南部  http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

 この地方には黒曜石の原産地は知られていない。しかし、多くの遺跡で黒曜石が使用されていることから、理化学的分析が最も多く行われている地域である。使用されている黒曜石は、大きく信州(長野県)系、箱根(神奈川県、静岡県)系と神津島(東京都)系の原石が複雑に利用されている。

 東京地方の黒曜石分析は昭和44・45年(1969・70)の調布市野川遺跡の発掘調査を契機にして、東京大学の鈴木正男によって推進された。鈴木の分析によって関東・中部地方の旧石器時代遺跡184文化層から2,733点の黒曜石製石器が、フィッション・トラック分析法によって分析された。その結果、約30,000年前頃から黒曜石が使用され始め、主に箱根系の黒曜石を利用していた。12,000年前頃になると箱根系と信州系が同時に使用され、さらに太平洋上の神津島系の黒曜石も使用されている。縄文時代になると、箱根系、信州系、神津島系の三者が早期と前期では50:37:13パーセント(遺跡数)、43:49:8パーセント(黒曜石数)という比率であり、中期になると36:41:23パーセント(遺跡数)、42:42:16パーセント(黒曜石数)となっている(Suzuki 1973, 1974)。

 最近では多数の分析グループ(立教大、東京学芸大、京都大、お茶の水女子大、パリノ・サーヴェイ、国立工業高専)が、この地方の黒曜石分析を行うようになっている。その成果の一つのとして、神津島系の黒曜石が約35,000年前頃に東京の旧石器遺跡(武蔵台X層文化)から確認され、旧石器人が世界に先がけて海上航海を行っていたことが判明している(小田 1997)。

 

北海道の十勝三股や白滝産に特徴的に存在する褐色の黒曜石について、立教大学の輿水達司らは山梨県の縄文時代遺跡出土の褐色黒曜石石器をフィッション・トラック法で分析し、霧ケ峰や和田峠産と同じ噴出年代を示し産地が同じ場所にあることを確かめている(輿水・戸村健児・河西 学「本州中央部より出土の褐色黒曜石の原産地」考古学ジャーナル379, 1994)。最近八ヶ岳山麓にも原産地が確認され出した。

最近、明治大学で旧石器時代の大規模な鉱山址「鷹山遺跡群」の発掘調査が続行中であり、この地方が中部・関東地方の黒曜石の一大供給地域であったことが理解されている(小杉 康「遙かなる黒耀石の山やま」『縄文人の時代』1995, 新泉社)。

 富山県下の旧石器時代4遺跡、縄文時代4遺跡出土の黒曜石石器を分析した京都大学原子炉研究所の藁科哲男は、旧石器段階では長野県霧ケ峰産と秋田県深浦産、縄文段階では霧ケ峰産と山形県月山産と判定している(藁科「富山県下遺跡出土の黒曜石遺物の石材産地分析」大境 9, 1985)。

 

中国地方北部 http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

 現在4カ所、隠岐(島根県)の島に黒曜石原産地が知られ、加茂と久見が著名である。

 この地方の藁科哲男により、隠岐産の黒曜石は主に中国地方北部の海岸地域と中央山岳地帯の遺跡に使用され、一部は瀬戸内側にも運搬されていることが判明している(藁科ほか 1988)。縄文時代が中心で、隠岐島から海上交通によって本州島に丸木舟で運ばれたものである。最近、鈴木正男によって、隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州にも渡っていることが判明している。日本海を丸木舟でロシアと日本の先史人が交流している事実が浮上してきたのである。

 

九州地方北部 http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

 現在17カ所近くの黒曜石原産地が知られている。佐賀県の腰岳が最大で、次は長崎県の松浦半島の牟田と針尾島の古里海岸である。また九州本島から離れた姫島(大分県)に2所、壱岐(長崎県)の島に4カ所、黒曜石の原産地が存在している。

 この地方の黒曜石石器と原産地に関する研究は、昭和35年に熊本県山鹿市の高校教員であった隈 昭志が「石器材料の石質から見た需給圏−本州西端及び北九州−」と題して論述したのが最初であろう(考古学研究25, 1960)。隈によると、この地方には大きく伊万里、姫島、阿蘇系の3つの原産地が知られている。そして各遺跡出土の黒曜石を肉眼的に識別すると、姫島系は特徴があるが、漠然と阿蘇系と呼ばれていた黒色の黒曜石は伊万里系(のちの腰岳)であり、山口県から福岡県にかけて広く分布していることが確かめられたという。

 20年後の1980年、黒曜石の理化学分析が、東京学芸大学の大沢眞澄の研究グループによって、福岡県若宮町都地遺跡で初めて行われた(二宮ほか『若宮宮田工業団地関係埋蔵文化財調査報告書3』1980所収)。分析を推進した二宮修治は、原子吸光分析法、機器中性子放射化分析法を用いて5点の石器を分析し、佐賀県腰岳か長崎県古里海岸産と判定した。当時、まだ腰岳と古里海岸産の区別が理化学的分析でも分離出来ない段階にあった。

 九州地方は本州、北海道と共に黒曜石の原産地の集中した地域である。最大の原産地は腰岳(佐賀県)で、ここの黒曜石は北は朝鮮半島(鈴木正男分析)から、南は沖縄本島(鈴木正男、二宮修治分析)にまで運ばれている。腰岳に次いで黒曜石の原産地が集中しているのは、長崎県松浦半島の牟田と針尾島の古里地域である。筆者も学生時代から長崎県島原半島筏遺跡、百花台遺跡、そして佐世保市岩下洞穴の発掘調査に携わり、同級生の佐世保市出身の下川達弥(現・長崎県立美術博物館)とこの地域の黒曜石産地を踏査したことがある。その経験によると、牟田と古里地域の黒曜石は、腰岳に似て黒色良質なものであったが母岩が小さく県内の遺跡を中心に利用されているようであった。また下川は、ハリ質安山岩に似た灰色の黒曜石原産地を淀姫で発見している(下川「佐世保市東浜淀姫発見の黒耀石産地」若木考古74, 1965)。この淀姫原石の方が、前二者の原石礫より母岩が大きく利用価値がありそうであった。

 長崎県地方の黒曜石産地の探索は、その後多くの考古学・理化学研究者によって行われている。考古学者の清水宗昭は「針尾島の黒曜石原石地帯」を速見考古創刊号(1971)に、また副島和明は「針尾産黒曜石の原石について」を『針尾人崎遺跡』(1982)に、さらに米倉浩司は「佐世保市針尾島の黒曜石・サヌカイト原産地と旧石器遺跡」を旧石器考古学41(1990)の載せている。東京学芸大学の二宮修治のところで黒曜石の理化学分析をしていた諸岡貴子は、「佐世保市針尾北町・砲台山の黒曜石産地」を考古学ジャーナル261(1986)に発表した。

 熊本県阿蘇地方にも、古くから黒曜石の原産地が知られている(隈 1960)。昨年12月大分県聖嶽洞穴の発掘調査の折、熊本県の考古学関係者から、珍しい黒曜石石器を見せられた。それは表面の状況が肉眼では安山岩状を呈する旧石器時代の大型剥片石器類で、筆者も最初黒曜石であることを疑ったほどであった。しかし新しい破損部分を見るとガラス質で光沢があり黒曜石のようであった。原産地は阿蘇にあるという。

 この北部九州地域も近畿、瀬戸内地域と同じく、安山岩の大原産地が鬼鼻山、老松山(佐賀県)周辺に存在し、旧石器〜弥生時代の大型石器はこの石材を多用している。中でも明治大学が発掘調査した多久市三年山や茶園原遺跡では、ここの安山岩を使用して大型石槍を多量に製作した地点が確認されている。

 

九州地方南部 http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

 現在8カ所近くの黒曜石原産地が知られている。熊本県(白浜)、鹿児島県(日東、上牛鼻、竜ケ水。長谷)、宮崎県(桑ノ木津留)の境界地域に黒曜石の原産地が集中して認められる。

 この地方の黒曜石原産地は、昭和41年頃から出水高等学校の池水寛治による上場高原の考古学調査で知られた(池水「鹿児島県上場遺跡」考古学年報28, 1977、「熊本県水俣市石飛遺跡」考古学ジャーナル21, 1968)。池水によると出水市日東部落開拓地に黒曜石の大露頭を確認している(小田静夫「九州地方における先土器時代遺跡の編年」『藤井祐介君追悼記念考古学論叢』1980)。近年では大久保浩二によって、新発見の黒曜石の原産地が報告されている(大久保「新発見の黒曜石原産地」縄文通信4, 1991)。

 今年の春、鹿児島県立埋蔵文化財センターの牛ノ濱修、桑波田武志のご好意で、筆者が阿蘇で見た非常に珍しい黒曜石石器に鹿児島県でも出会った。阿蘇の例でも述べたが、同じく石器表面の風化が肉眼では安山岩状で、とても黒曜石には見えないものであった。牛ノ濱、桑波田のご好意で、このサンプルをパリノ・サーヴェイの五十嵐俊雄に鑑定して頂くことができ、まぎれもない黒曜石ということで安心した経緯がある。桑波田によると、鹿児島県薩摩郡上牛鼻に原産地があり、旧石器時代の松元町前山遺跡に多数使用されていた。

 近年、京都大学原子炉研究所の藁科哲男によって、加世田市栫ノ原遺跡とヘゴノハラ遺跡の黒曜石石器が分析されている。それによると栫ノ原第VI層上部縄文時代草創期の118点の石器は、地元の桑ノ木津留(46点)、上牛鼻系(40点)、竜ケ水(23点)と多く、佐賀県腰岳系(4点)、地元の日東系(1点)であった。また栫ノ原第VI層下部旧石器時代の27点の石器は、地元の桑ノ木津留(8点)、上牛鼻系(6点)、竜ケ水(1点)、腰岳系(1点)、地元の日東系(1点)であった(『栫ノ原遺跡』1998所収)。ヘゴノハラ遺跡縄文時代早期出土の15点の黒曜石石器は、上牛鼻系(7点)、竜ケ水(2点)、長崎県淀姫(2点)、桑ノ木津留(1点)、腰岳(1点)であった(『ヘゴノ原遺跡』1997所収)。

 鹿児島県は黒曜石をはじめ地元のあらゆる原石、たとえばチャート、安山岩、鉄石英、玉髄、水晶などをを使用しているようである。

 

奄美・沖縄地方 http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm

 この地方には黒曜石の原産地は知られていない。

 沖縄での黒曜石石器は大正15年(1926)に東京の小牧實繁による城嶽貝塚の発掘調査で、出土した石鏃の中に2点の黒曜石製品があり、沖縄では初めての発見で大変愉快であったと述べている。城嶽貝塚からは他に黒曜石の剥片が35点出土し、小牧は石鏃製作がこの遺跡で行われたことを示唆している(小牧「那覇市外城嶽貝塚発掘調査(予報)」人類学雑誌42-8, 1926)。

 黒曜石の理化学分析は、昭和52年(1977)の仲泊遺跡が最初である。鈴木正男により分析され、腰岳(佐賀県)産の黒曜石と判定された(『仲泊遺跡』1977所収)。最近、伊是名貝塚遺跡発掘調査団(団長堅田 直・帝塚山大学)によって、伊是名貝塚と隣接したウフジカ遺跡の黒曜石が東京学芸大学の二宮修治によって分析され、やはり腰岳産と判定されている(『伊是名貝塚遺跡の研究』2001所収)。

 現在、奄美地方では奄美大島から4カ所、徳之島から3カ所、伊是名島から3カ所、沖縄本島から16カ所以上発見されている(上村俊雄「南西諸島出土の石鏃と黒曜石」人類史研究10, 1998)。

 奄美・沖縄地方はサンゴ礁の発達した地域で、南海産の大型貝殻が道具に多用されている。当然石器に代わる原材であり、重量石器以外の小型軽量剥片石器にはこの貝殻が用いられている。この地域の遺跡を歩くと、表面には貝殻は多く散布するが、石片類はほとんど見つからない。発掘資料にはチャート製石器が僅かに存在し、地元のチャートが使用されていることが分かる(小田静夫「沖縄の剥片石器について」『高宮廣衞先生古稀記念論集』2000)。したがって、黒曜石は超貴重品であった訳で、九州地方の縄文人が、貝殻などとの交換財として持ち込んだものであろう。

 

 

黒曜石は日本の旧石器、縄文時代遺跡を中心に、石器の石材として多用されている。その利用範囲は原産地を中心にした地域であるが、原石産出量、質、母岩規模などが優れていた原産地の場合、遠距離にその利用状況が認められている。現在、北海道では白滝産が量、質、大きさで群を抜いており、津軽海峡を渡って青森県や遠く日本海を渡ってロシアの沿海州地方ヘ運ばれている。中部地方では和田峠産が透明で質も良く、中部・関東一円の石鏃用として多用されている。九州地方では腰岳産が質、量が多く、南は琉球列島の沖縄本島へ、北は対馬海峡を越えた朝鮮半島南部の遺跡に発見されている。こうした黒曜石の遠距離移動は、「交易」「文化圏」などを説明する資料として重要であり、黒曜石の科学分析はそれを証明する手段として最も有効な方法であった。また黒曜石の水和層を測定することによって、その石器が使用された年代が推定できる利点がある。他の年代測定とのクロスチエックによって正確さは確かめられている。

 黒曜石は日本先史考古学にとって重要な研究石材である。その証拠に日本考古学の開始とともに、黒曜石をテーマにした研究がなされている。その初期では肉眼や顕微鏡下での岩石の性質からの判別であった。戦後になり、現代科学の発達によって黒曜石分析法も理化学的手法による分析が行われることになった。しかし、初期の頃には資料を粉末にする破壊試料が中心であった。したがって、希少、重要遺物、完形石器などについては分析出来ないでいた。しかし、非破壊による分析が一般化した現在、こうした資料に関しても分析可能であり、関係者の努力によってすばらしい成果が約束される時代が到来したのである。

 もう一つ心配なのは、各分析グループの成果報告書をみると、それ自体の分析で終了している点である。少なくとも情報の発達した今日、他の分析グループの研究成果も多数存在しており、こうした結果を踏まえた考察をお願いしたいものである。この責任は自然科学側だけにあるのではなく、資料を提供する考古学側の事前準備の問題も大きいと思われる。これからの黒曜石分析は科学者同志の組織を越えた共通データの解析、さらに考古学者とのクロスチエック機能との連携プレイを確立させ、より正確な分析成果を共有し、世界に発信していくことが大切であろう。

http://ao.jpn.org/kuroshio/kenkyudoko.htm