清水博の「場の思想」




 「共生の論理」について、清水博の「場の思想」(2003年7月、東京大学出版会)というのがある。前にそれを紹介したことがあるが、その核心部分をここに紹介しておきたい。清水博は、この「超人間的生命」のことを「純粋生命」と呼んでいるが、何度も言ってきたように、これは西田哲学でいうところの「絶対無の場所」や「純粋な述語性」と同じことである。中沢新一の言う「タマ」でもある。まあ一般的に判りやすくいえば、宇宙の神秘な力と考えてもいいし、「神」と考えてもいい。しかし、そういう言い方をするともう漠然として掴みようのないものになるので、本来的な生命の力という意味で・・・やはり清水博のいう「純粋生命」という言い方が良いのではないかと思う。私たち人間は、生れてから今日に至るあらゆる環境によって、本来もっている純粋生命が隠れてしまっている。しかし、それなりの学習によって純粋生命が活き(はたらき)はじめて、コミュニティ生命世界に生きることができる。私たちは、自己中心的活動から脱却して、コミュニティ的活動をしなければならない。コミュニティ的生命世界に生きるのである。そのためには、各個人が気楽に活動できるNPOという場が必要であると思う。清水博のいうことに耳を傾けてもらいたい。

 『 現在は未ださまざまなNGOやNPOなどの活動が生れては消え、多くのコミュニティが成立しては消える状態にある。しかし、一般的に見ると、コミュニティ的生命世界ではマネーではなく、一人一人の存在感こそが通行切符なのである。存在には倫理の保証がなければならない。マネーに代わる存在という普遍的な切符によって、これらのコミュニティ的生命世界が互いに繋がるときには、個の欲望から共存在へ、人間の価値観の変態的変化がおきることを意味する。 』

 そうなのだ。地域の人びとは「メディオン」となって、一人一人の存在感を示しながら、舞台の上の即興劇をイキイキと演じなければならないのである。そして、地域の人びとがイキイキと存在感を示しながら生きていくためには、競争社会ではダメであって、市場経済の弊害を緩和しなければならない。そのためには、贈与経済の部分を増やしていく必要があり、ミヒャエル・エンデの言うところの「地域通貨」の普及が不可欠なのである。


目次に戻る!