熱海大越遺跡の黒曜石はどこからきたか

 神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?

 

 

 熱海と湯河原の間に千歳川が流れている。千歳川の西側が熱海で静岡県である。千歳川の東側が湯河原で神奈川県である。上流にいくと千歳川という川 は川幅20mほどの小さな川であり、熱海側も湯河原温泉である。その湯河原温泉からまっすぐ北に行けば湯河原ターンパイクを経て箱根に行くが、ほぼ真西に 向って、熱海の十国峠に抜ける間道がある。熱海の泉地区の北側である。車でいける。やや狭いが立派な舗装道路をどんどん登っていく。山道に入る辺りからそ う遠くないところに、三井物産の研修センターがあり、その辺りが大越遺跡である。海抜280mぐらいのところである。その先にも高齢者の保養施設があるの で掘れば温泉が出るのであろう。伏流水が豊富なようで、立派な浄水施設が道路沿いにある。

 

 

 

 

 平成5年に武蔵考古学研究所によって詳しい発掘調査が行なわれた結果、ナイフ型石器、台形石器、尖 頭器、細石刃、石核など旧石器時代の遺物が多数出土した。今のところ、熱海ではもっとも古い石器で、約2万年前から1万3000年前の石器である。黒曜石 も多く含まれていた。報告書「大越遺跡」(平成7年、熱海市教育委員会)により、私なりに整理してみると、黒曜石の原石地は、約360点が畑宿(箱根)、 約70点が信州、約60点が神津島である。そして、鍛冶屋(湯河原)19点、柏峠(伊東)14点、湯の花(箱根)17点、その他12点である。圧倒的に伊 豆・箱根の黒曜石が多いが、神津島の黒曜石がかなり混じっているのに注目されたい。伊豆の「海の民」は、少なくとも約2万年前から神津島にあの黒潮の激流 を渡って黒曜石を採取していたことはまちがいない。

 

 

 

 私は先に、黒曜石の七不思議のひとつ・第1の不思議「 武蔵野台地に大量に持ち込まれた黒曜石が伊 豆・箱根、伊豆諸島の神津島、栃木県高原山でなく、なぜ八ヶ岳のものなのか? 」に関して、『 伊豆・箱根や神津島の黒曜石は、実は、相模野台地には結構 大量に持ち込まれている。相模野台地の場合も八ヶ岳の黒曜石が大量に持ち込まれている時期もあるのだが、相模野台地の場合はおおむね伊豆・箱根や神津島の 黒曜石が卓越している。なのに武蔵野台地には伊豆・箱根や神津島の黒曜石がほとんど持ち込まれていない。これはおそらく武蔵野台地の人びとは伊豆・箱根や 神津島と馴染みがなかったからではないか。』と述べ、さらに「山の民」と「海の民」と呼ぶべき人たちの存在を指摘しておいた。もちろん、「野の民」という か「平地の民」と呼ぶべき人たちもいたのであって、「山の民」と「海の民」だけしかいなかったということではない。むしろ、人口的には、「野の民」という か「平地の民」が主体であったのではないか。まだ、交易の発達していなかった旧石器時代においては、「野の民」が石器の原石を入手する場合、「山の民」と 「海の民」のところへ出かけて行って、「山の民」と「海の民」に先導してもらったのではなかろうか。私はそのように考えている。そして、私は、旧石器時代 の石器について、そもそもそれを「山の民」が使いだし、時代とともに採取と加工の技術を発達させていったのではないかと考えている。つまり、石器の採取と 加工の技術は、「山の民」から「野の民」へ、そして「野の民」から「海の民」へ伝授されていったのではないか。そして、「海の民」が石器を探し出し、採取 し、加工することができるようになると、自ら積極的に石器を探し始めたのでないか。

 つまり、神津島の黒曜石は、伊豆に住んでいた「海の民」が、神奈川台地の「野の民」に伝授された技 術でまずは伊豆・箱根の黒曜石を採取・加工し始めたのであろう。そこら中の山に入って黒曜石を探し回ったのではないか。そして、若干の時代を経て、思い きって神津島に探索しに行ったのではないか。3万年以上前のことである。私は、その主役は、伊豆・箱根産の黒曜石を採取した熱海の「海の民」だと想像して いる。私は先に、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第2の不思議) を呈しておいたが、その答えがそれである。つまり、神津島には、3万年前頃、熱海の「海の民」が、黒曜石を 探しに渡ったのである。

 このように考えたとき、ならば、「神津島の黒曜石は3万年ほど前から盛んに採掘されるようになったにもかかわらず,熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前 の黒曜石しかでないのか?」という疑問が出てくる。これが黒曜石の七不思議の 第3番目の不思議である。次に、この疑問に答えねばなるまい。

 

その前に、とりあえず熱海大越遺跡に出かけるとしようか。

熱海市泉地区には伊豆山神社の前を通って・・・

山越えで行く。実に景色の良いところだ。

 

 

 

では、出かけるとしよう!

そうしよう!そうしよう!

 

 

 さて、堤隆一の「黒曜石 3万年の旅」(2004年10月、日本放送出版協会)によれば、『 神津 島産黒曜石の最古の利用例は、東京都府中病院敷地内で発掘調査された武蔵野台遺跡・a文化層にあることが、藁科博士らの蛍光線分析によって明かとなった。 9点の分析試料は、和田峠7点、麦草峠1点、神津島1点という産地構成を見せた。立川ローム層下部の武蔵野台地・層は、後期旧石器時代初頭にあたり、3万 年前をさかのぼる年代が与えられる。さらに神津島から200キロメートルの距離を隔てた内陸部の山梨県横針前久保遺跡からも、後期旧石器時代初頭の局部磨 製石斧に伴って、神津島産の黒曜石が確認されている。」とあって、どうも神津島産の黒曜石は、3万年前を遡る頃からあの激流を越えて採取されていたようで ある。3万年前というのは間違いないようである。だとすれば、「神津島の黒曜石は3万年ほど 前から盛んに採掘されるようになったにもかかわらず,熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」という疑問が出てくるのは当然だ。

 

 なお、「熱海市歴史年表」(平成9年、熱海市)によれば、大越遺跡から上多賀産の黒曜石が出土しな いか期待されながらその期待が裏切られたようなことが書かれている。また、三浦半島の旧石器時代の遺跡には上多賀産の黒曜石が含まれている可能性が示唆さ れており、どうも上多賀産の黒曜石が旧石器時代にも採取されていたらしい。私の想像では、神津島の黒曜石が採取しはじめられた3万年前頃、上多賀の黒曜石 は海岸に露頭していたのではないかと思っている3万年前頃は海面が100mほど低かったので、もし海岸付近に黒曜石の露頭があったとしたらそれはすでに海 底に水没してしまっている。さらに私は、上多賀の露頭だけではなく、それを採取しながら、伊豆半島や伊豆諸島の海岸付近を探索し、黒曜石を捜しまわった 「海の民」がいたのではないか・・・・、と考えている。根拠はまったくない。根拠はないのだが、そうでも考えないと、3万年前に神津島の黒曜石が発見さ れ、その採取が頻繁に行なわれたということの説明がつかない。

 

 はたして熱海に海底遺跡があるのやらないのやら・・・・。その真偽のほどは学者に解明してもらうと して、熱海の海底遺跡を永年調査しておられる国次秀紀という人がおられる。ここではその人の主宰される「熱海の海底遺跡保存会」のホームページを紹介して おこう。こ こをクリックして下さい!

 また、鈴木旭という歴史作家が次のようなたいへん興味深い意見を述べておられるので、ここにそれも 紹介しておく。すなわち、

『 私は例によって山の調査からスタートした。そして、まったくの山カンであるが、熱 海の中心を占める走湯山伊豆山神社が曲者であることは最初から目星を付けていた通りであっ た。

 その裏山の中腹には巨大な女陰石と男根石がワンセットになったイワクラ(磐座)が祭られていたのである。そして、尚々聞けば、その磐座さえも本体 ではなく、その後ろに控える岩戸山に鎮座する、さらに大きな女陰石がご神体になっているというのであった。何という偶然であろうか。

 偶然は、まだ重なる。不思議なものだ。伊豆山神社の裏山の磐座を基準にして真南を見たところ、実は国次秀紀さんが発見した海底遺跡のポイントに突 き当たることに気が付いた。言い換えるならば、国次さんが発見した海底遺跡ポイントと伊豆山神社裏山の磐座 所在地は、偶然か、必然か、正確に南北線上に並ぶということなのだ。

 何か、特別な意味があるのだろうか。

 私は特別な意味があったのだろうと推測している。古代になって篝火を焚く灯台になったとしても、元 々は別の施設、たとえば、伊豆山神社の裏山の磐座と同じような祭祀施設であった可能性は否定できない。それは湯を吹き出し、激しく火を吹く火山であったわ けで、祭祀の対象にならないはずがない。

 そういう推測と先入観に基づいて、細かく事実を見直している。熱海海底遺跡は決して鎌倉時代に留まるものではない。すでに私が伊豆山神社の裏山で 発見した女陰石と男根石が進むべき方向を示唆している。海底遺跡と言えば海底ばかり見ている人には永遠に判らないことである。

 もう一度言う。海底遺跡は沈んだ遺跡である。沈んだ遺跡である以上、陸上にある遺跡を見る視点を持たない者が見ても理解できない。たった、この程 度のことさえも理解していない者が多いのである。陸と海を切り離して論じることができると信じているのだろうか。

 しかも、それは古代を突き抜ける視点、巨石文化を解析する視点と方法論を持つ者でなければならない。石の科学である。そんな科学は誰も知らない。 誰も確立していない。縄文とか、弥生とか、そんなレベルではない。地球物理学的な観点と社会科学的観点の双 方を兼ね備えなければならない。』・・・と。(註:鈴木旭さんのホームページは、ここをク リックして下さい!

 

 以上が、大越遺跡を訪ねながら考えた私の考えだ。私は、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何 のために渡ったのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第2の不思議)に対しては、『  神津島には、3万年前頃、熱海の「海の民」が、黒曜石を探しに渡った 』・・・のではないか と考えている。そして、私は、「熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第3 の不思議)に対して、『 伊豆半島や伊豆諸島の海岸付近を探索し、黒曜石を捜しまわった熱海の「海の民」が いたが、その痕跡は海底に沈んでしまった 』・・・のではないかと考えているのである。

 

 

 今までの・・

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