東大寺は不思議な寺院である。寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びている。東大寺のもとは羂索院(のちの金鐘山寺<きんしょうせんじ>)である。その金鐘山寺において、天平12年(740)、のちに東大寺初代別当となる良弁が主宰して、わが国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられたのである。良弁は、義淵に師事して法相宗を学んだのだが、相弟子に行基(ぎょうき)や玄方(げんぼう)がいる。
その法相宗は遣唐僧・道昭が日本に伝えた。道昭は、653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。また、道昭は、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導したことでも有名である。その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、第二伝に智通、智達、興福寺を中心に普及した第三伝に智鳳、第四伝に玄方、第三伝に智鳳がいる。みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。そして、法相宗第三伝・智鳳の高弟が岡寺の開基者である義淵(〜728)である。ちなみに、中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。
以上のように、法相宗は元興寺から広まったものであり、その流れの中に良弁がいる。良弁を語るとき、相弟子の行基や玄方を忘れるわけにはいかないし、元興寺を忘れるわけにはいかない。元興寺は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びているのだが、このことを理解するには、神叡(しんえい)に触れておかなければなるまい。
以前、私は、徳一菩薩(とくいちぼさつ)というページで、『 ところで、天平のころ、法相宗の大徳に神叡(しんえい)という僧がいて、大和国吉野山の比蘇山寺(現在の世尊寺)に籠り、「虚空蔵求聞意持法(こくうぞうぐもんじほう」(虚空蔵菩薩を念じて仏智を体得する修法)を修して、仏法を原点に立ち戻らせる行を積み、これが南都仏教における一つの流行をなして、「比蘇の自然智宗」と呼ばれていたという。すなわち、徳一や空海のころすでに法相宗を中心に「山岳仏教」の芽が出ていたのであります。』・・・・と述べた。
ところで、「比蘇の自然智宗」については、春秋社発行「修験道と日本宗教」で以下のように説明されている。http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7726/772603.htm
『 〈山林修行と山寺〉
わが国においては弥生時代以降,定住して水田稲作を営むようになって以来,山岳は,水を与え農耕を守る山の神の住まう霊地として崇めて来ました。そして更に山岳は祖霊の居所とされ,山の神は祖霊が神格化したもので,春先に里に下りて子孫の農耕生活を守り,秋には山に帰るとの信仰にと展開しました。こうしたことから,山麓に神社が造られ,春祭・秋祭が行われ,これが体系化して神社神道になって行ったのです。
山岳は今一方において魑魅魍魎の住まう魔所としても怖れられました。里人等は神霊や妖怪などの居る山岳を聖地として崇め,山岳に入ることを慎みました。尤も山岳には既にそれ以前から狩猟・木こり・採掘などを仕事とする山民が居て,獲物・木・鉱物などを与えてくれる山の神を崇めていました。
ところで云うまでもなく仏教は,インドにおいて釈迦(紀元前463〜同383頃)が創唱した宗教です。人生の問題に悩んだ浄飯王の子悉達多は家を出て,山林において修行の末に,人生は苦であり,その根源は人間が抱く集(欲望)にあります。その欲望を滅するためには八正道を修めなければなりませんとの苦集滅道から成る四つの真理(四諦)を悟ります。そしてこの教えを説き,こうした悟りを得るためには,一定期間山林に安居して禅定に入るように薦めたのです。この仏陀の教えはその後,一切の存在を空とする般若思想,万物の根源を心に置き,ヨーガの実践によって心を変革しますと悟りに達し得るとする唯識の思想にと展開しました。この唯識の思想は玄奘(602〜664)によって唐にもたらされ,法相宗(ホッソウシュウ)を生み出しました。そして,道昭(629〜700)によってわが国に招来されました。これが奈良の元興寺(南寺)・興福寺(北寺)で栄えたわが国の法相宗なのです。
さて奈良時代初期に元興寺に来た唐僧の神叡は,吉野川の北側の比蘇寺に二十年間に亘って篭もって,虚空蔵菩薩を本尊として修行し,自然智を得ました。この自然智は,ヨーガの観法によって得られる仏梵一如の境地を指し,その実践は自然智宗と呼ばれています。』・・・・と。
次に、元興寺が明らかに律令仏教でありながら山林仏教としての性格も色濃く帯びているというを理解するには、「神仙思想の仙境と義淵との縁」にも触れておかなければなるまい。
奈良県中央部にある竜門山地には、白鳳期に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したといわれる竜門寺と呼ばれる寺があったとされる。竜門山地は、大和盆地の南西部、宇陀郡・桜井市・高市郡・御所市と吉野郡が境をなす位置にあり、中世以来の山城として知られる高取城や、そのわずか西の壺阪寺、そして鎌足を祀る談山神社がある多武峰などがその中に含まれている。また、吉代以来、竜在峠、芋ケ峠、壷阪峠、芦原峠など峠越えの諸道が通じてもいる。そして、南側には吉野川が流れ、この山地と南に続く吉野大峰山系との境をなしている。
この竜門山地は広い意味で吉野と呼ばれる地域に属している。その吉野は人麻呂の吉野讃歌以来、神仙思想の聖地ともいうべき位置づけがなされているが、竜門山地の主峰竜門岳の南にあった竜門寺もまた、奈良、平安峙代、神仙思想の仙境と考えられていた。この土地がなぜそのような扱いを受けるに至ったのかなどの諸間題については、ここをクリックして欲しい。
以上いろいろと述べてきたが、義淵や良弁の山林仏教性・・・、したがって東大寺の前身である羂索院(のちの金鐘山寺<きんしょうせんじ>)の山林仏教性を説明したかったのである。御理解いただけたであろうか。東大寺は不思議な寺院であり、寺院としての性格は、明らかに律令仏教であるが、山林仏教としての性格も色濃く帯びているのである。