菅平の水場




 菅平高原の東北にある四阿山(あずまやさん)と根子岳(ねこだけ)は、直径約3kmの四阿火山のカルデラの一部であり、浦倉山、奇妙山とともに、須坂市に注ぐ米子川の源流を中心とした爆裂火口の外輪山を形成している。火山の規模からすると、すぐ隣の浅間山よりはるかに大きなものだったと考えられている。火山のことについては群馬大学教授早川由紀夫がすばらしいホームページを持っておられ、四阿山(あずまやさん)についても書かれているので、それを参照されたい。ここでは、菅平高原が大火山の広大な裾野であることを十分認識してもらえれば良い。菅平高原は、大火山の広大な裾野であると同時に盆地地形を形成しているので、湧き水が豊富である。そういうことも幸いしてのことだろう、菅平高原には古代の遺跡が多い。



 盆地の中央に湿地帯があるので、唐沢B遺跡のあと、早速、小雪ちらつく中ではあったが、菅平の湿地帯を歩いた。

 その菅平湿原に、菅平自然館がある。その庭の左側に万葉歌の石碑がある。


菅平でのホトトギスを詠った歌

信濃なる 須我の荒野に ほととぎす
  鳴く声聞けば 時すぎにけり



テッペン カケタカ

いいですね!実に良い。


菅平高原の動植物については、ここをクリック!

菅平湿原には、
シベリアや北海道とこの菅平にしかないような
珍しい植物があるそうだが・・・・。


 さて、このホトトギスの歌を詠んだ人は一般の庶民ではない。貴族ではないかもしれないが、まあそれに近い人であったろう。そういう高貴な人が奈良時代に菅平高原にやってきているのである。この人はどこから来てどこに行くのだろう。まさかスキーをしにやってきた訳ではあるまい。では、何のためにやってきたのか??

 ところで、上田市の近くに今は千曲市となったが、4年前までは更埴市(こうしょくし)であった。その石杭というところに大日堂というのがあって、その前に万葉歌碑が立っている。

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人みなの言(こと)は絶ゆとも
埴科の石井の手児(てこ)が言な絶えそね


人のことはすべて忘れられてしまっても、
埴科の石井の手児のことは決して忘れられることはない

 「信州発考古学最前線」というすばらしいホーミページがあって、そのVol・1-13に「倉科の石井−泉と巫女と古代の王権−」というのがあって、これにこの万葉東歌について詳しく解説してある。次の通りである。

 更埴市から長野市南部には、長野県を代表する4〜5世紀頃の大きな前方後円墳が密集する。とくに、森将軍塚古墳、倉科(くらしな)将軍塚古墳、土口(どぐち)将軍塚古墳は、ほぼ半径2キロの円内におさまる。これらは古墳時代シナノの歴代首長の「王墓」とされ、いわば「王家の谷」といったところだろうか。そのうちの倉科将軍塚古墳を何度か登り降りするうちに、登り口にきれいな泉があることに気がついた。

 地元の解説板によると、万葉集巻十四の東歌(あづまうた)「人みなの言(こと)は絶ゆとも埴科の石井の手児(てこ)が言な絶えそね」(人のことはすべて忘れられてしまっても、埴科の石井の手児のことは決して忘れられることはない)という歌の「埴科の石井」がこの泉だとする説があるという。現在の石杭(いしくい)は石井が転じたもので明治末年まで同地に石井神社があったらしい。

 手児は手児奈(てこな・容貌のあでやかな女児の意)のことで、万葉集では真間之井(ままのい・現在の千葉県市川市真間)の手児奈が有名で、「井泉」には美人がつきものらしい。 さて、この井泉が万葉集で詠まれた「石井」にあたるかは、確証がない。しかし、古墳の麓にあるということから何か導き出せないだろうか。

 興味深いのは、森将軍塚古墳の麓から井泉につながる溝が発掘されている点である。5世紀代の土師器、手づくね土器、滑石製模造品といった祭祀関連遺物が出土した(屋代清水遺跡)。近年古墳時代の井泉やそこから水を引いた溝(以下導水溝と呼ぶ)にまつわる祭祀は王権や地域首長と深くかかわっていたことがわかってきている(辰巳和弘・穂積裕昌説)。屋代清水遺跡の全容は発掘されていないので、森将軍塚古墳にかかわるような地域首長の祭祀かどうかは断言できないが、古墳に隣接して、その古墳と同時期の井泉にかかわると思われる祭祀跡の存在は見逃せない。

 また、シナノの「王」の古墳に囲まれた屋代遺跡群では、7世紀から8世紀(飛鳥時代から奈良時代)にかけての井泉や導水溝に伴う祭祀の跡が発掘された(屋代遺跡群高速道路地点)。この調査で、古墳時代の井泉や導水溝の祭祀が律令国家(言い換えれば万葉集)の時代にも受け継がれていた様子がわかってきている。
 仮に倉科の石井が万葉集の埴科の石井であり、地域首長の祭祀に関わるものだったとすれば、埴科の手児という単に美人がいたという歌ではなく、かつて地域首長の祭祀を司った「巫女」的人物のことを顕彰した歌なのかもしれない。





万葉歌碑が立っている大日堂は、次の地図の米印のところにある。
なお、やしろ駅の東に十字の印が見えるかと思うが、
その南側が先に紹介した森将軍塚古墳であり、
その北側に長野県立歴史館がある。



 以上述べてきたように、古代この付近は政治の中心であった模様で、菅平高原方面への往来も盛んであったのかもしれない。そうでも考えないと、菅平の万葉歌碑の意味するところが判らないのではないか。菅平の万葉歌碑は古代のロマンそのものである。



信濃なる 須我の荒野に ほととぎす
  鳴く声聞けば 時すぎにけり



テッペン カケタカ

いいですね!実に良い。



さあ、それでは、菅平の・・・

歴史的な重みが何となく判ったところで、

菅平高原の早朝の散歩に出かけるとしよう!

そうしよう!そうしよう!