トランスパーソナル心理学と

ウィルバー心理学

 

 

 私は先に、今のところ唯識は、深層心理学にもトランスパーソナル心理学にも、なかでもウィルバー心理学にさえも決して合併吸収されてしまわないような、非常に重要な側面を保持しているようである・・・と述べ、唯識の現代性というか未来性を礼賛した。しかし、現代科学(深層心理学)において心の問題も急速に解明されつつあり、それを勉強しておくことは、唯識を語るからには必要不可欠なことであると思う。

 

 いつものように、以下は、岡野守也の著書「唯識のすすめ」(1998年、日本放送出版協会)からの抜粋である。私にはこれ以上の判りやすい説明はできないし、又これ以上にわかりやすく解説した書物を私は知らないので、岡野守也に全面的に頼ることをお許し願いたい。

 

『 トランスパーソナル心理学は、一九六〇年代末、アメリカ西海岸に生まれた、心理学の新しい潮流で、第四の勢力といわれています。第一は実験・行動主義心理学、第二はフロイド派精神分析、第三は人間性心理学ですが、第三の勢力=人間性心理学の創始者であるエイブラハム・マズロー(一九〇八−一九七〇)が、晩年、賛同者をつのってさらに新たに創始し、「第四の勢力」と呼んだものです。大まかな言い方をすれば、第一は観察と行動修正、第二は自己治癒、第三は自己実現、第四は自己超越のレベルに焦点を当てています。トランスパーソナルの人間は(自己超越)という段階まで成長しうる存在だという捉え方は、心理学と東洋宗教の出会いから生まれているといっていいと思います。』

 

 

『 欲求の階層論

 トランスパーソナルと仏教の習合を考えていく場合、まず問題になるのは欲求の捉え方だと思います。人間性心理学・トランスパーソナル心理学の創始者マズローが唱えた「欲求の階層構造論」は、トランスパーソナルの流れの中で広く共有されているものですが、マズローは、まず人間は、食物や水や空気などが必要であり、フロイドのいうような性的な欲求もある。最も基本的で低次の欲求として、「生理的欲求」があるといいます。・・・(中略)

 

 しかし、生理的な欲求が満たされれば満足かというと、そうではなく、「安定・安全への欲求」が出てくるわけです。 ・・・(中略)

 

 次には、人から、特に親に愛されること、家族に属していて、自分の居場所があることへの欲求が出てくる。「愛と所属の欲求」といいます。

 さらに、人間の欲求はそれで終わりではなく、「承認欲求」が出てきます。親や家族から愛され、家庭に所属していても、その上に自分に自信を持ちたい、人からも認められたいという欲求です。

 自分で自分を認められるようになった、人からもそこそこ認められた。人間はここまで来れば満足なのかというと、やはりどうもそうではないらしい。なお満たされれないものを何かと探究していって、マズローは、「詩人は詩を作らなければならないし、音楽家は音楽を奏でなければならない」といっていますが、他の人間と取り替えのきかない自分独自の可能性を精一杯伸ばしていくことを人間は求めるものだと、「自己実現欲求」という概念を考えたわけです。 

 マズローはいったんここまでの理論を作って、さらに<自己実現>していると思われる、非常に優れたパーソナリティを調査していきました。基本的な欲求がすべて満たされていて、安定した、バランスのとれた人格ができていて、なおかつその人固有の生き方をしているように見える人を調べていって、さらに人間はそれでも満足できないところがあると考えるに至った。そこまで到達してもさらに、有限の自己を超えて、永遠なものに向かいたいという「自己超越欲求」が出てくるのだと捉えました。つまり、人間の欲求は、ある種の階層構造をなしていて、特定の欲求には限度があって、それを適度に満たしていくと、より高次の欲求が出てくる。最終的には自己超越欲求まで出てくる、というのです。』

 

 

『 基本的欲求と神経症的欲求の区別

 ところが、低次のレベルで、特に幼児期に欲求が満たされないと、そこに神経症的に固着するということが起こってくる。要するに、そういうノイローゼ的な固着が、人生での大きな問題を起こします。必要なときに愛されたり、自分の居場所があったり、自分に自信を持てたり、人からも認められたりという体験を持たないと、やたらいつまでもそれにこだわるようになるのです。いつまでも幼児的に、自分が愛することは棚上げにして、愛されることにこだわるとか、人に認められることにこだわるとか、そういうふうなこだわり方をする。

 マズローは、そのあたりに神経症とか人間の文化・文明自体の問題の根っこを見ていったわけです。

 ですから、マズロー理論でいえば、人間にはそういう<基本的欲求>はあっていいのです。むしろ、成長の過程、特に幼児期に満たされないと、それぞれのレベルへの固着を起こしがちである。そういう固着し歪んでしまった欲求を、彼は、<神経症的欲求>と呼んでいます。つまり、<基本的欲求>と<神経症的欲求>をきちんと区別して、<神経症的欲求>が問題だと見ているわけです。

 そして基本的欲求は、満たすことによって、人間成長を促すことができる。神経症的欲求に囚われた問題のあるパーソナリティは、基本的欲求を満たし直すことによって、治癒できる、と考えています。こうした欲求の階層理論は、トランスパーソナルの流れの中でもほぼ大まかに合意されていて、心理療法=セラピーの基本原理にもなっています。』

 

 

『  仏教における欲求の否定との関係

 マズロー理論からいうと、<自己超越欲求>を満たしたという意味で、仏教的なパーソナリティは認められるけれども、基本的な欲求の充足を無視してそこに行こうとするのは、無理があるのではないかということになる。そういうふうに、欲求の肯定が、人間性心理学・マズローの基本的考え方で、トランスパーソナルも引き継いでいます。そこが、欲求否定になりがちな仏教と基本的に違うところかもしれません。・・・(中略)

 これまでの日本の仏教では儒教倫理とも結びついて、やはり全体としてニュアンスは否定的でしたし、肯定・否定のどちらであれ、基本的欲求と神経症的欲求のはっきりした区別はできていません。その点、マズローのように、きちんと区別した上で、基本的欲求は認めて、満たして、パーソナリティの成長を促進する、神経症的欲求は否定するというよりは治療していく、というのとは違います。

 その点に関して、マズローの捉え方は、それ以前の宗教にありがちだった禁欲主義の限界を超える全く画期的なものであり、かつ人間の本質論として妥当なものだと感じますし、その方が大乗仏教の基本精神にもつながっていくと思います。 』

 

 

『 意識のスペクトル

 次は、ケン・ウィルバー(一九四九−)の「意識のスペクトル論」の話です。これは、トランスパーソナルの基礎理論の一つで、西洋の心理学や東洋宗教の心についてのいろいろな説を、意識のスペクトルというモデルで統合的に捉えたものです。これは、なかなかうまい譬えです。放射線、特にガンマ線を研究していたキュリーと赤外線を研究していたハーシェルが、もし同じ対象を扱っているつもりで議論をすると、これは一致しようがない。しかし、同じ電磁波だけれども、全く違うスペクトル帯域を扱っているということがわかれば、二つの学説は、電磁波全体を明らかにする上で補い合うものであって、対立することはない。つまり、心理学や東洋宗教が違っているのは、同じ心に対して対立・矛盾する見方をしているのではなく、心の別々のスペクトルを見ているのだから、当然別々の理論になるのだと見れば、それぞれの主張を補い合うものとして統合できるのではないかというアイデアです。

 そういうアイデアで、ウィルバーは、西洋心理学と、禅仏教、チベット仏教、ヨーガ、スーフィー、道教、それからキリスト教の神秘主義などの文献を見なおして、非常にうまく統合しています。これも、大まかに見ておきます。

 

 (1)ペルソナと影のレベル

 まず、人間の心のいちばん浅いレベルとして、自分のパーソナリティ=「ペルソナ(仮面)」と、そのペルソナと合わないので排除されてしまつた自分の影の部分=「シャドー」のレベルがあります。・・・(中略)

 

(註:これではちょっと解りにくいので、私流の説明をしておこう。私がよく言うように、ものごとには二面性がある。誰でも善人といえば善人、悪人といえば悪人である。賢い面もあるしバカな面もある。強い面もあるし弱い面もある。「くさいものには蓋(ふた)」というが、誰しも自分の悪い面は意識的に人目には出さないし、本能的にも隠したがる。人間誰しも影の部分=「シャドー」の部分があって、無意識のうちにそれに蓋(ふた)をして自分のパーソナリティ=「ペルソナ(仮面)」をつくりあげているのである。)

 

 

(2)自我と身体のレベル

 意識している自分があって、その意識している自分が、体という容器の中にいる、あるいは自分が「体を持っている」という感覚があります。私たちはふつう、そういう<自我意識>で生きています。・・・(中略)

 

(註:自我は意識されている自分。自己は無意識の部分も含めての自分。これを氷山に喩えれば、水面の上に出ているのが意識界であるが、水面の上に出ている意識界の自分が自我。水面下の無意識の自分も含めて全体が自己。)

 

(3)有機体と環境のレベル

 一体となった心身というか、有機体が「自己」と感じられているレベルがある。これは、身心は一如の状態なのですが、その身心=有磯体そのものは環境と分離しています。・・・(中略)

 

 (註:感極まって無意識のうちに身体を震わすとか、恐ろしさのあまり無意識のうちに身体が硬直するとか、自分の意識とは関係なく、その時の、そしてその場所の環境に左右される自己というものがある。それが有機体としての自己である。)

 

(4)トランスパーソナル(超個)のレベル

 それから、さらに深い心の層があります。有機体としての自分と環境が分離しているという感じ方に対し、実はそれは分離していないのだということが判って(註:つまりある種の悟りがあって)、自己と時間、自己と空間とが絶えずつながっていることがわかるという、心のもっと深い世界があるというのです。ここでは、自分だと思っているもの=個体と世界・環境・宇宙の分離がとれる。個体としての限界がなくなると、それを限界づけていた時間と空間という限界がなくなってしまう。これはもう完全に「我」が超えられるわけですから、心理的・感情的体験としても、すごいエクスタシー(脱我)です。

 こういう領域は、いうまでもなくすでに何千年も前から、あるいはシャーマニズムなども考えると何万年も前から、いろいろな神秘的宗教が発見し、語ってきた領域で、トランスパーソナル心理学では、個体性を超えたという意味で「トランスパーソナル」な領域といっています。こういう心の領域があることを、学問・心理学としてもはっきり認めるのが、トランスパーソナル心理学の一つの特徴です。

 

(5)空・字音・心(Mind)のレベル 

 しかし、私としては、トランスパーソナル心理学のもっとも大事なところは、さらにその底、心のいちばん深いところに、「自分が宇宙と一体である」「空と一体である」「空である」、そういうことに目覚めた世界があるということを、はっきり認めている。 

 ウィルバーは、こういうふうに、個人的な意識のレベルを扱っている心理学、個人的無意識を扱っている心理学、トランスパーソナルなレベルを扱っている心理学、キリスト教、イスラム教の神秘主義的伝統やトランスパーソナルなレベルも含みつつさらに深いところを扱っている東洋宗教・・・というふうな統合の図式を作ったわけです。』

 

 

『 意識の発達論

 もう一つトランスパーソナルと仏教の問題でポイントになるのは、発達の問題です。ウィルバーはスペクトル論の次に、欧米の発達心理学の成果と神秘主義の魂の発達段階論の統合を試みています。

 

 禅では「悟りとは赤ん坊のようになることじゃ」といわれることがありますし、聖書には「幼な児のようにならなければ、天国に入ることはできない」という言葉もあり、これまではしばしば、赤ちゃんの自我ができる前の意識が、自我確立の後に体験される自我を超える体験・<宇宙意識>と同じものだと混同されがちで、そう見るとフロイドのように宗教は一種の<幼児退行>だということになります。

 しかしウィルバーは、それに対して非常に強い疑問をいだいて、考えに考えて本当に頭痛がするくらい考えた。要するに、精神が発達して悟りに至るというのは、生まれたての赤ちゃんがいるような楽園状態から堕落した大人が、その楽園にUターンするだけのことなのか、という疑問です。

 考えた末、ウィルバーは、人間は、プレ・パーソナル=自我以前の状態から始まって、パーソナル=自我の確立を経て、トランス・パーソナル=自我の超越へと発達していくのであって、トランス・パーソナルからパーソナルヘ堕落してトランス・パーソナルヘUターンするわけではない、という結論に至ったのです。

 前(プレ)と超(トランス)はどちらもパーソナルでないという点で似ているだけで、本質的に同じ状態ではない。プレ・パーソナルは、いわば物質的世界と融合しているだけで、理性も霊性も含んでいない。赤ん坊には自我がないだけで、それに対して悟った人は、自我に埋没していない、それを超えている。

 そしてそれをうまく使っていくことができる。つまり、物質性、理性、霊性を統合している。それはパーソナルからトランス・パーソナルヘの<発達>だと見たわけです。そして、その発達には段階があるわけで、段階の一つとしては、自我の確立はぜひ必要であって、自我は即悪いものとか無明とかとはいえないと考えています。ここがはっきりすると、自我以前から自我の確立や自己実現までを扱ってきた欧米の発達心理学と自我の超越を主張してきた東洋宗教の修行の段階論もうまく統合できるのです。』

 

 

『 意識の発達段階

 ウィルバーは、意識の発達段階を十二の段階に分けていますが、細かい部分を省略して九段階を見ておきます。

(1)プレローマ

(2)ウロポロス 

(3)テュポーン

(4)メンバーシップの自己

(5)心的・自我的領域

 それからいよいよ「自我」の碓立ですが、それまでは自分といってもかなりぼんやりした感覚ですが、ここでははっきりした、自分とはこういうものだという概念やイメージのまとまりとしての「自我意識」が徐々に確立されていくわけです。で、「私は〜である。だから〜しなければならない、〜してよい」というふうなことを理解したり、記憶できるようになる。それは、言葉を使いこなす力が発達するからです。そういう「自己概念」ができて、自分の中のいろいろな要素や傾向とかをとりまとめることができるようになると、「健全な自我」が確立されたことになるわけです。

(6)ケンタウロスの領域

 次は、上半身が人間で下半身がウマという神話の生き物で、いわば上にある意識が、言葉によって成り立っているような自我意識を超えていると同時に、より下のレベルの、身体とか、ペルソナと影とか、自我とか全部を統合しているというか、人間の中のさまざまな要素が、自然に調和するようになっていることを象徴しているわけです。欧米の発達心理学ではここまでなのですが、トランスパーソナル心理学の特徴は、さらに上の段階を認めることです。

 ウィルバーは、ここまでを<粗(グロス)領域>、それを超えたところを<微細(サトル)領域>と<元因(コーザル)>領域と呼んでいます。

(7)微細(サトル)領域

 <微細(subtle)>の段階では、身心一如さえも超越されて、常識では信じられない現象が起こるといいます。ウィルバーは、下位微細と上位微細を分けています。

 <下位微細>は、さらに<星気体(アストラル)>レベルと<霊的(サイキック)>レベルに分けられていて、星気体レベルでは、体外離脱体験、ある種のオカルト知識、オーラ、真性魔術、幽体旅行などの現象が起こり、霊的レベルでは、ESP、予知、透視、念動、その他のサイ現象が起こりうるといいます。

 禅の世界ではこうした体験の世界を「魔境」と呼んで、坐禅中にそういう体験が起こつてもとりあわないように指導するのですが、それもわからないではありません。

 <上位微細>とは、「高次の宗教的直観、霊感、啓示、象徴的ヴィジョン、青と白と金色の光、めくるめくような輝き、天使たちや形ある仏たちの顕現」というふうな体験が起こる領域です。私も、このあたりの体験はいくらかあります。しかしここも深入りすると、すごい思い上がりに陥って、自分が生き神・生き仏さまになったような錯覚の起こりかねないところです。ウィルバーも、賢明にも深入りしないという方針を取っています。    

 (8)元因(コーザル)領域

  <元因(causal)>の領域も、ウィルバーは下位と上位に分けています。「超越と統合のプロセスが続くにつれて、さらにもっと高次の統一性が開示され、ついには<統一性>そのものへと到る」というわけですが、まず下位元因領域で、上位微細では複数の天使とか諸仏といった元型的な諸存在が、「その根源である最終−<神>へと還元され」、「その人の自己は本来その最終_<神>であることが開示され」、「意識そのものも・・・その<光輝>とのより高次の同一化を果たす」といいます。

 そして、上位元因領域では、一切の形は超えられ、<形なき意識>、<限りなき光輝>へと溶け去ります。この段階が、最終段階とただ一点異なるのは、<超越的目撃>と呼ばれる、一種の微妙な、見るものと見られるものとの二元性が残ることだ、といっています。この<形なき意識>というのは、禅をやっているとわかりますし、最後の見るものと見られるものの二元性も、なかなか妥当な区別だと思います。

 (9)アートマン

 究極の段階は、『般若心経』の「色即是空、空即是色(形象は空性にほかならず、空性は形象にほかならない)」の世界で、発達が究極に到ると、「自己の中心は<元型>であることが明らかになり、<元型>の中心は最終<神>であることが明らかになり、最終_ <神>の中心は<無形性>であることが明らかになったように_<無形性>の中心は全<形象>世界以外の何ものでもないことが明らかになる」。それは「あるがままの真実=真如」の世界だ、といいます。

 ただ、この段階を<アートマン>というのは、仏教の方には抵抗があるかもしれません。仏教はアートマンの否定、無我というのが建前ですから。しかし、少なくともウィルバーは、上位元因の領域と究極の微妙な、けれども決定的な違いは、きちんと捉えており、「色即是空、空即是色」をアートマンと呼んでいるのですから、究極の実体とじてのアートマンを考えているわけではありません。

 ウィルバーは、こういう形で西洋の発達心理学の成果と東洋の霊的発達論の伝統をみごとに連続的に捉えています。そして、発達と超越を同じプロセスと捉え、「現在の人間の進化段階にいる個人が、現在の進化の段階を超えて発達し、全被造物の究極目標である唯一の神に向かって前進するためにしなければならないもの、それが瞑想である」といいます。そうするとセラピーは、それ以前の発達段階での抑圧、固着、精神外傷、コンプレックスなどを処理し、成長を促進するものと捉えられる。つまり、意識のスペクトル論にアートマン・プロジェクト論を加えると、セラピーや修行法を統合した上で、それぞれの人の発達段階に合わせた適切な選択をすることができるようになるというのです

(ウィルバー『無境界』吉福伸逸訳、平河出版社、参照)。』

 

 

『 宗教から霊性へ

 さて、ウィルバーまで来ると、ユング以上に、心理学というよりほとんど宗教に近いと感じられるかもしれません。彼自身も、<永遠の心理学>と呼んでいます。しかし、トランスパーソナルがいわゆる宗教と違うのは、実験や観察、臨床に基づいた心理学の成果を踏まえていますし、実際の修行体験から生まれた宗教の理論もいろいろ広く踏まえていますし、絶対視された<教義>とか<修行体系>ではなく、追試−反論−修正といった科学のアプローチに対して開かれた<仮説>とその<臨床実験>だということを自覚している点でしょう。

 したがって、参加・実践するに際して、教祖とか教団とか教義とかへの絶対的・排他的な<信>は必要ないのです。このオープンさが、従来の宗教と決定的に違うところだと思います。』

 

 

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劇場国家にっぽん ―わが国の姿(かたち)「あるべきようわ」―
Iwai-Kuniomi