「石斧のひろがり・・・黒潮文化圏(小田静夫著)」(日本人はるかな旅、第2巻、2001年9月、日本放送出版協会)

註:佐々木高明が『南からの日本文化・・新・海上の道』を書いたのは3年前(2003年9月)である。その2年前に、小田静夫は上記の本を書いた。石斧の広がりに焦点を当てているが、その時点で黒潮文化の北上を書いた本としてはもっともすぐれた本ではなかったかと思われる。佐々木高明の『新・海上の道』に先鞭をつけたものといえるかもしれない。以下は上記の本からの抜粋である。ただし、緑色の部分は、私の補足説明であり、文責は私にある。

 

石斧のひろがり

・・・黒潮文化圏・・・

 

 

磨製石斧の出現

 人類の歴史における最古の石器は、モノを叩き切る(または叩き割る)機能をもつ道具として、旧石器時代初期(註1)に登場した、自然石(礫(れき))の先端に数回の打撃を施して刃づけされた礫器(チョッパー)が知られている。この礫器は、動物の骨を砕いて中の骨髄を出したり、堅い木の実の殻を割るのに利用されていた。やがて、肉食を中心とする生活に移行すると、礫の両面全体を加工した握槌(あくつい)(ハンドアックス)が出現する。肉を切り裂いたりすることのほかに、簡単な木材伐採や切断などにも使用された万能石器であった。当時、これらチョッパーやハンドアックスは直接手で握って使用されたもので、「柄」を付ける技術はまだなかった。

 旧石器時代中期(註1)になると、狩猟技術の発達にともなって、石器に柄を付けて飛ばす道具(ムステリアンポイント)が誕生する。また旧石器時代後期(註1)には、剥片(はくへん)を連続して多量に剥離する石刃(せきじん)技法(ブレードテクニック)が発達し、石器の軽量化に拍車がかかっていった。このように、石器製作技術は重量石器(石核石器)から軽量石器(剥片石器)へと変遷していったのである。

 旧石器時代においては、住居などの構築物はどのような石器を使用して製作されていたのであろうか。初期人類の住居遺構は礫を床に敷いたり、大形礫を周囲に配置したような簡単な小屋(テント)であった。上屋は細い木材や葉などを束ねるように組んだものであったのだろう。骨組み遺構が発掘で確認された最初は、北部ヨーロッパやシベリア平原の、マンモスの骨格を組み合わせた住居跡である。かつて、ロシアのマンモスハンター遺跡(約一万五〇〇〇年前)から、フリント(火打ち石)製の「打製斧形石器」が出土し、その刃部に磨耗(使用)痕が観察され、注目を集めたことがある。おそらく、こうした打製の石斧(せきふ)で骨を切断したり、加工して家屋の骨組み材にしたのだろう。

 ヨーロッパやアフリカの旧石器遺跡からの斧形石器の発見例はきわめて少ない。これは、旧石器時代には大木などを使用する大規模な木造施設(住居など)がなかったからと考えられる。石斧は、森林資源を多用する新石器時代の初めに登場するが、例外的に日本とオーストラリアでは旧石器時代の石斧が多数存在し、驚くべきことに「磨製石斧」もすでに開発されていたのである。(註2)

 磨製石斧は一般的には約一万年前以降の新石器時代から多用され、金属器時代の「鉄斧」に取ってかわられるまで、広く世界各地で使用された。日本列島における磨製石斧の出現の時期は特異であり、旧石器時代の約三万五〇○○年前から二万八〇〇〇年前、後期更新世後半期に早くも多数存在している。しかし、その後、一万年ちかい空白の時期があり、約一万八〇○○年前の旧石器時代最終末期、細石刃(さいせきじん)文化の時代に再び登場する。縄文時代になると磨製石斧は一般的になり、約四〇○○年前の縄文後期に全盛を迎える。さらに、約二三〇〇−一七〇〇年前の弥生時代にも多用され、弥生後期に鉄斧が主体になると石斧の時代は終焉を迎えるのである。

 石斧には刃の線と柄がほぼ並行する「縦斧」(アックス axe)と、刃の線が柄にほぼ直交する「横斧」(アッズ adze)とがあり、縦斧は鉞(まさかり)状の着柄、横斧は手斧(ちような)状の着柄とされる。そして日本の磨製石斧は、横斧優勢から縦斧優勢へと変遷していく。旧石器時代の石斧はまだ横斧か縦斧か判別が困難であるが、大半は横斧であったとみられる。縄文時代の初期には一時的に横斧(神子柴(みこしば)型石斧)が存在するが、約六五〇〇年前の縄文前期以降は縦斧が優勢になり、大型斧が伐採用、小型斧が加工用と使い分けられ、弥生時代になると大陸系磨製石斧を基調にして、両刃が伐採用、片刃が加工用と区別されていったと考えられる。

 

世界最古の円筒石斧

 鹿児島県加世田市栫ノ原(かこいはら)遺跡で、約一万二〇〇〇年前の薩摩火山灰層の下から、縄文時代草創期の豊富な遺構、遺物が確認された。そのなかに特徴的な技法と形態を示す磨製石斧が存在し注目された。この石斧は、まず敲打(こうだ)で石斧の身を円筒状に整形したあと全面を研磨し、刃部の裏側を丸ノミ状に彎曲(わんきょく)させた片刃石斧(横斧、手斧型)であった。さらに、この石斧の頭部は亀頭状に膨らんでいた。

 丸ノミ状の刃部をもつ磨製石斧は、ヨーロッパ、シベリア、東南アジア、オセアニア、北アメリカなど世界各地で発見されているが、年代は新しく、東南アジアでは約五〇〇〇年前のものが最古の資料である。日本列島では約五〇〇〇−三〇〇〇年前の縄文時代中・後期に、乳棒状石斧、遠州型石斧などと呼ばれる身の断面が楕円(だえん)形を呈する磨製石斧が存在するが、これらの石斧は両刃(縦斧、鉞型)であり、栫ノ原遺跡の例とは異なっている。一方、シベリア、サハリン、北海道そして岩手県にかけて、楕円形の断面をもつ全面磨製の丸ノミ形石斧(横斧)が分布している。これは、約四〇〇〇年前の縄文中期に対比される時期のものとされている。また、東京都八丈島や小笠原諸島出土の磨製石斧のなかに、片刃(横斧)で身が円筒状を呈する例が多数存在しているが、これらは約二〇〇〇年前以降の新しい時期の石斧である。

 栫ノ原遺跡には厚い火山灰層の堆積があり、ここから出土した石斧は層位に基づく編年、伴出土器の型式、理化学的年代で裏づけられた確かな資料である。したがって、円筒形の片刃磨製石斧は、約一万四〇〇〇年前の縄文草創期にまで遡(さかのぼ)ることが判明した。この特異な石斧は発見遺跡にちなんで「栫ノ原型石斧」と呼ばれている。栫ノ原型石斧は、その形状から推して木材加工用の石製工具で、おそらく「丸木舟」製作に使用されたものと考えられる。現在、この種の石斧は十一遺跡で総数十五点が確認され、その分布は南は沖縄本島から北は長崎県五島列島におよび、中心地域は奄美大島から鹿児島本土南部に認められている。つまり、栫ノ原型石斧は形態、年代ともに限定することのできる石器であり、その分布を調査することで一つの文化圏の存在を推定することができよう。

 

黒潮圏の磨製石斧

 石斧の身の断面が円形、楕円形を呈する磨製石斧は、列島内の縄文・弥生時代の遺物に認められるがすべて両刃石斧(縦斧)である。また、北海道には片刃(横斧)の丸ノミ形石斧が存在するが、身の断面が楕円形であり異なった型式である。したがって、南九州地域に分布する、身の断面が円形で片刃の丸ノミ形石斧文化は、列島北部や内部からの伝播や影響で誕生した石斧ではないことが理解される。では、列島南部との関係はどうであろうか。琉球列島の先史時代には片刃石斧が多く、また頭部をやや膨らませた例も見受けられる。しかし、年代が北琉球先史文化は約七〇〇〇−二〇〇〇年前、南琉球先史文化は約四〇〇〇−八〇〇年前といずれも新しく、南九州の年代(約一万四〇〇〇−九〇〇〇年前)とは比較できない。一方、先に述べたように伊豆諸島の八丈島、さらに南洋の小笠原諸島にも、身の断面が円形で片刃や丸ノミ形の石斧が多数存在している。不思議なことに、この太平洋上の孤島に分布する円筒石斧は、南九州の例に酷似していて、その関連が注目される。しかし、八丈島の年代は約四〇〇〇−三〇〇〇年前、小笠原は約二〇〇〇年前と、琉球列島と同様に新しいものである。

 八丈島、小笠原諸島に分布する丸ノミ形の円筒石斧は、さらに南のマリアナ先史文化後期(約二〇〇〇−八〇〇年前)に多数存在する円筒石斧との関連が指摘されている。この事実から、マリアナ先史人が黒潮本流外側の八丈島にまで北上した「太平洋の道」が推定される。また、八丈島には、このほか、大型の円筒片刃石斧、屋根形片刃石斧、タガネ状片刃石斧なども発見されていて、それらの石斧の出自、系統に興味がもたれる。マリアナ先史文化の起源については、東南アジア島嶼(とうしよ)地域、フィリピン諸島あたりから四〇〇〇年前項に船出した「海のモンゴロイド」の拡散とも関係することが示唆されている。いま、黒潮の流れる地域を結ぶと、出発点のフィリピン諸島から台湾、琉球列島、九州、四国、本州中央部へ、そして、南に向かって伊豆諸島から小笠原諸島、マリアナ諸島へ、さらに西にヤップ、パラオ諸島へと、北西太平洋を囲むような環状の島嶼群が浮上してくる。これら「黒潮圏」とも呼べる環状の島嶼地域に、身の断面が円形で、円筒形の片刃石斧が広く分布している事実は何を物語っているのであろうか。

 かつて、東南アジア、オセアニア地域に分布する新石器時代の磨製石斧について、ハイネ・ゲルデルンは三つの特徴的な石斧グループを取り上げて民族移動の仮説の根拠として利用したことがある。第一は円筒石斧で、最初の民族移動とかかわりをもち、日本および北中国が起源地で、台湾、フィリピンを経由して、インドネシア東部およびメラネシアに到達した。第二は有肩石斧で、インド東北部が起源地で東南アジアに到達した。この民族はオーストロアジア系言語を話し、台湾、フィリピンさらに日本に浸透した。第三は方角石斧で、基本的に中国大陸が起源地で、東南アジアに到達したオーストロネシア系言語を話す人びとによってもたらされた。東南アジアの諸民族はネグロイドをのぞいて中国から南下した人びとであるといわれる。この方角石斧の伝播は二方向に分かれ、一つはインドネシア南部の島嶼部からニューギニアへ、もう一方はボルネオを経てフィリピン、台湾さらに日本に到達したというものであった。

 つぎにべイヤーは、フィリピン諸島の磨製石斧を集成して型式学的に、刃部磨製石斧は原新石器時代.断面が円形あるいは楕円形の円筒石斧は前期新石器時代、真正の有肩石斧およびルソン有稜(ゆうりよう)石斧と、ハワイやポリネシアの柄のある石斧が中期新石器時代、そして断面が方形の方角石斧が後期新石器時代にそれぞれ属すると考えた。

さらにローエンスタインは、マレー半島の断面方形の丸ノミ形石器を紹介するなかで、初期の新石器時代の磨製石斧は断面が円形であることを指摘し、特徴的な石斧を取り上げて三つの伝搬経路を挙げた。

 それによると第一の円筒石斧は、中国大陸および東南アジアにはみられず日本に多いことから、ボニン(小笠原諸島)、マリアナ、カロリン諸島を経てメラネシア、ポリネシア方面にひろがり、第二の台湾や紅頭嶼にみられる丸形・楕円形の石斧は、北アジア地方から日本、台湾、ルソン島を経て、東インドネシアに到達した。第三の棒状石斧は、中国の海岸部にみられ、中国東北部から山東半島を経て香港へとひろがっていった。そして、マレー半島の断面方形の丸ノミ形石器は第三の経路で、棒状石斧が北から伝搬する過程で断面が方形にかわり、ラオス北部からインドシナ半島へと浸透していった。また、くちばし状のノミと丸ノミ形石斧は、スマトラ島南部、ジャワ島中部へもひろがっていったとした。

 最後にダフは、東南アジアや東アジアの有段石斧をくまなく集成し、これらを東方からの文化の波と捉え、その起源地を中国の長江下流域と考えた。そして有段石斧は長江下流から台湾、フィリピンを経由して、ミクロネシアからポリネシアに入り、ソサエティー諸島を中心に、北はハワイ諸島、東はイースター島、南はニュージーランドまでひろがったと推定した。

 今日、東南アジア、オセアニアにおいても考古学研究が発展し、各地で発掘調査が進んだ結果、こうしたハイネ・ゲルデルン、ベイヤー、ローエンスタイン、ダフらの石斧型式学に基づく民族構成、移動などの仮説は、発掘事実を前にすると成立しない場合が多くなり、現在その評価は分かれている。

 

 

南方から北上した磨製石斧

辺戸石山型石斧

 沖縄本島最北端の国頭村辺戸石山(くにがみそんへどいしやま)で、一九六一年、数点の磨製石斧と一点の丸ノミ形石斧が発見された。ちょうど同じ頃、この地域のカヤウチバンタ遺跡から栫ノ原型石斧が発見され注目されている。辺戸石山遺跡の石斧は、断面が四角形で、頭部が細い棒状を呈し中央から刃部にかけては平坦に成形されて、刃部裏側には丸ノミ状の深いくぼみが作られていた。表面採集資料であり伴出遺物や時期は不明とされたが、その後、沖縄貝塚時代前W期(約二五○○年前)の「異形石斧」として取り扱われることが定着し、「辺戸石山型石斧」と呼ばれている。

 断面が四角形・台形を呈する磨製石斧は、本州の縄文遺跡では前期(六〇〇〇年前)から登場し、弥生時代にまで連綿とつづく石器である。が、縄文文化の一般的な磨製石斧は両刃であり、片刃は弥生時代になって出現する型式である。

 琉球列島で発見される石斧の大半は磨製石斧であり、そのほとんどが片刃石斧である。磨製石斧は北琉球(奄美・沖縄諸島)では、貝塚時代前期・後期の全期間に、南琉球(宮古・八重山諸島)では、新石器時代前期・後期の全期間に存在していることば前述したとおりである。丸ノミ形石斧は今のところ、この国頭村発見の二例以外では、奄美大島の赤木名の例、沖縄本島の那覇市石田遺跡の例があるが、断面は円筒形であり、辺戸石山型とは異なっている。断面が方形の磨製石斧は、八重山諸島の新石器時代後期(無土器文化)に出現するが数は少ない。鹿児島本土の指宿(いぶすき)市で発見された断面四角形の丸ノミ形石斧は、やや寸づまりであるが辺戸石山型に酷似したものである。

 黒潮の源流にあたる地域ではどうであろうか。断面が四角形や台形の磨製石斧は注目されており、台湾、フィリピン、マレーシア、カンボジア、インドネシアの東南アジア諸地域やオセアニアに広く分布していることが知られている。近年の発掘成果で総体的に「円筒石斧→方角石斧→有肩石斧」という発展段階があったことが証明されていることから、断面四角形を呈する磨製石斧は円筒石斧より新しい型式と考えてよさそうである。しかし、その多くは約四〇〇〇年前以降の後期新石器時代の所産である。したがってこの辺戸石山型は、こうした東南アジア地域の研究成果にてらすと、カヤウチバンタ遺跡発見の円筒形丸ノミ形石斧例(栫ノ原型石斧)に後続する石斧型式と捉えることは可能である。

 

 

有稜石斧

 有稜石器はハイネ・ゲルデルンによってシュピッツバイル Spitzbeil と呼ばれた特徴的な形態を示した石器である。日本語名は禰津正志が「尖斧」と訳したが、石斧の長軸に沿って中央に稜線があり、きわめて特徴のある形をした石斧で、「有稜石器」と呼ばれている。

 国分直一は「背面に縦に稜を有する石器」と呼び、この有稜石器の刃部磨製例は八重山諸島に特徴的に存在しており、形態はアッズで、稜は自然礫の稜を残し、両端を打調し整形している。裏面は一端から強く加撃し、その側端部に研磨を加え刃部にしている。刃の研磨は表面から浅く広く、裏面からは深い角度で狭く行われている。断面は三角形を呈する。ピック・アッズ pick adze と呼ぶにふさわしい石器である。石材は片岩系の岩石が多いが、硬質の砂岩もあると述べている。

 有稜石斧の分布は、東南アジアのマレー半島からジャワ、スマトラ地域に分布し、日本では琉球列島に特徴的に認められている。

 ピック・アッズは禰津によれば、マレー、東・西ジャワ、南スマトラに分布しているが、その源流はマレーであり、刃部だけに稜のある磨製石斧の発達したものと考えている。また東南アジアの石斧を集大成したロジャー・ダフは、スマトラから上海まで広く分布する断面矩形の石斧の祖型から、マレーで刃先をくちばし状に変形させて beaked adze が誕生し、一方スマトラからジャワでは pick adze と呼ばれ、石斧の長軸に沿って中央に稜線のある断面三角形の特異な型式の磨製石斧がつくられたとした。その後ダフは、マレーの beaked adze はスマトラやジャワには伝搬していないことと、インドネシアの pick adze はインドネシア半島内に限定した分布を示すことから、この型式の石斧は新しい時期に発達したものと述べた。おそらく国分が八重山諸島の有稜石器を、このピック・アッズに対比した背景には、この有稜石斧が東南アジア地域から伝播した石器であると考えていたことを示唆している。

 

 

双刃斧

 普通の斧の身は、刃部(刃の部分)と反対側の基部(頭部)とから成っているが、双刃斧(そうじんふ)は基部が存在せず、身の両端が刃になっている。国分直一はこの双刃斧については、両端部に刃部を形成した石器であるところから、「両端刃石器」と呼び、刃部の加工は入念で全面磨製例もあり、刃形はアッズ型ではなくアックス型に加工されていて、さらに八重山諸島の波照間島下田原貝塚で最初に確認され、そして西表島(いりおもてじま)仲間貝塚、宮古島(貝斧例)、種子島でも発見されていることから、南部に早く登場して北上していった石器という考えを述べている。

 双刃斧は南琉球の八重山・宮古諸島に集中的に分布し、離れて種子島、四国の高知県でも発見されている。また列島各地には、縄文時代草創期、後期、弥生時代に若干知られているが、最近高知県の縄文早期(約八〇〇〇年前)の遺跡で三点出土して注目された。また、東京大学に保管されている西表島上原発見の有稜石斧は、双刃斧との共用例であり、その文化関連に興味がもたれる。琉球列島に分布する「辺戸石山型石斧」「有稜石器」「双刃斧」などが、黒潮を介して東南アジア地域から北上してきた石器器種や技術伝統であったとすれば、日本列島に影響を与えた南方からの文化伝播の証拠がまた一つ加わったことになる。

 

 

もう一つの日本文化

 沖縄本島から南西約三五〇キロに宮古・八重山諸島(南琉球)がある。先島とも呼ばれるこの地域は、先史時代においては沖縄・奄美諸島(北琉球)との交流がなく、独立した文化圏を形成していた。そして八重山新石器時代と呼ばれるこの地域の先史文化編年は前期(約四〇〇〇−二五〇〇年前)と後期(約二五〇〇−八〇〇年前)に区分されている。前期には下田原式土器を伴う多数の磨製石斧が存在する。後期には無土器文化で磨製石斧と多量のシャコガイ Tridacna 製貝斧が発見されており、「貝斧文化」とも呼ばれている。

 貝殻の一部を加工し斧状に仕上げたものを「貝斧」と呼ぶ。この八重山新石器時代後期に発見されるシャコガイ製の貝斧は大型で本格的なものである。シャコガイは太平洋中南部やインド洋のサンゴ礁域に棲息する大型の二枚貝である。シャゴウ、オオジャコ、ヒレナシジャコ、ヒレジャコ、シラナミ、ヒメジャコの六種類が知られており、琉球列島近海には全種類が棲息している。南琉球の先史文化で発見されるシャコガイ製貝斧の多くは、大きさ(長さ一一−一八センチ程度)、貝殻の形状から見て最大型種のオオジャコを使用した可能性が高い。オオジャコは殻長が最大例で一・四メートル、重さ二三〇キロにもなる巨大二枚貝であり、フィリピン南部のスールー海に多産し、南琉球地域は棲息分布の北限と考えられている。しかし、現在、南琉球では生貝は確認されておらず、死殻が海岸砂丘の堆積(たいせき)物中やサンゴ礁内の浅瀬に発見されるだけである。遺物の中には化石化した貝殻を使用した例もあるが、先史時代には近海にオオジャコが多数棲息し、貝斧の材料が容易に入手できたと考えられる。

 シャコガイ製貝斧は貝殻のどの部分を利用しているかで、次の二つのタイプに分類される。

  T型 蝶番部利用型(ヒンジタイプ hinge-type)

  U型 腹緑部利用型(ドーサルタイブ dorsal-type)

     A 腹縁部を放射肋(ほうしやろく)に沿って利用

    B 腹緑部を斜めや横方向に利用

 南琉球のシャコガイ製貝斧は、蝶番部から放射肋部を使用し、貝殻表面のカーブと内面の肋厚部を生かして製作され、断面は貝の自然形で逆三角形を呈する。そして、刃部の形成状況は丸ノミ状を呈することが多いことから、手斧(アッズ)と考えられる。近現代のオセアニア地域で使用されているシャコガイ製貝斧は、大型品は丸木舟の製作に、中・小型品はそのほか日常生活のさまざまな用途に用いられている。南琉球のシャコガイ製貝斧は、すべて大型品の手斧であることから、木材の伐採や丸木舟の制作用に用いられた工具と考えられる。

 シャコガイ製貝斧の分布は、サンゴ礁の発達した太平洋地域に広く認められている。型式的にはT型がフィリピン南部の島顔地域に、I型とはA型が宮古・八重山諸島地域に分布している。UB型はマリアナ諸島に特徴的に分布しており、これは、この地域には中型のシラナミなどしか棲息していないため貝殻腹緑全体をトリミングする方法が用いられたと考えられる。またミクロネシア地域には、UB型を中心に蝶番部利用で刃部先端が三角形状になった別型式の全面磨製大型貝斧(尖斧)が存在し注目される。この尖斧は石斧の型式とも一致し、マレー半島、インドネシア、ボルネオ地域に分布している。相互の関係は深いと考えられている。

 石垣島名蔵貝塚群、宮古島浦底遺跡から発見された多量のシャコガイ製貝斧は、その利用部位などからフィリピン南部のバラワン島ドウヨン洞穴、サンガサンガ島バロボク岩蔭遺跡出土品と関係が求められるものである。またイモガイの頭部を輪切りにして、その頭の丸い部分を使う「シェルデスク」と呼ばれる貝製品が沖縄で発見されおり、これもフィリピン先史文化との関連を証明する資料と言われている。つまり、黒潮を北上した「もう一つの日本文化」が琉球列島南部に存在していたのである。

 

 

巨大噴火で消滅した黒潮の民

 鹿児島県栫ノ原遺跡の「栫ノ原型石斧」、沖縄県辺戸石山遺跡の「辺戸石山型石斧」、そして南琉球地域で発見された「有稜石斧」「双刃石斧」「シャコガイ製貝斧」など、各種の特徴的な磨製石斧・貝斧類は、広い意味での海洋航海民の道具であり、その主な用途は「丸木舟」の製作であったと考えられる。そして、これらの石斧・貝斧は、それぞれ系統、時期を異にしており、その分布を追跡することで日本列島に南方から渡来した先史人の軌跡を復元することが可能である。その判明した幾つかの内容を紹介しよう。

 日本列島に認められる最古の遺跡は、旧石器時代後半期(後期)の約四万−三万五〇〇〇年前の「現代型ホモ・サピエンス(新人)」によるものである。おそらく、東南アジアに当時存在した大陸スンダランドから、大陸沿岸部を徒歩で、また黒潮を渡航具(丸木舟あるいは筏(いかだ)舟)を使用して北上した沿岸居住民(海人)集団と考えられる。列島へ辿(たど)り着き定着した旧石器人たちは、「先ナイフ形石器文化→ナイフ形石器文化I→ナイフ形石器文化U→細石刃文化」と道具を発達させていった。(註3)(註4)(註5)

 やがて、後氷期に向かい温暖化したスンダランドや東シナ海の大陸沿岸部から、多くの新石器時代人が黒潮海域に船出した。彼らは台湾、琉球列島に渡島するとともに南九州にも上陸し、温暖湿潤で豊かな火山灰に覆われた環境に出合った。彼らは先住民の細石刃文化人と融合し定着し、先進的な新石器社会を開花させることになる。(註6)(註6)

 しかし、この大地は火山の密集地であり、列島南端に誕生した早咲きの縄文のクニは、それほど長くは続かなかった。それは、縄文早期後半の約六三○○年前、鹿児島県大隅半島佐多岬の南海上約四〇キロの海底で起こった完新世最大規模の鬼界カルデラの巨大噴火で全滅してしまう運命にあったのである。この火山災害を免れた南九州縄文早期人の一部は、陸路を九州中・北部に避難していった。一方、海人集団のなかには対馬海流を利用して海路丸木舟で西九州沿岸や日本海方面に移住した人びと、黒潮本流に乗って四国、紀伊半島の太平洋沿岸地域やさらに遠く伊豆諸島にまで到達した人びともいた。こうした南九州縄文人の航海の軌跡は、栫ノ原型石斧に続く円筒形片刃磨製石斧が、高知県木屋ケ内遺跡、和歌山県紀ノ川中流域の遺跡、東京都八丈島などの遺跡で発見されていることで証明される。

 フィリピン・ルソン島沖から始まる世界最強の黒潮(日本海流)は、海のベルトコンベアーの役割をはたし、海産植物や陸上生物の拡散分布に役立っただけでなく、「海上の道」となって先史時代以来多くの南方的要素を日本にもたらしたことは確かである。ここで取り上げた特徴的な石斧、貝斧は、琉球列島に定着した先史時代人(サンゴ礁文化)や南九州地域に成立した南の縄文のクニ「もう一つの縄文文化」の原郷を探る意味で重要な石器であり、また黒潮海域を主な活動舞台にした「海人」集団の軌跡を示した資料と言える。

 

 

 

 

(註1):旧石器時代は、おおむね10万年前と3万5000年前と1万年前の3つに分類される。一方、縄文時代の草創期は1万3000年前ないし1万2000年前から1万年前とされているので、1万年3000年前から1万年前までは、旧石器時代であり縄文時代でもある。厳密にいえばそうだが、私は、そこを割り切って、旧石器時代と縄文時代の境を1万年前とする。つまり、旧石器時代の後期はおおむね1万年前から3万5000年前の間としている。1万年前からは、縄文時代に入るが、金属器が使われるまでは石器が使われたので、石斧の材料に着目して新石器時代という言い方もできる。

(註2):私は、先に述べたように、「神津島には、いつごろ、どういう人が、何のために渡ったのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第2の不思議)に対しては、『 神津島には、3万年前頃、熱海の「海の民」が、黒曜石を探しに渡った 』・・・のではないかと考えている。そして、私は、「熱海大越遺跡からは、なぜ2万年前の黒曜石しかでないのか?」という疑問(黒曜石の七不思議のひとつ・第3の不思議)に対して、『 伊豆半島や伊豆諸島の海岸付近を探索し、黒曜石を捜しまわった熱海の「海の民」がいたが、その痕跡は海底に沈んでしまった 』・・・のではないかと考えているのである。すなわち、旧石器時代後期が始まった頃(3万年前頃)、日本列島には「海の民」が盛んに黒曜石を探し回っていて、神津島の黒曜石を探し出して使い始めたと考えているのである。

(註3):以上が黒潮航海第1波として日本列島にやってきた旧石器人である。小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、おおむね4万〜3万5000年前の旧石器人、つまり旧石器時代中期の人びとは、チャート、粒紋岩、砂岩などの日本列島内に多産する地元石材を使用していたのであり、黒曜石はごく一部しか使われなかった。黒曜石が本格的に利用され始めるのは、2万8000年〜2万5000年前からである。小田静夫も同著のなかで言っているが、多分、鹿児島県姶良カルデラの巨大噴火によって、日本列島の自然環境が激変し、それに対応するかたちで黒曜石による「ナイフ型石器」が誕生したのであろう。それぞれの地域特性に応じていろいろな「ナイフ型石器」が誕生したようだ。しかし、一部であるとはいえ、黒曜石が旧石器時代に使われ始め、しかも3万年前頃には早々と神津島の黒曜石が使われ始めたということは、世界的にみて、驚くべきことである。

(註4):上記に海人集団のことも書かれているが、その当時、すでに相当の航海技術があったようだ。「海の民」の出現だ。小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、近年、人類学の分野で、5万年前頃に東南アジアのスンダランドからサフールランドへ渡ったホモ・サピエンス集団が確認されているのだそうだ。

(註5):上記に『 列島へ辿(たど)り着き定着した旧石器人たちは、「先ナイフ形石器文化→ナイフ形石器文化I→ナイフ形石器文化U→細石刃文化」と道具を発達させていった』と書かれているが、私の考えは少し違う。私は、アムール川からサハリン(樺太)を経て北海道に辿り着いた旧石器人とモンゴルや中国北部を経て九州に辿り着いた旧石器人がいたのであり、その人たちは私のいう「山の民」である。「山の民」の文化を考えざるを得ないだろう。

(註6):この部分の記述は、縄文時代に、黒潮航海第2波として日本列島にやってきた本格的な「海の民」である。もちろん、第1波から第2波の間ひっきりなしに、ごく少数のグループごとに、黒潮を利用して日本列島にやってのではないか。そういう人たちももちろん「海の民」である。

(註7):黒潮を利用して日本列島に渡ってきた旧石器人のなかにも、海辺に住み「海の民」として生きていったグループも当然あったであろうが、内陸部に分散していって「山の民」となったグループもあったにちがいない。日本列島が大陸と陸続きであった頃に徒歩で日本列島にやってきたグループは「山の民」である。このことはすでに述べた。

(註8):上記のように、小田静夫の「遥かなる海上の道」(2002年3月、青春出版社)によれば、おおむね4万〜3万5000年前の旧石器人、つまり旧石器時代中期の人びとは、チャート、粒紋岩、砂岩などの日本列島内に多産する地元石材を使用していたのであり、黒曜石が本格的に利用され始めるのは、2万8000年〜2万5000年前からである。しかし、小田静夫の「遥かなる海上の道」にも書いてあるとおり、現在、もっとも古い黒曜石の石器は、3万5000年前の東京・武蔵野台地から出土したものである。量的には他の石材に比べごく僅かであるが、長野県和田峠産、神奈川県箱根産に混じって神津島産が少数含まれているという。ごく僅かであるとはいえ、神津島産のものが含まれているということは実に驚くべきことである。3万5000年前に、黒潮の激流を乗り越えて、旧石器人が神津島へ行ったり来たりしていたということだ。

 

参考:小田静夫のホームページより「黒潮圏の考古学」の要点を抜粋したものは、ここをクリック!

参考:小田静夫のホームページより「八丈島の先史文化」の要点を抜粋したものは、ここをクリック! 

 

 今までの・・

「古代社会源流の旅」については、

ここをクリックして下さい!

 

「中津川の胞衣伝説」から「日光の陰・礼讃」までの一連のページは、

「スピリット(精霊)」に関するものです。

私の以前のテーマに「スピリット(精霊)」の問題であったのです。