白上(しらがみ)山地の遺跡

 

 

 明恵は、先に述べたように、承安3年(1173年)紀州は有田郡金屋町歓喜寺内・・・有田川の流れをま近に望む高台に明恵は産まれた。母は湯浅権守宗重(藤原氏一族)の第四女である。仏眼仏母とでもいうべき・・由緒正しき母の胞衣に護られ、しかも繊細微妙な条件を保たれた環境の中に、静かにこの世に産まれでてきた。父は高倉院の武者所、平重国。

 そういう誠に恵まれた環境に産まれた明恵ではあるが、幼少にして父母に死別し、9歳のときには高尾に上り、上覚上人の弟子となり、勉学修行に専念した。しかし、なお修行が必要であるとの強い想いから、静閑の地をもとめ郷里にかえり、諸処修練に志ざすのである。そのゆかりの地が明恵紀州八所遺跡である。もちろん、その中心地は白上(しらがみ)山地である。

 明恵34才、後鳥羽上皇の院宣をもって栂尾(とがのお)に高山寺を興し、華厳宗興隆の道場とする。自然を友とし、樹下石上に修行。また著述に励み、釈尊を追慕し仏教に新しい生命をあたえんと精進する高僧だが、その根本は湯浅氏に根ざしている。明恵の依って立つところは湯浅氏一族である。

 湯浅氏一族が湯浅党として、歴史上に現われたのは、鎌倉時代の末期であるが、その一族が同族組織を形成して、一個の強固な武士団として地方に勢力を培養したのは、さらにそれよりも古くて、すでに平安時代末には、同族的の結合が出来ていたことは、施無畏寺の古文書置文等にも明らかである。すなわち寛喜三年(1231)四月湯浅一族の藤原景基(湯浅宗重の孫)が、遺跡白上山地に施無畏寺を建立して、寺領を寄付し、その四境を定め、一族の連署を求めたときに、これに名を連ねたもの四十九人は、みな湯浅一族である。すべてが湯浅氏の血縁者とはいい得ないにしても、その大多数は湯浅氏一門の血族的関係を有するもので、他姓のものもみな姻戚的関係のものである。

 明恵は、そういう湯浅氏の寺領・白上(しらがみ)山地で修行した。23歳の秋のことである。きっと湯浅氏一門の熱い期待を一身に受けの入山であったろう。私はそのようなことを想いながら、白上(しらがみ)山地を見て歩いた。

 白上(しらがみ)山地は、施無畏寺(せむいじ)という寺の奥の山をいう。その施無畏寺(せむいじ)は湯浅の栖原(すはら)という漁村の山の中腹にあるのだが、前面の海は、静かな入り海で、苅藻島(かりもじま)、鷹島(たかしま)、黒島(くろしま)などが点々と浮かび、素晴らしい景色である。特に、夕日に映える栖原(すはら)の入り海はちょっと言葉では言い尽くせないような素晴らしい景色だそうだ。

 

施無畏寺(せむいじ)はこの寺のさらに奥にある。

 

手前の小さな島が苅藻島(かりもじま)で、右が鷹島(たかしま)、左が黒島(くろしま)である。

このように三つの島が具合よく見えるのは、ここからだけである。

 

 

 では、施無畏寺(せむいじ)付近の風景を見てみよう!

そうしよう!そうしよう!

 

 

さあ、それでは、施無畏寺(せむいじ)の境内を見て回ろうか。

見て回ろう!見て回ろう!

 

明恵は、庵を結んだのは、この山道をさらに登った白上(しらがみ)山地である。

遺跡は、西白上遺跡と東白上遺跡の2ケ所がある。

その2ケ所の「岩座(いわくら)」で座禅を組んだのであろう。

 

 

 白上山地に歩いて行くのには、施無畏寺(せむいじ)の境内の奥の山道がもっとも近いが、

かなり急な坂道であるので、施無畏寺(せむいじ)の前の・・・

鋪装された農道を行くとしよう!

距離はあるが、この方が楽である。

山道の方は帰りに歩こう!

 

 

 

西白上遺跡にはや着いた!

 

 

 

 西白上遺跡の「岩座(いわくら)」及びその周辺の景色をお楽しみ下さい!

 

さあ、それでは東白上遺跡へ行くとするか。

東白上遺跡へはほとんど平たんな道でルンルン気分で楽しく歩いていける。

春はきっと素晴らしい桜のトンネルだ!

 

左手にみかん畑を見ながら少し歩いていけば分岐点に着く。

左に曲がれば間もなく東白上遺跡の入り口である。

 

遺跡の碑の向こうに確かに東白上の「岩座(いわくら)」がある。

この「岩座(いわくら)」は坐りにくいので、

遺跡が立っている岩場に坐ったのであろうか。

 

 

 

しばし感慨に耽りながら、来た道を帰る。

西白上遺跡からは、施無畏寺(せむいじ)に至る山道を下る。

急なところもあるが、まあ歩きよい山道である。

栖原(すはら)の漁港が見えるし、

明恵の歌碑があるので是非下りにはこの山道を下って欲しい。

 

われさりて

にちにしのばむ

人なくば

とびてかえり

たかしま