諏訪神社

 

 

 

 「らしさ」というものは大事である。「らしさ」は「柄(がら)」とか「風(ふう)」或いは「振り(ぶり)」でもある。それらしく生きていれば、その人のお人柄というものができていく。岩井国臣風の生き方というものがあっても良い。家柄(いえがら)、土地柄、おクニ柄という言い方がある。最近は、お家柄というのは流行らなくなっているが、土地柄とかおクニ柄というものは今も健在である。私は京都生まれ京都育ちであるが、私にも京都の土地柄がある程度しみ込んでいて、当然、京都人らしさというものがある。家柄三代というけれど、親父が九州からでてきて私が生まれたので親子二代目である。だから、根っからの京都人とは言えないのかも知れない。私はおばあちゃん子でおばあちゃんに育てられた。おばあちゃんと親父の影響を強く受けて育ったので、そういう意味では九州男児でもある。九州の土地柄がある程度染み(しみ)込んでいるという訳だ。

 土地柄というものは大事なものであるらしく、県人会などは今も盛んだ。その土地の風物にそれぞれが同じような面影(おもかげ)を見い出し、言わず語らずの内にある種のコミュニケーションができてしまう。暗黙の了解というものができてしまう。土地振り(ぶり)の働きがあるのであろう。民族にも「らしさ」や「振り(ぶり)」がある訳で、私は、モンゴルと日本は民族的な「らしさ」を共有していると考えている。「風(ふう)」或いは「振り(ぶり)」に共通のものがあるという訳だ。そのことはおいおい説明していくとして、ここでは「土地柄」について語りたい。

 

 月見野という土地は、万年前から人びとが住み、それなりの土地柄ができてきた。問題はどういう土地柄か・・・ということである。万年前であるから、境川や目黒川はあった。八王子方面と行き来する獣道(けものみち)にちょっと毛のはえた程度の道はあったかもしれない。しかし、大山街道はなかった。大山(おおやま)はあったが、そこと行き来する道はなかったであろうということだ。私は、獣道(けものみち)にちょっと毛のはえた程度の道であっても、大山方面と行き来する道はなかったと考えている。しかし、大山(おおやま)はあった。大山(おおやま)に対する崇敬(すうけい)の念はあったと思うが、仮に、宗教的な目的で月見野から大山に行くとしても、交通手段は船であったろう。舟運だ。私は八王子方面との行き来も舟運が主であったと考えている。もちろん、万年前の舟運といえば、丸木舟かも知れないが、なにせ黒潮を乗りこなす航海技術はあったのだから、境川を丸木舟で行き来するぐらいはへっちゃらだ。お茶の子さいさい・・だ。

 私が、今、「大山に対する崇敬(すうけい)の念はあったと思うが、仮に、宗教的な目的で月見野から大山に行くとしても、交通手段は船であったろう。」と申し上げたのは、舟運を司る「海の民」のもっとも頼りにするのは「大山(おおやま)」であったからである。この当時、「山の民」の拠点は八ヶ岳や甲府盆地や桂川流域であった。先に述べた富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏を思い出して欲しい。そして、その宗教的な象徴は、現在でいえば諏訪神社、当時でいえば「石神信仰」である。大山寺は石尊大権現と呼ばれ、江戸時代、「大山詣で」は「石尊詣で」とも言われた。これも「石神信仰」であるが、「石神信仰」についてはいずれ機会を見てゆっくり語りたい。ここでは、とりあえず、「山の民」の象徴である諏訪神社にお詣りするとしよう。もちろん、諏訪神社というのはここ境川と目黒川の合流点の近くにある諏訪神社のことである。

 

 諏訪神社に行くには、「下鶴間宿の旧小川家」から行くのがわかりやすい。下鶴間宿の旧小川家に行くにはやはり田園都市線の「つきみ野駅」からがいちばん近い。タクシーだとすぐの所だ。まずは下鶴間宿の旧小川家に行こう! 近くに、観音寺、大黒天開運神社、鶴林寺などがある。「下鶴間宿の旧小川家」から少し大山街道(矢倉沢往還)を大山方面に歩くとすぐに坂の上に出る。そこを左に曲がればやがて諏訪神社である。

 

 

 

 

 両部鳥居の控柱(ひかえはしら)が美しい!両部鳥居自体珍しいが控柱が8本というのも珍しい。それだけ格式が高いということかも知れない。また、摂社(せっしゃ)が古峯神社と秋葉神社八坂神社お稲荷さんというのもこの神社の格式が高いことを示しているのかも知れない。古い巨木はやはり古い神社ならではのもの。

 

社殿1][社殿2

 

 

 

 私は、面向きのある神社にお詣りしたとき、できるだけ摂社(せっしゃ)も紹介することにしたいと思う。ここであまり知られていない「古峯神社」を紹介しておこう。私が、かって、大山(おおやま)とも縁の深い徳一の業績を勉強するために、会津に何度か行ったことがある。恵日寺に訪れるため盤越西線の駅「ばんだいまち」で降りてまもなく、目に飛び込んできたのが「古峯神社」の石塔であった。当然、「古峯神社」がどこにあるのかもまったく知らなかったし、どんな神社なのかも皆目検討がつかなかった。私がそうであったから多くの人もそうだろうというのはいささか失礼な話だが、私としてはこの際勝道上人を紹介する意味合いから「古峯神社」を紹介しておきたい。

 「古峯神社」は、下野国(しもつけのくに)は「古峯が原」に鎮座する神社のことだ。「古峯が原」は「こぶがはら」と読む。「古峯神社」は「ふるみねじんじゃ」と読む。「こみねじんじゃ」という人もいる。「古峯が原」は、日光を開いた勝道上人の修行したまことに古い聖地で、本来は、修験の聖地である。「古峯神社」の由緒書きには、『  今を去る1300余年の昔、隼人というお方が京都からこの地に移り、尊(御祭神・日本武尊)の御威徳を慕いつつ、京都よりこの古峯ヶ原の淨地に遷座(創祀)申しあげたのが始まりといわれております。その後、古峯ヶ原は、日光を開かれた勝道上人という僧侶の修行の場となり、上人は古峯の大神の御神威によって、古峯ヶ原深山巴の宿において3ヶ年の修行の後、天応2年(西暦782年)日光の男体山に初めて登頂し大日光開山の偉業を成しとげられました。この縁起にもとづき、日光全山26院80坊の僧坊達は、勝道上人の修行にあやかって、年々古峯ヶ原(古峯神社を中心)に登山、深山巴の宿で祈願を込め修行する慣わしとなり、その修行は明治維新に至るまで、千余年の永きに亘って行なわれました。古峯神社はこのような古峯大神のご利益の顕著を以って全国稀にみる霊地として、火伏信仰、天狗信仰などに代表する諸人の敬虔な信仰を集め、久しきにわたってその御神威を保って参りました。明治初年には太政官布告により、神仏分離が行なわれ、仏具一切を取り除き、純然たる古峯神社となり、現在にいたっております。』・・・とある。いまだに神仏分離が行なわれているということはまことに残念なことである。

 勝道上人の開創した寺が「出流山満願寺」である。こういう話が残っている。下野の国司であった高藤介という方の奥方が、子宝に恵まれなかったのを嘆かれて、当山の奥の院、「観音の霊窟」(鍾乳洞)にお籠もりをなさいました。日夜子授け祈願を続けられ、授かった一子が勝道上人であるという。以来、当山の奥の院に祀られている・・・鍾乳石で自然にできた「十一面観音菩薩様」は子授け、安産、子育ての霊験あらたかであると多くの人の信仰を集めている。このような謂れからか、勝道上人は別名満願上人ともいう。古峯神社には東武日光線の新鹿沼駅から行くが、満願寺は東武日光線の栃木駅から行く。それほど離れていないので、二つとも是非訪れて欲しい。ここでは、是非とも、皆さんを「出流山満願寺の奥の院」に案内したい!

 

では御案内するとしよう!

 

スライドショウはここ!

 

 

 個々の写真を噛みしめて見る場合はここ!

 

 

 さて、いよいよ佳境に入ろう!

祠(せきし)とは何ぞや?

 

とりあえず、本殿横の元宮(もとみや)をじっくり観察だ。

 

 

 

 

 

 

 

 この写真にある石祠(せきし)が元宮であって、横の説明碑には、『 この地、東方約100mの所に宮田塚あり、この塚の石祠は古来より諏訪神社の元宮なりと伝えられ、識ない石楯尾神社ともいわれていた。昭和47年12月、全農大和生産食品集配センターの建設にあたって宮田塚が買収されたにより移転せるものなり。 』・・・・と書かれている。すぐ横にも似たような石祠があるが、多分、これはあたらしいものだろう。誰か奇特な人がつくったものだろう。うれしい限りである。

 

 この石祠(せきし)は万年前の宗教感覚に繋がっており、道祖神や古代神道とも繋がっている。といいうことは、山岳信仰や修験とも繋がっている・・・ということだ。大山の石尊(せきそん)とも関係があるということだ。私は、上で、勝道上人にスポットライトを当てたのは、「この諏訪神社が大山の石尊(せきそん)とも関係がある」ということを言いたいためであった。石神信仰については、モンゴルと日本の関係を解明するためにも大事なことであり、私は、この問題を中沢新一の進める「芸術人類学」の助けを借りて解明して行きたいと考えている。ジオ的な大問題である。月見野ジオパークの中心的テーマにしたい。